長崎原爆学習

戦争と平和 平和について 平和と戦争について
平和について2 修学旅行の思い出 平和学習での学び
修学旅行(平和と戦争)について 修学旅行(戦争平和2) 二度と繰り返さないで
修学旅行(戦争と平和3) 修学旅行でわかったこと 戦争と平和を中心に
長崎に行って 原爆 原爆の恐ろしさを学んだこと
長崎 長崎で学んだこと 私のためになった修学旅行
原爆について 沖縄と長崎

戦争と平和(女子)

    一日目は、船で一泊した。翌日目を覚ますと、外はあいにくの雨でした。それでも、到着するのをワクワクしながら、外をながめ、待っていました。

    長崎に到着と共にすぐバスに乗り込み、バスの中で対面式をやりました。新入のバスガイドさんと運転手さんの第一印象は、おもしろそうな人だなということでした。

 この日の天気は悪かったが、それでもおかまいなしというように、目的地の平和公園へと向かいました。

    平和公園で見たものは、高さ約10メートルの男神像でした。神の愛と仏の慈悲を象徴したもので、右手は原爆の脅威をし、のばした左手は平和を表し、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているものでした。

    私は、原爆のあまりもの恐ろしさに震えが体中にきたようでした。そして、二度と起こしてはならないということをつくづく実感しました。

   もう少し歩いた所には、高い石段の上にある平和の母子像が建っていました。この母子像は、見た目は普通の像のように見えましたが、昔の状況を教えてくれているような感じがしました。

   そして私が最も印象深かったのが、平和の泉でした。この平和の泉の近くには、当時9歳だった山口幸子さんの一節が刻み込まれていました。この詩には当時の食糧や、水不足が表れているかのようでした。また「水には油のようなものが一面に浮いていても、水がほしくてたまらなくとうとう飲んでしまった」ということから今では考えられない事が、この時にはあったんだなと思うと涙が出てきてしまいそうでした。

   本当は、これらを見終った後に被爆者体験者の証言を聞く予定だったけど、あいにくの大雨で中止になってしまいました。

 次に向かった場所は国際文化会館で、原爆の資料が展示されていました。そこでは、やけどを負っている親子、足をひきずっている人、ほうたいだらけの人などの写真が展示されていました。それらの写真を見ると共に、もし私が、この原爆地にいたとしたらどんなになるだろうかなと思いました。

    この写真の人達のように苦しみながら死を待つのか、それとも−瞬に気体になって消えてしまうのか。そんなことを思っただけでも、身をひきたくなってしまいそうでした。
今の時代を生きている人達は、この人達のためにも、このようなことをくり返さないために、一日一日を大事にしながら生きてほしいです。

 他の展示物には、衣類や時計、すいとうなどがありました。その衣類などは、とても古くボロボロになっていたのは、時代の流れだなと思いました。それから私が目をそむけてしまったのは足の模型でした。足だけがいくつかボンとおかれているみたいで、とてもつらい気持ちになりました。

    私は、この修学旅行で沖縄で体験できなかったことを、ここではできたのでよい旅になったと思います。また、原爆のあまりにも残酷さに驚きました。このようなことを二度と起こさないためにも、みんなが互いに協力していけたらいいな。そして平和な日々が鹿くように。

◇九州の戦争と平和について(女子)
 
 私たちは、10月28日に四泊五日間の修学旅行で九州へ旅立ちました。
親元を離れ、長崎、熊本、大分、福岡と宿を点々としながら、集団生活を送り、平和公園、雲仙や熊本城、阿蘇山など観光しながら学習し、スペースワールドや大壕公園では思い出をつくりました。

    いろいろな所を見学して感想として残るのはさまざまなものでしたが、一番印象に残ったのは、長崎にいるときに見学した原爆資料館でした。館内には原爆投下後の街の中の様子を写した写真やケガを負った少年の写真が壁にかけられ、変形したビンや、破れた衣服に、体内から取り出されたびんの破片などがガラスごしに展示されていました。

 原爆が長崎に落とされたのは、一九四五年八月九日の十一時二分。原爆資料館には、十一時二分を針指したまま、とまってしまった時計もありました。

    そんな遺品を見て回っているうちに、そういう物から目をそむけたくなり、自分をとりまく空気が重苦しく感じ、今までに思ったことのない複雑な気持ちになりました。

    ガラス越しに見える遺品はどれも戦争のおそろしさや、原爆のおそろしさ、残こくさに、人の死んでゆく姿など、全ての出来事を見てきたせいか、それらを見て回る私は戦争というのを初めて身近に感じ、それと同時に遺品が私に何かをうったえているような感じを受けました。

 資料館を見学する前に、平和公園、爆心地公園を見学しましたが、その時は、「ここに原爆が落とされ、たくさんの人々がぎせいになったんだ。かわいそうに……。だけど自分は戦争なんて知らないから。今までのように何不自由なく育って生きればそれでいいさ。」と他人事のようにとっても軽く簡単に片づけてしまいました。

 ガラスごしに見る遺品はどれも目をそむけたくなるし、あんなふうに変形するとは信じられない。まさに神話の世界にはあっても人間の世界ではありえないという感じでした。資料館を見学し、そういう真実から目をそむけたり、戦争という二文字の言葉を簡単に片づけたりしてはいけないと思い、今まで自分が思っていたことはまちがっていると大きなことに気づきました。 長崎に足をふみ入れ、資料館を見学しなければ戦争を身近に感じ、考えることもできなかっただろうし、戦争というのを軽く簡単に片づけてしまう情け無い人間になっていたかもしれない。

    私達、若い世代にとって戦争とは遠い存在なのかもしれないけれど、体験はなくても戦争の悲惨さ、恐ろしさ、残こくさは知らなければならないと思ったし、もっと戦争と平和について考えていかなければいけないとも思いました。

平和について(女子)

 朝の天気予報で九州は雨になるという情報を得て家を出た私は、学校での検査を終えてバスに乗りこみ九州の遊びに行く予定を話し合いながら、那覇港をあとにし沖縄を出ました。だんだん沖縄の景色はみえなくなり船の周りには、海と空だけが残り、なんとなくさみしく感じました。

 翌日、ゆううつな天気で長崎に到着しました。外の景色は、九州に着いたという感じはなくいい所ではないなあと思いながらバスに乗って平和祈念公園へと向かった。長崎の道路には坂が多く、今にも倒れそうな家も沢山あってそこでびっくりしたのは道路中央からちんちん電車が通っていたのが印象的でした。

 平和祈念公園では、平和や戦争の苦しみを表現した像などがあり、そこで記念写真をとったりしながら資料館に行きました。そこでは、ミサイルの実物やその時使われたものなどがあり、私が心に最も残ったのは、原爆が投下した時間に止まった時計が、長崎の戦争がまあたらしく現されて、それが長崎の戦争の苦しみを背おっているようで、戦争の時の母と子が別れたり兵士達が原爆で死んでいくのが目にうかぶようでした。

 もう一つは、ガラスビンに人の手形がついていて、その手形はまるで私達に助けを求めているような気がしました。その手形は、戦争の悲しみと憎しみがしもんの先までしみついていると思うと、ゾッとしました。

    また、資料館の中にある映写が戦争時代の人々の命を移し出していきました。それを見た私は、この人達はどんな思いでこの世を去ったのだろうか、人々の苦しめる原爆は何のためにつくられたのだろうか、など心に深く残りました。

    戦争と言えば、修学旅行前に勉強したヒロシマ神話といぅ詩で初めは戦争など終わったからこんな詩関係ない面白くないと思っていた私だが、勉強した後の私は、何故この詩をけなしたのだろうと急に心が小さく感じました。一文一字ずつ著者の言いたいことがヒロシマの戦争に思いをこめていて、まるで原爆で焼きつけられた人の影のような詩でした。

