地方自治体における自衛隊の先導性について                                            04・9作成

なぜ自衛隊が前面に? 「国」と「個人」の危機意識の違い 戦術面から「避難計画」を作る
「戦術論」で「避難計画」を作成させて良いか 「避難計画」の裏にある国際情勢の捉え方 あぶない「シビリアンコントロール」
「沖縄戦での住民避難」批判

   有事法制が実効するとき、各自治体が国民保護法に基づく「国民保護計画」をどのように作成するのか、は極めて重要である。現在、行政として事務的に進んでいるのは鳥取県である。国民保護法が成立する前から県としての取り組みをしている。その過程において、地元自衛隊の果たしてきた役割は大きい。

                                                                                           参照「動きだした自治体」

   たとえば、研修日程によれば、4日間にわたる県及び県内市町村担当者の研修において、24時間のうち、13時間30分が地元の自衛隊(陸自第八普通科連隊)の持ち時間である。残り4時間30分が消防庁である。大学でいえば、「1単位」相当以上の講義と演習が集中的におこなわれていることになり、通常の行政の研修会としては質量ともにかなりの内容となる。

 内容は以下のとおりである。

@ 防衛教養 「国際情勢と防衛政策」
A 防衛教養 「日本の防衛力」
B 実習 (計画作成の一般的要領)任務分析 各種見積 計画作成
C 住民避難の事例 「沖縄戦での住民避難」
D 実習計画作成の考え方 *
E 実習計画作成の考え方 「輸送計画」「補給計画」
F 実習(Gp作業を含む) 「鳥取県の地域特性」「地図の使用法」「ゲリラ・コマンドの特性」
G 実習4−1 (計画の作成)「課題作業」

 単なる避難計画を作るというような実務の講習ではない。国際情勢から説き起こし、計画作成の方法論に掘りさげ、演習実践までを扱っているのである。そのなかに沖縄戦での住民避難を分析し、教訓にしょうとしている念の入れようである。

 このような経過は、今後、全国の都道府県・市町村における「国民保護計画(避難計画)」作成時の内容となる可能性は大きいと見なければならない。したがって、ここでは、自衛隊が地方自治体である都道府県・市町村における担当者対象の指導の中で、何が伝えられ、それが「避難計画」となり、間接的に国民に何が伝えられる(押しつけられる)のか、そして、そのどこに問題があるのかを検討してみたい。

なぜ自衛隊が前面に?

   「住民避難計画を作ったことがない」という自衛隊がなぜ「避難計画」のリーダーシップをとれるのか、ここに一つの重大な問題が潜んでいる。彼らが講義の中で言っているように、戦争を前提とした「戦術」の基本に沿った「人間の移動(実際は部隊の移動)」の論理を、民間の「避難計画」に置き換えたものにすぎないのである。したがって、以下で見るようにその「避難計画」の根底には戦術として最も合理的な方法論が取り入れられていると言うことになる。

 また、一方では民間側にも、戦争に絡んだ「住民の避難」に関しては、戦争の技術を最も多く身につけた軍隊がそのプロとしての能力を持っているという思い込みがある。戦争のプロだから、その避難についても詳しいのではないか、という幻想である。これは、戦後60年近く戦争とつながったことのない日本の行政としては、もっとも戦争の近くにいる自衛隊に対してそのような観念をもつのは当然であり、自衛隊自身がそう自負するのも当然であろう。

 しかし、戦争をするプロは「住民避難」のプロとはなり得ない、という矛盾が見過ごされていることを指摘しないわけにはいかない。それは、戦争の論理が、殺し合いの論理(如何なる条件下で味方のリスクを少なくして敵をやっつけるか。あるいは、殺すか殺されるかの鬩ぎ合い)によって構築されているのに対して、「住民避難」は危険からの逃げの論理(とにかく命が大切)である。

