戦争被害
ここでは、沖縄戦における戦争被害についての回答します。
[1−戦争被害−1]沖縄戦での住民や兵隊の被害者は何人ですか。
ここでいう「被害者」というのは、「戦没者」に絞ってお話します。怪我をした人はとても人数としては数えられないからです。
さて、この「戦没者」のことですが、日米の兵隊についてははっきりしていますが、住民の戦没者についてははっきり分かりません。というのは戸籍が全部焼けてしまったことや一家全滅が多かったことなどに加えて、全県的な調査が行われなかったことも重なって正確な数字は分からないのです。
沖縄県の公式発表では、住民戦没者(94,000人)、日本軍戦没者(94,136人)、米軍戦没者(12,520人)、合計戦没者(200,656人)となっています。しかし、この中の「住民の戦没者数」については、先に述べたように実際に調査確認した数字ではなく、形式的な帳簿上の数字を足したり引いたりした結果の推定数字ですので正確ではありません。宮古や八重山の場合は人口の約10%という大まかな数字を加えただけです。
研究者によって、実際は15万人は下らない、というのが報告されています。例えば、次の表がそれです。
日 本 | 米 軍 | 合 計 | ||
正規軍 | 65,908 | 陸 軍 | 4,675 | |
防衛隊 | 28,228 | 海兵隊 | 2,938 | |
戦闘協力者 | 55,246 | 海 軍 | 4,907 | |
住 民 | 94,754 | |||
合 計 | 244,136 | 合 計 | 12,520 | 256,656 |
※ (『これが沖縄戦だ』(大田昌秀)から)
※「防衛隊」には地元の補充兵、軍属を含む。
※「戦闘協力者」は、援護法に基づき国が認めた住民戦死者(戦争に協力して死んだと認められた者)を示す。
※「戦闘協力者」を二重に加算しているとの指摘もあります。
これまで、先進的な市町村の中で、独自の住民戦没者調査等が行われてきていますが、もちろん、これは、自分たちの町や村の住民がどのように沖縄戦に巻き込まれて死んでいったのかを調査するためのものです。残念ながら全市町村で行われていないのが実情です。
本来は国が犯した戦争の責任を果たすことの一つとして、当然国が実施するものですが、戦後半世紀も過ぎましたが、何らそのための調査は行われていません。また、沖縄県としてもそのような調査は行っていません。
※「平和の礎(いしじ)」における戦没者数は、沖縄戦を含む県外での戦没者数も含んでいます。
関連1 沖縄の人口の何%が亡くなったのですか。
沖縄県の統計にしたがって計算すると、当時の沖縄県の人口が491,912人(1944年・昭19・2月)、県出身軍人・軍属戦没者が28,228人、一般住民戦没者が94,490人で、沖縄県人の総戦没者は122,718人となり、戦没者の割合は約25%となります。「4名に1人」の県人が沖縄戦で亡くなったことになります。
しかし、この数字も「戦没者数」のところで述べたように、「一般住民の戦没者数」を計算する元になる数字が推定の数字ですから、正確なものではありません。研究者が報告しているように「一般住民の戦没者数」を約15万人とすると、その割合は約36%となり、「3人に1人」の方が亡くなったことになります。
沖縄戦の戦没者の割合は、現在、この二つの数字が使われています。
関連2 年齢別にどのくらいの県民が亡くなったのですか。
全体の戦没者の中で、住民の戦没者の数さえも正確な数字はまだでていません。したがって、年齢別の全体の戦没者の割合は調べようがありません。戸籍も焼失してしまい、一家全滅などもあって、戦後の調査でも正確な数は調べられていません。
ただ、14歳未満の戦没者については、厚生省の調査(1960年)で次の数字がでています。しかし、この数字も実際はもっと多かったという研究者の声もあります。それに調査対象が、沖縄戦全体に及んでいないことも残念なことです。
◇厚生省調査による
0歳 | 1歳 | 2歳 | 3歳 | 4歳 | 5歳 | 6歳 | 7歳 | 8歳 | 9歳 | 10歳 | 11歳 | 12歳 | 13歳 |
181 | 989 | 1244 | 1027 | 1009 | 846 | 733 | 767 | 748 | 697 | 715 | 696 | 757 | 1074 |
また、年代別の調査は限られた市町村で報告されています。参考までにその一部を掲げておきます。
◇東風平町の場合
〜5歳 | 〜10 | 〜15 | 〜20 | 〜25 | 〜30 | 〜35 | 〜40 | 〜45 | 〜50 |
523 | 344 | 281 | 415 | 286 | 263 | 224 | 215 | 195 | 184 |
〜55 | 〜60 | 〜65 | 〜70 | 〜75 | 〜80 | 〜90 | 不明 | ─ | 合計 |
182 | 173 | 205 | 163 | 167 | 81 | 16 | 102 | ─ | 4019 |
※「沖縄戦」を含む県外での戦没者も含みます。
◇豊見城村の場合
〜5歳 | 〜10 | 〜15 | 〜20 | 〜25 | 〜30 | 〜35 | 〜40 | 〜45 |
622 | 275 | 262 | 474 | 314 | 277 | 265 | 228 | 261 |
〜50 | 〜55 | 〜60 | 〜65 | 〜70 | 〜75 | 〜80 | 〜85 | 〜90 |
237 | 222 | 251 | 241 | 231 | 268 | 113 | 9 | 1 |
※「沖縄戦」を含む県外での戦没者も含みます。
◇中城村の場合
〜9歳 | 〜19 | 〜29 | 〜39 | 〜49 | 〜59 | 〜69 | 〜79 | 80〜 | 不明 |
692 | 522 | 315 | 263 | 315 | 357 | 347 | 152 | 20 | 481 |
※「沖縄戦」を含む県外での戦没者も含みます。
[2−戦争被害−2] 沖縄のどういう人たちが亡くなったのですか。
ここでいうのは、当時の職業や階層のことをさしていると思います。沖縄全体が戦場になったのですから、疎開した人や軍人・軍属として他の土地にいた人、また移民や出稼ぎに行った人を除いては、あらゆる階層の人たちが沖縄戦の中で亡くなっています。
住民が戦争に動員されたという面からみると、次のようになると思います。
幼児、学童(国民学校)、男子学生(師範学校・農林学校・水産学校・商業学校・中学等)、女子学生(師範学校女子部・高等女学校等)、青年学校、主婦、農業、漁業、商業工業、船員、吏員(市町村役場や県庁職員)、教員、一般会社員、区長(字の役員)、市町村長、警察官、軍人、軍属、在郷軍人、老人、その他。
この「職業・階層」による戦没者の数も調べようがないのが実情です。軍人や軍属、男子学生の一部の「鉄血勤皇隊」や女子学生の一部の「学徒看護隊」については戦没者の数字が分かっていますが、その他については「一般住民」として処理さているのが全体的な調査の数字です。(参照「学徒隊」)
厚生省が調査した項目には、幼児(0〜5歳)5,296人、学童(6〜14歳未満)6,187人という数字(1960年調査)がでていますが、実際はもっと多いのではないかという声があります。
また、収容所の一つである「宜野座村古知屋・福山共同墓地」における死没者名簿(「宜野座村史」)から割り出した結果、幼児(0〜5歳)が155人と全体の死没者の15,5%で、学童(14歳未満)が44人(同4,4%)となっています。老人(60歳以上)は587人(58,7%)となっています(1945年6月31日〜1946年8月31日)。
さらに、市町村での調査を見れば、糸満市の場合、幼児・学童(14歳未満)の戦没者数は2,473人で全体の約25%となっており、老人(60歳以上)の戦没者数は1,527人で約66%、最も戦没率が高くなっていています。中城村の場合は、六歳未満の幼児の戦没者数は273人、老人(60歳以上)が519人という数がありますが、当時の年代別人口が不明のためその割合は分かりませんが、全体の戦没者数の3,464人から推してもその数の割合が高いことがわかります。
部分的な数字ではありますが、それでも最も犠牲の大きかったのは、幼児と老人ということが言えると思います。体力のない幼児や老人に最も戦争の犠牲がふりかかってきたともいえます。
関連1 沖縄戦で少年団や戦争で動員された人々は亡くなったんですか。
戦争に動員された人たちのことを整理すると、「少年団」「義勇隊」「学徒看護隊」「鉄血勤皇隊」「防衛隊」「補助看護婦」「農兵隊」「護郷隊」「その他」というように、いろいろな形で動員させられました。沖縄全体が戦場ですから、当然戦死者が出ます。ただ、それぞれの人たちが何人亡くなったのかは調べられていません。「学徒看護隊」と「鉄血勤皇隊」等は学校から動員され、軍隊に配属されていたので、名簿によって戦没者数が分かっていますが、その他の団体員は時、場所、任務等の都合で動員していたので、全体の市町村の調査がなければその全体の数を把握するのは不可能です。
これも市町村別にみると、「防衛隊」の戦没率については、次のことがわかります。
◇南風原町…510人動員されて323人が戦没(約63%)。
◇知念村…約350人動員されて182人が戦没(約52%)
[3−戦争被害−3]住民は、主にどんな所で亡くなったのですか。
生き残った人たちの証言に戦没者のことがたくさん出てきますが、それによれば、沖縄のすべての場所が戦没の場所といえます。
まず、大規模な空襲となった「10・10空襲」の時はそれぞれの生活の場で被害に遭っています。最も被害の大きかった那覇では、住民は自分の「家」や屋敷に作ってあった「防空壕」などで被害を受けています。
1945年(昭和20)の3月下旬、アメ
リカ軍の空襲に艦砲が加わって、いよいよ戦争の不安が高まり、疎開や避難をするわけですが、それ以降は避難や疎開の中での戦没ということになります。そして最も被害を大きくしたのがアメ
リカ軍の艦砲による攻撃でした。
沖縄本島の中南部を中心にぐるっと取り巻いたアメ
リカの艦船から撃ち込まれる砲弾は、その跡が蜂の巣状になる程の数でした。そのために人々はどこでもその被害に遭いました。特に避難の途中、つまり、「道路」、「屋敷」、「空き家」、「豚小屋」、「木の下」、「岩蔭」、「ガマ(壕)の中や入口とその付近」などありとあらゆる場所で砲弾が炸裂しました。また、食糧捜しの最中などは「畑」や「森」でも艦砲によって戦没しています。又、水汲みに行って「池」や「井戸」「泉」でも同様でした。
さらに、アメ リカ軍は、「ガマ(壕)の中」に隠れている住民や日本兵が投降に応じなければ、爆弾やガス弾投下、火焔放射、ガソリン放火をしました。「アダン林」を焼き払って多くの焼死者をだしました。「ガマ(壕)の中」では、日本軍によって虐殺もあり、放置死もあります。
沖縄独特と言えば、「墓」に隠れていて砲弾や火焔放射によっても亡くなっています。他には、「舟」での戦没があります。漁をしたり、避難したりする最中にアメ
リカ軍の機銃攻撃で亡くなっています。もちろん、疎開の途中や徴用のために離島への往復の時「船舶」が攻撃されたり、撃沈されたりして亡くなった人たちもたくさんいます。
そして、アメ リカ軍に保護された後、「収容所」のなかでも多くの人たちが栄養失調死や餓死、病気などで亡くなっています。小さな島全体が戦場になったことが場所を選ばせない戦没場所となってしまいました。
以上、住民が亡くなったその場所について述べましたが、広く地域を指定して、つまり、どの市町村で亡くなったのが多かったという調査があります。次の表は各市町村が調査したものをまとめたものです。各地域の住民が、沖縄戦の時どの地域で亡くなったのかを示したものです。
[4−戦争被害−4] 沖縄戦では主にどのような亡くなり方をしましたか。
住民を中心に証言などから考えると、戦没者のケースは大まかに次のように分けられると思います。
(1)戦闘に巻き込まれての戦没
@アメ リカ軍の直接殺害…陸上では空爆、艦砲、戦車砲、小銃等による被弾死。空襲や艦砲、火焔砲等による火災による焼死。毒ガス・催涙ガス等による毒殺・窒息死。その他。海上では、航空機や魚雷による船舶の沈没による水没死。航空機の銃爆撃による被弾死。被弾船の火災による焼死。上記のすべての傷害がもとでの戦没死。その他。
Aアメ リカ軍による間接殺害…捕虜時の殺害。その他。
B日本軍の直接殺害…誤射等による被弾死。兵器暴発による爆死。その他。
(2)戦闘時の間接的な戦没
避難・疎開時の事故死(海や壕内の溺死、転落死など)。傷害死。栄養失調死。中毒死。衰弱死。精神異常死。自殺。病死。ショック死。原因不明死(赤ちゃんや老人)。その他。
(3)戦闘行為以外における戦没
@日本軍の直接殺害…刺殺、銃殺、絞殺、斬殺、毒殺等の虐殺。その他。
A日本軍の間接的殺害…ガマ(壕)追い出しによる戦没。殺害強要死。「自決」・「集団自決」及びそれらの強要死。食糧強奪による栄養失調死・衰弱死・餓死等。傷病者の治療拒否死。傷病兵の放置死。日本軍に受けた怪我死。その他。
Bアメ リカ軍の直接殺害…暴行事件による殺害。収容所での投薬殺害。収容所外での規則違反者の射殺。その他。
Cアメ リカ軍による間接戦没死…レイプ事件による自殺。収容所における食糧難による栄養失調死・衰弱死・中毒死・餓死。病死。傷病者や栄養失調者等の放置死。不発弾による爆死。その他。
住民を巻き込んだ戦争は、このように複雑多様な犠牲をおしつけました。しかも、直接戦闘と無関係な死に方(殺され方)の多いことに驚かざるをえません。
下表は、東風平町の調査によるものですが、アメ
リカ軍の艦砲や銃撃などによる被弾死が最も多くなっています。しかし、それさえも、住民が避難した南部地域に日本軍が撤退したことがその多くの原因となっています。
◇東風平町における沖縄戦関係者の死因別人数(字当銘は除く)
死因 | 被弾死 | 栄養失調・餓死 | 病死 | 水死・溺死 | 怪我死 | 事故死 | 不明 |
人数 | 2919 | 88 | 86 | 20 | 3 | 1 | 158 |
割合 | 89.1 | 2.7 | 2.6 | 0.6 | 0.1 | ─ | 4.8 |
※被弾死は被弾後の死者も含む。
※水死・溺死は船舶沈没やガマ内の水死も含む。
※不明は「壕提供」、「炊事」等も含む。
さらに、通常の戦争での死に方にないのが「沖縄戦」にはあったことを知ってほしいです。「集団自決・自決」「味方(日本軍)による殺害(日本軍の住民虐殺)」「傷病兵の放置による死」などです。
戦争に関係のない住民同士が、日本軍のデマを信じて、自ら自分の命を絶つことを覚悟し、「どうせ死ぬなら自分たちの手で…」という身内の愛情表現として殺し合ったり、命を断ったりしたことは、沖縄戦におけるもっとも悲惨なことであり、残酷なことであり、また残念なことでした。軍隊が住民を守らないのは、どの戦争でも同じでしょうが、「沖縄戦」では、守らない軍隊どころか住民を殺す軍隊になっていたのですから、愕然とします。また、軍は自らの移動の際には、傷病兵や住民を殺害や放置または自決を強要しています。数は少ないのですが住民側にもこれに似た状況がありました。
「死に方」(殺され方)からしても「沖縄戦」がいかに人間の歴史の中で最も残酷であったかを物語っています。
関連1 目の前で人が死んでいくのをどう思いましたか。
あらゆる場所が「死に場所」だったわけですから、いたる所に死体が転がっているわけです。多くの証言に共通していることは、それらの死体に出会うと、初めはそれぞれの個人的な感情で接していますが、次第に慣れてきて、結局何も感じなくなっていったということです。
放置されている死体に対する「かわいそう」とか「酷たらしい」という感情は、自分もそのような目に遭うのだという気持ちが重なって、同じ死ぬなら爆弾の直撃を受けて一瞬に死にたい、という死の方法に気持ちが移り、恐怖感は無くなっていく様子が多く見受けられます。
「生きる」という気持ちが持てない状況がそのような気持ちにさせたのですが、それほどに、「死」と直面していて、「生きる」ための条件が何一つない状況の中では、人は「死の覚悟」をもちながら、「生きる」ことを考えないようにすることによって、精神のバランスを保っていたのかもしれません。そうでもしなければ精神が持たなかったのだろうと想像されます。
沖縄戦に関する証言でも、南部で沖縄戦を体験した人の証言と、中北部で体験した人の証言は明らかに違うものがあります。それは、やはり、酷たらしさの極限を見た人と見ていない人との違いだと思います。死体が累々と横たわる中を、時にはその死体(まれにまだ生きている人)を踏みつけながら逃げ回るためには、人間という看板を自ら取り外さなければとても通れるものではなかったはずです。
その一つの方法が「何も感じない」という意識を自らに植えつけていたのだと思います。ある人は、戦後平和な生活の中で当時を思い出す時、その瞬間に当時の恐怖感が蘇ったと言っています。
[5−戦争被害−5] 遺体はどうなったのですか。
米軍上陸前の空襲や艦砲で亡くなった人たち、また、米軍上陸直後の攻撃で亡くなった人たちは、普通通りの葬式を行って埋葬していました。どうせ自分も命はないものという気持ちが強かったので、きちんと葬式された死者に対して「あなたは幸せだよ」といって葬る場面がたくさん出てきます。
