作品研究・小説他(03年度)       作品研究詩の部

1 「夏の花」(原民喜)についての考察 2 「人間の羊」(大江健三郎)
3 「永遠のみどり」(原民喜) 4 「沖縄の手記から」(田宮虎彦)
5 原民喜の「夏の花」について 6 「夏の葬列」(山川方夫)
7 「遊女たちの戦争〜志堅原トミの話から〜」(船越義彰・ニライ社)
8 凧になったお母さん」(野坂昭如 9 亀甲墓」(大城立裕
10 野火」(大岡昇平) 11 『アンネの日記』(アンネ・フランク)

※ ホームページ掲載のための若干の編集をしてあります。

1 「夏の花」(原民喜)についての考察
                   OT生(日本文化学科1年)

(1) 『夏の花』の内容
    1947年「三田文学」6月号に掲載された小説『夏の花』は原民喜の広島での被爆体験に基づいて書かれている。この作品は1948年に第一回水上滝太郎賞を受賞した。これは原民喜の「このことを書きのこさねばならない」という使命感のために書かれているもので、その後原民喜は戦争文学をいくつも書くこととなる。

 内容は妻の墓参りから被爆当日〜二日目、三日目、N氏の話により構成されている。冷静な客観描写はどこか淡々としているが、逆に私たちに原爆の地獄絵図を喚起させる。彼の「書き残さねばならない」思いと、素晴らしい観察眼が十分に伝わる作品だ。

    また、戦前の作品とは趣きが全く違うが、彼らしさが伺えるのは冒頭の妻の墓参りである。妻を死してなお愛し続けた原民喜の一面を見る場面である。
 『夏の花』は『黒い雨』同様、原爆小説の秀作と言える。

(2)『夏の花』について
 原民喜は恐ろしい原爆後の街の様子を、克明にこの小説に描いた。彼の冷静ともとれる鋭い観察眼は、他の被爆者たちの記録と多く合致する。彼は記憶が鮮明なうちに、とこの小説を書いたのだが全く正解である。原爆直後の人々の動き。街の様子、人の様子。被爆者たちとのやりとり。後日談の一つであり、当たり前のこととなっていた行方不明者の捜索。すべてが記憶の新しいうちに描かれている。

 これは小説であり、記録である。ノンフィクションであり、生々しい小説である。原民喜の視線で描かれており、それが私たちに身近に原爆の恐ろしさを伝えてくる。彼の見た風景、苦しみや怒りがこちらにひしひしと伝わってくるのだ,

 しかし、もしただの記録にしていたら後世まで残らなかっただろう。小説という原民喜の選択は正しく、願いが通じたかのように現代までこの作品は読み継がれていっている。

 また、この『夏の花』という題名には意味、願いが込められている。妻の墓前に捧げられた「黄色い夏の花」から、原爆で死んだ人に捧げる花、「死者への鎮魂」という読みが、現在では一番多いだろう。もし、ここにもう一つ加えるならば、「平和への回帰」ではないだろうか。原爆直前まで、美しい緑のじゆうたんに咲いていた美しい花。夏の、1945年8月6日以前の美しい花。もう二度と悲劇を繰り返すな。永遠に美しい夏の花が咲くように。そういう意味があるのではないだろうか。三詩『ギラギラノ破片ヤ』について

    1950年9『原爆小景』と1951年『永遠のみどり』内に登場するこの詩は、原爆によって「精密巧緻な方法で実現された新地獄」をカタカナ文字の無情感によって生々しく描いている。この詩に描かれている光景は、原爆直後の広島内でよく見られたものだった。

 ところで、原民喜はカタカナ世代でありひらがなを書く余裕がないほど切実だったためにこの詩はカタカナで書かれたというが果たして本当だろうか。

    原民喜は『夏の花』の中で、「この辺の印象はどうも片仮名で描きなぐるほうが相はしいやうだ」と自身で述べている。「相はしい」と書いているということは、意図的にカタカナを選択したとは言えないだろうか。また、この詩も収録されている詩集『原爆小景』内の詩は最初から最後直前まで全部カタカナになっているが、最後の『永遠のみどり』のみひらがなとなっている。この『永遠のみどり』は平和を祈る詩である。ひらがなで書かれているためか、とてもやわらかく心が打たれる詩である。

 彼は原爆の惨さをカタカナの無機質感で、平和への訴えをひらがなの柔軟さと温かみで書こうと意図したのではないだろうか,
四原民喜文学の前後比較

 原民喜の『夏の花』は言うまでもなく代表作である。しかし、原民喜の戦前のものと比較すると、全く趣きが異なっている。戦前は自分の世界にこもった幻想的な小説ばかりであった。それに対して戦後は被爆体験によって「書き残さねばならない」使命感を感じ、戦争小説を手がけることとなり同時に妻との思い出も書き出した。
「何がお前に生き延びよと命じていたのか─答えよ、答えよ、その意味を語れ!」(平和への意志)という言葉に突き動かされ、「もし妻と死に別れたら、一年間だけ生き残ろう。悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために」(遥かな旅)という理由のために彼は戦争小説と妻との回想記を書いた。

 戦前、戦中において原民喜はひっそりとだが着実に幻想的小説を書き続けた。それらの作品を「狂気のごとく愛して」くれた妻だったが、原民喜を残して亡くなってしまう。原民喜は一年間、彼女との思い出だけに浸り、自殺することを決意していた。それが原爆にあうことにより、戦後、幻想小説ではなく戦争文学という使命を負うこととなったのだ,
五原民喜の作家生涯について

 原民喜は1951年3月13日に東京都の中央線、吉祥寺─西荻窪間で鉄道自殺を遂げた。彼は使命感により『夏の花』から始まる戦争(原爆)文学をいくつも書いた。そして、妻との思い出を綴った詩集を書き、思い残すことはないと遺書に書き死んでいった。

 <自分の内なる世界>にこもり、それらを大事にしながら妻貞恵のある意味庇護のもと生きていた原民喜は、しかし貞恵の死去により彼女との思い出の詩集をつくることと、自殺を決意する。その後稀有な原爆体験により、体も心も疲れ果てながら原爆小説を書いた。

 岩佐東一郎は戦後、『生霊』という詩のなかで、「自殺する前に すでに 死んでいた彼原民喜」と書いているが、それは本当なのだろうか。原民喜は原爆を体験することで、否応なく<自分の内なる世界>から<現実>へと連れていかれ、直視しなくてはいけなくなる。彼はこの時に生まれたのだろうという人もいる。原民喜は六年間必死で生きていたのだ,平和を祈り原爆の恐ろしさを後世に伝えるために小説を書いたのではないだろうか)そして、使命を果たし(小説を書き終えて)彼はこの世から消えていったのだ。

    まとめ
 原民喜は小説や詩を見るだけで、彼が内向的で弱い人間であったことは見てとれる。そんな彼が原爆という恐ろしい体験をし、それを書き留めようとしたのはどれほど重大な決意であっただろう。自身も心身ともに衰弱していたであろうに、彼の使命感は戦争小説、詩を書かずにはいられなかったのである。『夏の花』はその意味でも彼の戦後小説の代表作である。この作品は『水ヲ下サイ』とともに今後も静かに語り継がれていくだろう。『ノーモア広島』の精神は原民喜の小説や詩の中に、そして現代の広島市民、日本人の中にこれからも息づいていってほしい。

[参考文献]
「原民喜全集」芳賀書店 「原民喜ノート」仲程昌徳 勁草書房 「原民喜戦後小説上下」原民喜 講談社 「日本原爆記録17」栗原貞子 吉波曽死編 日本図書センター

2 「人間の羊」(大江健三郎)
                         TK生(商学科2年)

    あらすじ:主人公となる学生がバスの中でキヤンプ駐留している外国兵にふとしたきっかけで辱めをくらう。その辱めを傍観者として見ていた教師風の男に告訴しようと言われるがそれを疎ましく思う主人公。最後には教師風の男の偽善の下にあった自尊心がキツイほど露になっていく物語。

(1) 段落の区別
イ、p45〜p45下14行目…何気ない日常、疲れきった帰宅
ロ、p45下15行目〜p49上12行目…外国兵の悪ふざけ、人間の羊
ハ、p49上13行目〜p51下21行目…羊達と傍観者、被害と偽善
ニ、p51下22行目〜p56上15行目…教師と主人公、交番にて
ホ、p56上16行目〜p5客上9行目…偽善に隠された自尊心。
(以下、区分された段落の表示をイ、ロ、ハ、ニ、ホとする。)

