証言が語る供出

※一部用語に(註)を入れ、適宜段落をつけました。
※見出しは制作者が付けました。

タブーの木まで供出 産業組合を合併して供出へ
いい物は航空隊へ 区長が自費で乗り切る
会議は供出のことばかり 部落会長がつるし上げ
二つの部隊が供出を奪い合い 高い豚を買って供出する
供出でもないのに牛が消える ピストルで米を奪われ
水まで供出 無理難題の日本軍部隊
軍の命令に従うべし 断れば国賊
親子二代の夢が水の泡 「閣下の命令」で討伐
屋敷の石垣も供出 供出から徴発へエスカレート
供出と名の徴発 地元兵を使って強制供出
馬のための草刈り供出 組合を赤字にさせた無償供出
だまし討ちの供出 支払いは始めのうちだけ
代金は始めのうちだけ 敗残兵の現地徴発
無法地帯の敗残兵の徴発 供出の行き先は?

タブーの木の供出
    竹富島では、軍の防空壕のささえ木、大石部隊の港構築(西海岸の砂浜を掘り、暴風林の中まで水路港にしようと計画)のために、木材の供出が行なわれた。竹富島では、お嶽の木を伐ることはタブーになっているがそのお嶽のみごとなふく木も切り倒され、今度は住民の長期間心をこめて育成した最高の建築資材「キャー木」(イヌマキのこと)を強奪した。私のもの約八○本、有田家のもの約二〇〇本。それらは三〇年木で直経約三〇センチ高さ約七、八メートルもある立派なものばかりだった。木材を供出したということで軍から「感謝状」を受けた有田のじいさんは、「これはただの紙切れではないか、三〇年間の苦労をどうしてくれる」といかりで体をふるわせ、泣いていた。

産業組合を合併して供出へ
  戦時中、私は本部町の産業組合長をつとめていた。それ以前は、瀬底・崎本部・伊豆味・渡久地・具志堅の五か字に産業組合があったが、合併せよという県の命令を受けて、合併後の初代組合長に推されたのであった。

 ところが、戦争が切迫して来ると、組合は、本来の機能を停止して、軍向け物資の集荷に明け暮れるようになってしまった。伊江島に送る芋や野菜を、各戸毎に割当て、それを組合に集めて、送り出したかと思うと、すぐまた次の供出命令が来る、そのような毎日であった。十・十空襲以後は、お茶も供出せよという命令が来たので、私は、友人と二人で自転車を駆って久志まで行き、やっとそれを仕入れて来たこともあった。

いい物は航空隊へ
    供出関係、食糧関係、労務の供出は役場から割当が来るんですね、わたしたちの奥間字では、完全にすべて命令通りやり遂げました。供出で特別なのは航空隊への物でした。野菜も一番いいもの、それに里芋みたいな特殊なもの鶏など、特にいいものということでですな。豚も収めましたが、豚は一般の部隊も同じでした。

区長が自費で乗り切る
    戦時中、苦しかったのは区長をしている時であった。毎日、軍からさまざまな供出を要求された。近くに駐屯していた第一一大隊二中隊や首里の球部隊などからも要求された。芋、野菜、カンダバーなどありとあらゆるものを軍に供出した。区長の仕事は字民から供出物を集め、軍に出すことであった。

 私は村役場から土地台帳を借りてきて、各世帯の耕作面積を書きとめておき、耕作面積に応じて、各世帯ごとに芋を何斤、野菜を何斤というふうに供出を割り当てた。私はたくさん作っていたので、供出の不足分は自前で補っていた。これが最も苦しかった。よっぽど区長をやめて徴用に行った方がよかった。軍からは、今は豚を出せ、今は豆を出せとか一カ月に一五回も供出物を取りに来た。近くに駐屯していた第一一大隊二中隊や機関銃中隊は隊の糧秣を持っていたけれども、それは食べずに蓄え、住民からの供出物を食べていた。

