2 日本軍(兵)編

(1)「県史9巻」から
(南)四四〇一部隊という戦争部隊が来ていた。そこの管轄で、南風原村から防衛隊を召集した。その防衛隊に隊の方からお前らの家に飼っている豚は、もう飼うことができないだろう、だから隊へ出せというので、防衛隊の家に飼っている豚はすべて隊へ出すことになった。ところが、そうしたら一般民間全部の豚も序に出すようにということになって、すべての家の豚も持って行かれた。結局何とかかんとか言って埒があかん、その間に戦争になると、供出ではなくて、軍隊はほとんど徴発になって、すべて部隊長命令ということですな。(1)

(南)一般に供出は渋っていました。値段は一般に売れば二倍三倍になるのを軍に出せば公定価格というわけになりますね。物も次第に無くなりましたね。(1)
(南)材木の値段はですね、後から払うということになっていたと思うんですが、この値段、請求しても一向に金が出て来なかったんです(1)

(南)材木の供出もそうですが、石垣も壊されていますよ。軍からドンドン壊されました。山川あたりですね、屋敷の囲いの立派なアワ石を軍の命令で。神里に壕があったでしょう、あの壕に使用するといってですよ。(1)

(東)沖縄戦が始まりかける頃、近所に駐屯していた伊藤隊の隊長が、あんたたちは軍に食べものの協力をしなさい、と命令されましたから(3)

(東)二十三日になってから、北海道出身の中村という兵隊が馬車をもって来ていました。その兵隊がいうことには、もう疎開は遅すぎる、山原につれて行くことはできない…というんです。島尻に踏みとどまる他はないので、壕を掘ることが先決だから、あんたたちの親戚の山に壕の掘れるところはないか。と訊かれて私たちは、小城に兄弟の山があります、と答えたら、じゃその山に壕を掘りなさい、馬車一ばい松の木をあげるから…と言うことになったんです。(3)

(具)それは五月中旬までのことで、その頃、私は義勇隊として召集されました。その壕から弾薬運びとして女性も何度か狩り出されましたが、義勇隊は、十六歳から四十五歳まで、みんなとられて、二十名ぐらい出ましたね。(2)

(具)村役場の兵事係が、球部隊の深見大尉の壕はガラミ壕の隣のアンガー壕で、その病院壕が大隊本部でしたが、そこからの連絡だと言ってですな、十六歳から四十五歳までの男はみんな義勇隊に出るよう命令があってですな、軍医が見えて形式的な身体検査をして、みんなつれて行ったわけでした。自分たちの仕事は、傷を負って送られてくる牛や馬を治療したり、もしくは重傷を負った牛や馬を屠殺してですな、その焼肉を作って、食糧として前線に送り出していました。(2)

(具)そして住民も弾薬の詰められた箱を運べという軍令令があったんです。兵隊たちが各壕を廻って言いにきていました。それで私の両親は兵隊たちに、私のことをまだ子供だから出せません、と言いましたらね、じゃあお前らは非国民か、と言われて、断ることができなくなって、私は十五歳にしては躯が大きい方でしたから引っぱり出されたんです。後原の字から若い女性が三十名あまり出されて、首里の方まで、弾薬の箱を頭に乗せて運搬したんで(9)

(糸)兵隊さんのものは玄米だったんですが、うちのものは白米だったんです。それを兵隊が盗んで行くんですよ。(3)

(糸)飯は、米五合で芋はその二倍くらい入れて芋飯だったんです。将校もみんな同じものだったんです。それを大きなお握りをつくって一個ずつだったんですこの炊事班長たちは、肉もいいところは自分で取って置いて、また魚も来れば真中の方は取って置いて、それから配給して炊きおったんですよ。それから飯もお芋は入れないでお米ばかり飯盒で銀飯を炊いていたんですよ。将校だって芋飯ですが、お汁は小さい味噌樽に何名分といって入れて持って行くんですよ。それで陣地は山の中ですから、荷車みたいなのに乗せて、ガラガラ引っ張って行くんですよ、四、五十人分。武部隊は(3)

(糸)小さい赤ちゃんをお持ちの方たちは、大変苦しい立場にみんな追い込まれて、追い出された方もいますし、このお子さんはですね、兄さんのよめさんがですね、亡くなった末っ子は名前何といいおったかな。あれは小さかったですよ、そうして木の下で泣いておったんだ。今でも憶えているんで、それでなぜそこにいるか、とわたしは訊いたんですよ、そうしたら、これが泣くから、うるさいから出て行けといって追い出されて、こうこうだという、この壕はその人のお父さんが一生懸命になって、造り上げた壕でしたので、それでは相談してあげるから、それまで、個人の壕に入っていなさいといって、例の壕に入って行ったら、二人の班長みたように大きな顔していたのが居たので、相談して、この壕は誰が責任を持っているか、作り上げた壕かと突っ込んで訊いたら、ようやく納得して、その親子を壕に入れました(5)

(糸)南風原の三叉路がまた爆弾でやられて、その時に、同じ友軍で順番に通るのですが、喧嘩みたいに先きを争いますよ。どこの部隊でも。みんな自動車から下りて、後を押して、道には甘蔗なども折って来て敷いて、通り抜けさせるわけですが、自分は、どの部隊も同じ日本人だからと思って、余所の部隊の手伝いをしたんですよ。そうしたら、君はなぜ余所の隊の手伝いをするかといって、小隊長に叱られたことがありました。(11)

(糸)それから北郷大佐に命令されて行っていろいろ話もしたわけでした。それでは、軍の協力はいくらでもやってくれるか」「はいそれはやります」「それではあなたは食糧があるところを知っておるから、やってくれ、家族も兵隊同様に待遇するからやってくれ」というので、「はいやります」と答えて、軍服を渡したが、「これは要らない、戦争は負けたのだから」と自分は、はね返したですよ。(11)

(三)水飲ましてくれとしきりに水を求めるので、軍医が、これは出血したかと、訊くんですが、運んで来た人が、まあ出血は相当にしていました、というたら、そんなら水をやりなさい、といって、水を欲しがるだけやってから注射やりおったんです。出血はしておっても、大して出血していなかったといったら、その人には全然水を飲まきなかったです。そうして治療やりおったんですが(6)

(三)大豆を煎ってですね、砂糖を入れておむすびをつくって、甕の中に、またお米も入れて置いてあったら、全部平らげて、散らかし放だい散らかしてあるんですよ。漬物類も、大根漬、ニンニク漬、ラッキョー漬など、友軍の兵隊が全部平らげて、何にも残してはないのです。(7)

(三)友軍が南へ南へと下って来た。そうして壕を出るようにいうんです。
「こっちは友軍が占領するからあなたがたは出て行きなさい」
「それでは、今からわれわれは出て行ったらどこへ行きますか」
「民間は石垣の陰でも木の下でも結構だ、兵隊がいなかったら、国はどうして守って行けるか」
「どうしても厭ならどうしますか」
「たたき切るまでだ」(7)

(三)山城(旧喜屋武村)の志村部隊の本部の壕で働いていたんです。
後で移動して、米須のクシンカーの壕に来たわけですよ。あっちでずっと炊事しました。壕のなかにかまどをつくたり、米を搗いたり、水を汲んだりして御飯炊きをやりましたが、アメリカの上陸するまでずっと御飯炊きをやっていたわけですよ。(8)

(三)日本軍は後退で南に下って、僕等も伊敷に来たが、仕事らしい仕事は伊敷ではしなかった。道路の調査は命じられたが、軍では、移動するので、地方人が壕にいるものは出せと命令された。(11)

(三)家内が死んだのは、話を聞いたら、ある部隊が、その壕を利用するように来ましたので、地方民は兵隊が入ってから入るんだということで、そとで待機している間に、足をやられて死んだということでありました。(11)

(三)そうしましたら衛生下士官が、その人が途中まで迎えに来ました。隊長が今、お目玉だから、迎えに来たということで有馬隊では、沖縄人はみんなスパイと見ていたのかも知りません。臼井という下士官ですが、その人に有馬隊が、ただただ娘たちを手離してはいかんぞ、といった(15)

(三)これが山(山部隊のこと)だとわかると治療させません。絶対ほかの部隊の兵隊は治療してはいけないといわれていたんですょ。同じ日本人でありながら、どうして部隊がかわれば、他の部隊の兵隊の治療はしてはいけないんですかと訊いたら、各部隊に医療薬品は配られているので、その範囲内しかないから大事に使わないといけないんだ、と注意されました(15)

(三)わたくしたちは、このようにして、部落の人が怪我したと聞いたら、いつでも行って一般民を治療しましたが、これは部隊には内証なんですよ。部隊に知らすと怒られますからね、絶対一般民は治療してはいかんという規則がありましたが(15)

(三)沖縄の人はもう真面目で、ほんとに純真で、国のためならとあんなにして、弾運びなんかですね、防衛隊なんか一生懸命にやっているのに、隊長たるものがあんなに壕の奥に隠れて、そうして逃げて行くのかねと思ったら、もう憤慨しましてですね。今になると、ほんとにあんな戦争といってあるもんかとわたし思いますがね(15)

(三)それから兵隊は筏を組んで黒潮に乗って沖縄から本土へ行くという計画を立てているわけですよね。それは七月の初め頃だったのではないかと思いますが(15)

(北谷)姉さんは(腹違いですが)十七歳でしたので、兵隊がこの娘を弾運びに出してくれ、と頼んでいました。おじいさんおばあさんに子供たちばかりで、働き手は母と姉だけですから、母はそれはできませんと、ちょうど姉さんは小さい弟をおんぶしていましたから、断ることができたんです。(11)

(北中) われわれは、前にもいいましたが防衛隊ではなくて、自分たちで志願したのです。大体三十五六名くらいだったですな。
 仕事は、死体収容、弾薬運び、食糧運びです。少し配給がある時もあったが、ほとんどキピだけです。兵隊といっしょに飯を食べるのではないんですな。われわれは、志願して自分たちで、来たんですから、食物は、兵隊からはありませんでした。(3)

(北中)ところが、何も知らない下級将校たちは、二十九日の天長節を期して、陸、海、空一体の一斉攻撃をする。今度は、菊一号作戦だ、天一号作戦だ、あるだけの敵をぶっつぶして、わたくしたちの旗を揚げるよ。それまでの辛抱だ、とおだてるんですね。
 それで、わたしは有川少将に、そうですか閣下、と訊ねて見たんですね。すると有川少将は、「携帯用の爆雷は作ってあるからもう安心」。有川少将はこういってから、「奇麗なもんでしような、僕は覚悟している、もうそれで終りだ」と仰有いました。敗ける、勝ち味は絶対ないという意味ですが、なかなか、ほんとのことは仰有らなかったんですね。(4)

(北中)それから首里の第一線へ行くことになりました。熊谷という隊長でしたが、途中で、まだ早いから時間を待とうというので、避難民の入っている壕を、われわれは今第一線の戦争へ行くので、そこに休むからあなたがたは出なさいと避難民を追い出しました。
 「兵隊さん今度の戦争をぜひ勝って下さい、それではわれわれは出て行きます」。
 そういって避難民が出るのを見た時は、何ともいえない気持ちでした。ここから追い出したら、どこへ行くのか、壕があるのか、壕がないので砲爆撃にあらわにさらされるのではないだろうか。自分の妻や子たちも、兵隊からこんな目にあっているのだろうというようなことを思った時には、何ともいえませんでした。隊長や、上官から、避難民を壕から追い出せという命令をされて、それをやるのは、一番つらいことでした。(9)

(北中)また一週間休んでから、第一線の戦争へ出かけました。また途中で、避難民を追い出して壕に休みまして、一晩中そこに隠れていてから朝になって、日が上るとそこを出て、本隊へ帰るんです。鉄砲なんかありませんよ。竹槍を持って。三度同じことをやりました。それで戦争というものは、逃げ隠れしてこんなにやるものかなと思いました。(9)

(北中)慰安所の女にされていたんですよね。慰安婦として軍についていなければならなかったが、真壁あたりでは、慰安所も何もあったものではないのです。それでちやんと軍属として、炊事婦としてその係になっていたんです。(10)       

(北中)それに、馬乗り攻撃を受けたら、兵隊たちは、馬乗り攻撃になったぞ、お前たちは戦争の邪魔者だと怒鳴ります。わたしたちは、そういうのを直接ききもしましたが、このカーブヤー壕の時もそれと変ってはいません。銃剣ですか、それをガチャガチャさせながら大声で、
 「子供は戦争の邪魔者だ殺してやるぞ。子供を泣かすと誰でもいいから殺してやるぞ」と怒鳴りました。(10)

(北中)そうして、あとでわかりましたが、壕の中に入っていた大ぜいの婦人がですね、子供を抱いてすかしているが、お乳や食い物がないのでよく泣くもんだから、友軍が注射して殺したのが沢山おったそうです。つまり子供のほとんどが友軍の注射で殺されたそうです。
 「注射して上げようね、おとなしくなる注射だ」というふうに注射をされてその場で殺されたということでした。(10)

(北中)そうしたら兵隊の方では、区長の方へ来て当るんですね。人員が足らない、来たものはだらしのないものばかりだと、大変な剣幕で折檻するんです。こっちはどこまでも詫びてすみません。つぎからは気をつけますと許して貰うようにしますが、兵隊は時勢の関係で最初から居丈高に怒って、自分の子供ぐらいの青二才から、顔を殴られたこともありましたがね。(15) 

(北中)戦争が始まるかなり前からの代金は、払われませんで、全然受け取りませんでした。(15)

(北中)艦砲が激しくなって身動きもならんという間際まで芋は一万何千斤とありましたが、すぐ戦争がやって来て、それはお流れになってしまったんです。野菜もその通り兵隊も受け取ることができないで、そのままほったらかしたわけです。(15)

(北中)すぐ首里へ行くというんですね。それでそこにもいられなくなったんで、それから後戻り、また島尻に。南風原とか東風平とかですね。東風平の何というところでしたか、雨はじゃんじゃん降るし、その時に友軍の車が米を持って来た、兵隊たちに食わすというので。加勢しなさい、加勢しないと打ち首だというんですよね、雨がじゃんじゃん降る時に。手間賃といって、米を一升くらい分けて、くれました。(17)

(北中)友軍が三名来てですね、そこに入っておったのは、西原村の棚原の安座間という家族がいっぱい入っていた。そこで子供が泣いたですね。まあうち殺せ、殺すほかない、そんなに泣かしたら大変だ、というんです。(18)