(2)各段落の解釈

イ:ここは解釈するまでも無い。家庭教師をしてきて疲れきっている主人公。

ロ:駐留している外国兵に対しての日本人の反応が伺える。女性がバスの振動で転ろんでしまった時、「外国兵の一人がすばやく立ち上がり、女をたすけ起こした」。外国人の女性に対するジェントルマン魂を感じる。しかし、その後主人公は女性を手荒く扱ったとみなされ外国兵の仕打ちにあう。「ナイフをしっかり握って」主人公を脅かしている。日本人の乗客たちも…黙り込んで僕等を見守っていた」。

 その後外国兵は主人公にお尻を丸出しにさせよつんばいにさせる。「焼けついた羞恥が僕を浸していった。そして僕は腹を立てていた」。しかし主人公は反抗的な行動をとらずに従っている。さっきの「女は生きいきして猥らな表情を取り戻し始めていた。」「外国兵が突然歌いはじめた。そして……日本人の乗客がくすくす笑っているのを聞いた。」このフレーズでもわかる通り日本人は自分が傍観者とわかると酷い事か云々の前にその場をテレビ等を見ているように笑う傾向があるらしい。

ハ、この段落は実に面白い。今まで傍観していた者達が急に態度を変えてしまうのだ。「あいつらひどいことをやりますねえ、と教員は感情の高ぶりに熱い声で言った」「人間に対してすることじやない」しかし、彼等はその行いを黙ってみているどころか、笑ってみている者さえいたのによく言える。挙句の果てには「警察に事情を話すべきですよ」「恥をかかされたもの、はずかしめを受けた者は、団結しなければいけません」まあ、自分が被害者になる可能性が無くなった事による心情の変化とは思うが、ここまで言えたら立派だ。本当に傍観者の言葉という感じがする。一方直接被害を受けたもの達は何も喋ろうとはしない。唯一、意思表示と採れる行動は「男は…教員の顎を激しく殴りつけた」只、殴ったのではない、激しく殴ったのだ。あのことがどれほど羞恥だったか、教員の言っていることがどれほど歯がゆかったかを物語っている。被害者と傍観者のギャップである。

ニ、教師と主人公は交番まで行く。そのときの主人公の心情を表している言葉は「その声が……《被害》を再び正面まで引き戻した」この言葉には被害者の早く現実から逃げ出したい、認めたくないという気持ちを語っている。交番に着いた彼等は事のいきさつを話し始める。しかし、話すのは教員の方であって被害者である主人公ではない。つまり、主人公はもうどうでもいいのだ。というより早くこのしがらみから逃げ出したい。その証拠として主人公は警察に住所と名前を聞かれた際、「頑強に自分の名前をかくしとおさねばならない」と考えている。

 しかし、教員は苛立って「誰か一人が、……犠牲になる必要があるんだ。」と語っている。警察は「こういう事件のあつかいは丁寧に検討しないと厄介で」つまり警察はこういう事件は厄介事としてみている。日本の立場を表している部分と読み取れる。さらに「キャンプの兵隊を起訴することになるかどうかわからないけどね」とも言っている。つまりどういう事態であろうとも厄介であるから起訴する気が無いのだろう。

ホ、警察を出ても教員は執拗に着いてくる。「君は黙ったまま泣き寝入りするつもりなのか?」「君は卑怯だ」と言っている。教員の気持ちはこうだ「そういう態度は外国兵にすっかり屈伏してしまうことだ」。しかし、実際教員はそういう動機で動いているのだろうか?否、あの事件が起こった直前はそう思っていたに違いない。しかし、今は違うだろう。教員は嗄れた声で最後に言う「お前の名前も、お前の受けた屈辱もみんな明るみに出してやる。そして兵隊にも、お前たちにも死ぬほど恥をかかせてやる。」まさにこれが教員の動機になっているのだ。

 小学生の教員らしい彼はその職業がら(彼の持っている)正しい事を教えているに違いない。その正しさを否定されたと思い、矛先が被害者まで包括してしまったのではないだろうか。それとも否定されたことによって自尊心を守り抜くためにこういう行動を執ったのかもしれない。

(2)感想
 日本が(戦争に)負けて外国兵が駐留しているという背景で書かれたと考えている。その社会の状況で日本人はなすすべも無くいじめられっこに成ったかのように見てみぬふりだ。いやもしかしたら、これが日本人なのかもしれない。つまり、傍観者でいたい、厄介なことに巻き込まれたくない。強いものには服従というような傾向があるのか?

    教員の偽善のうちに秘められた自尊心もなかなか興味深いことだ。倫理的なこと、奇麗事などを言っている人のことを私は偽善者と捉えているがそういう人はもしかしたら自尊心を守るためにそういうことをいっているのではないだろうか。まあ、そうだとしてもそういう風に人を判断する事は不可能だし(その本人で無いから)、また判断する必要もないだろう。

    しかし、戦争というものに何らかの関係を持っている時代というものはある種の無秩序が生まれるのかもしれない。ここでいう絶対服従の被害者にならざるをえないようなことが。

3「永遠のみどり」(原民喜)
                         AH生(法学科4年)
《あらすじ》
 この『永遠のみどり』は、『火の唇』と同様に、民喜をモデルとした「彼」を主人公として、被爆後五年たった「彼」の心情と、この話のテーマである「みどり」をおりまぜながら流れていくストーリーである。

 彼は、二年前に広島の土地を売り東京に出てきた。それは、原爆という「怪物」から逃げ出すためであった。しかし、「怪物」は彼に対しての追求の手を休めなかった。彼は、次第に生活費に困るようになっていく。そこで、兄に資金援助を求めるため、かねてから日本ペンクラブの「広島の会」に同行するように誘われていたことや、甥の結婚式に来るように兄から連絡をうけていたことなどから広島をおとずれる。しかし、ただ資金援助を求めるためだけではなくて、彼自身、広島を最後にもう一度訪れてみたいという気持ちがあった。

 彼は、広島を訪れて、彼の兄弟や、七年前に亡くなった妻の実家を訪れる。今では五年前の面影のない生き生きとした広島の町並みを目の当たりにする。しかし、今なお、被爆者である兄や妹の体を、「怪物」である原爆が食いばんでいる実態も知ることとなる。 こうした場面場面に、生き生きとした緑の描写をおりまぜている。また、『原爆小景』という詩集の中の作品である『水ヲ下サイ』という詩も、「彼」の作品として登場する。

(1)はじめに
 この物語を選んだ理由は、『水ヲ下サイ』を調べているうちに偶然出会い、『火の唇』と様々な点でリンクする部分があるのに気づいたからだ。また、この作品は民喜の死後に発表されたもので、民喜が死ぬ直前に書いていた作品であることがうかがえる。妻が死んだ後の民喜の作品は、佐々木基一氏への手紙からもわかるように殆んどすべてが、遺書のようなものであった。この作品も、読み込むうちに、遺書的なものであったように感じた。
なので、そういた観点からも作品に迫ってみたい。

(2)作品研究
○みどり
 作品の題名からもわかる通り、この作品のテーマは「みどり」である。文頭にも「梢をふり仰ぐと〜慰めていた」といった描写が使われているように、植物の描写と彼の心情の描写が描かれている部分が多々ある。しかし、こういう場面描写は、他の文学作品にもちいられるような、登場人物の心境の変化などを示すものではなくて、ただ単に民喜が自分の分身である「彼」を慰めるためだけに使われている気がした。

    彼にとっての植物は、戦争で苦しむ前の少年時代の良き思い出を、妻と過ごした幸せな日々の象徴みたいなもであったに違いない。それは7段落目の「ある日、彼は〜感じられるのだった。」や、22段落目の「子供の時、〜国泰寺の楠の大樹の青葉若葉、」といった、彼が広島を訪れた場面に出てくる様々な肯定的な植物描写から読み取れる。

    また、植物は生命力の象徴のようなものでもあり、復興していく広島の町の、象徴のようにも感じる。しかし、それとは対照的に用いられている彼の兄や、妹の体の異変という表現が、なんだかアンバランスさを感じさせる。しかし、実際にこうしたアンバランスな状況の中で広島は復興していったに違いない。

○詩と少女
 次に、この作品を選んだ一つの理由でもある、『水ヲ下サイ』という詩と、次兄の家の女中との関連についてである。最初、この詩は『原爆小景』と呼ばれる詩集の中の、一つの詩だと思っていた、しかし、この作品にも欠かせないもので、存在を感じた。

 「火傷で死んだ〜水ヲ下サイ……」でも登場する次兄の家の女中は、『火の唇』のなかにも登場しており、この彼女の死が、民喜と「彼」にとてつもない大きな影響を与えていたことがわかる。そして、彼女の死がこの詩を生み出すことになったのは、言うまでもない気がする。その彼の中に残っている彼女のウメキを、誰もが共感できるようにしたのが、この『水ヲ下サイ』という詩であるようにおもわれる。

