沖縄戦では(沖縄戦の証言から)
「沖縄県史第9巻・10巻」「那覇市史(戦時記録)」「沖縄の慟哭(那覇市刊)」より

避難状況 道路規制命令 消火・防火活動の様子 非国民というレッテル

[避難状況]

◇昭和十九年の十月十日の空襲のとき、家は那覇駅のすぐ裏でしたのでね、朝のうちは、まだそのあたりは焼けていませんでした。

 屋敷が狭かったから、家の中に、畳を起こして床下に防空壕を掘ってあったんですよ。そこに朝のうちは入っていたんですけどね、警防団の人たちが、危険だから避難するようにと、ふれ廻っていましたから、そこから急いで出て行ったんですよ。旭町の方はまだ燃えていませんでした。

 祖母と伯母と私は、壷川を通って、真玉橋を渡って歩いているうちに、真玉橋の部落についたんですよ。部落に入って行って、知らない人の家に入りましてね、そこの馬小屋みたいな所を貸して貰ったんです。真玉橋あたりは那覇からの避難民で右往左往していました。

◇首里のあちらこちらには、避難民の通り道を指示する係の兵隊がいて、私達も鳥堀から行こうしていたのを「こっちは通れないから」と云われ、タマウドゥン(霊御殿)の方から下りて行きましたが石垣はあちこちくずれていてやっと歩ける状態でした。識名に向ったのですが、弾がピューピューとんできて識名には上れず、松川の方に下る道を通って真和志に出ました。国場の高台迄きた時には暗くなっていてそこで一休みし、又歩きました。

◇その頃、一般住民も、軍に徴用され、私の家族も、全員、徴用されていました。
しかし、夫は、平良町にあった比嘉という、軍のみそやしょう油を作る工場で働いていたので、徴用は免れていました。徴用は、主に壕掘り作業で、給料は、日給で、男が二円、女が一円位でした。十・十空襲以前は、空襲警報が鳴った場合は、どのように対処すれば良いかということなどで、毎日、防空訓練がありました。

 十・十空襲以後は、もう、ここにいると危険だから、すぐ国頭へ避難するようにとの命令がありました。それで、翌日の夜、近所の人々と一緒に、国頭へ向けて出発しました。
しかし、その頃は、車も、そう多くはない時代でしたので、私達は、歩いて宜野湾まで行くのがやっとで、もうこれ以上は行けないと判断して、結局は、また、大名部落へもどることになりました。その後は、十・十空襲のような激しい空襲はありませんでした。でも、米軍の偵察機は、ひっきりなしに、上空を飛びかっていたので、空襲警報が鳴った時は、急いで壕に避難していました。そのような生活が、旧の二月頃まで続いていました。

◇その後、米軍が、浦添城跡のところまで、侵攻してきたので、石部隊の人が、「ここにいると危険だから、早く島尻の方へ避難しなさいよ」と促したので、私達は、その日の夕方、大名部落の自分の家に帰り、そして、家の向かいにある墓へ、親戚の人々と一緒に避難しました。しかし、その墓は、あまりにも人数が多かったので、全員が入ることはできませんでした。そこで、近所の、永山のおばあさんが、「そこには、そんなに大勢の人は避難できないので、あなた達は、私達の壕に来なさい」と誘って下さったので、私達家族だけは、親戚の人々と別れて、ウシヤチガマというところに避難しました。

◇敵機は読谷方面から飛んできて、那覇の市街地めがけて焼夷弾?で爆撃して、みるみる中に那覇の街は、もうもうと立ちのぼる黒い煙に包まれて凄惨なありさま、私もそれを見て空襲の恐さと同時に何時かは、我が部落も爆撃でやられやせぬかと我が身にふりかかりそうな予感がいたしました。

    その日の夕方から、ここら辺でも那覇の被災者の方などが、親戚や知人を頼ってこられたのか、あちこちで見受けられました。バケツに水を入れて、リレー式で運んでの消火訓練や、青い草木の葉ッぱなど燃やして、煙幕を張って敵機の目標を避けるための、防空演習が、実戦には役立たないと、つくづく感じられました。

◇十・十空襲があってからは、いつも灯下管制をしていました。空襲があると壕に入って、そのまま壕で一夜を明かすという様な毎日でした。近くにある大きな墓や自分達の墓を壕として入っていましたが、大名にある墓という墓は全部あけられ、中の骨つぼは一まとめにしておき友軍の弾薬や食糧が入れてありました。このあたりは墓も多かったのですが、骨つぼを動かさない墓はなく、人が壕がわりにしているか、倉庫がわりに使っているかのどちらかでした。

