「慰霊の日」平和学習(第二学年) 生徒の学習のまとめ

※このページは、某中学校での実践をもとにホームページ用に編成したものです。
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「ひめゆり平和祈念資料館」調査学習計画

1 主題

沖縄戦における「ひめゆり学徒隊」を通して、戦争の残酷さを深く知る     

2 月日

平成7年6月22日(木)5・6校時

3 場所

 ひめゆり平和祈念資料館

4 対象学年

二学年 生徒132名 職員7名 計139名                

5 学習形態

資料館にての調査活動と体験者の説明を聞く・ビデオ視聴

6 学習内容

沖縄戦について・・・なぜ、沖縄が戦場になったか。

@ 太平洋戦争の中の位置づけ
A 沖縄戦は本土の「防波堤」ではなく、本土決戦のための引き延ばし作戦であった。
B 日本における唯一の地上戦となったこと。

「ひめゆり学徒隊」について

@ なぜ動員されたか。
A なにをしたのか。
B どんな状態だったのか。
C なぜこうなったのか。

沖縄戦前夜・・・第一展示室
南風原陸軍病院・・・第二展示室
南部撤退と喜屋武半島・・・第三展示室
鎮魂〜第三外科壕・・・弾四展示室

7 方針

事前学習

@ 地上戦と原爆による被害の状況などの写真パネルを図書館に展示する。
A 各学級に沖縄戦の証言を掲示する。
B 図書館においては、戦争関係の図書を紹介する。
C 「ひめゆりの塔」の映画を学校上映する。
D その他、他団体の行事に積極的に参加を促す。
E 社会科の授業で沖縄戦とひめゆり学徒隊について取り上げる。
F 沖縄戦の犠牲者の冥福を祈り生徒全員で「千羽鶴」を作る。

事後学習

@ 学習の達成度をはかるためにアンケートを実施する。
A 「見学のしおり」と感想を書かせ、後日担任に提出する。

8 留意点

基本的な心構え

@ △△中の生徒であることを自覚しきまりやマナーを守る。
A 資料館は、一般の見学者もいるので、迷惑になる私語等は慎む。
B ものを尋ねる時は、ていねいな言葉ですること。
C 館内ではもちろん、行き帰りの道でも飲み物を飲んだり、お菓子(ガムも)等を食べないように注意を促す。
D 資料館へは、歩いていくこととし(自転車は学校に置く)、指定された道を通り寄り道しないこと。                          
E 安全に気をつけ、危険な所へ行ったり、危険なことをしない。
F しおりの記入をわすれない。

身なり・持ち物

@ 身なりは、通学時の服装(制服)。
A 学習のしおり・筆記用具をわすれない。

9 日程

@ 1:35〜1 :45・・・帰りの会後、各自で「資料館北側観光センターでいご駐車場」に集合
A 1:45〜 2:15・・・移動
B 2:20・・・整列完了
C 2:20〜 2:25・・・諸注意                         
D 2:35〜 3:00・・・ビデオ視聴                       
E 3:05〜 3:45・・・資料館見学                       
F 3:45〜 3:50・・・集合・整列                       
G 3:50〜 4:05・・・平和集会                      
H 4:05〜 4:10・・・諸注意後・現地解散                 

10 平和集会の内容

  司会・・・3組
@ 開会の言葉・・・・司会
A 感想の発表・・・・4組女子・1組男子
B 千羽鶴の献納・・・2組
C 黙祷・・・・・・・司会
D 閉会の言葉・・・・司会                         

11 職員の係分担

@ 総務・・・・・・・( )
A 集合・諸注意・・・( )
B しおりの作成・・・( ・ )
C 千羽鶴・・・・・・( )
D 司会の指導・・・・( )
E 会計・・・・・・・( )

[生徒用学習しおり]