しかし、アメ リカ軍の攻撃が激しくなるにつれて、自分の村を離れ、避難生活に入ると、亡くなっていく人たちは、せいぜいそれぞれの地で穴を掘って埋めるのが精一杯でした。やがて、ガマ(壕)から出ることも出来なくなると、ガマ(壕)の外の大砲の弾の穴などに埋めていました。したがって、それを繰り返して行く内に、埋めた所に爆弾が落ちて、その爆発によって死体が散り散りになって飛び散ったという証言もたくさんあります。
そして、いよいよそれもできなくなると、ガマ(壕)の外側に放置しました。最後はガマ(壕)の中に置き、腐敗していく死体と一緒にいた、という証言もあります。また、避難の途中で亡くなった遺体は、畑に穴を掘って埋めたり、道の傍などに置き、目印になるようなものを一緒に置いたりしました。「まるで動物を葬るような気持ちでやりきれなかった」という証言や「何も感じることもなくなっていた」という証言があります。
戦争が終わって、自分の村に帰ることができるようになった時、村人は村毎に遺骨集めから始めました。それぞれの字ごとに遺骨を集め、納骨堂を建て、そこに遺骨を納めて慰霊塔を作りました。
個人的には、自分の肉親が亡くなった所へ行って、遺骨を拾いました。目印がなくなって分からなくなったものもたくさんあります。また、摩文仁丘方面では、余りに多くの死者のため、アメ
リカ軍がブルドーザーで海岸に落としていたという証言もあります。
遺骨が見つからない時はその当たりの石や土をもって帰りました。どこでなくなったのかわからない時は、聞いたりして捜しました。いまでも、自分の肉親がどこでどうなくなったのかも分からない人たちがたくさんいます。
人には、自分の愛する者の最後を見届けたいという気持ちが強くあります。沖縄戦は、辛うじて生き残った人たちの、その最低の願いさえ踏みにじってしまいました。これもまた悲惨なことの一つなのです。
[6−戦争被害−6] 最も戦闘の激しかった所はどこですか。
沖縄本島の中では、日米の軍隊の戦闘が最も激しかったのは、宜野湾の嘉数高台周辺、首里の北方から東方、那覇の天久高台から安里北、中城村の和宇慶周辺、浦添の前田高地、東風平の八重瀬岳、糸満の国吉丘陵などと言われています。(参照[28-戦闘-3])
しかし、住民犠牲という面から言えば、戦闘が激しいことと悲惨さとは別だと考えます。悲惨さとは戦争に関係のない住民が最も惨めな目に遭う状況をいうわけですから、その意味では、糸満市の三和地区(喜屋武半島に摩文仁村・喜屋武村・真壁村があったが、戦後人口の半減により合併して三和村となり、後糸満市に合併された地域)と言えるでしょう。
ここは、主として宜野湾村や中城村以南の住民が、戦禍を逃れて最終的にたどり着いたところです。その上、首里を撤退した三二軍の司令部が摩文仁に後退し、負けている戦なのに降参もせず、無茶な特攻精神でアメ
リカ軍と戦う姿勢を最後まで押し通しところでもあります。敗残兵と化した日本兵と住民が雑居する形で約20万人が戦闘に巻き込まれました。
そして、おおよそ考えられないことが起こったのです。日本兵が住民から食糧を奪ったり、スパイ容疑や邪魔者扱いでガマ(壕)から住民を追い出したり、直接手を下したり、殺させたりしたからです。住民が避難しているガマ(壕)や墓からの住民追い出しは、本島全域でありましたが、最も酷かったのは日本兵が敗残兵となって敗走しながら抵抗していた三和地区(喜屋武半島)の戦場でした。
したがって、住民の戦没場所はこの三和地区(喜屋武半島)が最も多くなっています。そのことからも「沖縄戦」で最も悲惨な修羅場となったのは三和地区(喜屋武半島)だったといえるのではないでしょうか。(参照[3-戦争被害-3]))
関連1 10・10空襲の被害状況はどんなでしたか。
[沖縄本島]
回数 | 時刻 | 米軍機 | 攻撃対象 |
第一波 | 6:40〜8:20 | 240機 | 飛行場、飛行機、滑走路 |
第二波 | 9:20〜10:15 | 220機 | 飛行場、飛行機、港、船 |
第三波 | 11:45〜12:38 | 140機 | 那覇、渡久地、名護、運天港、与那原、馬天、泡瀬等の港湾施設、船舶 |
第四波 | 12:40〜13:40 | 130機 | 那覇市を銃撃、焼夷弾による無差別攻撃 |
第五波 | 14:45〜15:45 | 170機 | 那覇市、その他を焼夷弾による無差別攻撃 |
合計 | 5時間18分 | 900機 | ── |
十・十空襲被害状況(本島関係)
警察署管区 | 那 覇 | 首 里 | 与那原 | 糸 満 | 嘉手納 | 名 護 | 渡久地 | 計 | |
人 員 | 死 亡 | 255 | 5 | 7 | 4 | 31 | 19 | 9 | 330 |
負 傷 | 358 | 7 | 4 | 4 | 2 | 33 | 47 | 455 | |
計 | 613 | 12 | 11 | 8 | 33 | 52 | 56 | 785 | |
家 屋 | 全焼全壊 | 11010 | 85 | 72 | 155 | 129 | * | * | 11451 |
半焼半壊 | 22 | 8 | * | 19 | 13 | * | * | 62 | |
計 | 11032 | 93 | 72 | 174 | 142 | * | * | 11513 | |
船 舶 | 沈 没 | 56 | 1 | * | 5 | * | 10 | 5 | 77 |
炎 上 | 2 | * | * | 2 | * | 3 | * | 7 | |
撃 破 | * | * | * | 2 | * | * | 2 | 4 | |
計 | 58 | 1 | * | 9 | * | 13 | 7 | 88 | |
食 糧 | 米 | 3677袋(県民一カ月分、現保有量三カ月分) | |||||||
味 噌 | 5500貫 | ||||||||
醤 油 | 875名 | ||||||||
通 信 | 電 話 | 那覇郵便局ほか八局消失 市内外普通 | |||||||
有 線 | 海底電線3、音響回線4 12日0025名護と連絡開始 | ||||||||
無 線 | 通信機6 11日0820鹿児島と連絡開始 | ||||||||
交通機関 | 機 関 車 | 損2、中損2 現有機関車4 | |||||||
客 車 | 損6 現有客車2(注あるいは11、現資料不詳) | ||||||||
ガソリンカー | 焼損4 現有貨車40 | ||||||||
軌 道 | 若干損傷(18日から復旧) | ||||||||
自 動 車 | 94両(70%、現有42両) | ||||||||
備 考 | 一 家屋は付属建物も含む | ||||||||
二 船舶は運搬船、漁船、帆船等全部含む | |||||||||
三 細部は調査中 |
資料「沖縄県警察史第2巻」
○民間死亡者(県全体)…412人
○日本軍死亡者…軍人218人、軍夫120人、計338人
○死者合計…750人
※上記資料と異なる件数の項目(「嘉手納町史」他から)
◇家屋半焼・半壊…113戸(那覇73、首里8、糸満19、嘉手納13)
◇那覇家屋全半壊焼…11,513戸(約90%)という調査もある。
◇与那原警察署管区の家屋全半壊焼72は、南風原村与那覇の全焼数字だと思われるが、他に佐敷、知念でも家屋の全焼
・半焼が証言されている。
[本島周辺の離島]
〇伊平屋島・伊是名島…連絡船が襲撃され、船員1名が死亡。
〇伊江島 …飛行場、連絡船、40数人の死亡。
〇慶良間諸島…連絡船、嘉豊丸、3隻の軍用船、乗組員5人死亡。
〇宮城島… 家の焼失。
〇平安座島… 部落のほとんどが焼かれ、山原船数隻が燃えた。
〇津堅島 …伝馬船やマーラン船がやられて、部落の半分が焼かれた。
[その他の地域]
地域 | 機数 | 被害状況 |
宮古島一波 | 10機 | 死亡13人、重軽傷10人 |
同二波 | 16機 | 輸送船、飛行機爆撃を受ける |
石垣島※ | 8機 | 飛行場爆撃 |
南大東島 | 27機 | 死亡23人、負傷2人、飛行機、駆潜艇が爆撃を受ける |
徳之島 | 50機 | 飛行場爆撃 |
奄美大島 | 50〜60機 | 死亡3人、負傷10人、砲台・船舶が爆撃を受ける |
※石垣島は、10月12日、13日に空襲。(「県史10巻」)
[解説]
1944年(昭和19)10月10日は、日本軍の4日間にわたる「大演習」の初日でした。前日、那覇で三二軍の主要部隊の幹部らがそのための祝宴を開いていました。アメ
リカ軍はこの演習を見通したかのように、本島東海上にいた第五八機動部隊の空母艦載機(グラマン、カーチスフォークP36)による早朝からの空襲となりました。
日本軍は、上級将校まで「これは日本軍の演習だ」と住民に言っている証言がたくさん出てきます。このような日本軍の反応でしたから、初期消火活動や対空砲火なども行っていますが、打つ手はなくアメ
リカ軍のなすがままでした。全県で軍民約1500人の死傷者がでました。日本軍関係の死者は、軍人218人、軍夫120人となっています。
アメ リカ軍は、軍事関係施設のみならず民間地域まで無差別の爆撃を行い、中には意味不明の爆撃も行われています。住民証言によれば、「残りの爆弾を捨てるためだった」と言われるもので、東海上の艦船から発進した艦載機が、空襲の帰途、東海上へぬける手前で爆弾を投下していたものと思われます。那覇・小禄飛行場東方の南風原町与那覇、佐敷、知念や北・中飛行場東方の勝連半島周辺離島などがそれにあたるのではないかと思われます。
[証言から]
〇「その日の正午頃から、初めて平安座島は空襲をうけました。この空襲で、平安座島の部落の殆んどが焼かれてしまいました。特に学校に近い西側の住居は、丁度私の家を境にして全部やられました。」
〇「はじめ字民らは、友軍の演習だと思った。その日は友軍の演習があるという予告があった。那覇方面が爆撃され、燃えるのを見ていたが、敵機が小那覇にも飛来し爆撃されたので、これはほんとうの空襲だと思い、みんな避難壕や近くの山に逃げ出した。字民らが実際の空襲を体験したのは、この時がほじめてであった。」
「最初、小那覇橋付近にいた友軍が敵機に発見され、機銃攻撃を受けた。軍人がいるのを見つけたグラマン機は次々に民家も攻撃した。部落内では、前島小(屋号)一帯の一番組と二番組を中心に敵機の焼夷弾攻撃を受け34、5戸が焼失した。家から家へと燃え広がっていく類焼ではなく、焼夷弾を打ち込まれた民家が一斉にあっちこっちで燃え出したのである。この焼夷弾はグラマン機から発射される時から普通の弾とは違い、火の玉のように真赤に燃えていた。一人が機銃に当たり亡くなった。その他前伊波小(屋号)の弟や女の人など2人が怪我した。部落が焼夷弾攻撃されたのはわずか20分間ぐらいであった。」「製糖工場も敵機の爆撃を受け、焼失してしまった。」(「西原町史」)
〇「米軍機が、新里の方から私たちの字佐敷辺りまで低空飛行してきて、機銃掃射をするのです。焼夷弾も落とされ、あちらこちらから火が出ていました。私の家は瓦葺きでしたが、このとき焼けてしまいました。」「十・十空襲では馬天港もだいぶやられました。兼久は馬天港に近い海辺の部落ですから、民家も被害を受けて、兼久の人が一人犠牲になりました。(「佐敷町史」)
関連2 他の空襲はどんなでしたか。
※以下の状況は、「県史10巻」から実際に銃爆撃などが行われたもののみを取り出してあります。
◇1944年(昭和19)の十・十空襲以前及び以降
[宮古諸島]
〇10月13日…15機空襲。海軍兵舎や製糖会社が銃爆撃を受ける。
〇12月3日…3回目の空襲。
〇12月下旬…B24による空襲。
[大東諸島]
〇10月3日…B24、沖大東島銃撃。(※この空襲が沖縄における最初のものです)
◇1945年(昭和20)の空襲
[宮古諸島]
〇1月4、5、6日…少数の空襲が続いた。
〇1月9日…多良間島と水納島も初空襲、7人の死者。
〇21日…午前中グラマン延20機。19時より夜間空襲。戦死29(うち民間1)、戦傷24、機帆船1隻沈没、隆祥丸大破炎上、タンカー1隻小破。
〇1月22日…日中三波にわたりグラマン19機が来襲、海軍飛行場、船舶、測候所、受信所を銃爆撃、戦死傷5、損傷船舶6隻の損害を与えた。
〇2月5日…空襲。
〇7日、8日、13日、14日…散発的な空襲
〇15、16日…小編隊による空襲
〇23日…池間島灯台付近空襲
〇24日…漲水港の沖で2千トン級の船2隻沈没。
〇27日…B24空襲。
〇3月1日…グラマン2機の早朝から午後に至るまで、一方的な攻撃。2千トン級の輸送船の1隻がごう沈、1隻が炎上、1隻の小型艦艇が沈没。
〇2日、3日、5日、7日、9日、10日、12日、14日、22日…空襲は小規模。
〇23日…大編隊による空襲
〇24日…終日空襲
〇27日…伊良部島が空襲
〇31日…B24が二波来襲、宮高女、無電塔が攻撃。
〇4月1日…早朝から五波の空襲。3月までの空襲は主に軍事目標だったが、4月にはいると、市街地がねらわれるようになった。
〇2日…伊良部島、来間島空襲。
〇3日…平良の街の中央や南部が爆弾をあびる。
〇4日…終日空襲、与那覇部落で10軒焼失。
〇5日…延200磯
〇6日…上地、与那覇で20数戸焼失。
〇7日…58機。
〇8日…終日空襲、のべ300機内外。
〇9日…平良の街の北部一帯が焼夷攻撃をうけ、大火災が発生
〇10日…延19機による空襲
〇13日…延べ23機。西辺で犠牲者。
〇18日…上地で爆死者。
〇20日…航空総攻撃の先制の58機の来襲
〇29日…空襲。
〇5月4日…空襲は連日続き、この月のべ2000機。
〇6月…5月同様、連日の空襲。
〇7月…上旬は激しく次第に空襲は散発的
[大東諸島]
〇2月18日… B24、1機来襲。飛行場付近に爆弾3個投下。地上砲火により撃破。
〇3月10日…グラマン二十機編隊来襲。第1波、機銃掃射及び焼夷弾投下。第2波爆弾攻撃。砂糖倉庫に焼夷弾落下約3万俵が9日間にわたって燃え続け、鉄道線路上は一面アメ
の海と化し交通不能。
〇11日…大空襲。延97機。砂糖倉庫、木工室倉庫など焼失。軍は、戦果、撃墜8機撃破29機と発表。
〇21日…米艦載機22機来襲。機銃掃射
〇24日…米機来襲。製糖工場、倉庫など焼失。
〇25日…米磯来襲、飛行場を爆撃。1機撃墜。
〇26日…米機来襲。観測所、農場焼く。
〇27日米機来襲。午前中連続爆撃。
〇30日…米機来襲2回、銃爆撃、延11機。
〇31日…米機来襲2回、学校付近銃爆撃。
〇4月1日…米機来襲。写真館、大東寺焼失。
〇2日…米機来襲2回、爆撃。
〇5日…米機来襲数回、銃爆撃。
〇6日…米機百機による大爆撃。地上建造物大破。
〇8日…空襲。砲台一門破壊。
〇9日…空襲、30機以上。在所に火災。2機撃墜。
〇10日…艦砲、艦載機と連絡の下に諸施設を破壊。
〇11日〜14日…連日B24による空襲。
〇17日…米機来襲、銃爆撃。
〇18日…米機来襲、2機撃墜。
〇20日…米機来襲、銃撃。
〇21日…米機来襲、約3時間銃爆撃後艦砲、社宅全滅状態。
〇22日…米機来襲。
〇6月10日…最後の敵襲。大空襲、艦砲射撃熾烈、約2時間続く。飛行場、社宅地帯、学校、観測所など壊滅状態。
[久米島]
〇1月22日…空襲。軍用船8隻が撃沈あるいは炎上。仲里国民学校などが甚大な損害
〇2月6日…嘉進丸(徴用運搬船)、銃爆撃で30数名の犠牲者。
〇14日…軍用船3隻が撃沈。
〇3月1日…グラマンの焼夷弾で31戸が焼失。
〇23日…断続的空襲で公共建造物、工場、山野、民家に被害。
〇4月…小康状態。
〇6月26日未明…米軍上陸。
[屋我地島(愛楽園)]
〇1月1日…空襲。
〇2月22日…空襲。
〇3月1日…空襲。犠牲者1名。
〇10日…空襲。職員事務本館と倉庫焼失。
〇23日…この日から連日空襲。
〇4月中旬…800キロの大型爆弾、入園者地帯に多数投下。
[北谷町](「北谷町史」)
〇1月21日、22日…空襲
〇3月1日…飛行場、船舶への空襲
〇(23日…沖縄本島への空爆艦載機延355機。)
〇(24日…沖縄本島への空爆艦載機延600機。艦砲約700発。)
〇25日…空爆艦載機延515機。艦砲約200発。
〇26日…空爆艦載機延713機。艦砲北飛行場60発・中飛行場70発。
〇27日…空爆艦載機500機以上。艦砲残波岬から平安山地区約600発。
〇(28日…沖縄本島空爆艦載機約550機。艦砲2,046発。)
〇29日…空爆艦載機約350機。艦砲北飛行場地区約2500発・中飛行場地区約800発・北谷地域約1300発。
〇(30日…空爆艦載機約350機、艦砲不明。)
〇31日…空爆艦載機不明。艦砲北・中飛行場方面約500発、北谷方面約100発。
〇4月1日(本島上陸)…北・中飛行場地区および西海岸地区、五インチ砲以上の砲弾44,825発。ロケット弾33,000発、迫撃弾22,500発。空爆艦載機128機。
〇本島上陸以降、アメ リカ軍は、戦線に沿った戦闘の展開によって、陸と海(艦砲)からの攻撃とに呼応しながら、航空機、兵器、弾丸等の集類を代えて空襲を続けました。
[沖縄本島]
〇1月3日〜5日…艦載機本島全域を空襲
〇8〜9日…同上
〇10日…同上
〇19日…同上
〇21〜22日…同上
〇3月1日…艦載機沖縄各地を空襲
〇23日…沖縄本島に空爆開始
〇24日…艦砲射撃開始
〇25日〜26日…空爆、艦砲
〇27日…南西諸島に艦載機空襲、本島・久米島・大東島に艦砲
〇28日〜29日…空爆、艦砲
〇30日…空爆、艦砲不明
〇31日…空爆不明、艦砲
関連3 どのぐらい家が失われましたか。
沖縄戦における家屋の調査は沖縄全体では調査されていません。市町村段階での調査結果でお答えいたします。
◇糸満市の場合