  区長である私は、芋や野菜など代金を字民に現金で支払い、軍からは一カ月に一回、まとめてお金を貰っていた。しかし、戦争が激しくなるにつれて、軍から取るべきお金も取れなくなってしまった。字民に支払った一カ月分の供出代金はとうとう取れなかった。

会議は供出のことばかり
    六月二十二日
 本日村内実行協力委員会あり。
 会員は名字区長。
  協議事項
一、供出の件
一、戦斗中作物種子保存に関する件
一、戦斗中家畜家禽の繁殖用保護の件
一、一般配給停止となる場合自給自足の件

部落会長がつるしあげ
    あるとき旅団本部をたずねたところ、伊良部の部落会長が着剣した副官につるしあげられていました。

    師範学校を出た岩手県出身の副官であったが、なぜ軍に供出しないかと言って、それはひどいものでした。軍は食糧の補給ができないものだから、部落に何でも強制して供出させていた。サツマ芋、野菜、味噌、芋ヅル、あとは馬まで供出させて食べていました。しかし、そのうち空襲ははげしくなって畑仕事も思うにまかせない。民間もあるものを食べるしかない。

    はじめのうちこそ軍も「勝つんだから…」と言っていたが、そろそろ敵の上陸のうわささえ流れてくる。このさきどうなるかわからない。そんな状況だから軍への供出もはかばかしくいかない。そこで部落会長を旅団本部に呼びつけてつるしあげたのだと思います。

    あとはぼくと島尻実永さんの二人が旅団長によばれ、「教育も大事だが、戦力を増強するためには兵隊に食べさせなければならない。このままでは敵がくるまえに兵隊は死んでしまう。すまないが部落会長をやって軍に協力してくれ」と、旅団長からじきじきに頼まれました。

    ……ぼくは引きうけた以上、何とかやらなきゃいかんと思って、佐和田部落に三つの分会があるので分会に一人ずつ分会長をおき、その下に班長を何名かおいて食糧の供出に力を入れることにしました。軍も民もみんな一緒に生きていかなければならないんだからといって何でも供出してもらいました。サツマ芋、芋ヅルはじめ、味噌も各戸に一斤、二斤と割りあてて出させました。

    しかし味噌も底をついてしまい、今度は軍は製塩所に圧力をかけてきました。塩だけは朝早く潮水をまきちらして昼太陽にほし、夕方塩分の濃くなった砂を集めてきらに潮水で流して炊くわけだから、夜でもできる。それも強制して供出させました。非協力的だといって、佐和田の仲地さん親子が軍に殴られたこともあります。

 軍への協力は大人だけではない。国民学校の児童生徒もみな協力させられたのです。食糧をおぎなうための野草とり、山砲隊の馬の飼料まで刈りとりさせられました。これは軍から直接学校に、どこそこに集めておけと命令がくる。昼はあぶないから未明か、夕方に生徒を引率して草を刈り指定の場所においておくと兵隊がとっていく。

二つの部隊が供出を奪い合い
    供出は新体制が出てから、いろいろな供出がありました。
 そうしてやっておりましたが、供出は、西原に石部隊、与那原には武部隊がおりまして、両方に供出させられておったんです。その時に、かち合った場合は、どうせ品物が命令通り沢山はありませんから、両方に分けてやろうというふうにやったら、軍は大変きびしくて、石部隊の方では、お前らは西原の村だからこっちにやるべきだという。また武部隊から来たら、我謝の上の線から□□□の上、福地丘の線へかけて、こっちは武部隊の区域だから武部隊にやるべきだといって、両方からそんなにしてやっておりました。

    ここの供出の主なるものは芋と竹、縄、野菜などが命じられておったんですが、あっちも取り、こっちも取るというふうになって、こっちでは、供出というのは名ばかりであって、ほぼ脅迫同様な扱い方をされておりました。         
 それでもまあ、あるだけしか取らんからというて、後は我慢しておりましたが、役所からは供出を出せという催促が来ますし、供出は出すから脅迫みたようなことはやらんでくれといったりした。取りに来た上等兵が二十四名の徴用者を引率をして来ていました。そうして「お前等は何をいうか、戦さはここ来ているのに、そんなことでたまるか」という。