  このガイドは次の3つからできています。     
   十分に活用してください。                         
1見学編…見学する内容についての説明です。資料館で活用します。
2資料編…見学する内容と関係のある項目について説明しています。
3質問編…見学したことを確かめるための質問です。質問に答えながら
見学を進めましょう。

1 見学編

 沖縄戦は、90日余りの戦いで、日米双方に20万人余りの死者を出しました。そのうちの12万人余りは戦争と何の関係もない住民でした。

 日本で唯一の地上戦となった沖縄戦で、むりやり看護婦として戦場にかりだされ、そして放りだされた女子生徒のうち、先生方も含め 219名が尊い生命を失いました。この資料館は、生き残ったかつての生徒たちが、二度と戦争を起こしてはならない、という決意でつくりました。同窓生の死がむだにならないように、戦争のむだたらしさを訴え、平和の尊さと教育の大切さを訴えています。                  

第一展示室(沖縄戦前夜)

軍事化されていく学園

 私たちは、十五年戦争の始まったころに生まれ、中国大陸での戦争がはてしなく広がるなかで、学園生活を送りました。

 戦争が進むにつれて、日ましにものが不足し、食料も配給となりました。村や町から出征していく兵隊の姿がふえ、街角には兵士の武運長久(ぶうんちょうきゅう) を祈る「千人針」を手にした女性たちの姿も目立ち始めました。

 私たちは、お国のために命をささげ、靖国神社(やすくにじんじゃ)にまつられることは男子最高の名誉という学校での教えをそのまま信じていました。だから、戦場に出でいく若者たちの姿を、むしろ、うらやましいと思っていたのです。          

 当時は、「男の子に生まれれば良かったのに。」と思ったりしていたものです。
 戦争が次第にゆきづまっていく一方で、東南アジア・太平洋への軍事的関心は、高まっていきました。特に、沖縄は、南進の拠点として重視され、私たちは、「アジアの指導者」としての自覚をもつように、と教育されました。

 昭和十五年度から、中等学校入学試験の選抜方法も変わりました。筆記試験は全廃して、「行動」を主とした内申書、人物考査の口頭試問、身体検査だけで選ばれることになりました。
 教育の軍事化が、急速に進められた時代でした。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)

十七里行軍

 昭和16年 4月 6日、女子師範・第一高等女学校の校長は、西岡一義先生にかわりました。この新入生から制服は全国一せいに、セーラー服から「へちまえり」になりました。

 「十七里行軍」が強行されたのは、翌17年 3月 6日からです。学校から勝連城址までの往復17里半( 約70`) でした。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)

疎開阻止(そかいそし)

 昭和19年 7月 7日、サイパン島の日本軍が全滅しました。米軍は、そこから直接日本を爆撃するようになりました。そして、第32軍の大部隊が沖縄に展開して、いよいよ沖縄が戦場となる不安感が、一気に高まりました。

 足手まといになるということで、老人、幼児、婦女子等の排除と食料の確保のため疎開が決定されました。女子師範・第一高等女学校の生徒のなかにも疎開を検討するものがでましたが、学校当局は、生徒の疎開を阻止しました。さらに、宮古・八重山に帰省している生徒も呼び出したのです。のちに看護隊として戦場に駆り出すためだったのです。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)

戦場動員の訓練

  昭和19年11月には、学園内で、軍医や衛生兵による看護教育が始まり、包帯の巻き方やギブスの当て方などの訓練を受けました。

  昭和20年 2月、いよいよ、南風原陸軍病院での実地訓練が始まりました。そして、米軍の上陸を前にして、休みを返上し、卒業式も延期させられ、不安といらだちのなかで、南風原陸軍病院への入隊の日を待たされていました。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)

南風原陸軍病院への動員

 昭和19年秋、教室の3分の1が軍に接収されました。すでに、那覇は空襲で全滅していました。私たちは、陣地構築(じんちこうちく) の動員や看護教育にかり出されました。

