課題研究-04年度後期

[制作者注]
※ホームページ編集に際して題名を一部編集しました。また、学生及び文中の人名を匿名にしました。
※引用文献や参考文献はホームページ用に編集する際割愛しました。
※表現上や論理上における不適切な部分や明らかなミスには手を加えました。
※文中、グラフ等は表に転換してあります。

1 沖縄戦により被害を受けた那覇市の文化財 13 沖縄戦での虐殺・虐待の実態
2 浦添の住民はどのように戦争に巻き込まれていったのか 14 住民の「集団自決」はなぜおこったのか
3 沖縄のハンセン病患者の状況 15 ガマ避難生活と住民
4 波照間島における戦争マラリア 16 北部の避難生活はどのようなものであったか
5 本島北部の戦争の状況について 17 戦時中の新聞報道について
6 国民を戦争に動員するために行った教育 18 宮古島の戦争被害
7 学童疎開について 19 沖縄戦の住民と日本兵について
8 沖縄戦のスパイ視 20 朝鮮人強制連行について
9 なぜ沖縄に在日米軍の75%が集中しているのか 21 沖縄戦中の住民の暮らし
10 なぜ沖縄で地上戦が行われたのか 22 沖縄戦にいける「集団自決」について
11 何故、沖縄が戦場となったか 23 戦場で働く少女たち〜ひめゆり学徒隊〜
12 住民はガマでどのような生活を過ごしたのか

1 沖縄戦により被害を受けた那覇市の文化財

         
社会文化学科3年次 M・S

1 はじめに                    
 戦争で失われるものは人の命だけではない。自然環境や人為的景観、そして過去の大切な遺産である文化財も失われる。それは、沖縄においてもそうだった。沖縄戦において、沖縄に存在した多くの文化財遺産は被害を受け破損もしくは消失した。

沖縄は日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦が行われたこともあり、文化財の破壊は目を覆いたくなるような現状だ。沖縄には、旧国宝保存法により国指定の文化財に指定されていた文化財がいくつかあった。識名園や円覚寺がそうであったが、それらも例外なく破壊された。

 文化財と平和教育をどう結びつけるのかと、中間発表の際に指摘を受けたが、平和教育で取り扱うのは、戦争で失われた人命だけでいいのかと考えた。戦争というものが、ただ単に人命を奪うだけでなく、平和に文化的に健康的に生きるということを奪う、言い換えれば、人間らしい暮らしを奪うということを子ども達に教えたいのだ。

   過去に生きた人々の生活を遺物や遺構から肌で感じ、当時の人々に思いを馳せる。文化的な暮らしの一部分に過ぎないが、大切なことだ。自分たちの住む地域の歴史、国の歴史、そして人類の歴史まで思考を広げていくことによって、命のつながりや人類の進歩が実感的に感じるだろう。

   歴史を肌で直接的に感じることのできるものは、本物の遺物や遺構といった文化財以外にないだろう(復元された歴史的遺産ももちろん歴史を感じるが、やはりそこには、新しさがあり、歴史という時間の経過を吹き込むことは決して出来ない)。過去の遺産は失ってしまったら二度と同じものを作り出すことは出来ない。それ故に人類にとって大きな遺産であるものが、戦争で奪われたという悲惨な事実を子どもたちに知ってもらいたい。

2 調査対象とした文化財                   

  沖縄戦で被害を受けた文化財を調査するにあたり、沖縄県すべての文化財を対象にすると、あまりにも範囲が広がりすぎてしまうので、那覇市の文化財に限定した。なぜ、那覇市にしたかというと、那覇市、特に首里は、琉球王国時代・グスク時代の政治・経済の中心であり、その時代に関係する遺産が多いことに理由がある。

 那覇市の文化財のなかでも更に限定するが、国指定の文化財と県指定の文化財に限定し、市指定の文化財は省く。国指定重要文化財のうち、無形文化財である組踊りや典籍・古文書は対象から外す。また県指定文化財のうち、本土に疎開され比較的戦禍を免れた絵画・三味線・工芸品・古文書・典籍・書も対象から外す。建造物であるか、比較的大きな文化
財で、戦争時に保護するために持ち運ぶことが出来ず、被害を被ることを余儀なくされた文化財に限定している。

 よって、今回の調査対象としたのは、那覇市の国指定重要文化財14と県指定文化財25、計39の文化財について調査した。

3 被害の状況                     

 この小論では、全ての調査対象文化財の被害状況を述べることは割愛し、特に破壊の著しいものや戦前に国宝指定をうけていたもの、及び現在世界遺産に登録されているものの被害の状況について述べる。

3−1・首里城跡(国指定史跡・ユネスコ世界遺産)                 

   首里城は、琉球王国が成立した1429年から、王国が崩壊した1879年までの約450年間、国王の居城するグスクであった。戦災を受ける以前の首里城正殿は、約1.74mの基壇の上に建てられた沖縄最大の木造建築物であり、高さ16.36mあった。旧国宝保存法により1929年に正殿が、1933年には、守礼門・歓会門・瑞泉門・白銀門が旧国宝に指定された。1945年、沖縄戦で、艦砲射撃の砲火を浴び、焼失してしまった。戦後は、ブルドーザーによる整地を受けてそのまま琉球大学の敷地となった。

 首里城跡の地下は、沖縄防衛第32軍司令部壕として利用されていたこともあり、米軍の攻撃の的となった。そのため、建造物のほとんどが破壊され、木造建築物は全て焼失した。現存して残るのは周囲を巡らしていた石垣の極一部である。

 戦前の首里城正殿の写真と終戦直後の写真を見比べると、その破壊の規模は一目瞭然ある。同じ場所を撮影したのだが、終戦直後の写真には、建造物は全く写っておらず、焼け野原となっている。かろうじて、正殿前にあった石の灯篭が見て取れる。また、正殿の基壇には、戦火を受けて変色したものや階段の踊り場部分が破壊され凹んでいる部分もある。首里城の発掘調査報告書の発掘日誌から、砲弾の破片が大量に出土したことが分かった。

3−2・円覚寺跡(国指定史跡)               

 円覚寺は、琉球での臨済宗の総本山で、第二尚氏王統の菩提寺であった。尚円王を祀るために1492年に着工された。寺の周りは琉球独特の石垣で囲まれ、1080坪の敷地の中に禅宗七堂伽藍の形式を備え、鎌倉の円覚寺に模した寺であった。1933年に、総門・放生池・三門・仏殿・鐘楼・獅子窯・龍淵殿が旧国宝に指定されが、沖縄戦で破壊され、建造物は
全て焼失した。

 旧国宝に指定された木造建築物は、全て戦火により焼失した。また、石造物もことごとく破壊された。また、戦後、琉球大学の教員官舎が建てられたため、建物の基壇や遺構は破壊され埋蔵された。

   現在、放生橋・前鐘・中鐘・楼鐘・木像白象及び趣意書が国指定重要文化財に登録されているが、それらも全て被害を受けている。梵鐘類においては、弾痕や擦り傷がみられる
が、全体的にほぼ完形のものが多い。終戦直後に掘り出されたり、海外に持ち出されていた例が見られる。放生橋の勾欄の親柱の上には、小連れの獅子の彫刻が乗っていたといわれるが、柱頭は破損し、獅子像は一対が残っているだけである。

3−3・玉陵(タマウドゥン・国指定史跡・ユネスコ世界遺産)       

 玉陵は、第二尚氏王統歴代の墓である。尚真王が、尚円王の遺骨を納めるために建造され、1501年に建てられたとされている。墓陵は大きな規模で、内郭と外郭に分かれ、高い石垣で囲われている。墓室は、東室・中室・西室の3つに分かれている。東室は、洗骨後の王・王妃・世子・世子妃の遺骨を安置し、中室は洗骨前の遺体を入れるところで、西室にはそれ以外の家族の遺骨を納めた。創建当時に近い状態で保存されていたが、1945年、沖縄戦により墓室や勾欄や石垣の一部が破壊された。

 玉陵は、1974年から大規模な修復工事が行われ、1977年に修復された。その際の修復資料から玉陵の被害状況がみてとれる(資料3参照)。修復資料から分かるように、残存していた石材は、全体の3分の1程度であり、とくに中室の破壊が大きかったことが分かる。

 玉陵の左右袖にある塔の上には、閃緑岩製の石彫獅子が据えられているが、沖縄戦で墓庭に落下し、破損・欠損した。

3−4・末吉宮跡(国指定史跡)               

 末吉宮は琉球八社の一つで、俗に末吉の社檀と言われていた。尚泰久王代(1454〜60年)に創建され熊野権現が祀られ、多くの信仰を集めていた。末吉宮には、本殿・拝殿・祭場があり、それぞれ石段でつながっていた。明治時代に拝殿は崩れたものの、琉球神社建築独特の形をもつ本殿と、複雑に入り組んだ琉球石灰岩の石段は、戦前、旧国宝に指定された。しかし、両者とも沖縄戦で破壊された。沖縄戦による破壊によって旧国宝指定されていた本殿と石段は、国宝指定を解かれてしまったが、復元され、石段は県指定有形文化財・建造物に指定された。

3−5・識名園(国指定名勝・ユネスコ世界遺産)       

 識名園は、旧琉球国王家であった尚家の庭園である。創設年代は不明であるが、1800年に来航した冊封正使の趙文楷、同副使の李鼎元ら一行らを歓待するために創られたと言わ
れている。

   1941年に国指定の名勝になったが、1945年の沖縄戦で破壊、消失してしまった。沖縄防衛第32軍司令部壕が首里城下にあったため、首里城の後方に位置していた識名園は、米軍の猛烈な砲撃を受け、地上の木造建築物は全て焼失してしまった。しかし、池や石造建造物は一部破壊されたのみで、原型は保存された。

 また、園内に野戦病院があって人の出入りが激しかった関係か、艦砲の集中射撃を受け、草木は跡形もなく吹き飛ばされ、大木は根こそぎに引き抜かれ、焼け焦げた樹幹が地中に突き刺さり、根が上向きになっていた。大木が枯れ、池の水が絶えてしまった為、温帯性の栽培種は枯死してしまい、識名園内の植生は一変してしまった。

3−6・旧波上宮朝鮮鐘(県指定有形文化財 歴史資料)     

 戦前、波上宮に掛けられていた鐘の一部である。資料によるとこの鐘は、956年に朝鮮で造られ、のち沖縄にもたらされたもので、高さが約80cm、口の直径が約55cm、胴に飛天や菩薩像が彫られていたと言われている。旧国宝に指定されていたが、沖縄戦で破壊され、かろうじて竜頭(鐘の上部につけた竜の頭の形をしたつり手)などの一部が残ったのみであった(資料4参照)。この竜頭は、真っ黒に焼けただれて、ほとんど原形をとどめていないが、朝鮮の鐘の特徴である旗挿しの穴が残っている。

4 まとめ                         

 那覇市の文化財は、そのほとんどが戦災文化財といっていい。擦り傷程度の被害から原形を留めていないものまで、被害状況は様々であった。しかし、戦災を免れたものは、本土に疎開させていた典籍や古文書であり、沖縄に残された文化財はことごとく破壊された。今回は文化財の被災状況の調査に留まってしまった。米軍の攻撃目標や侵攻ルートと文化財被災状況の関係や、首里城や識名園のように戦時中に日本軍によって利用された文化財的建造物が他にあったのかを調べたいと思っていたが、時間がなく調べきることが出来なかった。しかし、是非調べたいと思うので、この調査から卒業論文につなげることができればいいと考えている。

2 浦添の住民はどのように戦争に巻き込まれていったのか

              日本文化学科3年次 T・J

 私の生まれ育った地である浦添が、沖縄戦当時に激戦地だったということは知っていた。しかし講義を通して沖縄の住民が強いられてきた悲惨な境遇や強制労働、避難生活のことを学んでいく中で、それでは浦添で生活をしていた住民達はどうだったのかということを考えたとき自分が何一つ知らないことに気づいた。

 沖縄戦のことをもっと知っていく為の手始めとして地元のことをよく調べるべきだと考え、浦添の住民がどのような形で戦争に巻き込まれたのか、どのように避難したのかを調べるという課題を設定した。浦添に日本軍が集中的に駐屯するようになったのは昭和19年8月頃からのことで、兵舎として学校があてられていたが、駐屯する部隊が増えるにつれ民家も借用するようになった。

 日本軍が駐屯する家では兵隊達が一番座・二番座(家のいい場所)を使い、住人は台所や離れなどに追いやられた。そして、仲西飛行場建設の為の徴用や食料の供出も強制された。初めのうちは代金や賃金も支払われたが後々払われなくなった。家畜についても、豚の戸籍をつくり、無許可に屠殺することは禁じられ、住民の生活は苦しくなっていった。

 次に男性、女性、子どもに区切って報告する。
 まず男性であるが、兵役に就いていた者をしらべると戦闘の話に重点が置かれそうなので省き、それ以外の者を調べることにした。徴兵から外れていた17歳から45歳くらいまでの者が国家総動員法や勅令を基に防衛隊として徴兵され、日本軍と行動を共にしていた。昭和19年頃から徴用され始め、馬車を持っている人は馬車ごとの徴用だった。

 仕事は初めのうち弾薬・糧秣運搬が主な仕事だったが、戦争が烈しくなるにつれ、死体の処理や地元の地理に長けているということで夜間の斬り込みの案内役を任されたり、さらには「(斬り込み時に)小隊には戦車を壊す急造爆雷が二個しかなかったが、そのうちの一個を私が背負い」「私らは、急造爆雷をだいて敵戦車を待ち伏せするように命令されました」(浦添市史)と証言があるように、戦闘・斬り込みへの参加の強要もあった。

 また、激戦地であったため艦砲や機関銃の弾が激しく飛び、その中を弾薬の運搬や負傷者の護送をさせられたので多くの犠牲者が出た。そんな状況下で、たいていの人が日本軍への恐れや、逃げたら戦争に勝った後、軍法会議にかけられるという情報を信じて日本軍のいいなりになっていた。しかし、自分の考えを基に日本軍の理不尽な態度に対して猛然と抗議し、また同行している防衛隊に対して避難することや捕虜になることを勧め、多くの仲間の命を救った人もいた。

 次に女性について述べたいと思う。女性も米軍上陸直前までは徴用に駆り出されていたが、戦火が激しくなると老人・子どもと共に山原地域への疎開を命じられた。しかし身よりのないことや女手のみで避難することの不安から地元部落に残る者が多く、小さい子どもや年老いた親と共に激戦の続く中を逃げ回ったのである。そのことがさらに戦争被害者の増すことの原因の一つとなった。

 浦添市史に載っている戦災状況の図(P408)と各部落ごとの戦死者の戦死地、戦死時の表から検証すると、西海岸から日本軍司令部のあった首里へと続く地域での戦死率がたかく、その戦死地は地元が多く、死者数はちょうど米軍が浦添を通過した時期に一番多い。

 このことから、多くの住民が避難しきれずに死んでいったことが言えるだろうと思う。
また、女子といえども15歳以上は戦力になるという考えから、青年女子は疎開を認められず、残った者は義勇隊や救護班として日本軍と行動を共にし、炊事や救護の仕事をするようになるのである。壕に避難している者であっても、日本軍や周りの避難民にけしかけられ、はいそうですねと何の疑問も持つことなく救護班に加わり、そして行動を共にしていくうちに自分も兵隊としてお国の役にたっているという感覚に陥り、「私たちは死んだら靖国神社に祭られることになったから、もういつ死んでもよい、戦争さえ勝てばよいという気持ちになっていました。」(浦添市史)と、戦闘に献身的に加勢していくのである。しかし日本軍は救護班の面倒まで見ない場合が多くみられた。

 防衛隊と女子救護班の事例から読みとれることは、経験や教育の力、情報規制が、人間の思考能力、認識能力に及ぼす影響の大きさである。防衛隊の中で一人自分の考えを持っていた人がいたことを述べたが、その人は中国に出征した経験からして日本軍の防衛隊に対する振る舞いを理不尽だと認識し、日本軍からの情報に惑わされず、戦闘の不利さを見てアメリカが一等国であるという情報などから、米軍が捕虜を殺さないだろうと思考して避難や捕虜になることを勧めていたのである。

 しかしこの人の例は稀であって、大多数の人が内容の制限された偏った報道しか知らされず「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」の教育勅語や皇民化教育を徹底的に教え込まれ、自らが情報の中から取捨選択し主体的に判断する、自分の頭で考えるという力を奪われ、結果として日本軍に流されるようになってしまったと考えられる。

 最後に学校に通う子ども達、生徒についてだが、子ども達も徴用の例外に漏れず勤労奉仕として飛行場づくりの土運びや増産作業をさせられて、授業というのは殆ど行われない状況だった。そして浦添でも学校単位での学童疎開があり、浦添国民学校と仲西国民学校の生徒が、共に宮崎県へ疎開している。しかし疎開先も楽な生活ではなく、配給金不足による食糧不足や慣れない寒さ、沖縄差別などに悩まされた。そんな中、浦添国民学校疎開者のみで愛汗学園というものを創設したのである。自分たちで畑を開墾し、製塩や縄づくりなどを地元の人から請け負って自給自足の生活を送ったという事実は、他の学童疎開の例にはあまり見られないものである。

 これまで調べてきて差別という共通点があることに気がついた。日本軍の非道と思えるほどの徴用や供出の要請、防衛隊や救護班に対する法を越えた扱い、県外の者の疎開者に対する態度。すべてが大和より沖縄を下等とみなしていることからくるのではないだろうか。そういう意識が戦争と共に住民を苦しめる結果になったのではないだろうか。浦添だけを調べたがこれは県全体に通じることであると思う。

 今回のレポート作成や、これまでの講義で、今まで以上に戦争の悲惨さを知った。そして戦災を増加させた原因として、人間としての尊厳のない教育勅語や皇民化教育といった教育の力による部分が大きかったことを知り、教育の影響力のすごさ、それが間違った方向に進んだときどんなに恐ろしいことになるかを知った。と同時にそういうおかしな流れを断ち切る力も教育は持っているのではないかと考えた。そして教育の最前線にいるのが
教師である。
 私が教育の最前線に立ったとき、子ども達には人間らしい生き方を教えることが出来るようになりたいと思った。その実現のためにも、周りに流されるとか、言われるまで待つとかでなく自分で考える、そして自分なりに課題を見つけて行動してみる。そういった力をこれから身につけていこうと考えている。

 また、テーマについての今後の課題として、今回は浦添特有の事例というのがあまり調査できず、沖縄県全般でも調べられる内容になってしまったので、これから浦添独自のものを探し、調査していきたいと考えている。