    供出は一度だけではいけない、今一度に全部を取ったら後の供出に困るからといったら、この上等兵がナタを持って来てわたしの鼻を打って、鼻血を出したんです。だが、そうされたからといって恐いことはなかったんです。

    これではいかんと思って、また役所へ行って、供出は出すから脅迫はしないでくれ、手を出すので、相談ではないからといった。すると村長も、それはいかんな、供出はやらないといかんから、どの部隊はどれだけと割り当てやるようにしよう、しかし脅迫みたようなことをやってはいかん、といった。

 また豚の供出命令が来ました。ところが部落に飼っていない百斤以上の豚をいくら出せということになったので、これは困ったことだなといって、百斤以上の豚は要求だけおらんから、何とか考えて貰えないかと願ったら、後は九十斤以上ということになって、九十斤あるか無いかという豚を供出しました。

高い豚を買って供出する
    それから、供出ですが、野菜は芋の葉までも出しました。豚の供出の例をいいますと、桃原は、四組に分けて、部隊へ供出するようにしていましたが、人数の少い貧しい家でも組の供出の義務を同じく果たさねばなりませんから、高い豚を買って、軍へ供出するのですが、軍では公定相場を支払います。

    豚は大へん高く民間では売買されていました。公定相場は闇相場に較べると、まるでただみたいな値段でありました。それで供出では、この桃原部落は非常に苦しみました。

    …その時の兵隊は、山部隊と思いますが、兵隊は、部落の松並木や松林を遠慮えしゃくもなく伐っていました。人家の床などもはずして、薪にもしました。はじめは兵隊は、何もかもやりたいように勝手に振る舞っておったんですよ。それは、十・十空襲後のことでありました。

供出でもないのに牛が消える
    「勝つために」の略奪も、白昼まかり通って、泣かせたものです。桃里牧場の牛馬なんかは、供出によらず、消えてしまったのです。演習の形式で、鉄砲で牛馬は打ち殺される。ら致されるそして食用に供される。

 私どもは、名蔵地帯の山間あたりに避難していましたがね。そこから、農耕用の牛がよく消えるのです。隣りの人の牛が消えた時にその人はほんとに働き手の牛を失って困っておったのです。

ピストルで米を奪われ
    千立部落では、稲刈りが始っていて、それを手伝えば一日に一斗の籾がもらえた。頼みこんで働かせてもらった。「先生方も食糧がないんですか。お互に苦しいですね」と部落民に励まされ、あるいは部落民を励ましつつ四日間稲刈りを手伝い、五斗の籾をもらった。

 それだけあれば当分の間は妻子の生命をつなぐことができると、喜び勇んで帰る途中、くり舟に乗った監視中の隊長にみつかり、ピストルをつきつけられ、現在の西表小中学校の前あたりにあった部隊に連れ戻されました。その時、隊長と一緒に乗っていたのが、古見石人と崎山用能であったが、護郷隊とどんな関係にあったかは知らない。      

 戦争とは一体何んだろう。住民を守るために来た筈の軍隊は、このように理由もなく、住民を苦しめるし、自分の妻子の生命すら守れないような状態でなおも戦争をしなければならないのか。軍隊は、供出と称して、住民の米や野菜、さては労役に使用している牛馬までも取り上げているが、住民に背を向けられての戦争が果して可能なのか、住民を苦しめて何が戦争かと腹立たしく、その夜は寝ることができなかった。

 翌日、隊長に呼び出されて詰問された。「お前はどうしてここから籾を持ちだすのか」と。「籾を持ちだすことがなぜ悪い、私が働いて得た籾ではないか、食物がなくては妻子は死んでしまう。妻子を見殺しにして戦争ができると思うのか」と喧嘩ごしであった。

    次の日は未明に起され、裸にされた。何かひどい目にあわされるなと覚悟していたら、田鍬をもってきて、一日中田を耕やせという。そんなことならおてのものだと、フンドシ一枚で一日中田を耕した。