    この詩を読み、長崎で資料館に行ったことはとても良かったと思う。私は今まで自分がわがままで、ぜいたくな生活をしていたのだと原爆で亡くなった人達の気持ちも知らないで自分は幸せだと思います。もし私が戦争に出会っていたら、母にわがままばかり言ってすぐに死んでいたと思います。助かっていても思いやりのない自分だけ助かればいいと思っていたのかもしれない。

    私は、このいくつかの体験で人の命のとおとさを、そして戦争の苦しみを知りました。世界平和のシンボル白ハトと戦争のことを理解してほしいと思います。

平和と戦争について(女子)
  
 船を降りると、長崎の街は雨だった。かさをさしての出迎えをうけ、気分のさえないままバスに乗り込んだ。平和公園への移動をしながら、バスの中では一組出会いの式が行われた。平和公園へつくと、みんなは用意していた半透明のカッパをつけ、ガイドさんの後をおった。公園にはすでに、他の旅行団体がきていたが、どの団体も私達と同じように雨へのいい思いはしてないようだった。

    私には私なりの修学旅行の考え方がいくつかあった。その中には、行く先々の見学地では思い出がちゃんと残るようにと、写真をたくさん写す予定だった。だが、雨のために、写真を写すどころかガイドさんについて行くのが精一杯だった。

 公園に入って一番最初に紹介されたのは、平和祈念像≠ニいう大きな男神像だった。
 「高さ約十メートルもある男神像で、制作者の北村西望氏によれば、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、上方を指さした右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を、軽くとじたまぶたは原爆義性者の冥福を祈って
いるといわている。」という説明をうけた。

   次に案内されたのが、平和の泉≠フ前だった。その平和の泉≠ヘ、平和祈念像の真向いにあって「被爆で亡くなった人々は、そのほとんどが水を下さい≠ニいいながら死んでいった。その痛ましい霊に捧げる水である。」ということばを言い、そのあとに当時9歳だった山口幸子さんの文の一節が刻まれているという黒い石をさして、私達に見るようにすすめた。

    その石には、「のどがかわいてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたままのみました。」と書かれていた。

    私はその文を見て、のどがかわいているのにきれいな水はなく、目の前にあるのは、あぶらのようなものが浮いた飲めるような飲めないような水だったなんて、なんて残酷なんだろうと思った。その文の中で、私の頭の中に強く強く印象づいてることばはのみました≠ニかいてあるというのにのんでしまいました≠ニいう言葉にかわってしまう所だった。水を下さい≠ニいいながら死んでいった人々においしくて、きれいな水を飲ませてあげたいと私は思った。

 国際文化会館という建て物での見学は、今建て直しのため、仮設での見学だった。資料館の中には、約八百点の原爆の資料の展示品には、被爆した衣類や被爆者の写其、貨幣、とけたビン、時計などがあった。被爆者の写其をはっきり見たのは、初めてだったので、戦争がこんなにも悲惨で残酷だったというのを強く実感した。

    戦争というと、沖縄戦もその代表的な戦争で、住民約二十万人の人々が犠牲になったといわれている。

 これからの世の中、こんなにたくさんの人々が犠牲になるような戦争がぜったいに二度とおこってはいけない。そのためには、長崎にある平和公園や爆心地公園、国際文化会館(原爆資料館)などのように、平和を強調するようなものをたくさん作って、みんなに戦争と平和をよく知ってもらい、そしていかに平和というものが大切かということをわかってその上で、ぜったいに戦争というものをなくして、世の中が平和一色にそまるよう、努力してほしいと思った。

平和について(女子)
   
    初めての長崎の地。私は心をはずませていました。長崎ではどういう乗り物が走っているのか? どういう建物があるか? などとても楽しみでした。と、いうのも前日は二日中船にゆられてたいくつな時間を送っていたからです。だからよけいに、陸地が恋しかったのでしょう。

    バスにゆられ平和公園につきました。そこには高さ約十メートルの平和祈念像がありました。私の予想していた大きさとは比べものになりませんでした。ガイドさんの話によればこの男神像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているとのことでした。

    次に祈念像の真向いにある平和の泉を見ました。被爆で亡くなった人々のほとんどが「水を下さい」と言いながら死んでいったそうです。その痛ましい霊に捧げる水が平和の泉だそうです。そこには黒い石がありました。それには当時9歳だった山口幸子さんの一文が刻まれていました。

    「のどがかわいてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが、一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたままのみました」

 その文を読んだ時、心がとても痛くなりました。私達がひごろ口にしている水。簡単にすててしまっている水。それぞれがあの人たちにはとても欲しくて欲しくてたまらなかなったのか、私は心の中でそう考えていました。

 他には長崎の鐘などがありました。 次に爆心地公園に行きました。この爆心の標柱の真上五百メートルで原爆が炸裂したとのことでした。私は「ああ、ここで原爆が爆発したのか。一九四五年八月九日十一時二分にあの不幸がここでおこったのか。私はこの時「原爆を落とした人はどういう気持だったのだろうか?」と感じました。

    その後にきいた話ですが、原爆をおとした二人のうち一人の人はノイローゼになったと聞き私は「ああ、この人も人間だったんだなあ。人の心を持っていたんだなあ」と思いました。でも、もう一人の人は自分はあたりまえのことをしたと言っていると聞いてかわいそうになりました。それに、この原爆はただの実験だったと言うのも聞き、とても残念に思いました。原爆によって亡くなった人や原爆によって両親、兄弟、自分の愛する人を失なった人々の事を考えると、胸がいっぱいになりました。

 次に原爆資料館に行きました。そこでは被爆者の遺品が展示されていました。写真や絵や金属品など、でも私が一番印象に残ったものは被爆者のボロボロになった衣類やとけたやかん、女子高生のお弁当に入っていた真っ黒なごはんなどでした。そこでは原爆がおちた後の光景が次々にうかびました。 私は修学旅行での体験では楽しい事ばかり考えていたけど、戦争のことなどがよく分かりとても良かったと思いました。修学旅行の二日目にとてもいいことを学んだと思います。

 原爆が亡くなった人々のためにも、生きている私達がこの戦争の事を忘れずに、世界中が平和になるようにがんばりたいと思いました。

修学旅行の思い出(女子)
 
 十月二十九日、私は気持ちが悪く、ムカムカしている胃をおさえながら船を降り、長崎という地に足をおろしました。船酔いのせいか、揺れるはずのない地面が、ゆらりゆらりと船のように揺れているように感じました。

 それから私達は、一息つく間もなくバスに乗り込み、平和公園へと向いました。
 船旅の疲れからか、バスの中は静まりかえっている。辺をみまわすと、ほとんどの人が、寝ていました。私は寝ずに、生まれて初めてみる長崎をずっと窓越しにみていました。

 ガイドさんが、マイクを持ち、なにやら話をしようとしていました。私は、なんとなく話を聞きました。それは『永井さん』という人の話でした。話の内容は、あまり覚えていませんが、私が聞いたかぎりでの、彼の生き方は、なんとなく悲しいものでした。しかし、素晴らしくもありました。沢山の詩や句を残し、長崎の多くの人に愛されて……。

    けれど永井さんは、原爆のせいで病気になり、亡くなってしまったそうです。永井さんには、子供がいたらしく、その子が学校から帰ってくると、病気で寝たきりの彼の所にきて、彼の頬に、自分の頬をよせて『お父さんのにおいがするよ。』と、言っていたそうです。

 永井さんは、自分が死ぬ前に、『一体、自分が死んだら、この子たちはどうするのだろう。この子達は、この枕やふとんのにおいをかいで、悲しい日々を過ごしていくのだろうか。』と、いう文と、長崎の人々に贈る句を残して、三畳一間の小さな部屋で、一人悲しく亡くなっていった……。と、ガイドさんが語ってくれました。

    丁度その時、バスは、永井さんの博物館と小さな部屋がみえる所まで走っていました。それから四〜五分ぐらいして、平和公園につきました。

    少し歩いた所に、大きな平和祈念像が『ドン』と、座っていました。大きく右手を空に持し、水平に左手を伸ばしていた。これは、右手が原爆の脅威を、左手が平和を祈っているという意味だそうです。