3 沖縄のハンセン病患者の状況

                 社会文化学科3年 T・M
 はじめに

 私がハンセン病患者について調べてみようと思ったきっかけは、私の祖父の姉がこの病気とともに沖縄戦で命を失ったと聞いたからである。空襲や銃で命を落とすことではなく、自然の力、つまり病原菌によって命を落とした話しから、ハンセン病の患者は病気との戦争、身の回りから受ける差別による戦争だったのではないかと感じたからだった。これをきっかけに沖縄戦とハンセン病について調べていきたいと思う。

 ハンセン病とは

 らい箘の感染によって生じる慢性の系統疾患。らい箘が体内に進入し感染が成立すると、はじめ神経障害、次いで皮膚などに病状が進行すると、他の臓器がおかされていくという病気。慢性の伝染病はあるが、伝染力はきわめて弱く、通常の接触では感染せず、感染し
てもほとんど発病しない病気である。

 沖縄のハンセン病
 ハンセン病患者について、最初の全国調査がおこなわれた1900年、全国の患者数は、3万359人で、沖縄は547人であった。その後、1940年には、国1万5763人と半減しているものの、沖縄では、1453人と増えている。ハンセン病は、生活水準向上によって減少していくものであるが、この結果から、沖縄の生活水準がかなり低かったことがわかる。

 ハンセン病患者の強制収容と沖縄戦

 沖縄には、ハンセン病の患者が送り込まれた施設が宮古と本島の本部半島すぐ側の屋我地島にあった。(宮古には宮古南静園・本島本部には沖縄愛楽園)
 44年8月初めに牛島満軍司令官が着任してから、9月には大規模な強制収容をおこない、有無を言わさず各地から乱暴なやり方で連行して収容された。そして9月末には、収容定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。何故、強制収容をおこない徹底隔離していったのか。それは、住民を根こそぎ動員する戦時体制の強化によって、兵士への感染を恐れ、日本軍隊の戦力が低下することを防ぐ為である。

 入園者で死亡したのは、1164人。内戦争犠牲者とされるのは、274人である。その中で米軍の爆撃による死者は、幸い一人だけですんだ。また、壕生活での栄養失調・マラリアやアメーバ赤痢などによって、多くの犠牲者をだしている。

 強制収容の実態についての違い

 ○入所者側
 収容の仕方はひどい。軍刀で脅して、着のみのまま何も持たさないで連行。あっちには布団・洋服、その他何もかもあると行って連れていかれると、そこは布団半分、食べ物も半食という世の中だった。と、「県史」のなかで入所者が語る患者収容の様子である。

 ○収容者側
 強制収容をおこなった側は、らい隔離をする必要性を沖縄全住民に知らせ、島全体を一人残さず検診し、二百名に近いらい患者を見つけた。「無謀な暴力的収容でなく検診による光田主義収容を認めてくれた牛島満司令官、長参謀長には今も尚心から敬慕の念を禁じ得ない、今は哀悼あるのみだ」と語っている。

 ○比較
 この入所者と、収容をおこなった人の証言には、大きな異なる点がある。強制収容をおこなった側によると、「無謀な暴力的収容でなく検診による…」収容といっているが、それに対し入所者側は、おどされ、有無を言わさず連行と語っている。明らかに、両者の言っていることは矛盾している。しかし、強制収容されたハンセン病患者は世間の目から偏見され、非常に大きな差別を受けていたのは事実である。

 次に収容された患者が園内でどのような生活を送っていたのか、空襲を目の前にした当時の愛楽園園長と患者による防空壕堀の様子を整理してく。

 防空壕
 園内には軍が指導して造らせた、縦型の堀抜き壕があった。沖縄には四月以来、建物すれすれに飛ぶ偵察機がひんぱんに現れており、目の前に現れる大きな飛行機に、私たち子供は狂喜していた。入園者自治会青年団が中心となって、より頑丈な防空壕堀は進められてきた。

園長…「生命が惜しかったら壕を掘れ! 早く掘らんと間に合わんぞ!」
 その頃、日本の敗色は日に日に濃くなり、サイパン島では日本守備隊が全滅していた。しかし沖縄にはそんなニュースは全然入らず、みな、日本の勝利を信じて安心していた。
入園者…「今度の園長は鬼だね」
入園者…「早く壕を掘れだの、急いで畠を作れだの、せっかちだったらありゃあしない。俺なんかお陰で怪我をして、これこの通りさ」
入園者…「俺もさ、傷が敗血症になりかけているから指を切断するって言うから、『指なんていわず肩から切ってくれ』ってタンカ切ってやったら、『バカヤロー』って凄い声で怒鳴られてさ、まったくぅ」
入園者…「俺なんか一日注射をサボっただけなのに、『俺はキリストさまじゃあないんだから触っただけじゃあ治らない』って、えらく怒られたよ。『そんなに早く裏山に行きたいかぁー』ってさ」
入園者…「裏山って火葬場のある所だろ? ハハ…」
(『沖縄のハンセン病患者所について』より)

 抗生物質のない当時は、敗血症も恐ろしい病気だった。防空壕堀などで怪我した傷口が悪化すると、そこから血液の中に毒が入り込み、命取りになることが多く、それを対処するためには、切断しかなく、園内では、トタンとゴムで作った義手や義足をつけた患者があちこちにいたそうだ。

 「園長の指導と共に、屈強な青年団を中心に壕堀りは続けられ、体の不自由な人は、つるはしを包帯で手に縛り付け、労働力が提供できない人は、働く人のために食料を調達したりと、みな一丸となって防空壕堀に参加した」(『ハンセン病 上巻』より)と、防空壕とハンセン病患者の様子を整理してみた。

 ハンセン病患者への差別

 ハンセン病患者に対する差別の問題に触れていきたい。米海兵隊員として北部に行ったH・L・ピーターセンさんの証言によると、北部でハンセン病患者が小屋に閉じ込められていた。住民から「誰にも感染させたくないので、小屋を焼き払いたい、しかし患者を閉じこめたままでは焼きたくないので、患者は外に出して米軍の手で殺して欲しい」と希望された。住民は小屋に火を放ち、髪が垂れ下がった患者を縄で縛って連れてきた。軍医の許可を得て、米兵が射殺したという。こういった証言から、当時のハンセン病患者に対する偏見な眼差しを感じ取ることができる。

 ハンセン病患者に対する差別は、沖縄だけにとどまらず全国的に恐れられ避けられてきた大きな人権問題である。この問題は、住民すべての人を戦場に根こそぎ動員するために行われた、ハンセン病患者の《強制隔離政策》が徹底された時代から続いている。愛楽園から沖縄のハンセン病患者の遺族への遺骨引渡しもほとんどなく、その遺族たちは、「今になっても周りの目が気になる」(『遺骨60年ぶりに遺族へ ハンセン病患者の沖縄戦犠牲者』より)といって、遺骨を引き取ることにも、ためらいを感じている。

 次に、実際に沖縄のハンセン病患者と接した人の証言を参考資料として、つづっておきたい。

 鹿児島・沖縄の愛楽園で実際に働いていた女性の証言
 井藤道子は一九四一年(昭和十六年)五月、二十四歳の時に鹿児島県鹿屋市のハンセン病療養所・星塚敬愛園の看護婦になった。その年の十二月、太平洋戦争が始まる。

 警察がハンセン病患者を連行し、収容所に強制隔離する時代が続いていたが、開戦ととも「祖国浄化」が強調され、患者の隔離収容は強化された。入園者は激増し、食糧も医療材料も乏しい中、死んでいく者が続出した。

 「強制収容で無理遣りに連れて来られた人が、残してきた妻や子供たちを案じ、わが家を恋い慕いながら、貧しいベッドの上で死期を思いつつ心の底の悲痛を訴え、収容への恨みを洩らす時、胸が詰まって慰めの言葉が出ず、ただ手を握ってうなづき涙を流すのみでした」(星塚敬愛園入園者自治会機関誌「姶良野」一九九六新年号)

 次第に戦火は激しくなる。沖縄は本土の防波堤となり、ついに陸上戦が始まった。道子が働く星塚敬愛園には、数多くの沖縄出身者が収容されていた。その中の一人の少女が涙を流しながら道子にこう訴えてきた。
 「一度でいいから沖縄へ帰りたい。井藤さんのオーバーの中か、大きなトランクの中に私を隠して沖縄へ連れて行ってよ!」

 道子は親しい医師に怒りをぶつけた。                       「日本の軍国主義者たちが強い者勝ちの国づくりをし、戦争などするから弱い者がこんなに苦しい、悲しい境遇になるのと違いますか。らいの予防よりも戦争を止めさせる戦争予防が、らい予防の先決問題なのではないでしょうか?」

 戦争は道子にとって、自分が愛する患者や子供たちを苦しめるだけのものだった。道子が祈りを重ね、待ちに待っていた終戦を迎えた。混乱の中、食糧確保に走り回りながら、少しずつ平和に向かって歩み始めた。しかし、沖縄の惨状が伝わってくると、入園者の多くを占める沖縄や奄美大島などの出身者たちの不安な思いが園全体に漂ってきた。

 このころに道子が詠んだ短歌
 我がふるさと最早あらずと泣きじゃくり訴ふる汝よ那覇に生まれし
 国籍は天に在りとぞ励ますに頷きてまた泣きじゃくる少年
 郷里のたより絶ゆるに今宵はも自殺未遂すらい重き少年
                  (歌集「野の草)

 敗戦から二年目、道子が「祈りの丘」と呼んでいた星塚敬愛園の小さな丘に、入園者たちが自由に来ることができる「祈りの家」を建てようと計画を進めていた時、思いがけない出来事が起こる。それは、神に導かれたとしか言いようのない沖縄行きだった。

 一九四七年(昭和二二年)五月、全国各地のハンセン病療養所に入園していた沖縄などの出身者が、ふるさとにある療養所の沖縄愛楽園への転園帰還願書をマッカーサー司令部に提出し、許可された。

 道子は、沖縄から本土に引き揚げてきた看護婦から、爆撃を受けて全壊した沖縄愛楽園の様子をつぶさに聞いていたため、患者が大挙して沖縄に移ることに反対だった。

 沖縄愛楽園は、沖縄本島北部の本部半島の内海に浮かぶ周囲16キロの小さな島、屋我地(やがじ)島にある。戦時中、ここを米軍は日本軍の基地だと思い、徹底的に攻撃。爆弾約六百発、ロケット砲弾約四百発、艦砲約百発、機銃弾約十万発を浴びせ、治療室、重病舎、礼拝堂、作業所、入園者の病棟は跡形もなく焼け落ちた。

 爆撃での死者は少数だったが、防空壕の建設に駆り出された入園者の多くは傷が悪化したり、栄養失調、マラリアなどにかかり、戦後わずか一年で三百人近くが死んだという。
(『オアシス「そして、人がいた」』より)

☆まとめ☆

 当時ハンセン病は「遺伝病である」や「不治の病である」と言われ人びとはハンセン病を大変おそれ、またハンセン病の患者に対して偏見な眼差しで対応しました。そのため、強制収容されたハンセン病患者達の多くは、家族、親戚から縁を切られ、自分の身の周りの人に迷惑をかけないようにと自ら本名を捨て、園名を名のるようになった。今では、ハンセン病は遺伝病でもなければ、不治の病でもないということがわかっているにもかかわらず、依然社会にはハンセン病に対する偏見があるために、元ハンセン病患者たちは、親戚、家族から受け入れてもらえない現実がある。また、人生の半分以上療養所で暮らしていることから、一般社会には生活基盤がないという厳しい現実もある。このような状況では、ハンセン病問題は解決したといえるだろうか。

4 波照間島における戦争マラリア
                       社会文化学科3年次 A・Y
 1 はじめに
私は卒論で波照間を取り上げたいと思っている。波照間の基本的事項を整理するためにも、今回の教職総合演習をきっかけに波照間における戦争マラリアについて調べてみようと思い、このテーマを設定した。戦争マラリアについては、これまでの学校生活の中で慰霊の日の平和教育などで学んできた。しかし、それは「生徒」として受動的に得た知識である。そこで今回は自らこのテーマを設定し、これから波照間と関わっていく者として戦争マラリアをどのように受け止め、解釈するのかという点を重視したいと思う。

 2「戦争マラリア」とは
 戦時中、八重山の住民は、軍の命令によりマラリア有病地での避難生活を強いられたため、マラリアが流行し、多くの犠牲者を出すこととなった。これは従来のマラリアの発生とは異なり、戦争によってもたらされたものなので「戦争マラリア」と呼ばれている。今回は特に波照間島で起きた戦争マラリアを中心に見ていきたいと思う。

 3 マラリア病とは
マラリアとは、原生動物の体内に存在するマラリア原虫によって起こる病気である。夏に流れの悪い川などで発生するハマダラ蚊によって媒介され、人間がその蚊に刺されることにより感染する。吸血にさいして蚊から人体に入った病原虫が肝臓や赤血球などに侵入すると、高熱や貧血を繰り返し、体力が弱まると死に至ってしまうものである。このマラリアがいつから流行するようになったかは明らかではないが、1530年頃に西表島近くで難破したオランダ船の乗組員によって持ち込まれたとする説がある。

 昭和20年当時の波照間におけるマラリア被害をみると、全人口1,275人中、罹患者は1,259人で人口の98,7%、そしてそのうち死亡者は461人で36,2%に上っている。なぜ波照間の人々の多くが沖縄戦の前後にマラリアの被害にあっているのかを考えてみたいと思う。

 4 西表島疎開への経緯
波照間の人々は日本軍の命令によってマラリア有病地帯である西表へ疎開させられ、疎開先でマラリアの被害にあっている。波照間の住民はどのような経緯で西表島へ疎開することとなったのか沖縄県史10巻から辿ってみたいと思う。

 1945年2月初旬に波照間校に青年学校の指導員として山下寅夫が赴任した。山下の青年学校での様子については戦闘の訓練を行ったり、爆弾を身の回りに置いていたりと、謎の存在であった。

 1945年3月下旬、竹富村長をとおして疎開命令が、波照間出身の村会議員の仲本氏に伝えられた。「アメリカ軍が波照間に上陸するという情報が入ったから、急いで西表島南風見田に疎開せよ」という内容であった。仲本議員ができないとつっばねて村長を返すと、現れてきたのが一学校の指導員の山下であった。山下は高圧的な姿勢で疎開命令を人々に強要したという。この命令に対しての村での協議での山下の様子について、「山下は半ズボンをつけ、茶色の長い軍靴をはき、日本刀を二つ下げていた。誰かがこんな小さな島には米軍は上陸してこない、疎開には反対だと言うと、山下は顔を真っ赤にさせて怒り、日本刀を抜いてサッサッと振り回して、自分の言うことに反対する者はこの日本刀で斬ると威した。山下がそうすると、誰ひとりものを言う人がいなかった。」と記録されている。

 このように山下の疎開強要により人々はマラリアの有病地帯とわかっていながら西表島南風見田に移らなければならなくなったのである。

 5 家畜の大量屠殺
 疎開の準備に際して、山下は人々に「家畜は一匹たりとも残すな!」という命令を下していた。証言によると「山下の命令で、家畜を残しているとここに人がいるということで空襲をうけるから、早く屠殺をやれということで全部殺した」とされている。屠殺命令後、軍は何名かを伴って、島の豊かな家畜の徴発を始めた。屠殺後の肉のほとんどが軍に送られ、住民の食料となったのはほんのわずかでしかなかった。

 このことに関して県史では、「食料、特にたんぱく質に窮乏していた軍にとって、この波照間島の豊富な家畜は格好のものであり、そのうえ波照間には、当時かつお工場が六つあり、その加工施設、資材は豊富な牛馬の加工にも最適なものであった。この豊富な家畜と恵まれた加工施設を使って食料を確保するためには強制疎開という手段に出たと憶測されるのにあまりにも条件が整っている。」と述べられている。この記述からは、波照間における戦争マラリアの原因として、軍の食料のための強制疎開という一側面を読みとることができるのではないだろうか。

 6 疎開地南風見田での様子とマラリアによる被害
 疎開地での生活は山下によって、個々人の自由な行動は厳しくおさえられた。島には日本軍人は山下だけだったので、島のすべての権力の上に君臨し、学校長、巡査、区長、議員などすべてかれの軍刀の支配化におかれた。波照間の人々は山下による暴行・徴発を受け、また挺身隊の訓練などを受けていたという。

 波照間の人々の暮らしぶりについては、住民はすべて班単位で組織され、寝食ともに班で行っていたという。昼は行動できないので山に閉じこもり、夜になると暗闇の中で行動した。食事の準備は夜は灯がもれると敵に知られるという理由で朝と夕方に煙を立てないように準備した。家は防空のために木やアダンの下に細長くし、厳重に偽装したという。その環境は、梅雨期であったため木の下の家ではじめじめと湿って住み心地が悪いものだった。このように人々は山下による統制の中で過酷な避難生活を強いられたのである。

 マラリアによる被害については、南風見田は近くに川が流れていたがその流れは悪く、水は淀んでいたため、マラリア病原虫を運ぶハマダラ蚊が発生する条件の整った地であった。梅雨が明け、暑さが増してくると人々の恐れていたとおりにマラリア罹病者が増加し、死亡者も続出するようになった。疎開地には医師が同行していたが、マラリアの薬もなく、
また医療設備もなく、治療の術がなかった。

   その状況の証言として「私のお母さんは寝込んでばかりいて、もう意識もはっきりしていませんでした。それで、便も寝たままでするしもう大変で、班の人たちが後片付けをしてくれたのです」というものがある。

 そのような被害の中、波照間校の校長は1945年7月31日に疎開解除を訴え、帰島の許可を得ることができた。山下は宮崎旅団長から得たという疎開解除を拒んだが、人々は波照間へ帰った。しかし、帰島後もマラリアは猛威をふるい、それは戦後まで続いた。

 7 人々はなぜ西表島に強制疎開させられたのか 
 「人々はなぜ西表島に疎開させられたのか」という点について、M・S氏の『日本軍と戦争マラリア』で興味深い記述が成されている。この問題を明らかにするための証拠文書は何一つ見つかっていない。山下は「住民が南風見田を選んだ」と述べているという。

 この疎開の問題について、M氏は「県や支庁、軍が疎開方針を定めたのは、10月下旬の軍官民の兵棋演習で、八原博道参謀同席で決定したこと」という文章を見つけたという。しかし、45旅団の高級部員・参謀の東畑広吉の「覚書」(「八重山兵団防衛戦闘覚書」1988年)には、軍作戦での大事件である波照間島の住民避難については一切触れられていない。このことについて、M氏は極めて不自然だとし、軍の幹部に責任が及ばないように「知らん顔」をしているからであると主張している。

 8 終わりに
   これまで、波照間における戦争マラリアについて、文献や宮良氏の主張により考えてきたが、戦前・戦後にわたって人々に大きな被害をもたらした波照間における戦争マラリアの背景にはどのようなものがあるのか、ということを考えるためには、日本軍の目的を知る必要があると思う。

