証言が語る徴用

    「徴用」が法制化されたのは、「国家総動員法」第4条である。そして第4条に基づく「国民徴用令」(勅令第451号)によって具体化した。「国家総動員法」が公布された翌年の1939(昭和14)7月8日のことである。

    日中戦争のさなか、短期決戦の思惑がはずれた政府は、国民を長期戦争に動員するため政治、経済、文化その他の国民生活のすべてにわたって統制をしくための法制を進めていた。この「国民徴用令」は、それに付随する諸々の政令等を伴って戦争遂行のために政府の意思によって国民を移動、労役させることができた。

    沖縄では、1940年12月10日佐世保海軍工廠への工員送り出しを始めとして、本土への軍需工場への徴用が続いたが、沖縄戦突入の状況により、第三二軍は現地調達主義によって、すべての物資や労役を現地「供用」、現地「徴用」で乗り切ろうとした。したがって、平時でさえ生産活動の乏しい沖縄において、徴用と供出は、沖縄の人たちを困窮のどん底に陥れた。それは単に生産活動の停止だけでなく、生きる糧としての食糧問題に及び、沖縄の人々は飢餓状況の中で沖縄戦に巻き込まれていったのである。牛島司令官のこの「現地自活主義」(牛島指令官訓示)は、軍事優先の違法な軍権力によって住民を巻き込む戦闘突入準備であった。

※一部用語には(註)を入れ、適宜段落を付けました。
※見出しは制作者がつけました。

お金で雇って徴用を果たす 役所命令さえ守られない
女も男も軍が命令 手間賃は強制貯金だった
徴用も島を守るため 夜は慰安婦役?
製材作業を女子だけで 道理が通じない日本軍
幼児を預けての徴用 ほとんど家にはいなかった
貴様これでも役所吏員か! 日本刀で村長脅す
身体障害者にムチ 徴用されて軍と共に
曹長に尻けとばされ 徴用で軍事訓練を
拉致同然の徴用 「君たちは国賊か」
勤労奉仕と徴用の連続 徴用の宿舎は墓の中
徴用で栄養失調に 軍命と住民の板ばさみ
十五歳で叔父の代役 建設した飛行場を破壊する
六十五歳以下はすべて徴用 女性に弾薬運搬
船が徴用され島へ帰れず 船が徴用され疎開できず
民家を徴用し兵舎に 業者とつながった徴用
六十過ぎて徴用 日給は男が二円、女が一円
妊娠三カ月で徴用 乳飲み子を抱えて
兵隊は居丈高になって 馬車を持ってこい
親の変わりを娘が

お金で雇って徴用を果たす
    供出にしろ、徴用にしろ村役所を通してくるので、こんな小さな島では、まぬかれるすべがなかった。おまけに徴用は「ウヤダイ」(島に残る共同奉仕作業の慣習で怠るものは罰金を納める)ということで、稲の収穫期とか、植付期の農繁期に「ウヤダイ」がまわってくると、やむをえず、他の人を金で雇い徴用をはたしたものです。

役所命令さえ守られない
    あの時の徴用のやり方は、役所からの命令で、三週間を徴用やって軍に協力、あと残りは家に帰せと言われておりましたんです。しかし実際のところは、まだ徴用から帰って来ない本人に、また徴用令状が入って来てからに、令状渡すにも家族に頼んで置いて、またその日になったら、徴用に行くようにということ、明日はあなたの番だから、どこへ行きなさいということを、夜にかけても廻って言うておりますが、たまには二、三日も徴用から帰って来ない、行っている徴用先から帰さないので、家にいないで、期限を遅らすこともあったんです。

女も男も軍が命令
    沖縄戦の始まる前、若い者は、徴用といって、これは徹底的な義務であった。それでも若い者では足りないもんだから、補助労務というて、女も男も軍が命令する。これを補助労務といって出来るだけの仕事をさせた。雑役からいろいろの軍の必要な労務はこの補助労務者がしました。
…徴用は、病気の時でも、お医者さんの証明を持って来いといって、非常に厳重なものでありました。