   そこには決定的な違いが存在するはずである。「具体的な問題点は我々では出てこない。」という彼らの発言はそのことを裏付けているのではないか。そうだとすると、殺し合いの論理である軍隊の論理で逃げの避難計画をたてるとどういうことになるのかを彼らがこの講義で使った資料やその他の場面での発言等から検証しなければならない。

国と個人の危機意識の違い

 危機意識について彼らは次のような捉え方をしている。

国家 主権・領土の確保。大多数の国民の保護に対する危機
自治体 住民の生命・財産の保護に対する危機
企業 企業活動の継続・発展に対する危機
個人 健康、安定した生活に対する危機

   危機意識がその人なり、団体なり、組織なりがよって立つ位置によって異なることを認めているわけだが、当の自衛隊員が国家の危機意識(主権・領土の確保、大多数の国民の保護に対する危機)に立つことは当然のことであり、彼らの思考と行動の論理が国家的危機意識を基底に構成されていることも当然である。少なくとも軍服を身につけている限りは…。

 一方、住民が個人として自らの「健康、安定した生活」を守るためにそれを脅かすものに対する危機意識をもつことはこれまた当然のことである。したがって、戦争を前提とした住民の避難は国家的危機意識ではなく、住民一人一人の個人としての危機意識によって裏打ちされたものでなければならない。それは戦争が国家の政治的手段の一つとして行うかぎり、国民はそれからの逃げの論理で自己を防衛しなければならないからである。

   もちろん、軍人としての自衛隊員は国家的危機意識に基づいて敵と対峙するが…(あるいはその時点で戦前のような「国民皆兵制度」によって多くの国民が国家的危機意識で戦うことがあるかもしれない。もちろん、そのようなことにしてはならないのは当然である)。

   ところが、彼らの講義における「危機意識」はあらぬ方向へ展開していく。

日本人の危機意識(私見)
○地勢学上四面環海、陸続きの国境なし。
○歴史上離島を除き、直接本土に侵略を受けた経験なし(元寇も結果的には排除)
○精神構造上農耕民族、集団意識、性善説、対岸の火事
個人の危機管理> 国家、社会の危機管理

   個人の危機意識が「健康、安定した生活に対する危機」というように規定しながら、ここではその一人一人の日本人(個人)が国家的危機意識をどのように捉えているかについて(私見)と断りながら指摘している。このこと自体は、いかに日本人が国家的危機意識が薄い(低い)かを述べるときに一般的に触れられてきた理由である。簡略に言えば、島国農耕民族である日本人は被侵略の歴史を持たないから、侵略される危機感が薄い、ということになる。

   ことの展開としては、被侵略の歴史はないが、侵略の歴史は多く持っていることについて触れなければならない。このことは有事法制の内容さへ変えてしまう重要な日本の歴史のポイントである。なぜなら、日本の侵略の歴史を繙くことは、「国家戦略」そのものに大きく関わるからである。しかし、彼らはそのこと(侵略の歴史)は無視して次へ進む。
  
 その結果として、「日本人は、国家、社会の危機管理よりも個人の危機管理のほうに関心が強い 」という図式によって国家意識の低さ(あるいは欠落)を指摘しながら、その意識の修正が必要であるという展開へ導いていく。つまり、この時点で人間なら本来誰でも持っている「個人的な危機意識」が、国家を構成する「日本人としての危機意識」に置き換えられたことになる。

    「人間」としてを「国民として」にすり替え

   個人的な危機意識は万国共通である。本来、人間としての本能的な危機意識に基づき、危機管理能力を高めていくことが要求されるはずだが、それが「日本国民(あるいは日本人)」としての危機管理に置き換えられることによって、いきなり、国家的規模での危機意識でなければならなくなるのである。個人としての「健康、安定した生活に対する危機」意識をひとまずそのあたりに置いて、日本人としての危機意識への転換を強制される結果となる。