6,800戸のうち、6,664戸が全焼・全壊となり、約98%の家屋が消失しています。
残った家屋は字糸満で71戸、字兼城で18戸、字阿波根で10戸…、というものです。
◇浦添市の場合
1,954戸のうち、約99%の1,939戸が全焼・全壊となっています。
全焼・全壊を免れたのは、伊祖3戸、屋富祖2戸、宮城3戸、仲西1戸、小湾2戸、沢岻1戸、前田1戸、西原1戸、当山1戸となっています。
◇南風原町の場合
1,681戸の内1,651戸(約98%)が全焼・全壊となっています。
全焼・全壊を免れたのは、兼城(半壊1)津嘉山(6)与那覇(7)大名(1)山川(3)神里(3)宮平(5)喜屋武(4)となっています。
◇豊見城村の場合
1,886うち94%の1,773戸が焼失・破壊されました。
◇石垣市の場合
全焼全壊は156戸ですが、全体の戸数が不明なので割合はわかりません。
◇北中城村島袋の例
珍しい例ですが、中城村の島袋(現北中城村島袋)は、アメ
リカ軍の上陸進攻の時点で無血投降をし、集落全戸数の破壊を免れました。しかし、アメリカ軍は、日本軍(兵)の潜入を防ぐという名目で、住民全員を北部に移動させ、その間に全家屋を焼き払ってしまいました。
[7−戦争被害−7]なぜ「自決」や「集団自決」が起こったのですか。
◇「集団自決」の状況
沖縄戦の中で、最も悲惨なことが「集団自決〈自決〉」と言われているものです。これは、沖縄戦が世界の歴史の中でも最も残酷な戦争であったという理由の一つです。
「集団自決」の実態はどんなものだったのでしょうか。証言等をもとに整理してみます。例えば、慶良間諸島の渡嘉敷島や座間味島であった「集団自決」は次のようなものでした。
「証言から」
例1
「…鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱しめると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。…村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。
防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷の人のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。…若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカくり返えすのですが、私のときと同じです。とうとう、この若者は、手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それでもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのか−、誰か殺して−」とわめいていました。その時、私には「殺して−」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるように共感の気持でした。
意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて、出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに私は死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった時です。私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず…。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。そのあと死んでいった私の義兄だったかも知りません。私は、殺されて私の側に寝ている二人の息子に、雨がっぱをかぶせました。
例2
「K人々が、特に私たちの近くを阿波連の人たちがぞろぞろ行くものですから、私たちもそうしただけでした。
N 私は映画みたようでした。死にに行くってよ−、あなたたちは行かないの−、といっているのを夢みたいに聞いていました。
H うしろに米兵がいて、それが、追っかけて来るような錯覚におち入っていました。
G 私たちが本部に着いた時は、とっぷり日は暮れていましたが、みんな死ぬ準備していました。
N その時、手榴弾を防衛隊が配っていた。」
例3
「…もう行く所もないということで壕にひきかえし、持っていた縄で最初に奥さんの首をしめ、次に娘さんの首を強くしめました。そしてそれぞれの死を確認したあと、自分の首を無我夢中でしめている所を米兵に見つかり、未すいに終わって捕虜となりました。」
例4
「私は父と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、捕虜となってしまいました。」
例5
「玉砕の際、他の人たちは家族で首をしめて殺しあっているのに、妹と二人だけなので、首をしめるにも女の力では失敗するではないかという気持があったため、ちょうど米軍機から爆弾が落とされ、近くの山が燃えていたので、その火の中にとびこんでいきました。」
例6
「木麻黄には多くの人々が顔を黒くしてぶら下がり、中には生後18日目の赤ん防が母親の下がった隣の枝にぶらさがっている様子や、また、木の下では、首に縄が巻きつけられたままの赤ん坊が、すでに死んでしまった母親のお乳をさかんに吸っている様子などは何とも表現のしようのない痛ましい光景でした。」
例7
「上陸してきた米兵を見た時、立ちむかうというより、すぐ死ぬ事を考えました。一緒にいた部落民は、父親が妻や子の首をしめたり、夢中になって木にぶら下がるもの、猫いらずをうばいあって、なめて苦しむ者、表現できないほど残虐な事がやってのけられていました。」
例8
「私達も死ぬ方法を考えた結果、首をくくるに限ると思い縄をさがしている所へ米兵がやってきてつかまってしまいました。」
例9
「私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引受けてくれ、身仕度を整えるよういいつけました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持を惜しまないでりっぱに死んでいきましょう」と言ってから、1人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぼうに手りゅう弾を投げつけました。その中の2コが1人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。…水をくんで壕に戻ると、重傷を負った女の子が、「おばさん、苦しいよ−、水、水…」と水を要求してきました。傷口からは息がもれて、非常に苦しそうです。その子とかかわっている最中、突然、校長先生が、奥さんの首を切り始めました。すると奥さんの方は切られながらも、「お父さん、まだですよ。もう少しですよ」と言っています。そこら一帯は血がとびちり、帳簿などにも血がべっとりとくっつきました。校長先生は奥さんの首を切り終えると、先程最後に死んでくれるようお願いしたにも拘らず、今度は自らの首を切ったため、「シューッ」と血の出る音と同時に倒れてしまいました。私達はびっくりして校長先生の名前を呼び続けましたが、もう何の反応もありません。私の着ている服は返り血をあびて、まっ赤に染まってしまいました。未すいに終わった奥さんは私に、「お父さんのそばに寝かせて手をくませて下さい」だとか、「もし私が死んだら、故郷(佐敷村)に連れて行って下さい」だとか、後々の事を要求してきました。最後には、重傷の女の子も息をひきとりました。」
例10
「私達や残った家族は最後まで死ぬ覚悟で、いつまでも壕の中にいました。さて、どのようにして死んだらいいものかと、武器を調べてみると、手りゅう弾一コとカミソリしかありません。手りゆう弾では失敗するかも知れないと、年輩の女の先生は、カミソリを取り出して自分の子供たちの首を切り、最後に自分の首をきりましたが、みんな未遂に終わりました。私はそれを見てかわいそうになり、『どうせ死んでしまうんだから』と水をくんできて与えようとしましたが飲みたがる様子もありませんでした。」
例11
「渡嘉敷村の人たちは、鍬や、ナタを使って自決を計ったらしく、体の一部分に鍬のたてられた跡が残っている人もいます。…渡嘉敷から来た重体患者の中に、一家玉砕し、1人だけ未遂に終わり、米兵に救われた女の子が運ばれてきていました。」
例12
「米兵が壕の前にずらりとならんでいる。あまりの数に私達はびっくりして、さっさと死ななければ、と思い、まず父がかたい縄で私達四人の首をしめたが、なかなか死ぬことができない。これではだめだと思い、今度は父が南洋から持ってきたカミソリがあったため、それで首を切ることにした。まず初めに、母の首を切り、次に私の首を切った。私は、何かノド元をさわったかな、と思うと同時になま暖かい血が胸を流れはじめたため、その時首が切れたんだな、と思った。そして次には、弟、妹という順で切っていくと、母が、「まだ死ねないからもう一度切ってごらん」というので父は、それでは、と再び母のノド元を切りつけた。その時に弟は、『おとうさん』という一声を出してそのまま倒れてしまい出血多量で死んでしまった。最後に父も自分の首を切っていた。」
例13
「カマを首にあてながら、『サーどうしようか。これで首を切ろうか』とあわてている。…しまいには少し上の壕にいる人たちを呼びながら猫いらずをくれ、と叫んでいる。『もうしかたないからこっちにいっしょに来てくれ』という。上にいる人たちはそれに答えて下の方に来て、みんなに猫いらずを手渡した。そして一升びんの水をまわした。猫いらずをなめては苦しみながら、早く水、水、とさかんに水を求めている。例の赤ちゃんをおぶった婦人は猫いらずを手にして口に入れる前に先程言ったように私の方にやってきて、「おばさん、ほんとに生きられるだけ生きていて下さいよ」とくり返しいいながら薬を飲もうとするので、私は、『あなた方だけ飲まずに私達にも分けて下さい』とお願いしたが、その婦人は、ゆのみをひっくり返しながら、もうない、ということで自分の口に入れてしまった。すると、婦人の弟が入口の木に火をつけはじめた。しかし壕は土であるため、全部は燃えることなく入口だけをこがした程だった。上の壕からおりてきた人たちは、猫いらずを口にすると、自分たちの壕で死ぬんだ、ということで急いで走っていった。」
◇「自決」の道具
何とも言いようのない残酷な殺害場面ですが、「自決」に使われたのは、カミソリ、ナタ、縄、手榴弾、クワ、カマ、包丁、猫いらず等の農薬、注射、岩石、材木など、身の回りにあったものが凶器となっいます。
そして、このような痛ましい「集団自決」が行われたのは、沖縄戦全体で数十か所、数千人と言われていますが、個人的な「自決」を含めるとその数はふえることになります。
◇「自決」の意味
だれしも、このような「集団自決」がなぜ起こったのかという疑問を抱きます。その理由を説明する前に、「自決」の意味について共通理解をしておきたいと思います。
国語辞典には「責任をもって自殺すること」とあります。この意味で言えば、沖縄戦における住民の「自決」という使い方は正しいとはいえません。「牛島司令官が自決」とは言えても、戦争に巻き込まれた一般住民の「自決」は正しい表現ではありません。
そこで、「集団死」とか「集団自殺」という用語も使われていますが、「集団自決」という用語にはその概念が定着しているようにも思われます。したがって、本稿では「」付きの「集団自決」または「自決」という表記を使って特別の意味を表します。
◇「自決」の理由
さて、沖縄戦において特異な戦没の仕方がなぜ起こったのでしょうか。「自決」の場所や方法、「自決」した人々の気持ちは様々ですが、「自決」にいたる経過には共通するものがあります。
「自決」の理由について証言から拾いあげると次のようになります。
〇逃げ場がなくどうしようもない状況
〇米軍の上陸が目前、または米軍の攻撃が近づいてくる恐怖感
〇助けを求めた日本軍に拒否されたり、追い返されたりした。
〇捕虜になるよりは死んだ方が…。
〇日本軍に「自決せよ」と言われた。
〇「死ぬ」のが当然という気持ち
〇自分だけ生き残れない。
〇生き残るのが恥ずかしい。
〇死ねないのは申し訳ない。
これらを整理すると、次のことが言えます。
[米軍上陸→逃げる→逃げ場を失う→日本軍の守護に頼る→拒否される→捕虜にはなれない(米軍が恐い
・友軍が恐い ・申し訳ない等)→死ぬしかない(みごと死んでみせる・仕方なく死んでいく・自分だけは生き残れない・恥である)→「自決」]
もちろん、一人一人がそれぞれの理由で自分の心の中で「死」を覚悟していることは間違いないようです。しかし、その段階での「死」の決定ならば、それは「自殺」といい、その数の多さから言えば「集団自殺」ということになります。「自決」は自殺とどこが違うのでしょうか。
◇「自決」覚悟の共通性
沖縄戦における「集団自決」の特異性は、その「死」の覚悟の中に共通したものがあることです。それは、あたかも前もって決まっていたかのように、一人一人が「死」を覚悟し、それを実行に移していることです。それを証明しているのが、「自決」に使われたカミソリや農薬などですが、事前に覚悟を決めていなければ持って避難することはないものです。特にカミソリは多くの住民がもっていることが、証言でわかります。また、実際の「自決」現場で、異議を唱える人がいないということです。数か所で、子どもが「死ぬのは嫌だ」という発言があることが報告されているだけで、大人は、せいぜいその機会を延ばしていることぐらいです。
それは何を意味するのでしょうか。「自決」が一人一人の「死の覚悟」としてではなく、全体が、沖縄戦の始まる前からすでに「死の覚悟」をしていたことを意味します。特別話し合ったわけではないが、一人一人が(こんな状況になったら死ぬのだ)という気持ちが住民全体に行きわたっていたのではないかということです。
「こんな状況」というのは絶体絶命の状況をさしています。激しい戦場では、戦死を免れても逃げ場を失えば、捕虜(このこと自体民間人は「捕虜」ではなく「保護」だったのですが、それも日本軍によって植えつけられていた)になるしかありません。しかし、それは出来ませんでした。なぜかと言えば「米軍に対する恐怖感」と「日本軍に対する恐怖感」が同時にあったからです。なぜそのような二つの「恐怖感」が作られていったのでしょうか。
◇日本軍と沖縄差別
「自決」という考えが沖縄県民にいつごろ芽生えたのか定かではありませんが、「皇国」と「軍隊」思想が持ち込まれ、学校教育を中心にあらゆる教育の場で教えられてからのことだと思われます。なぜなら、その根底には日本軍の「軍人勅諭」からつながる「戦陣訓」の玉砕精神が潜んでいるし、もともと沖縄の県民性として楽天的な生き方が一般的だったと考えられるからです。
沖縄は、昔から一国のような立場でしたから、「大和
・日本」のように天皇を頂点にした政治はあまり関係ありませんでした。ところが、薩摩の支配、明治期の琉球処分を経て沖縄県になってから、中央の力が強く押しつけられるようになりました。その中心が「天皇」と「軍隊」思想だったのです。もちろん、この考え方の浸透は他府県に比べて遅れていたわけですが、そのことが他府県からの差別のもととなりました。
(参照「日本軍は沖縄県民をどう見たか」
そこで、このような考え方の遅れを取り戻すために、軍に協力する形で、県 ・市郡町村
・学校 ・警察 ・その他によって強力な教育の力で宣伝をはじめたのです。知事以下、沖縄県内の要職のほとんどを「本土人」によって占め、沖縄の「皇国化」に強力な指導を加えました。このような教育は、一方では民主主義の考え方を否定し、民主主義の運動などを押さえつけながら、明治、大正、昭和と続いていきました。そして沖縄戦が始まる前にはほとんどの人たちに浸透させてしまいました。
そのころ、初めて沖縄に日本軍が新設されたのでした。そして、日本軍は、沖縄の人たちに「供出」と「徴用」の二つを要求してきました。つまり、戦争のために、兵隊の食糧や兵舎の資材などを出させたり、飛行場の建設や軍の陣地づくり動員したりしました。
沖縄の人たちは、日本軍のことを「友軍」と呼んで最大限の協力をしました。部隊の将校たちは、たいてい民家に宿泊し、兵隊なども部隊によっては民家に宿泊していましたから、住民と日本軍は親しくなりました。そのことを誇りにも思っていました。そして、住民は、これまで徹底的に教育されてきた「天皇のために(国のために)」身を犠牲にすることを率先してこなしていきました。
一方の日本軍はどうだったのでしょうか。「軍民一体で祖国を守る」とか言って、県民の利用できるものは徹底的に利用し、役にたたない者は「邪魔者」扱いでした。「疎開」などの理由もこの「邪魔者」を追い払うためのもので、その分食糧が確保できるという考えも含まれていました。
◇日本軍の本質
日本軍の兵隊たちはその多くが、沖縄を日本とは思っていませんでした。沖縄を昔からの日本ではなく、明治になって日本に属した所という意味で、「内地とは違う所」という受けとめ方で差別していました。沖縄に来た日本軍の兵隊たちはその多くが「外地」である中国の「満州国」から移動した部隊でしたから、沖縄を守るという気構えはなく、「祖国=天皇の国(俗に言う本土)」を守るためにいるのだという気持ちでした。
