証言が語る法制

毛布一枚で軍法会議 皇国軍人を捉えるとは何たることだ
民側に立ってやってくれ 徴発命令を拒否した
陛下の法律ですから 家屋と家畜に補償はない
入り口で金を渡し出口で取っていく 戦争犠牲に変わりはないはず
袖山部落離散の場合 収穫まで待ってと願い出たら半殺し
耕作地の取り上げは農民の死活問題 牛や馬には補償はない
人生設計すべてが水の泡 巡査がすべての権限を

※一部用語に(註)を入れ、適宜段落をつけました。
※見出しは制作者が付けました。

毛布一枚で軍法会議
 その晩のことですかね、首里に軍の被服集積場がありましてね、そこが焼けたもんだから、そこから毛布一枚取って持って歩いておったんですよ。そうしたら新城でそれを憲兵に見つかってですね、軍の物を取ったのは軍法会議に廻るんだと、酷い文句だったですね、住所氏名も言いなさいといって。

    しかしその場合にですね、軍服がそう言わすのか、人そのものがそう言わすのか、もしあの人の家族が居ったら、僕にやったあのような態度をするであろうか。ここで僕は人間の心理状態というのが、わからなくなった。沖縄の人を馬鹿にしているのか、毛布一枚で夜露をしのぐとか雨をしのぐとかして逃げ迷っているのに、そういう言葉が出るのか、友軍というのに、とつくづく感じましたね。

皇国軍人を捉えるとは何たることだ
 しかし、ここに駐屯した兵隊は、私たちがおそわった兵隊、想像しあこがれていた兵隊とは似ても似つかなかった。道義的にも地におちていた。特に海軍がきてからは住民の家禽を勝手に持ち去るし、芋畑をもあらすようになった。

    食糧事情も悪化していることとて、畑主が怒って芋どろぼうの兵隊を捕えれば、兵隊はひらきなおって「我々は君らを守るためにきているのだ。この皇国軍人を捕えるとは何たることだ。貴様らを軍法会議にまわしてやる」と逆に畑主をしぼりあげる有様であった。

    人々は底知れぬ不安と反感を抱きながらも兵隊に対する恐怖心と郷土を防衛してもらうという立場から、不平不満を口外する者はなく、表面的には彼らのいうことに唯々諾々と従うより他なかった。

民側に立ってやってくれ
 たとえば、鮮魚組合は供出班長の指示で鮮魚を供出して軍の経理部に納めますし、経理部は供出班長を通じて鮮魚の供出を命じてきました。

 軍の主力がまいります前に、親展の文書が、県の経済部長から宮古支庁長あてにまいりましたね。茅束やわら綱を何万準備しておくようにということがあって、最初に工作隊がやってまいりました。それからあとに主力の上陸はありましたね。

 有無をいわさない時代ですね。国家総動員法が実施されて、勅令で物の配給や価格も統制されていましたね。生産から配給まで統制されていましたが、県知事がそれをやり、宮古では支庁長がやるという次第ですね。

 ところが支庁長の納戸粂吉さんが病気で、そのために、実際の仕事は私にまかされたわけです。私は当時宮古支庁の経済課長でしたが、納戸支庁長は私に、「民側に立ってやってくれ」と頼まれました。

 軍が宮古に上陸してきてから、そのやることなすことは大変なものでした。私は支庁長の命に従って、従来の線でおし進めたんですが、軍側は、「頭をきりかえ、経済業務はすべて自分らにうつせ」とせまりました。そのとき私は、はっきりいいました。「それはできません。戒厳令は出ていないじゃありませんか。私は、軍命令ではなく、地方長官(編者註・県知事のこと)の命で動かなければなりません。」と。

 「よろしい、わかった。」と答えましたが、しだいにひどすぎることが現われてまいりました。

徴発命令を拒否した
 戦争中は食糧供出を軍から命ぜられて初めのうちはいうなりに応じていたが、区長をしていた砂川恵昌氏は、部落内に割り当てて来た野菜、イモなどが不足して来たし、徴発命令を拒否した。集めようにも物がないといった。

   その日の夜、部落の西側にあるウンヌヤーの前の兵舎から着剣した兵隊が、部落に向ったという知らせがあった。砂川恵昌は家を脱出していた。無人の砂川恵昌の家を兵隊は包囲して、クビヤド(ススキを摘んで作った戸)の間から、床下にかくれていると思ったのか家を銃剣で刺していた。夜、くらがりの中でプスプスというかわいた音が西どなりの家から聞えていた。

陛下がお定めになった帝国の法律ですから
 一五歳以上四〇歳までの男子を片っ端から召集した。もちろん防衛隊か義勇隊か、さっばり解らない。唯その年齢に該当している男子なら健否はどうでもよい。否応なしに召集するのである。ぼくは村長と打ち合わすため、朝早く村長の壕を訪ねた。村長の父と妻は、お茶を飲んでいたが、何か物憂いに沈んでいるように見受けられた。