◇いろいろな目に会いながらも何とか墓や壕に入れた内はよかったのですが、それもまったくなくなり、民家や馬小屋でもいいから入ろうとさがしても、どこもかしこも焼野が原でした。みんなも(南部に)下って行くにしたがい壕もなく困っていました。木が残っている森という森には、皆人が避難していました。

◇ところが銘苅に一泊した翌日の十一日、その日がほんとに恐かったんですよ。空襲の翌日だからまあ、人心は動揺していたがね。朝飯をすまして、みんな話し合っているところへ、警察部長命令でね。午前の十一時頃でした。緊急立ち退き命令、その命令によると、敵の機動部隊が接近しつつあり、そして前日の空襲以上のものがすぐ来るから、安全なところへすぐ避難せよという命令です。

 もうその時はほんとに恐しくてね、警察はどこへ行けという当てはないですよ。ただ漠然と国頭の安全なところへ行けという命令だね。

◇それから県からの指令が出てね、もう情勢が非常に悪化した。これ以上学校の授業が出来んといってね。もう学校解散といったら大袈裟だが、とにかく学校の生徒は父兄と共に、安全のところへ避難するよう、教員も年寄り、女、不具者は安全なところに避難せよ。若い元気なものは、学校の仮事務所に残って、待機せよ、命令があるまでそこで待っておれ、という指令が出て、今の壷屋のね、あれは沖縄陶器という名であった、そこのすぐ上に拝所があった。壷屋で「西の宮」といっているが、そこの広場で学校最後の解散式をやったですよ。空襲が頻繁になるにしたがって、学校の集会場所をそこに移してあった。はじめは学校であったが、もう学校が危険だといってね。それからそのそばには横穴式の壕が沢山あったが、いざという場合は全校生徒を入れるくらいの壕だったんですよ。それで二月十五日に解散した。わたしはそのまま残ったんで、毎日出勤。

◇波平という部落へ行った時には、まあ、壕というものは部落にはない。その近くの山には部落民がつくった壕があった。それがおおかた兵隊たちに取られていた。那覇とか、首里から来た避難民たちが、行くところがないから、民間の家の中に避難しているんです。わたしは、便所と石垣の間に自分で囲いをして、そこにまあ、壕のような真似ごとをつくって、そこにいた。

◇家族や親類が、一夜を墓地で明かそうと相談していた矢先、警防団の方が「急いで国頭の方へ避難するようにとの命令です。慶良間に艦砲のおそれがあるとのことです」といってきた。私たちは取るものも取りあえず、夜の道を北部めざして進んだ。夜半の道を、避難民は交す言葉もなく、ただ黙々と歩くばかりだった。重そうな荷物を頭にのせ、背中には乳呑み児を背負って歩く人、両手に子供の手を引いて重い足をひきずりながら人込みを急ぐ人、みな生命を守るために無我夢中である。夜が白々と明ける頃、私たちは普天間に着いた。普天間では婦人会の皆様の心づくしのおにぎりをいただき、その時はほんとに有難く感無量だった。

◇私の家族はガジマルの下に掘った防空壕の中に入った。六人だった。この空襲で近くの泉崎橋が爆撃を受け、水道管が破壊されたが、その時アーチ型の泉崎橋の下にあった天馬船の中に避難していた隣の金城病院の入院患者数十人も死んだ。

◇薄暗い壕の中には、二百人近い避難民がひしめき合っていた。三カ月足らずの赤ちゃんを抱いて、三歳になる二女の手を引き、壕の入口で義妹をいまかいまかと待っていた。その中にまたグラマンの爆音が近づいてきた。壕の中から「入口は敵磯に見つかるぞ、あぶないから早く中へ入らんか、早く早く」と大声で怒鳴っている。咄嗟に中へ入った。ところが後からやって来た人たちに押されて中へ中へとはまってしまい身動きができなくなった。さあ大変だ。「子どもが大変だ、大変だ」と叫んでも、空襲で虚脱状態になっている人たちの耳に入る筈がなく、ただ壕の入口の青空に目を向けたまま身動きもしない。

 私はありったけの力で両足を開き、股の間に三歳の子供を入れ、抱いている赤ちゃんを帯で胸にしばりつけて必至に群集とたたかった。子どもが苦しそうに股の間で悲鳴をあげている。もう絶体絶命だ。いまの私には敵機など考えておれない。いまこの壕の中で二人の小さい生命が窒息するかも知れない重大な時だ。私はあるだけの声を振り絞って入口の若い男に助けを求めた。