手間賃は強制貯金だった
    佐良浜に帰えると同時に、伊良部村長の友利克が「ちょうどいいところに適任者がきた」と飛行場工事の監督にさせられました。各字から割りあてで百人くらい徴用したが、飛行場工事(註・飛行場建設工事のこと)につれて行って働かす人がいないというので、浜に着くと同時にまるで待ちかまえていたようにして、その人たちをつれて平良へ行き飛行場工事にあたりました。飛行場工事は三か月でした。

    しかし百人の男たちはみんな家族もちだし、三か月も家をあけてしまったら、生活に困ってしまうのは明らかです。それで軍には内緒でみんなで相談して、日を決めて三日くらいずつ伊良部村に帰って働いてこいと言って帰しました。四〜五名ずつ交替して帰しました。

    兵隊は官給品ですむからいいけど、ぼくらは一銭の手間もないのだからね、こうするほかはなかったわけです。手間は一か月三十円といっていたが、実際には農業会に貯金してあるといって一銭も手渡さないのだから、ないのと同じだったのです。

徴用も島を守るため
    昭和十九年五月に中飛行場の工事が始まり六十一歳の父が作業に行っていた。老人では体がもたんというので、私も病弱な体だが父と代って滑走路の整地作業に徴用された。
 資材の運搬作業で、馬車班として、自家用の荷馬車もろともの徴用です。強行作業で夜は家にも帰さず、あかりをつけて夜明けまでの作業はつらかった。あなたの島の人々を守るためだと言われ文句も言えない。
 そのうち、大野山の水源地あたりから資材運びを命ぜられて、それが砲弾だと判りびっくりした。途中で爆発せんかと車のガタピシを気にしながら命のちぢむ思いをした。道は悪いしおまけにせまい。今のタイヤの車と違って、鉄製車の馬車で夕方六時に中飛行場にたどりついた時は緊張してぐったりつかれてしまった。おまけに手間賃もない。

夜は慰安婦役?
    昭和十九年五月、下地に陸軍の飛行場作りの作業が始まった頃です。町役場から徴用令状が来ました。

 区長の所からとどけて来た令書には五月十五日、午前八時、西飛行場へ集合、ツルハシ、スコップ、毛布、針、糸、弁当、その他身のまわり品等持参する事と書いてありました。

 戦時下だし、女子が作業に行く事も致し方ないとしても、毛布も持って来いという事は何を意味しているのだろう、夜は慰安婦の役をさせるのだと泣いていました。

    部落の女子青年団員、十二名の令状をめぐり、顔色を変えて区長の所へどなりこんだ母親たちで、部落中が大さわぎになりました。「徴用に応じなければ、沖縄本島に強制徴用してつれて行く事になる」といわれ、同じ死ぬなら沖縄本島に行くよりは、島に居たい。ただし、住み込みではなく通勤を認めてもらうという事で、話がようやくまとまりました。(中略)

 五月十五日、集合場所は西飛行場作業現場から町役場の広場に変更され、役場の人や兵隊の訓辞がありました。「これは、お国の為であり、進んで、いくさのサキパイ(先立ち)になりなさい。この隊は女子報皇隊と名づける。当面の任務は兵隊さんのために飛行場方面の兵舎作りをする。そのために、各部落に供出させた資材の運搬作業である。」

 長い剣を下げた軍人を真近かに見るのも初めてだし、それにも増して、沖縄本島に、この戦さのさ中につれて行かれるのはおそろしかった。

製材作業を女子だけで
    その他いいつけられるまま、石灰焼きや、炭俵や、縄や、ゴザ作り等をやらされました。今でも特に想い出すのは、アツママお獄の東側にあった製材所で、奉公隊に徴用された二か月目に、製材作業を女の子だけでやらされた事です。一歩あやまれば、回転のこで体ごと切られかねない全く危険な作業でした。