 この危機意識の転換によって、(個人的な)戦争からの逃避が、国家的な危機管理のなかに組み込まれ、国家的危機意識のもとに「避難計画」が構築されていくということになる。このことは、「人間(個人)」と「国民」のすり替えが行われていることを意味するが「避難計画」ではそれが見えてこない。つまり、一人ひとりの命を戦争から守るという大前提が「国民」の命を守ることにすり替えられる。問題は、そのすり替えに気づいていない国民や自治体の当事者が多い、ということである。

   「人間」は一人一人が絶対的な命の持ち主であるが、「国民」は「国家」に対置する集合体としての存在であり、冒頭掲げた「国家の危機」における「大多数の国民の保護」はそのことを意味する。この危機意識のすり替えが「国民保護法」における軍隊的論理への組み込みの一つである。

 したがって、国民保護法制を機能させるためには、日本人(個人でない国民意識)の危機意識改造が必要となることは明白である。それは国民的な(日本人としての)危機意識に基づいて作成された「避難計画」によって行われる避難訓練、あるいは国y自治体が行う「自主防災組織」の組織化や支援活動等によって、進められることになるであろう。

戦術面から「避難計画」を作る

 次は彼らの実習「計画作成の一般的要領」で使われた資料からの抜粋である。

戦術的な思考過程 @任務(目標)は何か?
A与えられた任務は、作戦目的に照らしてどのような地位・役割にあるのか。
B任務を達成するためには、具体的に何をしなければならないのか。
C敵のとりうる行動は…、弱点は…
D我のとるべき行動方針は…、問題点(リスク)は…
→決心
状況の把握
・敵はどのような敵か…。
・我は、どのような状況にあるのか。使える部隊は…。
・地形は…、気象は…
・使用できる時間は…etc

  自衛隊は、彼らが日常的に使っている「戦術的思考」をそのまま「国民避難計画」の作成に置き換える。置き換えながら、日常的にも軍隊の「戦術」という視点からのアプローチが可能であるとする。

    「戦術」とは何か

   彼らが指摘するように、「戦術」そのものは単純明快な軍事用語である。軍事の世界では、彼らが説明するように、

(a) 国家戦略に基き (b) →軍事戦略を定めることによって (c) →「戦争の目的」が規定され
(d) →攻勢や防勢などの戦術が立てられる

とする。しかし、ここでは「戦術」のよって立つところの(a)〜(c)には触れずに、方法論としての(d)「戦術」のみを切り離し、「国民保護計画」を立てようとするのである。つまり、なぜ「国民保護計画」が必要なのか、それはどのような戦争の目的を達成させるためのものであるのか、さらには、いかなる国家戦略に基づくものであるのか、などには一切触れない。

   ただ、「避難計画」が規定の事実として前提化されているだけである。このような展開のしかたは、なにも自衛隊だけではない。この資料を作成提供している鳥取県の姿勢も「国民保護計画」から出発している。また、鳥取県の取り組みに大きな影響を与えた政府関係者も同様である。

   戦術の目標は与えられたもの

 個人的な日常生活における買い物にも「戦術」があるとしながら、戦争の方法論が日常化されている。もっとも、戦争の方法論が日常化することは本来あり得ないことではあるし、あるべきでないが、論理の世界では成立する。したがって、論理的に最も有効な方法によって目標を達成することに主眼がおかれるが、そのこと自体の日常化に問題を含んでいるのである。つまり、「戦術」における「目標」はあくまでも「与えられた任務」の遂行でしかないのである。

   「具体的な買い物の要領は戦術の範囲」と規定することによって人々の思考はその論理にしたがって進められる。ここに一種のマインドコントロールが成立するのである。「国家戦略に基き軍事戦略を定め」たり、「戦争の目的」を規定するのは国家権力である。「戦術」は与えられた「目標」をいかに達成させるのか、に全力を尽くすだけである。そのような「与えられた目標をいかに達成させるか」の「戦術」的思考を彼らは、「米子−北海道」の旅行を例に置き換えて日常化する。