ですから、沖縄県民の気持ちと日本軍の気持ちにはズレがありました。日本軍の兵隊たちは、「外地」にいる気持ちでしたから、親切にすれば仲良くするが、気持ちが合わなければ馬鹿にしたり、脅したりしました。
もともと、沖縄に対しては、明治時代より差別感があったのですから、それに重なって二重にも三重にも沖縄の人を馬鹿にしていました。その最大のものが「沖縄県人総スパイ」という見方です。沖縄戦を前に、三十二軍の指揮官となった牛島司令官がはじめに将校たちに訓示したことの中に、「スパイには注意しろ」という項目があります。献身的に協力している沖縄の人に対して、一方では「スパイ視」していたわけですから、信じられない日本軍ということになります。 (参照「牛島司令官の訓示」)
沖縄戦が始まってからは、このことがいよいよ県民に知られるようになりました。避難民は戦場にかり出すし、食糧は奪うし、避難壕からは追い出すし、泣く子は殺すし、方言の老人を虐殺するし……。恐怖の日本軍の真の姿が、実際の戦場で顕れた形になりました。 このように、戦場で個々に日本兵と接していく中で、県民の日本軍に対する恐怖感と不信感は募っていったのです。
◇アメ リカ軍への恐怖感
日本軍は一方では、沖縄の人に対して、アメ
リカ軍のことを「住民が捕虜になったら、男は戦車で殺し、女は暴行した後殺す」と戦争前から風評として住民の間に広げていました。そのことによって、沖縄の人に対して、アメ
リカ軍に対する恐怖心をうえつけました。そもそも、住民が捕虜になることはあり得ないのに、「保護」を「捕虜」にすり替えたところに日本軍のごまかしの意図がありました。
その理由は、日本軍の秘密がアメ リカ軍に漏れるのを恐れたからでした。先にものべましたが、日本軍は、陣地づくりや飛行場づくり等に住民を動員させました。また、将校や兵隊たちが民家に宿泊していたため日本軍と住民が親しくなり、それらのことから、住民がアメ
リカ軍の「捕虜」になると、軍の秘密がもれるのではないかという危機感をありました。
もちろん、その裏には沖縄の人に対する不信感があったからにほかなりませんが、捕虜になるのを防ぐために、米軍の残酷さを宣伝し、実際に捕虜になるのを殺害したり、脅したりしていました。
ただ、沖縄は海外移民の多い県でしたから、移民帰りの人も多く、その人たちはこのデマを信じませんでした。しかし、あらゆる不平不満や反対は、「非国民」というレッテルを張られて弾圧される時代でしたから、日本軍に反対の声はだせませんでした。 (参照[48-平和への道-2]
◇「自決」しかなかった
さて、以上述べてきたことからお分かりのように、次の状況の中で県民は沖縄戦に巻き込まれていったのです。
〇日本軍は、沖縄を守るために来たのではなかったこと。
〇日本軍は沖縄の人たちを差別していたこと。
〇日本軍は沖縄の人たちをスパイをするのではないかと不信の目でみていたこと。
〇捕虜(正確には保護)になること(スパイ)を防ぐためにアメ
リカ軍の恐ろしさを信じ込ませたこと。
捕虜=スパイ容疑という目で見られている戦場では、逃げ場を失った住民が選べる道は二つしかありません。
@捕虜となること
A自ら命を絶つこと
本来の選択は、もちろん@ですが、住民の心はアメ
リカ軍と日本軍への恐怖感で満ちあふれていたのですから、捕虜になることはできませんでした。つまり、捕虜になることは、アメ
リカ軍の虐待や暴行をうけることになるし、日本軍からはスパイ容疑で殺されるし、絶望的な状況に追い詰められていました。その結果、覚悟していた「自決」の道へと突き進んで行ったというのが実際の姿ではないでしょうか。
したがって、その場で一人一人が「自決」をするかどうかということは、改めて考え直すということは無かったと思われます。「自決」の覚悟は決まっているわけでから、それを「どんな状況でするのか」ということだけに考える余地が残されていました。もちろんそれは絶望的な状況のことですが、その場の集団の判断(時には集団の雰囲気)、特にリーダー的人物の判断が大きな比重をしめていたことがわかります。そして、その判断に伴う実行のきっかけは極めて単純でした。まるで機械仕掛けのようにスイッチ一つで「自決」は始まったのです。
そのように理解するならば、「集団自決」が沖縄戦突入の初期や離島のように情報の届かない状況、ガマ(壕)深く避難した密室状況の中で多発していることも理解できるのではないでしょうか。
[8−戦争被害−8] なぜ住民虐殺が起こったのですか。
「集団自決」は、日本軍が流した「米軍への恐怖感」と日本軍の住民に対するスパイ容疑の板挟みの中で、追い詰められた住民が自ら命を断った悲惨な事件であったのに対して、「日本軍の虐殺事件」は、手を下したのが日本兵そのものであったことがこの事件の醜さをしめしています。この虐殺事件の背景にも、「集団自決」の原因や背景と同じことが横たわっています。
◇久米島の場合
久米島で起きた「日本軍による虐殺事件」は、部隊長の鹿山が起こした住民虐殺事件ですが、鹿山は、米軍が久米島に上陸した6月下旬、まだ山中に閉じこもり、米軍の攻撃を封じ込めるために、住民を人質状態にしていました。つまり、山中に避難していた住民に、下山する者はスパイと見なして銃殺にする、とういう命令だし、住民の投降を阻止していました。しかし、鹿山の統制力が弱い山に避難していた住民はすでに下山していました。村の安全さが山に伝わると、下山する者が増えましたが、そういう中で、鹿山は住民虐殺に走りました。
〇6月13日…3人の住民が米軍に拉致(らち)されたが、それを伝え聞いた鹿山は布告をだした。(参照「鹿山文書」)
〇6月27日…米軍の投降勧告書を持たされて山に入った郵便局員が殺害された。
〇6月29日…米兵に拉致された住民の3人の内2人が帰島したが、鹿山は、その2人の家族と区長及び警防団長を殺害し、家を焼き払った。
〇8月17日…本島で米軍の捕虜となり、住民の投降勧告担当として、米軍の攻撃を止めさせ、山中の住民に投降を呼びかけていた住民の家族全員が斬殺された。
〇8月20日…戦前から久米島に住んでいた朝鮮人の家族(妻は沖縄女性)7人を事実無根のスパイ視で惨殺した。
〇未遂には終わったが、農業会長はじめ米軍との接触のあった者は全員射殺するという計画が伝えられていた。
虐殺が実行されたのは、沖縄戦の組織的戦闘が終了した6月の下旬以降になっています。6月下旬以降というのは、島の住民がアメ
リカ軍と接触の後のことで、ここに「虐殺事件」の理由が存在します。
日本軍が常に住民に対して不信感を持っていた「スパイ容疑」がその根底にあります。つまり、米軍との接触はすなわち「スパイ」と同じことだという観念が強く働いています。 そして、「スパイ容疑」による虐殺も、常に「国体護持」(天皇の国を護ること)のためということに繋がっています。つまり、数々の日本軍の犯した住民に対する罪悪は、すべて「天皇の国を護る」ために行われていたことになります。
例えば、朝鮮人家族の虐殺事件では、日本兵が子どもたちを刺殺する時、「こやつも将来日本を売ることになる」とか「朝鮮の子供は大人になると何をするかわからない」というセリフを吐いていることからも理解できます。つまり、今は子どもだが、朝鮮人である父親の血を引いている(あるいはスパイの血を引いている)以上、大きくなったら同じようにスパイで日本の敵となる、という意味になります。したがって、この段階では、「スパイ容疑」の実行による虐殺ではなく、将来にわたってのスパイ容疑ということになり、紛れもなく「国体護持」のためという意識が働いています。
以下、その他の事例をみても、その主たる理由は、「スパイ容疑」であることがわかります。もちろん、それは、住民に対する差別感が大きく影を落としていることは否定できません。また、部分的には、「収容所襲撃虐殺事件」の場合のように、スパイ容疑を根底にして、食糧強奪が直接の原因となっている場合もあります。このような食糧が絡んだ日本兵による虐殺事件は、南部のガマ(壕)の中や、北部での米軍捕虜収容所内でも起こっています。
しかし、いずれの場合も、「我々の命令は天皇陛下の命令と同じだ」(住民に対して強く出る時の日本兵の代表的なセリフ)からもわかるように「国体護持」へとつながっていることは明らかです。
◇渡嘉敷島(赤松隊)の場合
・米軍は、伊江島から収容した伊江村民男女6名を選び出し、投降勧告文書を持たせて、西山陣地に送り出した。赤松は、この6名を拘束して自決か処刑かの選択をさせている。6名は自決を選び、うち5名は自決し、逃げた1人は斬首された。
・7月2日、部隊は防衛隊員を敵に通ずる恐れがあるとして処刑した。
・2少年が、米兵に発砲されて山に逃げたところ、日本兵に捕まり「日本人として捕虜になった」として自決させらた。
・米軍は、村民下山後、更に降伏勧告のために4名を派遣した。2人は帰って来たが、2人は殺害された。
・赤松は、村民を下山させた村長と郵便局長を捕えようと捜索していた。
◇伊是名島の場合
・戦争中も自由に歩きまわっていたバクロー(家畜仲買人)が、スパイという嫌疑をかけられて敗残兵に殺された。
・漁師の傭い子が、スパイのおそれがあるといって、少なくとも2人は殺された。1人は後から追っかけていって日本刀で首を斬り落された。
・伊是名(部落)の西の浜で殺された15、6歳の少年。
◇本部の場合
・国民学校の校長が、山の中をさまよい歩いているうちに日本軍に捕まえられ、スパイ呼ばわりされたあげくに斬殺された。
・他の男性は、日本兵に道案内をしてくれと誘い出され、斬殺された。
・5名の部下をひき連れた敗残兵が、「私は運天から来た者だ。きさまらがスパイをしたために日本は負けてしまった。外へ出ろ。斬り殺してやる」とどなりながら、軍刀をチャラチャラさせていた。(未遂。食糧を強奪して去る)。
・ポケットから帳面を出して、これとこれは明日斬ってやる、などと残忍な言葉を吐いていた。その帳面には、村の指導者層の名前が殆んど書きつらねられていた(事後不明)。
◇大宜味村の場合
・収容所襲撃事件…5月12日の真夜中、十数名の日本兵が米軍管理下の捕虜収容の民家を襲撃し、数十名(推定)の避難民を虐殺。
・7月22日の夕方、紫雲隊所属の伊沢曹長以下数名が夫の住家へ来て、スパイ行為をしていると称し、目隠しをなし、両手を後手に縛りつけ、銃剣で刺殺し山林内へ埋めた。
・数名がスパイ容疑でリスト・アップされていたが、部落民の下山が早くなってその難を免がれた。
◇今帰仁村の場合
「証言から」
・アメ リカ帰りでスペイン語が話せる平良コウ何とかいう人が日本軍に最初にやられた。
・何名かグループをつくって、あっちこっちリストにもとづいてやっていた。
・うちのおやじ連中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行ってとり囲んでいた。相手は5、6名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。
◇首里の場合
・方言しか話せない老人が、自分の家族を捜すためにガマの中を捜しているのを、日本兵の軍曹が捕まえて縛り上げ、何日も見せしめにし、最後は日本刀で殺した。
関連1 日本軍による「スパイ殺害」(住民)で何人ぐらい死んでいますか。
日本軍(兵)による沖縄住民の虐殺は正確な数字は明らかにする調査がないので不明のままですが、約40件数百人と言われています。
久米島や渡嘉敷島での虐殺はよく知られていますが、その他の離島や沖縄本島の各地でも住民虐殺があり、特に大宜味村での収容所襲撃虐殺事件は、数十名に及ぶ大量虐殺事件として残忍極まるものでした。
また、厚生省が調査をした「14歳未満のケース別戦没理由」にも、「友軍よりの射殺14人」というのがありますが、射殺のみならず毒殺、絞殺、刺殺、斬殺等も証言では見られるので、その数はもっと増える可能性があります。
一方、実際に殺されそうになり、知り合いの日本兵を呼んで助かった人や、それでも助からなかった人、偶然出会った日本兵が知り合いだったりして助かった例など、いくらでも証言にでてきます。
実際の正確な数字は明らかにすることはできませんが、国内の戦場で、味方の兵隊に殺害されるという残酷なこの虐殺事件は、「集団自決」と共に沖縄戦における日本軍の残虐性をあらわにしたものの一つとなっています。
[9−戦争被害−9] 離島の被害はどんなでしたか。
沖縄は、県全体が離島でありながら、さらに遠くの離島を抱えた離島県となっています。
沖縄戦に関して言えば、日米の戦闘が激しかったのは「沖縄本島」という認識が強いだけに、離島では戦争は無かった、あるいは、あっても被害は少なかったという理解が多いと思います。確かに、沖縄本島に比べて戦没者は少ないですが、それぞれに戦争の爪痕は大きなものがあります。
当時人が住んでいた沖縄本島以外の離島は約40島ありますが、その全てについて述べることはできないので、地域別に特徴的なことを説明したいと思います。この項の回答は『県史10巻』の解説と証言をもとに期日順や項目別にまとめてみました。なお、証言は表記をそのまま掲載しまたので、全体として表記の乱れが生じています。
(1)最北端の伊平屋島・伊是名島
〇両島とも、日本軍の配備はありませんでしたが、西村、宮城という2名の特務員(秘密ゲリラ訓練要員)が配置されていて、民間だけの防衛隊をつくり訓練をしていました。
〇1944年(昭和19)10月の十・十空襲で両島の連絡船が襲撃され、船員1名が死亡しています。そして、翌年2月12日の空襲でその船も撃沈され、両島とも輸送、通信が断たれてしまいました。
〇空襲とともに、山での避難生活が数か月続き、昼は壕の中、夜は避難小屋というふうに不自由な避難生活を送ります。
〇伊平屋、伊是名近海にいたアメ リカ軍の艦艇へ特攻機が体当たりしていますが、ほとんど打ち落とされています。この近海は特攻機の墓場でした。
〇沖縄戦が激しくなるにつれ、日本軍の敗残兵や脱走兵がはいりこんできて、住民をだまし、食糧や舟の供出をさせ、与論島を経由して本土へ逃げていくのもたくさんいました。
〇また、アメ リカ兵捕虜虐殺事件を起こしたり、住民をスパイ容疑で虐殺したりしていました。住民は正規の日本軍と思い、献身的に協力していたのです。
〇アメ リカ軍の占領となり、焼け残った民家で、スシ詰めの六か月にわたる収容所生活が続きました。
「証言から」
@伊平屋島の場合
〇1945年(昭和20)6月3日、米軍が上陸を開始し、島の周囲は艦艇100余隻に包囲され、前泊一帯が砲撃されました。空からの銃爆撃も加わり、島内はわずか3時間で米海兵隊に占領されてしまいました。その時の死傷者は47名でした。
〇前岳の壕へ逃げた人たちがいちばん犠牲になっています。逃げる途中に道で艦砲が始まったわけです。その道端には、髪の毛だとか肉のきれが散って、アダンの木などにも肉片がぶらさがっているありさまでした。
〇学校は山に移し、1945年の暮ごろから上陸の日まで、約半年は授業を続けていましたが、先生方も伊江島の飛行場づくりに徴用されています。
〇アメ リカ軍が放棄した猛毒の「ヒ素」に汚染された土地で、8名の住民がヒ素中毒でなくなっています。
A伊是名島の場合
〇供出では、牛も豚も供出して自分のものはないですよ。少しずつは自分用のものを隠しはしておいたですがね。配給でもらえるのは玄米でほんの少しだけでした。家のなかまでさがしてみんなもっていくから何ものこらんわけです。うちに小さい子供が5名いたが毎日芋ばかり食べさせて、それでも足りなくて、麦ダッチー(米と麦を混ぜて炊いたもの)をつくってやるんですが上の子などは全然食べなくて困ったですよ。昭和18年ごろからはそういう状態になっていました。
〇十・十空襲の翌年からは、徴用があり、本島南部の陣地壕づくりに動員されたり、残った村人は、山の壕に避難して昼はかくれ、夜は月夜にもなると田畑にでて、働いて食糧確保をやっていました。
〇本格的な爆撃は、1月空襲、2月空襲、3月空襲のときで、機銃掃射がはげしく、焼夷弾も落されています。少なくても100発以上は落ちているはずです。焼けた家は33戸でした。家が燃えて、逃げおくれて焼け死んだのもいます。また、ソテツの澱粉をつくる工場が空襲されて、2名死んでいますよ。家畜や食糧のタネもみなども焼失しています。
〇それでも、食糧増産のため、夜植えつけしたり、夜の空襲には畔に伏せたりしながら仕事を続けました。
〇避難中は、夜部落へおりて、ニクブク(藁製の敷物)でまわりを囲んで、そこで煮炊きして山へ持っていったんです。
〇壕の中は泥だらけで、ノミやシラミにくいちらされて、衛生状態はほんとに悪かったですね。この島に昔からあるクサフルイ(フィラリア)はよく出ましたがこれで死んだのはいません。
〇6月の初め、伊平屋島に米軍が上陸したときは、伊是名にも上陸してくる模様でした。名嘉徳盛という青年が野甫(島)から伊平屋に泳いでいって、この島には軍事施設は何もないから攻撃しないでくれと米軍に頼んで、それが聞きいれられてこの島は救われたわけです。
〇アメ リカ軍の上陸に対しては、話し合いの結果、民間人は絶対殺さないはずだから、白旗をあげて降参する。先生など公職者はみんな本島に行ってしまったと答えること。女はボロを着けてなるべく汚く見せることなどを確認していました。「白旗」に関しては、日本軍の逆襲を恐れる意見もあったそうです。
〇その結果無血上陸し、収容されたが、それでも強姦事件が一件ありました。
(2)本部半島の沖合伊江島
〇大本営の方針で、伊江島は強大な飛行場基地として建設が進められ、伊江島住民を始め、多くの県民が徴用されて、過重な労働をさせられました。
〇最大二千数百人の将兵のため、公共施設や民家を提供させられました。
