発展学習の部

火の雨がふる」を読んで ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」から
「アンネの日記」を読んで 第二次世界大戦の悲劇-アウシュビッツ
平和について ひめゆり平和資料館」を見学して
命の尊さと平和への願い 平和の大切さを
「長崎に翔ぶ」から学ぶ勇気 「飛べ千羽鶴」を読んで
「望郷」を読んで 「白旗の少女」を読んで
慰霊の日のテレビを見て 慰霊の日のドラマを見て

「火の雨がふる」を読んで(3年女子)

 戦後50周年の今、私達は戦争と平和について深く考えるべきであると私は思います。「火の雨がふる」という本では戦争の恐ろしさや悲しさが文章を通して伝わってきました。
しかし、それよりもその頃の教育方針がおそろしいと感じました。教育の仕方しだいで私達の考え方も変わっていくのか、などと考えるとあの頃の子供達はお国のためにと言って喜んで戦争に行ったのかもしれません。

 私達の住んでいるこの沖縄でもM地区は最後の激戦地となっているので、戦争について最も深く考えているのではないかと思います。私もそのうちの一人で、戦争のおそろしさをみんなに知ってもらい平和に暮らせるよう、二度と世界に戦争をおこらせることがないようにしていきたいと思っています。

しかし、それでもどこかでまだまだ武力を使って強引に賛成させようとする人達がいます。その人達は多分、自分さえよければいいと思って自己中心的な人達なのだろう。と私は考えています。

 ところで、世界をとまではいいませんがまず私達の沖縄を中心に平和な世の中になっていけばいいと思います。そのためには、何をしなければいけないのか、それが第一の問題だと思います。

 それは、みんなが自己中心的な人にならないで自分がやった事で人様に自然に迷惑がかからないかなど、今現在だけよければいいと思う「心」を捨てることだと思います。

 例を一つ挙げるとすると、自動車からのゴミのポイ捨て、これもすごく小さなことですが、みんながやっているからなどといって一人一人がやってしまうとすごい数になります。こういう物は環境破壊につながる一歩だと思います。これはなくそうとしている国、シンガポールはすごく理想的な国ではないでしょうか。

 けれど、罰金とかがなくてもゴミを捨てないなどの「心」がある世界が最もよい世界だと思います。

そんな世界で戦争が起こるはずありません。そういう戦争など争いがない世界を目指していきたいものです。

 前にもあげた通り、M地区は大きな被害を受けています。私の住んでいるKの中でも私の家の後ろには昔戦争の時にかくれた人達がいっぱいいた壕があります。その壕には亡くなった人達の魂がいくつもあってそれぞれあの悲しいでき事を見てきているのです。その時に「これがすべて夢ならばどんなにいい事か」と思った人達がたくさんいたと思います。

 私達は今戦争とかいうきびしい状況に遭遇したことがないから、拳銃がカツコイイとか戦闘機に乗ってみたいとか言えるのではないでしょうか。よく子供が飛行機のおもちゃで遊んでいる時「僕も飛行機に乗ってミサイルとばしたい。」なんて言っているのを聞いた時ゾツとします。こう考えてる子供はまだ無邪気でかわいいのですが大人になってもそう考えていると、とても恐ろしいという気持ちがあります。

  日本は今、平和ですがどこかで今も戦っている人達がいます。行きたくなくても戦争に行かされる人がいます。そして罪もない人達が一日に何百人といわずに死んでいってます。

 いつまでもこんなことがない世の中にしていき、平和で安心して暮らせるような世界ができれば、きっと戦争で亡くなっていた人達もうかばれるのではないでしょうか。

 戦争という、人々の悲しみや憎しみが入り混じった人と人との争いを少しずつでもいいから失くしていきたい、とこの本を読んでしみじみと思いました。

「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」から(3年女子)

 「ひめゆり学徒隊』。この名は、どなたでも、かならず一度は耳にしたことがあるでしょう。50年前、ここは、この沖縄の地は、地獄そのものだったといいます。木々の緑は血で染められ、大地もまた、赤く染まった肉の塊で覆われた地獄だった、と。この小さな島で、20数万という命が、失われました。血の島と化したこの島で、看護婦として、危険に身をさらされながらも、戦場をかけめぐり、傷ついた兵士達をいたわり看病した少女達。でも彼女達もまた、倒れ、悲惨な死をとげました。

 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」は、先生のすすめで読み始めました。日記のように書かれていて、字が小さく、厚い本の割には、すらすらと読めたのですが、内容は、読んでいる私の方が、気分が悪くなるような、悲惨な場面が多く、途中、本を投げだしたい気分になりました。この本は、ひめゆり学徒隊の引率として、彼女達と共に見、体験した方が、生き残ったひめゆりの少女達の一人一人の手記を集めてまとめたものでした。一つ一つの体験談は、どれも、恐ろしくて、悲しいものばかりです。

    この本のために、当時のことを思い出して、体験したことを語ったり聞いたりするとこはつらいことだったと思います。できることなら思い出したくはないのだけれど、くり返すことがないように、書かなくてはならない、記録して、伝えていかなくてはならない、という強い意思が、感じとれました。いえ、くり返したくないという思いは、この本を綴った方々だけではなく、戦争体験者全員の、そして、言葉にすることはできなくなってしまったけれど、訴えているであろう大勢の命の『願い』だと思います。

 私は、戦後の平和な時代に生まれました。飢えも、つらいことも知らずに十五年過ごしてきました。小学校に上がる前まで、6月23日正午になると、父や母の、正座をして、黙祷する姿は不思議なものに見えました。私には、「友達が死んでゆくのを、毎日のように目の当たりにする」ということは、想像がつきません。周りはのどかで、ここが戦場だったことを忘れてしまいそうになります。

 戦争が終わって50年以上が過ぎました。体験者として、戦争のことを伝えることのできる方は、少なくなってきています。あと20年、30年もすれば、後世に真実を正しく伝えることは難しくなってくるでしょう。誤まった事実が伝わっていくに従って、平和は、どんどん遠いものとなってしまいます。

 「世界を平和に」ということほど、難しいものはありません。誤りなく伝えることができるかどうか、それは、私達にかかっているのです。

アンネの日記」を読んで(2年女子)
  