(北中)識名の前にわたくしたちを糸数に行けといった兵隊が、これを持って行きなさい、いつかは役立つことがあるからといって煙草五個くれたんですよ。この人は軍曹だったんですが、宮崎県の出身だといっていたんです(18)

(北中)そこで壕、さがしたんですがねえ、さがしたら、うちの壕のそばに日本の兵隊がいて、その兵隊、いくさにはいかないで、そこでわたくしたちの滞在している間、一日中食べてばかりいるんです。(18)

(北中)それでその兵隊たちは、おばさんこの壕から出なさい、出なさいというんですよ。いいえわたくしは、死んでも出ませんといったんですねえ。それから喧嘩になって、何んで女がそんな口を利くか、今はどんな時になっているということを知っているかといって、剣を抜いでわたしを殺すというんですよねえ、そうすると子供等がわあわあ泣き出したもんですから、まあ兵隊も手を出すわけにいかないで、おばさんには負けたといって、どこかへ行ってしまったんです。七名くらいだったんです。(18)

(北中)そこに兵隊一人おるんですよ。人を待っているから、ここにいさせてくれませんかとお願いしたんです。非常にやさしい、年配が三十七、八か四十ぐらいの方でしたが、その人は非常に言葉もやさしくてですね、留めてやり度いことは山やまですがわたくしたちのこの部隊は今あの首里の第一線へいっていましていつ帰って来るかわからない。わたくしは足を捻挫したために留守番みたいなもんを仰せつかっているから大変お気の毒ではありますが留めて上げるわけにいきませんと、こういうふうに非常に丁寧に断られました。ところがまあ忍びなかったのか、二、三日はそこにおりなさいというから、二、三日はそこに入っていたわけですよ。そうするうちにその兵隊が、のこのこちんばをひきひき出かけて行きおるのです。なにしに行くかな、と思っていたら、しばらく経ってから帰って来て、おばさんそこに比較的いい壕、保証はできないけれども、まあ安全と思うところがあるからそこにでも行く気になるか、というから、いいですよ兵隊さん、恐らくほかに壕はないでしょうから少しでも安全なところがあったら世話して下さいといって、その兵隊さんに連れられて、行ったんですが、壕といっても壕はないものですから、三か所はガケになりましてねえ、ガケ下に行ったわけです。こちらが比較的安全で、保証はできませんが、この山ではこれ以上はさがせませんということでした。はい有難うございましたといって、おじさんはじめ子供等を引っ張ってそこまで行ったんです。そぅしたらその兵隊は忍びなかったんでしようね、またしばらくしてから(18)

(北中)そうすると十八日の夜、友軍が銃剣を持って、軍は大度・米須から半里(二キロ)ほど先きの摩文仁の丘の方に集結するから、民間の人たちもあそこへ今夜の中に集って、軍に協力するようにといって、避難民の残っている家を廻っているのです。アメリカはすぐ上の丘まで来ているんです。友軍は、もし諾かない避難民は、刺し殺すといった凄んだ気持ちを示しています(22)

(北中)田野兵長は、こんなに咳をしては、敵に発見される、壕から出しなさい、というんですね。爺さんが、老年で絶えず咳をしていたので、それを嫌ったんです。(23)

(北中)すると、子供の父親は、来て半時間ばかり経つと、壕をさがしに行くから、この長男を見て頂戴ね、といって出て行ったが、夜中になっても来ない、夕方に出て行った人がですね。それで子供は、泣くわけですょ。お父さんよう、お父さんよう、と呼び叫びながら泣くんですね。それで、田野兵長から命令が下ったのです。この子供を殺しなさいといって。命令を受けたのはわたしです。うちはですね、聞かん振りをしたんです。今度は玉本衛生兵に、これを押しつけたんです。命令を受けたので、この玉本衛生兵が、階段へ斜に寝かして、そのままやったんです。やったら一回目は、呼吸も止って、死んでいると思ったのに、起きて泣いたんです。またも絞めたですよ首を。絞めたら物も言わないで、二回目の時は目をキョロキョロさせている。三回目やったんです。そうしたら三回目には完全に死んでしまいました。(23)

(北中)玉本衛生兵は、子供を殺すと、わたしに子供を捨てて来いというんですね。それはわたしは出来ない、あなたがやったんだから、あなたやりなさい、とわたしは言い返しました。わたしも同じ一等兵だから、言い返したっていいんですね。それで玉本衛生兵は、自分で殺した子供を自分で片づけたわけです(23)

(北中)そうしたら兵長がうちを呼ぶんですね。兵長は寝ているんですが、うちが行くと、顔を持って来いといって自分に近づけさせて、ぴしゃと横面をやりました。手は動きおったんですよ。(23)

(北中)こうして子供が殺されたので、今度はお爺さんとお婆さんの問題に移ったんです。兵長は出しなさいというんです。それでわたしははいと答えて、お爺さんお婆さんへ、あべこべに方言で、お爺さんお婆さん、兵隊がどんなに出なさいといっても、出ないようにしなさいよ、と言ったんです。(23)

(宜野湾)ところで嘉数戦線は、四月初旬から戦闘がはじまって、(私が負傷したのは十九日でしたから…)四月二十三日頃まで約三週間そこで持ちこたえたはずです。嘉数のわれわれの兵力は、一個連隊ですから、約千名でした。四月下旬にそこから後退するときには、おそらく一割残っていたかどうか。われわれは機関銃部隊でしたが、一小隊に(二銃)で、一個中隊に(八銃)でした。それだけしかない機関銃に、弾薬は十箱しかありませんでしたねしかしいざ戦闘がはじまってみたら、またそれだけの弾薬も使えないんです実際の米軍の部隊は、野嵩・普天間・石平・北谷付近においてあって、そこから嘉数戦線の日本軍に向かって接近してきて、攻撃をはじめ、夕方になると後退する。だからわが方も、昼は嘉数戦線で敵の攻撃に応戦し、夜になると陣地の中から這い出る。夜はこちらの攻撃の番というあんばいで、ニキロ三キロと北方へ進み出て、米軍の露営を逆襲する。そうした作戦を繰り返したのでした。夜襲はずっと続けられました。暗闇の畑の中から進んで、米軍の近くで分散して隠れ、合図と同時に敵のいくつかの天幕めがけて手榴弾を投げつける。するとすぐ米軍の盲撃ちの反撃に合うのです。毎夜、十人くらいの斬り込み隊を編成して出していましたが、帰ってくるものは一人か二人でした。こっちは死者が続出して、兵力がどんどん減少するので、これじやぁいかんというわけで考えられたのがタコ壷です。これはもう人間魚雷と同じですね。ダイナマイト十個くらいを箱に詰めた急造爆雷と、手榴弾とをかかえて敵がやってくるのをその中で待ち構え、敵の戦車がすぐ目の前まできたとき、捨て身で爆薬箱を投げつけるのです。一方、米軍の戦車は、この戦法で相当やられたようです。夜間に負傷者を救助に出かけたとき、われわれの部隊がやっつけた米軍の戦車が、嘉数の前や下の大謝名付近に十七台ほどひっくり返っていましたね。そこで米軍も作戦を変えました。結局、米軍をこさせないようにして持ちこたえるための唯一の防御方法だったわけですね。ま、非常に苦しい時間かせぎですな。(1)

(宜野湾)そこで私は抗議したんです。歩哨して立っていて、もしアメリカ軍がきたら、どうするつもりか、と。こっちは任務だからそのときは撃たにやならんというんです。あんたらが弾一発でも撃ったらこれだけの人たちは全部死なしてしまうが、この歩哨はぜんぶ引き揚げてくれんか、と私がいうたら、そうはいかないこっちは隊長の命令だからいうてききません。(3)

(宜野湾)昨日は友軍の兵隊がきて、お前たちは邪魔だから一列に並べ、銃殺してやると、言っていたよと話するもんだから、私はそうだったら私らの壕に入ったらいいと誘ったわけです。(3)

(中城)その陣地一帯へ向かって敵の砲火は雨霰と打ち込まれているわけです。ところが、その陣地へ、モンペ姿で弾薬を背負った女子挺身隊が各個躍進して行くんですね。それは、われわれの壕からよく見える、わが沖縄の若い乙女たちの挺身隊です。その陣地へ辿りついて行くさまを見て、おのずから頭が下り涙が不覚にも出ましたね。それは、兵隊の後について、兵隊同様全然足の鈍ることもなく、女子挺身隊は、こうも活躍しているのかと、すっかり感泣させられました。(1)

(中城)供出で特別なのは航空隊への物でした。野菜も一番いいもの、それに里芋みたいな特種なもの鶏など、特にいいものということでですな。(3)

(中城)その時兵隊たちからよく聞かされたことは、君たちは君たち自分の郷土を防衛するのだからどんなことでもやるべきだ、と言われるのでした。これは絶えず兵隊たちに聞かされる言葉でした。(3)

(中城)二重割り当てで来る場合も多くありました。役場から来るんですが、現在行っているのに、また何部隊に行けと人間一人が二か所へ行かねばならないような指令もあったんですよ。(3)

(中城)山の泥土止め工事を予定して、その材料を部落に船一隻分運んであったんです。運搬貸共に二百六十円分でした。ところがそれを部隊が全部取り上げて、バラ線を張るために、運んで行ったんです。それで部落は金を出して損したわけですね。(3)

(中城)三月の何日だったか、日時は記憶していませんが、西原から御真影を奉戴して、羽地村(北部西海岸)の稲嶺へ行きました。それは、県下の小学校の御真影を稲嶺小学校に集めることになって、その護衛隊長は、琉球海運株式会社の社長で先頃亡くなった渡嘉敷真睦さんですよ。(5)

(中城)御真影は額縁に入っていたが、大正天皇のもあったですね。それを奉戴するには必ずフロックコートかモーニングをつけて、白手袋をはめねばならない。(5)

(中城)そうしたら、その新校舎に、児童は一日も入って勉強しないで兵隊が入ってしまった。(5)
(中城)そうしたら隊長はこっちには泊らない、女を二人連れているので、これもここにいるんですかと訊いたら、いや、それは遊びに来ておるんですよといって、小那覇へ行って民家にいましたよ。女は沖縄のもので多分那覇あたり、辻の女ではなかったですかね。(5)

(中城)それから五年以上の児童はですね、部隊の兵舎作りの協力です。運玉岳の方へ出かけての茅苅り作業です。授業はやりません。先生もいっしよに、あの一帯の草をあるったけ苅って、兵舎作りをしました。それで、その作業の金が五千円になったんです(5)

(中城)魚の供出がある。豚の供出がある。ご馳走があるんですが、これは下士官以上の人が全部食べるんですね。そうして兵隊は、塩とご飯だけをくれていましたよ。(5)
(中城)それから沖縄の避難民ですね、兵隊が、おい、お前たちは戦争の邪魔になるからあっち下れといって、人の壕を盗んで、これは沖縄人兵隊ではないんですよ。壕から避難民を追いたした上に、米でも持っていると奪い取って、これだけしかないから持たして下さいといったら、お前たちは国賊だ、芋を食へ、といって壕を盗んで追い出しておったんです。(9)

(中城)この連中は、看護婦といっても未教育ですし、階級もないから、患者たちは、おい、膿器持って来い、便器持って来い、といった横柄な態度でしょう。そうして、それでお前たちは沖縄の看護婦か、といわれて、ひめゆり部隊、非常に軽蔑されておったです(9)

(中城)それで僕たちが兵隊といっしよになりたがるということは、とにかく御飯が食べられること、それから供出した豚肉とか山羊肉ですね、あれがいっしょに食べられるということでした。それで壕に行ったらやっぱり芋でしょう。芋とか、お砂糖とか澱粉なんか水に溶かして食べるんですからね。(11)

(中城)五月の初旬だと思うんですが、津堅の住民が、安慶田の方に六十名くらい来て、大きいうちに入ってですね、お産するのに夜ちょっと明りを漏らしたために、日本の連隊砲ですか、それが飛んで来て、三十名くらい死んで、十名くらい怪我して、コザに収容されたが、ワアワア泣いていました。(11)

(中城)兵隊の壕へ入った時、兵隊から、食糧もないのだから、兵隊の仕事を加勢するなら一日二日は泊めてやるといわれたので、言いつけられて兵隊に仕事をさせられましたが、三日目になったら、大勢だから出て行けといって追い出されました(12)

(中城)そうして仁徳先生は、わたくしと、兄さんの長男の嫁とに、お前たちは防衛隊の手伝いをしなさい、兵隊の手伝いをしたら、たとえ死んでも靖国神社に祭られると言われたので、それでは、どこかで死ぬより兵隊の手伝いをして、死んでしまったら靖国神社に祭られて、天皇陛下におじぎされることにしようねといって、防衛隊の手伝いをしました(12)

(中城)具志頭村の新城といっ友軍から、鍋を貸せといわれたことがあった。貸せというのは取り上げることで、返すのではないので、いやだといった。そうしたら、お前たちのためにわたしたちは第一線で戦争に出たのに、鍋を貸さないのか、といって小銃を向けられたことがあったよ。(12)

(中城)小さい子供を三人つれているので、これが泣く時に、いくさの邪魔になるから子供は捨てろと友軍の兵隊にいわれれこともあったからね鉄砲を向けた兵隊は上等兵のようであったが、三人づれで、お前一人くらい殺してもわしは罪にはならない、といって撃つという(12)

(中城)この兵隊は隊長が来てから叱られていましたよ。この民間の人たちも今は第一線になっているんだ。一般の人にこんなことはしていけないといって叱られましたょ。(12)

(中城)軍から、女子青年を集めて下さいと言われましたから、和宇慶から七名、南浜からも四名集めて、それで今の崎原小というところに部隊がありまして、そこに十五日ぐらい、兵隊の炊事をしていましたが(13)

(中城)それからやはり同じ西原村の幸地に行きまして、三名ずつ別れて壕に入っていたんです。そうしたら馬を持った兵隊がいたんです。それでこの兵隊から「あなた方、何か加勢ができたらやって見ませんかといわれて、運玉(西原村、与那原町、首里、南風原の四町村に挟まれた岳)から、爆弾を運ぶことになりました。
 それは十キロ爆弾ですが、それを各おの背負って、必ず一人びとり縦に一列になって歩きなさいよといわれたものですから、その通りにして、二晩、幸地へ運びました。(14)