    そして、さらに前へ進むと『平和の泉』があり、その少し向こう側に、原爆資料館がありました。私は、沖縄にもあるような資料館だろうと思っていました。中に入ると、どことなく、沖縄の戦争の資料館とは違っていました。原爆で皮ふをボロボロにされた人や、建物の壁の影だけを残して亡くなった人、その他にもいろいろ刺激的な写真がありました。
私がこの資料館で、最も目についたものは、コーラの瓶が溶けているものと、十一時二分を指して止まっている時計でした。

 私が、その時計をみた時刻も、だいたい十一時二分頃でした。その時は、さすがの私も、背中にゾクッとくるものがありました。今、この瞬間の約四十八〜九年前に、この長崎周辺で、核爆弾がおとされた…。

 街中が炎の海。人間達が、無残にも焼け死ぬ、という光景が、私の頭に浮かんできた。『こわい』ただその一言では、いい表すことができない恐怖感が私の中に入ってきた。しかし、私は、その時の本当の原爆の恐ろしさを、肌で感じたわけではなく、ただ、見て感じただけの気持ちだったので、実際に肌でふれたり、みたり、その場に居た人達の本当の気持ちというのは、私の恐怖感よりも、はるかに恐ろしかったのではないでしょうか。

 この長崎の原爆は一時だけの被害ではなく、その時、その場に居た人々の一生を脅かすものでした。私はその時、永井さんのことを思い出しました。永井さんも、原爆被害者。原爆が落ちた為に病気になり、家族とも別れてしまった。私は、その時、原爆を恨みました。被害を受けたのは、永井さん達だけでなく、多くの家族が、永井さん達と同じ被害を受けて、死別している。それも意味もなく……。

 私は、長崎へ来て改めて思い直しました。「戦争は、しちゃいけない。起こしちゃいけない。」それに、戦争の被害を受けたのは、沖縄だけじゃなく、広島も長崎も、戦争の被害を受けている。その恐しさを世界中の人々は知っている。もう、二度とこんなむごい戦争は、おこしたくない。おこさない。

平和学習での学び(女子)
 
 最初で最後の修学旅行。中学校に入り二年と六カ月待ってやっとこの日を迎えた。私は中学校生活の最大の思い出を作ろうと心をはずませていた。

 「いってらっしやい」の言葉を後に学校を出た私達は四泊五日の旅へと出発した。一日目の今日は、明日まで一泊船の中という予定で、あまり体験しないことだけに、とても不安げな顔を隠しきれず船よいの薬をにぎりしめるばかりだった。

 船が進み、航跡が消えると同時に沖縄も小さくなっていく。それを見ていくうちに、不安な気持ちと、これからの期待との気持ちとが重なり、何だか憂うつな気分だった。

 二日目の朝、周囲のひそかな声と、かすかな船の揺れで目が覚めた。すぐに、窓から外をうかがうとかすかに島が見える。その時、思いもよらないうれしさがわき上がってきた。それから数時間後、船は長崎港に着いた。あいにく天候は悪く雨が降っていた。船から長崎の地をふみしめた瞬間、本でも見たこの島でおこったあの悲劇の日のことが頭に浮かんできた。心は曇ったまま、バスガイドさん達との対面式も天候の都合上、バスの中で行われながら、目的地へと走り出した。

 十時三十分、平和公園到着、皆、カッパをかぶり外へ出た。降り続く雨はまるで、原爆で亡くなられた人達の涙のようにも思えた。

 まず最初に私達を迎えいれてくれたのは高さ約十メートルにもおよぶ平和祈念像だった。その男神像は上方と水平に手を伸ばしていた。それには、上方を指した右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているという意味があるらしく、本当にあの日のことを忘れてはいけないと心に言葉を刻みながらこの場を去っていった。

 そして進み進み着いたのは、平和の泉という所、そこには噴水が噴き出ていた。それには、被爆で望みの水が飲めないままに亡くなった痛ましい霊に捧げる水として今日もここにあり、前面の黒い石には、「のどがかわいてたまらなく、油のようなものが浮いていたが飲んでしまった。」という当時九歳だった少女の詩の一節が刻まれていた。今では考えられない悲惨な光景が頭に浮かぶような文だった。

 泉を後に、当時の資料が展示されている国際文化会館にむかった。少し歩いて、いよいよ中を見学。一組、二組と入っていく。静まりかえっているそこには、被爆したボロボロの衣類、あの時から止まったままの時計、石に埋めこまれたようなビンの破片、体に大焼けどを負った人々の写真など、当時のありさまを彷彿させるような物などがたくさん展示されていた。それを見て自然に瞳に涙を浮かべるのが普通なのかもしれない。

    このことからも、世界中に知れ渡った長崎と広島の、恐ろしい原爆投下について、私達が忘れることなく、意識することにより、この地球から核兵器をなくす考えにつながると、強く感じられた。

    沖縄でも、地上戦というアメリカ軍からの攻撃により、何十万というたくさんの人々が亡くなった。それもあの「戦争」という二文字からおこった人間の悪意からだった。それを知らない時代に生まれた私達、本当に平和なのか、今でも世界のどこかで戦争をしているのかもしれない。

    いつ、どうやったら、本当の争いのない平和な世界が訪れるのだろうか。それは人々が、清らかな心を持ち、人を信じ合い、争いをおこさないように解決でき、子孫に、これまでの歴史を言い聞かせていくことにより、戦争で命を奪われた人々への償いであり、平和な素晴らしい世界を築くく鍵になるのかもしれない。

    修学旅行を通して長崎の一泊で、幸せという文字に格別な気持ちを抱き、平和という大きな重荷をかつぎ出したような気がする。

修学旅行(平和と戦争)について(女子)
   
 「胸がしめつけられる……。」初めに感じた印象がそうでした。資料を見ながら何度も立ちどまり、目をそむけてしまいそうな残酷な写真が次々に私の中へ入ってきました。

 人間同士が血で手を汚しても何も感じなくなり、まるで何かに乗りうつられたかのようにつっ走っていく……。とても人間がやっているとは思えないはどでした。

 お年寄りや女性、子供、体の不自由な人、関係のない人々まで巻きこんだ戦争は、とどまるところをしらず、家や田畑や道路、ところかまわず爆弾が落とされ、穴だらけになっているのが目につきました。

 爆弾のせいで、体に大きなヤケドを負っている人や、手足を失ってしまっている人、焼けてしまった人など被害はとても大きく悲惨なものでした。

 特に私がひどいと思ったのは、母親と子供がまっ黒くこけ道路に横たわっている写真を見たときでした。その写真を見たとき、怒りと悲しみで頭の中がいっぱいになり、こんなに簡単に人の命をうばってしまう戦争の恐ろしさに改めて実感させられた気になりました。

 ここで考えたのが「戦争」でした。「戦争は恐ろしい」とか「戦争はこわい」など、自分でも使ったりするけれど「戦争」というのは、最終的には人間の弱さや欲望、憎しみ、その他多くのことが大きなかたまりのようなものになって、人々におそいかかってきたものじゃないかと思います。

 だから、あの時代には心の貧しい人が多く、「戦争」という形でそれを表していたんだと思います。

 修学旅行のときに訪れた平和記念公園で山口仙二さんという被爆体験者のお話を聞きました。仙二さんはこの戦争のせいで体に「ケロイド」という大ヤケドの後に肌がただれ、それが後遺症として残ってしまうという病気になりました。

    仙二さんは二十年もかけてケロイドを直し、今ではちゃんとしゃべれるようになったと言います。そして戦争を二度と起こさず、その恐ろしさを忘れないために私たち若い世代の人達に戦争について語ってくれたり、国内だけではなく外国の方へも講演会を開いているようです。

    仙二さんのように、日夜戦争撲滅のために頑張っている人達がいるのにもかかわらず、世界ではまだ内乱・内戦をくり返している国もあります。誰もがいけないことだとわかっていてもそれを止めることができないのが私にはとても歯がゆくてしょうがありません。

