地域の沖縄戦シリーズ
第1回与那原「与那原はいかに戦争に巻き込まれていったか(証言から)」
1与那原の街(戦前)
○農家の暮しはもともと収入が少ないのでたいへんでした。夏場のお金のない時期は、大豆を豆腐屋へ売ったり、野菜や甘藷を与那原で売ったり、…。
○夕方から与那原へ入浴にいけるようになりました(南風原宮平)。
○運送業は当時マーラン船(山原船)が、今のトラックのような役目をしており、国頭村の辺戸、東村、近いところでは、久志村、屋嘉あたりから、たきぎを積んで、それを泡瀬、与那原、那覇の泊港まで運搬しました。そして、帰えりは、国頭方面の各村々が経営している共同販売店の品物を那覇から運送する仕事をしていました。南部の方のたきぎは、この平安座のマーランが補充していたのです。
○昭和19年10月9日は、兄の長男、清の出征の日だった。私たちは与那原まで行き家族で激励をした。しかし、翌日十・十空襲があったので兄も父もすごく心配した。
○私たちはそこから内間の墓へ行き、そこに一週間ぐらい隠れていた。そこも爆撃が激しく、いたたまれなくなったので、小那覇を通り、与那原の瓦焼屋の壕に一カ月ぐらいいた。そこで、父が近くの芋畑を買い、毎日食べる分だけの芋を掘り出して食べていた。
○ミヤギバスというのは、与那原を中心に、泡瀬と佐敷とが路線でありました。
○3月の何日でしたかね、歩いてヒジャシマブクまで会いに行きました。与那原に宮城バスというのがありましたが、乗せてくれませんでした。「これはもう兵隊が使うバスだから、帰ってちょうだい。でなければ歩いて行ってちょうだい」と言われました。
○機関車には3つの型があった。小型は客車・貨車を含めて4−5両の連結、平型は6〜7両の連結、タテ型は8〜9両を連結していた。これとは別にレールの太さが40ポンドの与那原線には20号といってデゴイチに似た大型の機関車が走っていた。ちなみに糸満線のレールは25ポンドであった。また燃料は、土が付着した西表産の石炭を使用していたが、第32軍が沖縄に配備される昭和19年の秋頃からは良質の満州産の石炭を使っていた。空襲が激しくなった昭和20年3月からは石炭を炊く蒸気機関車は煙が敵に発見されるということで、ガソリンカーに替えられた。もっともこの頃からは、県鉄も軍の管理化におかれ兵隊や軍事物資の輸送に使われ、一般住民は原則として乗ることはできなかった。
2与那原の日本軍
(1)日本軍の配備
@昭和12年…徴兵検査→与那原のとある学校
A昭和12年7月、昭和13年5月…大規模な充員召集→与那原警察署経由で令達
B昭和16年…中城湾要塞司令部・歩兵部隊→与那原小学校敷地・与那原町浜田区(畑をつぶして兵舎)
C昭和17年5月…中城湾警備隊→真和志(基地建設完了まで)から与那原(御殿モー)
D昭和18年…馬天の海軍の飛行艇とか水上機を陸に揚げる桟橋、海中に斜めにコンクリート張る工事→与那原(当添)や津波古の民家の石垣を壊して運ぶ。
E昭和19年春以降…海軍陣地構築→与那原町当添(ダイナマイトを仕掛けて岩石を破壊する工事)
※施設工事…棟梁たちが与那原署に召集(指示命令)
○魚雷を保管する壕の建設→与那原町字板良敷入口山手の森のなか(トンネル作業)
○トロッコの線路づくり→与那原板良敷(さんご礁を掘削する作業)
※知念村の海野や久原の漁民
○球部隊の船舶中隊→板良敷
○海軍の陣地壕掘り→板良敷
○球第四一五二部隊重砲隊→与那原(御殿山付近)
○「海上挺進戦隊基地」(暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊)
○特攻艇の発進場→与那原浜御殿山近く
○特攻艇の秘匿壕→与原(運玉森の麓)・与那原テック跡の山
○昭和20年…特攻艇の実戦訓練→防衛隊も含む。
○昭和20年の2月…新兵訓練→与那原
(2)徴兵
○昭和12年、20歳になった私は、その当時成人男子の義務であった徴兵検査を受けることになりました。私を合わせて10名ほどが神里の区長に連れられ、与那原のとある学校で検査を受け、体格の良かった私は甲種に合格しました。
○昭和12年7月、昭和13年5月に大規模な充員召集があった。二回で管内で約二百名が召集され、他に数回の充員召集があった。次に臨時召集も頻繁にあった。充員召集と臨時召集とも赤紙の令状であった。
充員召集は計画的で、臨時召集は師団司令部作戦に依り臨時に召集されるもので、充員、臨時召集ともに与那原警察署経由で令達された。