(中城)そうしたら兵隊さんたち五、六名の靴音がしたんです。それで彼等はこの新しい壕を目がけて、入って来ましてね、「出れ」、「すぐ出て行け」、来ると最初から怒鳴りつけて威嚇するんです。「こっちは軍が必要だから早く出て行け」そういうのでわたしはお願いしたわけです。「まあ、せっかく命をしのぐためにずっと中頭の方からこっちへ来て、今日完成して今入ったばかりですから、兵隊さんは、どこでも壕はさがすことができましょうから、これだけはまあ見逃がして下さい」とお願いしましたが、「お前は言うことを諾かないなら引っ張り出して牛馬のように使うようにするぞ」とますます威嚇がひどいんですね、それで仕方ないからわたしも考えて、兵隊と争っても仕方がないから出ることにした。そうしたら今度は、道具も、敷き物も全部そのまま置いて行け、というんです。それでわたしも、心を強くして、「これだけは決してできません」と口答えやりながら、道具をまとめて、束ねてしまってね、夜だから一人ひとり出して…。(15)

(中城)こっちもまた立ち退けということになったんです。警官みたいなのがいて、早くどこかに行けと強く繰り返して言うので、逆に具志頭村同字を越して港川方面へ向かって通ったんですよ。(15)

(中城)こっちもまた立ち退けということになったんです。警官みたいなのがいて、早くどこかに行けと強く繰り返して言うので、逆に具志頭村同字を越して港川方面へ向かって通ったんですよまたそこも追われました。こんなのにおったって危いのでいけないから、どこかに行けと、警官みたいなのに言われて、真栄平に行くことにしました。(15)

(中城)誰か避難民が兵隊に告げたんでしょうね、後から肩をたたかれて、後を向いて見たら、友軍の兵隊です。敵の監視艇はすぐ近くに浮いているので、それに見つかったら危いと思って岩影から隠れて逃げるところだったんですかね、隊長は少尉だったですが、こっち来いといって、兵隊のところへ連れられて行って、「坐れ」厳しい声の命令です。…兵隊さんといっしょにここで死ぬのは、わたしは本望です、そうしたらどこにも行きません」そう言ったら、「そんなわけにはいかない、わかったから、あなたたちの好きなようにやったらいい」といって許されたんです。(15)

(中城)トシ子たちがギーザバンタに下る途中だったそうですが、兵隊が、十ニ、三になる子供が担いでいる食糧を全部奪い取って、ギーザバンタで煮てくれてあったそうです。それでトシ子は、自分の弟たちもこんなに奪い取られて腹を空かしているのだろうなと思って、兵隊たちのくれてあるものを、「わたしは今日はおなかの具合が悪いので食べたくありません」といったら、「この子は執念深いょ、奪ったものだというので食べないんだよ」というので、「そうではありません、胃が痛くて食べないので、後で食べるから、わたしの分は置いといて下さい」といっているところへ、リュウさんが来たそうです。一日に一回しか食べ物はないですから、非常にひもじくはあったが、おかあさんが生きているということを聞いて、それではみんな生きているだろうと思って、食べる気になって、少し手で取って口に入れたそうですが、どうしても喉から落とそうとしたが、あの子供から奪い取ったものが、自分の兄弟たちが持っていたのを奪い取ったような気持ちになって、この兵隊たちといっしょにおる間は、食い物は欲しくなかったそうです。(16)

(中城)友軍の兵隊が、靴下に米をいっぱい入れて持っていましたよ。そうして「おばさんは、これ貰うか」といいましたので、「兵隊さんがくれるんでしたら頂きます」と言ったんです。そうしたら、「これをお前たちにくれると捕虜されるかしれないのでお前たちにはくれられない」といって、それを剣で切ってそこにバラ撒きました。(16)

(中城)そこで一つの変ったことは、敗残兵がおるんですよ。鉄砲をかついだのもおるし、かつがないのもおる。避難民のいるところを往復するんですよ。何か食い物をねらってですね、区長をさがして、何を供出しろといって強制するんです。当時の汀間の区長は、非常に困ったんです。集めてやらねば、やるぞと鉄砲を向けて脅迫もする、結局集めてくれてやらなければならなかったんですね。(5)

(中城)その千人壕からちょっと離れたところに、壕がありまして、その壕に移りました。そこには民間も友軍もごっちゃになっていましたが、この壕も大きくて何百人も入れるので、ずいぶん大勢の人がいました。四つか五つになっていたかもしれませんが、男の子がおりました。その子は親がいないといって泣きました。それで兵隊たちが中の方に入って行ってやったんです。、これは大きいから死なないんだ、もう少し細いのをといって、その三角布を引きさいて細くして、またしめ殺しました。(14)

(浦)それからですね、みんな兵隊は急造爆雷を持っているもんだから、私は防衛隊で爆雷は使用できないと、拒否したんです。しかし、運ぶだけだから運べというので、持って行ったんですよ、城間の裏の方へ。四月六日の夜ですよ。(1)

(浦)国場に行ったら、西から来たものはスパイだから殺せという命令があったということで、兵隊が私をおどしたので、私はハチャー(度胸のある人間)ですから、あなたがただけが沖縄のために戦っているか、私も沖縄のために命がけでしてきたんだ、兵隊の飛行場を作ったり避難壕を掘ったり、アメリカ兵がどこまで来ていること等を友軍に伝えたりしてきたもんだ、私はとてもスパイじゃない。(2)

(浦)それで四月下旬に、南風原から豊見城へ行ったらですね晩に保栄茂という字につきましたらねその壕はですね、暁部隊が作った壕だというて、そこは完全だからそこに避難している間に戦は勝つからというてですね。そんなふうに紹介されて、入ったんですが、翌日、山部隊の兵隊さんがきて、ここはまたも暁部隊がきて使うから、あんたたちはむこう側の壕に行きなさいと出されたんですよ。(3)

(浦)こっちは危いから、どうせ死ぬなら、ということで、みんな自分の部落に帰るつもりで出て、糸満に向ったんです。糸満についたら、山の上から友軍が弾を撃ってですね、私たちが敵の方へ向って行くからといって、私たちを攻撃していました。(3)

(浦)その子は喉のところを一寸びくぴくさせて、急にぐったりなって動かないんですよね。なんだかこの子は変ですよ、とみんなに言ってから、名前を何度も呼ぶんだけど、泣きも返事もしないんですよ。藤子さん、うちの子供はどうしたんですかね、返辞もしないが…と言ってからすぐ、そこにいる誰かが殺したんじゃないかと思いました。うちの子供を誰が殺したんですかと、私はもう怒ってですね。私が大声で怒鳴ったら、勘弁して下さい、誰が殺したか判らないし、もう仕方がないことだから、と早川中尉さんが言うんですよね。早川中尉さんは、勘弁して下さい、その子があんまり泣くもんだから、誰がやったか判らないんだから、と言っていました。最初から計画してたんじゃなかったかね、と後
で思いました。(4)

(浦)玉城村の船越の方に行き、そこの壕に入っていました。そこは雨が降ると水が中へ流れこんでくるもんだから、そこから出て、また別の壕に入りました。十四、五名一緒でした。
 そこへ日本軍の将校がきて、男はみんな軍に協力せよと命令をくだし、私も出されました。そして私たちは、命令通りに米俵を二名で担いで、前川の壕に運びました。半里ぐらいの距離を三回運びましたが、…。(11)

(浦)高良の方では、同じ日本人同士が、鉄カブトのことから殺し合いをしていました。その兵隊たちの言い分では、貴様球部隊の野郎が何ができるか、こんどの戦争では石部隊がやっているんだと、いうことでした。(13)

(浦)ちょうど朝鮮人の軍夫が五名、フンドシ一本になって、とつぜん海に向かって駈けていました。すると僕の隣にいた兵隊が、この野郎!と言って、朝鮮人の一人を波打際で撃ち殺してしまいました。あとの四名は泳いで船に向かって行きました。(13)

(浦)罐詰をあけて食べてみせました。アメリカ兵たちは揃ってぼくたちの前で食べてみせたんですよ。ちょうどそのときに、真壁の部落あたりから日本兵がちょっとの間こっちに弾を撃ちこんだんです。(14)

(西原)名城ビーチのある部落ですな、あそこで壕をさがしてちょっと入っておったんですが、あの当時、うちの娘もつれておったんですよ。その娘が四十度ぐらいの熱を出しておったんです。それで四十度の熱は非常に苦しい熱だったんですが、そういう時に、軍から追い出されてしまったんです。これが原因で娘が死んだわけです。(3)

(西原)具志頭村の有力者でしたか、壕を廻って、戦争協力者を強制的に集めていましたが、わたしは、それに引っ張り出されました。(5)
(西原)それからまた先に行きますと、そこは何というところかわかりませんが、兵隊たちがいましてね、こっちからウロウロしていると射殺してやるぞ、と言われましたので、驚きまして、当てなしに歩きました。(7)

(西原)兵隊は大刀も捨てて、軍服も捨てて、死んだ人の着物をさがし当てて着ていましたのか、着物を着ましてね、わたしたちについて歩いていました。それで、「お前がこんなにしてわたしたちについていると、わたしたちも大変だから、離れて歩きなさい」といったんですが、くっついて離れませんでした。それで、「わたしも穴を掘ってやる」といっておりました。そうして交代でこれも穴を掘っていました。(11)

(西原)四月二十三日、十七、八までの子供たちは弾薬運びの手伝いをしていましたが、これ等の子供たちが、各自帰されました。戦争は一週間で終るから、家族といっしょになって、島尻へ下って置けと言いつけられておるから島尻へ下るようにせよと、子供たちが連絡に来ました。(14)

(西原)そうしてわたしが歩き廻っている時に、友軍の兵隊に引っ掴まえられて「スパイ」であるといって、やられたんですが……。 (14)

(西原)自分の家の木の下に防空壕があって、綺麗に掃除もしてありましたが、危いと思って妻子をそこに入れておきました。そこへ越来村の人、読谷村の人も来ましたので入れてやりました。
 そうしていたら、島尻から、球部隊の兵隊がやって来ました。それで、隊長でしようね、日本刀をさげていましたから、指揮しているのであったでしようが、「お前たちは、この壕から出ろ」といいました。出れと言われましたので、「わたしたちは子供もこんなにいるんですから、壕は沢山ありますから外に考えて下さい」といったんですね。そうしたら「君たちはみんな死んでもいい、兵隊は一人でも死んだらどうするか、君たちの戦争ではないか、きかなければ殺すぞ」といって、日本刀を抜いてわたしを殺そうと構えていたんですょ。それで、「ああ、そうですか」といって、わたしたちはみんな出ました。その分隊長は、今までとは打って変って、煙草を二個やっただけで、すっかり喜んで、「君たちはこれに入っていなさい」といいました。わたしは「有難うございます」と答えて御礼をいいましたが。(14)

(西原)銘苅(屋号か)の前の道に、髪を長く生やした狂人がいました。この狂人は狂人だとみんなが知っていましたが、その前の道に、黒で筆太に、「スパイの疑い」といって紙に書いて、石で被うてありました。これは友軍がやった筈です。(14)

(西原)晩方でしたが、牛島中将閣下方が通って行きました。牛島中将閣下や幕僚たちは前になって、それにつづいて女学生たちが、防空頭布を被って、甘蔗で杖をついて、布呂敷包を肩から斜めにかけて、一列並びで、大体一間離れの程度の距離をとって、移動して行かれました。わたしは今考えると、葬式みたいで、司令部の人たちには一人も物を言う人はなくて、みんな頭を下げて行きました。(14)

(西原)そこへ行く途中の首里の汀良では、友軍の兵隊が、大砲をかざりつけて(据えつけること)太陽が沈んで日が暮れて夜になってから弾を打ちます。昼やると、アメリカーに艦砲落されるから昼はやらない、夜に撃っていました。(16)

(西原)わたしは残されてしまって、それでどこへ行ったらいいかわかりませんで、一晩は通信隊のところにいました。そこで、「あなたはスパイであるから撃つ」といって、銃も構えていたけれども、わたしはこんなこんなにして、孫たちに置き残されて、自分一人こんなにして歩いているのですから助けて下さい、と頼みました。
 それでも兵隊は、「あなたは殺す」といって、銃を向けたんです。「そこは民の人が入れるところではない」、というもんですから、わたしはどこからどこへ歩いて来て今までは兵隊さんのお手伝いもしたけれど、こんなにしていっときのあやまちで、道もわからないで、捨てられておるのですから、助けて下さい、といったら、それではあなたは兵隊は誰だれを知っておるか、といいます。わたしは、工兵隊の金木少佐もよく知っております。牛島中将もわたしたちの家にお見えになって、正月に別れの会もされて、工兵隊の兵隊さんたちはほとんどみんな知っております、といったら、やっとわかってくれて、そんなら連れていってやるといって……。(21)

(西原)十七歳でありましたが召集令状が来たもんですから、わたしは、こんなに若いのに召集令状が来るのかと思って、ききただして見ましたら村に二名しか来てないということでありました。そうして令状は周りに赤い線が二つ通っていました。真赤ではなくて、赤い線が二つでした。(23)

(西原)ある日、一人の防衛隊が、わたしの寝台に足をぶらさげて腰を下して、「今日、この壕におる連中は、みんな水を飲まして、劇薬を飲ますということで、そこで待機しているように命じられている」というので、わたしは、まずこの防衛隊がどこの者か訊いて見ました。首里、石嶺の喜屋武というものだという。(26)

(西原) わたしたちは、一番後になっていたわけです。そうしたら、友軍の兵隊が、大刀を抜いたりして、「お前たちはスパイなのか、今までここをうろついて歩いているが、ぐずぐずしているとゆるさんぞ」と大変なけんまくでありました。それで、よく標準語ができませんから、方言で、今までいたのは悪うございましたからお許し下さい、と何度も頭を下げて許して貰ったりしました。(27)

(西原)そこへ来てから一週間ばかりたってからでした。この世名城の区長さんという方が、うちのお父さんを防衛隊として連れ出しました。うちのお父さんはわたしと二つ違いで、まだ三十四歳で、若かったもんですから、防衛隊に取られたわけです。これは、世名城の区長さんが廻ってはいましたが、近くの軍からの命令で、区長さんは、壕をあちこち廻ったり、人の家にいる避難民から若い人を見つけて、人を集めなければいけないように、命令されてやっていたんだそうであります。(27)

(西原)そうしましたら高嶺の班長さんでありましたか区長さんでありましたか、こっちへみんな来いといいまして、高嶺村の山の上の山部隊の壕の方へ呼んでくれました。一晩は、兵隊の壕の下に長屋がありまして、そこに泊りました。上の壕は兵隊さんは戦地へ出てガラガラになっている壕でありましたが、そこへ入り込ましてくれました。そこは安全なところだといって、三十何日ですか、四十日近く暮らしていました。うちの長女と次女ともう一人、三人が五十人余りの数の代表として、軍のいろいろの裁縫などの作業に毎日出ていました。この作業に出るなら壕に入れて置くという相談でもありました。弾を馬車に運ぶという作業がありまして、わたしも若い娘等と頭にのっけて、馬車へ弾丸運びしました。そうしましたら、高嶺村の山部隊の兵隊さんが、今、西原から戦争をすまして、交代になって帰って来るからというので、出て行け、といいましたから、「はい」といって、……。(30)