 第一に挙げられるのは、疎開の準備としての家畜の屠殺が軍の食料となったということである。このことに関しては、屠殺のために疎開を強要したという考えが導き出される。また、それはマラリア有病地帯とわかっていながら疎開を強行したという点からもいえる。疎開解除を批判したということについては、波照間の人々のことを第一に考えるのではなく、軍を最優先しているということがわかる。このようなことから、波照間での戦争マラリアからは、疎開という名で国のための強制移住が行われたということが浮かび上がってくる。そして、その根底にあるものは沖縄戦が本土防衛の捨石作戦であったということ、また、沖縄の人々の命よりも軍や国の命令が優先されたという事実があったということだと思う。

 今回の課題解決では以上のような結論を見出すことができた。しかし、それは現段階においての結論である。教職を目ざす者として、沖縄で生まれ育った者として、これからも平和について日々考えていきたいと思う。

5 本島北部の戦争の状況について
                                          商学科3年 S・T
 はじめに

 私は、本島北部で生まれ育ってきた。その本島北部も戦争(沖縄戦を含む)の犠牲になり、多くの人々の尊い命が失われた。そこで私は当時の本島北部の戦争の状況について詳しく知りたい、また、当時の本島北部の人々の気持ちなどを知りたいと思いこの課題を設定した。

 1 本島北部の被害者の実態
 沖縄戦を含むアジア太平洋戦争による戦没者の数は、239,092人である。そのうち、沖縄県出身者は148,610人で全体の約62、2%である。次に沖縄県出身の戦没者数のうち、本島北部の市町村の上位3市町村をみてみると、第1位が名護市で5,646人、沖縄出身の戦没者数全体の約3、8%、第2位が本部町で4,089人、沖縄出身の戦没者数全体の約2、8%、第3位が伊江村で2,829人、沖縄出身の戦没者数全体の約1、9%となっている。

 今回は、私の出身地でもある本部町について詳しくみていきたい。本部町の戦没者数の内訳を区別にみてみると、第1位が辺名地区で501人、本部町出身の戦没者数全体の約12、3%、第2位が崎本部区で500人、本部町出身の戦没者数全体の約12、2%、第3位が渡久地区で482人、本部町出身の戦没者数全体の約11、8%となっている。 以下、第4位が伊豆味区で351人、第5位が具志堅区で289人、第6位が謝花区で286人、第7位が瀬底区で279人、第9位が浜元区で254人、第9位が備瀬区で250人、第10位が伊野波区で249人、第11位が健堅区で247人、第12位が浦崎区で193人、第13位が並里区で190人、区不明者が18人となっている。

 これらのデータは、平成16年6月23日現在、平和の礎に刻まれているデータである。沖
縄県出身者については、昭和6年(1931年)9月18日の満州事変から昭和20年(1945年)9月7日までの間に、県内外において戦争が原因で亡くなられた方と、終戦後おおむね1年以内に亡くなられた方(原爆被爆者は無期限)などを刻銘の対象としている。

2 本部町の住民の避難場所について
 本部町の住民の避難場所について、Y・Yさんが証言している。

 昭和20年3月23日、その日は米軍が空襲と艦砲射撃によって、沖縄戦の火蓋を切った忘れがたい日である。その日、渡久地、運天港(今帰仁村)、伊江島なども那覇方面と同じく猛烈な空襲を受けた。
 3月25日、米軍の機動部隊が沖に現われ、本部半島の沿岸部落はしきりに艦砲弾を打ち込まれた。みんな混乱しておとなも子供も、持てるだけの食糧を背負い、先を争って大堂、山里、伊豆味などの山岳に避難した。
 4月7日、嘉手納から北進した第29マリン連隊が名護に侵攻、一部は羽地に、一部は海岸づたいに本部町の渡久地に侵攻した。羽地方面に侵攻した米軍は、戦車を先頭にその日のうちに羽地−名護の線で本部半島を遮断した。さらにその日に湧川(今帰仁村)9日伊豆味(本部町)に侵攻した。(中略)
 10日に米軍の一部は渡久地から、一部は並里方面から宇土部隊の主陣地八重岳を攻撃、両軍の戦闘が展開された。12日、米軍は八重岳、真部山の日本軍陣地を主として、山岳地帯に対して艦砲と迫撃砲で激しく攻撃してきた。宇土部隊はこの激しい砲撃を受けて、多数の戦死傷者を出し壊滅の状態になった。(中略)
 本部町の避難民たちは宇土部隊の羽地山方面への退却を知らされ、みんなこだまする爆裂音に追われながら安全な山を求めて転々と移動した。そのたびに手持ちの食糧を失い、その窮状は悲惨をきわめた。本部町の備瀬からきた避難民たちは、「山はかえって危険だ、食糧のある自分の村に帰ったほうがましだ。」と続々と山を降りた。(中略)
4月12日、伊豆味山岳の避難民たちは米軍の侵攻に追われ、今帰仁山岳へと移動した。

 以上、証言によると、本部町の避難民たちは山を避難場所とし、山を転々と移動しながら避難していた。なかには、山は危険だから、食糧のある自分の村に帰ってしまう避難民もいたようだ。

3 戦時中の食糧
 避難民がひしめく本島北部の山地などでは、ソテツや野草や海草しか食べられなかった。

 ・ソテツ…ソテツは食用にもなるが猛毒がふくまれている。野生のソテツを切りたおして厚い表皮をそぎ落とし、幹のしんの部分をうすくきざんで切干しにする。2、3日水にひたしてアクを抜き、さらにコモをかぶせて発酵させやわらかくなったところで、そのまま煮て食べるか、でんぷん粉にして保存する。毒をぬくのに1週間から10日かかる。製法をあやまると中毒する。

 ・イモ(甘藷)…戦前の沖縄の常食は甘藷であった。甘藷からとれるウムクジ(でんぷん)ウムカシ(いもかす)や切干(きりぼし)は、戦時食として保存された。戦場ではウムクジは水でといて赤ちゃんのミルク代わりにもなった。

 ・野草…イモやソテツを食べつくすと野草や海草が主食になった。ツハブキの茎や葉、アダンの若芽、オオバコやノビルなどは日常食で、しまいには山羊が食べるものは何でも食べるようになった。

 おわりに

 今回、以上のことを調べてきたが、戦時中は安心して住める家もなく、栄養のあるきちんとした食事も摂れず、多くの何の罪もない民間人が犠牲になった事実があることに対して、私たちが今幸せに生活できていることに感謝し、命の尊さを考えていくべきだと思った。

 私たちには想像もできないことが実際に沖縄で起きた事実をしっかりと受け止めて、安心して住める家があること、栄養のある食事を毎日摂ることができることを当たり前だと思わず、今日も平和であることに感謝し、また、明日も平和であることを願って、1日1日を大切にこれから生きていきたいと思った。また、人の命に誰一人として無駄な命などない。戦時中に何の罪もない尊い命が次々と失われたことを、今を生きる私たちは考えるべきだと思う。

 今は、生きることに疲れ自殺したり、気に食わないことがあったらすぐ人を殺してしまう。これでは戦争していたときと何も変わっていないと思う。戦争中の何の罪もない人々の死を無駄にはせず、みんなが平和で幸せに暮らせるような社会づくりを目指していかなければならないのではと感じた。

6 国民を戦争に動員するために行った教育

               地域行政学科3年 I・R

 テーマ設定理由

 今回課題を「国民を戦争に動員するために行った教育」に設定したのは、戦争を始めることができた要因に教育の存在があると思ったからだ。沖縄も含め、国民が「天皇バンザイ」といって死んでいったことはだれもが知っていることかもしれない。どのように国民を駆り立てる教育が行われてきたのだろうか?

 今回は、教育と一口にいっても範囲が広いため、戦前に行われた、偏った道徳教育の象徴的である「教育勅語」に絞ってみた。教育勅語をとおし、戦前の日本でどのような教育が行われていたのか、先人の築いた歴史を学ぶことが私たち教員を目指すものとして重要なことであると考える。また、これまで「教育勅語」をダメなものとして学んできたのがほとんどであると思うが、何がダメかを知る必要があると思うので、掘り下げて考えていくことにしたい。

 教育勅語を叩き込んだ戦前の日本

 教育勅語は1890年、天皇のお言葉として出された。当時の日本は天皇制であり、国家主義になっていた。国民は天皇にとって臣民(天皇に忠誠した国民)であり、現在のように「人間」としての権利がなく、子どもを産むことさえも天皇のためとされていた。天皇を「神」と位置づけ、天皇、皇后の写真「御真影」が奉安殿には飾られて、登下校の際は敬礼等をさせていた。終身科では教育勅語を中心に従順な臣民作りが行われていた。教育勅語がどのようにして人々に浸透していったか調べてみたい。

 一字一句、間違いなく読み書きさせられていたのが教育勅語である。教育勅語と御真影はセットで学校の校門近辺の奉安殿に置かれており、この二つを戦時中はどうやって守るかが教職員の間で問題になっていたそうだ。戦争の際、避難する時に、この二つよりも先に防空壕に入った生徒が怒られたりするなど国民にとって自分の命よりも重く、大切にされていたものであった。また、始業式など全体集会の場では教育勅語を読むのが習慣だったらしいが、読み間違えた校長はクビになったらしい。

 学校が火事になり誤って教育勅語謄本を燃やした校長は、自ら責任を償うとして切腹自殺したという例もある。当時、勅語の全文を覚えているか覚えていないかで就職が決まるといった例もあり、当時の人にとってどれだけ「教育勅語」が重かったか、いかに人間の尊厳が奪われているかが分かると思う。精神の統一を図り、国家にとって都合がいい思考停止状態の人間を育てるために、教育勅語を叩き込むなど道徳教育が国家戦略に利用されていたことがわかる。

 教育勅語の内容について

 本文をみてみると、「一旦緩急アレバ・・・」等、一部を除いては、ほとんど良いことばかり書いている。教育勅語で述べられている「孝行」「友愛」「夫婦の和」をはじめとする12の徳目は現代にも通じるものがあり、共感を得られるであろう。最近の森前総理による「神の国発言」をはじめとし、教育勅語の復活の声を耳にすることもある。教育勅語肯定派はこの12の徳目に共感し、現代人の公共心を育てようという意見がほとんどであると思う。きっと教育勅語を知らなかった人も、名前だけは知っていた人も、この12の徳目を知れば、肯定する人がほとんどであると思う。

 教育勅語は賛成か、反対か

 先ほども述べたように、教育勅語の内容自体にはあまり問題を感じることはない。教育勅語は賛成か?反対か?となったときに、賛成派は教育勅語のような人々の心の「拠り所」になるものは必要だ!または公共心が失われた現代だからこそ、道徳を教育勅語で学ぶ必要がある!!という意見が大半を占めていると思う。しかし、内容だけとか表面的な見方をするのではなく、もっと当時の社会体制や政治等、できた背景も含め構造的に見ていく必要があると思う。

 構造的に見た際、復活案に私は反対である。当時の日本は天皇ありきの個人であり、教育も天皇に忠誠心を持たせること、国体護持のための人間など、国民は洗脳され、天皇や国家のために人間が道具として使われており、本来の教育の持つ意味は失われていたことを知っておく必要がある。そして当時の人間は、自分で考え自分の意見が主張できるような人間ではなく、疑うことを知らない、国家にとって好都合な思考停止状態の人間が大量に生産されてしまった。

 すべては国家のため、国体護持のためであり、教育勅語の教えはすべて天皇につながっており、そこに人間としての個人の尊厳が失われていたことが問題であると私は考える。教育勅語の最後で述べている「どんな時代にでも通じる誤りのない教え」というフレーズは、どんな時代にも通じる普遍的な道徳として教えられているが、時代によって社会のあり方は変化していくものである。

 勅語では「夫婦仲むつまじく」などと当たり前のような道徳的なことが述べられている。内容を見てみると、いい事を言っていて、どこに問題があるのかは分からない。しかしこの当時の社会をみてみると「夫婦仲むつまじく」とはいっても、現在の夫婦の関係とは違い、妻は夫から暴力を振るわれたり、妻が夫に対して何もいえないような男女不平等の社会状況であった。「夫婦仲むつまじく」という言葉は一見すると聞こえがいいが、実際はその言葉が利用されていたということがわかる。

 社会状況を無視し、本当の意味で12徳目は達成ができていなかったのである。そして、教育勅語を通して道徳教育を強制的に叩き込んだ教育のやり方にも問題がある。叩き込んだ結果、命と引き換えに教育勅語謄本を守る者が出てくるなど、今の時代には考えられないほどの行動をとった者もおり、個人の人権はあまりにも軽視されている。勅語を使って天皇は何をしようとしたのか、それらを考えてみた時に、国民にとっての利益はなく、有害なものしかもたらしていなかった。

 私たちに残された課題

 戦前の日本は道徳教育をはじめ教育が国民のための教育ではなく、国家に従属するロボット人間を作る事が目的であり、国民自らの考える力を失わせ、国家の道具として国民を操っていたことをこれまで論じてきた。森前総理が言った「日本は神の国」発言をはじめ、憲法改正など逆コースといわれる時代になってきており、教育勅語を復活させようという動きもある。物事の本質を見抜く力が失われた時、または事実を知りもしないでメディアを通したものが全てだと思い込んでしまったとき、このような前森総理の発言を信じ、戦前の日本は素晴らしかったという価値観が生み出されてしまいやすくなるかもしれない。

 今回私は、「戦争に動員するために行った教育」というテーマで教育勅語をみてきたが、私たち教員を目指すものは、教育という手段によって自分で考えることのできる賢い人間を育てていかなくてはならい責任がある。そのためにも、教育とは何か?真の平和とは何か?を問い直す必要があるであろう。

 教育勅語を通し、戦前の道徳教育のあり方を見てきたが、道徳というのは人によって教えられるものでもなければ、ましてや強制されるものでもない。教育勅語を見る時、表面的に見るのではなく、できた社会背景や当時の政治のあり方、教育勅語のよってもたらされたものなど構造的に仕組みを見ていくことの必要性がわかった。

 戦争はダメだ!教育勅語はダメだ!とただ「ダメ」ということを伝えるのではなく、核心に触れ、考えさせることが大事であると考える。私たちは先人たちが築いた歴史を通して、真の平和とは何か?を語り継いで行く必要があるであろう。今後は、沖縄における同化政策の一環である「皇民化政策」から戦争に動員された教育のあり方について追求していきたい。

7 学童疎開について
                     日本文化学科3年 K・T

 課題の設定
 課題は、「学童疎開について」である。下位課題として3つの面から「学童疎開」を見ていく。1つめは「嘉義丸」「湖南丸」「対馬丸」の比較。資料に基づき、自己で作ったデータからこの3隻の死亡者、学校教育での捉えられ方を見ていくことにする。2つめは、1つめの課題を掘り下げて考えていき、「対馬丸」を取り上げ更に細かく考える。3つめは、「湖南丸」に関連した本から、内容や状況を分析し、その背景に何が起こっていたのかを明らかにする。

 課題設定の理由としては、「湖南丸」に関する本を読み、愕然としたことがきっかけである。今まで、疎開船といえば、「対馬丸」というイメージが自分の中で定着していたが、そうではないという事実を突きつけられたからである。また、教える立場で考えてみると戦時中に同世代の現状に興味を示すだろうと考えたからである。

 では、まず疎開について確認する。
疎開:疎開という言葉には色々な意味があるが、ここでは沖縄が戦場になることが予想されるので、戦災にあわないようにあらかじめ安全な場所へ移ることである。
県外疎開:1994年(昭和19)7月7日。政府の緊急閣議決定に基づいて、南西諸島から約10万人の老幼婦女と学童を南九州と台湾へ疎開させる計画を立てた。沖縄県下の沖縄本島、宮古島、八重山島から本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引揚げさせよという指示だった。

 学童疎開の目的
@足手まといになる学童を安全な地域に移す。
Aたとえ沖縄県民が玉砕することになっても、優秀な子どもを後世に残す。
B日本軍兵士の食料を確保するための口べらし。
政府から学校側への指示:優秀な国民の子孫を残すために九州に疎開させる。
世間の学童疎開の捉え方:学校側からの宣伝に対して、沖縄に戦争が来るのかどうか半信
半疑だったが、万一の場合、子孫を絶やさないためにと考えていた。

 以上を見ると、それぞれの見解に相違がある。例えば、日本軍側には学童を軽視する面がある。しかし、それに気づかない親や子がいる。この地点で、すれ違った思いを持っていたことが伺えるのではないだろうか。表向き、善意を感じさせる県外疎開の通知だが、暗黙の了解で、日本軍側には口べらしという思考があったのではないかという疑問が生じる。

 次に、「嘉義丸」「湖南丸」「対馬丸」の死亡者数を、資料に基づきデータ化した。

嘉義丸・湖南丸・対馬丸の死亡者数比較

船名 沈没原因 遭難海域 死亡者数
嘉義丸 雷撃 南西諸島近海 321
湖南丸 雷撃(グレイバック号) 南西諸島近海 577
対馬丸 雷撃(ボーフィング号) 大島・悪石島沖 1,484

 私たちが受けてきた平和教育や、沖縄史において、「対馬丸」の存在は欠かせないものとなっている。「対馬丸」の影響が大きすぎて、他の疎開船の有無を知ろうとすることさえしなかった。むしろ、私の中では「対馬丸」にスポットが当たりすぎている印象さえ受ける。疎開船沈没によって同じ様に被害を受けた人々は、同等の配慮が必要になってくるのではないだろうか。「嘉義丸」や「湖南丸」においては、遺族補償もされていない状況である。

 ここで、さらに掘り下げて「対馬丸」に焦点を当てることにする。

対馬丸
(1)対馬丸出航から沈没までの様子

   「対馬丸」と同時に「和浦丸」「暁空丸」の2隻が出航した。
輸送船団は鹿児島港へ向かった。学童たちはそこから熊本県や宮崎県の小学校に分散して落ち着くことになっていた。
翌22日午後10時過ぎ、とうとうアメリカ潜水艦「ボーフィン号」に「対馬丸」がつかまった。「ボーフィン号」は距離1,000メートル弱という距離から魚雷3発を発射した。

   最初の1発は外れたが、2発目が中央機関部に命中し、さらに3発目が船体後方に命中した。魚雷を2発も食らった。あっという間に船首は45度に傾き沈没した。
アメリカの潜水艦は夕方から夜間にかけて攻撃してくることが多かったので、この一晩を乗り越えられればと、引率の先生たちは祈りつつ警戒していた。しかし、不運にも攻撃を受け、アッという間に沈んだのだった。