〇1944年(昭19)10月10日、アメ リカ軍艦載機は、伊江島にも空爆をおこないました。爆撃は建設中の飛行場に集中していたが、それでも唯一の連絡船と40数人の人命が奪われました。島の住民は再び飛行場の修復にかり出されました。
〇1945年(昭20)1月22日、第2回の空襲は、飛行場などばかりでなく、民間地域にも多大な損害をもたらし、空襲後は住民はまた飛行場修復にかり出されました。
〇3月上旬、陸軍飛行場が完成しました。全長1500メートルの滑走路3本をもつ、「東洋一を誇る」規模のものでした。
〇3月10日、日本軍は建設したばかりの飛行場を、突然破壊しはじめました。
〇村民は、アメ リカ軍上陸が近いことを察知し、島外への避難をはかりましたが、日本軍が波止場に監視員を配置して、14、5歳以上の青年男女の島外への脱出を禁止したので、監視員の眼を盗んでくり舟で脱出をはかった者の他は、老人と子どもづれの婦人に限られました。
〇3月23日、三度目の空襲により、島の民家はことごとく焼失し、さらに3月28日以後、島は連日の空爆下にさらされ、これに艦砲射撃が加わり、住民は洞窟や防空壕にこもりきりにさせられました。
〇4月前半に、本部半島を制圧したアメ リカ軍は、ついに島の西南岸に上陸しました。伊江島の戦闘は、4月21日、日本守備隊が全滅するまで6日間続きました。
〇伊江島の住民は、洞窟にひそんで死の恐怖におののき、戦野をさまよい、銃砲弾のえじきとなり、「集団自決」がありました。
〇一方、軍と行動をともにし、軍に協力させられ、死傷した者も多く出ました。例えば、島の女子青年で編成された従軍看護婦の救護班は、4月21日の守備隊の総攻撃には将兵とともにアメ
リカ軍戦車に体当りをするため、爆雷を背負って参加して多くの戦死者を出しました。この他に炊事班、大隊本部勤務の女子職員もいましたが、同じ運命をたどっています。
〇青年学校在学中の満14歳以上17歳末満の男子を以て組織された青年義勇隊は、攻撃時の道案内や、爆雷を背負ってのいわゆる「肉迫攻撃」を受けもち、多くの犠牲者を出しました。
〇満17歳以上46歳末満の男子が徴兵された防衛隊は、アメ
リカ軍の上陸時には、その貧弱な火力で戦闘し、全滅する小隊も出るなど多くの死者を出しました。4月18日、隊は解散になり、生存者は島を脱出して本部半島の宇土部隊に合流するか、または城山の守備隊に合流せよとの命令を受けました。脱出組は、いかだを組んで海峡に乗り出したが、潮流にのまれる者、アメ
リカ軍の銃撃に倒れる者が多く、本部半島に辿りついたのはごくわずかでした。また、城山陣地への合流ができた者もそのほとんどが戦死しています。
〇4月21日、日本軍の「玉砕」、そして全滅によって、伊江島の戦闘は終りましたが、この戦闘での死者は住民が1,500人といわれています。
〇九死に一生を得た人々は、難民キャンプに収容され、5月上旬、アメ
リカ軍の舟艇で、慶良間諸島へ運ばれました。渡嘉敷島では、赤松隊が山中にたてこもっており、住民もまだ山中にひそんだままの頃でした。慶良間における最大の苦しみは極端な食糧不足でした。
〇アメ リカ軍の命令で、山中の赤松隊に投降勧告に行った5人の伊江島出身者が、赤松隊に虐殺されるという事件がおこりました。
〇慶良間での1か年の生活のあと、久志、本部町などを転々と移動して、1947年(昭和22)、伊江島に帰ることを許されました。
〇一方、伊江島の戦闘の前に本部半島へ疎開した人々の苦しみも、また、同じでした。アメ
リカ軍の本部半島への砲爆撃を受け、ほとんどが小屋を焼かれ、ある者は死傷しました。
〇本部町内で、アメ リカ軍の艦砲射撃にあい、2〜30人が死んだこともありました。
〇アメ リカ軍につかまり、一時、今帰仁村今泊に滞在ののち、久志村の大浦崎から辺野古へと移動させられましたが、最大の苦しみは食糧の不足でした。食糧を求めて、収容キャンプ外へ出ると、採った食糧は没収の上処罰され、なかには、射殺される者もいました。
〇日本軍の敗残兵に食糧を奪われることもあり、多くの人が飢えていました。マラリアの流行も人々を一層苦しめました。
〇伊江島を占領したアメリカ軍は、住民を慶良間諸島に移してのち、本土空襲のためなどに2年近く伊江島を軍事目的に利用し、そのため、伊江島住民は、終戦2年を経た1947年にして、ようやく故郷の地に帰ることを許されたのです。その時はすでにアメ
リカ軍のための軍事基地になっていました。
(3)本島の西約100キロの久米島
〇1944年(昭和19)4月29日、米軍潜水艦からの艦砲射撃があり、十数発撃ち込まれ、死者1、負傷者1、家屋等建造物に若干の被害がありました。
〇1944年(昭和19)の初夏、久米島に電波探知機が設置され、同年、鹿山兵曹長が赴任し、兵員は30数名に増えました。
〇10月10日、グラマン4機の銃撃は、久米島付近を通過して、南方へ航行する船舶に向けられ島の被害はありませんでした。
〇1945年(昭和20)1月22日、グラマンの攻撃を受け、港の軍用船8隻が撃沈あるいは炎上しました。陸上にも、はじめて爆弾が投下され、仲里国民学校などが損害を受けました。
〇2月6日、嘉進丸(30トン、カツオ船を軍が徴用して運搬船にしていた)は、B24に発見され、30数名の犠牲者を出して沈没しました。
〇2日14日にも港の軍用船3隻がB24に撃沈されました。
〇3月1日、グラマンが爆弾を多量に投下して、31戸が焼失しました。
〇3月23日から断続的に始まった空襲は今までにない大規模のもので、公共建造物、工場、山野、民家が焼き払らわれました。
〇3月29日、海軍見張所の鹿山隊の急報で敵が上陸するらしいということで、村民は山奥へ避難しました。
〇4月に入ると、村民は再び部落へもどり、家の壕から畑へと、生産に励んでいました。
〇6月26日未明、米軍は戦車を伴う約1000人の兵員を無血上陸させました。
〇6月29日、島出身の仲村渠明勇が「米軍は殺しません、安心して山を降りて下さい」と云っていた。
〇6月13日、島の男3名が米軍にら致されたが、鹿山隊長は布告を出して関係者を軍に引き渡すことを強制した。(参照「鹿山文書」)
〇6月26日、米上陸軍と一緒に、3名のら致者のうち2名が、ジープで送還されて来たが、鹿山隊は布告どおり当人を含む家族や区長、警防団長を虐殺しました。その後も鹿山隊は、スパイ容疑などで合計村民19名、兵士1名を殺害しています。
〇7月5日昼、日本兵2名と、土地の義勇隊員仲宗根少年らが、米軍ジープを襲い、およそ3分ばかり撃ち合いがあったが、仲宗根少年と内田上等兵は撃ち殺されました。これが久米島での唯一の戦闘でした。
〇島では米軍の管理下の村で女性2人が暴行を受け殺害されました。
〇住民被害は次の通りです。
空襲における死亡…7名、戦闘による死亡…7名、スパイ容疑又は命令不服従による処刑…19名、「自決」…1名、その他…3名
〇日本軍の戦死者は次のとおりです。戦死…3名、自決…3名、殺害…2名
(4)本島のすぐ西の粟国島・渡名喜島
@粟国島の場合
〇日本軍の軍事施設はなかったが、米軍は何度も空襲をくりかえしています。そのために家屋の多くが焼失し、人命の犠牲もでています。
○1945年(昭和20)年3月23日空襲があり、村民はガマや墓にかくれ、数か月間の飢えと不衛生な避難生活が始まりました。
〇3月28日空襲。農会の建物全焼。
〇4月1日空襲。国民学校校舎全焼。
〇4月2日空襲。陽久丸焼失。島は全くの孤立状態になりました。
〇6月9日…数万のアメ リカ軍が上陸したが、その際、艦砲、戦車、機銃による死者56名。上陸後銃殺された者6名。
〇6月12日全村民の羽地村への移動命令が発せられ移動準備を始めたが、この間家畜は各自屠殺し全滅させました。
〇7月1日羽地村への移動中止命令。
〇兵役による村民の戦死者…陸軍123名、海軍25名、軍属77名。
A渡名喜島の場合
〇1943年(昭和18)末頃から移民地であった南方諸島から、婦女子と子どもたちの引揚げがあり、そのため島は過剰な人口をかかえこみ経済の窮乏をきたしていました。
〇一方、南方面の戦局の悪化とともに輸送が困難となり、仕送りがとだえてしまいました。二重に重なった不幸によって、ふたたび蘇鉄地獄を迎えなければならなかったのです。
〇しかも、南方諸島に移住していた村民のうち満十八歳以上の男子は引揚げが許されませんでした。現地召集を受けて正規兵となったり、義勇隊に編入されたりしたからです。
〇1944年(昭和19)7月のサイパン玉砕の知らせは島の人びとに大きな衝撃を与えました。
〇詳しい情報は戦後になって伝えられたが、南方諸島で戦死した村出身者の数は200余名にのぼっています。これだけでも島の人口の12パーセントを占めるのです。
〇渡名喜島の直接の戦災は空襲によるものがほとんどであるが、弾にあたってたおれた者もいます。
〇さらに悲惨なことは栄養失調による死亡が戦後になって続出したことでした。これは老人、子どもがほとんどでした。米軍の占領がおくれ、食糧と医療の救済がおくれたことがその原因の一つだと言われています。
〇船便が途絶えて外部との一切の交渉を断ち切られる状態になり、渡名喜島の人びとが敗戦の知らせに接したのは昭和20年10月にはいってでした。
(5)米軍が最初に上陸した慶良間諸島
@座間味島の場合
〇1944年(昭和19)9月、日本軍が駐屯しました。海上挺進隊(特攻艇百隻)と基地守備隊で約1500人の大部隊でした。
〇この部隊は、特攻艇でアメ リカ軍が沖縄本島に上陸する時、後ろからアメ
リカ艦船に体当たりする海の人間爆弾部隊でした。
〇上の主力部隊のほかに、挺進基地隊、特設水上勤務中隊(朝鮮人軍夫部隊)などが配置されていました。
〇部隊は民家に分宿し、陣地構築のため住民に連日重労働が課せられました。男たちは壕掘り作業、小学生は薪取り作業、残る人たちは食糧増産に従事させられました。
〇10月10日の空襲で連絡船が銃撃を受け、これ以後外からの物資の補給は困難になり、作物の乏しい島に5千人近くの軍民がひしめき、その食糧問題が長く尾をひきました。
〇1月22日、空襲で軍用船5、6隻が撃沈されました。
〇1月16日、陣地構築が完成のころ、基地守備隊は急に沖縄本島に移動し、特設水上勤務隊の朝鮮人軍夫約4百名がやってきました。
〇そのころから食糧は底をつき、米の配給はとだえ、ソテツとわずかばかりの芋、それに野草を集めて食べるしかないありさまでした。
〇3月23日、米機動部隊が来襲し、集落はもちろん、山中まで機銃掃射が浴びせられ座間味部落は全焼し、住民23名が戦死しました。
〇24日、ふたたび爆撃がはじまり艦砲が加わりました。
〇25日は、未明から空襲が激しく、正午ごろから艦砲射撃が始まり、午後4時ごろ、敵艦隊が侵入してきました。島は無数の艦艇が包囲していました。
〇午後10時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされ、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」というものでした。梅沢部隊長が現場に現われないうちに、艦砲弾が忠魂碑に命中して炸裂したため、この衝撃で集まった人々は混乱状態におちいり、めいめいの壕へ散っていきました。そして、各壕内で、家族ぐるみ、カミソリ、手榴弾、こん棒などで互いに命を断っていきました。この「集団自決」で失われたのは、一説には390余人とも言われていますが、現在確認できるのは約300人です。
〇日本軍は100隻の特攻艇を一艇の出撃もできぬままにすべてうしなってしまいました。
〇26日午前9時ごろ、米軍は座間味部落の正面に上陸してきました。
〇山中に避難していた住民は、米軍の宣伝放送に応じて4月初旬ごろから徐々に山を降りはじめました。
〇座間味村全域(阿嘉島等を含む)で戦争の犠牲となった者は、住民の死亡約390名、将兵の戦死226名となっています。
A渡嘉敷島の場合
〇1944年(昭和19)9月、日本軍約1,000人が駐屯しました。
〇部隊は直ちに陣地構築にとりかかり、村では働ける者は国民学校の生徒まで動員して陣地構築作業に従事しました。
〇9月20日、今度は赤松大尉を隊長とする「海上挺進第三戦隊」104人が渡嘉敷と阿波連に駐屯しました。赤松隊は「海上特攻隊」で特攻艇100隻を保有していました。
〇10月10日、軍の徴用を受けた嘉豊丸をはじめ、3隻の軍用船にグラマンの編隊が猛攻を加えが沈没させました。その時の人命の被害は、徴用船と軍用船の乗組員5人でした。
〇軍作業に従事していた77名の男子に、改めて召集が下り、兵隊の一員として、兵隊と一緒に国民学校に宿営することになり、婦人会や女子青年団は救護班、炊事班などに徴用され、学童も授業をとり止め、率先して軍に協力し、島ぐるみの戦争準備となりました。
〇1945年(昭和20)2月中旬、特攻基地もおおむね完成の頃、鈴木隊は勤務隊の一部と通信隊の一部を赤松隊配下に残して沖縄本島に移動しました。また、沖縄本島から特設水上勤務第一〇四中隊の一個小隊が配備されて来ました。
〇3月23日、早朝空襲警報発令。アメ リカ軍の攻撃は、グラマンの波状攻撃が続き、飛行機からガソリンがばらまかれ、その上に焼夷弾を投下して、山火事を発生させました。
〇一方、日本軍は阿波連にある第一中隊対空射撃班が直撃をうけて11人戦死、10人が負傷しました。24日も早朝から米機の一方的な攻撃でした。
〇25日午後8時、軍は「特攻艇」の出撃準備をし、赤松隊長の命令を待っていたが、とうとう命令は出ず、出撃の機会をなくしたまま朝を迎え、その秘密の姿をグラマンの前にさらけ出す結果となり、赤松隊長は秘密保持のため、全舟艇の破壊を命令しました。
〇その後、西山陣地に撤退し、持久作戦に転じることになりました。
〇27日午前8時、すでに阿嘉島を占領していた米軍の一部が上陸し、基地隊第三小隊10名が迎え撃ったが全員戦死しました。
〇アメ リカ軍の上陸に先だち、赤松隊長は、「住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ」と、赴任したばかりの巡査に命令し、住民を集めていました。
〇住民は、日本軍が守ってくれるもののだと誰もが思っていたのですが、西山陣地にたどり着くと、赤松隊長は住民を陣地外に退去するよう厳しく命令したのです。
〇そこを離れた住民に、追い詰めるようなアメ
リカ軍の砲撃の中、防衛隊の配った手榴弾をきっかけに「集団自決」の惨劇が行われてしまいました。
〇3月31日、アメ リカ軍は砲爆撃後、島を離れていきました。
〇食糧の大半を焼失した赤松隊は、住民に厳しく食糧消費を規制し、軍の許可のない野菜の採集や家畜のと殺を禁止しました。本部では兵隊一日の米の支給量をマッチ箱一ばい分にし、住民はヒゲ芋と雑草に海水で味をつけた雑炊で一日二回の食事でした。
〇米軍の保護下にあった阿波連では、ナベごと日本兵に食物を奪われるという事が続出していました。
〇朝鮮人軍夫は、最もみじめでした。牛馬の如く酷使され、自活班の中でも明らかに差別を受けていました。そのような中で、曾松一等兵らと朝鮮人軍夫およそ約30名が脱走する事件がおき、ものものしい捜索隊が連日くり出されました。全く同じ頃、食べ物のことで朝鮮人軍夫3名が村民の面前で斬首されていました。
〇5月初め再び米軍は上陸し、西山陣地に向けて砲撃を加えていました。日本軍は斬り込みと称して、米軍の物資集積所を襲って、犠牲者を出すばかりでした。
〇米軍はそのような日本軍を投降させようと、その頃、伊江島から収容した伊江村民約1000名の中から男女6名を選び出し、投降勧告文書を持たせて、西山陣地に送り出したが、6名はとうとう帰って来ませんでした。
〇7月2日、赤松隊は、防衛隊員大城氏を敵に通ずる恐れありとして処刑しました。
〇老人や子供が栄養失調でばたばた倒れていく一方、住民は食糧難にも増して、赤松隊の行動に恐れを感じていました。
〇8月に入ると山では住民の監視をいちだんと厳しくしていました。
〇8月12日、食糧を求めて谷間をさ迷っていた住民15名が、米軍に収容されましたが、「集団自決」で妻を失い幼児2人をつれていた郵便局長もその1人でした。局長は、本島の戦争が終っていたことを知らされ、ひそかに山にもどって村長を説得し下山させました。村長もまた村民に下山をすすめ、村民は村長に従い、不安と期待の中で山を降りました。8月15日のことでした。
〇住民の下山後、米軍は、更に降伏勧告のために新垣、古波蔵、与那嶺、大城の4名を派遣しました。もし赤松隊が降伏に応じない時は、徹底的に攻撃すると聞かされた4名は、救いたい一念でこれを引き受けて出発しました。新垣、古波蔵は帰って来ましたが、与那嶺と大城の両名は帰って来ませんでした。
〇翌々朝、赤松隊長は米軍司令官に献上するための牛罐一箱を兵隊に持たせて米軍の捕虜になりました。
(6)勝連半島の離島伊計島・宮城島・平安座島・浜比嘉島・津堅島
@伊計島
〇日本軍の砲兵一個大隊4、500名が駐屯して、要塞砲2門を金武湾を見下ろす西海岸にすえつけたが、1か年半後津堅島に移っていきました。
〇1944年(昭和19)4月、球部隊の一個分隊(伊礼分隊長・12名全員伊計島出身)が伊計島に配置されました。
〇6月、山部隊(第二四師団)から宮城島に派遣された一個中隊(約500名)から一個小隊(約150名)が移ってきたが、1か月後、本島へ引揚げてしまいました。
〇8月には、また山部隊の一個小隊が伊計島に駐屯しましたが、12月頃、引き揚げていきました。結局、伊礼分隊のみの駐屯となりました。