(西原)そうして入っていたら、今度は、この山の中へ兵隊さんが一人入って来て、「どうですね、おばさん」といいましたから、「山の中は飛行機も通らないので安全ですよ兵隊さん」といいましたら「ああ、そうか」といって、ちょっとおらなくなったと思ったら、大勢の兵隊が出て来て、「お前等は出て行け、お前等はここにいてはいけない」というので、兵隊は大変恐いのでありますから、「ああ、そうですか」といって出て行ったら……。(30)

(西原)軍からの命令でありましたでしようね、区長さんが、防衛隊へ取る若い人を捜し廻っていましたが、わたしの次男も取られました。わたしへも、あなたは幾つですか、と訊きましたが、わたしは、五十を越します、といったので、それでは、あなたはいいでしようということになって、防衛隊には取られずにのがれました。(31)

(西原)空から飛行機が飛んでいる爆音が聞こえたもんですから、友軍の兵隊が、その音の方へ向けて、一発ぶっ放したんですよ。そうしたら、電波探知機で聞いたんでしようね、友軍の兵隊が一発撃ったかと思うと、もうすぐその銃声を目がけて、集中して弾が落ちました。それで、わたしの子供も、その時、七歳でしたがね、四女が肋骨を破片でやられたんですよ。わたしが抱いておったら助かりおったんですがね、ちょっとわたしが離れておる時にやられたんですよ。前におる幸地の方がたは、ごはんを炊いていたんですが、全部やられましたよ。(31)

(西原)安室さんの話では、志願防衛隊は、北谷浜へ行ったそうですな、第一線中の第一線ですよ。「北谷浜へ行ったんだが君、弾のはめ方もわからない連中といっしょだ、それじゃあ、いくさにならん、と、わたしは腹が痛いもんだから帰って来た」、「いや君、行く必要がない、こんないくさはないよ」、「そうですかなあ」とわたしは思い切れんわけですよ。(35)

(西原)中に入っている将校が、その青年たちが来ていることがわかったもんですから、僕に命令が下ったんです。「その青年から四、五名、屈強の者を選べ」というんですよね。自分たちが、おんぶされて逃げる考えですよ。もうそこもおれなくなっているんですからね。それで僕は、「ン、トウナー、イッターデージナトウーサ、イッターヒンギトゥーカンネー、ヂヤーヘ、イッター、ヘークナーヒンギレーヒンギレー」(もう、お前たちは大変なことになっておるぞ、お前たち逃げていなくては、困る、お前たち、早く逃げろ、逃げろ)。「アンセー、ヒンギレー、ウンジョゥーチャースガ」(それでは逃げたらあなたはどうしますか)。「いや、僕は仕方がない、大丈夫だからにげなさい。見ておってもこの将校たちは手榴弾など投げるはずはないから早く逃げなさい」と方言で言うた。それからすぐ逃げた。(35)

(西原)待避命令ですよ。その少年は、もう一人の少年と二人でかつぐようにしてつれて行ったら、大きな壕があってね、壕のところに行ったら入れんですね、壕には。ここは兵隊だけが入っていた。入口でみんな検査をする。どこを怪我しているかと検査して、怪我してないものは入れんですよ。一人は怪我しているので入れてくれたが、僕と四人の少年は、どうしても入れてくれない。そのうちに、壕の中に入った少年が、僕の名前を呼ぶんですよ。あれはたしかに死ぬ間際であった。「何か言いたいのだろうから会わしてくれ」と頼んだが、「きくのはいくらでも中におる、強いて君がきく必要はない」とどうしても入れてくれなかったんですよ。(35)

(西原)前川行ったらまあ、弾は弾で激しくて、雨も一日中降ります。けれどね、弾はとても激しいんですが、兵隊さんが、「早く出なさい、早く出なさい、出ないと殺すよ、手榴弾で殺すよ」といって、壕を追い出していました。(36)

(西原)そこの班長が、具志頭村の新城の方でしたが、「元気のある方は、友軍の食糧運搬に行きませんか」と呼びかけました。友軍に協力すると、二升ぐらいずつのお米の配給があるということでしたので、わたしもそれに応じて行きました。(39)

(西原)そうしたら、そこにいる兵隊たちは.「お前たちは民間人だから、殺さないだろう出て行く方がいいよ」というのもおれば、出て行こうとするものを手榴弾で殺そうとする兵隊もおるし、何が何やらわからない。(40)

(西原)若い者では足りないもんだから、補助労務というて、女も男も軍が命令する。これを補助労務といって出来るだけの仕事をさせた。雑役からいろいろの軍の必要な労務はこの補助労務者がしました。(43)

(西原)あの時の徴用のやり方は、役所からの命令で、三週間を徴用やって軍に協力、あと残りは家に帰せと言われておりましたんです。しかし実際のところは、まだ徴用から帰って来ない本人に、また徴用令状が入って来てからに、令状渡すにも家族に頼んで置いて、またその日になったら、徴用に行くようにということ、明日はあなたの番だから、どこへ行きなさいということを、夜にかけても廻って言うておりますが、たまには二、三日も徴用から帰って来ない、行っている徴用先から帰さないので、家にいないで、期限を遅らすこともあったんです。(44)

(西原)供出は、西原に石部隊、与那原には武部隊がおりまして、両方に供出させられておったんです。その時に、かち合った場合は、どうせ品物が命令通り沢山はありませんから、両方に分けてやろうというふうにやったら、軍は大変きびしくて、石部隊の方では、お前らは西原の村だからこっちにやるべきだという。また武部隊から来たら、我謝の上の線から□□□の上、福地丘の線へかけて、こっちは武部隊の区域だから武部隊にやるべきだといって、両方からそんなにしてやっておりました。(44)

(西原)ここの供出の主なるものは芋と竹、縄、野菜などが命じられておったんですが、あっちも取り、こっちも取るというふうになって、こっちでは、供出というのは名ばかりであって、ほぼ脅迫同様な扱い方をされておりました。取りに来た上等兵が二十四名の徴用者を引率をして来ていました。そうして「お前等は何をいうか、戦さはここ来ているのに、そんなことでたまるか」とう。供出は一度だけではいけない、今一度に全部を取ったら後の供出に困るからといったら、この上等兵がナタを持って来てわたしの鼻を打って、鼻血を出したんです。(44)

(西原)兵隊のところに、松の木を背中に抱いて縛られている人がおりました。なぜあの人は、縛られているかなあ、と水汲みに出る時に訊いたら、兵隊が言うのに、スパイであるといってからに、捕えて来ているという話だよ、という話を聞いたんです。(44)

(西原)令状の時間に遅れないようにして行きましたら、兵隊からえらい剣幕で怒鳴られたんです、「遅刻生」といって。令状は昨日しか来ない、今日の七時集合といってあるのでその通りに来ましたといったら、「皆は六日に来ているのに君等は遅刻生だ」といってですね、理屈も何もありません、怒り散らされて、「遅刻生」を連発して叱られましたが、わたしと同じように令状通り行ったのは四名で、みんなは一日前に行っていました。(46)

(西原)こっちにいた時、義勇隊といってですよ、憲兵か何かわからないが、腕章を腕に巻いて、そこの青年団といっしょになって、壕にいる若い者をみんな引っ張って行くんですよ。(46)

(西原)わたしたちの入っていた壕は、与那原に宮城自動車といって、バスの会社がありまして、そこが作らしてある頑丈な壕でありましたが、兵隊さんが、「あなたたちは糸満にある壕に行きなさい」といって証明を下さったんですね。弾薬を乗せて来た荷馬車がありましたので、「年寄りと子供はこれに乗せて行きなさい」と兵隊さんが親切にいいました。(49)

(西原)友軍の兵隊は全部後方に下って一人もいませんでした。その時に、友軍の兵隊が、こっちにカンパンもあるから皆さんは、こっちからどこにも行かないで、生きられるだけ生きておきなさい、わたしたちは下らなければならない義務だから、下るんだからね、どこ行っても同じだ、お味噌なんかもある、これなども食べてどこにも行かないでねおばさん、という親切な兵隊さんがいらっしゃったですわね。(49)

(西原)四月三十日、自分の壕であったが、兵隊に追い出された。島尻から兵隊(友軍)がやって来たから、「ここは隣組の壕であるから、そこへいさせてくれよ」といったがきかないんだね、「お前たちが戦さをするのか」といって追い出された。(51)

(西原)首里に軍の被服集積場がありましてね、そこが焼けたもんだから、そこから毛布一枚取って持って歩いておったんですょ。そうしたら新城でそれを憲兵に見つかってですね、軍の物を取ったのは軍法会議に廻るんだと、酷い文句だったですね、住所氏名も言いなさいといって。しかしその場合にですね、軍服がそう言わすのか、人そのものがそう言わすのか、もしあの人の家族が居ったら、僕にやったあのような態度をするであろうか。ここで僕は人間の心理状態というのが、わからなくなった。沖縄の人を馬鹿にしているのか、毛布一枚で夜露をしのぐとか雨をしのぐとかして逃げ迷っているのに、そういう言葉が出るのか、友軍というのに、とつくづく感じましたね。(50)

(2)「県史10巻」から
(那)それでちょうどその頃だな、戦艦大和がやられたのは。それで情報が首里署を通してわたしの耳に入って来たんです。ところが事実は反対だね、大和がやられたのではなく、大和がやったという話。全くかえた情報を僕に言わしたんです。だから後しばらくの我慢だと。いわばわたしも戦犯ですね、わたしもやられたということは全然知らなかった。それで僕も情勢がわからんもんだから、それをそのままみんなに話して聞かした。四月二十七日頃ではなかったかな宜野湾、浦添戦線から撤退して来た日本軍がそこを占領した。一般民は出て行け、と命令してですよね。それから兵隊が入って来た。
 しかしどうしたのかわたしの家族だけ残された。先生はいっしょにここで残って下さい、というんです。それでも足腰も立たんぐらいふらふらしているもんだから、もう使えないと思ったんだろうな、先生も出て行っていいですよ、となったんです。それでわたしは壕から出て行ったんです。(8)

(那)その頃ですよ、山部隊長の名義でね、公示されていた。石垣とか民家の壁にね、玉城村とか、佐敷村、あっちへ立ち退きせよ、あの辺は安全だからとね。後で聞いた話だが、玉城、佐敷近ペんでは、真壁近ペんに移動せよ、向こうは安全だからと。ちぐはぐなもんだでね、途中でその連中が行きおうて、右往左往しておったそうです。(8)

(那)この壕に来たのは夜の八〜九時頃だったと思いますが、日本兵がやって来て「この壕に入っている者は全部出て来い」と云った。父が「ハイ」といって出てみるとピストルを持ったまだ若い日本兵が「弾をはこべ」と命令した。…父に「あの子もだせ」といったが、父が「あの女達は病気で絶対動かせない」といった。私はむくんだ足を兵隊に見せたら「これは駄目だ」と云われて助かった。(3)

(那)父はもう一人の人と二名でもっこに弾を入れ、識名の方までその後二週間も弾薬運搬を強制されました。(3)

(那)友軍の兵隊が小銃をうっていたのです民間人がゴソゴソするので自分達がみつかるのを恐れてか米兵にではなく同じ日本人めがけてうっていたのです。その弾が父の顔をかすめてけがをしました。すると近くで赤ちゃんの泣き声がしてそこにも日本兵の弾がうちこまれ殺されました。この場所では“捕虜”になる一週間前に日本兵が同じグループの日本兵に殺されるのを見ました。「おまえ達どうせ助からないから出て行け」と云う事でその内の三名がフンドシ姿に銃砲をかついで海に歩いて行ったのです。海に身体がつかったと思ったとたん岸に残っていた兵隊によって撃ち殺されました(3)

(那)そこには先程から小銃で同僚の兵隊や沖縄の住民をうち殺していた日本兵が銃を捨て白い手ぬぐいを持ってそこに立っているではありませんか。(3)

(那)日本の敗戦が濃くなってきたとき、伊江島の守備についていた九州出身の日本兵の間に、「日本が敗けたのは、沖縄県民の中に米軍のスパイがいたからだ!」という噂が流れていました。四月十四、五日頃、ある日住民と日本兵が同じ防空壕に避難していたとき、二世の米兵が「もう戦争は終わった。ここには食べ物がたくさんある。早く出て来い」と壕の入口で呼びかけていました。その時、外に出て行こうとした婦人を本土出身の日本兵が射殺してしまいました。私達沖縄出身の兵隊は怒って「民間人と軍人とは別じゃないか!あくまで、民間人をスパイ容疑で虐殺するなら、私達は、お前達を殺すぞ!」と言って、本土出身の兵士と沖縄出身の兵士が、銑を構えて対立しました。(4)

(那)当時は軍に協力しない者は「非国民」と云われ人に後指をさされる時代でもあり皆いろいろの形で協力したものです。まず食糧では無理をして切り干しいもを供出しました。供出する事によって特配区域になれるというので、喜こんで出したのですが、結果は切り干しいもが出せる位も食糧があるのなら農家だと云われ、配給がストップされました(6)(那)年も若く、云いたい事ははっきりいう性格だったので、デパートの店員をしていて話し上手な人、学校の成績がいつも一番だった人と一緒になって三人で友軍の兵隊につっかかっていっては、やっつけていましたが、又親しくもなりました。(6)

(那)下っている間でも友軍の兵隊さんに親切にされたり、優しい言葉をかけられたりすると、いつも壕をおい出しに来るにくらしい兵隊でも個人、個人は案外優しい人も多いのかもしれないと思いました。そんな兵隊さんも集団になったり又軍の命令をおしつけてくる時には私達にはとてもおそろしい人間にみえるのです。(6)

(那)具志頭にきて、そこでは具志頭郵便局の壕に入りました。こっちでも二〜三日位入っていたと思ったら友軍の兵隊が来て「日本が勝つためには皆さんに協力願わねば」とその壕のあけわたしを云われました。(6)

(沖)ところが、中山という部隊長は、サイドカー付きオートバイに乗ってきては、漁業組合長の父にむかって「海が荒れていても、さかなはいるから取ってこい。一日の供出量は決められている。それには絶対服従だ。住民は食わんでもいいんだ。兵隊が食わなかったらどうなるんだ」ということをいつも云っていた。(1)