 (2)対馬丸疎開者(生還・犠牲)の状況

全体 学童 その他
生還者 259 59 200
犠牲者 1345 767 578

 対馬丸の遺族の方によると、「せめて子どもだけは生き延びて欲しい」「我が家の子孫を残すために」「優秀な子どもを後世に残す」という願いを託しての疎開であったという証言があったが、その願いも叶わず、広い海に沈んでしまった。「ある意味で、○○家の戦争は、対馬丸撃沈から始まったとも言えます。」という証言もあった。

 最後に、「湖南丸」についての本を分析した。結果は以下の通りである。
絵本『湖南丸と沖縄の少年たち』が描く学童疎開の分析

〜学童疎開船対馬丸が、奄美沖航路で雷撃され800余名の児童が犠牲になった、そのわずか8ヶ月前に、湖南丸が同じ航路でアメリカ海軍の潜水艦グレイバック号によって雷撃されていた。しかし、その事実は沖縄県民に知らされていなかった。38年目にやっと明らかにされ本書にまとめられた。〜                  冒頭文書より引用

 今から42年前、1943年12月19日午前11時ころ、出船の汽笛もならさず、ひそかに那覇港をはなれる客船がありました。                  

 そこで、アメリカのスパイの目をくらますために、日にちも時間も何回も延期して、この日の出航になったのです。                                                           
☆内密な計画があったことが伺える。半年ほど前に「嘉義丸」が雷撃され、沈没された航路を通るための厳重な配慮である。この航路は、「魔の航路」と呼ばれるほど危険な航路であった。

「父ちゃん、おれ・・・少年兵に志願するぞ。あの予科練だ」
「だめだ。お前は船長になっておれのあとをつぐんだ。海がきらいか」
「友だちも行くんだぞ。天皇陛下のために米、英と戦うんだ。先生も配属将校もそう教えた。卑怯者と思われたくない」
「何を言うか」                         

☆子どもの発言からは、学校側の教育は子どもにとって疑う余地のないくらい正しいものであると捉えていることが分かる。また、「卑怯者に」からは、圧力さえ感じる。
 また、10・10空襲以前であることから、親の心境は疎開に賛成しているとはいえない。

「はやく飛行機乗りになりたいな」
「おれも荒鷲になって敵をうち落とすんだ」
「そうだ、神国日本は必ず勝つ。いま南方で後退しているのは、敵をあざむく作戦なんだ。大東亜共栄圏をつくって、東洋人はみんな、天皇陛下のもとでくらすんだ」                                     
☆少年、少女の期待に胸膨らむ会話からは、死をイメージさせるものはない。日本は勝つと信じきっている。死にいそぐ会話を聞いている大人の心境はどうだったのだろうか。

 1943年12月21日午前1時38分。湖南丸は右舷に、アメリカ潜水艦の魚雷を2発受けたのでした。口永良部島の西方、約10海里の沖合いです。                                                 
☆出航して、わずか1日余り。厳重な警戒をも意味を持たずに「魔の航路」で雷撃された「湖南丸」。少年、少女の期待を裏切る結果になった。このとき初めて、乗船した人々は死を意識しだしたのではないだろうか。

 ほかの船(護衛船)は、みんな全速力で逃げ去って行き、護衛艦柏丸だけが、湖南丸の遭難者を暗い海から助け出しはじめました。             

☆なぜ、ほかの護衛船は逃げてしまったのか。その背景には政府側になんらかの策があったと思われる。

 今度は柏丸が雷撃されたのです。湖南丸の人たちを助け、走り出そうとしたやさきです湖南丸が沈没して3時間くらいたってからでしょうか。                                                

☆米の潜水艦は、湖南丸乗組員が救助されるのを待っていたという事実がある。生と死の狭間を漂う乗組員へ更に追い討ちをかけた出来事である。生き残ったのはわずか5名だった。

 地獄の渕からようやくはいあがって助かった少年たちの前に、思いもかけない災難が待っていました。
 軍のなかでも一番こわい憲兵が、みんなの病床にやってきて、一人ひとりにらみつけ、すごみます。毎日やってくるのです。                                                        
☆日本兵から受ける圧力。生き残った少年たちに期待で胸が膨らんだことは、もはや夢のようだっただろう。日本軍の発言の背景には、沖縄県民の動揺をおそれた軍部が軍事秘密にしたと考えられる。しかし、それだけだったのかという疑問が残る。

 ○○は、「湖南丸」とは何かを調べ始めところ、生存者が見つからず、いっさいはベールにつつまれたまま、38年がすぎていることを知りました。     

☆沖縄県が祖国復帰した後も、「湖南丸」については、極秘で、遺族補償もなかったことを知り、驚きが増した。38年も息を潜めながら生活した生存者は消えない傷を負っただろう。その傷は、どのような補償を受けても消えないだろう。

ああ、ヌチドゥタカラ(命こそ宝)。  合掌           

☆最後の文に込められたおもいは、遺族、生存者、関係者だけではなく、この絵本に出会った人々全てが共通して感じることであろう。

 以上が、私の読み取った心境、現状の客観的な分析である。本当は、全てにおいて分析してこそ完璧と言えるのであろうが、今回は流れが分かる程度に縮小した。

 湖南丸の沈没は一般に公開されなかったという事実がある。「湖南丸の遭難は、沖縄県民の動揺をおそれた軍部が軍事秘密にしていた。」という理由があるが、本当にそれだけだったのか、という疑問が残る。政府側が、事実を隠し自己を正当化すること(県民の信頼を得るため)で、どれほどの遺族が自分の子どもの安否も分からないまま不安と戦っていたのだろうかと考えると胸が痛くなる思いである。もし、知らされていたら、対馬丸への疎開希望者は減少したかもしれない。戦場に残る方が良いとはいえない。また、疎開した方が良いともいえない。戦場では、確実に生き残れるという選択肢は無かったのだろう。

 また、高等学校の教科書でも対馬丸は大々的に書かれていたが、他の疎開船については、注釈に記載されている程度であった。知られている事実から、知られていない事実を見つけ、課題として取り上げるのは効果的だと感じる。

 あとがき

 「学童疎開」というテーマのもと、展開していった研究だが、やはり、戦争というもののごくわずかな一部に過ぎない。子どもたちに起こった出来事は、どれも目を覆いたくなるようなものばかりであり、それは、沖縄戦のどこの場面でも同じことである。今回研究したことを、しっかりと次世代へ受け継いでいきたい。

8 沖縄戦のスパイ視

                   人間福祉学科3年 H・M

 私が沖縄戦という広い範囲の中から研究課題でスパイ視を選んだ理由は、表面にはあまり出てこない真実だからです。沖縄戦は地上戦で砲弾が毎日飛び交っていた。そのなかで米軍に殺された、日本兵に殺された、「集団自決」したなど戦時中はいろいろな殺され方をされています。映画などで出てくる死にかたは追い詰められて「集団自決」。または爆撃に巻き込まれて死んでいったなどが多いように思われます。また人だけではなく建物、畑などすべてのものを破壊し無残な姿に変えました。それだけでも戦争が恐ろしいということは私たちは誰もが分かっています。戦争は人々の平和な生活をめちゃくちゃにしただけでなく人々の心までもをめちゃくちゃにしていったことがあったということを知ってそれについて深く考えたいと思い「スパイ視」を研究課題にしました。

 この課題には他の課題よりも証言、記録などが少なく探すのは困難でした。その少ない資料の中からどのような場合にスパイ視されたのか?その分類などを行っていきたいと思います。

 ではスパイは実際にいたのか?という疑問が出てくると思うので資料をもとに私なりに解説していきます。実際にはスパイはいなかったのではないかと考えられます。まずアメリカはスパイをつける理由があまりないからです。当時のアメリカはトンボと呼ばれていた偵察飛行機により、上空から空中撮影など精密に沖縄の地形を把握していました。また、内部から混乱させようとする考えもなかったように思えます。

 なぜスパイ疑惑がでてきたのか?というと、当時の教育に大きな問題があると考えられます。また日本本土からきた兵士は沖縄の人を最初から気の許せる相手ではないとして信用していなかったのも影響されたと思います。

 スパイ視された場合、許された人というか誤解が解けた人の話も耳にしますが、中にはスパイ視が原因で殺されていった人たちがたくさんいます。今から、どのような人が誰をスパイ視したのか?またその基準はなんだったのか?どのような証言があるのかを調べていきます。やはり、スパイ視をする人の大半は日本兵でした。そして、スパイ視されるのは私たち沖縄の人間でした。その基準は馬鹿らしいもので証言を呼んでいくと私は大きく2つに分けました。

1)米軍に降伏する者、米軍と関わりがあったと思われる者
2)不審人物
などでした。

  証言を挙げていくと「朝からアメリカ軍がマイクでガソリンをかけて山を焼くといったので自分の部落や他の部落の人に焼かれて殺されるよりもみんなで出ようと2,3ヶ所に連絡しにいったら友軍にスパイと判断され殺されそうになった。」「ハワイ帰りで米兵は鬼じゃないと分かっているので米軍に助けてくれるように話をしたらみんなからスパイといわれた」ということが、1)米軍に降伏する者、米軍と関わりがあったと思われる者です。次に不審人物の証言では、「夜中に夫婦で外をあるいていたらスパイといわれた」「戦時中に激しい弾丸の嵐の中無傷で壕に入ったらスパイと判断された」また、不審人物の定義として兵隊の間では「知らない人、初めてみる人、道から歩きながら紙切れと鉛筆で字を書いている人などはスパイと思い捕まえろ」という命令もあったのです。


 このように、今では考えられないことでスパイとされていました。また中にはとんでもないことでスパイ視された例もありました。「宜野湾村では村長が捕虜になったせいで嘉数駐屯部隊内で宜野湾村の人はスパイだと言われた。」「国場に行った時は西から来たものはスパイだといわれた」など、笑ってしまうようなことも実際にあったスパイ視の内容なのです。        

 このスパイ疑惑は戦争中、沖縄県民や兵士のなかでたびたび出現していたらしいがスパイ疑惑を沖縄に広めスパイ視虐殺につながった理由として私は沖縄戦でトップだった牛島満の一言が大きな意味を持ったのではないかと考えます。「防諜に厳に注意すべし」昭和19年8月30日に牛島満が出した訓示がスパイ疑惑の火をつけた原因ではあり、この言葉を皮切りに次々とスパイ視虐殺が大胆に行われていったと私は考えます。

 さきほどの証言は生きていた人の証言で、次からはスパイ視されて罪もなく殺されていった人を知る第三者が書いた証言です。

 「大宜味村の夫婦の話で山に逃げていた夫が食料を取りに家に帰ったら米軍に捕まり捕
虜となった。収容所では食料、衣服類なども配給されており治安状態もよかったので捕虜解放後、地元の人が隠れているところに行き米軍キャンプの情報を流し山を降りるように説得したら、日本軍に両手を縛られて目隠しなしで銃剣で刺殺した。なぜ日本軍にばれたというと同じ部落じゃない人がスパイとして日本軍に通報したという情報がある。地元の人は夫のおかげで早く下山し米軍の収容所に入ったそうです。」遺族は今も日本政府に国の責任として永久に追及していくそうです。

 大量虐殺が行われた久米島の谷川事件は、「住民が谷川さん夫婦の裕福さを妬み、後に大量虐殺を行った鹿山に密告して家族全員殺された。谷川さんの家族は身の危険を感じ裏山に隠れていたのですが子供が熱を出しお母さんが小さな赤ん坊と熱を出している小学生の長男をつれて自宅に戻り看病していたところ、ドンドンと戸をたたく音が聞こえ戸を開けると有無を言わさず赤ん坊を抱いていた母親と子供を刀で刺し殺した。そして寝ている子供までも、こやつも大きくなったら国を売ると殺したそうです。また父親は海に行っているときに村民が鹿山に通報し殺されたみたいです。」

 以上の他にもいろいろなスパイ疑惑で殺されていった人はたくさんいます。なんて馬鹿げた話でしょうか。今考えるとゾッとします。しかし戦争当時は身を守るため、または恐怖の中の精神的な不安定から次々と虐殺を繰り広げていったのです。

 最初に述べたように戦争は人々を殺し、建物、自然など戦闘地域になった場所にあったものをすべて破壊してきました。しかし、今回私が調べたのはスパイ疑惑という観点から戦争を見てみると戦争が起こったために平和で安全な暮らしをしてきた私たちに人間関係のズレという目に見えない精神的な部分も破壊していったように感じます。戦争が起きてしまったために同じ民族でさえ信じられない、同じ沖縄の人も信じられない、人間が人間を信じられないといった人間として最悪なことがスパイ疑惑として浮かびあがってきたのではないかと思います。

 このように沖縄戦ではアメリカ人対日本人ばかりでなく、日本人対日本人という同じ民族同士で醜い最悪な事態を引き起こしていたのです。戦争を知らない私たちですが、人間が人間を信用できず自分たちが生き延びていくために殺していくというこの非常事態を知って、戦争が破壊するものは形あるものだけでなく、目に見えない人間の心理的面もボロボロに破壊していくのだと分かりました。

 戦争は起こす人や、その原因があるのです。この原因を作らないことが二度と戦争を起こさない一番の条件だと私は考えます。しかし、欲の塊と言われるほどの人間に争いがなくなるということはありえない事だと思えます。考えるのは争いが起こったときに、どのような対処法を取るのかということだと思います。軍事的処置を選べばまた戦争の繰り返しです。平和的解決を双方が選んでいかなければ戦争をなくすことができないと思います。戦争という悲劇が地球上から消えることを心から願います。

 今回は戦争の裏側を勉強したと思います。戦争が招く人々の戦時中に起こった道徳性の低下を引き起こしたこと、心理的混乱などが見えてくるような課題であったと考えます。生徒に戦争の恐ろしさを話す前に自分でもっと戦争について調べ、なぜ戦争はいけないのかということを、いろいろな視点から研究していくことが必要であると考えます。

9 なぜ沖縄に在日米軍の75%が集中しているのか

                経済学科4年次 H・T
 はじめに

 今年(平成17年)で戦後60年となる。この60年の間沖縄はどう変化を遂げたのか。戦後間もない頃から現在まで米軍が沖縄に関わっていることには変わりはない。戦後に生まれ、基地の存在がごく普通の生活として成長してきた私たちは基地が身近であるがゆえ、基地のことを深く知りはしない。基地があるということは、基地を造らなければならなかった過程が存在する。基地建設の過程を通し、沖縄に存在する基地の現状と今後の課題について考察したいと思いこの課題を設定した。

 課題を追求するにあたり、沖縄県内にどの程度の米軍基地が存在するのか現状を把握し、基地建設の過程を捉える。なお、この課題では現状把握を重点に置き課題を追求していく。

 沖縄県の米軍施設の現状

 沖縄県には平成15 年3月末現在、37施設、23,687.4 ヘクタールの米軍基地が所在して
おり、県土面積2,272.13 平方キロメートル(平成14 年10 月1 日現在)の10.4%を占めている。
 また、米軍基地の状況を全国と比べてみると在沖米軍基地は全国に所在する米軍基地面積の23.4%に相当している。しかし、米軍が常時使用できる専用施設に限ってみると、全国の74.7%が本県に集中しており、他の都道府県に比べて過重に基地の負担が負わされていることがわかる1)。

図表1

全国 沖縄 本土
米軍専用施設 312,253 100、0% 233,286 74、7% 79,068 25、3%
一時使用施設 699,235 100、0% 3,688 0、5% 695,547 99、5%
合計 1,011,488 100、0% 236,874 23、4% 774,615 76、6%

図表2 面積における全国対比(米軍専用施設)

本土 79068千u 25%
沖縄 233186千u 75%

 次に、沖縄に配属されている米軍人・軍属やその家族の数であるが、総数50,826 人(平
成15 年9 月末現在)と、豊見城市の人口53,089 人(平成16 年10 月1 日現在)に近い規
模の人々が生活しており、沖縄県の総人口の約4%に相当する数である。

図表3 在沖米軍人・軍属・家族数、沖縄県と豊見城市の総人口

陸軍 海軍 空軍 海兵隊 総数
軍人 917 2250 7100 16015 26282
軍属 94 230 622 733 1,679
家族 1,222 2,601 10,233 8,809 22,865
合計 2,233 5,081 17,955 25,557 50,826

沖縄県(総計) 1,357,216
豊見城市 53,089

 また、沖縄では基地があることで得られる軍関係受取というものがある。軍関係受取から沖縄の経済がどの程度基地に依存しているかがわかる基地依存度を知ることもできる。

 軍関係受取とは、基地内で働く日本人従業員に対して支払われる「軍雇用者所得」、土地を提供する地主に対する「軍用地料」、また、基地に所属する「軍人や軍属とその家族の消費活動」と位置づけている。県経済の規模拡大などを背景に、県民総所得(旧県民総支出)に占める軍関係受取の割合、いわゆる基地依存度は年を追うごとに低下していき、本土復帰の昭和47 年の15.6%から平成13 年度には5.1%にまで低下している。

県民総所得に占める軍関係受取(基地依存度)の推移

年度 昭47 昭48 昭49 昭50 昭51 昭52 昭53 昭54 昭55 昭56 昭57 昭58 昭59 昭60
15.6 11.0 11.3 10.2 10.0 8.7 7.6 7.2 7.2 7.8 7.5 7.2 7.3 6.5
昭61 昭62 昭63 平元 平2 平3 平4 平5 平6 平7 平8 平9 平10 平11 平12
5.8 5.2 5.1 5.1 5.0 5.0 5.1 5.0 4.9 4.9 5.0 5.1 5.1 5.0 4.9

米軍基地賃貸料の推移

年度 昭47 昭48 昭49 昭50 昭51 昭52 昭53 昭54 昭55 昭56 昭57 昭58 昭59 昭60
合計 12,315 17,715 25,538 25,951 25,912 25,245 27,617 29,368 31,116 33,773 34,507 35,468 36,772 38,314
昭61 昭62 昭63 平元 平2 平3 平4 平5 平6 平7 平8 平9 平10 平11 平12
39,932 39,402 40,671 42,650 44,726 47,031 51,690 55,140 57,707 60,317 63,043 66,210 68,245 70,484 72,811

   軍用地料については、復帰時に比べ基地面積が16.3%減少しているにもかかわらず、地価の上昇を背景に堅調に伸びている。軍用地料が高額化していく裏には、人口・産業が集中する中南部圏に基地が多く、軍用地料が宅地並みの評価を受けていることが要因の一つとして考えられている。軍用地料の高額化により軍関係受取の中で占める割合は年々増えている。

 また、軍用地料の高額化と安定した支払いから、県内の金融機関では軍用地主を対象
とした「軍用地ローン」を行なっている機関もある。最大融資が2 億円の金融機関もあり基地が集中している沖縄独特の金融商品といえる。