○「彼」と「民喜」の心情
 この作品を遺書とみるなら、民喜の分身である「彼」の心情をとらえる事によって、次第に民喜の心情が分かってくるはずである。

 まずは、Uについてである。実際、民喜の側にいたのかは分からないが、彼はこのUに妻の面影をみたみたいだ。それは、11段落目「とにかく、あなたは懐かしい人だ。懐かしい人として憶えておきたい」といっているように、Uのことを懐かしく感じている所や、「彼が結婚した時の妻の年齢であった」などから分かる。また最後段落の「お嬢さんは〜ハッとさせた」というところは、妻と結びつけた緑色を使っているところからも分かる。しかし、10段落目に「……それは恋というのではなかったが、」といっている通り、恋ではなくて妻の面影をみていただけなのだろう。

 2段落目の「水道道路の〜死ねるものなら……」「彼の記憶〜表情なのだ。」から、彼の中の「死」というものが、凄く身近になってきているのを感じる。また、この「……」のなかには、「死にたい」が入ると思う。それらは、5段落目の「彼はもう相手に叩き与える〜陥っていた」「死ぬ前にもう一度〜郷里に行ってみたかったのだ。」などからも分かるように、彼は、一人で、頑張ってきたことに少しずつ疲れを感じ始めているように感じる。

 また、広島の町の復興や、動物たちが少しずつ戻り始めていることをしって、自分の役目の終了を予感しているように感じた。こうした点などから、民喜が、死を意識し始めているように感じた。

(3)感想
 この作品を読んで、まず感じたのは『火の唇』ほど重たさを感じないということである。それは、「みどり」という生命の象徴を作品に用いたため、どこか明るくさわやかな感じを受けたからだと思う。

    しかし、民喜を知ると、その逆に危うさを感じる内容でもあった。それは、彼がすごく安らぎを求めているように感じたためである。そして、彼にとって安らげる空間は、もう地球上にはないからだ。つまり、彼が一番安らぎを感じるのは、妻の存在であり、妻を感じるには、死というものしかないからだ。

    妻は、原爆によって死んだわけではないが、戦争が彼女を奪ったわけで、戦争がなければ、貧乏ながら民喜には、安らげる場所が存在した。そうすれば、彼は死なずにすんだのにと感じる。死を選ぶことは、賛成できないが、こういう辛い、苦しい日常が、戦後の日本には存在していたという現実を忘れてはいけないと思った。

4 「沖縄の手記から」(田宮虎彦)(光村図書版)
                          IK生(社会文化学科2年)
<沖縄戦とは>
 太平洋戦争末期、昭和19年10月10日「十・十空襲」以後、米軍機による空襲が南西諸島一帯へ断続的に行なわれていた。大本営には軍隊を補充する余裕がなく沖縄決戦を間近にして、「根こそぎ動員」体制を取っていった。

    (男子満一七歳から四五歳までの防衛隊召集、また、満一三歳以上の県下中等学校生徒を法的裏付けもなく、男子は鉄血勤皇隊、通信隊、女子は、学徒看護隊として戦場動員していった。さらに国民学校卒業以上から六五歳(女子は四五歳)までの男女を国土防衛義勇隊として動員した。

    昭和20年3月26日に、沖縄の慶良間諸島(阿嘉、座間味、慶留間島)に米軍上陸(「集団自決」が行なわれた)。米軍は、沖縄上陸作戦を前に水上機基地と艦隊投錨地の確保、慶伊瀬島を占領して沖縄上陸の援護砲撃をする長距離砲をすえつける狙いがあった。そして4月1日本島中部西海岸(渡具知、嘉手納、北谷)に約18万3000人の兵力で上陸作戦を開始、その後沖縄本島における地上戦が南北に向って展開されていく。

    日本軍は、「国体護持」のために終戦工作を有利に導くため首里決戦を避け、摩文仁南端へ指令部を移動した出血持久作戦。第三二軍・牛島司令官は、6月23日に自決を遂げるが、19日に「最後まで敢闘して、天皇のために死ぬように」という内容の命令を発していた。そのため、7月2日に米軍が沖縄作戦終了宣言を出すまでの間だけでも、約一万人近い住民と将兵が戦死した。その結果、戦闘員よりも一般住民の犠牲者がより多い。

<作品の読み、解釈>
△第1節「昭和〜深い眠りに落ちた」

    「アメリカの上陸以来50日ほどたったころ」という箇所から、沖縄本島への米軍上陸後のいよいよ戦闘が激しくなる様子がうかがえる。それは、「一晩かかって二キロほどしか進めず」という箇所からも読み取ることができる。沖縄戦の現状を書いているところだと考える。

△第2節「ふと〜『わたくし、とてもこの人たちを残して、この壕から出ては行けません』と言った」

 軍医大尉のわたしとひとりの看護婦との出会い。負傷兵の処置を懇願する看護婦に、疲れているはずなのに同行する軍医の責任感というものを感じる。それと同時にひとり病院の人達と離れてしまった看護婦の責任感というものもここでは表しているように思う。 それは、「わたしは疲れきっていたが、自分にもわからない衝動に、ふとその背をつかれたように」や、「娘は部隊が見捨てていった負傷者たちを残していくことができずに」という箇所から読み取ることができる。

△第3節「わたしは、〜『わたくしはここでいいんです』と言った」

    「部隊命令は、わたしたちに現在地で待機せよ」という箇所から激しい雨や砲弾のなかで今どう動くべきかというような戦闘の混沌さがうかがえる。そんななかで負傷した少尉の自決がある。少尉は、負傷していて足手まといになっているという気持ちと致命症ではないためじわじわと死を目前にしていく絶望感を感じていたのではないかと「明日になれば、少しは歩けるようになりますか。」と言うセリフから感じた。「軍医は少尉の死を確かめにいっただけ」という箇所からは、戦争中の死の感覚を感じさせられる。

△第4節「わたしたち〜両手で顔を覆って嗚咽し始めた。」

 安全であるはずの南へ行こうとしきりに説得する軍医と、それを頑なに拒む看護婦のことが書かれている。看護婦に死んでほしくないという軍医の思いが「娘を一人、病室壕に残して、無意味にその生命を失わせることがとうてい許せないことに思えた。」という箇所から読み取ることが出来る。軍に縛られている者とそうでない者の違いからは、軍国主義の徹底さを感じることができる。そのやり取りのなかから看護婦の家族が死んでいるであろう、もう生きている意味がないという看護婦の切ない思いが見えてくる。

△第5節「わたしは、呆然として〜自分の名前を繰り返して言った」

 本島上陸を前に米軍が慶良間に上陸し、「慶良間では小さな子どもまで死んだと伝えられていた」ということから生存者がいないであろう島の出身である看護婦の、生きていても家族に会えない絶望感を感じる。それに対して軍医が「わたしがここで死んでも、妹は生きていてほしい」という声かけから、答える言葉が見つからないなかでの優しさを感じる。

    「当間キヨ、当間キヨと申します」と2度も名前を繰り返すところからは、この世で自分を知っている両親、家族がいなくなってしまって、しばらく一緒に働いた軍医に自分のことを覚えていてほしいという思いがあるのではないかと感じた。

△第6節「当間キヨは〜わたしはキヨに言った」

 当間キヨが名前を教えるほど軍医に対して親近感がわいてきて、時間の経過とともに軍医の一緒に南下しようという意向を受け入れていく気持ちの変化がうかがえる。

△第7節「部隊からの〜わたしに聞えてきた」

  一旦軍医の希望を受け入れた当間キヨが、やはり負傷兵をおいていけないと言い、キヨの家族を失った強い絶望感と負傷兵に頼りにされることへの責任感が「水を与える姿」から感じられる。それと同時に軍医の切なさ、もっと時間があればもう一度説得したいという思いが仲間の呼ぶ声から伝わる。

第8節「南下した〜耳にしたころである」

 ここでは敗戦の色が濃くなり、混沌とした状況がうかがえる。

△第9節「わたしは、〜聞えているように思えた」

    「あのとき、わたしたちといっしょに南に下っていたとしても、わたしが願ったように当間キヨが生き残ることができたとはかぎらなかったであろう」という箇所から混乱のなかでの情報の危うさと生死の分かれ道の曖昧さが書かれている

△第10節「わたしには、〜わたしの胸にこみ上げてきた」

 当間キヨの居た壕を探しあて、そこに入っていく事によって、当間キヨの死を現実として捉え、死ぬはずでなかった当間キヨが死に、死ぬはずであったわたしが生きているという皮肉さを「わたしの心の中で長い時間が過ぎたように思えてからであった。」から感じる。
「自然にその前にひざまづく」から戦争責任の曖昧さを書いているように感じる。