防衛召集は、今戦時下初めて召集され、兵役にある在郷軍人は、全員地区防衛司令官から出され、令状は白い紙で既教育、未教育の別なく召集され、集合場所と日時が書かれていた。
○昭和16年にはその特例もなくなり召集を受けた。私は、約一年してから与那原の歩兵隊へ派遣された。当時、現在の与那原小学校敷地には中城湾要塞司令部があり、要塞司令官の柴田大佐がおられた。現在の与那原町浜田区には、畑を潰して兵舎を造り歩兵部隊が駐屯していた。
○昭和17年5月、私は軍からの召集を受けて、陸軍の中城湾警備隊に配属され、中城湾の警備にあたった。当初、警備隊の兵舎は真和志(現在の真和志小学校の南側)にあった。私が召集された当初は、与那原の駐屯基地はまだ建築中であった。軍部は中城湾沿岸の各地に警備隊を駐屯させ、警戒していた。中城湾の入口にあたる津堅島や久高島にも警備隊を駐屯させていた。
その後、建設中だった与那原の兵舎が完成したので、本部は真和志から与那原へ移ってきた。兵舎は与那原の御殿モーにあった。現在の与那原小学校の南側は全部兵舎だった。
○昭和18年、私は高等科を卒業しないうちに、馬天の海軍の飛行艇とか水上機を陸に揚げる桟橋、海中に斜めにコンクリート張る工事に徴用されました。この工事では、与那原の当添や津波古の民家の石垣を壊して、馬天港の桟橋に使っています。
○ 昭和19年の春頃だったと思うが、島尻郡内のめぼしい棟梁たちが与那原署に召集され、軍の施設工事には率先して従事するよう、指示命令が下った。
初めに、馬天港の海軍の桟橋工事に駆り出された。その工事はまず、桟橋の幅員を拡張し延長するために波の打ち寄せる所で、山原船から積み降ろされた三メートル以上の松の柱を]型にネジどめして杭をつくり、それを水中に打ち込む作業であった。]型の杭を打ち終えると、次に横板を何枚か打ちつけ、その内側に大きな石を運び入れるのである。作業中は少しの油断も許されず、ぼんやりすると石もろとも波にさらわれる危険があった。
この工事のために運ばれてくる石は、字津波古、新里、兼久、佐敷辺りの民家の屋敷囲いの石垣を壊し、徴発したものであった。屋敷の主は、祖先の築きあげた屋敷囲いが取り払われるのをただ見守るのみであった。
○昭和19年春頃…佐敷青年学校に通っていた。私は当添(現与那原町)の海軍陣地構築に動員させられた。毎日の作業は、長い鉄棒でダイナマイトを仕掛ける穴掘りが主であった。その手当てとして、米二合くらいの配給があった。
○昭和19年夏頃…軍の仕事につきました。……現在の与那原町当添の国道付近で、ダイナマイトを仕掛けて岩石を破壊する工事などをやりました。
○魚雷を保管する壕の建設作業にも行った。その場所は現在の与那原町字板良敷入口で、山手の森のなかにトンネルを堀る作業であった。その工事は大工技術がかなり必要とされた。壕から海に向けて発進するためのトロッコの線路づくりは大変苦労した。不揃いの枕木を使っての線路工事は思うように進まなかった。
同年末、寒い冬の頃だったと思うが、さんご礁が広がっている中に線路を敷くため、さんご礁を掘削する作業が行われていた。海に潜ってダイナマイトを仕掛け、さんごの岩をくだく作業は特に難工事のようであった。その作業には、主に知念村の海野や久原辺りの漁民が関わっていて、彼らは岸辺で盛んに火をたき、火に暖まっては海に潜って作業を繰り返していた。昭和20年になると、線路も完成し、実戦に向けて種々の訓練を重ねていたようだ。
○私は防衛隊にとられて球部隊の船舶中隊に入隊して与那原の雨乞森に配置されていました。島から十八名が防衛召集されて同じ隊にはいっています。船舶隊というのは特攻艇の部隊です。隊長は大阪出身の岡部隊長でした。
(3)十・十空襲
○ 妻たちが疎開したあと、私は与那原の板良敷にあった海軍の陣地壕掘りに徴用されました。十・十空襲の日も、いつものように作業をしていました。
その日は普段よりはるかに多い飛行機が飛んできました。私たちはいつもするように、飛行機に向かって手を振っていましたが、それは敵機だと言われ、皆弁当を抱えて一目散に家へ逃げ帰りました。翌日から作業には出ませんでしたが、別に出てくるようにという命令もありませんでした。
○それから暫くして十・十空襲があり、この空襲で那覇市は一日で消え失せ、農連の黒糖倉庫だけがドス黒い噴煙を二、三日も吹き上げていた。与那原も大半の家が消失、与那覇はガソリンと焼夷弾で、ものの一時間もたたずに焼けて消滅した。