「村長さんは、どこかお出かけですか」と尋ねると、
「いや実は昨日召集されたのです。貴君で村民のことは考えてくれるようにと伝言がありました」と父(村長の父)は力なく告げられた。「何!召集されたのですか。無茶な召集です。村長まで召集するなんて、ほんとに呆れて物も言えぬ」

 村長を召集したのでは、一万人の村民は一体どうなるのだ。軍制が施かれていたら別だが、未だ自治制は確立しているのだ。私は胸中で自問自答した。村長の父と妻が何とかしてくれるように乞うているようである。

「どうですか、部隊と交渉して見て、召集猶予を願い出ましょうか。村民のこともあるし」
「もしそう言うことができましたら結構です」と父と妻は同時に答えた。
「できるかできないか分りませんけれども、当たって見ましょう」

 (中略)

 壕の中はゴッタ返しで暗い通路の両側には、幾多の兵が地べたに坐って足を投げ出して休んでいるということを知ったのは投げ出した足を踏んで怒鳴られて分かったのである。

(中略)

「オイ! お前は地方人(編者註・一般国民のこと)ではないか。何か用か」と怒鳴るように問う。
「ハイ、西原村民で当村役場の兵事主任大城純勝という者であります。実は御多忙中のところを甚だ恐入りますけれども、隊長殿にお願いいたしたいことがありまして、お邪魔に上った訳であります」
「どんな用件か知らんが、西原村民は実にけしからんと思う。壕ばかりに引き籠っていささかも軍に協力しょうとしない。まるで穀潰しぢゃ」その怒声は、その辺にいる部下を震いあがらせた。

   「隊長殿からお叱りを受けるのもごもっともで、深く恥入る次第であります。実は村長も軍への協力を計画中でしたが、それもあるいは計画倒れになりやしないかと思って、お願いに上がった訳であります。昨日村長は、栄あるお召しに与かったので、本人はその無上の光栄に感泣していることと存じます。また村民としてもお祝いいたしたいことであります。所が他方よく考えて見ますと、村長は一万人の村民の責任を持っておられるのであります。お召しになった喜びの反面において、村民は、慈父をなくして、困惑しているような状態であります。そこで折入ってお願い致したいことは、もしもできることでしたら、一兵卒として御奉公させることも結構至極ではありますが、なるべくは、それより村長として御奉公させて戴きたいと思うのであります」

   「誰か代わるべき者がいるだろう」
「いや実は、助役も任期満了し欠員のままでありますし、それに代わるべき者がいないのであります」

   「誰か適当な者に代わらしたら良いんじゃないか」
「もしも後任を決めることにしますと、未だ自治制が実施されていますから、その法規に従わねばいけないのです」

   「どういう法規があるのか」
「村長推薦の村会を開かねばいけないのです。この戦時中、村会招集は非常に困難だと思われます。たとえできたとしても、その村会だけでは決定権はありません。単なる堆薦でありまして、その推薦された人を更に地方長官(編者註・県知事のこと)の認可を得なければいけません。その肝心な長官も今どこにおられるか解らないのであります」

   「そんな、うるさいことやらなくても良いじゃないか」
「いや、そうはいきません。それは沖縄の法律ではなく畏くも、陛下の御制定遊ばされた帝国の法律でありますから、忠良なる臣民として、断じて犯してはいけないのであります」

   「それでは、どうしろというのか」
「先にも申し上げました通り、村長としては御奉公させていただきたいのです」
「俺の部隊が召集したんじゃないよ」
「隊長殿の部隊ではありませんか?するとその部隊は御存じではありませんか」
「俺は知らぬ、東風平部落辺の部隊かも知らん」
「ではまことに御手数をかけて相済みませんけれども、村長証明書を壱通御願い出来ませんでしょうか」
「ウーム。書いてやろう。西原村長であることを書けば良いか」
「ハイ、それだけで結構でございます」

 押問答の結果、証明書を手に握った僕は、壕入口に待たしていた新川氏と康秀氏三人部隊の壕から出て、東風平方面へ向かった。

 三人は砲弾飛雨の中を潜り、軍の壕を片っ端から探し廻ったが、所属する部隊は見当たらなかった。やっと夕暮れになって見付けたが、村長はあいにく不在で逢えなかった。

   富盛の隊長に話したようなことを、隊長に談じ込むと、考慮しょうということで、三人は帰ることにした。翌朝、村長は解除隊された。「畏くも」云々が効を奏したのか、首が飛ぶ所だった。 (「西原町史第三巻」)