<全体を通しての読み解釈>
 全体を通して、この小説は、軍人としての責任感、正義感、一般市民としての責任感というように軍国教育のなかで美徳とされたものが多くかかれていると思う。
作者がなぜ沖縄戦についての小説を書いたのかはよくわからなかったけど、明治44年に生まれたことから軍国教育を一身に受けていたことはわかる。それを考えると、こういう展開になるのはわかるような気がするが、この小説は、読む人によって戦争の美徳だけを捉えるか、そのなかから反戦の大切さを捉えるのか、とても両極端になるのではないかという危惧を感じる部分もあるが、最後の当間キヨの死体との再会描写が、「2度とこのような戦争をおこしてはならない」と訴えているように思えた。

※(制作者註)このレボートは、「沖縄の手記から」の「光村図書教科書2年」に掲載された分についての分析となっている。


5 原民喜の「夏の花」について
                             AD生(商学科4年)

    原民喜は戦前の広島に生まれ、戦争を体験することとなった。また原爆体験することにより、原民喜の文学が大きく変わったように思われる。原爆を体験するまでは、個人としての苦悩を描いていたが、原民喜が原爆を体験することで個人としてではなく、全体の苦悩を描くことになる。よって、「夏の花」という作品が生まれるのである。また、原爆を体験し生き残った者として、原爆死などについての文学になっている。

 この作品の題名なっている「夏の花」は、妻を亡くした原民喜が、墓を訪れるときに名前も知らない花を持ち、墓参りをしているところからきていると思われる。墓参りをしているときは、これから原爆が落とされることなど知らないはずである。しかし、「ふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった」と、疑問をもっている。これは、原民喜が原爆体験後の作品だから、このような表現になったに違いない。もちろん、戦争中ということなので今後の状況がどうなるかわからないということから、こういう表現になったとも思われるが、やはり原爆投下の後だからこそ、疑問形になっているに違いない。

    この頃は、戦争中なのに静かな光景が思い浮かばれる。実際に原爆が投下されるまでは、空襲警報が出されているがいまだ静かな様子である。

    しかし、「突然、私の頭上に一撃が加へられ…頭に手をやって立上がった」の中の、「うわあ」という表現は、人間の心が無意識のうちに叫んでいるようである。この「うわあ」から、原爆が投下されてから爆発するまでのすべてが、この表現に現れているように感じた。

    その後の「今度は惨劇の舞台の中に立ってゐるような気持ちであった」からは、自分の置かれている状況が信じられないのだろう。しばらくして、自分の置かれている状況がわかってくる。

 原民喜はKとともに安全な場所に避難しようとするが、外に出ると原爆の被害の大きさに気付くことになる。「ふと、潅木の側に……感染しさうになるのであった」からもわかるように、被爆によって人間の顔に見えないほど変貌した姿が、生々しく伝わってきた。
この外界から入力されてくる情報を原民喜は冷静に受け取っているように思われる。「このことを書きのこさねばならない」というところからも、そういえるであろう。しかし、あくまでも記憶を下に書いているものであるから、その当時はそうでもなかったのかもしれない。その後もあちこちか聞こえる声に対して耳を傾け、自分の置かれている状況を理解している。

     原爆の悲惨さは、時間が経つごとにあらわれることが、「夏の花」を読むにしたがってわかってくる。ここで不思議なことは、原氏喜の周りの人は意外と被害が少ないように感じた。怪我はしているにしても、原爆特有の症状が見られない。不幸中の幸いとでも言うのだろうか。

    だが、ここでは決して生きていることが幸いといえるのだろうか。私が原爆の被害を目の当たりにすると、逃げ出したくなるに違いない。「夏の花」を読んでいると、やはり想像する。想像では表せない世界だとは思うが、少なくとも天国を見ているというより、地獄を見ているというのが近いだろう。

 原民喜は原爆を体験することにより、私たちに原爆の恐ろしさを伝えている。「夏の花」は、冷静に語っているように思われるが、やはり原爆を落とされたときとこの作品を書いているときの状況は違うので、いろいろな感情が入り混じっていると思う。原爆投下前後の場面を設定していて、現在の作者は過去の経験があったからこの作品が生まれた。

    また、原爆の風景にくわえて、原爆による人間の変化を表しているところは、新鮮な感じがする。人は破壊兵器により、本来の姿を失い、外見だけでなく内面までも彼壊される。このことも原爆によって、再認識されたに違いない。

 作品の背景には、原爆は外すことができない。それでは、原爆死と戦争死の違いが大きな問題になるのではないだろうか。戦争死では、罪もない人が殺される。これは許されないことである。原爆死においても無差別に殺されるのだから、同じような感じがする。でも、原爆において生き残るというのは、戦争で生き残るのとでは違う意味合いになりそう
である。

    沖縄戦において「集団自決」というのがあった。これは、生きているのが辛くて行ったと思う。原爆においては、それ以上の苦しみがあるに違いない。被爆後、放射能を浴び、苦しむ人がいる。一度の苦しみではなく、二度三度と苦しみがやってくる。原爆で生き残った人で、幸せという喜びよりも、生きているのが辛いという苦痛のほうが正直なところだと思う。こういった苦しみを二度と起こさないためにも、原爆において生き残った人の存在は大きいのではないだろうか。これが世界全体に対する警告とも言うことができるだろう。「夏の花」の背景には、このようなことがあるということを私は感じました。

6 「夏の葬列」(山川方夫) (教育出版)
                  OA生(日本文化学科3年)

 はじめに、この作品は戦争文学であるという感じがあまりしない。それは、作者である山川方夫が原子爆弾のような悲惨な体験をしていないからではないだろうか。だから、戦争の惨さを伝える描写がないように思われる。しかし、だからといって彼の戦争体験が作品に影響を与えてないとはいえない。
彼は、昭和18年、13歳の時に東京都下谷区から神奈川県の二宮に転居している。この事が、作品の中では疎開として現れているように感じられる。それは、作品の中の≪彼≫が9歳くらいで東京から疎開してきたという設定から感じられる。山川自身も転居した神奈川で、≪彼≫と同じように地元の国民学校の子ども達からあまり歓迎されてなかったのではないだろうか。

    そして、敗戦の8ケ月前に父親を脳溢血で亡くしている。この父親の死の影響が、ヒロ子さんを終戦の1日前に殺してしまったという設定に現れていると考えられる。

 作品は、5つの場面で構成されている。1.疎開地を再訪する場面、2.過去の事件を回想する場面、3.殺人の罪の意識を自覚する場面、4.新たな事実を知る場面、5.罪を自覚して生きていく場面である。

    物語は、一人前の大人として成長した主人公が、かつて戦争中に疎開していた町に訪れるところから始まる。なぜ、この町を訪れる気になったかといえば、5の場面のP105L14〜16から読み取れる。

    このような気持ちになったのも、町が十数年前とすっかり変わってしまっているからではないだろうか。なぜなら、町の風景が変わっていることによって時間は流れていることを感じ、あの忌まわしい出来事は過去のものであるという心の余裕ができたからだと考えられる。町の風景が変わっていることは、冒頭文から読み取れる。

    そして、夏の真昼に青々とした葉を波打たせた広い芋畑の向こうに見える小さな葬列に遭遇するのである。その時の彼の状況が「化石したように」という比喩表現、P98L13、14の彼の心中、そして、P98L15、16の彼の様子を具体的に叙述することで、彼にとって過去の事件がそれほどのものであったのかが強調されている。さらに、「夏の真昼」「芋畑」が重要なキーワードとなっている。

    2場面は、過去の事件のあらましが明らかになっていく。そして、この作品の唯一の戦争描写がある場面である。現実で遭遇した葬列の状況と同じであるかのように、「濃緑の葉を重ねた一面の広い芋畑のむこうに」から回想が始まっている。

    東京からの疎開児であるヒロ子さんと葬列に遭遇する。しかも、「よく晴れた昼近く」である。ここで、の葬列の状況を具体的に説明している文章は、彼の視点とも読み取れるが、ヒロ子さんの視点とも取れる。それは、「お葬式だわ」とヒロ子さんが言った前にある「……」がヒロ子さんの心情の中の何かを余韻として残しているような気がするからである。彼とヒロ子さん二人でこの葬列を見ているのだから二人の視点と言ってよいだろう。そして、会話が始まる。

    彼がヒロ子さんにおまんじゅうを「ぼくらにも、くれると思う?」と聞いているところから、ヒロ子さんと彼が周囲の人から受け入れられてないだろうということが予想される。この町の東京から疎開しに来ていたのはヒロ子と彼だけである。そして、そのヒロ子さんが弱虫の彼のことをかばっていたという説明から子ども達からいじめにあっていたと考えられる。

    また、P99L9の文章から常に二人で行動を共にしていたことがわかる。それで、大人もぼくらのことを嫌っているのではないかという不安からヒロ子さんにあのような質問せざるを得なかったのであろう。