    一冊の本が、埃をかぶりながら出てきた。その本は確か、小学校の頃何げなく買った本だ。

 あの頃は、この本を読んでも理解できなかった。でも、今ならわかるような気がした。そして、この本を読んだ後、私はきっと、何かをしなければならないと思った。
一九二九年六月十二日、アンネ・フラソクは、ドイツのフラソクフルトに生まれた。私よりも六十五歳も年上だ。いや、言い方を返れば、たった六十五歳しか違わないのだ。「六十五年前に、一体、どんな事が起きたのだろうか。」私は、まずはじめに、疑問をもった。

    一九四〇年、ドイツ軍のオランダ侵攻によって、アンネ達、ユダヤ人の生活は変わり始めた。「ユダヤ人狩りという政策と絶滅キャンプへの移送が始まった。」なぜ同じ人間なのに、こんな醜い事をしなければいけないのか。私は、その場で何もできない無力の人間でしかない事に、すごく腹が立った。

 強制収容所では、人間をまるで、ゴミのように扱い、ガス室へ送られた人達は、悲鳴ひとつあげることなく死んでいった。私は、その時、ふと思った。「あの時代に、あの場所に、ユダヤ人として生まれていたのなら……。」一瞬、生きた心地がしなかった。

 私が、あの時代にユダヤ人として生まれていたなら、きっと今のように、光りある、何一つ不自由のない暮らしではなく、光どころか、生きている実感さえない生活を毎日送っていたに違いはないだろう。

 髪は、はぎとられ、高価な物は、すべて取り上げられ、あげくのはてには、人体実験にまで使われたユダヤ人は、本当に心の底からかわいそうだと思った。人間として認めてもらえなかったユダヤ人の多くは、短い一生を強制収容所で送る事になった。

 今、全世界で、人権差別が大きな問題になっている。戦争は、もしかすると、人種差別が起こす争いなのかも知れない。どうして、この地球という星の中で、同じ人間同士が争わなければならないのか。

    何もかも平和になった今だからこそ、形だけの平和にだけは絶対にしたくない。平和な国の裏には、地獄のような毎日を送っている国もある。この全世界から人種差別をなくす事は、ユダヤ人に対して最大の報いになるような気がする。
 今、十四歳の私は、そう感じ取る事ができた。生きながら地獄のような毎日を耐え続けてきたアソネや、ほかの皆のために、できる限りの事をやらなければいけないという義務が私達にはある。今から新しく世界を作る私達にとって忘れる事のできない、いや、忘れてはいけない真実の鍵を「アソネの日記」を通してわかった。

第二次世界大戦の悲劇−アウシュビッツ(2年女子)

    「あなたは、戦争という言葉をどう思いますか。」
 NHKのある番組で、私は、この間いについて深く考えさせられました。戦争というと、第二次世界大戦の、沖縄での地上戦や、広島、長崎での原子爆弾の投下などがよく答として返されていました。

 しかし、第二次世界大戦では、日本だけが被害者ではない事をよく知ってほしいと思います。その事について私に考えさせてくれたのは、一冊の本でした。

    『アウシュビッツ』─私は、この本を、家の本棚で見付けました。表紙には、悲しそうに両手を上げ、銃を持った、警官らしき人につれていかれる、小さな少年でした。私は、その理由が知りたくて、この本を手にしました。その理由は、すぐに分かりました。ナチスドイツが行なった、ユダヤ人狩り、ユダヤ人への迫害でした。日本以上の戦争の惨禍がヨーロッパにあったのです。

 アウシュビッツという言葉は何かというとナチス・ドイツがポーランド国内につくった強制収容所の名前でした。別名をホロコースト(大殺)の絶滅センターともいったそうです。四百万人もの命をうばったその収容所は今でもポーランドにその姿を残しています。その中には「アンネの日記」で有名なアンネフランクもかつてこの地に収容されていました。収容所に張りめぐらされている有刺鉄線には、二二〇ボルトの高圧電流が通じていたそうです。そこで脱走者は皆死んだのでした。フロ場と見せかけたガス室で、たくさんの命がうばわれました。老人や女性、子供も。

 うちの父は、
「その頃の人々は心が貧しく、誰かを犠牲にしないと生きていけなかったんだよ。人間が人間を殺すなんて、世の中でこんなに悲しいことはないね。」と語ってくれました。

 人間という動物はどうして幾度も同じ過ちを繰り返してしまうのか。どうして、世界各国がそれぞれ仲良くできないのか。私はそのことが不満でたまりません。人間は、皆同じ権利を持って生まれてきたのです。人間であることに誇りを持ち続けることも、とても大切であると思います。

 今、行われている激しい各地での戦争、内戦は、いつか終わるんだと信じ、強くこの時代を生きていかなければいけないと私は思います。今までに起きた戦争を、死んでいった犠牲者の人々のためにも二度と起こさないようにしてほしいです。

 これからくる新しい時代、二十一世紀には世界の人々が仲良く助け合っていける世になってほしいと強く願っています。

平和について(3年男子)

 平和とはいったい何でしょうか。辞典をひいて意味を調べてみると「戦争や争いなどがなくおだやかなこと」と述べられています。私がこの作文を書いている最中にも世界のどこかで戦争によって何人かの人の命が失われていっているでしょう。しかも同じ人間の手によって。

    その無情で残酷なこの「鉄の暴風」の犠牲者の多くは非戦闘員、その中でも弱者である、子供、女性、老人なのです。ある人は、「そんな出来事は、遠い外国のことでしかない。自分には無関係なことだ」
と考えているかもしれません。

 しかし考えてみてください。日本のある首相が「真上から落ちてくるミサイルは防衛不可能である。」と言ったのを覚えていませんか。その時は別にたいしたことじゃないと思ったかもしれませんがよく考えてみてください。 沖縄には米軍基地があります。その基地目がけてミサイルが発射されたらどうでしょう。突如として、私達の元から平和という状態がふきとんでなくなってしまいます。