 私は戦争を休験していないので、写真や映画などを見て想像することしかできません。本当の恐ろしさを知らないい私たちにとって唯一できることは、二度と「戦争」という言葉がでてくる時代をつくらないようにすることだと思います。

 けれど現実では、技術が進歩し核兵器という恐ろしい武器までもを私達人間はつくってしまいました。まるで自分で自分の首をしめる形になってしまった人間は、動物の中では知能が高いとされていますが、こういう時、結局は自分を苦しめてしまうことになってしまう、これはどおろかな動物はいないと思いました。

 しかし、それは人間の弱さを表しているのでこれからの時代は後先のことも考えながら、ある意味では国民の意見も受け入れ、独自の国だけでなく、世界全体が良くなるように努めてほしいと思いました。

 戦争を知らない私たちだからこそ平和で住みやすい環境も知っているので、それを絶やすことのないようにこれからの目標として頑張っていきたいと思います。

 修学旅行を終えて、長崎を初めて訪れて、また新たに戦争について考えることができ、いい経験になって良かったと思うし、またそのことを忘れずに、これからも平和で暮らしやすい社会にするように努力しようと考えました。

修学旅行(戦争と平和)(男子)
   
 修学旅行が始まって二日目の朝、船の中で目覚めたぼくは、吐き気と頭痛でなんとも言えなかった。

 それから四時間後、長崎市内が見えてきた。船の中から外に出てみると沖縄では感じられない寒さを感じました。

    長崎港に到着してからバスの運転手とガイドさんとの対面式をした後、平和公園へとバスに乗って向かいました。平和公園に行く途中、長崎市内の道路の真ん中を「ちんちん電車」が、古ぼけた石畳の上を走っていることにまずびっくりさせられた。そして、江戸時代の貿易港として栄えた出島の一部を見ることができた。

    平和公園についてから最初に目を引かれたのは、高さ十メートル位の男神像でこの像は神の愛と仏の慈悲を象徴とした像で、高く上を指した右手は原爆の恐ろしさを、水平にのばした左手は平和を願っている。また、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているという男神像だった。

    次に見学したのは「平和の泉」で、被爆で亡くなった人々のほとんどが「水を下さい」と言いながら死んで行ったというのをぼくは広島を舞台にした「はだしのケン」を見たことかあったので、それはよく知っていました。この「平和の泉」の水は被爆で亡くなった人々に捧げる水であることが分かった。この石碑を作った、当時九歳だった山口幸子さんの「喉が乾いてたまりませんでした。水には油のような物が一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて‥‥‥。」という感情のこもった文の一節がこの石碑に刻まれているのを見た後、当時の被爆で亡くなった人々の苦しみがその石碑から伝わって来ました。

    更に、「爆心の標柱」についての説明を聞きました。あの原爆を落としたアメリカ軍兵の気持ちが僕には知れません。その原爆をこの標柱の真上の五百メートルで炸裂したと言っていました。

 また、その隣りの奥にあった爆風によってにょろ曲がった鉄鋼でできた物で、このことから原爆の恐ろしさ、悲惨さ、苦しさをまた思いしらされました。

    平和公園から歩いて数分の所にあった原爆資料館へ足を運びそこには約八百点ものの原爆の資料が展示されていて被爆によって亡くなった人々の衣類や文具品、証明書、ビラ、貨弊、家事道具、時計、楽器、岩石、瓦、金属類、植物、報告書類、模型、写真、絵、アルバムのほか、二階、三階には原爆投下のいきさつ、被害状況、人体への影響の資料とともに写真や実物が展示されてあって平和公園で想像した以上だった。でも沖縄でも戦争があったけれど、原爆を落とされなかっただけでも幸福だと僕は思う。

 あの原爆によって命を失なった人は約七万四千人、けがをした人約七万五千人、そして原爆には三つのやっかいな点がある。それは熱、爆風、放射線などで熱によっては、やけどやケロイド、爆風によっては断裂による傷害、放射線による被害は男女関係なく髪の毛が抜けてくる病気があって、今でもやけどによってめちゃくちゃにされた顔でも生きている人々はとてもすごいなあと僕は思います。もし、僕があんな顔になってしまったとしたら生活する上での希望も夢も失なって、自殺を試みると思います。

    このやけどした顔は治すことはできるけれど、時間の問題だと僕達に「爆心の標柱」の前で戦争の恐ろしさ、悲惨さ、苦しさを詳しく説明してくれた山口仙二さんも原爆の恐ろしさを経験した一人でした。

 今でも戦争をしている国があるけれど地球という一つの惑星に住んでいながらも争っている国は、我らの惑星を破壊していることにすぎないと僕は思う。同じ地球で生きているのならば尊重し合い、助け合い、協力しあって行くのが本当の生き方だと僕は思います。

修学旅行(二度と繰り返さないで)(女子)
   
 高さ約十メートルの大きな男神像を見て、思わず(すごい)と声が出ました。上方を指さした右手は原爆の脅威を水平にのばした左手は平和を、そして軽くとじたまぶたは原爆犠性者の冥福を祈っているといわれています。

 私は、この像を見て平和を願う気持ちがとても大きいことがわかりました。今までは、平和が大切だと言葉だけでそう思い戦争の恐ろしさや平和についてあまり理解していませんでした。だから、証言者の話を聞いたり、国際文化会館を見学したりしてわかったことがたくさんありました。

 爆心地公園で聞いた証言者の話では、体が蒸発してしまうくらいすごい熱風だったそうです。爆弾が炸裂し目玉がとび出したり、妊娠中のお母さんのお腹が破裂し、赤ちゃんもそのまま死んでしまったり、爆風でとんできた瓦などで首が切られたりしたそうです。 また、証言者の山口さんは皮膚がとけ、耳と肩がくっついてしまって、それを治すのに三十年ぐらいかかったそうです。私はこの話を聞いてとても信じられない気持ちとむごさでいっぱいでした。

 でも、この話よりももっと恐ろしかったのが、国際文化会館の資料や展示物でした。黒こげになった子供の姿や、大焼けどをして皮膚がどろどろにとけている様子が生々しく写っていました。また、被爆した衣類が半分以上とけて残っていたり、岩石がどろどろにとけ変形したりしたものなどがあり、見ていて怖くなりました。また、被爆者の資料の一文に次のようなことが書かれていました。

   (私はモルモットではない。もちろん見せ物でもない。だが、私の姿を見てしまったあなたは、どうか目をそむけないでもう一度見てほしい。私は、じっと私達を見っめるあなたの目の厳しさ、暖かさを信じたい。)と。私は、この文を読んで被爆者の苦しさや、辛さが感じられました。

    恐ろしい原爆にあいながらも奇蹟的に生き延びた被爆者たちは、今もその後遺症を引きずって生きています。そして、周りからは目をそむけられ、白い目で見られ精神的にも傷ついていると思いました。でも、もし私が長崎の平和公園に来ていなかったら、同じように目をそむけていたと思います。

 被爆者たちは、これからも原爆の後遺症を抱えながら生きていくと思います。私達は、その姿から目をそむけず、いたわる気持ちと原爆に対する怒りの気持ちで見つめ、原爆、戦争のむごさと恐ろしさを忘れてはいけないと思いました。

 また、平和公園や爆心地公園にはたくさんの像や記念碑などが建てられています。爆心の標柱や平和を祈る子の像、平和の母子像、平和の泉など原爆犠牲者の冥福を祈ったものや、二度と戦争を起こさないように願ったものなどがありました。

    多くの人々が戦争の恐ろしさを忘れないようにと協力して建てたものだと思います。私は、その心が大切だと思います。一人では何もできないと思うから、多くの人々が戦争や原爆の恐ろしさ、残酷さを次の世代へと伝え平和を守り続けなければならないと思います。

 私は、修学旅行でいろいろなことを体験し、大切なことをたくさん学びました。戦争、原爆の恐ろしさや被爆者の心身の傷など、原爆の地である長崎でしか学べないことを体験できてよかったと思います。