「戦術論」で「避難計画」を作成させて良いか

 なぜ、このような展開が取られるのかについては、いくつかの理由がある。
 一つは、(a)国家戦略や(b)軍事戦略、(c)「戦争の目的」についての論争に及ぶことは、国家権力に従属する自衛隊の現職自衛官(制服組)には許されないことである。許されないという側面は、現在の自衛隊には一定の枠組みを嵌めてあるのだが、それは自衛隊が曲がりなりにも存在できることの一つとしての「シビリアンコントロール」である。そしてその歯止めの最大が日本国憲法の第9条であると言えよう。

 他の一点は、それらの持つ内容に関して、国家権力が公にすることを嫌っていることである。日本の過去の戦争はすべてが「国家機密」や「軍事機密」という名目で、国家戦略や戦争の目的というのは国民には知らされなかった(もっともこのようなことは戦争ばかりではなかったが)。なぜ戦争をするのか、という根本的な事柄には戦争をする相手に対する敵愾心を植えつけ、それを煽り駆り立てたのである。侵略戦争は本質的にそのような国家権力の思惑が働く。なぜなら侵略戦争においては「なぜ戦うか」を明確にすることは戦争に対する国民の支持を失うことになるからである。侵略の持つ内容の一つ一つが正義と真理、何よりも人間として許すことができないものだからであり、当然のようにウソとごまかしと隠すことによってしか侵略戦争を遂行することができなくなるのである。

   有事法制は三百年後に備えるため?

 今回の「有事法制」化においても、やはり、このことは明確にされていない。「国民保護法」の成立によって、都道府県や市町村の段階に降りてきた現段階でも、政府関係者は「テロ」や「不審船」を強調するばかりで肝心の戦争に対する「国民保護法」がなぜ必要なのかについては「2、3百年後」の話しかしない。もちろん、それは真意ではない。

                                                                                                 参照「国民保護法」

 三点目は、日本人(国民)自体の思考様式によるところがある。日本人は、一般的に「与えられた目標」を「与えられた条件」のなかで達成することに強い関心を示すが、自ら目標を立て、その達成のための条件を自ら設定することはあまり得意とはしない。したがって、前者のような立場に置かれてもあまり疑問視したり問題視することなく、すんなりと取り組む。たまにそれに対して意見を言えば「与えられたことを黙ってやれば良い」と切り返されることが落ちである。

  逆に後者の立場に置かれることを忌避する傾向さえみられる。このような傾向を持つ日本人が多いのは、そのような教育を受けてきたからであるが、このことが去る戦争において甚大な悲劇を産み出したもう一つの原因でもあったことを忘れてはならないだろう。もちろん、このような国民的思考傾向が国家権力にとって都合が良いのは当然である。その意味で、「国民保護法」が地方自治体で論議される段階になった現在、地域住民の責任は大きいと言わなければならない。

 なぜ「国民保護法」が必要なのか、なぜ有事法制なのか、なぜ戦争があるのか、日本の政治戦略はどうあるべきか、アジアにおける日本の取るべき道は何なのか、日米安保条約は今のままで良いのか、等々を地域において生活する住民の感覚で論じるべきである。国民が国家を構成する要素の一つである以上、国民の一人一人が自ら人間として生きる国家のさまざまな政策について論じ合うことは、ある意味では国民の義務でもある。

「避難計画」の裏にある国際情勢の捉え方

   講義の最初に組み込まれている「防衛教養・国際情勢と防衛政策」のなかに、現在の自衛隊の軍事的認識が含まれている。そして、それは、間接的には「有事法制」の彼らなりの意味づけとしている側面がある。もちろん、そのことは即、国の認識とみてもよいだろう。 

自衛隊(政府)の国際軍事情勢観
○世界規模の武力紛争が生起する可能性の低下
→世界各地の宗教上、民族上の問題などに起因する種々の対立が表面化、先鋭化 し、複雑で多様な地域紛争が発生
○大量破壊兵器(核・生物・化学兵器)や弾道ミサイルなどの移転・拡散の危険性の拡大に対する懸念の増大
○テロ組織などの特定の困難な非国家主体が脅威に