○昭和19年10月10日午前7時20分、……与那原では家を焼かれ、燃えさかる我家を見つめる身も世もあらぬ悲しげな顔が未だ目に残る。与那原以外我が村に被害は無かった。
○昭和19年の10月10日。運玉森の方角から低空で飛行機が迫って来た。しばらくすると首里からサイレンの音が聞こえた。4機編隊だったので、すぐ敵機(日本軍は3機編隊と教えられていた)と判断した。
○また近いところ与那原には、兵舎があったので、それが目当てにされたか、与那覇が空襲の的になってしまって、十・十空襲には、ただ七軒しか人家は残ってなくて、全滅同様になってしまってですね。
○昭和19年10月15日、十十空襲後間もなく与那原の球第四一五二部隊重砲隊へ入隊。一月三日第一期の検閲が終り、午後三時頃ボンボン船に乗って津堅島に配置になった。
(4)防衛隊
○私は家に妻子を残したまま、昭和20年1月20日に与那原に駐屯していた球部隊へ現地召集された。与那原小学校近くの御殿山附近に部隊の基地があった。そこは日本軍の「海上挺進戦隊基地」(暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊)であった。私たちは、毎日特攻艇の秘匿壕からその艇をかつぎ出し、与那原の海岸まで運んだ。訓練を終えると、またその艇を壕に隠した。その特攻艇はサバニ(くり舟)を改造して作ったエンジン付きボートであった。その艇には二人の特攻隊員が乗っていた。与那原から津堅島までを、一時間余で往復した。ものすごいスピードであった。船体はあまり大きくなく、長さ四・五メートル余、幅一メートル余くらいであった。艇の前部に大量の爆弾が積み込まれていた。私たちはその特攻艇を十数人でかついで海岸まで運んだ。雨降りの時やシケの時には、まったくいやな仕事であった。その特攻艇の発進場は与那原浜で、御殿の近くにあった。与原(運玉森の麓)には特攻艇の秘匿壕があった。また、現在の与那原テック跡の山にも秘匿壕があった。その山から海岸近くまで専用レールが敷かれていた。
○昭和20年の2月ごろ、防衛隊に召集され、与那原で訓練を受けた。防衛隊の訓練でも普通の兵隊が受ける軍事訓練と変わらなかった。
○私たちは、昭和20年2月6日、防衛隊に召集され、暁部隊に配属された。その時、幸地部落からは一二人召集された。暁部隊(暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊)の兵舎は与那原にあった。私たちは、特攻艇を担ぎ、海まで運ぶ仕事をさせられた。特攻艇は一トンの重さがあるので、三二人で一隻しか担げなかった。
特攻艇に乗るのは下士官で、年齢二三、四歳ぐらいであった。彼らは皆幹部候補生であった。訓練は一日に三、四時間ぐらいであったが、燃料の都合で毎日はできなかった。しかし、特攻艇を出して訓練が行われる時には、船を担いで運ぶ人たち一二〇余人は訓練が終わるまで、浜辺で待っていなければならなかった。ちょうど二月のころなので、この一二〇余人の人たちは、三、四時間も浜辺で北風にさらされながら寒さに堪えねばならず、大変だった。
米軍上陸後は米軍に悟られてしまい、与那原からは特攻艇の出撃ができなくなった…。饒波・高安への移動の時、特攻艇は車で運搬するけれども夜しか運搬できないので、昼間は甘薦畑に隠してあった。昼間はグラマン機が一六機や三二機の編隊を組んで上空を飛行しているので、とても移動できなかった。
○満20才の徴兵検査の年齢も一年早くなり、前年まであった学生の徴兵猶予の制度もなくなって、沖縄師範学校本料二年在学中の昭和20年満19才で徴兵検査を受け、3月1日現在の与那原小学校になっている球四一五二部隊に、野戦重砲の新兵として入隊した。
○昭和20年の3月上旬頃、また防衛隊召集の赤紙がきた。今の与那原小学校の向かいにあった運動場に集合しろということだった。私はその日から、与那原に駐屯していた球部隊に配属された。今はゴルフ場になっているところである。そこに友軍の海上特攻隊があった。その山からトロッコのレールを敷いて特攻艇を乗せ、与那原の浜まで運びそこから出撃させ、敵艦にさし向ける手筈であった。しかし、見えないように巧く艇を隠しているつもりでも、上空からは特攻艇のありかが分かったのか、出撃しないうちにどんどん敵にやられた。