(沖) 村では各戸割当てで農作物の供出をしているのに、部隊独自で部落から資材などを強要した揚句、全くその代金を支払わないということもありました。(2)

(沖)空襲が続いてくる時にも区長を脅かして供出を迫るので、空襲のあい間にとり入れた農作物を供出しても、さらにその夜にも供出のために畑に出なければならないという程、友軍の態度は大変なものでした。(2)

(沖)友軍の横暴さに抵抗して、その時の区長はやめてしまったら報復的にすぐに徴用されてしまい、配置先で結局戦死してしまいました。(2)

(沖)友軍の地区部隊のある会議に私達の部落に駐屯している武田隊長に連れられて参加した時、そこでは「敵軍を上陸させておいて一か所に追いつめて全滅させるのだ」と我々区長連中に話してきかせていました。(2)

(沖)友軍の兵隊が夜中家にやってきて「明日の夜、斬込みをするから夜中の十二時に食事を用意しておけ」と云い残して山奥の方へ消え去りました。また彼等が斬込みした翌日は大変でした。アメリカ兵が大勢出て、畑や附近の山をしらみつぶしに捜し回わるし、私達も尋問されて非常にこわかったです。(2)

(沖)友軍は日頃は非常に節約しているようでした。カズラの葉っぱやその茎で食べているようでした。それでいつも腹をすかしている様子で、上官の目を盗んでは、それぞれの民家にあがり込んできて「何か食わせろ」といって食べて行きました。(3)

(沖)食事時間をみはからってやってくる兵隊に全部食べられてしまい本当にいやでしたが、……。(3)
(沖)みんなは声をひそめていると私達のいる屋敷へ入り込んできました。私達が見ているのも気がつかずに、その家にそっとしのびこんでいきました。そこには十六歳になる娘ざかりの子がいたので、その子のつもりだったのでしょう。いきなり寝ているのを抱きかかえるようにして外へ飛び出してきたが、それがなんとおばあさんでした。おばあさんは肝をつぶして大声をあげ、私達もそこへ姿をみせたので、あわてて逃げていきましたが、その兵隊は上官でした。この兵隊は後では私達の物笑いの種になっていました。(5)

(本)暁部隊(船舶隊)が駐屯していたので、村に着くとすぐに部隊へ行って治療をお願いしたのだが、簡単な消毒を施しただけで、薬がないからもう来るな、と言われた。来るなと言われたって、こちらは重傷患者を放って置くわけにはいかなかった。それで翌日もまた行ってみたが、来るなと言ったのになぜ連れて来た……。(6)

(沖)二五歳までの女性は「処女会」に入会しなければならず私はすでに結婚はしていたけれど「処女会」に入っておりました。そして処女会長が上からの命令を受けると、私達に明日はどこそこに奉仕作業があるから出るようにと連絡しておりました。(6)

(本)兵隊たちのための慰安所もちゃんとあったし、将校はまた将校専用の慰安所に通うといったありさまで、閑静な伊豆味の村が、すっかり殺伐たる兵隊の町に変貌を遂げてしまっていた。慰安婦たちは殆んど那覇の辻遊廓から連れて来られたジュリグヮ(遊女)たちであった。(15)

(本)渡久地には数十人の朝鮮人軍夫が来ていて軍夫たちは、ごく些細なことでもなんくせをつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景、一、二分でも作業に遅れると、それこそ半殺しの目に会うのであった。(15)

(本)そしてついに彼等は、「あなた方はアメリカよりも友軍のほうが恐いんだろう」とさえ言い出す始末であった。(17)
(本)そこで私も「うん友軍のほうが恐いよ」と言い返したものであった。(18)

(本)三度三度の食事にも困っている村人たちに、軍命として供出を強要したこともたびたびであったし、また、徴用を済ませて、帰宅したばかりの人々に対して、情容赦もなく、直ちに伊江島行きを命じたこともあった。(28)
(本)村人たちが砲火の下をくぐって担いで来た食糧を、軍命によってかき集める役割であった。(28)

(本)たしか曹長だったと覚えているが、夜中にこっそり現われては、「極秘だぞ」などといって供出を命ずるのであった。事実、村の人たちも、よぅやく食いつないで生きている状態であったが、そのたびに私は、無理じいにかき集めなくてはならなかった。(27)

(本)忠英というのは、当時、本部国民学校の校長だったが、山の中をさまよい歩いているうちに日本軍に捕まえられ、スパイ呼ばわりされたあげくに斬殺された。(16)

(本)ある晩、五名の部下をひき連れた敗残兵が突然現われた。そしていきなり、「私は運天から来た者だ。きさまらがスパイをしたために日本は負けてしまった。外へ出ろ。斬り殺してやる」とどなりながら、軍刀をチャラチャラさせていた。(16)

(本)態度を一変して、「おい、食糧があるだろう。きさまらはアメリカから物をもらっただろう」などと言いながら、小屋の中を物色して、仏壇の煙草まで奪って去った。(16)(本)ポケットから帳面を出して、これとこれは明日斬ってやる、などと残忍な言葉を吐いていた。その帳面には、村の指導者層の名前が殆んど書きつらねられていた。(16)

(今)当間重剛さんが沖縄県の翼賛会事務局長でしたが、あの人の指令ばっかりしかこなかったです。知事以上の権限のように感じました。(1)
(今)もう誰も対策について発言する人いなかったわけです。兼次校々長の玉城精喜さんが、村民とともに軍も一緒になって山に避難しよう、そして米軍が来たときには、もう竹槍で突っこんで互いに死のうと言ったので、みんなももうそうしようと、それでもうみんな解散してですね。(1)

(今)駐屯部隊の徴用ですよ。今度は何人、今度ね何人といって、役所に、出せといって、これを徴用係、この方がさしておったわけよ。松一さんが。そしたら、いっペん出しえないでですね、何十名といってきてあるの、それだけ出しえないで、そうして連れて行ったら、もう海軍に、貴様これでも役所吏員か、やめろとね。顔なぐろうとしよったといって、もう泣いて帰ってきてるわけ……。(1)

(今)それで全部整理するといってからに、名簿を持って歩きよったんですよね。それをわたしに見せて、誰々を殺す、みんな殺すといって、手帳にね─。(1)

(今)役所のほうに徴用割当とか、陣地構築とかなんとか言って、海軍がくる、陸軍がきて、軍刀をさしてきて、村長は島袋松次郎さんでしたが、刀抜きそうにしてですね。徴用が少ないとかいって。宮里さんが総務課長。はあもう村長さんがもう返答に困りましてですね。徴用は全部あててこなかった。病気の人もいるんですよね。さあ、村長さん、看護婦がおったんじゃないか、はい、わたしですがと、あ、こっちへ来なさいといってからに、徴用出てこないじゃないか、本当に病気か仮病か行ってみましょうといってからに、またわたしをつれて、体温はかったりするんです。体温はかったら、普通なんですよね。どこがわるいか。下痢しているんです。下痢すると体温はあがりませんですね。下痢してからにやせこけているのに、このぐらいでは働けといってですね、陸軍やら海軍やら行って、熱がなかったら大丈夫、出れば下痢がなおると、言ったこと……。(1)

(今)戦争中に五十代の女の人がね、唖で精神がちょっと異常しとった。友軍がここたずねてもね、返事できないです。これがスパイだといってね、松にこうして後手にくびって、たいへんやられて、もう半死半生になってね、役所の前からこうして帰っとってね、毎日いじめられとった。あと、役所のうしろに小屋つくってありましたがね、ここに入れて、そして給仕がですね、弁当つくって運んだですよ。その人がここで死んでですね。(1)

(今) 一軒に対して、いくら保障するといって、県にそれを六百割り当てられて、村民みんな、ブー作業出して作らせて、各字割り当てて作らせた。各家庭に、その家族構成を見て、配置したのですが全然おさまらないですよ。七千七百名ですから。その疎開小屋の補助金も一銭ももらわないですよ。(1)

(今)うちのおやじ連中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行ってとり囲んでいた。相手は五、六名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。キホウといぅのは、初に呼び出されて一緒に出ていったらしいんですがね。何名かグループをつくって、あっちこっちリストにもとづいてやっていたんだそうですね。(4)

(今)家族廻りして人集めにきよったんですよね。それは兵隊がですが、いくら国のこととはいいながらも部落におりて、人を集めるということで一、二時間しか仕事は出来ないでしょう。遠いところ歩くその道中が時間つぶしで、仕事するという時間がないわけです。四、五名、十名も、おりて部落に人を集める時間では、大男たちが女の倍も仕事は出来る筈だがと思いました。(6)

(今)武器も護郷隊の場合は普通は小銃だが、防衛隊の場合は竹槍とか手りゆう弾とかですしね(8)
(今)宮城義雄小隊長は軍刀抜いて前へ前へと号令ばかりかけるが自分はうしろにしかいないから誰も進む人がいなくて、宮城兵長が軽機をうばってバラバラバラとしてやったら全部前へ進むようになった。(11)

(今)近所のオッサンがいて、その人は支那事変に四、五年いたとのことだったが、民家のものをとったといって怒っていた。こちらは軍服着ているので人を何とも思わなかった。そのオッサンにさんざん怒られて、標準語でいっているから悪うございましたと頭ペコペコやってるんだが−。そしたらむこうで渡辺大尉が聞いているわけ。それでそのオッサンに来い、何か、お前叩き殺すといって軍刀に手をかけている。山羊の主がペコペコ何回も頭をさげて、刀を抜こうとするところをつかまえて……。(11)

(今)渡辺大尉という人なんか、もう戦闘あと百メートル、二百メートルというころになったら腹痛むといって下士官に抱かれて、何もできない。仮小屋に休むといって、戦闘やりなさいやりなさいと口ではいうんだが、いざ戦闘、二百メートルぐらいになったら急に腹痛くなって、うちらだけやらすわけ。(11)

(国)米軍陣地から命がけで盗んできたカンヅメを途中で待ち受けて奪っていくのもいました。お前はスパイだろう、敵に通じているだろうと脅かして強盗を働くわけです。(1)

(伊平屋)宮城先生について、あのころは、村民は先生が特務機関だということは誰も知りませんでした。この人は特別派遣教員といってきたんですが、これを知っているのは校長と私だけでした。私の家に居ったんです。本名は菊池という人です。防衛隊を組織したのもこの人ですが、教員という名目ですから、表面に立っては全然やっていません。伊是名には平山という大尉が向うからやってきていましたが、これが菊池さんの上官であったようです。軍が上陸してきたら、ゲリラ戦をやる計画だったそうです。そのために防衛隊も組織したんでしょうが、伊是名では実際にゲリラ訓練をやっていたようです後になって、敗残兵たちが斬込みをやろうとするのを、この菊池さんがおさえているんですよ。この人が島へ来たのは、たしか十九年の十一月か十二月ごろですよ(1)

(伊平屋)伊井さんと、篠崎さんという将校も私の家に居りました。この二人は特攻隊員です。あのころの特攻機というのはひじょうにあわれなもんでした。伊井少尉は、特攻機が撃墜されて、それでも幸い命びろいしてこの島に助けられた人です。(1)

(伊平屋)敗残兵の彼らがいわく、岬の電波探知機に総員で斬込みをかけよう、というわけです。浜に武器はかくしてある、これを使ってやろうと主張したわけです。これに反対したのが菊池さんと伊井さんでした。今そんなことをやれば村民がまきぞえになってしまう。兵隊がそういうことをやるのは当然だが、村民を犠牲にすることは絶対にいかん、と反対したわけです。(2)

(伊是名)本島の敗残兵がクリ丹を盗んでこちらに渡ってきたんですよ。与論や沖永良部に連絡をやりに行くんだと言って、後でわかったんですが、これはウソを言っていたわけです。彼らの言うことを信じて、村の婦人会などがめんどうをみていました。(1)

(伊是名)伊是名が空襲を受けたのは四月が最後です。四月末からは、本島の方から日本に向ってアメリカの爆撃機が飛んでいくのが見えました。嘉手納から飛び立った飛行機は、ちょうどここの上空で編隊を組んでから、何十機と日本に向っていくのが手にとるように見えるわけですよ。(1)

(伊是名)島の人たちは戦争の模様は何も知りませんでしたから、沖縄戦が終ったのも知らずに、敗残兵を大事にもてなしていたわけです。彼らの言うことを信用して、正規の部隊だと思っていたわけです。各部落の大きな家の一番座に寝泊りして、米も各家から持ち寄って、毎日ごちそうしていました。(1)

(伊是名)この敗残兵の隊長格は平山大尉という人で平山隊長と呼んでいました。これが喜名政昭に直接手をくだした人です。(2)

(伊是名)敗残兵のほかに、特務機関の西村という者がいました。学校の先生をやりながら青年団を組織して、斬込みとかゲリラ戦の訓練をやっていました。また、各部落に防衛隊をつくっていました。(2)

(伊是名)生良巡査というのがいて、これは伊計島の出身ですが駐在できていたわけです。この巡査がまたこわい存在で、空襲中でも壕をまわって歩きよったですが、いつも住民の動きに目を光らせていたわけです。生良巡査はいつも敗残兵とぴったりくっついて、住民に直接命令するのはこの男でした。(2)

(伊是名)敗残兵の集団がこの島で罪もない人をだいぶ殺しています。…アメリカ兵を三名も殺害…奄美大島から買ってこられた漁師の傭い子が三名…伊是名(部落)の西の浜で殺された十五、六歳の少年…。(2)

(伊是名)伊是名出身の帰還兵たちが島に帰ってきて、この連中がただの敗残兵だということがわかったわけです。「こいつらに飯を食わせるぐらいなら豚に食わした方がいい。こいつらはころして(いたみつけること)しまえ」と怒ったんです。(2)

(伊是名)実は当時島には無線があって本島の様子ははいってくるんですが彼らがとめてしまって村民には何も知らさんわけです。那覇あたりでは各家庭に防空壕など掘って戦争に備えているのに、この島は食糧増産が大目標だと言って、壕掘りやると畑仕事ができないからと言ってやらさんわけです。(4)

(伊是名)十・十空襲後はわれわれも軍に協力しなければならないことになり、私も津嘉山に徴用で行きました。金良、長堂の軍司令部の第二壕の作業です。(4)

(伊江)また、重傷者が壕に帰ってくると、上官が、「どうして死ななかったんだ、どうして生きて帰ったんだ」と怒鳴りつけていたこと、また分隊長が重傷者を壕の外に出して自決を命じたこと、など、戦闘のむごたらしさ、日本軍の非人間的行為が強烈な印象として残っています。(4)