家屋と家畜に補償はない
 人の被害と乱伐された造林の損害は、最近になって政府が調査したが、家屋と家畜の損害は調べていない。何らかの方法で補償してもらいたいものだ。

文句を言うと…
 そのうち植えつけた甘藷畑が荒されたが文句をいうと君たちを守りに来たのだという。

入り口で金を渡し出口で取っていく
 生前、父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。

 地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。それも国をあげての戦争ということだから仕方がなかったとしても、いまはもう戦争は終ったのだから、その代償というか、そういったものを国は考えてくれてもいいのではないか。

   日本はGNP世界第二位といわれ、世界でも大きな国になったが、その裏にはこのような大きな悲劇があるということをかえりみようともしないことは問題だと思います。−戦争が終って必要がなくなればいつでも土地は返すとはっきり約束したと言って、いまも軍との約束をおぼえている人もいるのに、こんなにはっきりしていることさえ解決しようとせずに、何がGNP世界二位かと言いたくなる。

戦争犠牲に変わりはないはず
 栄丸の遭難は、戦争中のことではない(編者註・戦後の引揚げのこと)ので、何の補償もされていません。直接弾丸にあたらなかったというだけのことであって、国の政策にしたがって土地をとられ、台湾に強制疎開させられた。戦争は終っても国が引揚げのめんどうをみてくれないので、自力で帰えろうとして遭難したのです。戦争の犠牲者であることには変りはないはずです。

    母の立場からすれば昔から住みなれた家も屋敷も畑もとられ、そのうえ夫と二人の娘を同時に失ったのだ。せめて母が生きているうちに、以前の土地だけでも返してもらいたかった。

母は悲しみのあまりろくに外出もせず、数年後に死んでしまいました。

袖山部落離散の場合
 昭和十八年の九月当時、現在の宮古飛行場一帯には、三つの部落があり、平和な農業を営んでおりました。西の方から七原(ナナパリ)、屋原(ヤーバリ)、クイズの三つの部落がそれで、百数十家族が住んでいました。この地に海軍飛行場が建設されることになり、先ず、主滑走路に当る七原、屋原に立ち退き命令が出されました。

 部落の人々は、不満に思いました。しかし、命令が下った以上、それに口出しすることが、何をもたらすかを知っていましたので、「いのちあっての財産だ。」と、自分らにいいきかせてあきらめました。

 地元出身の町議会議員(池村香一、本村真津、長崎富一の三人)は、平良町当局に相談して、平良町有地を無償で払い下げてもらうことにしました。

 実際には、昭和十六年六月の宮古郡会の記録で、平良町当局は、屋原、七原部落民の更生策として、袖山地区三九反(反当三〇〇円)鏡原山地区五一反(反当三七〇円)で有償払下げを決定し宮古支庁に「町有地基本財産処分申請」を出して許されている。屋原、七原の強制収用された土地は一六、一四二、六アール、八四一筆、二五五名の地主となっている…。

 立ち退きさきは、現在の宮古高校東側のフナコシ原、鏡原小学校東側の原野(現在の七原)、それに袖山の三つの地で、各戸に対し一反歩の供与がありました。

 屋原部落の栗国さん方の親族は行き先地を決めるための協議をしました。本家の方からは、みんなまとまってフナコシの方に行こうじゃないか、という提案がありました。フナコシは、船底井という井戸に近く、水の便もあるし、町に接しているという利便があります。粟国定吉さんの家族は、之に応じませんでした。

 粟国さんたちは、袖山に行く組に入りました。沖縄製糖株式会社系の兼島農場に一町歩の小作地を借りる相談ができているので、そこに少しでも近い袖山をえらびました。兼島農場は、袖山から三キロほどの処にあります。

 働き手の豊さんが徴用で留守であった村山さんの方は、立ち退きによって三町歩もの耕地を失ないます。所有地の原野が袖山にあるということから、袖山組に入りました。

 人々は、「ナナバリヤナナツンバリ、ヤーバリヤヤーツンバリ」(七原部落は七つに割れ、屋原部落は八つに割れ」と、部落離散の悲哀を表現しました。

 もらえなかった地代

 人々は代書を頼み、手続きをし、地代をもらいました。しかし、その半分は義務貯金を強制され凍結されました。

 粟国さんの方は、土地代を一銭ももらってないケースです。定吉さんの父が、「戦争が終れば、売ってさえなければいつかはとりかえせるんだ。」という考えを示しましたが、実は、土地が先代名義になっていて、移転登記のわずらわしさがあったので、手続きしないままに収用されました。あとになって、金につまって土地代をもらう気になったときは、空襲がはげしくなっており、手続きは不可能になっていました。

 立ち退きの日がやってきました。建物をくずして馬車で運びます。家財道具、畑のいもなども運びます。だが間に合いません。多くの人力が搬入されてこわしにかかります。一馬車分つんでいって帰ると、残りが低地に投げこまれて、うめ立てられるというありさまです。