    過去にそのような出来事がありましたか。確かにありました。もっともそのころはミサイルというものはありませんでしたが。

 時は1944年、10月10日。場所は那覇。人々はけたましい爆音で空を見上げます。友軍の演習かと思いきや、突然、大音響と共に地がゆれ、火柱が上がります。アメリカ軍の爆撃です。突如として人々の元から平和が失われたのです。その時平和は過去の出来事になってしまいました。これがかの有名な十・十空襲です。

 この空襲で人々の戦争に対する意識が変わってしまいました。今まで戦争とは遠い外国の出来事で、自分たちにはあまり関係ない、と思っていたことでしょう。今の私達と同じです。しかし、これだけではありませんでした。

 年が明けて、1945年、3月26日、アメリカ軍の攻撃から身を守るため壕に避難していた人々は、ものすごい艦砲射撃の音で目をさましました。人々は、その時初めて自分の故郷で戦争が始まろうとしていることに気づきました。

    やがて米軍が上陸。島民の苦難の日々が始まりました。それから約3ケ月後、人々は南へ南へと追いつめられていきました。そこで人々がみたものは何だったでしょうか。地面は死体でいっぱいです。そして、飢え、アメリカ軍はそこまで迫まってきます。

 人々は選択をせまられました。米軍の捕虜となるか自決するかです。多くの人は死を選びました。米軍の捕虜になることは恥だと教えられてきたからです。何と悲しむべきことでしょう。3ケ月の間一生懸命生きてきたのに、自らの手で自らの命を絶ったのです。余りにも悲しすぎます。つらすぎます。悔しすぎます。生きようと思えば生きられた人々を戦争は無残にも消しさってしまったのです。

 このような悲しい出来事の後、6月23日に組織的な戦争が終わりました。そして8月15日の終戦。ところが沖縄では、九月の始めまで、ゲリラ戦や集団自決が続いていたのです。なぜですか。6月23日に自決した司令長官が、最後まで抵抗を続けるようにとの命令書を残していたからです。何と罪深い、無責任なことでしょう。この命令がなかったらいったいどれだけの人の命が助かったでしょう。

    ここにも戦争の悲惨さが読みとれます。そしてようやく9月7日に、無条件降伏しました。これが50年前の私達の住んでいる沖縄で起きたことなのです。

 どうでしょうか。戦争がこれほど悲惨であることを人類は経験していながらなぜ戦争を繰り返すのでしょうか。こんなに悲しいものであるのになぜなくならないのでしょうか。

    それは、その教訓や悲しみの前に憎しみや、敵対心がくるからです。この傾向がなくならないかぎり真の平和は決して訪れません。地球に住んでいる人全員が、心から平和にするための努力をしなければ、決して地球は平和になりません。ですから私達は、本当に平和を望むなら、まず心の中から変えなければなりません。

    利己的な心ではなく利他的な心を持つよう努力しなければなりません。そうすれば真の平和が訪れるでしょう。そうです。戦争は悲惨なものであるという考えと、利他的な愛を地球人全員が持つならば必ず真の平和が訪れるでしょう。そうです。この世から戦争がなくなるのです。

ひめゆり資料館」を見学して(2年女子)
 
 私たちは今、とても便利な世界で、とても幸せにくらしています。私は、うまれたときから、こういう生活をしてきたので、そんなのあたりまえだと思っていました。

 しかし、「ひめゆり資料館」を見学してみて、今のこの平和な生活がどんなに大切なのかを教えられました。

 ここの資料館には、戦争でなくなっていった学生さんたちの顔写真がはられてありました。これを見て、私は改めて戦争がどんなにこわいものかを知りました。

 この人たちは、戦争中毎日毎日、爆弾から逃げなければいけません。しかも、沖縄は地上戦だったので、アメリカ軍からも逃げなければいけません。もちろん、戦争中は食べ物もありません。自分で探して食べるのです。この苦労は、私の想像の何十倍、いや何百倍大変だったと思います。

食べ物をみつけても、おなかいっぱい食べられる日は、一日もなかったと思います。
眠る時だっていっしょです。薄暗くてこわい防空壕の中で眠るのです。布団なんて一人でかぶれなかったと思います。学校の授業では、包帯の巻き方などを習います。

 よくこの人たちは、こんな生活を耐えられたなあと思います。私だったら、ぜったいにこんな生活したくもありません。でも、この人たちも何回も「もういやだ。」と思うことはあったと思います。

 この学生さんたちは、今でいうと高校生くらいのとしでした。高校生っていうと、みんな将来の仕事を決めてもいいころです。きっとみんな将来の夢をおいかけて、一生懸命命がけで戦争中も、必死に生きてきたんだと思います。

 そういうことを考えると、戦争は憎くてたまりません。戦争で生き残った人も全員、私の倍くらいはそう思っていると思います。いや、私はそう思っていてほしいです。

 今も、どこかで戦争をしている国がいくつかあるでしょう。戦争に巻き込まれてしまった一般の市民は、今どんな気持ちなんでしょうか。

 私は、戦争の体験者ではないのですが(もう、戦争なんて二度としたくない。もうこんな生活はいやだ。)と思っていることはあると思います。未経験の私にさえこんな気持ちが分かるのです。それがどういうことかわかるでしょうか?

 私はこう思います。戦争は、誰だってやりたくないもの、してはいけないもの、やらせてはいけないものだと思います。

 人は、どうして争いをしてしまうのでしょうか。地球は、人間だけが生きている星ではありません。動物や植物、昆虫も生きています。それで地球なのです。人間だけが生きているんじゃないということを忘れてはいけません。戦争をしてたくさんの動物が死んで、植物も焼けてしまいました。だから絶滅しそうな動物たちが出てくるのです。動物たちにとっては、戦争とはいい迷惑です。

 地球全部の生き物たちが、こんなにいやがっているものをなぜやってしまうのでしょうか。戦争しなくても話合いだけで解決はできないのでしょうか。それは私にも分かりません。

 早く平和で生き物たちが暮らしやすい世の中になっていってほしいです。誰だってそう思っているはずです。そのためには、今の生活がどんなに幸せということかを忘れてはいけません。

 最後に、私はこの「ひめゆり資料館」を見学して、このようにたくさんのことを教えられ、考えさせられました。この資料館は、戦争で生き残った数人の人たちが(あんなこわい戦争は、もう二度としてはいけない)という気持ちで建てたものです。