道理が通じない日本軍
    こういうこともありました。私は字石垣の副会長をしていた関係上、徴用、供出の世話をさせられました。崎枝孫次、平得永禎さん(当時六〇歳)いずれも不具者(註・身体障害者のこと)でしたが馬をもっているという事で仕事に軍命ということでかりだされ、オモト岳から開南に木材運搬をさせられました。
羽地清雄さん(当時五六歳)は病気で寝ているのに、前日召集されていたのになぜ来ないか、といってどなりつけてくるのです。病気で来れなかったといおうとするけど、ふるえて一言も出ない。そのことを私が話すと軍は憤然としていた。とにかく軍隊には道理など通用しなかったですね。

幼児を預けての徴用
    徴用は、一回ごとに五日間、五回働けば帰ってよいことになっておりました。だが働く人が少なく、おまけに女ばかりときており、すぐ二回、三回と徴用命令がきます。ほとんどの人は、五、六回以上徴用されました。
 伊原間から平久保部落までの道のりは約三里です。五日間の食糧を持参して平久保まで歩いて行き、そこでまた他人の家を借り、徴用されたことは、なみたいていではありませんでした。

    わたしは小さな子ども(勇吉、みさ子)を祖母にあずけてきておりますので夜など子どものことが気にかかり眠られませんでした。夫は夫でこれまた軍の食糧班(猪をとる係)として徴用されていました。徴用で行く日などは子どもが、かわいそうで、また軍に抵抗できない自分も情けなくどうしてこういう時世になったのか、にくまれてしようがありませんでした。

ほとんど家にはいなかった
    壕は、女の人たちが徴用で掘りました。だから女子青年になってからは、ほとんど家にはいませんでした。あちらこちらと、1−2週間おきに徴用に出ました。

 割当は、区長さんや議員さんなど、字の役員の方たちが「○○に徴用に行きなさい」と言って、連絡して回りました。私は首里にも行きました。一中(註・現在の首里高校)の近くの山でしたが、そこに2週間行きました。また、小禄と西原の飛行場造りにも2週間ずつ行きました。飛行場造りは昭和18年頃でした。

貴様これでも役所吏員か!
    村民が一番苦しかったのはですね、駐屯部隊の徴用ですよ。今度は何人、今度は何人といって、役所に、出せといって、これを徴用係、この方がさしておったわけよ。松一さんが。そしたら、いっペん出しえないでですね、何十名といってきてあるの、それだけ出しえないで、そうして連れて行ったら、もう海軍に、貴様これでも役所吏員か、やめろとね。顔なぐろうとしよったといって、もう泣いて帰ってきてるわけ。

日本刀で村長脅す
    ところで徴用のことですが、役所のほうに徴用割当とか、陣地構築とかなんとか言って、海軍がくる、陸軍がきて、軍刀をさしてきて、村長は島袋松次郎さんでしたが、刀抜きそうにしてですね。徴用が少ないとかいって。宮里さんが総務課長。

    はあもう村長さんがもう返答に困りましてですね。徴用は全部あててこなかった。病気の人もいるんですよね。さあ、村長さん、看護婦がおったんじゃないか、はい、わたしですがと、あ、こっちへ来なさいといってからに、徴用出てこないじゃないか、本当に病気か仮病か行ってみましょうといってからに、またわたしをつれて、体温はかったりするんです。体温はかったら、普通なんですよね。どこがわるいか。下痢しているんです。

    下痢すると体温はあがりませんですね。下痢してからにやせこけているのに、このぐらいでは働けといってですね、陸軍やら海軍やら行って、熱がなかったら大丈夫、出れば下痢がなおると、言ったこと今でも覚えてますけどね。
こっちは員数が足りないといってしかられて、それで毎日のように太刀をもってきては村長さんをおどすし、村長さんも非常な苦労なさったと思うんですよ。