(伊江)そのころ、私は、吉岡隊(三分隊)の隊長と知りあい、義勇隊員という資格で、その隊に入隊した。軍服も小銃も支給された。小銃の手入れや、食事の運搬の仕事が日課であった。(6)

(伊江)負けたらどんなに惨めなことになるか、と自分たちの中国大陸での体験を引きあいに出して話していました。その内容は、今でも口にしたくないのですが、とにかく、この兵隊たちは中国の人たちにたいして、ずい分とひどいことをしてきたのですね。それをとくとくと話しながら、負けたらこうなるのだ、……。(10)

(座)二十六日夜の斬込みに国民学校の少年義勇隊も加わって全員戦死したという話が伝わって、いろいろな本にも書かれているようですが、そんなことはありませんでした。二十六日の斬込みの晩に、篠崎伍長が慶留間に泳いで伝令に行っています。また、二十五日夜、隊長の訓示があった後、柴田通信小隊長が赤土の壕から無線機で最後の打電をして、例の「阿嘉島守備隊最後の一兵にいたるまで勇戦奮闘して悠久の大義に生く」と伝えて、それから無電機をこわしたものですから、この電報が大きく伝えられたのかもしれません。(1)

(座)染谷さんはこの人は艦砲がはじまっても酒をのんでいて、集結命令がきても、「あゝ、俺はもう行かん」といって動かないんですよ。その翌日、米軍が上陸してくると、彼は朝鮮人軍夫二〇名ぐらいをひきつれて、白い旗をかかげてまっさきに投降していったんです。この少尉が後で米軍の舟艇に乗って、スピーカーで投降を呼びかけてくるわけです(1)

(座)鈴木隊の中隊長をしていた小森中尉も白昼堂々と米軍の捕虜になっていった人です(1)
(座)水勤隊の数は阿嘉では二〇〇名から三〇〇名の間ではないでしょうか。彼らは、ツルハシとショベルと雑のうだけしかもっていませんでした。(1)

(座)それから後は、壕の中に、一か所に閉じこめられて監禁されていたようです。私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました。明らかに餓死です。(1)

(座)これらの朝鮮人のなかから、米を盗んで食ったとかで、十数名が銃殺になったと聞いています。(1)
(座)野田隊は、とうとう八月二十三日に降伏しています。(1)

(座)米兵は二人で、一人は火焔放射器を持っている。しばらくすると私の見ている方から三〇メートル程離れた所で丁度二人が重なった恰好になったため、思いっきり引き金を引いてみた。すると後の方が先に死んでしまい前の方は弾が貫通しただけで、おきだして大声で泣きだしてしまった。それを聞いてか米兵の一人がいそいで駈けつけてきたが仲間が大怪我しているのをみてビックリしてしまい逃げてしまった。その後、私はとどめをさす意味で苦しんでいる米兵に二発目を発砲するとその時に死んだ。(5)

(座)兵隊たちと一緒に私のおじ夫婦が縄でしばられて立っているのでどうしたのかと聞いてみると、これから二人は死刑になるという。(6)
(座)私たちは一日ごしに歩哨兵として警戒に立っていた。その後は食糧運びをする朝鮮人で組織した水勤隊の監視をしたり、降伏していこうとする日本兵を見張っていた。そのような人には注意をして、それでも云うことを聞かなければ撃ち殺してもよかった。(5)

(座)六月の末ごろだったんですが、中岳というところに部落民みんなを集めて、「住民は逃げたければ逃げてもいい。ただし兵隊の逃亡は容赦はしない」という命令がありました。(1)

(座)二人はひっぱりだされて捕虜になったわけです。これが沖縄での捕虜第一号で、アメリカの雑誌に写真ものっていたそうです。爺さんは軍刀で首を斬られていました。婆さんは銃剣で刺し殺されていました。斬った兵隊の名前もわかっています。(1)

(座)部落民は自分たちの食糧は、さがしてきて兵隊に渡した分から分けてもらうようになっていました。(2)
(座)部落民は畑からではないにしても桑の葉一枚とることも禁じられ兵隊でも階級の低いのは勝手に食べることはできなかった。(2)

(座)兵長が死刑になる日が来た時、彼の上司の中尉が、「別の隊長の部下からは死刑しないで自分の部下を死刑にするということは、日本魂を持っているはずの兵隊が自分個人にうらみを持っていることだ」と怒ってアメリカ兵のもとへ逃亡してしまった。(2)

(座)ある少尉が朝鮮人二〇人程連れ、白い旗をあげて降さんしたことがあった。私はその頃、彼がスパイではないかと思った。というのは、時々、若い女の人たちとおしゃべりをしていると、彼は「もしこの島に敵が上陸してきたら、兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命は大切にしなければいけないがね。命があってこそ国は守れるんだ。だから私は絶対死なない。敵が上陸したらすぐ逃げるんだ」と口ぐせのように言うので、みんな反感をおぼえていました。(2)

(座)部落の人たちはみんなそのような目にあい、なぐる、けるの暴行をうけた人が多かった。しかし、軍はみんな同じように暴行を加えたかというとそうではないです。部落民にはいつも軍は平等だ、と言っているくせに、実は知っている人たちはいつも見逃していました。(7)

(座)叔父夫婦は日本刀では完全に死ななかったため、兵隊が石を使って頭をメツタ打ちにして殺したそうです。(7)
(座)彼らは殺される前に体長ほどの穴を掘らされ、その前に立たされて撃たれると穴にころがる方法になっていたようです。兵隊が上から砂をかぶせた後、まだ十分には死んでないせいか砂がムズムズ動いている人は、日本刀で何度か刺して殺していたということです。(7)

(座)逃亡した部落民は日本兵は住民が逃げていくのを黙認していたのです。つまり、それだけ食糧事情が悪化していたわけです。(7)
(座)公然と逃亡許可がおり、六月二十二日、野田隊長は、「降伏したいものは山をおりてよし」という命令を出した。(7)
(渡嘉敷)雑炊をフーフー食べていると、日本兵がど−ど−と入って来て、鍋ごと、はしごと、そっくり奪いとり、私たちの目の前で、フーフー吹きながら食べてしまいました。(4)

(渡嘉)ある日、私は罰されて、重労働をさせられている大城先生の監視をしていました。その時の重労働は、飲料水を蒸溜するポンプを朝から夜までこいでいました。その時しきりに軍隊を罵り、戦争が終ったら暴露するとかいっていましたので、私が方言で「おまえはそんなことを云うけど、もう少しまじめにやったらどうだ。これ以上云うと、おまえは殺されるぞ」とたしなめたことがありました。(5)

(渡嘉)その後また逃げて捕えられ、とうとう斬られてしまいました。(5)
(渡嘉)おどろいたことに、神谷伍長は上の命令で、大城徳安氏を監視している私を、更に背後から監視していたそうです。(5)

(渡嘉) 私は娘二人を抱えていたので、とにかくどうにかしなければならないと思っていましたが……、自決場はこの世の地獄でした。
 私はそれだけしか言えません。渡嘉敷島の戦争の関係者は現存していますし、ひょっとすると、私がこれ以上しゃべると、再びこの人たちが傷つくか知れません。察してもらいたいと思います。(6)

(久米)班長はインテリで堂々と戦争批判もやっていた。班内は当時としてはめずらしいくらいに屈託がなく、それだけに、私は投降しようといえたのだと思う。(1)
(久米)本島は決してだめにはなっていないぞ、貴様らは、脱走兵だなあ−っと、いい放って、私たちはいやというほど殴られた。気の毒なのは二人の海軍であった。帽子をとり、火のついた煙草を頭のてっぺんにのせ、髪の毛が、ちりちり臭い出すまで焼かれていた。そのやり方が陰気で、しつこいと思った。(1)

(久米)特攻の高橋と木村が「大日本陸軍之印」という判コを造り、それを持って竹腰と辻があの村、この村と巡って、米一俵味噌一樽とあがなっていた。終戦の時は、現銀にて、支払いいたしますと、書いて借用証みたいなものに、まことしやかに竹腰が、判コを押していた。(1)

(久米)日本人の間では、上官私刑が毎夜行われていた。(1)
(久米)鹿山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。(1)

(名)その人の話によりますと、谷川さんと長女は、鳥島の洞窟に隠れている処を、地元の人に発見され、地元の人の通報で、日本軍がやって来て斬殺し、そのまま溝につっ込んであるのを村の人たちが埋葬したそうですが和夫の父親は朝鮮人ではないので、和夫を殺すとき日本兵はさすがにちゅうちょしていたそうですが、こ奴も大きくなったら、何をするかわからんと、いっていた末っ子と次女と美津は、戸を叩いて、美津を起し、出て来た美津を末っ子をおぶったまま、刺し殺し、次女の遺体と一緒に、子供をおぶったまま、五枝の松の北側百メートルくらいはなれた岡に埋めたそうです。(久米2)

(名)地元の人たちも、何もいってはくれませんでした。二十七年もたっているから余計なことはしゃべるなと、いっていたそうです。(久米2)

(那)村のある人が妬み、統制品を持っているのは怪しいと鹿山に密告したということが、第一の理由。いかけ屋の谷川さんは、一千名もいる米軍キャンプのちり捨て場は、格好の材料がころがっていたわけで、そこへ行って拾って来るのを、やはり村民が妬み、アメリカ軍に通じて、心安くしていると、鹿山に密告して、殺した。(久米3)

(那)村の青年で組織していた義勇隊に、埋めろと、命令して、逃げた谷川さんを求めて山に登って行ったそうです。(久米3)

(与那城)ある晩、供出用にとっておいた大根を、兵隊に盗まれたと、私にいってきた農民がおりました。私は、早速「これまで軍のいうとおりに、きちんと農産物を供出してきたのに、その上農民の畑から、作物を盗むとは何事だ」と駐屯部隊におしかけて、軍に抗議したら、「そんなことは、誰もやっていない」と抗議をうけつけない。(4)

(与那城)部隊の伍長は、私が軍をどろぼう呼ばわりしたうえ、大尉が島にみえても歓迎しにこなかったから、私を軍法会議にかける、といって脅かしました。(4)
(与那城)友軍は、島の高台のあちらこちらに、松の木を切り倒して、擬装大砲を設置してありましたので、「こんなもんをおいていかれたら部落が爆撃されて、村民が殺されてしまうだけだ」ということになり、警防団の人たちで、取りこわしてしまいました。(4)

(与那城)女性は、学校を卒業して二十五歳までは処女会、二十五歳以上は婦人会、男性はやはり二十五歳までは、青年会、二十五歳以上は向上会(今は成人会)に組織されていました。(5)

(与那城)ある日、村役場の人がやってきて「おじいさんの職業はなんですか」とたずねました。
 おじいさんが「農業です」と答えると「農業以外に何かできますか」とまたたずねると「石大工ができます」と答えました。すると「それでは、あしたから徴用です」といわれ、すぐに読谷飛行場へ行かされたが、宮城島は嘉手納の飛行場作りの方だといわれたそうです。だがもう日が暮れていたので、読谷山喜名の公民館に泊めてもらい、翌日嘉手納へ行き、そこで三日位働かされたら、係の人が「あなたは、お年寄りだからもう帰えりなさい」といわれ、宮城島へ帰えされました。(5)

(与那城)その兵隊は沖縄の人を馬鹿にしたようなことをよく話しておりましたので一度言い返えしたことがあります。「あなたは長野県の農林学校を出たらしいけれどもここでは上官のくつみがきなんかをさせられているが、私の兄はあなたが馬鹿にしている沖縄の農林学校卒業だけど、今は広島で幹部候補生ですよ」とはっきりいってやったら、その人はもう二度と私たちには沖縄の人を馬鹿にしたような話はしなくなりました。(7)

(与那城)山部隊の兵隊彼等は私達に「おい!きさまら沖縄人はアメリカのスパイだ!お前達のために日本軍は敗けたのだ!」と喚いていました。私達に対するスパイ呼ばわりは、私にとって大変なショックでした。(7)

(勝連)陣地のなかには、東風平村出身の軍医がいましたが、この軍医の命令で、患者は全員薬で自決したそうです。防衛隊も一緒にいるわけですが、この連中は米軍がいくら呼びかけても出てこようとしないわけです。しばらくして、米兵が銃を構えながら壕内に入ってきました。そしたら、荒井軍曹が横穴に身をかくしていて、入ってきた兵隊を軍刀で斬り殺してしまったわけです。その叫び声で、壕の入口にいたほかの米兵たちが、壕の中にガソリン罐を投げこみ手榴弾をぶちこんできたんです。傷病兵の寝ていた枕もとには弾薬箱が積んであったので、これに火がついて陣地はいっペんに吹きとばされてしまったそうです。(3)

(勝連)伍長とか兵長とか上等兵なんかが初年兵をいじめるわけですよ。それで戦争が始まると、初年兵はやけくそになって、上陸まえから自殺する兵隊もいたし、いよいよ戦闘が始まると、今までいじめられてきた古年兵を殺したりしていました。初年兵に殺されたのはたくさんいましたよ。(3)

(石垣)昭和十九年頃白浜には慰安所がありました。そこの慰安婦は一〇人位だったが、台湾、朝鮮、沖縄の方から来ており、中でも朝鮮人が多かった。美ぼうの者は、憲兵や上官の者がわがものにしていた。(27)

(石垣)曾我部隊長は横着でした。部下に足を洗えと足をなげだしているのである。わたしは、しゃくにさわって、「隊長、あなたも皇軍の兵士なれば、一兵卒の者といえども同じ皇軍の赤子じゃないか、自分の手足は自分で洗えばいいじゃないか」と言ってやったら、隊長はまっ赤になり怒って軍刀をとった。「こちらが早いぞ」と猪用の鉄砲を向けたら側からそれを見ていたB29というあだ名のつく大西准尉が「やれやれ」と言ったので、事無きを得たのであるが、その後は自分で手足を洗うようになった。(36)

(平良)師団長に呼び出され、お前が軍にさからうから、大量の砂糖が燃えてしまったではないか、こうなっても、お前はいうことをきかないのか、と迫りました。「しかたがありません」と答えると、「お前のやったことは利敵行為だ」といいます。「燃えたのは、不可抗力です。県知事がいなくなっても、内務大臣がいる。私はその決定にどこまでも従います。」と主張しました。「お前は理くつばかりこねている。それは何の為か。」と師団長は申します。私はそれに対し、「勝ち抜くためです。ここは外地ではなく、本土です。その点で、今までの戦争とはちがう筈です。戦争に勝ち抜くために軍に協力はするが、民の生活を守るのは行政官の仕事です。」というてやった。さすがに師団長は、「よくわかった。」というてくれました。(1)