 どうして戦争が起こってしまったのかと考えてしまいます。でも起こってしまった事実は隠せないと思うから、私達はそのすべてを知るべきだと思います。二度と同じ誤ちを繰り返さないように、平和を守り続けていくために真実を知ることは大切だと思います。そして、私達は戦争を体験していないことを幸福に思わなければいけないと思います。そして、この戦争のない幸福と、被爆者たちから学んだ戦争の恐ろしさを忘れず、みんなで命の尊さと平和を願うことが大切だと思いました。

修学旅行 (戦争と平和)(男子)
 
    一九九二年、十月二九日木曜日、遂に、待った修学旅行がやって来た。学校に九時半に集まり、校長先生の長い話のあった出発式をやって後、バスに乗って、安謝港に向かった。いく途中バスの中で、修学旅行の豊富、それぞれ言った。そうこうしているうちに、安謝新港に着き、エメラルド沖縄にのった。これから修学旅行が始まるかと思うと、うきうきしてきた。

 僕達は、二日目、十月三十日金曜日、長崎港に着き平和公園に、向かう事になった。平和公園とは、一九四五年八月九日に落とされた、原子爆弾のむごたらしさを世に伝えるため、又、平和への誓いを新たにして建てられた約五百本の桜の木が植えられている緑いっぱいの公園で、毎年八月九日の原爆投下の日には、平和祈念式典が行われ、多くの人が集まり、犠牲者の慰霊祭が行われるそうです。

    そこでは、じかに原子爆弾の被害を受けた山口さんの証言を聞きました。その内容は実に、むごたらしいもので、爆風によって飛んだ、かわらによって、首が切れた人や、爆熱によって体のそこらじゅうがとけてしまった人、現に証言をしてくれた山口さんも、体にやけどを負い、何回もの手術を受け、やっと普通の皮膚に戻ったという事だった。

    又、山口さん以外にも、原爆の放射能により何万という人が、原爆投下から、四五年以上たった今も苦しんでいるという事だった。

    山口さんが、話をしてくれたそのすぐ後ろには九・七メートルある平和を誓ったブロンズ像がたっていてそこにはたくさんの花束があった。
私たちは、山口さんの話によって改めて平和の大切さ又、原爆の恐ろしさを考えさせられた。山口さんの話が終わると、生徒代表で上地さんが戦争のむごたらしさ、核の恐ろしさ、平和への誓いを言ってくれた。それから、国際文化会館を見学しに行った。

 そこは、高層ビルのような所で、僕達は最上階から一階まで順に見ていった。そこでは、山口さんの話によって、ある程度予想されたものの、それの上を行くような、たまにはその写真から、すぐ離れたくなるようなものもあった。

    又、他にも様々な物があり、原爆によって放出された熱によってとけた茶わんや、ぼろぼろになった服、その中でも一番記憶に残っているのは、原爆投下時刻、十一時二分を指してそのまま止まってしまった時計だった。いろいろ展示されているものを見ていくうちに、段々と気が重くなり体がだるくなってきた。長崎市に住んでいたということだけで、命を失なってしまった人たち、二十歳以上だというだけで戦争に行き、空に、海に、陸に散っていった人達、運が悪いというだけでは片づけられないと思う。戦争″という一語だけで、僕の脳裏にはいろいろな言葉が、映像が出てくる。多分、僕の浅い人生の中では、その二語だけでいろいろな言葉が出てくるナンバーワンだろう。

    むごたらしさ、さびしさ、悲しさ、悲惨さ、出てくる言葉がつきない。もし今二百人乗った飛行機がつい落したら、マスコミがすぐ取り上げ、あっという間に日本中に知れわたるだろう。しかし、戦争では、核兵器では、それとは比べようもないような人達が死んでいったんだ。それとは比べようもない人達が悲しんだ。傷ついたと思うと、本当に平和のありがたさが、身に心にしみる。

 ワンパターンのような最後になるが、戦争は二度と起こしてはいけない。核兵器を減少させなければならないと思う。地球上にいるあらゆる生物のため、それは、確立させなければならないと思う。それは、自分達のためでもあるのだから……。

修学旅行でわかったこと(女子)
   
 十月三十日、私達は長い船旅を終え、長崎へと入った。その頃はまだ、船から開放された事と、これから始まる九州の旅への期待ではしゃいでいた。四十数年前、その土地で地嶽絵図が繰り広げられた事など知らずに……。

 私達はそこからバスで、最初の目的地である平和祈念公園へと向かった。道々、ガイドさんが原爆のことについて説明してくれていたのだが、実を言うと私は、聞く耳を持っていなかった。事前学習や、平和についての勉強だけで長崎の原爆を「知っている」と思い込んでいたのだ。そして、原爆と沖縄戦を比べ、「沖縄でも日本で唯一白兵戦がおこなわれ、悲惨だったはずなのに、何故長崎や広島だけが大きく取り上げられるのだろう?」などと思っていた。今思えば、それは無知ゆえの愚かさだったのだ。

 平和公園に着くとまず、天をも制するような巨大な像が私達を迎えてくれた。沖縄にも同じような像があるのに長崎の祈念像に圧倒されたのはきっと、天空を己のものとして雄大に座されていたからなのだろう。

 天を指し、地を制し、立ち上がろうとする様は、その白い肌と青い空と共に、平和をイメージさせられた。

 そこで、他の像や、碑や、水を見たが、どれもみな美しく明るいイメージがした。純粋さというか、透明感というか……。私は、黒みかげ石の前に立つまで、そこらにある芸術品と、水と、緑と、空気の美しさを満喫していた。そんな美の凝縮されたような所から一転して、ほとんど何もない、砂利の敷きつめられた場所に、あの黒みかげの標石があった。

 そこは、前ほどのような神々しさが感じられず、ひっそりと、陰鬱でさえあった。そして、その中に立つ、墓石のような黒い石。聞けばあの真上で原子爆弾が炸裂したという。ああ、それでかと、妙に納得してしまった。

 そこで山口さんのお話しを聞いたのだが、その内容は私の想像を絶するものだった。

 目を射る光、体をも蒸発させてしまう熱、爆風とは呼べないほどの凄い風、そして極めつけの厄介者、放射能……。

 聞けば聞くほど恐怖が襲ってくる。しかしそれは類似体験までも行かぬものなのだ。聞いていても、頭の何処かで現在を視ている。聴いているのだ。心の何処かで、過ぎ去った、半世紀の前の事だと認めているのだ……。

 話はもちろん恐ろしかった。けれど、過去を否定する自分もまた、恐ろしかった。過去の出来事に衣をかぶせ、人はまた、こうして戦いをはじめるのか、と。

 目を覆う自分は、資料館でもまた、現れた。資料館には、みかげの標石よりも重苦しい、暗い空気がただよっていた。

 被爆時刻を示したまま止まってしまった時計、赤茶けてかたまってしまった上、飛んでいった瓦、そして、被爆者の写真、死体、生ける屍。それらの物一切から、私は目を反けた。見るのは嫌だった。否定したい史実を目の前につきつけられたようで。本当に起こった事なのだと認めざるを得なくなるのが怖くて。

 私は、歴史が好きだ。歴史上の物事に想像力を張りめぐらせ、その時実際に使われたものを見て楽しむのが好きだ。そんな中には、多くの人の血がぬられている場合もある。
人の歩んできた道には戦いが、争いが絶えたなかった。しかし、長崎や広島は、それらの血とは根本的に違うのだ。言うならば、大量虐殺。人類の犯した、最大のまちがい。

 目を反けた時、これは現実逃避だろうか、と思った。実際、そうなのだろう。建物の外の平和を肌で感じれば、それも仕方ないのかもしれない。けれど、そう思う反面、それではいけないとも思っていた。人類のあやまちをこの目で見る。現実をしっかり受け取め、立ち向かっていなかくては。

 長崎に行ってはじめて、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガナキ」の意味がわかったような気がした。

 戦いと虐殺は違う。戦いとは、己と相手を同等に考えながらやるものだ。武器を持たない民間人を巻き込む戦いに、何の価値があるのだろう?