中城村の津覇、和宇慶に米軍が追ってきた時、私たちは与那原から残りの艇を、豊見城村の饒波、高安に撤退させた。そこは漫湖の入り江で、満潮になると特攻艇も出しやすいし、川の両側はユーナの木が繁っていたので、特攻艇を隠すのにも好都合だった。与那原では一度も出撃するのを見たことはなかったが、豊見城に来てから一度だけ特攻艇を出撃させたのを覚えている。
○夫は防衛隊に召集され、与那原にあった暁部隊に入隊した。
○私は防衛召集されて暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊」に配属されました。兵舎は現在の与那原小学校敷地内にありました。西原村出身者は、ほとんど一分隊、二分隊に配属されたが、私はどういうわけか後回しにされ、七分隊に配属されました。七分隊には具志川村出身者が多数いました。
一分隊二〇余人で構成し、いくつかの分隊で小隊、いくつかの小隊で中隊、いくつかの中隊で大隊というように組織されていました。与那原に駐屯していた部隊は大隊じゃなかったかと思います。指揮官は木村大尉でした。この「マルレ」には操舵手が一人乗り込み、敵艦の近くで爆雷を落として逃げ帰ることになっていました。一、二回は成功したようです。しかし、ある日、爆雷を積んだ丸レーを海に浮かべて整備兵が整備している時、敵艦の砲撃を受けました。爆発音とともに燃料が海に流れ出して燃え上がりました。整備兵と操舵手の二人はたぶん死んだと思います。褌ひとつの姿で浜で見ていた私たちは、誰一人怪我もなく、みんな逃げ帰りました。その後、丸レーが出せなくなったので、今度は、野砲隊の弾薬運びをさせられました
○一隻も出撃しないうちに破壊されてしまった。毎日、出撃訓練はしていた。与原部落にも同じような海上特攻艇を配備してあった。その艇の収納壕は与那原テック跡附近にあった。
○特攻艇といっても全然効果はなかったですよ。われわれは海岸まで艇を出したんですがね、出撃しようとしたらもうアメリカは探知して海岸のところでずいぶんにたたかれてしまいましたよ。これでは出撃もできません。若い中尉がまっさきに一隻だけでとびだしたことはあったがこれも還ってこないからどうなったかわかりません。中城湾の沖は艦隊にとり囲まれているからどうにもならんですね。出撃は準備しても上からの命令がないといくら隊長でも勝手には動かされなかったですから出撃するまえにやられてしまったですよ。われわれはこれで戦争ができるかと言ったもんです。
○ 4月1日米軍上陸後、陣地構築を急いでいた。日米攻防戦が本格化して一線の石部隊が兵力を失ったので、後方にいた球部隊の島袋さん達も一線に向かうことになった。
(5)徴用
○昭和19年には、徴用で荷馬車、馬も一緒に駆り出され、与那原から小那覇飛行場まで砂を運搬していた。最初は手間賃もあるとの話だったのに、実際には戦争のため手間賃は貰えなかった。十・十空襲のあった日も朝から馬に荷馬車を引かせて飛行場に出掛けていたところ、空襲があったので家に引き返し、子供たちを連れて山に避難した。
○翌年の2月にも荷馬車、馬とともに与那原の球部隊に徴用された。与那原では食物が少ないのでお粥を食べた。戦争がいつまで続くのかわからないということで食糧は壕の中に貯え、兵隊や防衛隊らにはあまり食べさせなかった。食糧が少ないので子供が食べるようなお粥を食べた。球部隊での仕事は荷馬車で弾薬や食糧を運搬することでした。夜だけでなく昼も運んでいた。私と同じように荷馬車、馬とともに球部隊に徴用されたのは八人いて、一緒に行動した。弾薬を保管する壕もなかったので、弾薬は荷馬車で運び、小波津部落後方にある墓の中に積んで保管していた。
○与那原の港湾埋立て、等に連日のように動員された。
○小那覇飛行場建設用の砂運搬に従事していた。その作業には軍の徴用として働かされた。建設用の砂は、毎日、与那原海岸から運んでいた。ほとんどの馬車引たちが徴用されていた。私の任務は、与那原の御殿山にあった石部隊の本部で荷馬車に武器、弾薬、食料を積み、西原村千原の戦車部隊に運ぶことであった。
○与那原の当添の後方に斬り込み用のタコ壷壕を掘りに行かされました。