    そして、場面は山場を迎える。艦載機が登場してからの様子は、緊迫感が伝わってくる。彼も恐怖に怯えるが、女の人の声がヒロ子さんではないと判断できるくらいの冷静さはある。しかし、男の「白い服は絶好の目標になるんだ」という言葉が彼の人生を大きく変えてしまう。そこから彼は、ヒロ子さんと一緒にいたら自分殺されてしまうという心理が働き、彼を助けにきたヒロ子さんを突き飛ばしてしまう。

    この場面での彼の心情の変化は、戦争という魔物が彼を正常から非常な人間へと変化させたのである。しかし、逆にヒロ子さんは理性を失わずに彼を助けにきている。ヒロ子さんの人間釣行為が彼の非人間性をより強調し、浮き彫りにしている。

    3場面では、現実の世界へと戻ってきている。あの事件を思い出すことによってPlO4Lllの文章から殺人を犯してしまったという罪の意識を再度自覚している。夏という季節と翌日に戦争は終わったという状況がさらに罪を重くしているように感じる。

    4場面では、どんでん返しが起こる。葬儀の主が、ヒロ子さんだと思っていたが、彼女のお母さんだったのだ。彼は、写真の顔がヒロ子さんではないかと思った時に有頂天になる。

    ここで、疑問を感じる。ヒロ子さんがあの夏の日に死んでなかったにせよ、あの時の彼がしてしまった行為は消せない事実なのである。それで、彼の罪は許されるのであろうか。あの時の行為は、戦争中だったから仕方ないとしてしまうのは間違っている。そこで、写真の人がヒロ子さんであっても罪悪感を持つような心情にしたほうが、戦争の恐ろしさを伝えられると思われる。

    5場面では、ヒロ子さんとヒロ子さんの母親の死が自分のせいであったと自覚して生こうと決意する。しかし、この町に降りてみて、二つの死を知った彼は、それを偶然の皮肉として捉えている。彼は、本当にこの二つの死に真剣に向き合っていないようにも感じられる。

 この作品のような偶然は、現実の世界では有り得ない。有り得ないような事を現実のように書き、それでもって、作者の言わんとすることが生まれてくる。そこに、文学としての魅力、価値がついてくるのである。

    その偶然の中で作り上げられた物語の中で、作者は彼に起こった出来事を偶然として設置することで、作品の質を高めている。また、その偶然に遭遇した経緯を語り手からの視点と彼の主観を混合して書くことで、読み手が彼の気持ちに入り込めるようになっている。中線「−」と「…」を多様に使用されていることもこの作品の特徴だといえる。それらの記号を使うことにより、登場人物の細やかな心情までも表現され、物語にリズムを生み出している。

 戦争体験者は、誰しも心に何らかの傷を持って生きていると思われる。そして、その傷と真剣に向き合い。しかし、私たちは、自分に何らかの不利な出来事が起こった時、その間題と真剣に向き合おうとせずに、それは自分のせいではないとすぐに責任転嫁したがる。この作品に出てくる《彼》は今の私たちを象徴しているように思われて仕方がない。《彼》の犯してしまった罪が戦争によって起こってしまったものとする事で、人間の本質を問うものとなっている作品だと思われる。

[参考文献]
『「実践言語技術教育シリーズ」(全20巻)「中学校編」第7巻 夏の葬列』編集渋谷孝、市毛勝雄 明治図書1997年
『文学の力×教材の力  中学校編2年』田中実、須貝千里、教育出版2001年


7 「遊女たちの戦争〜志堅原トミの話から〜」(船越義彰・ニライ社)
                         KK生(日本文化学科1年)

<作品紹介>
 辻遊郭のジュリであった実在の志堅原トミ(仮名)の証言を中心に、当時の辻の様子から戦争中までをインタビュー形式で描いた小説。

 貧しさから遊郭へ身売りされ、さらには慰安婦にならざるを得なかった女性たちの話は、戦記であるとともに、女性虐待の実証でもある。慰安所についての作品や資料はこれまでも多くある。しかし、辻についての資料はこれまでほとんどなかった。これからも、多くは望めないだろう。そのようなことからも、この作品の価値は高い。

 昭和初期の辻遊郭の見取り図や、当時の写真が載っており、資料的価値もある。中頭方面から那覇に突入しようとしている米軍の写真では、破壊された泊高矼とその周辺の、今のたたずまいとはまったく違う様子がこの作品を通してわかる。
第一章 辻遊郭 (戦前)
第二章 慰安所へ (戦中)
第三章 戦い終わって (戦後)
2001年2月10日第1刷発行

 沖縄の島歌や、民謡を聞いたりすると、遊女と殿方にまつわる恋の歌などが優雅にうたわれていたりする。また、沖縄の花街のあり方は本土とはまた違う性格を持っていた……などという話を聞きかじって、戦前の那覇にある遊郭については決して悪いイメージは抱いていなかった。

    そういうことから、ジュリというものがどういうものだったのかをもっと追求してみようと思って手にしたのがこの本でした。また、若い女性という自分と同じ
立場の人が、戦時中はどのように過ごしていたのかも、自分と照らし合わせて考えてみたいと思う。

 この作品は、すぐにトミさん(仮名)からの証言から入る。
 「これまで私は沖縄でのイクサの話を避けてまいりました。イクサの中での自分を思い出すことがイヤだったからでございます。とくに、遊郭のジュリたちはどうしていたか、慰安所はどうしていたか、慰安所はどうだったか、ということになりますと、これは、古傷を暴きだすようなもので、話す気になれませんでした。ところが、あなたさまは“過去にあった事実は事実として認め、残すべきものは正しく残さなければならない”とおっしゃいました。私は、自分の体験が、語り継がなければならない大事なことだと気づいたのでございます。」
と述べた。なぜそこまで話すことを拒んだのかは作品を読むにつれわかってきた。

    第一章では、辻遊郭についてどのようだったかが書かれている。ここではまだ戦前の話だ。トミさんは数えの十歳、小学三年のときに辻遊郭に売られた。人間を品物のように売り買いしていたのかとショッキングでもあるし、不思議に思う。しかし、昭和の初め頃までは、沖縄には、「男は糸満売り、女はジュリ売り」という言葉があったそうだ。

    貧乏な家の男の子は糸満の網元のところへ年季奉公に出され、女の子は那覇市辻町の遊郭へ売られることは、珍しい話ではなかったそうだ。これが実態なのだ。戦争においては人権なんて関係ない。人間も商品と化してしまうのだ。なんとも悲惨な現実だ。しかし、こうでもしなかったら、食べてはいけない世の中だったかと思うと、私たちは、贅沢し過ぎているのかもしれない。

 朝鮮出身の慰安婦は、強制徴用による例が多かった。それゆえに、補償問題が韓国では国民全体の問題となる。ところが、日本本土や沖縄では「旧慰安婦の補償」の要求はまったくなかった。この沈黙の理由は何か。著者自身もこの疑問を理由にトミさんに、「遊郭」のこと「慰安所」のことをインタビューするきっかけとなったようだ。ジュリや慰安婦は
賎業であるとみられていたからである。そして、沖縄女性の慰安婦は、そのほとんどが、那覇市辻町にあった「遊郭のジュリ」であり、この「ジュリ」の延長線上に「慰安婦」があったことは、彼女らにとっては二重の屈辱を意味していた。

    先ほど述べたように、なぜそんなに過去のことを話したくなかったかというと、朝鮮の人々とジュリとでは、事情がちがうのである。前者にとっては忘れられないことだろうが、後者にとっては、慰安所にいたことは、忘れたい過去なのである。遊郭という特殊社会、あるいは軍隊用の慰安所という特別な施設があったこと、そこには、金銭で自由になる女たちがいたことは事実である。

  この作品は、「慰安婦は女性虐待そのものである。」ということと、「日本の慰安婦は自ら自由になるために好んでしたことだ。」ということの二つが、混在していると私は思った。

    一体この矛盾は何だろうか。わたしは、このように考える。慰安婦は女性虐待である。昭和十九年十月十日の空襲の後、遊郭のジュリは慰安所の慰安婦になった。いや、ならざるを得なかったのである。一日に何人の兵隊を捌いただろうか。これがジュリたちの戦争だったのである。このように女性を変化させた政府に罪があるのである。ジュリたちは、政府の被害者、戦争の被害者なのである。

 戦いが終わり……
 「私の戦後の暮らしは、沖縄のすべての方々がそうであったように、ゼロからの出発でございました。苦しく不自由だったことは確かではございますが、艦砲射撃や空襲のない日々は、本当に有難い安らぎに満ちていました。ほんとうに平和というものをありがたく感じておりました。」
という証言からも、すべてを失っても平和には変えられないことを語っていると解釈する。

    この作品を読むと、私たちと同じ年代の人がここまで地獄をみたかと思うと、私たちは、平和を当たり前に感じ過ぎていたと、反省せずにはいられない。

 トミさんだけではなく、遊女たちの戦争には、三つの面があったと思う。「沖縄県民としての戦火の体験」「男に対する遊女、慰安婦としての関係」「貧乏との戦い」である。この点から、トミさんたちの歴史は《女性虐待の実証》でもある。この作品を通して、辻には社会史、民俗史、あるいは祭祀などの面から貴重なものが残っていたように感じる。