 そして、命というのは数ではない。原爆で、多くの人間が死んだ。それを、数だけで表してはならないのだ。命には、はかり知れない重みがある。人一人で、たった一人の命を背負っていくことができないくらいの。簡単に奪えるはずがないのだ。たとえ、いっぱいの中の一つであっても、それには何十年の生と、何物にも変えがたい価値が、あるのだから…。       
修学旅行−平和と戦争を中心に(女子)
   
 やっと長崎に着きました。長崎に着くと運転手さんとガイドさんとの対面式がありました。私達の運転手さんとガイドさんはとてもやさしくおもしろい人でした。対面式を終えてバスに乗り平和公園に向かいました。バスの中から見る長崎はとてもきれいでした。 沖縄とはみんな家の形がちがっていてなんだかお城みたいな家がたくさんありました。私はめずらしくて今でもはっきり覚えています。

    長崎はこんなにきれいなのに昔はここに原爆が落とされたということを聞くと信じられませんでした。

    平和公園では本当にここに原爆が落ちたのというぐらいとても静かな雰囲気でした。ところどころにハトがいて、とてもきれいでした。

    平和祈念像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、上方をゆびさした右手は原爆へのいかりを、水平にのばした左手は平和を、軽くとじたままのまぶたは原爆犠牲者の死後のしあわせを祈っているそうです。

 平和祈念像のむかいに平和の泉があります。今ではあんなきれいな水がたくさん流れているけれど、昔はどうしても水の欲しさにたまらなくなりあぶらの浮いたまま飲んだということが石にかかれていました。平和の泉ほ被爆で亡くなった人々そのほとんどが「水を下さい」と言いながら死んでいったその霊に捧げる水だそうです。私はなんとなく飲んでいる水だけど平和の泉のことを聞くと水のありがたさがわかります。

 爆心地公園で被爆体験者の山口仙二さんの話を聞きました。山口さんは戦争の犠牲者です。それは戦争のせいで耳が変形していました。それに首の手術を三十年間で十三回うけてやっとまっすぐな首になったそうです。

    この話をしていた山口さんの顔はとても悲しそうでした。私は山口さんの話をきいていると戦争のおそろしさが伝わってきました。そのとき私は二度と戦争がおこらないようにと思いました。

 話を聞き終えて国tlt;賓文化会館にいきました。国際文化会館にはいろいろ原爆の資料がたくさん展示されていました。壁にたくさんの写真がいっぱいはられていました。まっ黒にこげた体や熱によって皮膚がとけている人の写真をみていると私にはなかに助けを求めているように思えました。

   資料は写真だけでなく当時の遺品もありました。私が一番印象に残った遺品は衣服です。色が黒っぼくて上からはおるものでした。生地もところどころ破れていました。私は自分かむだ使いしているように思えました。それはあきたらすぐ買うからです。私は物をもっと大切にしようと思いました。

 私は修学旅行でたくさんのことを学びました。戦争のおそろしさ、原爆のせいで七万三千八百八十四人が亡くなってしまったこと。七万四千九百九人が、けがをしてしまったこと。今でも戦争の犠牲者がいること。私はずっと平和であって二度と戦争が起こらないような日が永遠に続くように願いたいのです。

◇ 長崎に行って(3年女子) 

 修学旅行の一日目、長崎へ行きました。長崎は、今から五十一年前の戦争で原爆が落とされた所で、どんな所なんだろう、と、ずっと思っていたけど、実際そこへ来てみると、思っていたよりにぎやかで、びっくりしました。

   バスの中から、歩道を歩いているお年寄りを見ると、「この人たちは、戦争でつらい思いをしてきたんだろうな。」「原爆が落とされた時、どんなことが起こって、どんな風になったんだろうな。」と思っていたら、私は、長崎の原爆について、少しは知っていたつもりでも、全く知らなかったことに気づいて、少しはずかしくなりました。でも、長崎原爆資料館などを見て原爆のことがわかりました。わかったことを一言で言うと、恐しい、ということです。

 長崎に来て、一番印象に残ったのは、永野さんの話と、長崎原爆資料館です。

 永野さんの話は、戦争のために畑や工場へ派遣され、着る物、食べる物すべてが配給されたものだったこと、あのことは、一生忘れない、ということなど、沖縄でも聞いたことのある、少し似た話だったけど、決定的に違うところは、沖縄は、地上戦があったり、自決をして死んでいった人がいて、長崎では、一瞬にして、多くの人たちの命をうばったというところだと思います。

   一瞬にして、家が焼かれ、物がこわれ、命がなくなって、本当にこわいと思いました。原爆資料館を見学して、「一瞬キラツと光った光」が、何で人やものをこんな無様な、姿や形にしまったのだろうか、と思いました。原爆が落ちる一秒前までは、戦争中ではあったけど、幸せな生活をしていた人も沢山いると思います。それなのに、勝手に始まった戦争のために関係のない一般市民が巻き添えをくわなければいけないのか、と思いました。

 今でも、原爆症になやまされる人はいると聞いたことがあるし、沖縄でも今、米軍基地の問題など、様々な問題が起こった五一年前の過ち。それは、世界中で最大の過ちであり、世界中の人々が考え直さなければいけない過ちだったと思います。世界中の人々が、「平和」という文字に耳を傾けて、「平和」について考えてほしいと思います。

◇ 原 爆 (3年・女子) 

 十一月十二日、私たち三和中三年生の、修学旅行が始まった。まだ初日なので、福岡にいる気がしなかった。
 この日、私が一番印象深かったのは、長崎で原爆の被害にあった方の、話を聞いたり、原爆資料館を見学したことだ。

 まず始めに、長崎市になる平和公園に向った。私がこごで印象に残ったのが二つある。一つめは、高さが約十メートルもあるという平和祈念像だ。制作者の北村西望によれば、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、上方を指差した右手は原爆の脅威を指しめ、水平にのばした左手は平和を祈り、軽く閉じたまぶたは、原爆犠牲者の冥福を祈っているのだそうだ。私は、このことをまだ知らなかったとき、なんでこの像は目を閉じているのか、なんで指を空に向けてるのかなど、疑問に思っていた。それに、まさかこんなに深い意味が込められているとも思わなかった。

   そしてもう一つは、平和の泉だ。これは単に、噴水に名前をつけただけだろうと思っていたけど、全然違っていた。被爆で亡くなった人々のほとんどが、「水をください」と言いながら死んでいったので、その痛ましい霊に捧げた水なのだそうだ。この公園にあるほとんどが、ちゃんと意味が込められていて、本当に平和を願い作られ、表現されたのを見て、とてもすごいなあと思った。

 次の原爆資料館で、一瞬、目が止まってしまったのがあった。それは柱時計だ。長崎に原爆が落とされた時刻のちょぅど一一時二分に時計の針が止まっていたからだ。これはきっと、爆風によるものだと思う。原爆はこれ以外にも、爆風で家を飛ばしたり、熱線で燃える物全てを焼きつくし、放射能によって脱毛する人がいたりしたそうだ。原爆はいろいろな影響をおよぼしたが、特に熱線が一番怖いなあと思った。なぜかというと、最低温度でも七千から八千はあるというのだからだ。これにより、骨も残らずに亡くなった人もいるそうだ。亡くなった人は七万四千人、けがをした人は七万五千人で、とても多く、毎年二、三千名の人々が今でも原爆の影響で亡くなっているそうだ。

   昔の原爆でもこれくらいの被害がでているというのに、最近の物は地球を滅すくらいの力があるようだ。原爆なんてなければいいのに…。何のために作られているのかよく分からない…。

 私たちは被爆者の永野えつ子さんの話を聞くことができた。永野さんは被爆当時一六歳で、女学校二年の時に工場などに派遣されたそうだ。一六歳というと私たちと同じくらいの年なのに、働いたりしてとても大変だと思った。しかも原爆が落とされた時、空襲警報ではなく、警戒警報になっていて、長野さんはその工場にいたそうです。だから家族と離れ離れになり、家も失い、頭が混乱している時に、父親と会うことができ、二人とも無事を喜んでいる時に弟と会えた。弟は全身にやけどをおっていて、とても歩ける状態ではなかったようだ。医者に連れて行こうにも行けないので、雨戸を拾ってきて、これに弟を乗せて運んだようだ。そして弟は九才の幼さで亡くなった。九月一〇日、妹も亡くなった。