(平良)とうとう本命の問題を出してきました。「それではきくが、豊部隊長命の動員令をあれだけ返したのは何故か。」と。「兵事に関係のないものをつっかえしただけです。」と答えると、いつの間にかやってきていた少尉が、刀をガンと音をたてて立て、「貴様らは、満四十五歳までの男子は、全て兵役に服する義務があるということを知らんのか。」と、どなりました。そのとき、今でも不思議に思う位、すらすらと、私の口をついてでた言葉を、いってやりました。「皆さんは、充員召集令状規定第三十五条から、第三十九条まで読んできなさい。籍にないものは出せないんです。」第一線の衛じゅ司令官が現地召集をやる場合の規定なんですが、これを口に出すと、かんたんに、相手はだまってしまいました。(2)

(平良)銃先端の照星頂の所でうしろにいた兵隊になぐられていた。“天皇からあずかった”兵器でなぐつてはいけない事になっていた。班長と教育係兵隊が軍医には銃でなぐったとはいうなと、「演習中、ころんで、木のとげにつっこんだといえ」という。軍医が不思議がっている連絡がなかったという理由で部隊逃亡の罪を着せて、その中尉は、半殺しになるまでなぐりつけた上、個人壕に入れて、水も飲まさず、食も与えず、上からカンカン箱をかぶせて、生きうめ状態で殺してしまった。泣きわめく声が部落にまで聞えていたが、だんだんその声が弱くなり、あとは聞えなくなってしまった。(7)

(平良)体温計をこわした理由で、五年兵の兵長だったその衛生兵は、めちゃくちゃにその病人をなぐりつけた。その夜、なぐられていた若い兵が姿を消した。一週間後に探し出され、引っぱられて来た。宮古も戦地扱いになっていて三日間、行方が不明だと死罪になるといわれていた。中隊長がまるで豚を屠殺するかの様に棍棒でなぐっている。次の日も、又次の日の夜も湯のみの半分くらいの握り飯を一コ、塩で味をつけて与えられ、三日後には、眼は全然見えず、顔中蒼くはれあがり、此の世の人とは思えない形相のふらふらの人に、兵舎の前の岩盤の所を、チツタ(石のみ)で掘れという。目が見えなくなっているから金樋で手を打ち、血だらけになった手で、自由のきかなくなった体で掘り続けていた。(7)

(平良)区長の所からとどけて来た令書には五月十五日、午前八時、西飛行場へ集合、ツルハシ、スコップ、毛布、針、糸、弁当、その他身のまわり品等持参する事と書いてありました。
 戦時下だし、女子が作業に行く事も致し方ないとしても、毛布も持って来いという事は何を意味しているのだろう、夜は慰安婦の役をさせるのだと泣いていました。部落の女子青年団員、十二名の令状をめぐり、顔色を変えて区長の所へどなりこんだ母親たちで、部落中が大さわぎになりました。「徴用に応じなければ、沖縄本島に強制徴用してつれて行く事になる」といわれ、同じ死ぬなら沖縄本島に行くよりは、島に居たい。ただし、住み込みではなく通勤を認めてもらうという事で、話がようやくまとまりました。(8)

(上野)兵隊を三人従えた将校が馬に乗り吾が家の庭先へ入って来ました。馬からおりるなり、「魚をとらんでも良いといったのはお前か!」大声でどなり、私の頬をぶんなぐり、よろめく私を足げにするのです。家の者たちが驚き、泣き叫ぶ声で、隣近所の人たちが何事が起きたかと集まって来ました。あっというまに三十人位集まっていたと思います。「家族を前にしてなぐるとは何事か!」「魚と命がかえられるか!」人々の罵声が飛びかいただならぬさわぎとなりました。(2)

(平良)兵はみんな栄養失調になっていました。添道にいた一般兵卒はみなひょろひょろやせているのに、小隊長とか中隊長というのはふとっていてね。そういうひょろひょろやせた兵卒をムチでたたいて壕掘りをさせていました。ムチでたたかれて盲目になった兵隊を、使いみちがないから穴でも掘れといってね、手さぐりで穴掘りしているのをうしろからピシピシたたく。(24)

(平良)兵隊たちはまるで外国にでも来たかのように「沖縄人は普通語がわかるか」「沖縄人は何人種か、支那人の子孫か」などと変なことばかり言っていました。部隊長はじめ将校連がそんなことを言っていたのです。(25)

(来間島)大工の使うハンマーで、豊式なんとかを試運転するといって自分たちはかくれて、薬莢の先に木をとりつけて南の方へとばそうと、それをたたかせたと聞いているのに、隊長は詫びにも来ない。セキド中尉、ウツボ少尉は、顔さえ出さない。(?)

(伊良)衛生本部の軍医が酔って入ってきて、いきなり女教師を強姦しようとしました。まっ昼間、みんなの見ている前でした。ぼくが止めに入ったら、ぼくにまでくってかかってきました。昼の三時ごろだったと思います。「自分は軍医大尉だ」と名乗ってはいました。(?)

(伊良)私の中隊長が女をつれていたことです。女は女学校出の教員だとのことでしたが宮古の人だということでした。兵舎の近くに中隊長専用の茅ぶきがあって、そこに中隊長の女とその母親と妹というのが一緒に住んでいました。平良のまちの上流家庭のような生活をしていました。私たちは泥まみれになって作業をしているのに、あれたちは昼間からレコードをかけてたのしんでいる。(?)

(多)父が「いくら兵隊だからといって、あまり横暴なことをすると、島の人たちも黙ってはいない」と言うと、山口という北海道出身の兵隊が「チャンコロが何を言うか」と言って刀で斬りつけようとしました。それで父もすっかり怒ってしまい、「この家を出ていけ」といったような出方でした。(?)

(3)「各市町村史等」から
(糸)具志頭の病院壕(第一野戦病院壕)に立ち寄ると、女の人が泣いていた。「今、注射を打ってみんなを殺しました。」と涙ぐみながら答え……。

(糸)カミントゥ壕での「集団自決」は、日本兵が投降を拒否した結果であった。
(糸)壕追い出しに対して「民間人を巻きこまないためかなあ」という思い。
(糸)収容所で、日本軍の敗残兵が夜な夜な食料を恵んでもらっていたが、なくなると脅迫に変わった。

(糸)日本兵の発言について「お前たち、沖縄人は殺してもいいんだよ」……。
(糸)海上特攻艇の出撃の様子〜「お母さん行きます」「お母さんさようなら」……。

(糸)母子が捕虜になる途中、日本兵が「撃て、米軍の捕虜にさせるな」と言って、狙撃を始めた。一人が倒れ、もう一人が起き上がろうとすると撃ち続けた。
(糸)日本兵に言われて子どもを殺した母親たち。

(東風) 歩けない傷病兵〜青酸カリを「これを飲んだら傷は良くなるよ」と言われて配られた。
(東風)「歩けるものは歩いていけ。歩けないものは青酸カリで自殺せよ」と軍医が言った(13)

(東風) 南風原陸軍病院(野戦病院)〜南部撤退の際「歩行困難な患者は後で迎えに来る」というのを信じないで、患者の方から「青酸カリ」や「手榴弾」を要求している。しかし、青酸カリは使い果たし、手榴弾については、敵をやっつけるものさえない、という理由からくばられなかった。(18)

(東風) 南風原陸軍病院〜ごちそうを食べさせるそうだ。(28)
(東風) 壕の中で住民の前で、日本兵がシナ事変でやったことを話す。現地住民を殺して食べた話をし、今でも食べてみたいという鈴木曹長。(37)

(東風)方言しか話せないオジーの頼みを受け止められなかった地元初年兵。オジーはスパイ容疑で日本兵によって銃殺された。
(東風) 日本軍の車が無灯のまま、つっばしり、避難民の群れの中を、ひき殺しながら走り去った。

(東風)釦一つのことで、全員が正座のまま夕食抜き、翌朝までそのまま、隊長らは眠っていた。(11)
(東風)戦闘で怪我をした兵には、「恩賜のたばこ」が配られていた。(11)
(東風)「老人や子どもは餓死させてもかまわない。戦う軍人の為に食料を確保せよ」若い主計中尉が地元の農業会役員に言った。

(東風)雨宮中将が上半身裸になり、扇で扇がれていた。(23)
(東風) 娼婦の世話を区長に押しつける金山大尉の副官(29)
(東風) 米軍に投降する途中、友軍の射撃に遭う。(36)
(東風) 小学5年生がレールの運搬動員(47)
(東風) 女子青年が病馬厰小部隊の草刈り作業動員(45)

(東風)5/27、真壁の民間人の入った壕に「前線から後退する部隊の負傷兵を収容したいので少しの場所を空けてほしい」と頼んだら、皆は快く協力してくれて、他の洞窟に移動してくれた。(15)(元日本兵の証言)
※(編者註)自分自身も何日も洞窟探しをして見つけきれなかった挙げ句のはての行動なのに、他の洞窟へ移って行ったということは何を意味するのか。

(佐)ナゲーラ壕、野戦病院、浦添仲間の分院では、歩けない患者には軍命でモルヒネが注射された、いびきをかいて静かに冷たくなっていった。(43)
(佐)米須小近くの民間壕での住民追い出し目撃、野戦病院退去後、軍命……。(43)

(佐)ナゲーラ壕撤退の時、学徒隊員にも、モルヒネ注射をうつよう命令された。(44)
(佐)ナゲーラ壕で注射を打つ時、患者から遺言をたのまれたが、「看護隊集合!」の合図を機にその儘壕を離れた、戦後、その人の消息を聞き、85歳まで生きていた事を知って胸のつかえがとれた。(44)
(佐)宇土部隊本部壕にいた傷病兵は置き去りにされていた。(42)

(佐)「ここはお前らの島だ、お前らが守るべきだ」といってガマには入れてくれない日本兵。(36)
(佐)鉄血勤皇隊の糧秣運搬途中、仲間も被弾し、倒れても、無言のまま進軍するのみ、(編者註 敵の探知機にふれないように声を出させなかった)。(8)

(佐)独立混成44旅団の部隊から呼び出され、直接弾薬運搬を命じられた。(20)
(佐)馬の戸籍は前からあったが、豚や山羊の戸籍まで作らされて旧正月に豚も殺せないと年寄りはぶつぶつ……。(31)
(佐)17歳以上の男女は全員駆り出され、それは義勇隊とよばれていました。(31)


(佐)青年学校(上級学校に行かないすべての男女)〜軍事教練、出征兵士の勤労奉仕…。(35)
(佐)義勇隊などが担いだ弾薬箱〜約70キログラム(35)
(佐)義勇隊の訓練の時「天皇陛下万歳といって死ね」「一人でも敵を殺してから死ね」と……。

(佐)不合格になった防衛隊には、「お前たちは自分たちの沖縄も守れないのか」と言われ殴られた。(35)
(佐)役場の兵事係「この時世には、女も御国のために身を捧げる覚悟をもって協力してほしい」。(38)
(佐)救護班の訓練〜大根に注射をする、担架の運搬、包帯の巻き方など…。(38)

(佐)数え年15歳に徴集令状を持ってきたので、真和志村役場で取り消しさせた。(49)
(佐)「沖縄の女性はみんなスパイだ」と言われた軍国少女。(42)

(佐) 学徒看護隊〜直接負傷兵の処置を任され、負傷兵の後方護送もさせられた。(43)
(佐)日本兵のセリフ「子どもは戦争の邪魔だ」(53)
(佐)スパイ事件〜スパイらしき人を区長に報告したら、日本軍が捉えて処刑した。(52)

(佐)山から友軍の兵隊が来て…、食事を食べさせました。食べ終わると、兵隊は「自分はいつ死ぬか分からないから、この金を使ってくれ」と言って40円を置いて行った。(69)

(知)友軍の飛行機が飛んできて、中城湾の敵艦隊に体当りしていきましたが、これは船には当たらず目の前の海に落ちてしまいましたよ。(3)

(知)野戦重砲兵の大里の陣地の大砲は明治三十七年製の野砲二門だけだった。 一発打つとすぐ壕に隠れるように言われていた。壕から再び出てみると、野砲は使えないほどこわれており、大里村役場の屋根も大きな穴があいて…私たちが沖縄戦で打ったのは、ただの二発だけだった。 (4)

(知)独歩患者は歩かされ、重傷者は幹部だけタンカで運んで、のこりは自決するように言われて、壷屋から撤退したわけです。(3)

(知)動けない患者の十余名に一人の衛生兵松井さん方を残して退る。良心がとがめたが患者橋本大尉の命令である。(8)
(知)隊が、毎日のように住民避難壕にやってきて食物を要求した。命をつなぐ大事な食べ物でもう残り少なくなっていたが半分わけてあげると、これでは少いもっと出せと言ってかっぱらっていく兵隊もいた。(9)

(知)上着だけ着た兵隊が壕の入口にきて、「ここに兵隊が八人くらい入るから出てくれ」といった。わたしは、「今ごろ軍も民もない。わたしたちも敵がくればいっしょに戦う。小さい子たちが大ぜいいるので出るわけにはいかない」というと、今度は「では食糧をくれ」ときた。「食糧もわずかに残っている。やっとこどもたちの命をつなぐだけしかない」というと、今度はお釜をあけてとって逃げた。水汲んで帰るところを水筒ごとうぱわれた人もある。お前たちの島を守りにきているのだといっていたが、もうその頃は兵隊も北部へ突破するようにと解散になっていたらしい。(11)

(知) 五月二十四日頃です。大里村の西原小に米軍が入ってきているという話が聞かれました、陸軍病院もすぐ南部へ下ることになりました。その日は大雨で道は泥んこになっていて、歩ける患者は松葉杖で歩けないのは四つ這いになって壕を出ました。寝ている患者には、ミルクに青酸加理を入れて飲ませ患者はそのままにして雨の中に出て行きました。(16)

(知)天皇陛下万歳ではなく一声お母さんと叫んで死んだ。(4)
(知)十・十空襲後、学校にとって教育上困ったことが起こった。それは役場の隣(旧郵便局の隣にある役場の駐車場)にある診療所が軍の慰安所になったからである。空襲後焼け出された辻遊郭の女郎たちが慰安婦となってきた。(5)

(知)夜間は友軍の特攻隊の来襲で敵のサーチライトが交差、追跡し敵艦からの対空砲火を避けて見事に体当りとともに真赤な火柱が舞い上がるのを見て、やったやったと喜び勇んだ時もあった。(6)