 最後に……私はトミさんが述べた琉歌を忘れない。
「天も恨みらぬ 親も恨みらぬ わが生まれだけの不足やてど」
天(神)も親も恨みには思わない、私に、それだけの「生まれ徳」がなかったからだ。このような諦観を持つトミさんは、それゆえ、他人への優しさを持ち続けたと、私は信じて
いる。


8 「凧になったお母さん」(野坂昭如)
                       SK生(日本文化学科1年)

 この小説は、戦争全体を把握するための記録文学としてではなく、人間の愛情にテーマを絞り、戦争の悲惨さを伝えようとした作品である。

 前半部分では比喩表現を多用し空爆を受けた街並みの悲惨さを、後半部分では炎に囲まれたお母さんとカッちやんの心情の変化を中心に描いている。 まずは前半部分の比喩表現について見ていく。

 焼け跡の中にいるカッちやんの表情について、「老人のよう」「ビアフラ、ベトナムの難民」「十五、六年前の九州炭鉱地帯の子供たち」「二十六年ほど前、日本大都市の駅にいた必ずいた浮浪児」と、かなり具体的に表現しいていることがわかる。最初の「老人のよう」は判るにせよ、その他は現代の子供達にはイメージのわかないものやテレビでしか見たことのないものばかり。つまりカッちゃんの空腹に飢え、痩せこけた表情は身近で現実味のあるものでは表すことができないほど壮絶なものだった。そして、その表情は空腹と共にカッちゃんの凧のように舞い上がったお母さんを待ち疲れた表情の表れでもある。

 次に、注目すべき比喩表現としてカッちゃんとお母さんが炎から逃れる様子を「泥棒のように」と表している。ここでは火から逃げるため暗いほうへ、いかに慌てて走ったかを如実に表している。

 もう一つ、カッちゃんとお母さんが炎に囲まれていく場面で家屋が一軒一軒炎上していく様子を「爆発するように燃え移る」と、表されている。ここではよみ手に炎の凄まじさと、カッちゃんとお母さんにはもう逃げ場がないということを暗示している。さらに、火の恐怖を引き立たせるために、「木立の葉一枚一枚悲鳴をあげるように、震えていました。」という描写が付け加えられている。

 そして、「一軒の二階の軒下や窓から、煙とは違う蒸気のようなものが吐き出された」という光景が「ふしぎなながめ」から「家が断末魔の苦しみに耐えている感じ」の悪夢へと変わる場面では、徐々に「カッちゃん」と「お母さん」の恐怖感がつのってきたことを表している。

 続いて、カッちゃんとお母さんの心情の変化を中心に物語全体の解釈を進める。物語は「昭和二十年、八月十五日」という日付設定から始まる。終戦の詔書が出された敗戦の日である。

 状況は「山から海まで、さえぎるもの一つない」とあることから一見全てが焼き尽くされた様子が描かれている。ところが焼け跡は「ただ見ると、赤茶けた荒野にすぎませんが、といっても瓦礫ばかりでもない。」と続いている。

 ここでは、注目して焼け跡を眺めて見れば、空爆を受ける前には確かにその場所にあった日常生活の面影を表現している。その根拠に「つい近ごろまで、人がすんでいたということを、懸命に主張しているように見えました。」という文章が挙げられる。そして、注目しなければ見えてこない、主張しなければ伝えることができないほど、街は壊滅状態にあることもわかる。

 そして、後半部分に入ると、比喩表現は少なくなりお母さんの心情とお母さんとカッちゃんの思い出が中心に書かれている。

 順を追ってみていくと、お母さんは空襲を受け、一刻も早く家から逃げ出さなければならない状況で、二年前から戦地で戦っているお父さんの持ち物をまとめてから逃げている。結果的にこの行動でカッちゃんとお母さんは炎から逃げ遅れてしまう。しかし、お母さんにとってお父さんは大きな存在であったのだ。自分たちがこんな状況でも、お父さんはまだ生きて帰ってくるのだと信じることで希望を見出している。その理由として炎に囲まれ恐怖を感じた場面で「お父さん。」と呼びかけている。そして、お父さんがかわいがっていたカッちゃんを助けなくてはと決意している。

 お母さんはまず自分の汗を水分としてカッちゃんに塗ってあげる。すると「お母さんも怖さを忘れること」ができたとある。この文章ではカッちゃんを守ることに無我夢中になり、恐怖を忘れることができたと解釈できる。

 一方、カッちゃんは「お母さんに頼っていればどんなことが起こったって大丈夫」と信じている。しかし、続く文章で「お母さん」と時々呼んでいないと「どこかに行っちゃいそうな気」もしている。つまり、お母さんが衰弱していく様子を見て、子供ながらに不安を感じつつあることを示している。

 そのカッちゃんの呼びかけを聞いたお母さんは「怖いよりも悲しく」なる。その理由はカッちゃんとお母さんが逃げ着いた公園は家族三人でよく遊んだ思い出の公園だったからだ。カッちゃんの呼びかけにより当時のことを回想し、思い出がたった今消滅しようとしていることに悲しみを覚えているのだ。そして、自然と溢れ出す涙を乾いてしまった汗の変わりにカッちゃんに塗ってあげることを思い立つ。再び涙が乾いてしまうと、意識して悲しいことを考えてカッちゃんに涙を移してあげる。この行動は、自己を犠牲にしてカッちゃんを守ろうとするお母さんの強い意志を感じ取ることができる。

 ところが続く場面でお母さんは子守歌の中で「どうしても死ぬなら 眠りのうちに」と歌っている。これはお母さんのカッちゃんを守ろうとする、意思が弱くなり諦めかけていると読める。しかし、私は決して諦めたわけではなく、苦しまずに死んでほしいという母の子供に対する愛情であると考えた。その根拠に続く場面では水分を求めて土をかきむしっている。諦めたわけではないことがわかる。

 その後の場面に移ると、お母さんは出るはずもないお乳をカッちゃんに絞ってみることを思い立つ。そうしたことによりお母さんはカッちゃんが生まれたときのことを断片的にではあるが思い出し、その思い出と同時に渉み出てきたお乳をカッちゃんに飲ませて、体に塗る。汗を除けば、ここまでお母さんは何らかの思いを水分として体から出しカッちゃんに与えてきている。

 ついに、お乳も尽きてしまうと、お母さんは「やがて焼け落ちる家並みも、別世界のことい思える」とあるように、意識が遠のいていることがわかる。

 すると、お母さんに頼っていれば、何があっても大丈夫と思っていたカッちゃんが悲鳴をあげる。「お母さん、怖いよう」という叫び声は火の恐怖とお母さんという唯一の頼りを失ってしまうかもい知れない恐怖である。一方のお母さんはカッちゃんに水を与えなく
てはと「もう水がどんなものであったかさえ(中略)わからないほど」衰弱しきり、ほとんど意識のない中で「ミズミズ」と呪文のように繰り返している。
 この「ミズミズ」はカタカナで書くことにより、朦朧とした意識の中の水に対する強い執着心を読み取ることができる。そして、その強い思いがお母さんの体から血となり吹き出し、カッちゃんを包んだと考えられる。

 普通、5歳の子供が母親の体から血が吹き出したら恐怖を感じるだろう。しかし、カッちゃんがそう感じたという描写はない。つまり、お母さんの体か吹き出したのはお母さんのカッちゃんをまもろうとする思いであると考えられる。

 最後の場面で、お母さんは凧のように空に舞い上がっていく。「凧」という比喩表現を用いたのはいくつかの理由があると考えられる。まず、乾ききったお母さんの体は紙のように軽くなったことを表している。そして「凧」は地上と上空を糸で結ばれていて、空から地上を見ている。お母さんの思いは地上にいるカッちゃんに繋がり、いつまでも見守っている存在を描くのに「凧」が適当であったのだ。

 しかし、最後の段落でカッちゃんも凧になってしまう。「羽ばたき舞い踊りながら、高く昇っていきました。」とあるように、カッちやんはお母さんと一緒で幸せであるように書かれている。しかし、この場面では母が子をどんなに思い、守ろうとしても二人とも命を落としてしまうことが、当たり前のように起こっていた戦争の皮肉な部分と悲惨さが描写されていると考えられる。

 この作品は架空の話でありながら、戦争の悲惨な部分が純粋に書かれている。ひらがなも多く現代の子供達に戦争を教える上で貴重な資料となるだろう。さらに、独特の文体で読み手を引き込む力がある。しかし、戦争をごく一部の視点でしか捉えていないため、広い範囲で戦争を知り、学ぶためにはほかの戦争文学も同時に読み進める必要があるだろう。