〇1945年(昭和19)4月3日の夜には、米軍の斥候(せっこう)が十数名ボートで偵察(ていさつ)のために上陸しました。翌3日には米軍の戦車隊が上陸しました。
〇米軍は、民間人と日本兵の区別をつけるために上陸後すぐに全住民の登録を開始しました。しかし、数週間経つと突如として住民に対して平安座島への移動命令が出されました。米軍は、日本兵をかくまう住民の動向に疑惑を持ったために、全住民を平安座島に移動させたと言われています。
A宮城島の場合
「証言から」
〇日本軍の住民に対する供出と徴用は厳しいものでした。供出用の大根を、兵隊に盗まれたと言ってきた農民がいたので、日本軍に抗議したが逆に脅迫されました。
〇60歳のおじいさんの徴用…「石大工ができます」と答えました。すると「それでは、あしたから徴用です」といわれ、すぐに嘉手納の飛行場作りで三日位働かされました。
〇1944年(昭和19)6月、沖縄本島へ移駐してきた山部隊(第二四師団)から一個中隊(約500名)が宮城島へ派遣されることになりましたが、2日経つと方針を変更して取り止めとなっています。
〇8月には宮城島にも小部隊が駐屯しました。
「証言から」
〇十・十空襲の時、日本軍の駐屯部隊は住民にはなんの連絡もありませんでした。飛行機は、中部の各飛行場などを空襲しての帰りだったらしく、弾をまだかかえている飛行機は、部落にもボンボン落としていきました。その時、だいぶ家は焼かれてしまいました。
〇十・十空襲後、民家や学校に駐屯していた部隊は引き揚げていきました。
〇空襲がひんぱんに行なわれるようになり住民は、自分達の命を守るだけで精一杯になり、供出どころではなくなりました。
〇日中は避難壕にひそんで、夜になると食糧さがしに出ていき、イモ掘りや食べ物を炊いて、また壕へ運び入れるというくりかえしでした。
〇友軍は、島の高台のあちらこちらに松の木を切り倒して、擬装大砲を設置してありましたので、「こんなもんをおいていかれたら部落が爆撃されて、村民が殺されてしまうだけだ」ということになり、警防団の人たちで取りこわしてしまいました。そのせいか、アメ
リカ軍の艦砲射撃を受けることはありませんでした。
〇1045年(昭和19)4月2日の夜には、米軍の斥候が十数名ボートで偵察のために上陸しています。
〇3日には、米軍のの戦車隊が大挙して上陸しました。
〇米軍上陸後、数週間経つと突如として住民に対して平安座島への移動命令が出されました。そのため、住民にとっては、食糧不足という苦しい生活が始まりました。米軍は、日本兵をかくまう住民の動向に疑惑を持ったために、全住民を平安座島に移動させたと言われています。
〇アメ リカ軍は、住民を追い出してからは、立派なかわら葺きの家を数軒焼き払ってあり、島の高台のまわりに、部隊を配置して、見張り所にしているようでした。
〇アメ リカ軍の許可で、人数は制限されたうえで、小舟で、宮城島へ食糧とりに帰えすことはありましたが、無断で島へ渡る住民に対しては、きびしくなり、機銃で打たれて負傷したある中年の女性がおりました。その後、若い娘が射殺される事件がおきています。
〇市会議員(収容所は市として議員もいた)がアメ
リカ軍と何度も折衝して、9か月ぶり位に、島へは帰えれました。
B平安座島の場合
「証言から」
〇嘉手納飛行場建設にもかなりの徴用が行なわれました。
〇青年、婦人、生徒に対する竹ヤリなどの訓練は、下士官だった退役軍人が、教練指導員としてやっておりました。
〇翼賛(よくさん)少年団には、児童生徒全員が加入しており、夜間にも、竹ヤリ訓練などをさせられていました。また、軍の直接の指示ではなかったが、自発的に監視所、見張り小屋をこしらえて、各団員が交代で見張りに立っていました。
〇十・十空襲…壕に避難したが、その日の正午頃から、初めて平安座島は空襲をうけました。この空襲で、平安座島の部落の殆んどが焼かれ、海岸近くで山原船が数隻炎上してしまったが、死傷者は出ませんでした。。
〇平安座は、読谷飛行場爆撃の行きかえりのとおりみちになっていて、そのついでに爆撃を加えられたようです。その後も、何度も空襲はあったが、死傷者は出ていません。
〇平安座の住民は約半数が、山原方面に疎開したが、平安座に残った人たちの生活は、自然壕や墓をあけて、そこに昼は入って、夜になると部落の方へきて、夜中に照明弾の明りのなかで、イモ掘りをしたりして翌日の分の食べ物を洗って炊いて、夜明けがたには、また壕に帰えるという生活でした。
〇1945年(昭和19)4月3日、米軍の戦車隊が上陸した後、住民の投降を呼びかけています。
〇平安座では、収容されている人びとは、アメ
リカ軍に登録されて、「登録札」(登録カニグヮー)を、寝る時以外、作業中でもずっとそれをぶらさげていなければいけなかったです。それを持っていないということで、日本兵であることがわかりよったはずです。
〇疎開民が、山原から、サバニで平安座へ引揚げてくる際、アメリカ軍の戦車から手榴弾が投げこまれ、母親は死亡して、子供たちは負傷してしまいました。日本軍の特攻隊と間違えられたのではないかということでした。
〇伊計島、宮城島、屋慶名、平敷屋、具志川などから捕虜にされた住民が収容され、約七千人(別の証言では一万人以上)に人口がふくれあがっていました。平安座市として、市会議員までいたぐらいです。
〇一軒の家に、70名位入居していて、天井板をはがして空地に板小屋を作ったりして、すきまがない位、ぎっしり人がつまっていました。
C浜比嘉島
〇沖縄戦では、ほとんど空襲を受けていず、「平隠な」島でした。
「証言から」
〇1945年(昭和20)4月3日、米軍戦車隊が上陸後住民の投降を呼びかけています。
〇浜比嘉島には移動命令は出なかったので、自分の島にいることができましたが、国頭疎開者の引揚げ、津堅島などの避難民、少数ではあるが敗残兵などが集まっていて人口が急増していました。そして、米軍の指示で住民は全て班編成され、共同で農耕、作物の収穫を行なって、平等に配給されることになっていました。
〇摩文仁に追いつめられた日本兵が、サバニ(クリ舟)で沖縄脱出をはかり、その途中に漂着した者を住民がかくまっていたので、米軍は沖縄の方言を知っている二世などを使って、不意打ちに共同作業中の者に言葉づかい、体格、日焼け具合などで日本兵を見分け敗残兵狩りを行なっていました。
D津堅島
◇ 日本軍の配備
〇津堅島は沖縄諸島の中でも最も早くから戦時体制にはいっていました。中城湾の要塞建設は大正11年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、実際に臨時要塞建設命令が発せられたのは1942年(昭和16)にはいってからでした。
〇1942年8月から工事が始まり、10月にはほぼ完了したが、これには島の老若男女ほとんどが徴用で狩りだされ、連日の重労働に従事させられています。
〇要塞重砲隊、歩兵部隊、野戦病院、兵舎、慰安所などが設置され、住民はいやおうなしに軍隊との共同生活を送らねばなりませんでした。
〇連隊規模の部隊が駐屯したこの島では、何かあるとすぐ徴用がきました。
〇1944年後半にはいり連日のように徴用で動員され、弾薬運び、陣地構築などに使われました。昔から男は漁業、女は農業という分業で生計を立てていた住民には過重な負担でした。しかも、大阪出身の兵隊たちはことあるごとに島民を差別的に扱い、対立感情がたえず底を流れていました。
〇さらに十・十空襲後は、新たに重砲兵一個中隊が駐屯して、津堅地区隊が編成されました。与那原に本部を置く独立混成四四旅団からの派遣部隊でした。
〇津堅島だけの四一五二部隊といわれる守備隊には、約70名の島の青年男女が含まれています。彼らは一般住民が島外(沖縄本島)に避難した後、部隊が全滅するまで軍と行動を共にしなければなりませんでした。
〇防衛隊のほかにも、第一次防衛召集で18名がとられ、与那原の本部に配属され、沖縄戦の終局には摩文仁まで従軍したりしましたが奇跡的に全員無事でした。
◇ 住民の疎開と避難
[証言から]
〇十・十空襲で、伝馬船やマーラン船がやられて、部落の半分が焼かれてしまいました。
〇1945年(昭和20)2月ごろからは空襲がはげしくなって、この横穴防空壕にかくれて助かりました。それからは、夜は防空壕で寝とまりする生活でした。
〇山原に行った者もいたが、これはかえって苦労していますよ。食べる物もなくて子供たちをたくさん死なせています。
〇勝連の平敷屋部落に避難していきました。これは軍の命令で年寄り、子供たちだけで2か月ばかりおりました。しかし、向こうも危険で、どうせ死ぬなら自分の島で死のうと、また島へ逃げてきました。夜のうちに避難した人たちはほとんど島へ戻ってきています。そして、ちょうどその直後に、この島に最初の米軍があがってきたわけです。偵察隊だろうと言われています。
〇住民のなかに一緒にいると逃亡兵とみなされて首がとぶおそれがあるので、みんな軍帽は脱ぎすてて、ふだんの着物に着がえて、ずっとそこにかくれていました。
〇1回目の戦闘で、部落はおおかた焼かれてしまって、石垣だけしか残っていない状態でした。2回目の戦闘で住民はほとんど捕虜になっています。私たちは、知らせる者もないからずっと逃げかくれしていたわけです。
〇甥の信吉がうちの壕にやってきました。これは子供も3人いるが防衛隊にとられて、実際に戦ってきているわけです。これが言うには、「おばさん、この戦さはもう日本の負け戦さだから、アメ
リカの捕虜になったら手も切られる、耳も切られるしかないから、ここで一族自爆しよう」、そう言って、持ってきた手榴弾をみんなに配ったんです。私たちもそのつもりになって、死ぬ覚悟で晴れ着にかえようとしたんですよ。私の家族も信吉の家族も十名ぐらい一緒です。そしたら、信吉の次男が急に泣きだして、「こんな着物、着ない、とって捨てろ」とわめいたわけですよ。私たちは“童び神”という言葉もあるぐらいだから、これは何かの知らせかもしれない、今死なんでも、今日明日の様子を見てからきめようと、いったん自爆をあきらめたわけです。
〇捕虜になると、ホワイトビーチの方から舟艇がやってきてみんなは平敷屋の収容所につれていかれました。私達は勝連の南風原の収容所です。収容所で5月27日の海軍記念日を迎えたのを覚えています。
◇ アメ リカ軍の上陸と戦闘
[証言から]
〇第1回の“上陸作戦”は4月6日未明、第2回、4月10日、第3回が4月23日となっています。(証言に出てくる日が一致していません)
〇4月3日ごろから艦砲が始って、アメ リカの艦隊が中城湾に入っていきました。
〇第1回の上陸部隊は歩兵が3,000人、水陸両用戦車が85台(80台とも)だった。
〇この戦闘で友軍はものすごい損害を受けて、350名いた地区隊から、元気で残っているのはたったの60名ばかりというありさまでした。
〇4月4日は、輸送船から南の浜に上陸してきました。22回目(2回目が60台)の攻撃で友軍はほとんどいなくなっていました。
〇4月5日、第3回目(もう数えられないぐらい)の上陸がありました。
〇このとき生きのこっていたのはわずか30名ばかりです。
〇日本軍の実情…戦闘中に逃亡した兵隊がたくさんいて、見つけしだい首を落していいということでした。防衛隊からもずい分逃げていますが、正規兵にも逃亡したのがいました。
普段から、伍長とか兵長とか上等兵なんかが初年兵をいじめるわけですよ。それで戦争が始まると、初年兵はやけくそになって、上陸まえから自殺する兵隊もいたし、いよいよ戦闘が始まると、今までいじめられてきた古年兵を殺したりしていました。初年兵に殺されたのはたくさんいましたよ。どうせみんな死ぬんだからと、敵は殺さんで友軍に弾を撃った兵隊もいましたよ。
〇私たちには武器はまわらないから、竹槍と手榴弾2個をもっていました。この手榴弾は拾ったもので石までひろってきて、これでアメ
リカ兵を殺すんだといって住民まで準備をしていました。
〇アラカワグスクの壕(三六陣地)では亭島隊長が最後までがんばっていたようですが、歩けるのは外へ出て、歩けないのは自爆してほとんど全滅したそうです。
〇傷病兵は、全部で30名ばかりいたと思います。軍医の命令で、患者は全員薬で自決させたそうです。
〇地元の女子青年で結成された看護隊が本部壕にいたが、防衛隊も一緒にいるわけですが、米軍がいくら呼びかけても出てこようとしない。そこへ、米兵が銃を構えながら壕内に入ってきました。そしたら、荒井軍曹が横穴に身をかくしていて、入ってきた米兵を軍刀で斬り殺してしまったわけです。その叫び声で、壕の入口にいたほかの米兵たちが、壕の中にガソリン罐を投げこみ手榴弾をぶちこんだので、傷病兵の寝ていた枕もとにあった弾薬箱に火がついて陣地はいっペんに吹きとばされてしまったそうです。壕は三段からなっているわけですが、一段二段は全部つぶされてしまい、いちばん下の壕にかくれていた看護隊は無事だったわけです。
〇結局、津堅地区隊の350名の兵隊のうち30名をのこして全部戦死したわけです。
◇ 島の犠牲
〇島の戦没者数ははっきりとした数字がわかりません。証言をまとめてみると、そのかぎりでも5、6名の名前はあがってくるし、全滅家族が3世帯をかぞえることから察しても実数はもっと増えるでしょう。
〇補助看護婦の数にしても、『村誌』では10名、『陸軍作戦』では約30名となって、後者の方が諸証言に近いようであるが、いずれにしてもどちらが正しいと断定はできません。
[証言から]
〇うちのおじさんの糸満さんが弾にあたって死んでいます。島の人たちで死んだのは、防衛隊員も含めて10名ぐらいではないでしょうか。
〇平敷屋の避難壕ではすぐ近くに爆弾が落ちてきて岩におしつぶされて一家全滅になったところもありましたが、島の人ではチチクドンチ(大城)のお母さんがやられています。
〇別の避難壕では銃を撃ちこまれて殺されています。出ていって助かった人たちは、第1回目の舟艇で本島の嘉真良(現コザ市)の収容所にいれられていますが、4月はじめごろ戦闘があり、アメ
リカの弾をうちこまれて、いっぺんに20名以上が殺されています。
〇源次郎先生は私の同級生の父ですが、この先生は防衛隊にとられて、西の海端で戦って死にました。
(7)最東端の南大東島
「証言から」
〇日本海軍は昭和6年には、南方の護りという軍事上南大東島を重要視し、小規模ながら飛行場を建設し、特設航空隊を配置しています。
〇昭和9年には面積26町歩の飛行場を新設し、1943年(昭和18)には南北の新滑走路の建設に着手し、島は徐々に“南方の護り”にふさわしい備えを整えていきました。
〇住民に対しては、軍命による引揚疎開が促進されました。軍が相当はいってくるということと住民のほとんどが本土本籍だったことが沖縄よりも早い疎開だったのでしょう。
〇7月には他にさきがけて防衛隊が組織されているが、沖縄の防衛隊とは違って遊撃隊のような性格をもっていました。
〇1944年(昭和19)には、第三二軍が編成されると、陸軍の守備部隊が大東島に配置されてきました。南大東島に歩兵連隊本部、歩兵二コ大隊、大東島支隊、北大東島に歩兵一コ大隊、沖大東島に一コ中隊が配置されました。
〇この部隊の主要任務は米軍に抗して、長期持久戦にもちこむことでした。
〇大城部隊は、三二軍の直属ではなくて、大本営直轄の部隊でした。主な任務は、豊部隊の援助が必要だということで、部隊の壕を掘ったり、雑役係みたいな仕事が多かったが、8月15日まではそうやって部隊に協力しました
〇以上の結果、疎開せずに残った島民1,400人に対し軍隊は約4,000人に達し、島内食糧事情が憂慮されることになりました。
〇住宅も、ちゃんとした家は軍にとられてしまって、私(松田)たちは小さな物置小屋に入れられていました。兵舎といっても民家を徴用したもので、「あしたから使うから出て行きなさい」と云ってきました。社宅で空家になっているところはこわして材料として使いました。民家を兵隊が占領して、住民は洞窟で生活しているのもありました。
〇ビロウとか松とか、木材は豊富にありました。ビロウ樹は防風林としてありましたが、陣地構築のために使いやすいし、乱伐で、文化財(天然記念物)として残るものもだいぶ失われました。
〇食糧は、軍のをもらって適当にやっていました。家畜を養うためにデンプンがありましたので、その頃の貴重な食糧となっていました。
〇船が戦時体制でストップして一番困ったのは病人が出たときでした。診療所の医者が引揚げてしまって、部隊の野戦病院に一般住民も収容されることもありました。
〇徴用作業は自活班や漁撈班のほかに飛行場建設などがありました。
〇役に立たない女、子供は洞穴に行き、男の人たちは自活班とか漁撈班とか、女の人では炊事、洗濯など、手伝いのできる者は全部でていました。
〇1944年(昭和19)8月、西港で荷揚中の小型船団が魚雷攻撃を受け沈没、大破。島民の最後の頼みとする米500石を失いました。
〇10月10日、グラマン延六機来襲、爆撃及び機銃掃射。駆潜艇拓南丸が爆撃を受け、飯田大尉他20名が戦死。この時、島民に被害は無かったが、このころからB29が偵察のため飛来するようになり、以降、4月23日まで、大小合わせて21回の空襲と3回の艦砲攻撃を受け、住民2人、軍人40人の戦没者を出しました。(参照「「空襲南大東島」)
〇1945年(昭和20)3月10日、午前の第1回目は機銃掃射と焼夷弾、午後の第2回目は爆弾を投下してきたんです。空襲で工場の倉庫がやられて、3万俵の砂糖が焼けてしまったんです
〇3月27日、42隻の軍艦が飛行場に砲撃を集中していました。東西にのびた大きな滑走路が完成していましたが、これが1回も使わないうちにめちゃくちゃにされていました。