 だから、私たちもその人たちの努力を受け継いでいかなければいけないと思います。私は、今その人たちに感謝しなければいけません。この人たちが建てなければ、こんなに深く考えなかったと思います。まだ、この資料館を見学していない人がたくさんいます。もっとたくさんの人たちに見てもらいたいです。

 そうしたら、この資料館を建てた人たちや、今戦争で苦しんでいる人たちの思いや、願いが伝わってきます。私はもちろん伝わってきました。この願いが伝われば、きっとわかるはずです。どんなに戦争がこわくておそろしいものかを。

命の尊さと平和への顧い(2年女子)

 私達、M中学校では1学期に「平和学習」を行いましたが、みなさんは平和についてどのくらい考えさせられたでしょうか。

 私達2年生は、ひめゆりの塔の資料館を見学してきましたが、改めて命の尊さと平和について考えさせられました。

 資料館へ入って、まず目にとまったことを順々にあげてみると、一つめに、15歳から18歳ぐらいのひめゆり学徒隊の人達が戦死していること。二つめに、昔の病院の後から出てきた医療品があったこと。三つめに、防空壕の内部が再現されたもの。四つめに、生き残った学徒隊の体験談をつづった本が置いてあったことでした。

    私は、今、資料館にあっただいたい全てのものをあげています。つまり、私にとって戦争の恐ろしさを伝えるものが数多くあったのです。私はそれらを見て、とてもこわく、口では言い表せないほどの感じに包まれた気分でした。

特に体験談が私にとって、戦争の恐ろしさが一番伝わってきました。友達が亡くなったこと、病院内での様子など。今、思い出してもぞっとするものばかりがつづってありました。

 それから、資料館を見学し終えて、私には最後までどうしても分からないことがありました。それは、ひめゆり学徒隊、それに他の学徒隊の方達は、学徒隊に入隊すると聞いてうれしかったのか、それとも嫌だったのかです。学校でもらった資料の中には、「男子が国のために兵隊に入隊して、戦死してしまった人々は神社にまつられるのがうらやましかった」と書いてあったからです。

    でも、私は絶対に嫌です。みなさんも同じ気持ちだと思います。それで、このことを疑問に思ったのです。しかし、入隊後は嫌になった人が数多くいたと思います。私だって戦争に巻き込まれるのは嫌だからです。その理由は、家族や友達と離れ、死ぬのは嫌です。だから、この戦争で生き残った方も亡くなった方もそれは絶対に嫌だったと思います。みなさんはどうでしょうか。みなさんも私と同じ気持ちのはずです。戦争をやって「うれしい。楽しい。おもしろい。」なんて思う人はいないでしょう。

 今年で終戦から53年経ちました。今でも戦争を体験した人々の心の痛みや悲しみ、苦しみは絶対に消えることはないでしょう。それに、その痛みや悲しみは、今の私達、現在の若者には、絶対に本当の気持ちは分かりません。それは、本当の気持ちは、それを体験した本人にしか分からない気持ちだからです。つまり、それを聞いて感じた気持ちと本当に体験し得た気持ちとは全然別だと私は思います。

でも、だからといって、聞いて何も感じないのはおかしいです。話を聞いて感じ、その人のために何かしてあげたい、と思うのはもっともっと大切だと思います。だから私は、みなさんがこんな気持ちになれたら──と思います。

 私は今、裕福な暮らしをしていますが、それはみなさんも同じだと思います。それは世界が平和な証拠です。しかし、それはほんの小さな証拠にすぎません。なぜなら、最近の話でいうと、北朝鮮のミサイル発射事件、日本の各地で次々と起きている毒入り飲料事件など、こんな恐ろしい事件がこの世の中で起きているからです。

    その前のことでは、テロ事件、宗教戦争などがありました。実際にこんなことが起きるのはとても怖いことです。日本の毒入り飲料事件にしても、犯人はこんなことして何になるのだろうと思う程です。日本の各地でこんな恐ろしい事件が起きている間、この世界のどこかでまだ飢えに苦しんでいる人々がいるのですから、私は、とんでもない世の中になったなあ、などと思いました。

 そして、突然戦争の話にまた戻るのですが、人と人が憎み合い、争い、そんなことして何になるのだろうと、最近の事件もそれと同じように考えてしまいます。

 最近、私はいろんな事件が起こるたび、物騒な世の中になったなあと思います。今、戦争は起きていませんが、いつかまた戦争が起こる、なんてことになったら、今の自分の生活をぶち壊され、暗いどん底の闇の世界におとされる──なんて考えると怖いです。だから、一刻も早く世界が安定した世の中になり、私の一番の敵、戦争もなく世界の人々に本当の幸福・平和が訪れることを、私は心から願っています。

平和の大切さを(2年女子)

 私達、M中学校の2年生は、6月16日に沖縄における「ひめゆり学徒隊」を通して、沖縄戦の残酷さを深く知るために、ひめゆり祈念資料館に行きました。そこには、太平洋戦争の沖縄戦に関係する沢山の資料がおいてありました。

 沖縄戦では、90日余りの戦いになり、12万人余りの戦争と何の関係もない住民を死者に出しました。

 そこは、地上戦となった沖縄戦で、むりやり看護婦として戦争にかりだされて生き残った、かつての生徒たちが「二度と戦争を起こしてはならない」という決意で、ひめゆり平和祈念資料館が作られたと知りました。

 私は、その生き残った生徒たちの決意は、とてもすごいと思いました。普通なら、沖縄戦の苦しかったこと、悲しかったことを、忘れ去りたいと思って、考えないようにすると思います。でも、彼女たちは、それを「知ってもらいたい」という気持ちで、戦争の本当の恐ろしさを訴えているのです。

 私は、もっとそういう戦争体験者の話などを、世の中にだしてほしいと思います。そして、戦争のことを知らない人達に、知ってほしいと思いました。それを、多くの人々に知ってもらえたら、戦争はもつと少なくなるんじゃないかと思いました。