9 「亀甲墓」(大城立裕)
                                KA生(国文学科4年)

 あらすじ
 畑に囲まれたある部落にすむ善徳とウシの家に、ある日「ドロロン」と艦砲射撃が鳴り響いた。二人は孫の文子と善春を連れて逃げる準備をする。そこへ、娘のタケと、その子どもである民子、そして、タケの愛人の栄太郎がやってくる。善徳は、不義ものの娘たちと一緒に逃げることに反対するが、孫の民子可愛さに折れ、7人で亀甲墓へと避難する。

 鳴り続ける「ドロロン」に不安を覚えながらも、先祖との同棲生活は始まった。その一家にとっての戦争とは、「ドロロンをきくことと、若干の飢じさにたえることと、糞を厨子襲の蓋にたれることであった」。

 そのうち食料がなくなり、善徳と栄太郎は艦砲射撃の合間をぬって、畑に藷を採りに行く。そこで、いとこの善賀が藷を盗んでいるのを見つける。「掘らされい、じいさん。たくさんある藷でないか」という栄太郎の言葉も聞かず、こちらに気づいて逃げ出した善賀を追い、善徳は艦砲弾に当たって死んでしまう。
 善徳が死に、ウシは、「こんな死にかたしたじいさんを、ダビもせんでいかしたら、わんはお元祖に叱られるもんなあ」と、善徳の葬式をあげるという。最初は反対したタケと
栄太郎も、ウシの「孝行のしあげど」という言葉に、決意が出来上がる。
 タケと栄太郎は手分けして、近くの墓に避難した親戚を呼びに行くことになった。栄太郎は、善賀先生たちの墓へ向かう艦砲射撃の中で、遠い稜線に動く兵隊を見る。「もう、ウシのところへは帰れないかもしれない」。そして、「亀甲墓に、火線はゆっくり、しかし確実に近づきつつあった」という一文で作品は閉じられる。

 作品研究
    大城立裕「亀甲墓 実験方言をもつある風土記」で描かれている戦争物語。

    はじめに
 著者大城立裕は、1925年中城村に生まれる。1941年16歳の時に太平洋戦争が勃発し、徴兵されてからは主に中国共産党資料の翻訳などの任務についていた。実際に沖縄戦に参加したわけではなかった。

 この作品は、ただの戦争文学ではなく、「実験方言をもつある風土記」というサブタイトルにもある通り、沖縄の文化をも描いた作品でもある。今回は、この作品内に描かれている戦争と、文化を読み取っていきたい。

(1) 「亀甲墓」について
 沖縄戦の際、多くの沖縄人が、それぞれ祖先の骨を納めている亀甲墓に避難し、戦禍を逃れようとした。物理的な理由は亀甲墓が防空壕として役立つというものだが、それ以上に、祖先の霊に見守られているという安心感を求めてのことであった。本文中にも、それを表している箇所がある。

「墓はいいど。善春。墓はお元祖の大きな家だ。お元祖が守ってくださる」「これはまったく精神力の保証をつけた要塞であった」
「善徳は、墓の門をくぐったとたんにドロロンをきいたが、その瞬間これらの人格を仰ぎ、偉大な守護の権威を感じ取って安堵したのだった」

 厳しい沖縄戦の最中、祖先と共にいる、守ってもらっているということが、人々の心を支えてくれた。これは沖縄独自の思想である。そこから人々は生きるためのエネルギーを得、沖縄戦を耐え抜いたのだ。

(2) ヤマト同化政策とその崩壊
 琉球処分以降、沖縄では「ヤマト同化政策」がとられていた。方言が禁止され、学校では方言札を用いて子どもたちに共通語を強制していた。学校の教師やいわゆるエリートたちは教養があり、共通語を話す。それが優れているものとされていた。作品の中の「善徳」にも、その政策によってつくられた思想がみられる。善徳は、沖縄の一般的な老人で、普段は沖縄靴りの強い荒っぽいしゃべり方をする。しかし自分のいとこである善賀に対しては、無理な共通語を話す。

「はい先生。あんたらも墓にでありますか。たいへんしましたなあ。」
 善賀は、小学校長を勤めた教養のある人物である。その善賀に対し、慣れない共通語、しかも無理に敬語で話そうとしているので、おかしな文章となっている。戦前・戦後の沖縄の老人は、共通語を話すとき、みなそのような話し方になっていた。

 善徳は、善賀だけではなく、学をもつ者は優れた者であると素直に信じている。
「善徳は、あの男は中学校も二年まで出たとかで、村会議員もしていたし、またこんなときに何の儲けをたくらんでかしらんが、豚の子をかついだりして、なにか常人にはない知恵者であるかもしれんから、明後日敵が上陸するということは、誰からきいたにしろ、たしかであるにちがいない、と考えた」

 その考えは、ヤマト同化対策によってつくられたものだ。他にも、善徳が口にする「名誉ある帝国軍人」「わしたのかわりに戦争をしているお国の兵隊さん」など、ヤマト的な教育を、何の疑いもなく信じている沖縄の姿が見える。

 その、教え込まれてきた価値観が崩壊するのが戦争である。善徳の場合、優れた者と信じてきた善賀の藷盗みを目撃したときに起きる。
「善徳は、おもいもうけなかった背信を前に、雨を忘れて興奮した。(中略)その学問はもはや尊敬に値するものではない」

 沖縄の人々が教えられてきた学問、教育からの背信。このような、同化政策によってつくられた価値観の崩壊は、他の沖縄戦の様々な本でも描かれている。沖縄を守ってくれると教えられてきた日本兵による県民への行為。それは、今まで信じてきたものとは全く違ったものであった。人々は、その教育が単なる同化政策の一環であり、ヤマトに都合の良いように信じこまされてきたことを知る。

 その後、善徳は逃げ出した善賀を追い、艦砲弾によって死んでしまう。しかし、善徳を殺したのは米軍の艦砲弾のみではないと考える。意図的につくられたその価値観によって殺されるのだ。なぜなら、沖縄の人々は親戚同士が親密であり、しかも戦争という非常事態である。いとこが自分の畑から藷を盗もうが、普通それを咎めようと追いかけたりはしないだろう。しかし、「優れた者」である善賀が黙って藷を盗んでいることに、善徳は合点がいかなかった。それで、艦砲弾が飛び交う中、我を忘れて追ってしまう。そのために、善徳は死んでしまうのだ。

 それまで信じてきたものに裏切られ、それによって死んでいく。それは善徳一人ではなく、多くの沖縄の人々の犠牲をも象徴しているように思う。

(3) 戦争によって破壊されるもの
 この作品の中心となるのはウシである。戦争でみなが混乱している中、一番しっかりと
落ち着いているのもウシである。ウシは、沖縄の「土俗的な行事の主祭、伝承者」であり、その思想を誰よりも色濃く持っている。戦争という異常な事態のなかでも、日常の感覚を支えてきた土俗的感性を持ち続けた。ウシ(土俗的思想)を信じることが、皆の心の安定となっている。そして、信じることで、秩序乱れた異常事態の中を生き抜こうとする。しかし、最後の場面では、

「栄太郎はさとった。とうとう大勢やってきた。もう、ウシのところへは帰れないかもしれない。(中略)これらの一切をあずかり知らぬウシが、孫たちといっしょに善徳の遺骸をみつめて誠実な親戚を待ちかねている、その亀甲墓に、火線はゆっくり、しかし確実に近づきつつあった」

と、皆の死を予感させて終わっている。戦争という大きな渦の中での、亀甲墓という小さな砦のはかなさ。物的破壊だけでなく、人々の信仰や文化までをも破壊しつくす戦争の悲惨さが描かれている。

 おわりに
 沖縄戦は、様々な形で小説になっている。しかしこの作品は、サブタイトルからも分かる通り、小説ではなく、「風土記」という位置づけがされている。戦渦の中、生死をかけたぎりぎりのところで暮らす沖縄の人々を描くことで、根底となる沖縄文化を浮き彫りにすることができたのだろう。教育によってつくられた価値観は崩壊しても、ウシの思想だけは最後まで貫き通されていた。沖縄の人々は、信じることで生き抜こうとしたのだ。しかし、戦争は全ての人を区別なく殺し、押しつぶした。その悲惨さが感じられる。

 今回のレポートでは、戦争自体の読み取りが出来ず、薄い内容であった。もう少し深いところまで考えていきたいと思う。

使用テキスト
大城立裕『カクテル・パーティー』より「亀甲墓」1982年11月 (株)理論社
参考文献
岡本恵徳『現代沖縄の文学と思想』1972年5月15日 文芸春秋
里原昭『琉球弧の文学』1991年12月24日 法政大学出版局

10 「野火」(大岡昇平)
                                  MY生(日本文化学科1年)