 あまりのひどい仕うちに定吉さんはいかりを発しました。作業にかりだされてきている婦人を叩いてしまったのです。汗の結晶が、農民の生命の糧が、目の前で、つぶされているのをみて、がまんできなかったのです。うしろで指図している権力の姿など心に浮ぶ余裕もありません。穂が出ようとしているサトウキビがつぶされていった姿を今でも思い起すほどです。

収穫まで待ってと願い出たら半殺し
 白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東嘉手苅、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。砂糖きび、芋、大麦、粟、キン、カズラ豆、大豆、野菜等が年々作られていた。

    このような立派な土地が強制的に日本軍によって接収されたのは、たしか昭和十九年の五、六月頃だった。陸軍省から塚原事務官と田中見習士官がやってきて、白保に飛行場を設営しなければならない。それで、「前に掲げてある土地を提供せよ」との命令である。国家総動員法による命令である。

   当時誰もがそうであったように、国家の命令には絶対服従である。土地がとられるのはいやだと思っていても、それを表面に表す0ことは出来なかった。国が勝つためには、やむを得ないという立場に追いやられていたのである。

 軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。必要な所をみな測量し終えた後で、土地代は大浜村役場で支払う。印鑑をもって取りに来いということだった。全く国側の一方的な仕打ちで地主はただ国家の指示する価格に従わなければならなかった。

    このようにして白保の飛行場用地は国に取りあげられたのである。そして山田部隊、浅沼部隊などが入りこんで来、飛行場建設に着工したのであった。工事がすすむのに従い作物の収穫もしなけれはならない。たいへんいそがしかった。

    宮良栄昌(当時四五歳ごろ)さんなども芋をたくさん植えてあり、それを収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。

    そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。しゃくにさわった。

 土地代の支払いにもそのようなでたらめさがあらわれている。土地接収で、面積の少ない者には全額受取った者もあり、また全く支払われない者もいる。全額をもらったにしても、その金額の内訳がわからない。(地上物件補償金なのか、土地代なのか)広い面積(わたしなど二町歩余りとりあげられている)の人々は分割して支払うというやり方だったが現金は二%ぐらいで、残金は、銀行定期頭金証書や、国庫債券を交付してわたした。

 だが戦後二十八年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。

耕作地の取り上げは農民の死活問題
 戦争の犠牲はいろいろあるが、もう一つ今でもしやくにさわるのは、農民にとって死活問題である耕作地の損害である。私の水田はシラミズ(大川、登野城の住民が戦時中避難をし、悪性マラリアで多くの犠牲者を出した所)にあるが、当時その一帯はあちらこちらに壕が掘られ、おかげで私の水田が掘りおこされた土砂に埋め立てられてしまった。

 私たち農民にとって、水田は生命であり、おまけに収穫した米も供出で取りまくられるし、このままでは食糧の確保も保障できず、戦争がながびけばどうなるのだろうと家族をかかえて不安で、とほうにくれてしまった。
 勿論損害賠償などがあるはずがない。全く泣寝入りをしたものである。軍隊はひどい、戦争はむごい地獄だとつくづく思った。

牛や馬には補償はない
 おまけに、つい最近(一九七二年春)戦災補償申請をやれというが、材木や牛、馬は補償の対象にしない、というから、農民はいつまで、ふんだりけったりかと、怒っているのです。

人生設計すべてが水の泡
  この戦争で波照間では疎開とマラリアで、八重山では最もひどい目にあい、一七〇〇名の人口のうち六八○余名の尊い人命と多くの家畜、財産を失なった。戦死した者には恩給があるがマラリアで死んだ者には何の補償もない。何と非情なことか。

    また戦争に徴用されて失なった私の漁船などにも何の補償もない。また戦前の郵便貯金残金が壱万八千円、生命保険が五千円口と一万円口の二つ、徴用された船の小切手参万五千円、最もひどい目に合っているのは老後にそなえた年金で、五二歳になれば毎月六十円もらえることになっていたものが、みな水の泡になってしまい、この年(七七歳)になってこんなに苦しい思いをして生活している。

巡査がすべての権限を
    当時は島には部隊がいないから、戦闘訓練はこの生良巡査、食糧の増産とか供出のことは県から派遣されてきた山川技手が権限をもっています。村長とか議員といっても軍とか県の方針はこの二人に指示してもらわないといかんです。この巡査はなかなかきびしい巡査でした。私は「何かご用ですか」と言ったらすぐ膝まずきさせられて、「要求は何ですか」ときいても何も答えないです。「煙草をすってもいいですか」ときくと「ならん」といってどなるわけです。


※随時出典のない項目は「沖縄県史9巻・10巻」からの引用です。

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