    次の日もまた隊長の呼びだしをうけた。今日はまた何をやらされるのかと思っていたら帰っていいということであった。恐らく、籾はくれないだろうと思っていたら、良心がとがめたのか、籾はそのまま渡してくれた。

水まで供出
    部落の人たちは自分たちも食べものに困っているのに軍の命令だといって供出していたが、半年くらいしたらもう部落から何も運ぶものはなくなっていました。供出をしないというより供出するものがなかったのです。

    ちようど空襲がはげしくなったころだから、昭和二十年の三〜四月ごろまでだったかもしれません。時には真夜中に部落から部隊まで飲料水をはこんだりしました。あっちこっちの部隊にはこんだが、国仲と佐良浜のちょうど真中あたりにコロコ嶺というところにいる部隊にもはこびました。

    水運搬はいつも夜中の十二時過ぎからで、部落の井戸からドラム罐三本にくんで馬車に積んではこびました。水はこびのたびに空襲があって少しも前に進まず、二〜三キロの道のりを二時間がかりではこんだりしたものです。

 時には佐良浜の船着場の納屋からザラメをはこんだが、このときも夜中だけでした。軍は食糧はないないと言いながらザラメだけはたくさんありました。しかし民間には配給してくれませんでした。ザラメはこびのときは野菜受領のときと同じで、たいてい伊藤という上等兵がつきそっていました。いつも一緒なので仲よくなって、そんなにうるさいことは言いませんでした。しかし水運搬のときだけは命令だけしてついてこないために、真夜中はいつも一人で難儀しました。

無理難題の日本軍部隊
    碧部隊というのは旅団(独立混成第五十九旅団)でしょう。それが、急に移動を命ぜられて急にきたわけですから困ったでしょう。兵舎も衛兵所も作りたい。食糧も得たい、というわけですから。

 ここ西原はそれまで山上隊の管かつでして、野菜なども、ヤマガミ隊に供出していました。それが続けられる上に、碧が割りこんできて、無理に押しつけてくることになると、いくらおとなしい部落の幹部も、それを受付けるわけにはいかない。そういうことで衝突もたえなかったわけです。

軍の命令に従うべし
    それで再三に及び仲里村農業組合と五分五分に負担させてもらうよう交渉したが横暴な鹿山は命令だ軍の都合に依り供出させるのだ具志川に物資がなくなったら仲里に要求するから軍の命に従うべしとぬかして応じない。

断れば国賊呼ばわり
    戦争中は「勝つためには」ということばの魔術には、大変困まりましたよ。籾や牛馬の供出を当り前のこととして農民に割りあてる。断われば国賊呼ばわりだから、どうにも仕様がないのです。みんな心では泣いているが、断わるわけにはいかなかったのですね。「勝つためには」と言われると、何とも返すことばがなかったのです。軍は「勝つためには」ということばによりまして何をやってもよいことになっていたのです。

親子二代の夢が水の泡
    農民には籾の供出、立木の供出がありました。立木は、こちら八重山は、台風の中心地ですからね。先祖は福木など、台風にびくともしないのを植えると、四〇年五〇年でやっと、防風林になるのですね。そういう立木を供出させるのです。先祖はきっと、地下で泣かれたことでしよう。

 献木というのもありましてね。これは当時の農村ではイヌマキなど一等の建築材は、山から切り下ろして、海岸の砂に埋めて、虫よけの作業を五、六年もする。それから持ち帰って材木小屋を作ってそこで保管する。毎年山から伐りとって、貯えていく。

    一家を造る為に一〇年ないし一五年計画で、材木は揃う。一生一代の計画であったわけですよ。これを唐突に、「勝つために」献木を命ぜられるのです。七〇歳八○歳の老人は、ほんとに泣きましたよ。親子二代かかって仕上げる計画ですからね。一生の大事業が、献木の命令一つで、おじゃんですからね。ほんとに泣いていましたよ。