〇戦後アメ リカの将校が云っていましたが、南大東島には特攻機が40機ばかり待機していると考えていたようです。
〇4月1110日には第2回目の艦砲があって、宿舎とかそのほかの施設を吹きとばしていきました。
〇以降6月9日まで戦況は平穏に移行したが、6月10日、再び大空襲があり、島は壊滅状態になりました。それ以降空襲は少なくなって7月1日以降、空襲はありませんでした。
〇戦後アメ リカ軍の将校がいうには、米軍は沖縄本島を先にやってから9月1日に南大東へ強行上陸しようという作戦だったらしいです。本土上陸の拠点にするつもりだったんでしょう。
〇沖縄戦が終結した後もアメリカ軍はやってこず、完全に孤立してしまった島にはおそろしい食糧難がまちうけていました。
〇8月16日、3か月に及ぶ洞窟内の生活から地上生活へもどりました。3月から4、5月まではずっと壕生活でした。栄養失調と壕生活で皆顔色が青白くなっていました。
〇米軍が島に来たのは、九月です。島外との連絡はまったくないし、島には軍民あわせて5,500名(島民1,400名)もいますから、占領がおくれたせいで、食糧不足でかえって苦しい状態にありました。
(8)宮古諸島の中心宮古島
〇1943年(昭和18)8月、海軍の設営隊がやってきて、現在の宮古空港の位置に海軍飛行場の建設を始めました。この飛行場建設のために、三つの部落の人々は半強制的に立ち退かされ、後苦しい生活を送ることなります。一方ではこの飛行場建設に島の人々が協力させられました。
〇5月、今度は、第二〇五飛行場大隊(球七一四部隊)と、要塞建築勤務第八中隊(球二七七六部隊)の600名が投入され、陸軍飛行場の建設が始められました。ここでも、刈り取り前の麦畑にショベルを入れられ、強引に飛行場建設は進められていきました。
〇7月、第三二軍の第二八師団が宮古島に進駐してきました。
〇7月には学童集団疎開が出発しました。本郡では平良第一国民学校13人、平良第二国民学校21人、下地国民学校46人、あわせて80人でした。
〇7月から8月にかけて、第二八師団所属の諸部隊が島内に駐屯し、多くの学校は軍の使用し、校長住宅や堆肥小屋にいたるまで接収され、はては運動場、農場など校地のすべてに病棟、兵舎が建てられるようになりました。町や村の主な建物も、軍の事務所、将校たちの宿舎に当てられるようになりました。
〇一方生徒の方は、宮高女の上級生が看護教育の後、陸軍病院や野戦病院に配属されたり、飛行場建設作業をはじめ軍の経理事務、ガラスの紙はり等に徴用されました。
〇宮中生は「鉄血勤皇隊」の名のもとに通信隊などに召集され訓練をうける一方、毎日飛行場建設工事やタコツボ壕掘りをさせられました。
〇国民学校は、疎開して住む人のいない家を借りたり、各所のウタキ(御嶽)を利用したりで、かろうじて学習の場を確保していたが、訓練と勤労奉仕の毎日でした。その内容は、飛行場建設や道路工事、燃料用としてヤラブの実を集めたり、軍馬の草刈り、食糧用として野草摘みもさせられ、高等科生は陣地構築までさせられました。
〇陸軍西飛行場に近い下地国民学校は、三年生以上の児童が飛行場工事や道路工事に動員されました。
〇一方教師の方も徴用、応召、疎開等で学校を去って行きました。
〇8月から9月にかけて、さらに三二軍の独立混成第五九旅団(碧部隊)、独立混成第六十旅団(駒部隊)も上陸し、碧部隊は、伊良部島に展開し、駒部隊は、宮古島の本部に駐屯しました。豊部隊10,000余。碧、駒部隊はそれぞれ3,000余。第三二軍直かつの球部隊が6,000余。海軍部隊合わせて25,000有余の兵員が、島にあふれました。
〇急激な人口増加のため、軍は住民の郡外強制疎開を命じ、戦場化して行く「非戦闘員の犠牲をさける」という表むきの理由の外に、補給路を断たれた後、軍隊の食糧確保という理由がありました。
〇8月中頃から、9月の末にかけて、次々と疎開民が台湾へ、他府県へと旅立ちました。その数およそ10,000人、なれない土地で、風土病や、食糧事情から、決して安全な場所ではありませんでした。それとは逆に青壮年者は軍事要員として島に残る事を命ぜられていました。
〇10月1日には、陸軍中飛行場が完成しました。
〇他に、3本の滑走路をもつ海軍飛行場も出来上がっていました。
〇1944年(昭和19)10月10日であった。朝の7時半頃、グラマン16機が飛来して、およそ45分間、主として、飛行場をおそい、午後1時すぎ、再び空襲があり、今度は船舶を襲撃しました。米を満載した広田丸(2,000トン級)が沈没したのは、この時です。この日、日本軍機10機が地上撃破され、兵員10名が死傷したが、民間でも死者がでました
〇13日にも15機による空襲があり、海軍兵舎や製糖会社が銃爆撃を受けました。(参照「空襲宮古島」)
〇11月1日、「御真影(ごしんえい)」を護るため、奉遷所(避難壕)に移し、この日を期して男子教員は終戦までの間、昼夜をわかたず一日交替で「御真影奉護(ほうご)」の当番をすることになりました。
〇12月3日に第3回の空襲があり、下旬にもB24による空襲がありました。
〇1945年(昭和20)1月3日にはグラマン4機が来襲、以後、2月まで18回に及ぶ空襲があり、戦死58人(うち民間1)、機帆船1隻沈没、隆祥丸大破炎上、タンカー1隻小破、損傷船舶六隻、海軍飛行場、船舶、測候所、受信所の損害を受けました。
〇3月2日、豊坂丸と大建丸が沈められ、その後は、プッツリと輸送の綱が切られてしまいました。この2隻には、宮古守備軍の武器や装備、燃料、民間用の衣料も積まれていました。
〇下旬まで、小規模な空襲が続きました。
〇3月下旬から、市内も無差別爆撃にさらされるようになりました。23日には、大編隊による空襲があり、24日も終日空襲でした。31日、B24が2波(各波それぞれ4機)来襲、宮高女、無電塔が攻撃されました。
〇その頃、19歳の島の青年の現役入隊がありました。
〇4月にはいると、次第に市街地がねらわれるようになり、一か所で4名の爆死者を出すところも出て、町の中は廃墟となりました。無人化した町内の民家を兵舎増強と延焼(えんしょう)防止の名目でその資材を軍隊が運び去りました。
〇4月4日も終日空襲、与那覇部落で10軒焼失。6日は上地、与那覇で20数戸が灰になりました。9日は、午後、平良の街の北部一帯が焼夷弾攻撃を受け、大火災が発生。13日、延べ23機。新里校には250キロ爆弾が落ち、西辺では、ロケット弾での犠牲者が出ました。18日、上地で爆死者。
〇男たちは、郷土部隊に、あるいは防衛隊にと、めまぐるしく召集を受け、婦女子は、昼は穴ぐら生活が続けられていきました。
〇6月2日、伊良部島にいた碧部隊に移動命令が出され、夜の海を渡って兵隊たちは宮古島にきました。今まで、歩兵第三〇連隊の守備地区であった北地区(平良市の大部分)に、三千有余の碧部隊がいきなり投入されたのです。そのため、供出などを強要したり、あちこちで住民の材料や野菜をとって、トラブルを起しました。
〇軍への不信感が現われ食糧供出命令拒否が起き、それへの報復として、区長宅を、武装した軍隊が包囲する事件が起きました。
〇飛行場の作業は、日がたつにつれて、きびしくなっていきました。照明弾を投下して、戦闘機の夜間攻撃もあるようになったからです。
〇師団長は、白昼の飛行場修復作業を命令して郷土部隊などの決死隊が、この作業に投入されました。
〇6月17日、軍隊増強にあわせ、町民の伊良部島への疎開命令が出されました。
〇7月に入っても、上旬の頃は空襲もはげしく、敵上陸のうわさなども流れたが、次第に空襲は減っていきました。
〇沖縄戦は終りを告げ、特攻も散発的となりましたが、今後に備えての食糧の確保ということになり、軍は食糧の節約をし、自活園を求めてきました。
〇住民の畑をとりあげて軍のものにする計画で、極端な食糧危機を招き、飢えた日本兵たちは、ねずみやへびをとったり、住民の物をとってくうようになりました。これは、敗戦の日以後も続く悲惨な状態でした。そのために、栄養失調によるデング熱、マラリアによる死者も駐留以来続いているし、住民の方も例外ではなく、さらに穴ぐら生活の中から、病気にかかるものも出てきました。
〇9月1日、郷土隊員たちは、それぞれの家に帰されました。
〇1945年(昭和20)の秋、台湾から疎開者たちが帰ってきました。台湾では、マラリア等での多くの死者も出ましたが、引き揚げ船の百数十人の遭難死没事件は大きな衝撃でした。
〇1946年(昭和21)にかけて、復員兵たちや本土からの引揚者も帰ってきました。そのために、空襲以前よりも人口は増え、荒地の上で、飢えと病気との闘いが続き、多くのマラリアや餓死による死者は、空襲以上に、戦争の惨めさを人々に教えてくれました。
(9)孤島の多良間島
[証言から]
〇日本軍兵士は、南方へ行く途中の船がやられて上陸してきた暁部隊(船舶工兵)がいたが、そのまま村民の中に混って避難生活をするのが、せいいっぱいに見えました。
〇中島という教員が、県から任命されたといってやってきましたが、正体不明のまま結局ずるずると過ぎていきました。
〇特攻隊が来ていました。民家に12人くらいいました。うち2人は将校でした。特攻艇の訓練をしていました。
〇五つの世帯を一つの班にし、七つの班がつくられ、7名の班長が常会をもち、その常会の話し合いによって、軍事訓練として、竹ヤリでの訓練や、消火訓練をするようになりました。
〇1945年(昭和20)年1月9日、初めてアメ リカ軍の空襲があり、グラマン機4機によるものでした。子守をしていた1人の少女(初等科四年生)が銃弾をうけて即死し、同じ部屋にいた少女(高等科1年生)が腹部を撃たれました。他の女の人は足に機銃弾を受けて大けがをし、4、5日うちに、破傷風で死にました。ほかに5人が負傷しました。
〇3月、空襲が続いたので、住民は家を離れ、大きな岩の下などを掘ってそこを生活の場にしました。ときどき見廻りに部落の中に帰ってみるのですが、いつ撃たれるかわからない集落の中は、手はつけられず、草だけがぼうぼうと生い茂りました。
〇4月1日以降空襲ははげしくなりました。
〇5日、敵機四機来襲。機銃掃射をなす記念館に数発命中。
〇7日、敵機数回にわたり来襲。
〇14日、敵艦戦機及B24来襲。爆弾投下。学校北の住宅九軒全焼。学校が目標とされていました。
〇20日、敵機四機来襲。
〇6月19日 ロケツト砲弾20余発投下。相当被害がありました。
〇8月1日、敵1機爆弾投下記念館運動場の立木、塀等被害。
〇畑の耕作などは、晩働いていました。空襲は連続的ではないが、いつくるかわからないので、避難を続けていました。
〇学校は機銃にやられ、授業ができない位に破損しました。青年会場や産業組合も爆撃にあって、燃えました。住民1人が戦死し、子ども1人も傷を負い、破傷風で死にました。
〇終戦直後、食糧危機がやってきました。海からひきあげた腐れた古米を庭にほして食べたものです。それでも足りないので、ソテツを食べました。ソテツ中毒で、2家族7人が死にました。タピオカでも、何人も中毒する者がでました。
(10)八重山諸島の中心石垣島
◇飛行場建設
[証言から]
〇1943年(昭和18年)、平得海軍飛行場の建設が着工されました。飛行場用地の接収は、地主に事前通知もせずに畑をつぶしていったのです。
〇「わたしは、3町歩の土地を取り上げられました。やむなく川原部落近くに土地を求めましたが、その土地も大浜国民学校敷地の移転の予定地だということで取り上げられ、ほんとうに踏んだりけったりで、泣くにも泣けず、怒りに燃えつつも、何より恐しいのは軍のことで意見を述べることもできなければ、ぐちひとつ言えず、ほんとにつらい毎日でありました。
〇飛行場建設に当っては、島内の全部落から老若男女や畜力が動員され、学業を犠牲にして、中等学校や国民学校の生徒・児童も動員されました。離島各地にも徴用命令が出され、彼らは、家庭をなげうって、食糧を持参して海を渡ってき、部落の集会所や民家に集団宿泊をして飛行場建設に当たりました。
〇作業中背をのばして休んだりすることは許されず、憲兵や軍の幹部が常に監視の目を光らし、少しでも仕事を休む者があれば、どなり、暴行を加えることさえありました。
〇朝鮮人労働者は特に厳しく、ダイナマイト爆破による石割り作業などの危険な仕事に従事していました。
〇6月、平得飛行場も完成しないうちに、今度は陸軍飛行場の建設が白保で始りました。用地の接収および地代の評価その支払い方法は、平得飛行場の場合と全く同じでした。
〇石垣島に三つもの飛行場が設けられ、米機の猛爆撃の目標となりました。
◇日本軍の駐屯
〇1944年(昭和19)6月より飛行場の建設と平行して、軍隊の進駐が開始され、兵器、弾薬が陸揚げされ、石垣島は騒然となっていました。
〇石垣島配備の軍隊は、陸海軍合せて9,000余人、八重山全体では約10,000人(独立混成第四十五旅団麾下(きか)歩兵大隊第七大隊、工兵大隊)。軍は、全島の校舎を兵舎または病院にしてしまいました。
〇児童らはお嶽や民家を仮校舎にしていましたが、ほとんどは作業動員でした。男の教員はほとんど守備兵に召集されました。
〇働き盛りの青壮年は兵役にとられ、働ける人々の大部分も連日飛行場建設に徴用され、生活のための仕事はほとんどできませんでした。
〇8月、農学校は旅団司令部になり、中学校、女学校も間もなく軍隊の占拠するところとなってしまいました。
〇軍は、国民学校の児童にも労力奉仕を強要して、初等科五年以上が、飛行場の整地、草刈り、道路の補修、兵舎建築用の茅刈りとその運搬に頻繁に駆りだされました。
〇高等科の生徒は中等学校の生徒と同様、連日のように駆りだされました。
◇疎開
「証言から」
〇反面、児童の台湾疎開が開始されました。9月21日中止されるまでの間に、島内2校それぞれ700人以上、在籍の約半分を送りだすこととなりました。また、一般疎開も軍命によって行われ、こちらは終戦間際まで軍命は発せられていました。
〇一般疎開はだいたい一班で40名程の班別にしてありました。
〇台湾へ着いてしばらくは配給もありました。持参した金十五円もありましたので、それで不足分の食糧を求めて生活できました。
〇ほんとうの苦しさはその後からでした。相手の要求する品物との物々交換が主になって、もって行った着物もすべて使い果たし、着のみ着のままになってしまいました。
〇土地も赤土で、イモのカズラの植付をしても3か月たっても地面をはうほどにも成長しないといったぐあいでした。
〇子供も私も栄養不良で次第にやせこける一方で、子供は歩く事さえ出来ない状態でした。
〇空襲の時も、壕へ避難して生きながらえても食糧のないまま飢え死するしかないので、もう避難などしてもどうしようもないと子供たちにも言い聞かせていました。親子5人が共に死ぬなら何の思い残すことなく死んでいけます、と手をあわす程の気持ちでした。
〇終戦の2か月前になって、軍で働けるようになり、何とか食糧にありつけたと思うとまもなく終戦になりました。
〇終戦になると、どうしたら生きて八重山へ帰ることができるだろうか、不安でした。
〇兵隊が「早く帰らないとたいへんなことになるからできるだけ早目に帰りなさい」と言ってくれましたが、当時汽車や船に乗るのもたいへんな状態でした。
〇基隆で、兵隊から貰った品物を売りはらって旅費をつくり、やっと乗った船も乗客の定員を2、3倍をこえる客を乗せるので寝るすき間もない程いっぱいでした。
〇石垣に帰ってきたのは10月の10日過ぎだったと思います。
〇石垣には人の姿もみえず、栄養不良らしく頭の毛がはげおち、やせて腹だけが異状にふくれあがった子供たちがあちこちにたむろしていました。桟橋(さんばし)から家につくまで大人に会うことはありませんでした。
〇家は、草が背丈まで伸びていて、父や母は死んでしまっていました。
〇台湾から持参した米三升が残された今後の食糧のすべてでした。
〇野の草、ハノール(雨が降った後に雑草等の根元にはえるノリ)、ソテツ、パパヤの根元と、食えるものは何でも食べました。カタツムリまでも食ペました。
◇空襲
〇10月12日、13日の両日、それぞれ艦載機4機、13機による八重山初の空襲があったが、いずれの場合も大事には至りませんでした。
◇日本軍の横暴
「証言から」
〇11月、石垣町字川平は部落ごと宮崎県に疎開するようにとの軍命令が下りました。
〇私が疎開問題を聞いたのは、名蔵の陸軍部隊の慰問に行っていた時でしたが、その晩から部落は大さわぎとなり、「みんな生れ育ったこの地で骨を埋めたい。疎開中止の陳情をしよう。軍の命令にそむく者、非国民とされ、たとえ死刑にされようとかまわない。」と意見がまとまり、代表が派遣されることになりました。
〇井上隊長は日本刀をカチャカチャさせ、「切り捨御免」もしかねない態度でした。びくびくしながち覚悟を決めて話しました。「…敵機来襲も多く、はたして宮崎県までたどりつけるかどうか心配ですが」と言うと、「君達が途中で敵に沈められて死のうが、内地で凍えて死のうが、僕の知ったことではない、この計画はおそれ多くも陛下(昭和天皇)の定められたもので、今さら変更するわけにはいかん。」と言ったので、「今ごろになって疎開する理由は何ですか。」などと、多くの人がつぎつぎと発言しました。
〇結局、川平湾の見えない所へ移転することを条件に、疎開は中止となりました。
〇移転先は崎枝と決ったが立ち退くまでに日数がありません。小屋つくり、農作物の収穫、道具の運搬、それを徹夜でもしなければ間に合わない状況となり、部落総がかりで仕事に取りかかりました。男子はほとんど召集され、女・子供・老人しか残っていないわけで、家財道具を運び、家をくずしてその材料を運び、家を建て、農作物を収穫していく、その仕事は本当にたいへんでした。