 やっぱり戦争は怖いものだ。年齢や性別、何にも関係なく、人を殺していくものだから。戦争をすると、勝っても負けても嫌なものが残るだけだと思う。今まで戦争してきた国で戦争をしてよかったと思ってる国はあるだろうか。特に日本は、唯一、原爆が落とされた国なので、戦争の苦しみを知っている。だから、これ以上、世界中で戦争をおこさないで欲しい。

◇ 原爆の恐ろしさで学んだ事 (3年・女子)
     
 図書館で本を読んだりはしたものの、あんなにとても恐ろしいものとは考えてもみていませんでした。でも、原爆資料館へ行ってみると、私が思っていた以上に、恐ろしい被害や、おそろしさを体験しなくても身にしみてかんじていました。

   私達が歴史で勉強した日中戦争や太平洋戦が関係していた事や、原爆がなぜ長崎に投下されたのかなど、知ることのできない事も知りました。被爆者の訴えなどを読んでいると文にも悲しさがあふれでていました。原爆の被害でとても怖いと思ったのは、放射能です。最近も、核兵器の事をいろいろニュースできくので、私は将来はどうなっていくのだろうと心配になったりもしました。

 そして、平和祈念像の前に立つと、あまりの大きさにびっくりして圧倒されてしまいました。最初は、この像がなんで、天を指さして、なぜ手を水平に伸ばしているのか、不思議だったけど、来る人々に、あの像の安らかな顔や、この姿が、ここを訪れる人々の心に何か大切な事を訴えていっているような気がしました。そして、世界に平和が来る時をずーっと見守っているんだと思います。

 私の班のみんなで旅行の事前学習で書いた新聞に、平和の泉のことが書かれてあり、私がとてもショックを受けた文がありました。

 「どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらのういたままのみました。」
 今の平和で豊かな時代に生まれた私には、衝撃的な文だったのです。でも、原爆で、熱くて熱くてどうしようもなくて、ただ生きるために本人は一生けん命だったのだろうと思います。私も、こんな状態にあったら、あぶらの浮いている水を飲んでいると思います。生きるためにはしかたがないと思う。そして、旅行で、この文が書いてある平和の泉を訪れて、私は、二回くらいこの文を読みました。

 被爆者の体験した事も聞いた。今のように白いご飯が食べられなかったことや原爆の様子などいろいろ平和へ対する知識などが身についたような気がします。永野さんは自分の弟を原爆で亡くし、死体を確認するとき、その弟の変わりはてた姿を見て、本当に自分の弟とは信じきれなかったそうです。私なら、死んでいると思いたくもないし、絶対に生きていることを信じてると思います。でも、あの死んでいると思ってあたり前の原爆を体験し、今も生きている人達はすごいと思います。特に、永野さんたちのような、実際に体験したことを人に語る人達は本当は思い出したくもないと思うのにえらいなあと思います。そして原爆で無残にも死んでいった多くの人々のためにも、語り継いで、人々に忘れさせないことも、今、生きている人々の使命だと私は思います。平和な時代に生まれたことに感謝して、この平和を維持して、次の世代へ受けついでいきたいと思います。

 長崎 (3年・男子)     

 長崎の平和公園を、修学旅行の一番初めに見学しました。
 平和公園に入って最初に日に入ってきたのは、大きな平和祈念像でした。上を指した右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているそうです。沖縄の摩文仁にも、平和祈念像があるので、特に、沖縄や、長崎など、こういう悲劇がおこった所では、ほかの所より、「戦争をやってはいけない」という思いが特に強いんじゃないかなあと思いました。

 公園内には、他にも、「長崎の鐘」や、「平和を祈る女の子の像」など、いろいろな石碑や建物がありました。なかでも、被爆で亡くなった人々の、そのほとんどが「水をください」と言いながら死んでいき、その痛ましい霊に捧げる水。という意味で造られたという、「平和の泉」が、とても印象に残りました。

 長崎の原爆資料館に入る前に、原爆の被爆者の永野えつこさんの証言を聞きました。永野さんは、当時一六歳で、父、母、弟と家族四人だったそうです。

 永野さんは、原爆が落ちた時、カミナリくらいの光があらわれ、空が暗くなり、爆音が消えて、目が見えなくなったそうです。僕は、何となく、想像がつきそうで、できませんでした。でも、今までに見たこともない光だっただろうと思いました。その後、何分かたって、周りが見えるようになると、建物などがこわれて、何もなかったそうです。そして、この世の終わりかと思ったそうです。僕も、そう思ってしまうと思います。いきなり何かが光ったかと思えば、目がみえなくなり、見えた時には、建物がこわれていて、死体が、あっちこつちにあったらだれでもそう思ってしまうだろうと思いました。

   永野さんは、その後、はぐれていた、弟に会ったけど、弟は、原爆の熱線で、皮膚が、はがれかけていて、医者につれていくために、かつごうとすると、皮膚がくつっいて、「痛い、痛い」と泣いたそうです。自分の弟を、こんなにした原爆を、戦争を、長野さんは、うらんだんじゃないかなあと思いました。

 僕は、被爆者の話を聞くのは、初めてで、原爆が落とされてからの様子を、知ることができ、とてもためになる話を聞かせてもらいました。

 長崎原爆資料館では、原子爆弾のしくみや原爆に関する資料、遺品物などが展示されていました。そして、七万人が亡くなり、七万五千人がけがをしたということを知りました。
 僕は、長崎の平和公園や、資料館を見学したり、永野さんの話を聞いて、戦争をやってはいけないと、あらためて実感し、世界中で戦争がなく平和になってほしいなあと思いました。

◇ 長崎で学んだこと (3年・男子)
    
 長崎に着いて、初めに感じたことは、やはり、「寒い」ことでした。沖縄では絶対に味わえない寒さでした。

 長崎の平和公園では、沖縄にある平和祈念公園にもある平和祈念像よりも大きな像が右手は天にのばし、左手は、横にのばして座っていて、僕らはそれをバックにして記念撮影をしました。そこには、他にもいろいろな像があり、平和を願う人々の思いが伝わってきました。

 公園内の建物の中で、永野さんの戦争体験談を聞きました。僕は永野さんの話の途中で、何度か鳥肌が立ちました。なぜなら、現在の日本では考えられないことが、原爆投下直後の長崎市に起こっていたのです。その時、長崎市は辺り一面が焼け野原で、もとにあった家や建物は、見る影もなく焼けくずれていたそうです。そして、原爆の熱線を受けた人は、全身に大やけどを負って、皮ふがただれて、見るも無残だったそうです。それでも永野さんは家族をさがし、やっと会えたけど大事な弟だけが大けがで死んでしまったそうです。僕がそんな状況の中にいたら、きっと生きる意欲を失って、くちはててしまうと思うけど永野さんは、それでも頑張って、生きぬいたそうです。すごくたくましい人だと思いました。

 次に僕達は、原爆資料館に行きました。そこには、原爆の熱線によってとけたビンの破片や、原爆のしくみなどが展示されていて、どれを見てもおどろく物ばかりだったけど、一番おどろいた物は、「壁に焼き付けられた人影」でした。それは、写真におさめられていてとても不気味でした。その「壁に焼き付けられた人影」は、原爆による光線で壁に人影ができ、その瞬間に熱線によって人は焼き尽き、その一瞬にできた人影が熱によって壁に焼き付けられてできることを知ってとてもおどろきました。

   資料館の外には、原爆によって黒く焦げた岩などが、そのままの状態で残されていて、その時の悲惨な光景を物語っていました。

 この長崎の平和公園や資料館で僕は、平和や原爆についていろんな事を学びました。特に資料館では、原爆のおそろしさがよくわかりました。この修学旅行で得た知識をもとに、これからの学習に役立てて行きたいと思います。