◇恐怖と飢えと疲労に口もきけない私たちは、無念の涙をかみしめて、火の海と化した街を見つめていた。対岸の垣花の石油タンクが、つぎつぎと真っ赤な火の塊りとなって、物凄い音と共に爆発した。赤ちゃんが驚いて泣き出した。

 しばらくすると「避難民に告ぐ……」と軍の避難命令のマイクの声があたりの静寂を破った。「艦砲射撃の恐れがあるから、今夜中に北部国頭へ避難せよ」と悪魔の声のように聞こえてきた。「ああ、またか」と思わず身震いした。この小さい子どもたちの足で、二十キロの道のりを、しかも今夜中に歩ける筈がない。しかし、生命が惜しい。どうしても生き抜かねばならぬ。

 いままで死んだように静まり返っていた墓の中から、ぞろぞろ出てきた人の群の中に、空襲で散りぢりになったわが子、わが家族の名を呼び合う悲痛な声が、夜の墓場にこだまして、まるで此の世の最後を思わせた。

◇昨夜は出所は確かでないが「那覇に敵上陸の恐れあり、市民は国頭へ避難せよ」との指令が出ているとの情報が流れたが、疲れているので皆寝てしまった。翌日(十一日)、その問題を石原氏と話し合ったが、当分様子を見てから決めようじゃないか、ということにした。

 ところが午後になって、県からの正式の指令だとして、その情報が流された。そこでまた石原氏と協議した。彼が言うには、自分のところは家族も大勢いるし、それに国頭に避難せよといっても距離は遠いし、頼りとする人もいない。簡単にはゆかん、と慎重であった。いろいろ話した結果、ここから遠くない末吉には大きな自然壕がある。しかも沢山ある。あそこなら、たとえ艦砲射撃を受けても大丈夫だという。そこで、末吉の壕へ行って、しばらく戦況の推移を見ることに意見が一致した。

◇そこを出たとき、避難する住民が火の海の中を泳いでいるかのように右往左往していた。また、新垣自動車会社のバス(一台)が火に包まれているのを見た。辻町の方に行く途中、そこのアンマー(お母さんのこと)たちを避難誘導しながら自然壕に進んでいる中に、そこにも火が移ってきた。

◇女一人で四歳になる末子の寿己子が足が悪くて歩けないので、この娘を背負い六歳の五女娘紀美子は手を引き、長男とその当時風邪で四十度の熱を出している次女娘ハルノと四名を連れての避難は容易なことではなかった。

 那覇からは首里経由で経塚を経て浦添から普天間を通って具志川村まで行くのに生きた心地でなく、浦添で一泊、普天間で一泊してようやく三日目に具志川村に着くことができた。

 那覇を出てから途中は軒下づたいであった。だが、それも雨のように空から落とされる弾丸を避けながら、それに一人は背負い、一人は手を引き、高熱の娘ら四名も連れての避難は想像しても恐ろしいきわみであった。

 朝食も与えずに連れて逃げたので、背負っている四歳の娘は「お腹がすいたヨ、足が痛いよ」と泣き叫ぶので、身を切られる思いであったがようやく浦添村までたどり着いたので、見知らぬ人家の縁側を一晩貸してもらい一泊することになった。

[道路規制命令]

◇首里のあちらこちらには、避難民の通り道を指示する係の兵隊がいて、私達も鳥堀から行こうしていたのを「こっちは通れないから」と云われ、タマウドゥン(霊御殿)の方から下りて行きましたが石垣はあちこちくずれていてやっと歩ける状態でした。

◇道は「兵隊は右、一般人は左」ときめられていたのです。友軍は住民に「ザワザワとさわがしいので我々がせっかく秘密で上って来ているのに、オマエ達の為に敵にみつかってしまうじやないか」といって銃をつきつけたりもするので道を通るにも大変でした。友軍の云う事を聞かない者は同じ日本人同士とはいえ殺されてしまうのです。

 住民が通ってもよい道は別にあったらしいですが、私達を含め大方の住民はそのことを知らないまま友軍に通る事を禁止されたりして右往左往していました。住民に銃を向けて命令する日本兵をおそろしいと思いました。

◇沢山の死がいの中に三〜四歳位になる子供が母の死体にすがって「アヤーヨ、アヤーヨ」と泣いていましたので一人っ子として育った私は、「あの子を一緒に連れていって」と父母にたのんだのですが、こんな状態では自分達四人ですら生きのびられるかどうか分らないのに足手まといになる小さな子供まで連れては行けないと母に叱られてしまいました。後髪をひかれる思いでその場を離れました。