 在沖米軍基地があることで、県内では雇用の場としての基地の存在も忘れてはならない。現在基地で働く基地従業員は約8,700人いる。これだけ大量の雇用口は民間企業では存在せず、県職員に近い雇用の場となっているのが現状である。
※お断り…図表5は表転換出来ずに割愛しました。

図表6 沖縄県内の職場別職員数

職場名 人数
沖縄県職員 9,128
那覇市役所 3,006
沖縄市役所 955
総合事務局 1,054
沖縄電力 1,540
琉球銀行 1,276
沖縄銀行 1,266
サンエー 947

  以上は、基地の現状として施設面積や軍用地料などの統計データを基に現状を把握した。では、沖縄でなぜ基地が建設されたのか。

 沖縄で基地が建設された背景には、1950年のFEC(極東軍総司令部)指令と国際緊張があったためとされている2)。国際緊張は、ソ連の原爆実験成功や朝鮮戦争のことである。特にこの国際緊張のために沖縄がアジアにおける位置が重要視され、日本本土の治安維持からも沖縄の米軍統治は望ましいとされていった。

 沖縄で米軍の基地が建設されるにあたり、建築資材は日本本土から取り寄せ、労働力は地元(沖縄)から調達されることとなった。しかし当初、軍労働は民間企業との間で給与の差が大きく仕事を辞める人々が多かった。基地建設のためには4万人の軍労働者を5万人へ増やさなくてならなかったため、軍労働の賃上げが行なわれた。賃上げは民間企業と比較すると、3倍以上で通訳、翻訳の仕事は賃上げ以前の7〜9.5倍へと大幅に引き上げられた。その結果、軍労働への応募が急増し、1950年は農作物の価格下落で離農者が多発し、3000人余りが軍労務へ転職したといわれる。軍労働者はピーク時で1952年63,000人いた。

 米軍が基地建設においてなぜ土地を確保できたのか。沖縄の米軍基地には、基地は戦闘行為で奪取され接収手続きがなされていなかったという特徴がある。米軍側は国際法に基づいて土地を使用していると解釈している。だが、対日講和条約の発効により戦時の国際法の法的根拠が消滅するため、米軍はそれに変わる法律を作らなければならなくなった。

 当時の沖縄統治は琉球列島米国民政府が行なっていた。この米国民政府は1952年11月「契約権」を公布し、土地の賃貸契約を3.3uに対しタバコ1箱代の値段で20年契約するというものだった。住民側は土地提供を拒み、米国民政府側は翌年「土地収用令」を出し土地の強制収用を行なった。また、軍用地の使用料を一括払いし無期限使用するとの方針を出したことから、統治下の議会であった立法院は「土地を守る四原則」を議決して反対運動を展開していった。

 この「土地を守る四原則」とは、
 @一括払い反対
 A適正保障(住民の要求に相応する金額を1年ごとに払う)
 B損害補償
 C新規接収反対
というものであった。しかし、米国民政府はこの要求を無視し強制接収を続けた。琉球政府はワシントンへ「土地を守る四原則」を直接訴えに行き、この要請にもとづいてプライス議員を団長とする調査団が来沖する。調査団の報告(プライス勧告)が1956年にまとめられるが、沖縄の日本復帰には触れず、「米軍にとって沖縄は極東の軍事基地として最も重要な地域で新規接収もやむを得ない」という内容であったため、沖縄では「島ぐるみ闘争」へと発展していった。

 米軍側は米軍基地に最も依存していた本島中部地区の市町村に米人が民間地域に立ち入ることを禁止する措置をとった。表向きは、デモによるトラブルを避けるためとされていたが、実際は基地に依存している地域への経済封鎖であった。

 「島ぐるみ闘争」が進んでいくなかで、経済的には妥協もやむを得ない側と米軍支配から脱却をめざす側へと二分化が進むようになった。その結果、米軍基地の使用を認める変わり、適正な価格で使用するという妥協策が受け入れられることになった4)。

 まとめ

 沖縄からいますぐ基地を撤退させるのは、政治的解決、経済的解決の双方から考えて困難な状況にあることがわかった。本県に在日米軍施設が集中しているのは統計データからも考察することができたが、果たして現在この施設集中に何の意味があるのだろうかと疑問を感じた。冷戦は終結し、朝鮮戦争も今のところ休戦の状態である。確かに、歴史的経緯から沖縄の経済発展は基地建設も挙げることができる。だが、あの時代生きていくためには人々も基地建設せざるをえない状況下だったことは留意しなければならない。

 この課題を通し、近くにあってもその存在を気にかけない米軍基地を少しでも知ることができたことは驚きの連続であった。今回は現状把握を重点に置き課題追求を行なったので今後は、復帰以前の基地建設や基地を取り巻く環境などについて本土と比較しながら考察していきたいと思った。

10 なぜ沖縄で地上戦が行われたのか

                    商学科3年 Y・M

   私はこの教職総合の講義をうけるまでは沖縄戦のことは今まで学校で習ったり、テレビドラマや映画を通してしか理解しておらず、自分自身で積極的に学ぶ程興味はなかったので、戦争のことで感じる心はあったけど、知識は全然なかった。そして、この講義を通して沖縄戦について学んでいくにつれて特に疑問が湧いたのが、なぜ、沖縄で地上戦が行われたということである。別に他のどの地域でもよかったのでないかという疑問が強かったので、なぜで地上戦が行われたかについて調べた。

 沖縄戦は大平洋戦争の中の最終の場面にあたる。この大平洋戦争は、1941年12月8日の真珠湾攻撃で始まり、大平洋の島々を次々と占領していき、アメリカ軍を主力とした連合軍の反撃に合い、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下により、1945年8月15日に敗戦となった。

 この大平洋戦争の10年前に日本は日中戦争を起こしており、日本が起こした大平洋戦
争の始まりは、日中戦争に逆上り、日中戦争は、その前の第一次世界大戦や日露戦争や日清戦争とも関係がある。このように歴史はつながっている。そのことを踏まえて、今回は大平洋戦争の中の沖縄戦だけを取り上げていきたい。

 沖縄戦は、1945年3月23日の空襲から始まり、3月26日に、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸、4月1日の本島上陸と続くが、一年前の1944年10月10日の5回にわたる空襲も大規模だった。

   なぜ、沖縄がアメリカから狙われたかというと、日本本土攻撃の不沈空母の位置づけであった。アメリカ軍は当初、台湾上陸が戦略上の目標だったが、戦況の変化によって急きょ沖縄上陸が決定した。それは、サイパンを占領して、本土空襲が可能となり、さらに硫黄島を占領してその距離を半分にし、次の目標は本土上陸のための前線基地の確保だった。しかも大規模な飛行場が必要である。そのために台湾を目標にしていたが、急きょ沖縄上陸に決まった。つまり、沖縄戦は当初から、アメリカ軍の本土攻撃のための不沈空母確保の正確を持っていたのである。

 さらに、アメリカ軍はすでに敗色濃厚となっていた日本軍の敗北を見とおし、戦後処理に照準を絞っていた。ヤルタ会談でソ連参戦の道を開いたルーズベルトアメリカ大統領は、スターリンと友好的だったが、アメリカの指導部では対ソ連への警戒心を増大させていた。特に代わった新アメリカの大統領のトルーマンはソ連嫌いであった。このことが、戦後の日本の終戦処理に影響を及ぼしていくことになる。

 このような状況から、アメリカは、沖縄を不沈空母として後も、長期に沖縄に駐留するつもりであった。それが現在にも続いている。また、沖縄を長期占領にして、戦後の日本(本土)を監視するための基地でもあった。軍国主義の日本を解体し、民主主義国家の改造に指導力を発揮したアメリカは、その後も日本を監視することを視野にいれていたようである。そのために沖縄をことごとく本土と分離させ、沖縄を「琉球」と呼び、日本人とは別民族とした。そして、住民に対してもその宣伝を強化していた。そして、それらに手を貸していたのが昭和天皇である。

 このことから、アメリカは、徹底して沖縄を本土から隔離し、本土で進めていた、戦争追放や農地改革などの一連の民主化への転換政策を沖縄では実行しなかった。すべては、軍事支配のための方便として、形式的な方策を住民に下ろしていっただけである。

 次は、日本側から沖縄を地上戦にした理由をみていく。それはアメリカ軍の本土への攻撃の時間稼ぎであった。また、沖縄での戦いは捨て石作戦といわれていたことである。まさにその名の通り、捨て石のように本土とは切り離された感覚で見られていた。

 沖縄は日本にとって支配している土地でしかなかった。沖縄戦において、日本本土を防衛するための沖縄という位置づけで守るべき対象はあくまでも日本本土だったといえる。
 この沖縄差別も戦争から約六十年前に逆上り、薩摩が琉球を支配していたように厳しい支配、差別は以前から行われていた。
 このように、史料を中心に、なぜ、沖縄で地上戦が行われたか調べると、アメリカ側も
日本側にも共通する部分は政治的理由があげられてくる。また、戦争はその時の状況だけでなく、以前の問題から続いてくる。よって、沖縄は日本にとっても、またアメリカにとって地上戦になる好都合な場所であったと言える。

 沖縄戦で沖縄の住民が犠牲になったのは、その地域の人々が原因ではなく、政治的理由が原因であることがわかった。この政治的理由で国民が犠牲にならないように、この政治を引っ張る人を決める選挙はとても重要である。私は今までは選挙に対して誰か知り合いの人か、友達の親など身近な人が出る選挙しか投票をしなかった。私はこれから、選挙に興味を示していきたいと思った。

11 何故、沖縄が戦場となったか

                    人間福祉学科3年次 Y・S
1 課題設定の理由

 沖縄には、慰霊の日があり、私たちは小学校に入学した頃から最低でも年に一度は沖縄戦について学んできた。しかし、そのほとんどは戦争の残酷さを映像や文章として生徒に突きつけることで、二度と戦争は起きて欲しくない、と生徒に感じさせるようなものであった。私は、小学校まではそれでいいと思うが、中学・高校と学年が上がるにつれて、もっと戦争の背景や政治的な面とも関連づけて勉強することが必要だと感じた。また、私自身、これまでしてきた勉強でも、「第二次世界大戦」、「冷戦」、「沖縄戦」と単独でしか勉強したことがなく、沖縄戦と第二次世界大戦、あるいは冷戦との関わりが把握できておらず、それが知りたいと思いこの課題設定に至った。

2 課題追求

   今回の課題解決に至り、まずキーワードとして「沖縄戦」、「太平洋戦争」、「アイスバーグ作戦」、「牛島満」などにしぼり、そこから参考文献をチョイスした。また、語句の概ねを理解するために、インターネットを利用したり、当時の声を聞くために担当の先生にお願いし、証言を提供してもらった。

3 課題解決、整理

(1)沖縄戦とアイスバーグ作戦
 まず、沖縄戦についてだが、これは第二次世界大戦における太平洋地域を戦地とした太平洋戦争の最後の戦地として行われた戦争のことである。

 太平洋戦争でサイパン、グアム、テニアンなどのマリアナ諸島を得たアメリカはそこに基地を造成し、B−29での東京爆撃飛行の拠点とした。しかし、マリアナ諸島から東京までの距離は遠く経済面でも安全面でも危険を抱えていた。

 同じ頃、日本進攻を太平洋戦争の最終目標としていたアメリカは、当初、台湾を進攻した後に日本本土に上陸しようとしていた。しかし、1944年9月ころから、サイモン・バックナー陸軍中将の「兵力不十分なため台湾作戦の実施は困難である」、ハーモンド中将の「台湾攻略の目的が、航空基地の獲得である限り、同一目的を達成するために要員・機材の犠牲や損傷を最小限にできる琉球攻略を選ぶべきである」との進言をはじめ、台湾侵攻計画を中止し、沖縄を侵攻しようとする声が高まった。これをきっかけに立案されたのが「アイスバーグ作戦」である。「アイスバーグ作戦」では、第1段階〜南部沖縄(慶良間列島、慶伊瀬島を含む)の攻略と、初期の基地諸整備、第2段階〜伊江島攻略と北部沖縄の制圧、第3段階〜その他の南西諸島の占領と爾後の作戦と3段階に分け、その任務とした。また、これらの任務は、沖縄進攻の際による九州、台湾などからの日本軍の強力な航空攻撃は必至であったため、事前の航空作戦による制圧と制海権の掌握が前提とされていた。

(2)沖縄戦の持つ意味
 では何故、“沖縄”だったのか。もちろん選ばれるにはそれなりの意味があったはずだ。まず、マリアナ諸島から東京までの距離が長く、アメリカにとっては不都合であったことは先で述べたが、沖縄を占領することでこれが解決できる。加えて本土への戦闘準備と、それに適した基地を造る敷地のことを考えると、まさに沖縄はベストだったのである。

   それともう一つ、当初、アメリカは日本本土への上陸なしに日本政府の降伏はあり得ないとの見解を示していたが、沖縄を占領することによってビルマ、ボルネオ、スマトラなどの軍需物資の補給源から切り離し、生産活動を阻害できれば、日本本土に上陸しなくても日本政府を降伏に追い込めると想定していたのだ。

 さらに、米軍の沖縄上陸日でもある4月1日付のアメリカ・『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のように報道している。「沖縄を占領すれば、台湾、中国沿岸、日本本土すべてがB29爆撃機はもちろんのこと、中距離および重爆撃機の攻撃範囲に入り日本占領に王手がかかることになる。琉球は海に浮かぶ最後の砦なのだ。」

 アメリカは、1910年代から対日国防戦略(オレンジ計画)でも沖縄を一貫して作戦基地として重要視していたことや、「台湾侵攻作戦」計画ですでに陣容布陣や部隊配置などが完了していたことなどもあり、「アイスバーグ作戦」計画はかなりの速度で進展した。

(3)沖縄戦開始
 こうして、「アイスバーグ作戦」計画のもと、3月23日沖縄空襲によって実行に移された。沖縄戦が始まったのだ。当時の住民の証言には、
 「恐い物見たさに丘に上って見ましたが、恐い実感はそうなかった。」(久保田・30歳)
 「戦は来たが体験もないし、見たこともないので珍しがって、みんな出て見たですよ。」(伊敷・23歳)
 「久高の人たちはあっちこっちから集まってきて「どうしたらいいか、どうしたらいいか」と相談して、それでみんなゾロゾロ歩いて佐敷村の方まで行ったわけです。」(西銘・49歳)
 「空襲になったので取るのも取らずに、すぐ近くの山の中の壕に移ったわけです。」(伊礼・18歳)

などがあるがこれから、沖縄戦が始まった時はパニック状態になり、どうすれば分からない人や、意外にも興味半分に戦争を見学する人もいたことが分かった。人は、実感を伴わない限り、例え危険な状況にいても自分だけは助かると考える性質があるらしく、空襲を見学した人はまさにそれにあたる。最近では、スマトラ沖地震が発生したが、20万人近くが犠牲になった中、津波付近でカメラを回していた人などを思い浮かべると分かりやすいだろうか。

 4月1日に米軍がついに上陸し、日本での住民を巻き込んだ地上戦が行われたが、米軍55万に対し、沖縄守備軍は現地での補充兵を含む11万人。この不利な状況の下、沖縄守備軍は最初から日本本土の防衛体制を固めるための時間稼ぎであった。米軍が一滴の血も流さずに上陸できたのもそのためである。

(4)沖縄戦の終焉
 そして、やはり軍事力の差はみるみるうちに両軍に優劣をつけて現れてきた。戦況は次第に悪化してきたのである。6月19日には軍司令部と各師団の連絡はほとんど断絶した状況となり、もはや統一指揮による戦闘は不可能になった。そうした中、牛島満軍司令官もいよいよ軍の運命が尽きたことを知り、6月23日、摩文仁の司令部壕内で自決。この日を持って沖縄戦の組織的な戦いは終わったとされている。だが、牛島は自決前に「一切の降伏を許さず、最後の一兵となるまで戦え」と最後の命令を残している。

 この命令もあって、牛島の自決後も各地でゲリラ戦的な戦闘があり、米軍の徹底した「掃討作戦」が続いた。これは、8月15日の日本敗戦以降も部分的に続いた。さらに9月2日日本が連合国側に無条件降伏を調印して、沖縄戦が正式に終了したわけだが、実際、沖縄の地で戦闘状態がいつ完全に終わったかは現在に至るも断定できない。

 戦後の証言から、「わたしたちの子供は、せっかく戦争からはしのいだのに、田の草ばかり食べさせたんですから、腸チブスになって、野嵩で死んでしまいました。」(新垣・42歳)との証言が拾えたが、戦争を見るときには、戦時中の生々しい死だけをよく目
にするが、こういった長期的に見る戦争の被害者もいることを知って、戦争の恐ろしさがまた一段と増した。
 こうして、戦後、沖縄はアメリカに占領されアメリカの基地となったわけだが、基地・沖縄の役割は朝鮮戦争、ベトナム戦争においても一層鮮明になっていった。

4 課題評価・伝達

   今回の研究によって、沖縄戦の流れを理解することができ、第二次世界大戦、冷戦に置いての位置づけができることができた。「課題設定の理由」でも述べたが、現在の教育方法が変わらない限り、子どもたちは戦争の悲惨さだけを埋め込まれるであろう。確かに人間の変わり果てた無惨な姿や人間とは思えない行動を見聞きすると、現在の生活からは考えられないため戦争を起こしたくないと思うだろう。しかし、毎年それでは進歩がない。

 問題は、どうしたら戦争が起きない環境を自分たちで築いていけるかを考えることだと思う。それには、私たちが普段から自分の意見を持ってそれを世間に主張する力を養うことが必要だと考える。そうなれば、自然と選挙など政治にも関心を持つことになるだろう。そうした中で、沖縄戦はどのように始まったか、何故沖縄が戦地となったか、本土からどのような扱いを受けていたか、などを私は教えていきたい。それによって各生徒が各自、自分なりの沖縄戦に対する見解を持ち、疑問点や批判の意見を持ってくれれば、その時初めてこの研究が成功したと言えよう。しかし、私自身、これで沖縄戦を理解したとはとても言えない。そのためにはさらに文献等を読み込まなくてはならない。

 今日では、イラク戦争が行われ、世界的に緊張が漂っている状況ではあるが、こんな状況だからこそ、平和について学び、それを生徒の枠を超えて次世代に伝達していきたい。そのためにできることとして、沖縄戦をもっと多角的な面から追求して、沖縄戦のもつ様々な顔を見たいということを今後の課題としていきたい。

12 住民はガマでどのような生活を過ごしたのか

                        日本文化学科3年次 H・A

  私の出身である糸満市には、市史によると240ものガマが発見されており、戦争時の悲惨さを物語っている。しかし、私が糸満市に240ものガマがあるということを知ったのは、この講義を受講してからである。一度、中学校による平和教育の一環として、潮平にあるガマに入ったことはある。今となっては、ガマに入ったことは覚えているのだが、そのときの話の内容、ガマの名前、場所などはあまり記憶にない。暗くてじめじめした狭いガマに入ったということと、学年全体でのガマ体験だったために、人が多すぎて先生やガイドの声も聞こえず、今考えると恥ずかしいのだが、「早く帰りたい」という気持ちだけは、強く記憶に残っている。