 資料館の建物の中に入ると、まず目についた物は、千羽鶴でした。その千羽鶴は、そのとき戦争でなくなった死者の数でした。

 第一展示室、第二展示室と、どんどん進んでいくにつれ、沖縄戦の残酷さが分かってきました。

 第三展示室では、南部撤退の様子をジオラマと、ひめゆり学徒隊以外の他の女学校の撤退とその後の状況を展示していました。

 第四展示室へ入ると、そこには広いカベ三面に、200余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記したアルホトパネルが並んでいました。

 私はその光景にぞっとしてしまいました。それは、その場所が薄暗かったからかもしれないけど、私は彼女たちの表情が、悲しそうに見えたからです。その中で私が一番心に残ったのは、「若い人々の死」でした。この「若い人々の死」とは、沖縄戦のひめゆり学徒隊のことです。その人々は、私とあまり歳が違わない15歳〜18歳ぐらいの少女たちだったのです。

 彼女たち、ひめゆり学徒隊や他の女子学徒隊の主な仕事は、伝令、飯上げ、水汲みでした。その他には、食料調整、切断する手足を押さえる、看護、排泄物の処理などをさせられていたそうです。

 この戦争のために、日本軍に動員されたのは219人の人たちでした。そして、そのうち128人は沖縄戦で亡くなりました。南風原陸軍病院に配置されたひめゆり学徒隊は、昼夜の区別なくつらく嫌な作業をさせられたと思います。私だったら、そんな所に長くいられないと思います。もし、そのときに私がそこにいたらと思うと、ものすごく怖いです。そういう恐怖の中で、戦争のために働いていた少女たちの気持ちを考えると、胸がいたみます。

    大人にもならないまま、若い命を失い死んでしまった彼女たちは、とてもかわいそうだと思いました。私はそこに行って、戦争はひどいことをする無意味な行いだと思いました。

 私はこの平和祈念資料館に行って、今までより戦争はおろかだと思いました。何のために戦争が起こるのか、何のために多くの貴い命を失うのか、その戦争のために無残な出来事を、また起こさせないために、私たちはいろいろと戦争について知る必要があると思います。また、それは大切だとも思いました。

 私たちは今、戦争のないときに生まれたから、戦争の本当の恐ろしさは、あまりわからないけど、この「ひめゆり平和祈念資料館」に行って、平和とは何か、それがどれほど大切で大事なことであるかを知りました。

 私は、このような戦争が二度とどこの国でも、この世界中どこでも起こってほしくないです。そして、みんなが平和だと言えるような世界になってほしいです。

ナガサキに翔ぶ」から学ぶ勇気(2年女子)
  
 長崎の原爆で二十七万〜八万人が被爆し、爆風や熱線、それの引き起こした火災で約七万人の人々が亡くなったそうです。私の住む沖縄も沖縄戦で約二十万人の人々が亡くなったそうです。

    私は、戦争が憎いです。大嫌いです。人々の尊い命を物のように奪った戦争。また、敵国の軍につかまって捕虜になるくらいなら自殺せよと教え込んだ人も憎いです。自殺して何になるの? ただ、その人の命が亡くなるだけ。私は自殺して大切な一生−一回きりの命−を終わらせるより、つかまって捕虜となり、生きる道をさがす方がいいと思います。

    それから、上の偉い人は、若者の尊い命より領土を選ぶとは卑劣すぎると私は思います。私は、結局、人間とは自分の利益のためなら周りが見えなくなってしまうのだろうかと考えました。そして、「名誉の戦死をとげられた」とよく、その人が亡くなった時に家族の方々に届けられますが、「名誉の死」って何? 国のために死ぬ事が「名誉」なの? じゃあ、国のためなら、一生の内の一回きりの死をおしまないって事? と私は考えてしまいましたが、それはおかしいと思います。

    おまけに家族はそんな紙きれは待ってない!ただ、自分の子が元気に帰ってくる事だけを待っているのに─。

    また、上の偉い人は直接戦わず、勝てと言いはり、若者達を家族から奪い、亡くなってしまったら「名誉の戦死をとげられた」という紙きれを送るだけ─。その紙をもらった親の気持ちは底知れないものだったでしょう。私は、その人じゃないし、経験がないので、その人の悲しみが分かりません。それでも、励まして共感したいです。そして、自分がよければ周りはどうでもいいというような考えや、親が戦場の子に向けて、国のために死ななくていいから、元気な姿で家に帰って来て、と口に出せば処罰されるというような政府のやり方は汚くて、私は腹が立ちます。煮えくり返りそうです。

 私は、この本を読んで改めて戦争について考えさせられ、早く世界中から戦争がなくなる事を願います。また、人間が人間を殺すという過ちがなくなってほしいです。もちろん、人間だけでなく、動物、植物、鉱産資源、大気を、地球を殺すという過ちを世界中からなくし、皆が正しい道を歩んで行ける事を私は望みます。でも私だけではなく、他の人も過ちに気づいてほしいです。

 戦争−それは人の心まで変えてしまうもの−私は、戦争とはまるで、人の命を吸い込む掃除機のようだと思います。人の心まで変えてしまい、人を殺せと教える戦争。とても憎いです。また、他に戦争という道ではなく、他の取るべき道はなかったのかと私は考えてしまいます。(その当時の事を何にも知らない私が言うのは変ですが。)

 私とこの本との出会いは、姉のおすすめの本として始まりました。私の心には、おもしろいのかなあという疑いもありましたし、「ナガサキに翔ぶ」という題で何となく戦争の事ではないかと感じました。そして、それはあまり本を読まない姉が勧めてくれた本なので、どんな本だろうという楽しみさもありました。私は、わくわくしながら、一頁ずつめくっていくと、本に吸い込まれていきました。

    この本は、京都の綾部中学の生徒会と福留美奈子さんを中心に募金活動をし、「ふりそでの少女像」を作っていくという話です。でも、私にとって、ゾッとした所がありました。

    それは、原爆で美奈子ちゃんの頭蓋骨にぽっかり穴が空き、脳味噌が見えていたという所です。想像すると恐ろしくなりました。綾部中学生徒会と志なさんの小さな願いが、周りの人々の暖かい協力と見守りのおかげで大きな願いとなった事で、私はすばらしいなあと思いました。