「閣下の命令」で討伐
    戦争中は何でもかんでも供出供出といって住民のものをとりあげていました。材木などひどいもので、そのために戦災の復興はおくれたと思います。山林の木はもちろん、防風林として屋敷にある木までも切り倒して持ち去ったわけですから……・。

 字石垣には農民だけで組織した石垣平和農事会があって十町歩余の松林を持っていましたが、軍への献木ということでとりあげられてしまいました。最初は組合員一人あたり五本の献木ということで、切り倒して渡すまでの仕事を命ぜられました。

    ところがその後は何のことわりもなく兵隊達が、閣下(天皇のこと)の命令といって切り倒して持ち去り、結局ハゲ山になってしまいました。私たちには五本を倒すための人夫賃程度を与えてすべてを奪い去り、兵舎、防空壕などを作る材料にしてしまいました。同じようにして、学校林、町有林なども何のことわりもなく伐採してしまいました。町有のみごとな楠林がありましたが、それも兵舎に使用されていきました。

屋敷の石垣も供出
    供出ということで持ち去ったものに屋敷を囲った石垣があります。とられた家庭は字大川に多いのですが、その石垣の石は道路補修に使われています。それから老人には黒ツグによる縄の供出が課せられました。

    私は豚を一頭だけ養っていましたが、いよいよ山へ避難するということで、やむなく殺して肉をもって行くことにしました。ところが殺したその日に軍から豚の供出にきました。殺した豚をわたすわけにもいかず、だからといってかわりの豚をさがすこともできず非常に困ってしまいました。幸い豚の供出にきた者が地元の知人でしたから何とかその場はごまかしたような記憶がありますが、それが軍に知られていたら本当にひどいめにあわされていたと思います。

    このように家畜の供出についても何の相談もなくすぐ取りあげられてしまわれる状態で、田畑で使用している牛や馬をその場からとりあげられた例もあります。

供出から徴発へエスカレート
    それから、南風原の学校には、四四〇一部隊という戦争部隊が来ていた。そこの管轄で、南風原村から防衛隊を召集した。その防衛隊に隊の方からお前らの家に飼っている豚は、もう飼うことができないだろう、だから隊へ出せというので、防衛隊の家に飼っている豚はすべて隊へ出すことになった。

    ところが、そうしたら一般民間全部の豚も序に出すようにということになって、すべての家の豚も持って行かれた。それで村民から村長に、そういうふうに取られては困るから、軍と交渉して、そんな勝手な供出は止めさせてくれという申し出があって、村長と自分とが部隊長のところに出かけて行ったことがあった。結局何とかかんとか言って埒があかん、その間に戦争になると、供出ではなくて、軍隊はほとんど徴発になって、すべて部隊長命令ということですな。

供出と名の徴発
    この今の材木の値段はですね、後から払うということになっていたと思うんですが、この値段、請求しても一向に金が出て来なかったんです。それから摩文仁さんの大名部落にある、墓地がありますが、向こうに相当に木があって、それが供出させられましたがね、その代を請求しても金が軍から出されなかった話を聞いています。とにかく、金は払うから伐らしてくれというやりかたで伐って行ったんですよ。あれは松材でしたが、金は払われてないですあれは。金を取った方はいないと思います。

地元兵を使って強制供出
    兵隊がついて、この兵隊はうちの部落出身の召集兵であった。当時、小学校の先生だったが召集されて、この人に、お前は南風原出身だから、住民の承諾をもとめるようにということで、この人をつかって山川なんか、全部人の家の石垣を壊して取ったんですね、あの港川石(粟石のこと)の立派な屋敷の囲いの石ですよ。

馬のための草刈り供出
    又北海道産の大きな馬が数十頭、宜次に来た。屋号仲門小の後の山の中と、マーチ毛小(嘉数清朝の豚舎の近く)にいた。この馬の草刈も軍の要請があって、せざるを得なくなり働ける者を総動員して草を刈りて供出した事もあった。