  沖縄戦でガマはとても重要なものであったと思う。それは、住民が避難するためであり、日本兵の陣地壕であり、負傷した兵士を治療するための病院壕であり……。しかし、住民が助かるために避難するガマであると思っていたのが、「集団自決」や日本兵による住民虐殺、スパイ容疑、沖縄県民差別などが行われていたのである。このことは、とても残虐で悲惨な沖縄戦の一部を物語る内容である。

 私が中学生の頃に体験したガマの中でもこのようなことが起こっていたと考えると、あの時のガマ体験だけでは、何も感じ取れないのではないかと考えた。ガマを体験することが先ではなく、戦争体験者の証言を聞くこと(読むこと)や史料による調査などが、先ではないのか。調査をして、戦争というものがどのようなものであったかを知ったうえで、ガマを体験することが、戦争を知らない子ども達の感じ方や考え方が変化していくと考えた。

 以上のことからこのテーマを設定した。テーマの下位課題として、@現在の糸満市のガマに絞るAガマの様子・ガマの中の人々の様子・住民の食料についてBガマ内部の住民と日本兵についての3つを中心に、証言や史料をもとに調査していく。

 現在の糸満市は、旧糸満町、旧兼城村、旧高嶺村、旧真壁村、旧喜屋武村、旧摩文仁村の構成である。沖縄戦ではもっとも戦禍が大きく、住民への被害も多大であった。糸満市には、現在も多くのガマが残っており、トゥルルチガマ、マヤーガマ、アンディラガマ、ウッカーガマなどがある。市史の糸満市戦災調査によると、糸満市の戦没者は10,881人で、そのうちの7,698人が一般住民である。全戦没者の71%である。この数字からも糸満市の多くの住民が戦争の犠牲になったことがわかる。

 糸満市には約240ものガマがあるというのに、7,698人もの一般住民が戦没している。ガマが戦争の被害から住民を守るという役目を果たせていないとも考えられるが、それだけでは断定はできない。

 次に、テーマ「住民はガマでどのような生活を過ごしたのか。」についてだが、ガマというと「狭くて、暗くて、じめじめしていて、岩がごつごつしている。」などのイメージが強い。人間が長期間生活することは無理だと思われるが、戦時中の住民はガマでどのように過ごしていたのだろうか。次に挙げるガマの内部の様子・人々の様子の証言、資料から当時のガマ内部をイメージしてみる。

  「地面はゴツゴツした岩床で、平らな空間がなく、明かりのない闇の中の生活で、手探りで這うようにしてしか移動できなかっ    た。」
  「洞窟の中は、炭酸ガスと臭気が充満していた。汗の臭い、膿の臭い、排泄物の臭いで、ものすごい悪臭であった。」
  「真壁村には、アンガー、アンディラ、ガンヌヤという三つの大きな洞窟があり、その中には井戸もあって外に出なくても生活    が出来た。」
  「アンガーには約百人が避難していた。」
  「マヤブーという自然壕には、十世帯ほどが避難していた。」
  「轟の壕はすり鉢状にぽっかり空いた大きな穴になっていて、大穴内部の左右にも穴がある。沖縄戦体験者は(地下)一階    、二階、三階と呼んでいる。沖縄戦当時、上、中、下の三層から成っていたからである。」
  「轟の壕の地下三階、一番下の層は右から左に川が流れていて、川上の右側は乾燥地帯、左側は湿地帯で、避難民が五、    六百名ほど入っていた。」
  「米軍がガス弾を投げ込んできた。喉がすごく痛くなり、あとから下痢が止まらなくなった。」
  「マヤブーの壕の中には、青年男子がほとんど防衛隊などで駆りだされており、年寄りや子どもばかりだった。」
  「(轟の)壕の一番下は真っ暗で何もわかりません。若いお母さんが赤ん坊を連れていて、私たちが入ってきたときは泣き声   も聞こえていました。しかし、二、三日したら抱かれたまま赤ん坊は飢え死にしていました。」
  「壕の中で衰弱した住民がどんどん死んでいくのです。」
  「親は死んだ子どもを抱いていました。隣の人が死んでいってもわからないのです。座ったきりでいつ死んだかもわからない    のです。」

 このように、ガマの内部はそれぞれだが、いくら広くて井戸があるとしても、現代の私達では生活することは考えられないであろう。そりよりも、ガマの内部は死体だらけであり、そこは本当に地獄だったのではないか。生活なんてとても出来たものではない。しかし、当時の住民はその中で生活していたのである。

 ガマの内部は現代では考えられないような環境だったのだが、住民の食料はどのようなものがあったのか、ここでもまた証言から考えてみる。

  「戦争が始まってすぐは家から持参した米や芋などの食料で不自由はしなかった。」
  「芋くずと粉砂糖をやかんにいれて、水で溶いて家族でまわし飲みをする。」
  「壕内に水はなく、岩の中からちょびりちょびり水がほんの少し出る。その水をためて子どもたちに飲ます。」
  「食料は、黒砂糖を水に溶かして飲む。米を一度に炊いて、水を混ぜて食べる。ユーヌクを作って食べる。ナマイモをかじるなど住民は、飢餓の一歩手前で、食べ物が悪く、顔色も黄色でやせておとろいていた。」

 戦争が始まってすぐは、自分たちで貯蔵していた食料でなんとか過ごしていたらしい
が、やはり、戦争が悪化するにつれて食料はなくなり、飢餓という問題も出てきている。しかし、飢餓に直面していたのはほとんど住民だけであり、日本兵は食料を確保し、住民が隠し持っていたほんのわずかな食料でさえも強制的に奪っていたのである。住民の生を脅かす日本兵についての証言は食料に関することだけではない。

 「摩文仁国民学校に友軍が入ってきたときは炊き出しをしたり、供出をしたり、徴用にも行って兵隊さんにも協力したつもりだっ   たんですけど・・・。首里からの敗残兵三名に壕を追い出されたこともありました。自分たちを守りにきた兵隊に、こうした仕打   ちを受けるとは夢にも思いませんでした。」
 「アジバカの壕にいたときのことですが、そこへ来て十五日目に友軍に『ここは銃ですぐにやられるから出て行きなさい。』と言   われました。そこで、現在のひめゆりの塔の壕に行くと、『軍の作戦に使うからここから出て行きなさい』と、まるで足手まとい   のような言い方で、その壕も追い出され、最後には自分の村にあったサーターヤーの釜の中に隠れていました。」
 「友軍の兵隊が住民のところへ食料をあさりに行く。銃剣で住民を脅して、ちょっとした食料も取り上げる。」
 「餓死しかけている住民を(轟)壕から出られるように日本兵に交渉すると、『壕からでたい奴は出せ!』と言った。しかし、兵に   は『壕を出て行く奴はみんな撃て!』と言った。」

 このように、日本兵は住民の命を守るどころか、それを裏切るような行為を行っている。
しかし、これだけではない。日本兵は住民を虐殺し、「集団自決」にまで追い込んでいる。
次の証言は、轟の壕でのことである。

    「子どもが黒砂糖を食べたいといって泣くので、兵隊がやってきて、『泣かすな!泣かしたらこの壕の中に人間がいるのが敵   に察知されるから、泣かすな!今度泣かしたら撃つぞ!』と言ったのです。しかし、子どもはまた『サーターカムンドー(黒砂糖   食べたいよー)』と言って泣いたのです。すると、また兵隊が来て『いくら言っても分からんのか、今度泣かしたら撃つと言った   だろ!なぜ泣かすのだ!』と言いました。オバーが『この黒糖を食べたいと言って泣いているのですよ!』と、方言で話しまし   た。そばの人が日本兵に通訳すると、『それをだせ!』と言うのです。そして、兵隊は黒砂糖を取り上げたのです。すると、上   の孫が、これは自分のものだと言って兵隊にとびかかったのです。兵隊は、この子を一発撃って即死させたのです。」

 このような証言はまだまだ多くあるが、友軍と呼ばれ、米軍を倒すはずの兵隊は住民、
しかも、子どもにまで虐殺を行っている。いくら戦時中だからといっても、許される行為ではない。これが沖縄戦のもうひとつの真実であり、敵が米軍だけではなかったという証言である。

 このような事実が本当にあらゆるガマで、起こったことなのである。まだまだ多くの証言があるのだ。私たちはその証言を語り継がなければならない。また、戦争とは何か、本当の平和とは何かを常に追求し続けなければならないと感じた。

 この課題によって、自分自身の今までの沖縄戦に関する知識のなさ、平和への感情の薄れを強く感じることが出来た。今回は住民のガマ生活に中心をおいて、沖縄戦について調査したが、教職を希望するものとして今後も課題を広げて、調査、知識の収集をしなければならない。戦争を体験していない私たちの世代から、戦争を知らない子どもたちへ、どのように平和学習をさせるのか、戦争体験者が減りゆく現代ではそれが一番の課題だと思われる。

 沖縄に再び同じ惨劇が起こらないように、私たちが出来ることは、課題に取り組み、体験者の沖縄戦を自分のことのように感じ、記憶し、人々に忘れ去られないように語り継いでいくことではないのだろうか。

13 沖縄戦での虐殺・虐待の実態

                  商学科3年 I・A
 はじめに

   本課題の動機についてですが、住民を巻き込んだ唯一の地上戦と言われている沖縄戦でありますが、あまりにも悲惨な戦争であったことは誰もが理解できると思います。では、なぜ悲惨であったのかを考えました。悲惨さの裏には、日本兵による住民への虐殺・虐待が存在していたからだと私は考えます。戦に脅えながら、味方である日本兵にも脅えて毎日を過ごしていたことでしょう。その様子を調べたいと思いました。日本兵による住民を苦しめた虐殺・虐待、さらには、自決にまで追い込まれた住民の様子について調べました。

 虐殺・虐待を行う理由根拠と方法は

 日本軍が組織的に米軍に対して、応戦していたころはまだ虐殺・虐待などは存在していなかったようです。しかし、首里の軍司令部が組織的に崩壊してしまってからどこの日本軍部隊も崩れていってしまったのです。このことにより、住民が避難している壕までも、日本兵がドカドカと入ってきてしまったのです。ここから住民虐殺などの始まりであると言っても過言ではないでしょう。

 端的に言えば、日本兵の組織崩壊=敗戦となる可能性が高くなり、日本兵の逃げる場所を確保したかったのではないでしょうか。人間は誰だって死にたくないのです。最後には自分だけでも生き延びたいのです。日本兵も追い詰められ自分を守りたかったのでしょう。米兵に見つからないよう、泣き声をあげる赤ちゃんはもちろんのこと、手のかかるお年寄りは邪魔でしかたなかったのです。

 どのような虐殺・虐待があったのかというと、ガマ追い出しや住民スパイ容疑、幼児を斬殺、絞殺、毒殺または住民を銃殺、米軍攻撃のつい立て、食料強奪、封じ込めなど無数にあります。
 壕の中で具体的にどのような虐待・虐殺・自決があったのか
 沖縄戦では、スパイ容疑による住民虐殺事件が数多く発生しています。南部へ避難する途中の民間人が怪しまれ、日本刀で殺されました。「容疑をかけた以上は意地でもスパイにしなければならなかったようです。かばおうとするとお前も殺すぞと脅かされていた。」と証言者。また、助かる見込みのない者は壕の入り口で注射を打たれていました。また、米兵が近づいてきたという情報が入ると、歩けるものは別の場所へ逃げることとなり、動けない傷病兵は、口止めのために自決が命じられました。

 避難民の中でも特に弱りきった年寄りを収容していた養老院のようなものがありました。そこでは毎日のように息を引き取る年寄りが見られたといいます。遺体がそこから1キロほど離れたクボ地に埋められていました。森と森の間で、やや開けた原っぱになっていました。昭和20年の夏真っ盛り。梅雨が空けてから連日、焼け付くような日差しが照りつけていました。穴掘り作業に駆り立てられた人たちは、暑さと空腹で半ば意識がもうろうとしていました。中でも、16歳の少女には朝8時から夕方まで続く作業はつらかったのです。

 お昼少し前のこと。深く掘られていた穴に、その日も栄養失調で息絶えた老女の遺体が運ばれてきました。いつものようにタンカで運ばれてきた遺体は、穴の縁近くに降ろされました。その遺体を穴に放り込もうとして少女は思わず目をそむけてしまいました。死んだものばかりと思っていた老女が、突然目をむき、少女をにらんだのです。死体の扱いには慣れてきていたはずの少女も、さすがに背すじがゾクッとしました。助かる見込みのない者は早く埋めろ、というのがアメリカからの命令だったのです。

 このような恐ろしい光景を目にしている住民は、次は自分の番ではないのだろうかと脅えながら毎日を過ごしていたのです。このような残虐な死にかたよりは、家族や親戚など身内の愛情をもつ人へ殺してもらいたい、または、自分のきれいな手で天皇のためお国のために死にたいと思うようになる住民は少なくなかったのです。

 自決を決断する理由にはもう1つあると考えます。日本軍は、「敵が上陸してみんなが死ぬ場合、ある特定の場所(壕などによって決められた所)に集合すること」と住民に教えこんでいたのです。そして、軍は「敵の捕虜になったら、男性は戦車の下敷きにされる、女性はなぶりものになる」と日頃から住民に敵の捕虜になることの恐怖心を植え付けていたのです。このように住民に教え込むことによって、住民は、もちろん捕虜になってしまう前に死んだほうが良いと考えるでしょう。攻め込んで来る敵を見れば、住民は捕虜になる前に「集団自決(自殺)」することが用意されていたのです。

 ある壕の中では、ガマの中央付近に布団、衣類などをかき集め、石油ランプの油を注ぎ、焼き、その煙による窒息死を選んだのです。ほとんどが窒息死でしたが、中には注射を選んだ人や包丁を使った人もいました。「集団自決」は上陸した米兵がガマの入り口で住民に対して呼びかけている時に行われていました。

 しかし、壕の中で集団自決が始まる前に壕をでる人も少なからずいたのです。煙の中から出たとき、抱いていた赤ん坊が窒息死状態であり、オッパイを口に含ませようとしたが、口が開かなかったそうです。そのとき、ガマの入り口にいた米兵がサトウキビの絞り汁を口いっぱいに入れると息を吹き返したそうです。ガマの上のほうにはビラが多数舞い降りてきたそうです。「食べ物も着るものたくさんある。安心して出てきなさい。」と書かれていました。

 住民からの証言で、アメリカ兵よりも日本兵が怖かったという方は多かったです。このような虐殺・虐待、「自決」までに追い込む方法をみていくと明らかであります。また、日本兵もそれだけ恐れ、自分自身を失っていたのでしょう。人間は窮地にたったとき、人間が人間でなくなるのです。長期間のガマでの生活は、日本兵と米兵との関わりだけでなく、住民同士の関係から生まれた悲惨な行為も少なくないのです。ガマの中では、日本兵という地位を利用し、強者・弱者の関係が存在していたのです。戦争は生きている人間を豹変させる力を持っているのだと感じました。

14 住民の「集団自決」はなぜおこったのか

             社会文化学科3次 G・M

   沖縄の住民はなぜ集団自決を行ったのだろうか。私は皇民化教育が原因であると考える。それを述べていきたいのだが、証言を基に考えたい。まずは座間味村のM・Hさん他の証言を載せる。

 沖縄県座間味島の例
『母の遺したもの』によると、「座間味島では、昭和18年から19年初頭のころの訓練は住民にとってレクリエーションのひとつのように捉えられていて、真剣みはなかったようだ。日本軍との関係も良好で、軍の命令で担ぎ棒を作り充実感を感じていたようだ。また軍との連帯感も感じていたようだ。ここから日本軍と住民とが一体感をもって生活していたことがわかる。隣の尊敬できる住民と捉えていたであろう日本兵、が常々住民たちに伝えていたことは、「鬼畜米英に捕まれば、女は強姦され、男は八つ裂きにされ殺される。」という事なのだ。このことは座間味だけでなく、沖縄ほとんどに教えられていた。それは日本から出たことのない住民にとって、まだ平和な雰囲気の中すぐに真実のように思い込んでいった。このことが後々に悲劇をもたらした。

 実際逃げていて米兵に捕まりそうになると、「死にましょうよ。敵に捕らわれて辱めを受けて殺されるくらいなら。」と宮城初枝さんは手記に載せている。これから軍の教育がいきわたっていることがわかるだろう。それは米軍が上陸したさいの初枝さんの両親の行動や、他の住民の行動からもうかがいしれる。初枝さんの両親や住民は、手段は違うが自決を実行した人々がいたからだ。それはパニックのように自決を選んだ人々が多かったようだ。また米軍が上陸することにおびえて、死んでいった人々を羨ましいとすら思っていた」ようである。

 村の指導的立場にある人の子どもたちのほとんどは亡くなった。ここから村の指導的立場にいる人ほど、自決への義務感や恐怖感が強かったのがわかる。それは、指導的立場の人々ほど皇民科教育が身についていたことに他ならない。

 『沖縄・チビチリガマの“集団自決“』によると「チビチリガマでの体験者は、次のように語ります。日本軍は兵隊に、捕虜になることは最大の恥といい、『生きて虜囚の辱めを受けず』と教え込みました。死なずに捕虜になることは非国民と教え込まれたそうです。それは一般民衆にも広がり、さらに捕虜は虐待して、惨殺してもかまわないという異常な方向にエスカレートしていったようだ。実際日本軍は侵略先の国でそれを実行していたのだ。それは真実味をおびていただろう。

 中国戦線に行ったもと兵隊たちや看護婦がリーダーとなって、自決をした。他の人々は自決を嫌がり非国民とののしられた人、また引きずられるように自決をした人々がいた。チビチリガマへと入った139人で「自決者」は82人。死亡率60%で、他の死因もいれると死亡率は62%になる。自決者の過半数は12歳未満の子供だった。こどもは自らの意思で死を選べないだろうから、親による強制であったことがわかる。」

 シムクガマの場合を見てみよう。『沖縄・チビチリガマの“集団自決“』によると、
「ここはアメリカ軍が上陸した浜から、1200mほどの内陸部にあるガマである。シムクガマにアメリカ軍が到着した際に、『コロサナイ デテコイ』と言っても、住民はうそだと思い千名あまりの住民は自決しようと意思が固まりつつあった。そこでアメリカ兵ががまの内部に進入してきたところを、竹やりを持った警防団員が突撃した。そこをハワイ帰りで非国民扱いをされていた比嘉平治さん(当時54歳)が止めた。