 私は綾部中学生徒会に一番胸をうたれました。学校に募金活動を断わられても、活動を続ける姿に。なぜなら、もし私が、綾部中学生徒会の立場で、福留美奈子ちゃんの事をかわいそうだと思っても、生徒会のような勇気はおこせなかったと思います。そんな私は綾部中学生徒会のような何にでも立ち向かえる「勇気」がほしいです。

 また、私の通うM中学校は三年生の修学旅行に千羽鶴を奉納します。私はその千羽鶴に中学校の皆の願いが宿り、戦死した方々を慰める事ができるといいなあと思います。そして、私はこの時代に生まれてよかったと心から思います。

「飛べ千羽鶴」を読んで(3年女子)
 
 終戦して十年が過ぎたのちも、多くの人々の尊い生命をうばってしまったのろわしい原爆のつめあとに、今までとは違った戦争の恐ろしさ、悲惨さを身にしみて感じました。

 被爆した当時二才だった禎子は、身体を傷つけることなく無事で終戦をむかえたはずだったのに、十年のちのだいぶ病気が発病した頃に放射線の白血病であることがわかりました。もはや終わったと思われた戦争に、一瞬のうちに胸をつかれてしまったくやしさは、以前と同様はかりしれないものだったと思います。いえ、幸福の中に迷い込んできた突然の不幸に、以前よりもずっときずついたに違いありません。

 自分の体の状態を知らず「すぐに治るよ。」とばかり聞かされ、ゆったりとベットに横たわっている禎子がものすごく哀れに思われました。

 私には、自分の病態を知っているのと知らずにいるのとどちらが病人のためになるのか分かりません。

 しかし、あとで禎子が自分の病態を知ってしまった事は決してまちがいではなかったと考えます。確かにそれは、まだ十二、三才の思春期の少女にとってすごく残酷な事だったかもしれません。だからといって、何も知らずに残り少ない人生を、最後にあっけなく終わらせてしまうほうがもっと残酷な事のような気がします。

 やはり禎子は自分にせまられている危機をものすごくおそれていました。あたり前の事だと思います。

 しかし、禎子は必死に苦痛をおさえ決して泣き事など言いません。むしろ、どんな時でも愛らしい笑顔をむけ、精一杯生きようとする意欲さえ感じられました。

 ある日、女子高校生から「原爆症への皆さんへ」としてたくさんの折り鶴が病院へ送られてきました。禎子はすっかりこのきれいな鶴が気に人り、鶴を折りはじめたところ千羽折ると願い事がかなうという事を友達から聞かされました。

 それから、禎子の鶴を折る態度が変わりました。きっとねがいをかなえてもらうためには、いい加減な気持ちで折るような事はできなかったのだと思います。体がだるくつらくても、手を休めずに真剣に折り続ける姿に「生きたい。」という強い意志を感ぜずにはおれませんでした。

 ここまで強く病気と闘える事ができたのは禎子の意志の強さと周りの人達の励ましやいたわりがあったからこそだと思います。
病気で苦痛と戦かっている人にとって一番必要なものは、苦しい時に背中をさすってくれる温かい手や心細い時にしっかり支えてくれる腕や、人の真心だと思います。薬よりもなによりも生身の人間の手の方が何倍もの心の支えになるのではないでしょうか。

 がまん強く、それほど苦しみがあっても、人にそれをうったえるようなことがなかった禎子だけに、死は突然やってきたかのように感じました。周りの人に心配かけないようにしようと、一度も痛いとも恐いとも言わなかった禎子はけなげだったと思います。そのけなげさに基づき、禎子に多くの人達が永遠の生命を送ってくださいました。

 禎子の死は決して生命のピリオドではありません。被子は今、原爆の子の像として平和記念公園の一隅から、世の人々に原爆などのない平和な世界をつくろうとうったえています。

 原爆の子の像を美しく飾る折り鶴のように平和へのねがいの輪をつないでいけたらきっとすばらしい世の中になると思います。

 風が吹けば吹きとばされてしまう折り鶴であっても、平和へのねがいを込めて鶴を折ることで戦争のない世の中をつくりたいという思いを世界へ押し広げていくことができるのではないかと私は考えます。

 再び広島、長崎の悲劇が起こらぬよう世界中の人々が手をとり合い、平和を願っていかなければならないと思います。

「望郷」を読んで(3年女子)
   
 この本を読み終えて、改めて感心したことは「戦争というものは、戦後何年たとうと、人の心に深い傷跡をのこしているのだなあ」ということです。なぜなら、戦後四十年以上たった今でも、戦後日本に帰えれなかった人達、日本にいる肉親探しを続けているからです。

 私は初め、「戦争をなんとかとめることはできなかったのか。政府の命令をそのまま聞く方も聞く方だ」と思っていました。しかし、そのころは、政府が国民にうそをついていたのです。

 「日本はアジアの文明の遅れた国々を一つにして、文化の栄える豊かな大東亜共栄圏をつくるために戦っているのだ」と。そして、新聞は鬼畜米英をかきたて、学校でも「日本は正しいことをしているのだ。」と、教えることを強制されていました。これを読んで、「ああ、無理もない。新聞や学校の先生がまちがっているなんて誰か思うだろうか。そのまま信じきっていただろうな」と思いました。

 しかし、その裏で政府は、アジアをまとめるどころか、軍隊の力によってアジアの国々を侵略し、おさえつけていたのです。「大東亜共栄圏」をつくるために戦う、といいながら、なんてひどい事をするのだろうと思いました。その政府のついたうそのために、どれだけの犠牲者がでたことでしょう。

 この本に出てくる山本さんも、その犠牲者の一人です。政府の満州国への移民募集で、奥さんと小さな子供二人をつれ、阿智郷開拓団の教師として大陸に渡りますが、それからたった二か月半で、ソ連が開戦にふみきったためににげなければならなくなってしまうのです。

 「たった二か月半で……。それも自分達を守ってくれるはずの日本軍は、もうとっくに逃げ始めている。」どんなに悔しかったことかと思います。避難する街まで百二十キロ。こんなに長い距離を、ソ連軍から逃げながら、そして、降り続く雨、空腹と寒さと戦いながら、歩いていかなければならないのです。「ここに来るんじゃなかった」と何度も後悔したことでしょう。