 私達も日本兵に「ヤカマシイ」とおどされて兵隊の通る道を通る事も出来ずしかたなく河原に下りて歩き土手によじのぼったりしたりして進みました。

◇ところで、日中は艦砲がひどいから夕方まで、軍の壕にいさせてほしい、と願い出た。よろしいということで、われわれはホッとした。

 ところが、約一時間も経ったと思ったら、「直ぐ出て行け」とのことであった。まだ日中だから何とか夕方までは、と強く頼んでみたが聞き入れなかった。

 そこを出るとき、「貴様らは、海岸線を行かずに、花城、与座、仲座の各部落内(陸路中央)を通って行け」と今後のコースまで壕の兵隊がこまごま指示したものであった。

 海岸線にはアダンが繁茂していて、その間を縫うようにして行くのは陸路中央を通るより、はるかに危険度は少ない、ということは常識だった。
 しかも、まだ日中で、艦砲が間断なく炸裂している最中に、情け容赦もなくおっぽり出すとは、われわれに「死ね」ということであった。

[消火・防火活動の様子]

◇昭和一三年ごろから食糧事情が悪くなりはじめ、昭和一五年になると、公定価格がきまり、物資が統制されるようになって、食糧品も配給制となりました。

 その年、村民は野菜やさつま芋の増産に精を出すかたわら、爆弾が投下され、火災となったときの状態を想定して、消火訓練に励む毎日がつづきました。

 昭和一六、一七年と年がすすむにつれて戦時色はいよいよ濃くなり、物資の統制もきびしくなって、那覇の町では店を閉めるものまででてきて、企業は軍需関係のものへかたよっていきました。

 昭和一九年中支より石部隊、球部隊が本島に移動してくると、西原村一円にも兵隊が駐屯するようになり、学校や民家の大きいところに宿泊し、防空壕構築で住民も徴用されるようになりました。

 私はそのころ区長をしていましたので、朝早くから人夫を引率して防空壕構築現場まで連れて行きました。家に帰ってくると、家では、石部隊や球部隊の兵隊たちが供出物資を受取るために、わいわい言いながら待っていました。供出物資はおもに野菜、芋、豚、鶏、馬の草などでした。民家の人々は供出物資を準備するために相当苦労をしたものです。

◇飛行場や港湾施設への攻撃だったのが次第に那覇市内へと移り、私達が駐とんしていた辻町にも火災が発生するようになったので、付近の人達とバケツリレーで消火に努めたが、波状的に襲いかかる爆撃に、火勢は増すばかりで、このままでは四方が火に包まれることになるので、まだ火の手が廻っていなかった海岸を波上宮へと、機銃掃射に身を曝しながら退避した。

◇郵便局右隣りの浜田商店に落ちた焼夷弾から発した火は、北風にあおられて、「アレヨアレヨ」という間に物凄い勢いで燃え広がりました。

 その頃、二カ月位雨が降っていませんでしたので街全体がカラカラに乾燥していたのでしょうか、火の回りが早いのです。居合わせた職員が一列に並んで、日頃の訓練によるバケツリレーで水をかけました。火焔と黒煙が境界の石垣を越えて風下にいる私達に吹き付けます。熱風で目もあけられません。それでも皆一生懸命バケツリレーを繰り返していましたが、グラマンが私達を見たかどうかは知りませんが「ダダーッ、ダダーッ」と機銃を浴びせました。リレーの列から三メートルくらい離れたコンクリートの敷石がパチパチとはじけましたので、皆列を崩して建物の陰に隠れました。火の勢いは強くなるばかりで、煙と熱風と火の粉がどんどん私達に吹きかかります。それからは消火はとても無理とみておのおの持ち場の「非常持出」を搬出することになりました。

◇那覇の街はますます燃えさかり、空は真っ赤な血の色となり、火の粉は天空に舞い、火炎は雲を焦がし、三百年以上の由緒ある那覇四町をなめつくしています。こうなればもう消火どころではありません。火勢のおもむくまま総てが燃え尽きるまで悪魔の手にゆだねる以外はないでしょう。

    一番近い火元まで川を挟んで一キロメートルはあるが、灯火なしで家の中が見えるのですから火事の規模や、その明るさは想像できると思います。
 私はその晩、屋根の上から焼けゆく那覇の街をいつまでも眺めていました。

◇司会 警防団の消火活動はいかがでしたか。
 糸嶺 警防団も出ましてね。ホースをつないで懸命にやっていましたが、それも最初のうちで、しだいにやる人が何処かへ逃げてしまい駄目になりました。

◇しばらく交番にいたら、通堂、西新町、西本町方面で、火事が発生している。すぐそこへ応援に行けと本署の指令があって交番を後にした。現場に行く途中の石門(三角屋そば)あたりまで火は燃え移ってきていた。警防団員も出て消火に当っていたが、とても手がつけられずに、各自逃げるのに精一杯の状況であった。