 彼はハワイに移民していて、そこで長く生活していた経験から、日本兵のようにアメリカ軍が惨殺をするとは思えなかった。そこで自決するかどうかでもめている最中に、同じくハワイに移民していた叔父の平三とともに、外にいるアメリカ軍と英語で交渉して、ガマの人々は助かったのだ。ガマで自決をすると言い奥へと消えた50名以外の人々だが。」

 住民の「集団自決」が起こった場合とおきていない場合のちがいは何であるのか。それは皇民化教育の浸透の強度によるものが関係するのは言うまでもないが、それは土地やその人の性質、役職、人間関係によるものがあり一概にはわかりにくいものである。しかし「集団自決」を行っていない集団がある場合は、アメリカ軍の正しい情報を知っている人物がいるかいないか、もしくは国の行った情報操作に負けずにしっかりと人間の命が大切と判断できた人物がいたかどうかが大きく作用している。こういった人物がリーダーとなり、住民を救うことができた事例もあれば、逆に非国民といわれ殺された事例もあるのだ。

 こういった人物がいたとしても、「集団自決」がおきることもある。これはその人物の人間関係もあるのだが、やはり情報の盲信や、教育による戦争体制が強固であったことをものがたっている。そのように戦争体制に荷担した人物をリーダーとして、住民は「集団自決」へと進んでいくのだ。だが、住民すべてが「集団自決」を自らの意思の決定により、行ったかというとそうではない。軍の強制による死を迎えた人も多い。

 他にも、雰囲気により仕方なく死を選んだ人も多いようである。またチビチリガマの住民の自決者の資料を見てほしい。0〜12歳が過半数を占めている。幼児・児童が考えて「集団自決」を選んだとは思えない。

 私は「集団自決」への行動についていくつかの分類わけができると思うのである。
@ 以前戦争を体験し、日本軍の残虐な行動を目の当たりにしてきて、アメリカ軍が同じことを行うと信じて、自らの意思で自決を決意。
A 日本兵や周りからの情報や国の教育の盲信により、自らの意志で自決を決意。
B 日本軍や親による強制による自決
C 日本兵や周りからの情報や教育を信じていたが、死ぬ恐怖から自決しなかった人。
D 自らの体験や経験により、自決を選ばなかった人。
E Dの人物の考え方にふれ自決を選ばなかった人。

 @はリーダー的な存在であり、また情報の発信源にもなるなど戦争中での権力は強いなどで、「集団自決」を行うキーマンにもなった。Aの情報や教育の盲信は、@にもみられる。そしてAのグループは多く、かれらは恐怖におびえていたり、死ぬことへの美徳を感じていた。そんなAも強制的にBのグループに「集団自決」を行わせた。

 住民の「集団自決」は住民のアメリカ軍に対する認識を操作するため、アメリカ軍に対しての情報を軍がひいては国が操作していて、繰り返して鬼畜米英にみられるような非道な人物像として描いた情報を教え込むことによって、正しい判断をできなくし、国のために死ぬような人間にしたてているのだ。

 確かにどこの国でも戦争になると、相手国の人間は人ではないというように表現されるし、国民もそうなる。だが軍人ではなく住民が「集団自決」をするといったことはやはり異常であろう。もともと日本は天皇を神とし、国民を臣民として天皇の民という概念で捉えられていた。またそう教育されていたことにより、それは一人一人の人権という考えはなかった。それが発展し、教育の目的に、敵を殺し自分も死ぬことは天皇のためになるということになってしまった。そこから国民も国のために死ぬことが道徳的にすばらしいことという考えが構築されていった。確かにそれについて異議を唱える人々もいたが、世間という大きな力に飲み込まれていったという事実。これは大きいものには逆らえないといった考え方や、日本人のもつ御上に疑問をもたず必要以上に従う意識が働き、国のことを信じきっていた状況に落ちってしまったことが悪いのではないだろうか。

   教員も戦争へと荷担した、また戦争への道を突き進む道具として使われてしまった。こういったことを再び起こさないためにも、現状への問題意識をもち、国を見張っていかなければならない。アメリカのような個人主義が人民の根底にある世の中では、沖縄戦であったような住民の「集団自決」は存在し得なかったのではないだろうか。今憲法改正や自衛隊イラク派遣といった、また怪しい動きがある。私たちがきちんと国を監視していくべきなのだろう。
 

15 ガマ避難生活と住民

                           経済学科3年次 S・S

 私が「ガマ避難生活と住民」というテーマを設定したが、なぜこれをテーマにしたかというと、戦争という状況下であのような場所で人々はどのような生活を送っていたのかということに興味を持ったからである。また、日本兵は住民に対してとてもひどい態度だったことはよく聞くが、具体的にはどのようなことをしたのかわからなかったので、調べて見ようと思った。

 図書館やインターネットを利用し、いくつかの資料や体験談を調べたが、ガマ内での生活の様子などより、ガマ内での住民に対する日本兵の態度が多く載っていた。そこで、それを中心にみていく。

 まず住民はガマ内でどのような生活を送っていたのかということだが、食事については「初めは準備していた米・麦・ハッタイ粉・黒砂糖・デンプン、アブラミソ、芋カス、砂糖でまぶしたアズキ、ニンニク、鰹節、タビオカのクズなどを食べていた。アメリカ軍の攻撃が激しくなると、煙を出して炊事をすることもできなくなり、壕の中でも炊けなくなって、結局生米を水につけてふやかして食べたり、そのままかじったりしていた。しかし、そのような食糧も持って歩ける分量というのは限られていてすぐなくなった。その後は、畑にある取り残しのイモは、大事な食糧となり、多くの人がこの小さなイモを採るのに一生懸命になっていた。折角採ってきたイモを日本兵に取り上げられたり、ちょっとの隙に盗まれたりすることもあった。」

 また、避難中なので、他人の畑にあるものを採るのだが、そのために、地主とケンカになったり、村の若者たちから追い返されたりした。あと、私の母方の祖母であるが、戦争経験者で娘を二人失っている。一人は「お腹がすいた、水が飲みたい」と言って、水の入ってないやかんに口をつけて亡くなっていたそうだ。やはり、避難生活での食料の確保はとても困難なものだった。

 また、ガマ内の様子はと言うと、「ガマの中は、病人も死人も狭い洞窟に数百人規模でつめられ、明かりもなく、排泄物は垂れ流し、麻酔なしで手足を切断するなど手術での悲鳴、気の狂った人の叫びや死臭で、ガマは満たされていた」、「洞窟の中は炭酸ガスと臭気で充満していました。汗の臭い、濃の匂い、排泄物の臭いでものすごい悪臭でした」などの証言からわかるようにとても不衛生で生活が出来るような環境ではなかった。さらに、米軍だけでなく、日本兵の影にも怯えながら避難生活を送っていた。

 次に日本軍は住民に対してどのような態度をとったかということについてだが、多くの住民が日本兵の手によって、直接・間接的に殺害されている。住民の避難するガマに日本兵がやってきて、「俺たちが死んだら誰が国を守るんだ」といって、住民を追い出し、米軍の艦砲射撃による爆弾が飛交う中、ガマを追い出された。鉄の暴風が荒れ狂う中に放り出されることは死を意味し、ガマを追い出された住民は、米軍の「1平方メートル当たり50発」という猛爆撃にさらされ、バラバラにされた。また、入壕拒否をされた住民もいて多くが犠牲になった。このほかにも幼児虐殺といった非人道的なことが起こった。日本兵にとって、アメリカ兵から逃げているガマの中で、住民は邪魔な存在であり、特に赤ん坊の泣き声は、敵兵に見つかってしまうと言う恐怖心をあおった。それで日本兵は毒殺や絞殺で幼児虐殺を行った

 また、スパイ容疑で殺された住民もいる。日本兵がスパイ視している理由は、@投降すると見られる者、Aアメリカ軍の占領地に近づく者、B逆にアメリカ軍の占領地域またはその付近から来た者などである。たとえば久米島では米軍に保護された島民、島民に投降を勧告した者、朝鮮人の一家など二〇名が女性やこどもも含めて虐殺された。本島北部の大宜味村では、米軍に保護され食糧などを支給されていた住民が、日本軍からスパイだとして海岸に集められ手榴弾をなげられて二〇数名が殺された。さらにガマには敗残兵もいて、敵につかまったら男は戦車でひき殺され、女はもてあそばれると住民の不安をあおった。

 不安と恐怖の極限に追いやられた住民は、敵にやられるよりは、自分達で家族一緒に死のうと「自決」を決意した。当時の精神状態からして、愛する者を生かしておくということは、彼らを敵の手にゆだねて惨殺させることを意味したのである。したがって自らの手で愛する者の命を断つことは、狂った形においてであるが、唯一の残された愛情の表現だったのである。こういった日本軍による自決強要も行われていた。

 一方、アメリカ兵はというと、証言の中に日本兵よりも優しかった、アメリカ兵より日本兵のほうが怖かったなどと残っている。しかし、実際は投降した住民のみが米兵の厚遇を受けているのである。現に、投降を呼びかけてもそれに応じなければ一転して、容赦無い攻撃を続けた。馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射等による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つなどもしている。   

 このようなことからしても、日本軍に比べて米軍がやさしかった云々が成立する根拠は何もない。しかし次のような証言も残っている。「ガマの中には10人ほどの民間人と2人の日本兵がいた。私が彼ら(民間人)に『日本兵も捕虜にしますか?』と尋ねると皆、口々に『殺せ! 殺せ!』と叫んだ。」これは、日本軍の横暴ぶりとアメリカ軍の意外な待遇に対する沖縄県民を表しているといえる。これらの証言は、戦場に放り出された人間一人ひとりが、それぞれの違った戦争体験を持っているということを表している。

 最後に「集団自決」についてだが、これは読谷村字波平の鍾乳洞、通称チビチリガマで1945年4月2日に「集団自決」が起きた。チビチリガマは米軍上陸早々に戦車や武装兵で包囲された。ガマの外に迫った米兵に竹槍で対抗した2人の男が射殺されたのをきっかけにパニックに陥った避難住民の間に「自決論」が台頭。この中にはサイパンのバンザイクリフで「集団自決」を目撃してきたものもいた。また、中国などへの従軍経験者が、住民への強姦や残虐行為など日本が中国で行ってきたことを話して聞かせ、「自決」を促した。

 日本人がアジアの人々におこなった残虐行為がこうした悲劇を生み出したのである。そして、「自分を殺してくれ」と母親に懇願した18歳の娘が、母親に包丁で首を切られ殺されると、元従軍看護婦が自分の家族に次々と毒物を注射。互いに包丁や鎌で首を切って死ぬ者、さらに男たちが布団に火をつけるなどして2時間足らずでガマの中にいた139人のうち82人が死んだ。チビチリガマでの犠牲者の年齢別の構成は、83人のうち15歳以下が47人、国民学校生以下の12歳以下としても41人を占めている。このこどもたちには自分の意思で「自決」を判断することはできないと見なければならない。また大人たちにしてもガマのくびれたところで火をつけられたため逃げようとしても逃げられず煙に巻かれてしまった人たちがかなりいると見られる。

 チビチリガマの「集団自決」は防げなかったのか、以外にもその答えは近くにあった。
チビチリガマの近くのシムクガマには波平の人々約1000人が避難していた。米兵がやってきて「カマワン、デテキナサイ」と呼びかけた。警防団の少年らが竹槍を持って突撃しようとしたが、ハワイ帰りの比嘉平治さんとそのおじの平三さんの二人が「竹槍を捨てろ」とやめさせ、外に出て米兵と交渉し、住民を殺さないことを確認してから、ガマの人たちに投降するように呼びかけた。こうして約1000人の人たちは投降して助かった。40〜50人だけは「自決」すると言って奥に入ったが4日後に投降してきた。シムクガマでは艦砲で犠牲になった4人以外はみんな助かった。

 この比嘉平治さんはハワイでバスの運転手をしていたので英語がかなりできた。ハワイでかなり儲けて読谷に戻ってきて瓦葺きに家を建てた。当時はほとんどがワラ葺かカヤ葺の家だったので立派な家だった。そのため日本軍は彼の家を接収しようとしたが、平治さんは拒否した。また日本軍将校の横暴をしかりつけるなど日本軍をはっきりと批判する人だった。そのために日本軍からにらまれ、周りの人々からも「非国民」扱いされていた。日本軍が村にやってきたとき、日の丸の小旗を振って出迎えた甥に対して「日本軍人は、アメリカの国の力の大きさを分かっているのか」と言ったという。そうした「非国民」が一千人の命を救ったのだった。

 ハワイに移民で行っていた人は、そこで当然アメリカ人というものを知っており、日本軍が宣伝するような残酷な「赤鬼」ではないことを体験で知っていた。だから住民しかいないことを米兵に話せば、命を助けてくれると考えたのだ。当時、多くの沖縄の人々が日
本軍の宣伝を信じこんでいたことは証言でも明らかである。米軍に捕らえられたら、女は辱められてから殺されるし、男は戦車で轢き殺される、ということを本当に信じていた。さらに住民であっても米軍に捕まることは恥辱であり、いざとなれば死ぬべきだという教育=皇民化教育が徹底的におこなわれていた。しかし、移民帰りの人の多くは、そうした教育を十分には受けていなかったし、しかも日本軍の宣伝のうそを見抜いていた。もちろん彼らは、日本軍が一緒にいた時には主導権をとることができなかった。なぜなら投降しようと住民に呼びかけることはスパイ行為とされて、日本軍に殺害されてしまうからだ。だから日本軍がいないことが必須条件だった。

 今回、ガマの中での住民と日本兵を中心に見てきたが、住民を守るはずの日本兵は国と自分だけしか考えずに、住民に対して非人道的な態度をとっていたことがわかった。また、「集団自決」の背景には、アメリカ兵に対する偏見や日本兵による嘘の情報、異常なまでの愛国心、そして過去に日本がおこなったアジアでの残虐行為があることがわかった。そこで次回は、異常なまでの愛国心を作り上げた「教育勅語」と「皇民化教育」を調べてみようと思う。

16 北部の避難生活はどのようなものであったか

                          社会文化学科3年   H・S 

 課題設定理由
 今回、沖縄戦から平和を学ぶにあたって、私がテーマとしたのは「北部における避難生活はどのようなものであったのか」である。なぜ、このテーマとしたのかと言うと、私の祖母が沖縄戦当時、北部の源河で避難生活を送っており、その時の様子をよく聞かされていたことと、もう一つは、激戦地といわれる本島中南部の戦争状況や戦争被害は、これまで学ぶ機会が多かったのに対して北部地域の戦争状況について学ぶ機会がこれまで全くなかったので、北部地域が戦争中どのような場所であったのか関心を持ち、また、それを住民の立場から考察したいと考え、このテーマを決定した。

 研究方法・研究過程
 まず最初に、北部地域が沖縄戦のなかでどのような位置づけにあったのかを知ることが、北部の様子を把握するために重要だと考え、沖縄県史や国頭村史、沖縄戦についてのホームページや琉球新報社が戦後60年を記念して発行している「沖縄戦新聞」を使って調べていった。それらの史料によって、当時の北部地域のおおまかな様子や特徴を捉えることができた。また、住民の立場から避難生活を考察するために、経験者の証言を読み、祖母から聞き取り調査を行った。これにより、生々しい北部の避難生活の様子を追体験することができ、深く理解することができた。

 結論
 上記のような方法で課題を追求することにより、以下の二つの結論に至った。
 @住民を排除するための疎開計画

 1944年12月に作成された「南西諸島警備要領」には、60歳以上の老人や国民学校以下の児童、直接戦闘に参加しない者などを北部に疎開させることが記されていた。一見、的を得たように思えるこの計画は、実は住民の安全を全く無視したものであった。この計画を打ち出したのには、沖縄住民の被害を最小限に止めようといった考え方の下ではなく、戦闘の邪魔になる足手まといな沖縄住民をどけてしまおうという軍の目的からくるもの以外考えられない。

 その理由として、直接戦闘に参加しない者の避難は敵の上陸直前であり、それまでは戦闘準備作業や食料増産に従事することを強要している。また、北部は山岳地帯で耕作地も狭いため、避難民を食べさせるための食料確保は不可能であり、収容能力もないことは誰の目からも明らかであったのに、知事の反対を押し切って強行したことから、沖縄住民の安全を重要視していないことが解る。このように、軍の都合だけを優先させたこの疎開政策は、当然悲惨な結果を招くこととなり、戦闘とは無関係な悲劇をつくることとなった。(ちなみに、当初約10万人の北部疎開を予定していたが、実際に疎開したのは約3万人にとどまった。)

 A極限の飢えと日本兵の残虐行為
 戦時中、地元住民と避難民とが入り交じっていた北部地域の避難生活において、最も問題だったのが、想像を絶する“飢え”との戦いである。先述したように、米軍の上陸前から予想されていた食料難は、月日がたつにつれ当然のように深刻化していった。証言を読んだり、聞き取りを行っていても、最初に出てくるのが「食べるのに困った」という食料難を物語るものである。ほとんどの人々が最終的には毒を持つソテツを食べており、その食べ方を間違えて亡くなる人も多かった。

 昼は山に隠れて、夜になると食料を確保するため、集落や海辺に下りていく生活を送るなかで、日に日に食料は乏しくなっていき、お年寄りや子どもから先にバタバタと倒れていった。誰もが栄養失調で、死の恐怖につつまれながら、粗末な山小屋に身を潜めていた。捕虜収容所に集められた時、全てが骨と皮だけであり、飢えの過酷な状況を示している。

 また、この避難生活においてもうひとつ脅威となったのは、食料を強奪しにくる日本兵の存在である。日本兵は毎日のように、避難小屋に来ては乏しい食料を奪っていった。祖母の話しにもあったのだが、日本兵達は、「これから切込みに行く」「これから中南部に行って戦闘に参加してくる」などとウソを言い、芋の葉っぱまで根こそぎ奪っていった。しかし、このようなことはまだ良いほうで、拷問や虐殺を行い食料を奪っていくことも少なくなかった。大宜味村渡名喜屋で起こった食料強奪を目的とした住民虐殺は、その様子を生々しく証言している。

 B米軍による婦女暴行
 早い時期に捕虜となり収容所に入れられた北部地域では、見張りや管理を行うアメリカ兵による婦女暴行が相次いだ。そのため、多くの若い女性は顔に泥を塗り男装して身を守っていた。このような対策をしていても、何人もの女性が被害にあった。女性たちは、食糧難から逃れられても、この恐怖をつねに背負っていたのである。これは、多くのアメリカ兵が中南部の戦闘に参加しており、北部地域の配置体制が手薄になったことも要因のひ
とつにあげられる。