(知)宇土部隊では私達の附近に機関銃隊も戦斗配備していながら、一発も農林隊の援護射撃もせず、隊長共に殆どの隊員を戦死させたことに大変くやしくてたまらず、戦争がすんだら必らず軍法会議に出してやると叫んだ。(6)

(知)その部隊は、中飛行場設営隊の部隊長青柳中佐殿一行であった。隊長が私達に、先般まで北、中飛行場設営に農林学生は多大の協力して来たので、皆様を無条件で私の配下に引き受けるから安心下さい。又、諸君は、将来、大日本帝国軍人の卵だから、諸君を危い所にはやらない。 (6)

(知)宿舎は野原伍長といっしょに当山様のウラザグヮーを割当てられた。家主の家族はシムの座敷に押し込められ、一番座と中メーは防衛隊と兵隊が占拠するようになった。(7)

(知)(アブチラガマ)この壕内には多くの軍需物資が集積されていて、メリケン粉、漬物樽、味噌樽等が山のように積まれていた。その箱や俵の上に特攻隊員は寝ていて、朝鮮の女もいっしょだった。私たち防衛隊員は空の見える筒抜けの壕の底にいて……。 (7)

(知)夜、暗くなると、豊見城城跡へ渡る石火矢橋(イシバーシ)からクリ舟に爆薬を積んで、奥武山の傍を通り、明治橋を抜けて那覇港から出撃していたが失敗をくりかえしていた。那覇港入口を出ると同時に探知され、機銃掃射で舟は沈められた。部隊長の本間少佐の舟もやられ、翌朝波之上海岸に溺死体となって上った。 (7)

(知)久手堅収容所ができて約一カ月後の七月十九日、月夜の晩に、斎場御嶽の近くのナーワンダーの右上に潜伏していた日本軍が久手堅収容所の事務所倉庫になっていたわたしたちの家を襲った。拳銃の炸裂する音で目がさめた。その時悲鳴と弾の音が交錯し誰かがやられたらしいと思った。弾が四方八方からとんでくる。恐怖でうろたえた私は暗闇の中から明るい戸外へ出ようとした瞬間、銃声がして後方から撃たれた。棒で強く叩かれた感じがした。私は気絶してその場に倒れた。気がついた時は、左腕から血がたらたら流れ、着物の袖は血に染っていた。急所をはずれ命拾いはしたもののひどい骨折で、弾は貫通していた。主人は右脚貫通銃傷で骨折の重傷であった。未だ後遺症が残っていて、びっこをひいている。たまたま宿泊していた伯母は、窓から戸外の様子を見ようとして胸部深く弾を撃ちこまれ、悲鳴をあげてその場に倒れた。高齢のため命があやぶまれてたが、苦しそうにうめきもがいていた。私は助けを求めて部屋中をさまよい歩いた。その時大音響とともに手榴弾が炸裂し、家がぐらぐらとゆれた。床下から悲痛なうめき声が聞えてくる。力がつきへなへなとその場に坐りこんだ。もう腕の痛みも感じなかった。手榴弾の破裂で義父は頭と全身に傷を負うたが運よく命拾いをした。私は右手で止血しながら痛みが激しくなってきたのでこらえようとしてうめき声を出していた。同宿していた避難民の方も恐怖にふるえながらやってきた。その時荒々しい靴音がして、七〜八人の兵隊が物凄い形相で入ってきた。日本刀を抜いて今にも斬りつけんばかりに興奮し、顔を見ることもできなかった。全身から血がひくような感じがして目を閉じた。日本刀が冷たく首筋にふれるたびに、今はこれまでと観念し涙が流れた。あたりに殺気が流れ、心臓の鼓動が聞える恐怖の一瞬だった。「捕虜になって、それでも日本国民か」と、どなりちらす声が耳にひびいてくる。私は全身がわなわなとふるえ、恐怖のため一言も出なかった。たまりかねたように隣にいた避難民の男の方が、言葉をかえしたため、日本刀の先で額をこずかれ、その度に皮膚がパチパチ切れて、血が顔中に流れおちた。その場にいた日本兵は四人だったが、みな黙って見ていた。兵隊の罵声はなお続き、そのたび日本刀をちらつかせ、絶対に赦せないぞと強迫してきた。悔しさと憤りで断腸の思いだったがじっと堪えぬいた。私の腕の傷の出血多量であるのに気づいた隊長らしい方がタオルで止血してくれた。そのため、その場の空気がやわらいだように感じた。鶏が鳴き暁を告げる頃「夜が明けるぞ、引きあげよう」の声を残して、兵隊は倉庫から食糧の袋を担ぎ出し、斎場御嶽の後の洞窟へ引きあげていった。(9)

(南)兵隊の壕に入れられたものの、私は炊事婦として、父と次男・三男も炊事、水汲みと軍の手伝いをさせられました。壕の中は、水がボタボタ落ちて眠られませんでした。食べ物といったら、小さなイモで泥水で洗って食べました。それから20日間ぐらいたったある日、民間人が「少しでもいいから休ませて下さい!」と頼むと、兵隊は「あっちへ行け!」と怒鳴り、特に子連れにはひどかったようでした。兵隊は、隠れてばかりいました。(1)

(南)球部隊の兵隊1人(辻の女を連れていた)が入れてくれと来た。「もう入れる隙間もない」と断ると、球部隊の兵隊は手榴弾で殺すと脅かし無理やり入ってきた。(13)

(南)兵隊は最初は入口でもよいと言っていたが、夕方になると私達が食事の炊き出しや食糧探しに出るたびに奥へ奥へと移動していった。(13)

(南)それまで「米兵がくると、戦車の下敷にされる」とか「耳や手や足を切られる」等と米兵に見つかることを特に脅されていたが、この兵隊だけは「命は大切に生きて下さい」と声をかけてくれた。(14)

(南)私たちが隠れていた壕に下士官兵がきて、体の大きい私に「兵隊か」と尋ねた。「いいえ、民間人です」と答えたら、「今日から入隊だ。津嘉山の壕に行け」と命令されました。(16)

(南)本部の壕掘りで、壕の長さが30センチ足りないということで、担当の将校から日本刀を突き付けられ、「今は汗を流しているが今度は血が流れるぞ」と脅かされた(17)

(南)軍が爆弾を撃ち込んで、それが壕の入口にあったガソリンに引火して、私は頭から手足に大ヤケドした。痛さと悔しさで泣いていたら、日本兵が兄嫁の母に刀を向けて、「おまえ達、親兄弟はみんなスパイだろう」と言った。(23)

(南)それからしばらくして、米兵がやってきて、二世の女の兵隊が「みんな何もしないから出ておいで」と呼びかけた。私たちをスパイ扱いした日本兵は、軍服を脱いで民間人の服に着替えて、民間人のふりをして一番最初に出て行った。(23)

(南)日本兵がすごい形相でやってきて、「沖縄人はみんなスパイだ、お煎らが捕虜に出ていくときは、後ろから手榴弾で撃ち殺してやる」と脅した。(29)

(南)米兵がすぐ近くに現れるようになると、日本兵が「子供は出せ!」と怒鳴るのを聞いた。(31)
(南)壕のなかに一人だけ兵隊がいた。はじめは「私たちは夜も昼も寝ないで戦争で戦っているんだ、休ませろ」などと言って、威張りちらしていた。その兵隊は、軍服ではなくウチナーンチュのハルサー服(農着)を着ていた。私が「戦争で戦ったのに、どうして軍服を着てないの」と尋ねると、兵隊は怒って手樽弾を見せ、「これを投げたら30人は殺せるんだぞ」と脅かした。兵隊は壕の奥の方に陣どり、みんなから芋などをもらって食べていた。(32)

(南)ある日、砲撃が激しくて徴発に行けずに戻ってくると、日本軍の少尉が「女がいったん嫁に行ったら戻ってくるんじやない。お前達も戻ってくるな」と言い、危険を承知でまた行かされました。私が、家に帰らせてくださいと頼むと「軍の役に立って死ぬのは名誉だが、家に帰って死ぬのは犬死にだ」と言って、帰してもらえませんでした。(34)

(南)小さかった甥が泣いて日本兵に怒られ、姉は「仕方がないから、私たち親子は死んでこようか」と言うのでした。私たちは「馬鹿なことを言うな。死ぬときは皆いっしょだ」といって、そこから出ました。(34)

(南)三和村の海の近くに、壕を掘って避難しました。20日ほどして日本兵が来て「壕から出なければ手榴弾を投げる」と脅しました。ところがその中に、私が山部隊で看護した兵隊がいて、私達をかばってくれました。(34)

(南)日本軍の人に追い出されたこともありました。高嶺の壕に入ろうとしたら「民間の人は入ってはいけない、あっちいけ。」と言うんです。私たちは子供を連れていたのでとても怒鳴られました。(38)

(南)玻名城の壕で「ここに入れてもらえないですか」と聞くと、日本兵が若い女の子は入れてもいいが年寄りはだめだと答えたのです。(44)

(南)友寄橋を渡ろうとしたが、橋は修理中であった。前線に行く兵隊は通行可能であったが、兵隊は「民間人は渡さない」と言ったので、2、3回押し問答をしたが結局渡れずウロウロしていた。(13)

(南)将校から「おいしくない!これだけでは不足だ!」とかかれた紙が送られていたのを見たこと。(2)
(南)私にも、青酸カリが渡された。青酸カリは、粒状になっていて、鞄の中に入れていた。(3)

(南)本土出身の佐藤兵長が「この戦争は敗ける、命をそまつにするな、俺は大阪に妻子もいる、生きて帰りたい」と私と国吉にささやいた。私たち三名は、逃亡することにした。(5)

(南)戦車隊の森下曹長から「避難しなさい」と言われた。私が「軍といっしょに行動したいので避難しない」と答えると、曹長は「敵も兵隊同士は殺すが民間人は殺さない」と自分の写真まで私に預けて避難をすすめた。大名から避難したのは5月3日でした。(13)

(南)兵隊が来て南部方面に避難するように言われたが、同じ死ぬならここに残って死んだ方がいいと言ったら、「ここにいて敵のスパイをするのか。早く出ろ」と脅したので避難することにした。(13)

(南)夜、友軍の兵隊2人が上官に肩をかして海の中を首まで浸かって歩いていた。肩をかしている兵隊が足を踏み外すと、「バカヤロー」と上官の怒鳴る声が聞こえた。(13)
(南)目の前で中城出身の兵隊が手榴弾で自決するのを見た。(15)

(南)現在の分譲住宅あたりの壕掘りでは1日8時間で、高さ・幅それぞれ2メートルの大きさの壕を深さ1メートル掘るということが義務づけられました。1メートルというのは大変なものでした。兵隊たちは軍手を使いましたが、私たち一般の人は素手でやる。(16)

(南)10・10空襲の後、日本軍のための慰安所が村屋に作られた。そして、ジュリ(慰安婦)が私の家の上座に宿泊するようになった。ジュリアンマーや子守りの女の子を含め、7、8人が暮らしていた。(21)

(南)私の家に宿泊していた兵隊は、中島さん、清田さん、倉本さんの3人で、彼らは自分が炊事当番のとき、靴下に米を隠して持ってきてくれることがあった。彼らが風邪をひいたとさ、私の母が薬草やおかゆをそっとさし入れたりしてたから、そのお礼ということだった。(23)

(南)夕方になると名前を呼ばれた兵隊は、そこから斬り込みに向かっていった。(23)
(南)壕を拡張するために、兵隊は壕掘りばかりしていました。壕の中には十字路があって、金城町にも石嶺町にも行けるようになっていました。炊事場は金城町の森だったと思います。今の金城町の石畳の近くに炊事場の入口がありました。(26)

(南)炊事場の方に井戸もあるし、発電所もありました。牛島中将のいらっしゃる部屋などは、電気もついていてレコードが賑やかでした。畳も敷いてあり、入口は米俵でふさいでありました。(26)

(南)お風呂に入るために、牛島中将が炊事場のある金城町のほうにいらっしゃることもありました。「牛島閣下のお通り。通路を開けろ!」の声がすると、壕の両側の壁にみんなくっついて、真ん中から通すわけです。キンキラキンキラの紙を肩からかけた大隊長、中隊長たち4〜5人が後ろからついてきて、まるで大名行列です (26)

(南)時々、沖縄住民の着物をつけて、住民に偽装した日本兵にも会った。(29)
(南)4月下旬頃空襲で焼夷弾がばらまかれると、本部の木とカヤで作られた家屋は1日で全焼した。昼はずっと焼けていて、夕方にはほとんどの家が焼けて煙だけになっていた。住民15名くらいがサーターヤーの近くまで来て、方言で「日本の兵隊は情けない。我々の部落が焼けていくのをただ傍観して、消防の加勢もしてくれない」となじっていた。方言で話せば日本兵にはわからないためだ。(37)

(南)また、理由もなく1日1回は必ず顔を殴られた。とにかくそれが習慣みたいになり、みんな集められるといろいろ文句をつけられては殴られた。(37)

(南)中隊はすでに移動した後で、私達防衛隊は最後に残された格好になって敵の最前線に居たのである。
 私達防衛隊は全くの無防備である。銃一丁も無ければ、手榴弾一つも持っていない。出発が今少しでも遅れていたら、それこそ全滅でした。(6)

(南)この頃、私達隊員は遺書を書くように指示された。壕の暗い灯のなかで、父母や兄弟姉妹の肉親を慕いながら、「皇国護持のため悠久の大義に生きること」等としたためた。遺書は毛髪・爪とともに封筒に納め、一括して勤皇隊本部に預けられた。(7)

(南)天久とガジャンビラにあった高射砲がボンボンと敵機めがけて撃っていたがあまり当たらなかった。しかし1機は命中して墜落するのを見て手をたたいて喜んだ。(13)

(南)照屋では茅葺きの民家にいた。別の民家にいた(新字嶽下)に嫁に行っていた姉の赤ちゃんを兵隊が生き埋めにしたことを聞いた。(14)

(南)もう7月になっていたと思います。ここにいる間に、特攻隊がきてサーチライトを浴びてバンパンバンと撃ち落とされるのを見ました。(25)

(南)包帯がないため、夜になると与座ガーに包帯を洗いに行きました。洗っているときも弾がビュービューくるので、井戸の中に飛び込み、首まで水につかって弾を避けたこともあります。夜が明けて戻る途中、私たちの前に砲弾が落ちてきました。二人とも土に埋もれて、お互いにもう死んだのかと思ったのですが、運よく助かりました。汚れてしまった包帯をもう一度洗ってから壕へ戻ると、「バカヤロー、こんな遅くまで何をしていた」と日本兵に怒鳴られました。(34)