 山本さん達は、途中で会った中国人から、日本軍が負けたことを聞くのです。この時、山本さん達はどんな気持ちだっただろう。私には想像できません。

 この中国人が親切で、日本人が収容されている所につれていってくれます。その時はとても安心したのだけれど、ここで山本さんはソ連兵に無理やり連れていかれ、奥さん子供と離れ離れになってしまうのです。「せっかく助かることができたのに」と悲しくなったけど、日本だって中国に同じことをしていたのだと思うと、胸が痛くなりました。

 日本へ帰ればまた奥さん達と会えるだろうと、私も思っていたのだけれど、日本で山本さんを待っていたのは、家族の死亡報告でした。私なら立ち直れないだろうけれど、山本さんは「いつまで泣いていても死んだ者の供養にはならない。それより私にはやるべきことがいっぱいある。」と、阿智村満州死没者名簿をつくりはじめるのです。
生きて帰ってきた者としての責任を一生懸命果たそうとしている山本さんは、本当にすごいと思いました。

 山本さんは、中国から届いた一通の手紙で、中国残留孤児の肉親さがしをはじめます。中国残留孤児というのは、太平洋戦争の混乱の中、中国大陸で肉親と離れ離れになったまま、今日にいたった人達のことだそうです。

 今ではニュースでもよく聞くこの肉親さがしですが、そのかげに山本さんのすごい努力があったのだと思います。はじめは、役人さんもだれも相手にしてくれなかったそうです。中国に残された孤児達は、きっと心細くて、日本へ帰って父母に会いたかっただろうと思います。今まではニュースでみるだけで、別に気にとめなかった中国残留孤児ですが、戦争の犠牲者であり、この人達の中では、まだ、戦争は続いているものと思います。

 戦争なんて起こさなければ、こんな悲しいことは起こらなかったのに……。

 私は戦争の本当の恐ろしさというものは知らないけれどこんなことは二度と起こしたくない、起こしてはいけないと、強く思いました。平和について、ゆっくり考えたいと思います。

「白旗の少女」を読んで  (3年・女子)    

 沖縄戦における戦死者の数。日本・正規軍人六五、九〇八人、軍属・防衛隊二八、二一八人戦闘参加者五五、二四六人、一般住民三八、七五四人、計一八八、一三六人。この一八八、一三六人という死者の数字を見ても、今だにピンとくるものがありません。それは、私が戦争の起こった時代に生まれてはいなかったためではないかと思います。また、ひめゆりの資料館での写真を見ても、映画を見ても、祖父母の話を聞いても「むごいな、かわいそうだな、大変だっただろうな」と思うだけで、実際の恐怖、地獄を味わったことがないためこの様にしか感じることが出来ませんでした。

 しかし、「白旗の少女」に出てくる女の子の実際にあった体験、行動、言葉、様子などさまざまな思い出が書かれており、それを読みながら頭の中で想像することによって、まだなんとなくですが「戦争のおそろしさ」といったものを少しだけ知ったような気がします。

 白旗の少女、こと松川富子。今は比嘉に変わっているそうですが、この人の体験にはとってもおどろきました。 母が脳膜炎の悪化のため死に、父は通信隊の仕事で真壁に行ったきり帰ってこなくなり、また、三男の兄は米須の海で流れ弾が頭を貫通し、即死。二人の姉とは途中で別れてしまいとうとう一人っきりで、あの当時まだたった七歳になったばかりの女の子が戦場の中を逃げ惑っていたのです。私の七歳のころの体験とは全然ちがうのでびっくりしました。

 少女は一人で逃げ惑っているうちに死んだ兵隊の持っている雑のうという袋に入っている手軽な食料品やお菓子を取って食べることを覚えました。また、金平糖という甘いお菓子を小さな子供へ分けてあげるというやさしい心ももっており、頭のいいやさしい子だなと感心しました。

 しかし、この少女とは裏腹に、自分が生き延びたいがために、傷を負った仲間を次々と殺していったり、赤ちゃんを母親の目の前で崖から落としたり、または首を絞めたりするという残酷な人間がいたことです。

 私は、アメリカ兵よりも日本兵が一番残酷で、きたない魂だと思いました。又、同じ人間であるのにどうして人を簡単に殺せるのか何も感じないのかと悲しくなりました。
 少女も日本兵に殺されそうになった内の一人です。

 少女は、姉を探すためにいろんなガマへ毎日行くのでそのうちガマに隠れている人々まで見つかってしまうということで、日本兵が少女に切りかかったのです。少女は一生懸命逃げましたがとうとう崖のはしへ追いつめられ兵隊に切られそうになった時、少女の立っている小さな岩がくずれて一直線に崖下へ落ちてしまったのです。そのまま死んでしまうのかと思いましたが、少女は崖の中腹に生えている一本の枯れ木にひっかかり、生きていたのです。

 他にも少女は、何度も何度も殺されそうになっては運よく助かったのです。そして最後まで生きつづけました。少女が海岸のガマで出会った手足のないおじいさんと、目の見えないおばあさんからもらった白旗を持って。

 少女は、この戦争の中で最も大切なことをおばあさんとおじいさんから学びました。それは「この世で一番大切なのは、人の命なんだ」ということです。

 これを読んで私は、沖縄の「命どう宝」という言葉がとってもすばらしい大切なものなのだと思いました。

 私が住んでいるここA地区は、沖縄の激戦地で、一家全滅の家や、人々が隠れていたガマなどさまざまな場所が残っています。又、私の父が土地改良の仕事で土を掘っているとそこから戦死者の遺骨が出てきたりなど、今だに見つかっていない遺骨もあり、もしかすると私が歩いた道にも埋っているのではないかと考えると怖くなってきます。

 今、私の家の近くには、「B 塔」をはじめ、戦争に関するさまざまな場所があります。又、家から三百メートルほど行った所には「C病院」という戦争中に使われたガマがあります。今では森といったような所になっていますが、あまり近くには行きたくありません。