身体障害者にムチ
    わたしは足が悪いから徴用にいかなかったんですよ。そしたら毎日、ムチもって各家庭見廻りにきて、わたし体が悪いから農業できませんといってわびしているんだが、この人はバカヤローいってムチで叩いて毎日怒っていた。

徴用されて軍と共に
    当時、私は軍に徴用されて炊事班にいたため、三月二十三日の空襲からは常に軍と一緒に行動させられていました。二、三日は夜を待って部落に帰り、兵隊の食事を準備していたが、四日目頃からは爆撃がはげしく壕に入りびたりで、家族の元へ帰るのは許されなかった。

曹長に尻けとばされ
    ところが私たちは、炊事班として徴用されてはいたものの、二四日には、壕の壁を支えるための坑木に使う松の木を切らされることになりました。しかも、小さなノコギリでですよ。松の木は大木ですから、簡単に切れるわけがありません。

 もたついていると、そばで指揮をとっていた曹長に何度かお尻を蹴飛ばされましてね、役に立たないといって。ずいぶん意地悪い人でしたよ。特に、前の晩は、狭い壕の中でその曹長だけが足を十分伸ばして寝てしまったもんですから、私たちは足を折り曲げて、座るような格好でしか寝られなかったんです。ですから翌日にはそれがこたえて、ノコギリを持って力を入れようにも、入るわけがありません。それを、足蹴にしてしまうんですから、実に勝手な人でした。

徴用で軍事訓練を
    十二月の上旬ごろ、駐屯軍の方から、満十五歳から十七歳までを対象に戦闘教練に参加するよう命令が下った。これが、いわゆる阿嘉島の少年義勇隊が結成されるきっかけとなった組織である。私も当然参加することになるが、内容は、早朝教練とのことで、下士官や将校などの指導によりマラソンをはじめ、匍匐前進(腹ばいになって進んでいく)をしながらの突撃訓練、急造式(照準器が固定されていて、射程距離は三〇〇メートル以内)銃を使った射撃訓練などであった。

拉致同然の徴用
    弟が入隊したあと、今度は父が徴用で、というより、いかにも拉致されるように座間味に連れて行かれたので、私の家族は女、子供だけになってしまったのです。その時からは私が先頭に立って家族を連れて歩かなければなりませんでした。

「君たちは国賊か」
    戦争が切迫してきたのでいつしか青年学校もなくなり、私たちは連日徴用に駆り立てられることとなった。まず最初は伊江島へ行くようにという命令であったが、父の看病を理由に一応それは断った。

    するとある日、青年学校が私のような者を数人あつめて、「君たちは国賊か。みんなで頑張っているというのにいつまで家庭に引っ込んでいるつもりだ」ときつく叱られてしまった。それで悔しさのあまり徴用に応ずる決意をして、当時真部山にいた宇土部隊へ行くことになった。そこには約一〇日間いたが、作業内容は殆んどモッコ担ぎと草刈りであった。兵隊が壕を掘ると私たらがその土を運搬したのである。

勤労奉仕と徴用の連続
    私たちは学校を卒業しても家事の手伝いは殆んどできなかった。勤労奉仕と徴用の連続であったし、同級生のうち進学したのは二、三人であった。伊江島へ徴用で行った時は、最初は私は名簿からもれていたので行かなくても済むものと思っていたが、最後になって残った者だけひとまとめにして連れて行かれたのであった。

徴用の宿舎は墓の中
    徴用の期間はまともな家に住むこともできず、私たちは空墓(註・埋葬されていない墓のこと)に宿泊させられていた。あの墓もこの墓も徴用で来た人々でいっぱいしていたが、なかにはまだ閉ざされたままの墓もいくつかあったので、非常に気味が悪かった。また墓の中は空気も悪くて、とてもじっとしておれなかったので、私たちは深夜まで浜辺などで語り過ごすのがつねであったが、おかげで翌朝は起きるのがとても辛かった。
 食事はもはやまともな芋すらなく、殆んど麦飯ばかりであった。そのために多くの者が下痢で苦しんでいた。汗と土にまみれて帰っても風呂もなかったので、作業が終ると海へ行って汗をふいたものであった。

