補助資料 「ガマ(壕)での説明内容(各種証言等から整理したもの)

暗黒の世界 壕(ガマ)の中の生活の様子  壕の生活・期間
食料・飲料水  日本軍との関係 米軍の攻撃
子供・老人・女性(弱者) 負傷者・死者・病人・その他 住民同士

1 壕の中の生活(期間)

@戦前から壕は、水汲みや洗濯場であった。
A戦争が始まってからは、当初隣近所の人々の避難壕であった。(いざという時)
  →出入りは 家と壕との通い
B空爆や艦砲射撃がひどくなると、壕での生活が長くなる。
C期間も何週間とか何ヵ月と長くなる。
D戦争が終わっても、「終戦」を信じない人々も多かった。
E壕の中は、びっしりと入り、足を曲げたまま2,3日も過ごすこともあった。

2 食糧・飲料水

@食料も当初は家から持ち込んだりしていたが、艦砲射撃などで家が焼かれると、壕の中に食料を貯えた。
Aやがて、米軍に追われた日本軍がなだれこんできた。また、中南部の避難民も多数入りこんできた。
B日本軍の食料強奪の証言は多い。
C食料がなくなると、米軍の攻撃の合間をぬって近くの畑などから、イモや砂糖キビなどをとって食べていた。
D自然の壕(ガマ)は地下水が湧いているが、人工壕では、水の確保は困難だった。     

3 日本軍との関係

@ 日本軍は、南部の壕(ガマ)にたてこもって、長期戦をねらっていた。
A 米軍の攻撃に耐えられなくなった時、日本軍は南部へ、糸満へ、真壁・喜屋武・摩文仁へとだんだんと追い詰められ長期戦にそなえた。            
B その中で、壕にいる地元住民や避難民を追い出しにかかった。
C 「沖縄のために戦っている」が日本軍の言い方だった。
D 壕からの追い出しについては、脅迫、強制、銃殺、虐待などの手が使われた。
E 泣く子を絞め殺し、たた切ったり、注射で殺したり、親ごと壕の外に追い出し米軍の砲撃にさらしたりした。
F 壕を自らでていく者に対しては「スパイ」という名義で処刑したりした。
G 日がたつにつれて、米軍は住民がいると攻撃しないのがわかると、今度は住民を壕の入口付近に住まわせたりした。                                       

4 米軍の攻撃

@米軍は、壕の中に日本軍だけいると攻撃をし、住民がいると降伏を呼びかけた。
Aそれに従わないと住民がいても容赦なく砲弾を打ち込んだ。         
B子供の泣き声があると攻撃を止めたことが戦後になって分かった。      
C攻撃の仕方
 ○ 「馬乗り」〜壕の入口を四方八方から包囲し、一斉に機関銃などで銃撃した。
 ○ 火焔放射器や火焔戦車などで、徹底的に焼き払った。
 ○ 時には黄燐弾を投げ込み、ガスで窒息死させた。
 ○ 爆雷を仕掛けて爆死させた。
 ○ 飛行機で機銃掃射をした。
 ○ 軍艦から砲弾を打ち込んだ。(艦砲)
 ○ 六月だけで、喜屋武半島に打ち込んだ砲弾は、約680万発、当時この地域には約10万人がいたので、一人あたり52発の砲弾が打ち込まれたことになる。
D米軍のバグナー中将が戦死した時、その仕返しに、国吉・真栄里一体を無差別の残虐な報復攻撃をしかけた。                          

5 住民の状況

@ 暗い壕の中で住民は飢えの中、出ると「スパイ」容疑で日本軍に殺され、残ると米軍に殺され、捕虜になることも許されなかった。捕虜になれば辱めを受けたり、虐待を受けると聞かされていた。
A そんな中で、人間が人間でなくなることが起こった。
 ○ 日本軍につめよられて、わが子を殺す親。妻を殺す夫。自決をする人。集団で手榴弾で爆死。お互いに殺し合いをする。使われたのは、クワ・かま・カミソリ手榴弾・毒薬・・・・・。
 ○ 息子が自分の親を壕に置き去りしたり・・・。
 ○ 気が狂ってしまった人々。
 ○ 栄養失調、病気、砲弾による傷が悪化して病気を併発して死んだ。
 ○ 「戦争は終わった」と呼びかけた人が同じ村の人に壕内から狙撃された。  

6 負傷・病気・死者

@ 傷は、2,3日すると化膿して、ウジがわいた。ウジは肉を食っていった。
A 壕から壕へ移動する時は、歩けない人は置き去りにされ、生きたまま地獄の中。
B 死者は折り重なって腐っていく。ウジがわきくわれていく。         
C 薬品がなくなると、病気も傷もほったらかしで、死を待つのみ。
D 傷がもとで死ぬ人は、麻酔もなく足や腕を切断していった。                   

※ 留意点

@ 具体的になるよう話すこと。
A 聞く態度を確認して話すこと。
B わかりやすい言葉を選ぶこと。
C 事実であることを冷静に確認しながら話すこと。

戻るトップへ    沖縄戦と平和学習へ