○私は沖縄県立第一中学校(現在の首里高校)に入学しました。一年生の時は、授業はほぼ順調に行われましたが、二年生になる頃から「勤労奉仕」の名のもとに日本軍の基地を作る作業に駆り出されるようになりました。小禄の飛行場(現在の那覇空港)、中飛行場(現在の嘉手納空港)、与那原のざん壕、南風原の地下野戦病院(陸軍病院壕のこと)などを作る為に何度か通いました。
○(学童動員)学校ではその後も空襲の合間を見て、子どもたちを作業に連れて行くのです。私は初等科三年生を受け持っていたのですが、こんな小さな子どもたちも、当時は軍の陣地構築に動員されたのです。三年生と言うと、八歳ですよ。
作業は、手登根の森の中にある高射砲陣地。それから与那原の、今の知念高校の向かいの丘にあった陣地などに、作業用のざるを持って、佐敷から与那原まで歩いて行きました。
(6)供出
○供出は、西原に石部隊、与那原には武部隊がおりまして、両方に供出させられておったんです。
※与那原の軍病院(大里の分院のことか)
3 疎開の通過地点・与那原
○2月頃…十・十空襲で何もかも失ったので、山原の宜野座に疎開することになったんです。大豆、米、味噌、油や鍋を持てる分だけ持って、与那覇の人と、軍のトラックで与那原から東海岸回りで宜野座に疎開しました。着いたのは夕方でした。
○2月、翌日金武村への避難を計画した。大里村は避難先を金武村と指定されていたので、荷物は与那原港から親戚の山原船に依頼し、村役場の指示に従って友軍のトラックで集団移動となった。
○疎開者は日本軍のトラックで目的地に到着した。荷物は知念村荷馬車組合を動員して与那原まで運び、与那原から字具志川まで、与那原荷馬車組合が届けてくださいましたが、字具志川で荷物は停滞してしまい、また、白昼は米軍機の空襲があるので夕方の七時から荷物送ってもらうように、伊芸の区長さんから具志川の区長さんへ御願いに行って、後日荷物は無事疎開地に着きました。
○3月17日…馬車に荷物や子供たちを載せて与那原経由で中城村の津覇小学校まで行った。そこでは国防婦人会の方々がおにぎりをつくって待っていた。みんなおにぎりを食べて学校に一泊した。長作さんと喜助さんの馬車はここから引返えして帰って行った。
…3月18日といえばまだ沖縄は平和である。白昼堂々と道のまん中を通った。
○3月20日…疎開先は金武村金武区である。食糧配給の関係で、役所職員の上江洲安盛氏の奥さんの出身地である金武区を選んだ。私は三月二十日、村の疎開者が与那原に集まっているので、村民の荷馬車に荷物を積み、午前九時に出発して金武に着いたのが夜の十一時頃であった。
○3月末…山原への疎開命令が下ったでその日の夕暮れ、祖父一人を残し、家族九名、幼い弟や妹たちの手を引いたりおんぶしたりして出発した。与那原に出ると、それは大へん水平線上には少しの隙間もなく軍艦がびっしりと詰り電気も灯していた。時々照明弾が投下される。
○ 3月25日夕方…西原を通って、中頭を突破しようと与那原まで来たが西原方面は方々に火柱が立って燃えている。近くに飛行場があるから爆撃が激しかったに違いない。
○3月27日夜…夜十時頃与那原についた。町は音をたてて燃え盛っていた。橋はどこもかも日本軍の作戦とかで、爆破されているので、川を渡るのが大変であった。危険な思いをしながらいくつかの川を渡って、西原についた頃夜が明けた。
○3月27日…与那原の町は、あちらこちら燃えていました。私たちは怖くなり、引き返そうかと思いましたが、「ここまできたからには、やっぱり行こう」と励まし合い、やっと津波古の家にたどり着きました。
4 与那原の戦況
○5月1日〜5月25日…向こうは高台ですから、那覇の海、また与那原の中城湾が見えたんです。そこで日暮れに、毎日友軍の特攻隊が来るわけですね。あの時は、対空砲火が花火みたいにとても奇麗だったです。またあの時は陸地にはあんまり弾は来なかったんです。だから特攻隊が来て、燃え上るのは見えましたが、はっきりはわかりませんでした。しかし毎晩それを見ておりました。首里の戦闘は見えません。
○5月14、5日…戦闘は運玉森付近だということでした。患者たちは、まだ夢みたいな希望を持っていて、与那原の海にいまに友軍の病院船がきて、それで内地まで行けるんだというようなことを話し合ったりしていました。
○5月19日頃…敵は上与那原まで来ているので、早く玉城の方へ行きなさい、という伝達が来た。
○5月20日…与那原の線、識名の線、上泊の線の三方から攻められ首里も危険の状態だ。早く南部方面へ避難するにように隊長殿よりすすめられる。