◇間もなくわたしはグラマン機に発見され攻撃を受けたが、グラマン機にすれば地上でただ一つの動く目標になったに違いない。これはいけないと思ったので、西本町から辻町に逃れていったら、辻町は丁度猛火に包まれて、辻の女たちが死にもの狂いで、男も及ばない消火作業をしていた。

[非国民というレッテル

◇そのころは、隣組を通して伝達事項が伝わってきました。「○月○日どこそこで防火訓練をやるから、どこそこに○時までに集合」と書かれた回覧板が回って来ると、隣組の人たちは内心はいざしらず皆いそいそと集まって来ました。その時間に用事があったり、都合の悪い人でも隣近所から「非国民」呼ばわりされるのがこわさに集まってきました。

    訓練といっても水の入ったバケツを手から手に渡して見たり、砂の入ったバケツを持って走ってみたりすることだけです。時には「焼夷弾が落ちたら、ふとんを持って行ってそれにつつんで広場に捨てて来なさい」などといわれて、道端に転がっている石を仮の焼夷弾として本気に訓練をしたこともあります。

    当時はそれで消火できると思っていたから、本気になって訓練しました。教える人も実際の空襲は経験したことがない人なので、上からいわれたとおりをそのまま私たちに教えていたのです。

◇学校としては、生徒の疎開に対しては、『師範の生徒は将来国民の指導者になるのだから、たゞ疎開したいものはせよ、で放置するわけにはいかない、疎開の一般方針にしたがってよく事情を調査の上許可し、許可したものは、委託生にする』という方針で、その取扱いはN生徒主事があたったが、当時の学園の風潮としては、「自分たちの島は自分たちで守るのだ、疎開するのは非国民だ、国賊だ」という考え方が支配的であり、実際に生徒主事に疎開を申出ても、「師範生は疎開させない、非国民のレッテルをはられたいのか、もしどうしても疎開するならこれまで支給した給費(当時師範学校の生徒には月額二十五円の学資が支給されていた)を全額返済してから疎開するように」といわれたり、また親が申出ると「娘さんは私が全責任を持ちますからみなさんは安心して疎開して下さい」と断るなど、そのため親も子も疎開を思いとどまり、戦死してしまった生徒もいる。

◇しかし私の方は、学校でたえず『疎開するのは非国民だ、国賊だ』といわれて来ていますので、なかなか決心がつかなかったのです。二十二日の空襲を経験して、やっと決心しました。

◇当時は軍に協力しない者は「非国民」と云われ人に後指をさされる時代でもあり皆いろいろの形で協力したものです。まず食糧では無理をして切り干しいもを供出しました。供出する事によって特配区域になれるというので、喜こんで出したのですが、結果は切り干しいもが出せる位も食糧があるのなら農家だと云われ、配給がストップされました。

    私の家は四〇〇坪位の畑があったので、少しは供出しないと今まであった配給が停止になると聞いて正直に自分達の食べるのをしまつしてやっと供出したと思ったら、こんな目にあったのです。それからは配給もなく食糧には困りましたが、ヤミ米を何とか手に入れて食べていました。

◇真壁あたりも、おそかれ早かれそういう事態がくるかも知れないから、早くここから北部あたりへ脱出してはとの話に、村の青年や例の三人連れの兵隊たちがみんなで脱出ということは無理だからせめてお国のために働ける若い人たちだけでも海岸沿いに北部に脱出し、そこから与論島に渡って与論から本土に渡るんだということで父を説得していました。

    最初のほどはガンとして受けつけない父でしたが、例の鬼曹長、ここで若者が死ぬのは犬死に等しいんだ。犬死にさせたら非国民だとか、えんえんと父を口説いていましたが、とうとう根負けし、その日のおそく真壁をたつことに決まりました。いままで死ぬまで家族はいっしょだと言っていた父もやはりお国のためとか非国民だといわれ、最後には何のためらいもなく、あっさり許したことが私自身、内心父を恨みました。

◇そんなある日、電柱にのぼったりして、下士官が電線をたぐっています。とうとううちの方にまでやってきます。

 どうするのかとききますと、軍が使うのだ。民間では電線はもういらんだろうというんです。母がやってきて、屋内だけはとらんでくれと頼みこみました。いつもうちにきて、面倒をみてやっている兵たいです。ところが、いつもの人とは人がらがちがったみたいです。非国民ということばを使って有無をいわさせません。とうとう、全部もっていってしまいました。非国民よばわりされると、もう、どうすることもできない世の中でした。

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