◇ 私のためになった修学旋行    (3年・女子)
  
 「いよいよ明日は修学旅行だね。」 修学旅行の前日、私の目はパッチリして閉じてくれなかった。

 私が、修学旅行で一番勉強になったことは、長崎市内にある平和公園に行ったことです。すごく大きな平和祈念像を目の前でみてとてもびっくりしました。そして、原爆は、この平和祈念像より大きかったことを実感しました。平和祈念像は、右手を上方に指し、左手は水平にのばし、まぶたは軽くとじていました。私が、「何か意味があるのかな?」と考えてる時に、ガイドさんが、平和祈念像のことを説明していました。私は、耳の穴をかっぽじいて聞いていました。すると、やっぱり意味がちゃんとありました。上方を指した右手は、「原爆の脅威」を表し、水平にのばした左手は、「平和」を表し、軽くとじたまぶたは「原爆犠牲者の冥福jを祈っているそうです。私は、「なるほど」とばかり感心していました。そして、原爆犠牲者の冥福を私も祈り、これからも、ずっと平和が続きますように…と心の底で思いました。

 私は、この十五年間ただ生きていました。私は、こんな平和な時代に生まれて本当によかったと実感しました。私がもし原爆があった長崎に一九四五年に生まれていたら…考えるとゾクッとしました。私は、平和公園や長崎原爆資料館に行って、命の尊さを知ることができました。私は、これからの人生、夢や希望に向って生きれるようにがんばりたいです。

 長崎原爆資料館で、被爆体験者の永野えつ子おばあさんの話を聞くことができました。勉強したくても、まずしい世の中だったから学校にも行かず、働いていたそうです。私は、えぇ勉強したかったのと思いました。私は、昔の人は、勉強しなくてもいいから、すごくうらやましいと思ってたけど、昔の人からみれば、ぎむ教育で勉強している私たちがうらやましいんだなあと思いました。それから、白米をたべたことがないと言っていました。私は、ごはんをよく残します。そのごはんはすてられます。私は、とても罪悪感を感じました。昔の人が食べれなかったごはんを平気で残してすてていました。だけど、今は、えつこおばあさんの話しを聞いて、ごはんを残せず食べるようになりました。えつこおばあさんの話しの中で一番印象に残ったことは、もちろん原爆の話しでした。十一時ごろピカツと光って昼なのにまわりが暗くなって一瞬で爆風がおそったそうです。一瞬ピカッと光っただけで七三、八八四人の人が亡くなり、七四、九〇九人の人がけがをしたそうです。原爆のおそろしさがどんなものだったかは、亡くなった人やケガをした人の数をみれば、だいたい予想がつきました。罪のない人々が、一瞬にしてこの世から消えてしまいました。そして、生きのびた人も、ケガをしたり、友人や家族をなくして、かなしんでいただろうと私は思いました。すごくかわいそうだなと思いました。

 私は、修学旅行から帰ってきて、心がチョット大人になった気分がしました。戦争(原爆)について考えたりもしました。はやく世界中の人々がひとつになってほしいと思います。そして、核兵器が一日もはやくこの世から消えることを願っています。

◇ 原爆について  (3年・女子)
    
 修学旅行の一日目に平和について学習をするために、長崎の原爆資料館に行きました。

 資料館の中には、原爆によって溶けたガラスのビンや弁当箱、割れた石像、原爆が落ちた時間をあらわす時計などがあり、原爆は私が想像していたものよりひどい被害をもたらしたみたいでした。ならんでいたビンを溶かすのってどのくらいの温度なんだろう? と思っていたら、修学旅行から帰って国語で勉強した「ヒロシマ神話」で原爆の温度は約七千〜八千度だという事を知りました。こんな高温の中にさらされたら、ビンはおろか人間までもが燃えつきてしまい、死ぬその瞬間など何も考えることができないと思いました。私は、この少しは平和な時代に生まれて良かったなあと思うと同時に、五十年前に生まれた人々を悲しく思います。

 そして、私が一番悲しく思えたのは、原爆が降下されたせいで傷を負った人々の生々しい写真でした。展示されていた写真はモノクロだったからはっきり見えるものじゃなかったけど、時々あるカラーの写真は本物みたいで怖くなりました。生きている人間がこんなに血を流したり、頭の近くをケガしていたり、本当に大丈夫なのだろうか、すごい痛かったんだろうなと思いました。普通の生活をしていて、こんなに大きなケガを負うことはめったにないと思うし、もしそういう目にあったとしても、今の時代なら医学の技術が発達しているからいいけど当時は混乱の渦にまきこまれたと思います。

 展示写真の中には、死んだ人の肉体が山のように積まれた写真もありあまりにもむごくてもう見られませんでした。けれど生きている私たちはこの写真を見て、本当の平和について考えなければならないと思いました。そうじやないと何のために展示しているのかわからなくなるからです。

 原爆の落ちた一九四五年の八月九日、十一時二分。時は戻ることなく選み続けているけど、原爆資料館に行ってこれからずっと平和を考えるのはやめないでいようと思いま
した。

◇ 沖縄と長崎    (3年・女子)
      
 ピカドン。それは一九四五年八月九日午前十一時二分に、長崎に落とされた原子爆弾のことである。一瞬で多くの人が死んだ長崎と、長い時間の激しい戦争で多くの人が死んだ沖縄。戦争の続いた時間はたがいにだいぶ違うけど、多くの人が殺されたのにはかわりはない。

 私は日本の中で沖縄の住民が他の県とは比べられないぐらい苦しんできたんだろうと思いました。それに、ひめゆりの資料館にある恐ろしい写真も沖縄にしかないものだと思っていました。しかし、長崎で行われた平和集会での永野さんの話を聞き、その考えが全然違いました。

 永野さんは長崎の原爆のひ害者で、体に傷を負わなかったものの、弟と妹が自分の目の前で死んでいくという、悲しい体験をしてきた中の一人です。 沖縄での戦争は何カ月間も続き、食料不足や、沖縄の人どうしの殺し合いなど、すさまじい話ばかりですが、長崎は短期間だったので、少しはよかったのかなと思いました。

 本当は北九州の方へ原爆が落とされるはずだったのに、天候が悪く雲で見えなかったため長崎に変更されたと聞いてびっくりしました。又、北九州がだめだから長崎に落とそうというこの考え方や、この原爆を落としたらどのくらいの範囲が焼けてどうなるのかと実験されたんじゃないかという感じでとっても腹が立ってきました。

 長崎の原爆投下、そして多くの人の死。この一瞬の出来事が永野さんの夢を奪った。自分の家族を探しに、家を探しに、線路の上をたどって一人で歩いた時どんな気持ちだったんだろうと思うと悲しくなってきます。

 家があったはずの場所にたどり着いたらそこら一体は焼けの原。やっと父に会いそして弟を見つけたら弟の皮膚は焼けただれ、服は吹き飛ばされていた。私は、この様な写真を見たことがあったので、気分が悪くなってきました。

 弟を病院へつれて行ったけれども、弟よりももっと傷ついた人がたくさんいて、治療は体に薬を塗るだけの簡単なもので、帰りに母と味にも会えたけど次の日に弟が亡くなってしまった。

 永野さんの話だけでもとっても苦しくて悲しくなってくるのに他の多くの人のことを考えるともっとおそろしくなってきます。

 長崎の資料館で見たパネルの中には人間だけでなく、馬の死体もありました。又、溶けたビンやランプ、戦争中着ていた服などいろんな物がありました。小学生の時に書いた文章もありそれは涙が出てきそうになるくらい悲しいものでした。

 長崎で永野さんの体験や資料館を見て、沖縄では学べない事を学ぶことができよかったと思います。又戦争体験者がいるからこそ、本当の平和がつくれるのだと思いました。

 永野さんの話を忘れずに心に刻みこれをバネにして平和をつくっていく一人になれたらいいなと思います。

戻るトップへ