○敵が与那原を攻撃しているという情報を耳にしたころ、陸軍病院(南風原陸軍病院のこと)からの伝令がきた。重傷患者を糸数壕に運ぶことを命令。手足のない兵隊を担架に乗せて、夜運んだ。担送は幾日も続いた。
○5月下旬…首里からどんどん兵隊がさがってきたもんですからね。これはもう、戦争は長びくな、これは大変なことになると思ったんです。
○5月24日朝…米軍は、西は仲井間・上間のあたりまで迫り、東は与那原まで進出し、首里陣地の包囲綱は日増しに狭められており、よって我が軍は27日の海軍記念日を期して総攻撃を敢行する。特に各小隊の第二分隊からはそれぞれ二名ずつ出して、肉攻班を編成する事になっており、本分隊は館林一等兵と當銘二等兵にこれを命ず」と言いわたされた。
○5月24・25日…病院解散の日、私たち小隊は炊事場の負傷兵を運ぶ任務が与えられ、夜8時ころ、砲弾が雨アラレと降る中を南へ南へと向かった。
○5月27日…海軍記念日(5/27)でした。この日、与那原方面から米軍が近づいてくるとの情報が入り、私たちは場天ギタの壕を脱出して、玉城村親慶原のミーガーガマに逃げました
○5月27日…5月27日の海軍記念日に、米軍が与那原から上陸したという情報が入ったのです。前田も運玉森も落ちて、安謝・那覇あたりからも上陸して、首里は四方から包囲されたんですね。間もなく首里の日本軍が撤退する直前、与那原から上陸した米軍は、大里の山頂まできて、首里に向かってさかんに砲撃しはじめた。われわれの分院壕の上に米軍はきている。発砲するとき激しく響いてくるんです。
○5月27日未明…交替した我が隊は夜明け前、大里村(当時)の大見武へと前進した。その残存兵力は定かでないが、百人を大きく割っている様である。そこで見たものは、夜目にもはっきりとすぐ目の前は敵陣である。やがて東の空がかすかに明るくなった、目の前のすぐそこは焼け果てた与那原の町であり、中城湾には多数の艦船がひしめいている。五月二十八日、午前三時頃「即時全員撤退せよ」とのことである。
○5月28日…司令本部の情報では、その第一線部隊は東海岸を与那原から那覇向けに進攻、西側は天久から泊高橋、崇元寺方面に向かっているとのことであった。
○5月28日の朝…情報によると与那原方面の敵主力は南風原の宮平・兼城部落を攻撃中とのことだった。
○やがて米軍が、与那原方面からも進撃して、新里、親慶原、船越(富名腰)、前川近くまで寄せてきていることを知った。
○米軍が、現在の与那原の当添辺りから上陸して、カンジャーヤマの方に向かってきた
○米軍が与那原方面に侵入してきて、部隊は南部に撤退したんですが、それから二週間あとには玉砕してしまいました。
○5月末頃…米軍が与那原回りで入ってきて、百名部落の軍人、住民ともに包囲され、捕虜になりました。戦闘もしませんでしたが、陣地は艦砲射撃されました。
○5月下旬ごろ…私たちは南部へ撤退した。その前に、私は運玉森の友軍陣地へ弾薬を運ぶ途中、右腕を負傷した。私は津嘉山にあった野戦病院に収容された。そこには多くの負傷兵が収容されていた。…私はその薬を飲まず、少し歩ける負傷兵ら六、七人とともに真壁へ逃げた。
○5月下旬…夜になって、またサバニを出せと言われて、今度は目標は与那原の球部隊の本部です。出発のとき、亭島隊長は、もし途中、掃海艇にぶっつかって舟がやられたら、泳いでいって手榴弾で攻撃するように、と命令がありました。隊長の舟をまんなかにして、各舟に防衛隊員が船頭になって、十隻並んで出発しました。中城湾は敵艦がうようよしていつぶっつかるとヒヤヒヤしましたよ。夜の十二時ごろだったかと思います、出発したのは。
○岬をまわってホワイトビーチの沖にでると、前方に黒々と艦隊が見えてきました。その時照明弾があがって、どうも発見されたようなんです。私らは舟の底に伏せて、明りが消えてから、ゆっくりゆっくりと艦隊の間を進んでいるうちに、ほかの舟たちとはバラバラになってしまいました。そのうち、二隻はヤブチ島にひっかえしてしまって、ほかのも行方不明になってしまい、まっすぐ与那原に着いたのは三隻だけだったそうです。
○5月下旬…私らの舟が着いたところは西原村の我謝の海岸でした。この舟には野砲隊の班長をしている坂田軍曹が乗っているんですが、この人はあわててしまって、ここから与那原まで歩いていこうと言うんです。陸上はもう敵が占領しているはずだからそんなことはできませんよ。そこで急いでひっかえして今度は、現在の知念高校の海岸につけたわけです。