 そして、昭和20年 3月23日、米軍の上陸が開始されると同時に、南風原陸軍病院へ配置されたのです。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)                          

第二展示室(南風原陸軍病院)

 南風原陸軍病院壕のトンネルをくぐってこの展示室に入ると、そこは戦場です。陸軍病院壕が展開していた喜屋武スジの森がジオラマで復元されて、壕内部の状況が展示されています。これを中心に当時の南風原の地形模型、米軍上陸後から首里陥落(かんらく)までの戦争の様子や地図、写真、現物の資料が展示されています。

 昭和20年 3月23日、米軍の沖縄戦上陸作戦が始まりました。女子師範と県立一高女の生徒は、看護の手伝いや雑役(ざつえき)に働かされて、そのまま沖縄戦に引きずりこまれていきました。

 徹底した軍国主義教育を受けた純真無垢(じゅんしんむく) な少女たちは、祖国の勝利を信じて献身的に軍のために奉仕したが、それは恐ろしい地獄への道でありました。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)                          

第三展示室(南部撤退と喜屋武半島)

 南部撤退の様子をジオラマで展示し、同時に他の女学校の撤退とその後の状況を展示しています。
 1フィート運動フィルムから編集したビデオと喜屋武半島の地形模型のLED装置で、日米両軍の戦闘経過を11のプログラムで克明に展開します。その上に追いつめられる「ひめゆり看護隊」の悲劇的な動きをオーバーラップさせて描きます。

  5月下旬、米軍は首里に迫っていました。本土上陸を遅らせるための時間かせぎとなった沖縄戦で、日本軍は、最後の一人まで戦いつづけるといって、軍を南部に撤退(てったい)させました。                        
  5月25日、爆撃による破壊と泥沼の中、南部への撤退は死の行軍だったのでした。この時、陸軍病院や各部隊の野戦病院は、約1万人の患者をかかえていたが司令部は毒薬や手榴弾(しゅりゅうだん) を与え、重症患者を放置しました。(「ひめゆり平和祈念資料館」から) 

第四展示室(鎮魂)

 ここは、ひめゆり看護隊の墓場です。広いカベ三面に 200余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記したアルホトパネルがひっそりと並んでいます。一つひとつを読んだり、見たりしていると、彼女たちの声が聞こえてくるようです。

 ひめゆりの塔の前にある第三外科壕が現物大に複製されています。高さ14b、幅16b、奥行き12bの日本一大きいジオラマです。

 また、生き残った生徒たちの証言集が整然と展示されています。一つでも多く目を通してほしいと思います。                          

  撤退の時 5万いた日本軍は、南部では 3万に減っていました。 6月中旬には、組織 も崩壊して敗残兵となり、軍民入り交じっての大混乱となっていました。

 そして、 6月18日朝、第二外科の人々が隠れていた糸洲の壕が、米軍の馬乗り攻撃をうけて多数が犠牲となりました。(「ひめゆり平和祈念資料館」から)

 ひめゆりの塔のガマは、第三外科の壕でした。ここには陸軍病院の関係者、通信隊、住民数名と、ひめゆり学徒隊の教師 ・生徒がいました。「解散命令」直後の 6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃をうけて、ひめゆり学徒隊の教師 ・生徒は46名が亡くなり、生き残ったのは、たったの 5名でした。                        
 「解散命令」で散り散りになったひめゆりの少女たちは、山城の丘に向かって逃げていきました。空には偵察機が群れ飛んで、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)があり、陸上では戦車の火焔放射(かえんほうしゃ) を先頭に、米兵が包囲網を次第に絞ってきていました。

  そのなかを数万の避難民と敗残兵が、右往左往していました。群衆は直径 1キロメートルの円内に袋のねずみのようになって殺されていきました。

第五展示室(回想)

 展示室に入ると、細長い窓からパッと美しいお花畑がみえます。四季とりどりの花が、悲しく残酷な少女たちの物語を見てきた心をなごませます。ここに戦争があったことを思い出しながら、二度とあってはならないことを心に誓います。   