    あらすじ
    体を患った為、自分自身の軍隊を二度も追放された「私」は、軍隊教育により死の道を選択し、ジャングルの中を進む。死の予感により、エゴイストの固まりとなった同胞や日本軍に支配されたことで恐れと抵抗の目をした現地の者との接触。その中で、「私」は“生への執着”と“気高い自分”との葛藤をくり返していく。その結果“生への執着”ゆえの人が人を喰らうという行為をしてしまった自身の生へ向かって歩もうとしていた生活への執着心の排除、また、人に対する関心と愛の喪失となった。

    批評
    この作品では、一般的な戦争文学で描かれる「戦争」に対する悲しみや怒り、恐れはない。あるのは「私」を中心とした戦争という緊迫した状況下での、人間の“生への執着”ゆえの行動や自己防衛による他人への犠牲、本能的な行為への渇望と軽蔑による葛藤という人間の“闇”である。

    また、「私」は軍隊からの追放による孤独と飢えの中で、自己の姿や意識を見つめ、思索により、一般的な人の規格からはずれた高次な存在として描かれている。しかし、それでも染みついた軍隊や人間としての行動や人間としての結果的な行為が完全な人間性の喪失となった。それはもう高次というよりも、完全な“別”のもの、極端な客観性ではなく、ある種機械のような無機質な存在となっている。

    戦争という緊迫した状況に人間を置くことで、剥ぎ出しにされる人間の本性、動物的本能に対しての、人間ゆえのプライドと羞恥心がリアルに描きだされ、結果、“人間”の麻痺という事態になっている。“戦争”の裏側を、人間の中に強烈に描きだした問題作である。

    感想
    この作品は、ハッキリ言うと、一、二度読んだだけでは到底理解できない作品だ。それほど、内容が深い問題作なのである。人間が“人間”として生を営み続ける限り問われる“生”と“死”を基本テーマとし、葛藤によって“人間存在”の意義を私たち読者に問いかける。

    環境や状況の変化、私たちの意思さえも、私たちが常に渇望し続ける、“高次”の前にはとても微弱で意味のないことなのだ。「私」はある種の“高次”の存在として描かれているが、それが私たちに何か影響を与えるわけではない。全てはまた、“何か”の繰り返しなのである。

    人間の持つ矛盾と、気付かないふりをして渇望し続ける人間の側面を鋭く見つめ、戦争をもちだすことであらわにした、本当の問題作として取り上げ続けていかねばいけない“人間”をテーマにした作品である。

11 『アンネの日記』(アンネ・フランク)
                          SS生(経済学科3年)
 内容紹介
 第2次世界大戦中、ナチスドイツ支配下のオランダ・アムステルダムの「隠れ家」で、ナチスのユダヤ人狩りから逃れるために、人目を避けて暮らしていた少女アンネ・フランクが、13歳から15歳(1942年6月12日〜44年8月1日)の多感な思いをつづった日記。そこには恋への憧れ、大人の世界への批判、未来への希望がみずみずしく描かれていた。

 アンネは1945年3月、連行されたベルゲン・ベンゼン強制収容所にてチフスに罹り、16年の生涯を終えた。彼女の日記は戦後、「隠れ家」の8人の住人のうち唯一人生き残ったアンネの父、オットー・フランクの手によって発表され、世界中の人々に感動を与えた。

  『アンネの日記』は、彼女が自分自身に宛てた手紙のかたちで書き綴ったもの(資料Aと呼ばれている)。戦後発表するつもりでアンネ自身が手を加え、推敲を重ねたもの(資料B)。戦後、アンネの父オットーが発表する際、亡くなった妻や「隠れ家」の同居人たちの名誉を守るため、また当時の情勢に配慮して編集したもの(資料C)の3つが存在する。従来『アンネの日記』と呼ばれていたものは、その中の資料Cにあたるが、今回レポートの対象にする『アンネの日記 完全版』は、資料AとBを元にして再編集したものである。

    従来の『日記』には削られていた、アンネの抱いていた家族や周囲の大人たちへの不満や、思春期の少女としての自然な性への興味などが綴られており、そこには狂気と戦乱の時代を精一杯に生きたアンネ・フランクという少女の等身大の姿が生き生きと描かれている。

    「アンネの日記」
    「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。
 1942年6月12日 アンネ・フランク」

 「アンネの日記」は、ドイツ系ユダヤ人の少女アンネ・フランク(1929〜45年)の、13歳の誕生日である1942年6月12日から、ドイツ秘密警察に連行される3日前にあたる1944年8月1日までの、彼女の日記である。

 日記の書き出しの文面からもわかるように、アンネは自分自身へと宛てた手紙として日記を書き綴っていく。文中の「あなた」というのは、アンネの架空の親友である「キティー」(日記の愛称)のことであるが、日記を読み進めていくうちに、読者はあたかもそれが自分へと宛てられたものであるかのように感じさせられてしまう。この「まるで自分がアンネの相談相手になったかのように錯覚させられること」こそが、この日記の素晴らしい魅力であり、いまなお「アンネの日記」が世界中で愛されている理由の1つかもしれない。

 日記では、その日起こった出来事や社会情勢、「隠れ家」の様子や7人の同居人の人物分析、そしてアンネ自身の思春期の夢と悩みを赤裸々に綴っている。13〜15歳の少女にしては、驚くほど冷静に自己や他人の行動を分析しており、その優れた表現力と鋭い感性には感歎させられるばかりである。また文章も、日々の日記の中で急速に上達していく様子がうかがえる。

 隠れ家の住人のこと、自分たちの生活を支えてくれる大切な人々のこと、そして辛く不自由な生活の中にあるささやかな幸せのことを、ときには不満をこぼしながらも、アンネはいつも前向きな姿勢で物事を受け止めていた。たとえ辛い出来事でも、アンネはユーモアを交えつつ、おもしろおかしく表現している(*1)。

 日記の中に書かれる隠れ家での生活は、快適とは程遠く、不自由極まりないものだった。人の気配がするたびに息を潜め、物音を立てないよう気を付ける。もちろん自由に外に出ることはできず、それどころか月の明るい夜は窓を開けることさえもできなかったようだ。アンネは思春期の、そして人生の最期の2年間を、そんな環境で過ごしていた。
 日記の中のアンネは、将来の夢を描き、年上の少年と恋をし、時に両親や周囲の大人に反発しながら、逞しく健やかに成長していく。特に目を引いたのは、日々の思索の中で徐々に自己を客観化していく、アンネの自我の目覚めと心の成長の過程だった。

 読み始めた当初は、この作品を戦争文学として捉えていたが、読み進めるうちにむしろ、思春期の少女の心情を優れた筆致で綴った日記文学として捉えたほうがよいような気がした。アンネは日記の中で、戦争や差別の悲惨さ、無意味さを繰り返し訴えているが、決して人生を悲観したりせず、暗い現実の中で、常に真っ直ぐ前を見つめて生きている。そこ
には、「一人の自立した人間」(*2)としてのアンネの矜持や、過酷な現実の中でも光り輝く、人間の希望や可能性が感じられた。

 アンネの日記は、1944年8月1日の日付を最後に、唐突に終わる。この3日後、隠れ家はドイツ秘密警察に見つかり、8人は逮捕されたからだ。アンネは姉のマルゴとともに、ベルゲン・ベンゼン強制収容所へと送られた。1945年3月未明、不衛生な環境のため、姉妹ともチフスに感染していたアンネは、姉マルゴの死に遅れること数日、16年の短い人生を終えた。

 日記の中で、あんなにも生き生きと将来の夢や未来の希望を語っていた少女に訪れた残酷な最期は、戦争という行為のみならず、人種主義や偏見、差別といったものの本質的な愚かさを読者に強く訴えかけている。

できれば思春期にこの作品と出会いたかった。読み終わった後は、感動よりも、あとがきに記されていたアンネのあまりに悲惨な最期にショックを受けた。

 戦争やテロリズムが否定されるべき最も根本的な理由は、アンネのような罪も無い人間が、理不尽な死を迎えなければならないことにあるのではないかと強く感じた。

(*1)例えば、日記中の隠れ家について説明するくだりでこういう記述がある。
 『使用言語:文明国の言語なら何でも可──従ってドイツ語は不可』
 また、隠れ家で飼っている猫モッフィー(ドイツ野郎)のネーミングの由来が、近所の猫トミー(イギリス兵の愛称)と喧嘩ばかりしているから、など。
(*2)日記の中盤以降(隠れ家での生活が1年を迎えたあたり)、自分や他人を冷静に見つめられるようになったアンネが何度も文中で繰り返している言葉。

 参考文献
『アンネの日記 完全版』著:アンネ・フランク 訳:深町眞理子 文春文庫
http:『ww.d2.dion.ne.jp/〜nObu51/

戻るトップへ