組合を赤字にさせた無償供出
    最初の一ケ月は計算に現金支払をなしたが二ケ月目からは脅迫されて無償供出と云うことになり、組合は赤字だらけで組合の維持にさえ困難を来たしていた。

だまし討ちの供出
    当時は軍に協力しない者は「非国民」と云われ、人に後指をさされる時代でもあり、皆いろいろの形で協力したものです。

    まず食糧では無理をして切り干しいもを供出しました。供出する事によって特配区域になれるというので、喜こんで出したのですが、結果は切り干しいもが出せる位も食糧があるのなら農家だと云われ、配給がストップされました。

    私の家は四〇〇坪位の畑があったので、少しは供出しないと今まであった配給が停止になると聞いて正直に自分達の食べるのをしまつしてやっと供出したと思ったら、こんな目にあったのです。それからは配給もなく食糧には困りましたが、ヤミ米を何とか手に入れて食べていました。

支払いは始めのうちだけ
    それから、動員関係もそうだし、山の木ですね、壕をつくったり、それから戦車壕をつくったり、戦車が通るのを停めるというので松の木を伐って来て、縄できびるのですね、わしなんかも墓地から山の木を相当伐られていますがね。一銭も代といってはくれません。それから供出も、芋や何や出したけれども、やはり一銭もくれません、金を取った覚えはありません。最初の食糧営団に納めていた頃は多少くれていたんです。

代金は始めのうちだけ
 代金は、豚でも、竹でも、茅の供出にも最初は支払っていましたが、公定相場ですから、住民のがわでは、代価は問題ではなくて、仕方ないから、義務、命令で、いやというわけにいかないからやるのですね。おまけに軍の方からは、だんだん供出の命令が多くなるんですが、住民の方では、徴用、勤労奉仕などに絶えず引っ張り出されていますので、ほとんど農作物の生産に励む時日はなかったので、民間では、そういうわけで、物が少くて出すにも出せないという立場にあったんです。

    自分たちも食べねばならないので、二十斤の芋の供出が割り当てられると、十五斤にしてくれというんですね。それで区長は、班長といっしょになって、無いものも無理して出さしめるようにするわけです。それで、軍からの通達通りに供出できないと、兵隊は、区長に当ります。

敗残兵も現地徴発
    私は戦時中に主人が病死したので、一人で子供たちを育てなくてはならなかったが、敗残兵たちはそんな私の家にも夜毎にやって来て、「何かないか。家にあるものは全部出せ」と強迫した。その時の敗残兵たちの言動は、アメリカーよりもずっと恐かった。それでも勇を鼓して「もう全部出したので何も残っていません」と言うと、「それじゃ家の中を調べるぞ」といって、土足で上がり込んで家じゅうをひっかきまわすのであった。
 
   …はじめのうちは気の毒だ可哀相だと思って、煙草や黒砂糖なども上げていたが、そのうちに、「供出しなければ撃ち殺すぞ」と威嚇するようになった。それで私もたまりかねて、「煙草も砂糖もあるだけしかないよ。全部奪われてしまって何も残っていないよ。あると思うなら自分たちで探してみなさい」と言ってやったことがあった。

    …そしてついに彼等は、「あなた方はアメ リカよりも友軍のほうが恐いんだろう」とさえ言い出す始末であった。そこで私も「うん友軍のほうが恐いよ」と言い返したものであった。

無法地帯の敗残兵の徴発
    そこで一つの変ったことは、敗残兵がおるんですよ。鉄砲をかついだのもおるし、かつがないのもおる。避難民のいるところを往復するんですよ。何か食い物をねらってですね、区長をさがして、何を供出しろといって強制するんです。

供出の行き先
    それからわたしがあの時の軍隊でいやと思ったことは、わたしの住宅と工兵隊の炊事場がね、くっついていて、よく兵隊の食事の状況がわかるんですよ。魚の供出がある。豚の供出がある。ご馳走があるんですが、これは下士官以上の人が全部食べるんですね。そうして兵隊は、塩とご飯だけをくれていましたよ。

※随時出典のない項目は「沖縄県史第9・10巻」からの引用です。

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