[用語の解説]

@「千人針」・・・戦争にかりだされた兵士が、適地で勇敢に戦って名誉をあげるために、敵の弾があたらないように祈りをこめて作ったものです。一つの布に一人ひとりが針をとおして、女性千人分を集めて、兵士に渡していたのです。千人分を集めるのは、なかなかですので、街に出て集めていました。中には、五銭玉や十円玉をぬいつけることもありました。

A「アジアの指導者」・・・この戦争は、もともと日本がアジア(特に中国)への侵略をめざして起こしたものです。その理由として、アジアは遅れているし、ヨーロッパの言いなりになっているので、日本が開放してやるのだ、というのでした。
 そのために、日本が「アジアの指導者」になって救ってやらなければならない、というアジア諸国を馬鹿にした教育をしていたのです。

B「老人・幼児・婦女子〜排除と食料の確保」・・・沖縄戦が始まるころになると、軍は、沖縄を戦場になるために、戦闘に邪魔になる者、また、食料が不足すると困るので食料確保するために、老人・子供・婦人などを九州や台湾に疎開させることを決定しました。「対馬丸」はその途中米軍に沈没された事件なのです。  

C「陣地構築」・・・沖縄戦に備えて、学生(主に中学生)を軍が使う「防空壕」や線路づくり、堀作りなどにかりだして使いました。三和地区にも陣地壕がたくさんありました。

D「首里陥落」・・・初め首里に司令部がありました(今の首里城の近く)。米軍が中部に上陸し、次第に南部に攻めて来たとき、首里の司令部が中心になって戦っていましたが、米軍の攻勢が強く、とうとう持ちこたえられなくて、摩文仁に司令部を移しました。それ以来、日本軍は全滅への道を進みました。首里の司令部が撤退したことを首里陥落といっています。

E「軍国主義教育」・・・戦前から、日本は戦争の準備として、学校での教育で次のことを、徹底して教育しました。天皇は神様で、日本国民はその子供であること。天皇が治める日本は神の国であるから、他の国とは違うこと。日本はアジアで最も偉い国であること。国民は天皇のために生まれたのだから、天皇のために命を失うことは名誉なことであること。などです。               

F「時間かせぎとなった沖縄戦」・・・沖縄での戦争で負ければ、次に本土で戦う、ということではなく、本土を守るために、出来るかぎり沖縄での戦いを引きのばす作戦のことで、沖縄は、本土防衛のための「捨て石」とされたのです。だから、「首里陥落」があっても、「最後の一人まで戦え」という命令を下して司令官は自決したのです。つまり、沖縄戦は終わりのない戦争だったのです。現在でも、「沖縄戦の終戦」は何日が分かりません。 6月23日は「慰霊の日」ですが、それは司令官が自決をした日のことです。日本の戦争が終わった日( 8月15日) でも沖縄では、まだガマの中で避難していた人がたくさんいました。       

G「米軍の馬乗り攻撃」・・・沖縄戦で、ガマの中やくぼみに隠れていた人々を、米軍は、入口を数名で取り囲んで、一斉に攻撃をしかけました。これを「馬のり」といって、恐れられていました。攻撃には、手榴弾や鉄砲、爆薬、火焔放射などが使われました。時には催涙ガスや黄燐ガスが使われることもありました。  

2 資料編

ひめゆり学徒隊

 県立第一高等女学校の生徒と師範学校女子部の生徒で作られていました。半強制的に動員されていました。県立一高女は64名、師範女子部は 155名が動員されました。亡くなったのは双方で 128名でした。

 引率は、両校の教師18名がついたが、しかし、解散命令が出た後はばらばらになって、教師と生徒がともに自決したグループもありました。その後が荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の碑」です。