〇重要な道具は最少限運び、作物も収穫できる分はできるだけ収穫し、いよいよ明日中にこの部落を立ち退かなければならない、と迫った日には、九分通り以上の荷物が運び出されていました。残るは先祖の位牌と寝具の一部、ナベ、食器ぐらいでした。
〇ところが、その11月29日の夜になって、海軍の大将が来て、移転しなくてよいから柵をつくりなさいということになりました。
〇結局、従わないわけにはゆかず、多くの荷物や木材など持ち帰る力などなく移転先で捨ててしまいました。力がなかっただけでなく、時間もなかったからね。徴用とか柵つくり等にほとんど駆り出されていました。
〇道路に沿って湾に面した所に3メートルぐらいの鎖塀をつくれと言うことだから、山から木を切り出し、ススキ、黒ツグの葉などを取り寄せて、それにくくりつけていきました。今思うと実に馬鹿げたことをさせたものだと思います。
〇川平部落移転の真相は「川平湾を海軍特攻基地、つまり、人間魚雷基地として利用する、そのため近くに、住民がいては困る」ということで井上隊長は疎開を命じたのでした。
〇(編注)「海上特攻艇(マルレ)」は秘密作戦として計画・作成・訓練・配備されていました。
◇空襲
〇1945年(昭和20)は敵機来襲で年が明けました。
〇米機の主目標は三つの飛行場や陣地だけでなく、町や村にも激しい弾雨を浴せました。
〇全島の学校はすべて軍の収用するところとなって、旅団本部、兵舎あるいは野戦病院に使用されていたので、学校や諸官庁、兵舎となった集会所や民家、人の見える所、煙のたつ所すべて爆撃の対象となっていました。
〇3月からの連日の激しい空襲は、町や村の生産活動を全面的にストップさせました。人々は芋ですら満足に食うことができず、ンムニにして食べなければなりませんでした。
◇日本軍への動員
〇日本軍による民家の破壊や家財の持去りもひどいものでした。
〇3月29日、農学校の男子と中学生は、鉄血勤皇隊を組織し、20人が選抜されて旅団司令部の対空監視に命じられ、他の一部は通信兵あるいは重砲兵に志願させられていきました。
〇3月、軍命によって、女学校や農学校の女生徒の上級生は、一定期間の看護術の講習をうけ、同月のうちに准看護婦として、陸軍病院や野戦病院に4月には海軍病院にも配置されました。
〇5月、女学校3年、農学校1年も軍命によって看護術の講習を受け、陸軍病院や野戦病院に配置されました。
〇鉄血勤皇隊は、6月初旬、川良山のふもとの松林の中で敵戦車への体当り戦法が訓練されて、攻撃班、補給班等に組分けされました。
◇山間避難
〇「官公庁職員と医師は6月5日までに、一般住民は6月10日までに、軍の指定地に避難せよ」との軍命が来ました。
〇 山々では、初夏のむし暑い中、隣組単位の茅ぶきの掘立て小屋に、息苦しい不自由な生活が始まり、生産の減退、栄養不足、昼夜の壕生活、不規則、連日の心身の過労等によって体力は限界にきていました。
〇小さな掘立て小屋に数人の患者が高熱でうなされているところ、母や姉弟が死んでいるのも知らずに、その側で死んだみたいに寝ている者、死体を片付けることもできず、その異臭の死体の側でうなっている者、あるいは、死体の処理に途方に暮れている者等様々でした。
〇マラリアによる犠牲者が2,496人にのぼりましたが、空襲等による犠牲者は114人でした。
〇避難中、既に、マラリアの蔓延と食糧難は深刻な状況にありました。
◇疎開船遭難
「証言から」
〇6月24、5日に、24回目の台湾疎開命令が軍から出ました。
〇6月30日、台湾に向けての疎開船が発ちました。船は、第一千早丸(一心丸)、第五千早丸(友福丸)で、180名ほどの疎開者でした。
〇7月3日、尖閣列島を後に、台湾が見えていました。ところがその時、アメリカ軍の飛行機が船をめがけて攻撃してきました。一瞬の内に船内は生き地獄と化しました。
〇第五千早丸(友福丸)は沈没し、第一千早丸(一心丸)は機関が機銃でやられていました。尖閣諸島に漂着しましたが、日がたつにつれて食糧がなくなり、食べ物を探すのにひと苦労でした。
〇アメ リカ軍の飛行機は一日毎に来て偵察していきました。時には機銃掃射して去っていくこともありましたが、誰もやられなかったことは幸いでした。
〇8月12日、決死隊は板舟で八重山向け出発しました。
〇途中、3回も敵機に遭いましたが、その度に舟をひっくりかえし舟の下にもぐって飛行機が去るまでかくれていました。
〇川平の西の湾に無事たどり着いたのは8月14日午後7時ころでした。
〇15日友軍機が魚釣島の上空を旋回し低空してきて荷物をおとしてくれました。
〇16日朝、石垣から救助船が来ました。九死に一生を得るようにして48日目になつかしいわが家にたどりつくことができたのでした。
〇この時、亡くなられた方は5、60名位で、百二、三十名位は無事に石垣島に帰えることができましたが、救助後すぐ亡くなった方もいます。
◇マラリアと食糧危機
〇7月11日、軍は、マラリア被害の深刻さに、第三避難所からの撤退、第二避難所への避難を命じましたが、石垣町民の場合は、一時的にせよ町の自宅への帰還を許したのに、大浜村民の場合はこれを認めませんでした。
〇7月に入っては空襲はかなり緩慢になったが、逆にマラリアは猛威をふるい、死人が続出していました。
〇食糧事情も極度に悪化し、ソテツがまたたく間に切り倒されて、幹までが食糧に変りました。
〇疎開者や海外からの引揚者の帰還は食糧事情に拍車をかけました。
〇全焼・全壊家屋は369戸となり、約1割にあたります。特徴的なのは、旧石垣町よりも戸数の少ない旧大浜村の場合が全焼・全壊が多く、両飛行場の近くに集落があったことが被害を大きくしたと考えられます。
(11)最南端の波照間島(◇見出しは制作者がつけた)
〇1944年(昭和19)10月12日〜16日にかけて行なわれた台湾沖航空戦は、島への影響はありませんでしたが、近海は戦場さながらの様相が漂い、不安と恐怖にさらされました。
〇1945年(昭和20)1月21日、敵機8機が来襲し、初めてこの島に空襲が行なわれたが、人命にかかわりなく、学校や公共施設にも被害はありませんでしたが、民家が1戸(野原家)と穀物倉庫4棟が全焼しました。
〇2月8日、B24が1機来襲し、機銃掃射と爆弾投下を行ない、かつお節工場全焼と他の一部を破壊しました。
〇2月9日からは学校での授業も停止になりました。
◇特務教員山下に支配された島の人たち
「証言から」
〇2月初旬、波照間校に青年学校の指導員として山下寅夫が赴任したが、山下とは偽名で本名は酒井喜代輔でした。住民はかれに自らの運命を左右されてしまいました。
〇3月下旬、竹富村長をとおして疎開の命令が、波照聞出身の村会議員仲本信幸氏に伝えられたが、仲本議員ができないと、つっぱねて村長を返した後、現われたのが山下でした。
〇山下は、「君は宮崎旅団長の命令に従わないと、言っているらしいな、何たることだ。非国民!」と高圧的な姿勢で出てきました。
〇疎開の命令が島に伝えられると、島民は狼狽(ろうばい)しました。
〇島では連日のように協議が行なわれ、ずいぶん激論したが、彼の抜刀威嚇(編注ばっとういかく・刀を抜いておどすこと)の前には勝てませんでした。
〇最初の協議のとき、山下が来て、「疎開せよ、反対する者は斬る、牛馬も皆殺す、家も火をつけて焼き払う、井戸にも毒薬を入れる」と押しつけるだけで字民の声など全然聞きませんでした。
〇場所については、仲本村議は、恐しいのはマラリアだと言っていたが、多くの人々はマラリアよりは空襲を恐れていて、結局、南風見(はえみ)に決定されました。
〇疎開の準備は班別に食糧や荷物をまとめ、荷造りすることから始まりました。
〇家畜も「一匹たりとも残すな!」との山下の命令であったので、各戸では豚、山羊、にわとりなどを処分し、塩づけにしてびんやかめにつめ、肉はくん製にして俵にした。各戸では大きな牛馬には手をつけることはできませんでした。
〇疎開が開始されると、軍は家畜の徴用に獣医の広井修少尉、粟原軍曹らがやってきました。食糧、特にたんばく質に窮乏(きゅうぼう)していた軍にとって、波照間島の豊富な家畜は恰好(かっこう)のものであり、加工施設を使って食糧を確保するために、強制疎開という手段に出たと言われても不思議ではありません。
〇軍は島から召集された青年や、島に残っている男女青年の中から各部落3〜4名ずつ、計20余名を動員して屠殺(とさつ)と加工にあたらせ、船で石垣に運んで行きました。
〇疎開地ではすべて班単位に組織され、家も寝食も班単位で進められました。
〇住み家は海岸近くに造り、第一避難所と呼んでいた。山の中腹には第二避難所を造り、山の頂上近くには第三避難所を作り、非常事態に備えたが、それは完成しませんでした。
〇疎開地では昼は行動できないので、山にとじこもっていて、夜になると暗やみの中で行動するし、食事の準備も夜は灯がもれると敵に知られるというので朝と夕方のうちに準備しました。
〇6月8日、第1回「決死収穫隊」として各班から選出し、総勢66名を粟の収穫のために島に派遣され、収穫を終えて6月中旬無事鹿川湾に帰りました。
〇6月26日には第2回決死収穫隊、147名が島に派遣され、稲の収穫を終って7月中旬に帰りました。
〇住民の一部は、南風見のほかにマラリアの少ない古見部落や遠く由布島にも疎開していました。由布島は小さな離れ島でマラリアがなかったし、向かいの台地を開墾して畑にし、いもを植えたりしました。また山羊は木の下で囲って飼い、その飼育は学童たちがあたりました。さらに小浜島に近いので必要な物資は小浜島からかつお節や塩と交換することもできました。
〇南風見にマラリアの罹病者が増えると、山下も彼の宿(西島本家)の家族を連れ、また慶田盛家も南風見から由布に移って来ていました。
〇山下は、自から少尉とか中尉とか名乗っていたが、実は軍曹でした。
〇広井少尉の前では、酒井軍曹と名乗り、身震いしながら自分は護郷隊としてこの島に来て、疎開を指導していると報告していました。
〇軍隊について知っている者は、島には彼以外にいないと考え、また彼より強そうな者は必ず負かして彼の支配下におこうとしていました。
〇彼は島の人たちを畜生同様に考え、馬鹿にしていました。
〇疎開地へ最後に運航した晩、山下は巡査をはじめ住民30〜40名に暴行を加えました。
〇山下が島からくん製にして、持ってきた自分の牛肉の俵(たわら)が見つからないのは、班長に責任があるということで、北と南部落の班長を集め、一列に並べて生竹の1メートルぐらいあったものでたたき、それが割れ、ちぎれ、一節になるまでたたいていました。
〇毎日の食糧の使用量と残量を山下に報告していたが、報告にすこしのちがいがあると釜にあるごはんのついたしゃもじでたたかれました。
〇島尻さんは貧乏班のくせにぜいたくに食べさせているということで、何回山下にたたかれたかわかません。山下はあの班はお米班、この班は粟班、私たちの班はソテツ班だと言いふらしていました。
〇山下は疎開地に来ると国民学校の4年生以上の学童と防衛召集されない男女青年たちを集めて「挺身隊」を組織しました。
〇挺身隊は挺身隊館として一棟の小屋をつくり、中央から通路をつくって両側に男子、女子に分けて共同生活をしていました。
〇挺身隊の任務は荷揚げ作業、舶の偽装、避難小屋造り、清掃、警備などで、夜間も不寝番をおいて警備に当たっていました。いわば未成年者の軍隊でした。
〇夏の日盛りの午後2時頃から5時間も暑い砂浜で教化訓練ということで体罰を受けました。理由は清掃ができていない、ハエを取るのが少ないということでした。挺身隊全員を砂浜に2列に並べ、石野が男女かまわずひとりびとりを生竹のちぎれるほどたたきました。
〇最年長の富底は特にたたかれ、彼はそれが原因で死にました。
〇私の妹は、山下の部下の石野にたたかれ、尻から左横腹に跡が青紫にはれあがり、それがマラリアにかかって熱が出るとよけいはれあがり、腐れて黒ずんだ汁が出るとそのまま死んでしまいました。大仲(当時12歳)もそれが原因で死にました。
〇山下は挺身隊に窃盗を強要しました。
〇彼は台湾人を彼の日本刀で虐殺したと自ら言っていました。山下は彼をスパイだといい、ほかにもう1人台湾人が居るということで、それをさがすために川の上流に連れて行き、帰って来て、「他の1人は斬ったが、ここから連れて行った者は、逃がしてしまった」と言って自分の日本刀をふりかざしてアダンの枝を切り落していました。
〇彼は陸軍中野学校でゲリラ訓練を受けた特務教員であり、大本営直属の「遊撃隊」(護郷隊)の特務将校で、西表島に駐屯する護郷隊から派遣されたのです。
◇マラリアの猛威
〇疎開地では梅雨が明け、暑さが増してくるとマラリア罹病者も日に日に増加し、死亡者も続出するようになりました。
〇7月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増し、罹病者数100名にのぼり、死亡者は南風見田の東に疎開した三部落で70余名、西の方に疎開した前部落で3名、富嘉部落はナシ、古見4名、由布ではナシ、という状況でした。
◇住民、山下に抵抗
〇住民は山下に疎開解除を要請したが、彼は聞き入れませんでした。
〇7月30日、たまりかねた国民学校長識名信昇氏一行が、夜間、旅団司令部(石垣)へ行き、疎開地の惨状を訴え、疎開解除を陳情すると、即日帰島が許可になりました。
〇喜んだ一行は急行し、疎開解除の許可のあったことを伝えたが、山下は拒否しました。
〇8月2日、部落民は南風見の挺身隊館において緊急部落会を開催しました。
〇山下は「島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!」とどなりつけていました。島に帰って玉砕するか、そのまま疎開を続けるかの大評定の結果、疎開地に踏みとどまる希望者は1人もなく、満場一致で帰島することに決議しました。
〇玉砕する決意での満場一致の決議の前には山下の軍刀も功を奏することができませんでした。協議が終ると翌日から帰島準備にとりかかりました。
〇8月7日、古見班より帰島を開始し、南風見、由布班の順に行なわれ、また病人、老人、子どもを先に帰島させ、健康な青壮年は最後まで残って後始末をしました。
〇そのうちに終戦になりました。
◇帰島とマラリアの惨状
「証言から」
〇半年ぶりに島に帰ってみると道路も区別のつかないほど草が伸び、田畑も荒れ果て、どの家も荒れ放題で、庭には背丈ほどの草が伸びていましたが、住居は機銃の弾の跡があるくらいであったことが幸いでした。
〇耕地は牛馬もいないし、また、マラリアで耕作できるはずもありません。持ち帰ったわずかな食糧が生命の糧となりました。
〇一家全員マラリアに倒れ、死亡者が続出するなかでは共同炊事、共同作業もなりたたず、各戸、各自、自分のことすらできない事態に追い込まれていました。
〇北、名石、南部落はマラリアが特にひどく、一家全員マラリアに倒れ、一家全滅し、家系断絶する家が続出しました。
〇北部落の大泊家では17名家族から四男の嫁1人生き残るという悲惨なことがありました。家族全員がかかって枕を並べて倒れているので、看病などできませんでした。熱がさめた合間にしか食事の準備も看病もできなかったのです。飲み水をくんでくることでさえたいへんなものでした。
〇年の暮頃からその食糧も食べつくし、そのうえ、マラリアで耕作もできないし、耕地も荒れ果てているので人力ではどうしようもないし、家畜もいないというように緊迫した事態に直面しました。
〇野生のソテツを命の綱にしたのです。島で倒されたソテツは一戸平均700本、全島で約15万本のソテツが倒されたと言われています。
〇野菜は野生のアキノノゲシやニラ、パパヤなどで、パパヤは幹まで食べつくしました。野菜が手に入れば幸いで、ふつうはソテツのおかゆだけを食べました。
〇マラリアで全員倒れているので漁船も運航することができず、島のこのような事態は石垣に知らされることもなく、救援の対策も全くありませんでした。
〇12月末頃、島の指導者仲本信幸村議が、マラリアで倒れて意識の混迷するなかで3日がかりで一通の手紙を書き、島の窮状を訴え、救援を要請しました。
〇それを知った村役場と旅団司令部からわずかばかりの医薬品と食糧が送られ、軍医2名と数名の救援隊が派遣されてきました。しかし、その時には多くの患者は死に、生き残った者は回復に向っているころでした。
〇旅団から数頭の牛とわずかばかりの農器具の援助があったが、山下は彼に近い身内に分配して彼は島を引き揚げて行きました。
〇住民のマラリア罹患(りかん)率は99、7%で、いわばすべての住民がマラリアにかかり、死亡者も30、5%で、すなわち住民三名中一人は死亡しているのです。
〇弾で11人も死ななかった波照間では、飢えとマラリアで477名(未届の新生児を含めると実際はそれ以上)、マラリア以外の死亡者を含めると1946年当時約700名を越えました。当時の人口約1590人の約半数近くが戦没したことになります。
(参考)マラリアは、アノフェレス(ハマダラ蚊)によって感染され、伝染力もつよく、発症するとひどい寒気をもよおし、身震いが始まると、毛布やふとんを幾重かけてもおさまらず、やがて身震いがとまると40度以上の高熱を出し、なかには高熱で発狂することもある。2〜3時間たつと熱がさめ、平常にもどる。また数時間すると寒気をおこして熱発するというように、それが周期的に行なわれるうちに食欲が減退し、体が衰弱して死亡するという恐ろしい病気である。