 「白旗の少女」を読んで、沖縄に実際あった事を学び、戦争のおそろしさ、残酷さをまた少しだけ知ったような気がします。これからも、もっともっと聞いたり見たりして学習していき、他の人にも沖縄ではこういうことがあったんだよ、と読ませるようになれたらいいなと思います。

 又、沖縄に残っている基地問題も、早く解決して、本当の平和が沖縄にやってくるといいなと思います。

「慰霊の日」のテレビを見て    二年(女子)

 私はテレビで「平成元年沖縄全戦没者追悼式」というのを見ました。戦争で家族を失った人の話や、ひめゆり同窓会の人の話を聞きました。その人の話では、自分が壕の中で看護婦をしていた時に、その人のお父さんが壕の中に入れてくれ、と言ったけど、院長が民間の人は中に入れてはいけない、と言ったのでどうすることもできない、って言うと、その看護婦のお父さんは、すごすごと帰っていった。後で、看護婦の人は「お父さん」と叫びながら探しにいったけど、お父さんには会えなかった、というのを聞きました。

 私は看護婦だった人が、お父さんを壕の中に入れたくても、きまりだからどうすることも出来ないで、苦しんでいただろうな、と思いました。

 他にも、ひめゆり平和祈念資料館の中や、「かんからさんしん」の映画を作った嶋津与志さんの話もテレビで見たり聞いたりしました。

   資料館の中には、ひめゆり部隊で亡くなっていった人達219人の写真が張られてあって、写真の人達が見ている人に、今にも話しかけてきそうな感じでした。また、生き残った人達の証言も書かれてありました。そのひめゆり平和祈念資料館に実際に行って見ると、戦争がどんなものだったのか、また、ひめゆり部隊だった人達の気持ちも少しは分かりそうな気がするので、近いうちに行ってみたいと思います。

 嶋津与志さんの作った映画、「かんからさんしん」というのも、一部テレビで見ました。ガマの中で自決をしようとしていた人達が、一人の少女の歌声を聞き、死ぬのをやめる所です。少女の歌声が、やさしいお母さんの様な声で歌っているのが、なんだか心にしみこんでくるようでした。この映画も、できるだけ見に行きたいと思いました。

 私は、小学一年くらいの時からよく父が戦争の話をするのを聞いてきました。父が八つくらいの時に戦争があって、父と兄とお父さん、私のおじさんと祖父の他は皆で本土に疎開して、おじさんと祖父は沖縄に残って仕事をしている時に、祖父が爆弾に当たり、亡くなったそうです。また、疎開する時に乗った船が、「対馬丸」の後ろか前の船だったと言っていました。私は、父たちが乗った船が、「対馬丸」でなくて良かったと思い、もし「対馬丸」に乗っていたら………とも思いました。

 私は戦争をしていた時代に生まれなくて良かったと思いました。でも、今の世の中は、ぜいたくになっているとも思います。あんまり豊かになって、戦争のことを忘れていくような感じがします。みんなが戦争のことを忘れていくと、また同じことが繰り返されるようで、なんだか恐いような気がします。

 どうして戦争が起こったのだろう。なぜ沖縄が激戦地になったんだろうと考えると、どんどん疑問な点が出てきます。なぜ戦争をするんだろう。なぜ人を殺すのだろう。

 私はこれから先、戦争がなくなって、平和な世界になってくれたらいいなあと願います。戦争をしていた時代に生まれていないから分からないけど、戦争があったというのを忘れないで、二度と繰り返さないように、と願っています。

 慰霊の日のドラマを見て    二年(男子)

 僕は小さい時から戦争の話をお母さんから聞いていたせいか、戦争のことを聞いたり見たり読んだりすることが好きで、なぜか「慰霊の日」が毎年楽しみです。ただ休みだからたのしみではなくて、新たに戦争のことを知ることができるからです。

 今日は、「慰霊の日」なので、テレビで戦争についての番組がないかと思って新聞を見ると、なぜか今年は戦争の番組が少なくて、ニュースで慰霊祭のことがあるほかに、「何時の日ぞ」というドラマが一つあるだけでした。そして、そのドラマを見ました。

 内容は、三良というおじいさんがいて、昔は村の区長を勤めるくらいの人が沖縄戦で妻を亡くし、南洋に兵隊で行った息子の蒲助も亡くしたために、気をおとしてしまい、浜辺で細々と暮らしていた。蒲助を思い出している場面で、蒲助が戦争に行く時に
「ティヒサァヤネーンナラワン、カンナジケーテクウヨウ(手足がなくなっても、かならず帰ってこいよ)」
と、おじいさんが言った言葉に感動しました。

   でも、ある日のこと、この村の区長さんが来て、南洋で死んだと思っていた蒲助が生きて帰って来るという通知を持って来ました。前に届いた戦死したという通知は戦争が終わったばかりで混乱していたために、まちがっていたようでした。おじいさんは、帰って来たらお祝いをしようと喜んでいました。蒲助が帰って来る日に、蒲助のいいなずけと区長さんとで、戦地から帰ってくる人達の詰所へ行って、待っていたが、蒲助だけ来るのが遅いので、おじいさんは船着場へ見に行きました。

   おじいさんが船着場に行っている間に、いいなずけが通りかかった兵隊に蒲助のことを聞くと、その兵隊は蒲助と戦友で戦争では、生き残ったが傷が悪化して死んだと話してくれて、遺骨を渡しました。船着場から戻って来たおじいさんは、このことは知らず、いいなずけも区長さんも死んだと言うことができませんでした。でも、いいなずけと区長さんの行動がおかしいことで蒲助が死んだことを知り、それでも表面では死んだことを知らないふりをして、一人悲しんだという話でした。

 この話はドラマだけのことではなくて、本当にこんなことがあったと思います。例えば死んだと思っていた人が生きていたり、戦争では生き残っても傷やマラリアなどの病気によって死んだ人などです。こんな苦しい殺し合いはやってはいけないと思います。

   今、「慰霊の日」の休日について問題になっていますが、休みでなくなると戦争はやってはいけないや、戦争で犠牲になった人達のことなどが、忘れがちになって、慰霊の日は、あっても休みでないと実感が湧かないと思うので、絶対に休みをなくしてはいけないと思います。

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