 学徒隊が組織された後、3月までは上級生は看護、下級生は壕掘り作業でしたが、4月以降は、南風原陸軍病院に配置されて、昼夜の区別なく次のような作業をさせらました。 

学徒隊の主な仕事

 壕掘り、伝令、飯上げ、水汲み、食料調達、手術時の照明用ロウソク持ち、切断する手足を押さえる、注射、包帯交換、包帯洗い、薬品運搬、患者の食事の世話、排泄物の処理、切断した手足の処理、患者を運ぶなど             
※飯上げ(作られた飯をタルにいれて壕まで運ぶ仕事のこと)
※排泄物の処理(壕の中に排泄された小便や大便を処理する仕事のこと。後にはそれも出来ず壕内は臭かった)

他の女子学徒隊

@ 白梅学徒隊 県立第二高等女学校の生徒56名が動員されて、20名が亡くなりました。引率はなく、男子教師 2名が部隊に引き渡したままでした。配置されたのは、第24師団第1野戦病院で、東風平の八重瀬岳の本部壕などでした。                       第一野戦病院壕   
    
    仕事はひめゆり学徒隊と同じで、 4月中旬までは3交代でしたが、その後は12時間〜24時間勤務となりました。解散後は、教師もいないので、自分たちだけで戦場の中をさまよい、国吉のガマの中で多くの生徒が米軍の攻撃で亡くなっています。その跡には「白梅之塔」が建てられています。 
                                                                   白梅学徒隊詳しい説明


Aずいせん学徒隊 県立首里高等女学校の生徒61名が動員されて、33名が亡くなりました。この隊にも教師はつかず所属部隊の第62師団の浦添分室や仲間分室に配置されました。この病院は前線付きだったため、ほとんど24時間交代なしの勤務となっていました。仕事は上記に同じものでした。「魂魄」の塔へ行く右手に「ずいせんの塔」が建てられています。

B 悌梧学徒隊 昭和高等女学校の生徒17名が動員されて、 7名が亡くなりました。この隊にはも教師はつかずに、ずいせん学徒隊と同様の部隊に所属し、24時間交代なしの勤務でした。仕事も上記と同様でした。「ひめゆりの塔」の近くに「悌梧の塔」が建っています。

C 積徳学徒隊 積徳高等女学校の生徒56名が動員されて、 4名がなくなりました。ここも女教師が部隊に引き渡したままでした。部隊は、第24師団第二野戦病院で、前線での勤務だったが、避難の途中で亡くなりました。 
                                                                      積徳学徒隊詳しい説明 
                                            第二野戦病院壕
       

D なごらん学徒隊 県立第三高等女学校の生徒10名が動員され、 1名が亡くなりました。引率はなく部隊から迎えがきて連れていかれ、南風原陸軍病院の北部分室に配置されました。勤務内容は上と同じで24時間勤務でした。 

沖縄戦の経過(省略)
壕( 洞窟・ガマ)の中

 三和地区には、およそ50余りの壕(ガマ)が確認されています。そのガマにはひめゆり学徒隊の生徒も他の学徒隊の生徒も、また、民間人も兵隊もたくさんの人々が戦争中隠れていました。そのために命が助かったり、逆に命をおとしたりする人が実際にありました。

@ ガマの中の生活の様子                          

○ 戦争前は水汲みや洗濯の場所だった。
○ 戦争中は付近住民の避難場所になった。
○ 次第に那覇や南部の人々が避難してくるようになった。
○ 戦争が終わっても、それを信じないで壕の中で生活をしていた人もいた。

A 食料・飲料水について                          

○ 米軍の攻撃の合間をぬって食べ物を探しに出た。
○ 水のある壕は良かったが、そうでない壕の人たちは、命がけで水を汲みにいった。

B 日本兵と壕  

○ 戦争に負けてくると、日本兵がガマを奪うことが多くなり、住民は追い出された例がたくさんあった。
○ 日本兵は住民から食料や飲料水を奪ったりした。
○ 住民を楯(たて)にして自分の身を守ろうとした。
○ 泣く子を殺したり、スパイよばわりで住民を殺したりした。
○ 中には、住民を助けたり、助かるように言った人もいた。