○5月頃…首里はもう包囲寸前で、正面は浦添の友軍を攻略して経塚から伊志嶺に向って首里に迫り、西海岸の敵は牧港を制して安謝を過ぎ天久で激戦中とか、東海岸でも運玉森の死守空しく与那原に突入して来たと、日を追うて悪い戦況の情報が兵の間で聞えてきた。
○5月31日…艦砲射撃が始まった頃、翁長ぐゎ壕から二百メートルぐらい離れたシトクというところに、壕を掘って、そこに一か月ぐらい入っていました。その後、その近くの、私の母がいる壕に、私たちは移ったんです。そしたら、与那原の海の方から、艦砲が激しくきて、壕の中に破片がとんできて、私たちは並んで昼寝をしていましたけど、私の弟夫婦はともに足を怪我してですね。
○7月初め…口々に「与那原や運玉森は米軍がいっぱいで、とても通ることはできない。あきらめて白旗を持って降伏しなさい」と話していた。
5 住民の避難状況
○3月23日より艦砲射撃が村内にも行なわれるようになり、敵機の空襲も激しく、4、5日前から村民も壕の中に避難し、仕事に出る人も無い。私達職員も事務を役所の壕内に移していたが、近くの村民と与那原区の村民、及び警防団が避難に来たので行政事務は出来なくなる。
○前川ガラガラガマ(ガンガラー)といって、大雨が降ってですね、やっぱり生きている人でもそこから渡るといって、大勢流されて死んだ人が、沢山おりますょ。…そうして流された人は港川に流されて、与那原の人は沢山でありましたよ。
6 捕虜の移送中継基地
○5月末頃…私たちはトラックに乗せられて軽便鉄道の与那原駅近くのカナアミ(収容所のこと)に入れられ、さらに翌日石川へ送られました。
○私達は屋宜原からすぐに大里村稲嶺に連れていかれ、さらに6月16日には知念へと移った。知念にはたくさんの米軍部隊が周辺に駐留していて食糧が豊富にあった。私達は十九班にいた。与那原の人たちが先に収容されていた。
○6月中旬…伊原で捕虜になり、屋比久の収容所に入り、落ち着いた暮らしに戻った。その後、屋比久から新里の収容所に移動させられ、そして与那原海岸から大きなLSTに乗せられ、久志村字汀間に集団移動させられ、山原での難民生活が始まった。
○7月の初め頃与那原の浜から上陸用舟艇で久志へ、すぐに瀬嵩収容所へ移動。
○私たちはトラックに乗せられてね、与那原に連れて行かれ、そこからLSTに押し込められるようにして乗せられたんです。ぜんぜん甲板には出さないので、どこにつれて行かれるか判らなかったわけです。着いたところは、(今の)宜野座村の漢那でした。
○それから停まっていた戦車の上に放り投げられ、兵舎に連れて行かれました。そこで仮治療をされて、さらにまた水陸両用トラックに乗せられ、与那原まで連れてこられました。与那原からはトラックで、嘉手納飛行場の近くだったと思いますが、地名がはっきりしませんが、そこで治療を受けて、今度はコザの元の中央病院に移され半年ほど入院しました。
○捕虜になったのは、大里村の湧稲国という所だったと思います。それから知念にいって、そこに一カ月くらいいた。そこから佐敷に行き、そこで二〜三カ月(あるいはそれほどいなかったかもしれませんが)、その部落の人たちと一緒に過し、その後、与那原から、船で、山原の久志村の二見か大浦の収容所へ行きました。
○それからまた、やはり佐敷村の新里へ移動して、それから与那原から船に乗せられて久志の二見にまで行った。
○与那原海岸から米軍の大型LSTに乗せられ、久志村の長崎原に上陸し、徒歩で二見に到着した。
○私たちは与那原から米軍の大きな船に乗せられました。どこに連れて行かれるのか、船の中でみんな心配しました。着いた所は久志村の大浦湾のどこかだったわけですけど、最初はどこに着いたのか分かりませんでした。「南洋にきている」という人もいれば、「長崎らしいよ」という人もいて、本当に不安でいっぱいでした。上陸地点から歩かされて、二見という所に着きました。
○それから港川へつれて行って、また与那原につれて行った。それから与那原の浜から船に乗せて、泡瀬(美里村)の美東の学校へ。行ったらそこも満員で入れないもんだから中飛行場に。中飛行場に一週間いて、今度はまた知花(同村)につれられて行った。知花に二、三日いたら、七月の中旬頃、ハワイへつれられて行きました。
○そうしたらそれから、また与那原の浜で、アメリカ軍に、船に乗せられで山原に、辺野古におろされて、トーキ(東喜)、二見、大浦を通って大川につれて行かれました。