   世界的規模の戦争はその確率が低くなったが、代わりに地域紛争が激化した、とする。もう一点はテロで代表される非国家組織の脅威が増大する、という認識である。

   このことは冷戦状態、つまり米ソ二大軍事力のバランスが崩れたことによってうまれたとする。つまり、国際情勢を軍事バランス感覚でしか捉えられない情勢分析であり、冷戦の崩壊そのものをもう一方のマイナス要因として捉えることに何らの問題意識もない。「冷戦崩壊」があらたな危機を作り出したという危機意識に支えられたものになっている。国際関係における外交努力という視点の欠落が当然視されている。

   そのような国の姿勢というのは、あらゆる情勢を捉えることにおいて一貫していることから、まず政治が機能していないし、次に国際関係も自然発生的に作られていくという無原則的な捉え方に陥っていることに対しても鈍感である。

   アメリカの目で見る

   「冷戦崩壊」後の国際関係のなかで、テロの危機が大きくとりあげられているが、テロ増大の原因を解明することなく、現状そのものを認識しているにすぎない。テロを増大させているその根源にはアメリカの外交戦略があることなどには全く目を向けない。つまり、「冷戦崩壊」後の国際関係の安全性は、アメリカの突出した一国強大軍事国家によって保たれているという認識である。したがって、アメリカの国際政治の舞台における独善的リーダーシップに対して積極的に便乗している。

   国際関係における諸紛争やテロ等の増大の原因に焦点を当て、それらを踏まえた国際関係における外交努力こそ要求されていることである。その根本にあるのは、人間の根源的な幸福追求の支援ということである。それぞれの民族や国家、宗教の異なる歴史と文化等の違いに立脚することが武力によらない平和的外交の視点であろう。

 以下に示すように、アメリカの視点からアジアを捉えることしかその方策を求めきれない日本の外交は、かなり没個性的なものとなっている。アジアの視点からアジアを見ることができない現在の日本の軍事的な外交のスタンスが有事法制を加速させていると言わなければならない。つまり、アメリカの世界戦略に便乗しているかぎり、日本のアジア諸国に対する仮想敵国視はなくならない。それは再び、日本がアジアの国々にとって脅威となることを意味する(すでに存在しているが)。

    「冷戦崩壊」後も冷戦構造外交

 したがって、そのような国際関係論から国民保護法の「避難計画」が作成されることは、近隣諸国を仮想敵国としたものになることは必定である。現に、自衛隊の指導によって作成された「鳥取県」の住民避難シュミレーションは名指しこそさけてはいるが、明らかにそれが「北朝鮮」と分かる敵として作成されている。
                                                                                              参照「動きだした地方自治体の国民保護

  自衛隊が鳥取県の講義に「国際情勢」を入れることは国民の危機意識の転換を容易にすることが目論まれているのである。自衛隊は、その中で、アメリカの安全保障政策、アジア太平洋地域の軍事情勢、アジア太平洋地域における主な兵力の状況、朝鮮半島、北朝鮮、そして、中国に多くの紙面を割いている。

 アメリカの安保政策を紹介しながら、アメリカのアジア政策の視点からアジアを「多様な価値観」の同居する地域と規定するが、その多様性は、宗教的、政治体制上のもので複雑であるとし、それが日本にとってあたかも危機の根源の一つと言わんばかりの捉え方である。アジアの一員としての日本の目からみた独自のアジア情勢の捉え方があっても不思議ではないが、そのような視点は持てないでいる。

   日米安保条約を憲法の上に位置づける現在の国の政策のなかではそれを望むのは無理というものであるが、そのような国際情勢の捉え方で良いのだろうか、という懸念は常につきまとう。「国際関係の一層の安定化への努力」を唱えながら、一方では、「日米安全保障体制を基調とする日米間の緊密な協力関係」を強調し、米軍の補完的な軍備を増強するという矛盾した軍事政策がアジアの緊張感を高めていることはほぼ間違いないのだが、それに対する認識が感じられない。