C 米軍の攻撃                               

○ 初めは、住民がいると「出てこい。」と呼びかけていたが、応じないと攻撃をしかけた。
○ 攻撃のしかた〜「馬乗り」・ガソリンを流して火をつける・手榴弾を投げ込むガスを打ち込み窒息させるなど。

D 負傷者・病人・死者                           

○ 負傷しても治療はされなかった。それがもとで死んでいった。
○ 病人も同じ状態だった。
○ 移動するときは、歩ける人以外はそのままおかれた。
○ 死者がでたら、初めは埋葬していたが、あとでは、壕の中に放置して死体とともに過ごす日が続いた。

E ガマでの異常な状況

○ 精神的に異常をきたした人に対して、知人がその人を殺害することがあった。
○ 日本兵につめよられ、親がわが子を殺すことがあった。
 (実際は子供の泣き声があると、米軍は攻撃を止めた事例もある)
○ 住民同士がお互いに殺し合ったりした。(「自決」といわれている)
○ 移動の際、息子が親を、友人が友人を置いて出ていったりした。
○ ガマに入れなくて、ガマの入口でそのまま爆死した人がいた。
 ※ 子供の一声で自決を止めたり、老婆が自決を止めさせたりした事例もあった。

戦死者の概要

 ○ 一般県民戦没者        約94,000人─┐               
 ○ 県出身の軍人・軍属        28,228人─┘沖縄県出身者 122,228人
 ○ 県外出身日本兵戦没者    65,908人
 ○ 米軍戦没者               12,520人                 
 ◎ 総  数              約2000,656人                
 ※現在でも、本当の数字はわかりません。また、この戦没者の中には、外国人や日本に強制的に連れてこられた朝鮮人などの死者も含まれていません。    
 ※特に一般住民については、「約」という字が示しているようにはっきりと何名が亡くなったのか調べようがないのです。                 

学徒動員の実態(省略)

3 質問編

ひめゆり学徒隊について

 @ 「ひめゆり平和祈念資料館」はどのような人たちがつくりましたか。           
 A この資料館の目的はどんなことでしたか。 
 B 「ひめゆり学徒隊」の人たちは、もともとはどのような人たちでしたか。         
 C 何名の人が日本軍に動員されましたか。 
 D そのうち何名が沖縄戦で亡くなりましたか。

 E この人たちはだいたい何才ぐらいでしたか。
 F 「ひめゆり学徒隊」が動員された病院の名前はなんといいましたか。          
 G この人たちは、戦争中どんなことをさせられましたか。三つ書きなさい。
 H 「ひめゆり学徒隊」の人たちが最後に隠れた壕をなんと呼んでいますか。         
 I 「ひめゆり学徒隊」の死者の中に□□区の人がいましたか。             

沖縄戦について

 @ 沖縄戦は何ヵ月続きましたか。     
 A 米軍は本島のどこに上陸しましたか。  
 B 沖縄戦では、何名の人が亡くなりましたか。
 C 戦争に関係のない人の死者が多いのはなぜでしょうか。          
 D 日本が戦争を始めたわけはなんでしたか。                        

戦前の教育について

                                                                     戦前の教育」詳しい説明

 @ 「ひめゆり学徒隊」の人たちの学校の名前を書きなさい。           
 A 彼女たちは将来どんな職業につく予定でしたか。               
 B 戦争がせまってくるとどんな教育を受けましたか。               
 C 彼女たちの中には、「自決」をした人もいましたが、なぜそんな考えをしたのですか。  
 D そのような教育のことをなんといいますか。
 E 資料館で印象に残ったのは何ですか。   
 F 資料館を見学した結論をひとことで表現しなさい。               

事後の感想から                                                                                                                                                                       

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