○米軍の金網の中に入れられたり、那覇の古波蔵で十日ほど作業させられたりするが、やはり与那原からLSTで久志の辺野古崎へつれられて、食糧難の久志で捕虜生活をする。
○知念で捕虜にされ、佐敷に連れて行かれた。その日、私たちはおにぎり一個ずつを渡され、それを食べながら与那原まで歩いて行った。海に投げ込まれるものと思っていたが、船は久志村の辺野古崎附近に着いた。
○そこから、また国頭へ行けというんですね。与那原から、トラックとも(乗ったまま)LSTに乗せてですね、
○そうして与那原からLSTという船に乗せられて、ほんとにもう南洋の方へ南へ向って行きおるんですね。
ところがしばらく経ったら、船の軸は東がわに向ったから、はてなといって皆は不思議がったんですよ。二時間位たったら辺野古(旧久志村)の赤山の麓にいって止めてしまったんです。
○8月頃…その後、屋比久の収容所が狭いと言って私たちは佐敷に移された。またしばらくして新里に集められ、アメリカーのトラックで与那原に連れて行かれ、そこから船で久志の大川に移された。
7 収容所生活
8 帰村の中継基地
○南部への帰村が始まりましたが、最初は与那原の大見武収容所へ送られました。真和志村は遅くまで帰れませんでしたから、母たちはずっと後でした。
○九月頃今度は大里村の大見武部落(現在は与那原町)に収容、それからやっと二ケ月後に大里村の大城部落に移されました。そこから毎日自分の部落(真境名)に通って、区民と共に道路や屋敷内のかたづけ、草刈り、仮小屋づくりと復旧に汗を流し、自分の部落に帰れる準備をしました。
○野嵩に着きましたら前に来ていた人たちはみんな配給を貰って落ちついていましたから安心しました。それから古知屋に移されました。わたしは籍が与那原だったんです。与那原の方は、十一月に船越に移動がはじまったんです。それから大城(大里村)に行って、大見武の方にみんな集まった、与那原は。
○大里区割当の田んぼの稲穂が実り、その収穫前に島尻へ帰れることになったので、瀬高区民は別れを惜しみ、送別会まで催してくれた。私達は瀬高区民に別れを告げ、米軍トラックに乗り、与那原の大見武収容所に着いた。そこで二十日間の収容所生活を送ったが、解放される前の二・三日は、帰郷する為の準備として、各人出身部落の掃除に行かされた。
○石川を過ぎると沿道の部落は、あとかたもなく一面の焼野原となっている。車は美里、中城、西原を過ぎて与那原にさしかかった。中城、西原を通って来る問、中城湾をみると、多数の船が座礁しているのにびっくりした。与那原、佐敷を通って目を見はらされたのは、道路の広さであった。たった半年の間にこんなに広い道路をつくった機械力が信じられないほどであった。
○南風原・大里出身者は大見武収容所に移動した。大見武ではテント小屋生活で、元気な者には軍作業が割り当てられた。私は与那原海岸で沈没船の残骸片付けや、佐敷村新里にいた米軍部隊の清掃作業をやった。
○大見武収容所では現在の与那原中央病院に高校ができたということで、戦前中学生であったという第三者の証明を得て入学を許可された。校舎はコンセットで黒板に先生が板書し、それを写すという授業であった。その後、現在の城西小学校の校庭に張られたテントに移った。一中は廃墟と化していたので、その後片付けと弾痕の穴を埋める作業の日々であった。イモ弁当の昼食を玉陵の中で食べたこともあった。
○9月20日開墾より再度古知屋に移動。更に大里村目取真、与那原大見武と転々と移動の連続であった。
○45年11月…与那原の大見武収容所へ帰りました。大見武から新里は目と鼻の先ですから、矢も盾もたまらず、私はたびたび逃げ出しました。まず、大里村の大城部落まで逃げて隠れます。それから大里城跡の山を越えて新里へと思ったのですが、すぐにばれて、連れ戻されました。脱走、潜伏、発見、連行の繰り返しでした。
○船越からは、たぶん自分の村に帰れるだろうと期待していたのに21年4月末、与那原町の大見武に移動させられた。大見武収容所での期間は短かかったがとても辛い日々だった。村役場職員は兵舎跡の大きい建物に住まい、戦後の南風原村復興に励んでおられた。
○現在の与那原中央病院のあたりで仮小屋生活が始まった。与那覇に戻ったのは、昭和21年の7月だったと思う。
※「県史9・10巻」「各市町村史」から