 あぶない「シビリアンコントロール」

 したがって、それに対応する軍事力も当然のようにアメリカの世界戦略上からの日本の分担すべき軍事力ということになるが、それが基本的には反社会主義国という封じ込めの冷戦時代の模式を踏襲していることは皮肉でさえある。日本がアジアの諸国との国際関係を友好的に維持するためには、アメリカの戦略上にいる限り不可能である。それは片方の手で握手を求め、もう一方の手で脅しを掛ける自己矛盾でしかないからである。

 日本の防衛政策の基本に「専守防衛」「軍事大国とならない」「非核三原則」などを掲げてあることの意味を今一度再確認すべきであるが、最近の政府の動きを見るとそのことさえ怪しくなっている。「統合幕僚長」設置に伴う「自衛隊法改正」の動きは、自衛隊の要とも言われる「シビリアンコントロール」さえもなし崩し的に葬り去ろうとしているのである。

   「専守防衛」を言いながら、アメリカのアジア戦略上にある日米安保体制に依存し、「非核三原則」を掲げながら「米国の核抑止力への依存」を言い、核兵器廃絶に対しても消極的である。さらに「軍事大国とならない」を掲げながら突出した軍事予算を堅持し、戦力としては今や世界の軍事大国となっている現実である。このような政府の軍事政策の原則さえもが踏みにじられた軍事活動ではアジア諸国に対する信頼感は得られない。

   自衛隊の出番

   先程、「自衛隊が曲がりなりにも存在できることの一つとしての『シビリアンコントロール』である。そしてその歯止めの最大が日本国憲法の第9条である」と言ったが、最近の政府・与党、野党第一党の民主党の動きは、その歯止めさえ危うくなっている状況を示している。公然とした憲法改正の政策が国民の支持を得たかのようにまかり通っているが、「有事法制」関連が国会で絶対多数を得て成立したことと無縁ではない。

   憲法第9条の危機のみならず、自衛隊そのものが変質する危険性が高い。つまり、自衛隊が真の軍隊(現在は軍法会議がないことをもって軍隊ではないという論がある)として脱皮し、憲法上でも戦争ができる存在になることである。それはとりもなおさず、前述した「軍隊の論理」が憲法のなかに組み込まれるか、もしくは憲法そのものが「軍隊の論理」に転換させられるかである。それは日本という国が、民主主義と主権在民の現在の国体を変質させる道へ歩むことを意味する。

  「国民保護法」の成立で、その運用に向けた取り組みが地方自治体に下りた段階で、自衛隊が表面に躍り出てきた。鳥取県の取り組みはそのことを予期させるが、今後、現職自衛官が各地で国民保護研修会・国民保護計画作成等で、政府官僚、消防庁と一体となって先導的役割を担っていくとともに、「避難訓練」などが具体化することによって、その頻度は増えていくことになる。

   その布石として、退職自衛官の自治体への再就職の増大が挙げられる。現在、都道府県の段階で、「防災」、「危機管理部局」などへ長崎県庁の4名を筆頭に33名が再就職している。今後増えることが予想されるが、これらの事例は、戦前の在郷軍人が「翼賛体制」の一翼を担ったこと以上の民間指導体制への組み込みである。そればかりでなく、地域では、自衛隊のOB組織や自衛官の青少年組織・ボーイスカウトなどが「国民保護法」の名のもとに組み込まれる可能性は高い。

「沖縄戦での住民避難」批判

 最後に、鳥取県の自衛隊幹部による講義の中で「沖縄戦における避難」が教訓として取り上げられ、そのことが現在進められている「国民保護法」の避難計画に利用されようとしているが、その解釈や分析に多くの間違いや問題があり、黙過できない。

 彼らは、沖縄戦の経過のなかで、住民避難において不手際があり、その不手際に基づく避難計画を教訓とすべきであると言う。そのことをふれるなかで、指摘して行きたい。沖縄本島に関する初歩的な記述でも数字等のミスが多いが、ここでは沖縄戦に絞って検証することにする。

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