徴用で栄養失調に
    私は当時高等一年だったが、授業らしい授業は殆んどなく、いつも奉仕作業に狩り出されていた。父も徴用で伊江島に行ったが、間もなく栄養失調ということで、親戚の者が連れ戻して来ていた。父はそのために目も悪くなり、ずっと病気がちであった。

軍命と住民の板ばさみ
    三度三度の食事にも困っている村人たちに、軍命として供出を強要したこともたびたびであったし、また、徴用を済ませて、帰宅したばかりの人々に対して、情容赦もなく、直ちに伊江島行きを命じたこともあった。そのために、随分、村の人たらから反撥を買ったし、苦情を持ち込まれない日は殆んどなかった。

十五歳で叔父の代役
    昭和十九年七月、私は十五歳の少年であったが伯父の代役として読谷北飛行場設営隊の徴用要員として参加した。伯父は病気で作業は無理であるため字の役員と話しあい、同郷の先輩達と同伴であり代役少年でもよいということで参加した。

建設した飛行場を破壊する
    徴用に従事して、およそ半年間、たったの一銭の報酬も無く働いたが、作った飛行場から、一機の飛行機も特攻磯も飛ばず何万人と動員された人々の労働は何にも報えず、米軍にどうぞ使って下さいと提供したようなものだった。(註・伊江島や本島、宮古、八重山の飛行場のほとんどがこのような状況であった。)

六十五歳以下はすべて徴用
    部落の男は人口の半分とみても千名こえるわけですが、この男たちはぜんぶ徴用にとられていますよ。六五歳以下の男だったら村長であろうが議員であろうがみんな一か月ずつ労務に行っています。一回の労務班は多いときに二〇〇名ぐらい行っていますね。

女性に弾薬運搬
    十月十日の空襲は、空襲ともわからないで、男たちはみんな海に出ているし(註・徴用の一種で食糧班として漁をすること)、女たちは軍の徴用で弾薬運びをやっていました。弾薬は格納庫に分配していれてあった。毎日弾運びばかりさせられていた。

船が徴用され島へ帰れず
    歯の治療で那覇に行ったとき、船は全部徴用されてしまって、もう帰る船がなくて、島には、一年生の長女と次女が六歳、長男四歳、次男は、誕生(日)前だからね もう、心配で心配で、安夫(次男)なんかオッパイ欲しがって泣いているんじゃないかなーと、考えると夜も眠れなくて。

船が徴用され疎開できず
    沖縄に行くのは、その頃年に一回ぐらいで、ほとんど内地でした。この船が、軍に徴用されて、やがて日糖の船は途絶してしまうわけです。加納丸が疎開舶の最後の船になり、その後大東島は戦時体制に入るわけです。

民家を徴用し兵舎に
    住宅はたいへんなもので、ちゃんとした家は軍にとられてしまって、私(松田)たちは小さな物置小屋に入れられていました。兵舎といっても民家を徴用したもので、強制疎開というものもそういうところからきたんでしょう。

業者とつながった徴用
    特に昭和十九年頃に、津堅島に日本軍の飛行場を作るために、国場組の国場幸太郎氏が与那城村役場にやってきて、新垣金造村長に、徴用による労務者確保を依頼しておりました。嘉手納飛行場建設にもかなりの徴用が行なわれました。そこでは、米一粒にイモ一斤混ぜるといわれる程、食物はわずかしか与えなくて、大変きつかったようです。(註・「国民徴用令第六条」に基づく徴用と思われる。)

六十過ぎて徴用
    私のおじいさんは、当時六十歳すぎておりました。家大工や石大工もできました。ある日、村役場の人がやってきて「おじいさんの職業はなんですか」とたずねました。

 おじいさんが「農業です」と答えると「農業以外に何かできますか」とまたたずねると「石大工ができます」と答えました。すると「それでは、あしたから徴用です」といわれ、すぐに読谷飛行場へ行かされた…。

日給は男が二円、女が一円
    その頃、一般住民も、軍に徴用され、私の家族も、全員、徴用されていました。しかし、夫は、平良町にあった比嘉という、軍のみそやしょう油を作る工場で働いていたので、徴用は免れていました。徴用は、主に壕掘り作業で、給料は、日給で、男が二円、女が一円位でした。

妊娠三カ月で徴用
    私が、儀保町から、経塚部落へ引揚げて、そこで両親と一緒に生活していたとき、おじいさんに徴用があった場合は、おじいさんは老いて働けなかったので、私が代わりに出ていました。その頃、私は、妊娠三か月の身重だったけれど、牧港の日本軍陣地へ、壕を掘りに行ったこともありました。

乳飲み子を抱えて
    私は乳飲み子をかかえていましたが、毎日軍の作業に出ました。主に壕作りの時のモッコで土はこびでした。内間、赤田、沢岻、末吉宮の壕にも行って働き、あい間をみては乳を飲ましに帰って、又でかけるといった具合でした。又壕の中に入れる木材として伐採してあった松の木の皮をはぐ仕事もしました。

  こうして皆懸命に働いて軍に協力しているのですが、友軍は沖縄の人をばかにして「どんな協力をしているのか」などと云ったりしていました。

兵隊は居丈高になって
 何もかも大変でしたが、まず勤労奉仕は困りました。男のほとんどが、徴用されるんです。伊江島の飛行場、屋良の飛行場へ何人出せということが村役所から区長に来るんです。

 この安谷屋の部落では、一班、二班と分けて五班までありましたが、区長は班長さん方に、勤労奉仕へ出る人員を割当てるんです。区長と班長は、その人を揃えるのが、なかなか難しいんです。交代して帰っては来るが、帰ったと思ったら、区長は班へ割り当てて、班長といっしょに、人員を村からの割り当てだけ集めて出さねばなりません。

 ずっと一年近くも前から、絶えず徴用されていますので、帰って来ると仕事が酷くきつかった、待遇が牛馬同様に扱われたという苦情をいいますし、帰って来たばかりなのに、こんなにまた休む暇も、農耕の時日も全然ないと苦情をいいます。

 ところが、近くの地元の勤労奉仕の場合などは、男はあちこちに、前に引っ張り出されていますので、女も交じっていいから何人出せと、直接区長に来ます。それで現に割り当てて班長といっしょになって、人を揃えて出すのですが、ふて腐れて逃れて行かない者も出ますね。そうしたら兵隊の方では、区長の方へ来て当るんですね。人員が足らない、来たものはだらしのないものばかりだと、大変な剣幕で折檻するんです。

 こっちはどこまでも詫びてすみません、つぎからは気をつけますと許して貰うようにしますが、兵隊は時勢の関係で最初から居丈高に怒って、自分の子供ぐらいの青二才から、顔を殴られたこともありましたがね。

馬車を持ってこい
 佐敷国民学校にいた晩部隊から、馬車を持ってこい、と言われて、二、三日徴用された。部隊が玉城かどこかに移動するから、馬を置いて行けと言われた。いやだ、と言ったら「戦争だ、何で軍隊の言うことを聞かない」と言うので、自分で飼っている馬は死ぬも生きるも一緒だ、と言ったが、馬も馬車も取り上げられた。部隊には馬にやる餌もないだろうから、明日また馬も一緒にくるからと、言っても聞き入れられなかった。戦後の補償に、馬代も馬車代ももらっていない。

親の変わりを娘が
    一九四四年(昭和十九)、佐敷に軍隊が入ってきました。そして男たちだけでなく、女性も軍に徴用されました。私は子どもがたくさんいたので、代わりに長女のナツ子が、陣地構築作業や弾薬運びの仕事などをやっていました。

※随時出典のない項目は、「沖縄県史9・10巻」からの引用です。

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