 成果と今後の課題
 4ヶ月間にわたって課題解決のために、調べ学習や聞き取り調査を行ってみて、多くの知識と経験を得ることができた。比較的戦禍の小さかったといわれている北部地域も、軍部による疎開計画や、それに伴う飢えによる被害は大きく、早くにアメリカ兵の手に落ちたことも悲劇を生んだ。北部地域の戦禍が小さかったということは、決してないのである。
 また、聞き取り調査では身近な存在である祖母から話を聞くことができたので、当時の避難生活をより深く感じることができ、追体験することができた。これにより、戦争の無意味さと、国の犠牲となるのはいつも住民で、特にお年寄りや幼い子供であると解った。

 また、今回の課題解決にあたって、北部地域のすべての市町村の戦争記録を探すことができなかったため、考察するのに限界があった。次回はもっと多くのデータや証言を読み考えていきたい。もうひとつ、中南部の戦争状況と十分に比較できなかったので、今後の課題としたい。

17 戦時中の新聞報道について
           社会文化学科3年次 K・M

 戦時中の新聞報道について
 まずなぜ私がこのテーマにしたかというと、戦争を起こし始めるのは何も政府や軍だけでなく、やはり国民の世論の力がなければ戦争も起こらないと思ったからである。そうすると当時、世論の形成に大きな影響力を及ぼした新聞がどのように国民を戦争へと駆り立てたのか。今後二度と戦争を起こさないようにするためにも、当時どのように国民が動かされていったのかを知ることは、現在の日本において、また一人の日本国民として重要であると考えたからである。

 最初に全国紙は戦時中どうであったか見ていきたいと思う。アジア太平洋戦争前、戦況のニュースは軍の発表と各紙の自由取材の二本立てであったが、アジア太平洋戦争が始まると状況は一変した。戦局の発表は「大本営発表」の形式で行われ、終戦までに九百九回の発表があった。開戦後五ヶ月間は勝ち続け、発表も正確であったが、昭和十七年六月ミッドウェー海戦の敗戦以来虚偽の発表が行われるようになった。戦火の誇張率は平均六倍、損害の割合は五分の一、商船の損害は十六分の一しか発表しなかったという。また東京大空襲でも損害の隠蔽を繰り返し、最後に広島に原爆が投下されたとき、初めて相当の被害を生じたことを発表している。

 戦況ニュース以外でも厳重な取締りが行われた。社会面には犯罪・災害記事はもちろん、趣味、娯楽記事は載せられず、家庭菜園や防空頭巾の作り方などが紙面のスペースを埋めていた。また、空襲に関連して気象管制がしかれていたので天気予報を報じることはできなかった。雨や晴れと書くことは禁止で、書くことができたのは暑かった、寒かったということだけであった。

 物資不足を匂わすことは、厳しい処分の対象にもなった。また、検閲をパスしても東条英機首相によってしばしば処分になった。戦時下の首相の心がけを説いて、それとなく東条政権を批判すれば発売禁止を命じられ、これを書いた著者はその後警察と憲兵隊の取調べを受け、割腹自殺をしたという。

 戦時体制の強化とともに、新聞の統制も強力に推進されていった。アジア太平洋戦争開始5日後の昭和16年(1941)12月13日、政府は「新聞事業令」を公布した。「これは新聞事業のすべてを政府が握る法令で、首相および内相が統合的運営を図り、統制団体の設立を命令することができること、事業の委託、共同経営、譲渡、廃止、休止も首相および内相の許可を必要とすること、違反者の処分として事業の廃止、休止を命ずることができるという強制力を持つものであった」(『日本マス・コミュニケーション史』)。よって新聞の統合は急速に進められ、昭和13年(1938)には739紙あった日刊紙が、16年1月(1941)には244紙、10月には184紙、17年2月(1942)には128紙、同年10月までに54紙が統合を終えて、地方紙は一県一紙を原則とする新聞の再編成が出来上がった。

 この間、新聞用紙の配給はますます制限され、昭和17年度には中央紙は地方分布の広範囲にわたって朝夕刊統合4ページのみとし、中央と近県下だけを朝夕刊六ページとした。7月からは毎月曜日朝刊を2ページに、18年になると毎木曜日も朝刊2ページになると、年末には新聞2つ以上の新規購読が禁止された。さらに、19年7月には月水木が2ページとなり11月には連日1日2ページのペラ時代となった。

 県内の新聞にも県の警察本部長、特高課長らの手で新聞統合が進められた。戦時下新聞用紙が不足しているため、新聞は統合するハメになったというのが表向きの理由だが、新聞が一県一紙になれば言論の統制がしやすくなるという政府の狙いであったのだ。

 こうして昭和15年(1940)12月、沖縄朝日、沖縄日報、琉球新報の3紙は統合、その名も「沖縄新報」になった。皮肉なことにそれまで各紙2〜3千部だったのが、それまで新聞をとらなかった家庭も購読するようになって1万部近くになり、最初に沖縄に琉球新報が発刊されて以来、沖縄の新聞は始めて黒字になり新聞記者の給料もそれまでの倍近くなって、きちんと支払われるようになった。

 しかし沖縄新報社は十・十空襲で社屋を焼かれ、旧那覇市郊外の墓地の点在する小高い丘陵地帯を背にした旧マッチ工場跡にバラックを建て、本社兼工場とした。4ページの印刷可能な半載輪転機を据えて新聞を発行したが、新聞配達の少年もいなくなり、業務をどうにか続ける状態だったという。次第に情報は「アメリカ軍の上陸間違いなし」の一点に絞られていた。

 その後沖縄新報社は首里の壕に移すが、記者が新聞社に帰っても原稿にする内容のもの(軍の戦況発表)がなく、仕方なしに同盟無線で入ってくる内外のニュースを記事にするといったありさまだったという。牛島司令官から「新聞社の使命は終わった。軍は沖縄新報の解散の自由を認める」と遠まわしの通告を受けた新聞社の壕では、社員幹部を集め解散を決定した。昭和20年5月23日新聞社が壕内で新聞を発行すること65日目、終焉を迎える。

 ではここで、何が県民の意識の統合と戦争動員に大きな影響を及ぼしたのか。一つの例として「大舛中尉顕彰運動」について見ていきたいと思う。昭和18年(1943)10月8日付の朝日、読売、毎日新聞の各紙の一面トップに「感状上聞に達す 大舛中尉」という記事が掲載された。これが「軍神大舛」の誕生である。

  大舛松市は与那国島出身で、県立一中を卒業後、勇躍陸軍士官学校(予科)に入学、彼の入学には父母、村民、学校、県民の期待がかけられていた。大舛は沈着冷静で決断力、実行力に優れており、陸軍士官学校本科で学科、訓練を修了して昭和15年(1940)天皇の観閲のもと卒業。日本軍の悲劇的な戦況が伝わる中大舛は中尉となり、昭和十七年大舛隊はガダルカナル島に上陸し、ここで戦死する。

 大舛は元来寡黙でおごったところがなかったが、一度戦場に出ると、どの将校よりも人並みはずれた指導力を発揮し、実行力も旺盛だったといわれている。沖縄県民の戦意高揚に励んでいた県内新聞や教育界にとって大舛の武勲は千載一遇の好機とばかりに、顕彰運動が大きく報道された。

  一方軍部、新聞の大舛賛歌とほぼ同時に県教学課においても顕彰運動が展開、県下各学校において一週間にわたる「大舛中尉顕彰運動」期間を設けた。さらには、全県民に「大舛中尉に続け」と大舛顕彰式敢行、ポスター作成、大舛をたたえる歌までつくられた。この時期新聞は、「軍神大舛」の責任感や指導力を美化するとともに、皇軍の華々しい戦果をたたえ県民に戦争協力を呼びかけることに終始した。「声高に軍神大舛を賛美すればするほど、それだけ県民の大舛熱は高まり、やがて非合理な精神世界のみが協調され、やみくもに戦意高揚へとつながっていった」(『戦争動員とジャーナリズム』)。

 もちろんここに至るまでには指導者達の積極的な戦争指導があったことは当然だが、庶民サイドからの戦争へののめりこみもまた多かったことは否定できない。大舛運動は単にその華々しい武勲をたたえるのみならず、当初よりそれを通して県民に戦場での「死」を強要する意味を含んでいた。もちろん沖縄県民を戦争に向かわせたのが大舛報道だけではないが、このような地元出身の英雄を作り出して県民の戦意高揚を高めることは、他県でも行われていたと思われる。

 朝日新聞沖縄版の記者だった上間正論氏は当時、記者は戦意高揚を行うのが使命であるという錯覚があったという。大舛の妹に取材したときも言葉少なめでどちらかというと兄のことを書いてほしくないようだったので、上間氏は意表をつかれがっかりしたそうだ。しかし記事には彼女の言葉を曲げて彼女の本心ではないようなことを記事にしたと、今になって思うのだという。その当時はなんと言っても頭にあるのは戦意の高揚で、戦争が終わってから気付いたのだ。このように戦争中、真実を伝えるはずの新聞記者でさえ事実とは違うことを記事にしていたといっているように、いったん戦争が始まれば事実は平気で曲げられてしまうのだ。

 戦争が始まると新聞の発行部数が急激に伸びたというが、新聞社は真実を伝えることよりも利益をとってしまったのだろうか。しかし新聞が世論をあおったことは、敗戦が明らかになった後も日本が戦争を続けたことの最大の原因になった。しかし世論というはっきりと目に見えない空気のような大きな力は恐ろしいと思う。日本は特に、周りがどう考えているかが個人の判断に大きく影響するという世論の力は大きいという。戦争を起こさないようにするのも国民一人ひとりの判断にかかっていることを私たちは忘れてはいけない。政府を監視するのもマスコミではなく、私たち国民がしっかりと監視していかなければならないと考える。

18 宮古島の戦争被害

                         日本文化学科3年次 I・S

   はじめに
 小・中学校と本土で生活をしていた私にとって「沖縄戦」とは歴史上の出来事であった。沖縄で生活を始めた今でさえ、基地のあるこの島に大きな違和感なく過ごしてきた。今回、初めて沖縄戦を丁寧に学んでいく中で、沖縄本島の被害を多く学んだが、周辺離島にはあまり触れることができていないのではと考え、離島の被害を調べることにした。その中で宮古島を選んだのは、自分の親が暮らした島について知りたいと思ったからだ。

 宮古島の被害の特徴を大まかにわけると以下のようになる。
 @米軍の上陸はない。
 A餓死とマラリアによる死者の数が多い。
 Bイギリス艦隊による攻撃をうけた。
 この特徴を基に、住民の様子・病気について考察する。

   住民の様子
   宮古島は那覇と同じ、昭和19年10月10日に爆撃を受けた。那覇と同時に被害を受けた理由に、宮古島には3つの飛行場と6つの滑走路があり、それを破壊するためだと考えられている。

 日本軍は飛行場建設のため宮古島を視察し、渡辺軍司令官らの「宮古島は島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地に最適である」という判断により、昭和18年頃から昭和19年5月にかけて、海軍飛行場・西飛行場・中飛行場用地が半ば強制的に接収された。住民は土地を手放すことに不満だったが、軍事優先で手放ざるをえなかった。土地の接収は買収という形だったが強制的に貯金させられた。しかも凍結され、結局、空手形だった。また、接収された土地は甘藷の生産量も多く、平良市全体の野菜の供給源であった。そして、代
替地の移住部落はマラリアの猖獗で廃絶した。
 当時、島には5万人の人口がいた。そこに3万人余りの日本軍が移駐してきた。青年、壮年の男性は兵役に徴用された。宮古中学の生徒も、鉄血勤皇隊として駐在軍部隊に編入、通信兵としての訓練、敵上陸に備え戦車に突入する訓練や飛行場作業、陣地構築などに従事した。老人・子ども・婦女子のみしか残っていなかった。しかし、日本軍は学校・公共施設・民家などを無理やり接収した。食糧確保のために台湾や九州へ疎開させたりもした。

 教育について
 学校・校舎は軍に接収され、昭和19年1学期の終わりごろから授業どころではなかった。2学期は民家を借りたり、青年会場やウタキに分散したりしての授業の形をとったが、授業らしいのは午前中だけで、その間にも様々な作業に動員された。連日の空襲で分散授業も困難になり、卒業式・修了式もないまま新学年を迎えたところがほとんどである。昭和19年9月頃から20年8月まで正規の授業は無かったと考えてよい。

 考察
 住民の被害は戦前からあり、米軍の上陸の無い宮古島での被害の多くは日本軍から受けていることがわかる。戦中においても、教育を支援する側であるべき国から大きく被害をうけている。そんな中でも、子どもたちのために授業をしようとする島の教師の様子が覗える。

   病気について
   マラリア(注1)
 食糧不足による栄養失調とマラリアによる猖獗による犠牲は、空襲や戦火による被害以上であった。

 宮古島のマラリアは戦前から流行していた。大正15年、県の調査により熱帯性マラ
リア≠ニ判断され病毒も宮古全島に浸透していることがわかった。

 マラリア危険地帯とされた廃部落があり、生水の飲用などが禁止されていたが、3万人
余りの部隊が移駐し、湿気に満ちた防空壕や洞窟陣地、アダン林の中の避難兵舎など、非衛生的な住居環境下、防蚊対策もなく、一般住民も洞窟や急造の小屋に住むようになりマラリアは急速に蔓延した。さらに、連日連夜の空襲で甘藷の自給体制は計画とおりに進まず、孤立無援の島で食糧事情(資1)は日に日に悪化した。その上、飛行場つくり、陣地構築作業など労働過重と住居条件の不備がマラリア蔓延に拍車をかけた。

   マラリアの蔓延を重視した第28師団衛生部では台北帝大から宮原・大森両教授を招き、軍医にマラリア病に対する教育実施をはじめ、全島にわたって雑木の伐採などの予防措置、
原虫保有者の早期発見、予防薬内服の徹底などの対策に苦心したが、医療品の不足、殺虫剤の準備不充分でその効果は容易にあがらなかった。

 ハンセン病(注2)
 戦前から流行していたハンセン病。牛島満軍司令官が着任後、日戸軍医がハンセン病対策の担当となり本島内を調査。44年9月に大規模な強制収容を行った。各地で仕事中に有無を言わさず連行など乱暴な連行がおこなわれた。宮古南静園でも強制収容が行われ、定員300人のところに400人余りが収容された。空襲によって施設は破滅的に破壊され、職員は職場放棄して避難したため、患者は海岸付近の壕などに隠れたが400人余りの患者のうち110人が飢えやマラリアによって死亡した。

 考察
 病気について調べていくうちにマラリアだけではなくハンセン病患者もいたことがわかった。どちらも戦前から流行していた病気なので、直接的な戦争被害ではない。
 マラリアについては住居条件の悪さや食糧難が大きな原因とされる。日本軍が住民に対してもっと優しく配慮(食糧を分けたり、住居施設を一部明空け渡したり)していれば住民への感染も減少することができただろう。しかし、小さな島に閉じ込められ、いつ感染するかという恐怖に怯えていたのは日本軍もたま同じだろう。

 ハンセン病については、あまり深く触れることができなかったが、日本軍は戦前からハンセン病の患者がいることを知っていて、ハンセン病の患者は作業から外したという証言もある。戦前から知っていたのだから、本土に移すなど対策を考えられたのにそのままにしておいたところからも日本軍の冷酷さを見た気がする。

   注1 マラリア・・・ハマダラカの媒介するマラリア原虫の血球内寄生による伝染病。
   注2 ハンセン病・・癩菌によって起る慢性の感染症。癩腫型と類結核型の2病型がある。
   資1 一人一日あたりの配給(単位:g)

1〜4才 5〜9才 10才以上
非農家 120 225 300
農家 3〜4反 120 150 195
5〜6反 120 150 150
7反以上 75

*昭和20年3月10日以降         参考 御茶碗(小)一杯・・・120g
 非農家…年齢に関係なく平均150g     食パン一枚(6枚切)・・・60g
 農家…全廃               豆腐一丁・・・250〜300g

おわりに
   どの資料をみても特徴として前に述べた三つが挙げられている。けれど、今回調べて、戦前は飛行場建設など、戦中は食料強奪など日本軍からも被害受けているようにみえた。これまでの平和学習でも日本軍による暴行などを見てきたが、そればかりを取り上げるから酷く見えている部分もあると考えていた。もちろん公平な目でみて判断するためには疑うことも大切だが、今回、私が調べた宮古島の戦争は何度も述べるように米軍の上陸は無かった。そのなかでも多くの犠牲者がでたということは事実であり、日本軍の非を認めざるを得ないものだと思った。

 他の島と比べると被害は小さく済んだのかもしれない。けれど、もっと日本軍の配慮があれば多くの命が助かったのではと考えると沖縄の人々の日本軍への怒りが少し理解できた気がした。

 同じ日本人からこれだけの被害を受けたのに、平和を大切にし、人を愛する心はきちんと受け継がれている沖縄はとても、素敵な場所だと改めて思い、この土地に基地はふさわしくないと感じた。

19 沖縄戦の住民と日本兵について

               経済学科3年   K・M

 はじめに
 沖縄戦は私たちが住んでいる島で起こった確かな事実であるが、この事実が私たちの心にはあまり響いていないように思える。どこまでが真実であり、どういったことが誤報・あるいは嘘であったか、などもこれまでの平和学習体験を通しては伝わっていない。そこでもう一度、平和について考えるために沖縄戦が与えた影響はどのようなものだったのかを考えるためにシンプルな課題を選んでみた。

 沖縄戦での住民と日本兵
 @沖縄戦、開戦時の住民の生活
 昭和20年、陸軍省令により防衛隊員として、満17歳から満45歳までの男子約2万5000人が沖縄全土から招集された。彼らは直接の戦闘員ではなく、軍への協力部隊として働かされた。衣服などの支給はなく毛布や食器は各自で持参した。配給される食事はわずかなご飯と中身のないしょう油汁、たまにラッキョウやウメボシが1個つくだけのあまりに質素な食事であった。

 H・Tさんの証言
 昭和20年の3月25日に安全な地域に疎開するようにという命令が出されたが、空襲が激しくてどこが安全なのかわからない。家族を連れてとりあえず山に避難した。アメリカ軍は嘉手納、読谷あたりの海岸一帯に猛烈な艦砲射撃を浴びせてきた。戦火に追われて国頭へ疎開することにしたが、艦載機が絶えず上空を飛ぶので、昼間は岩陰や洞窟に身を隠し、夜だけしか移動できない。やがて国頭につき、辺土名の役場にいって食料の配給を申し込むと、疎開の書類がないからダメだと断られた。書類をそろえるような状況ではなかったが、村には那覇で焼け出された人たちなどが大勢疎開していたので、融通はきかなかった。配給が受けられなくて困っていると、「首里のあたりに行くと食料は十分にある」という兵隊がいたので、また南にもどることにした。そのころにはアメリカ軍が上陸し、首里では激戦が展開されていたが、兵隊がいいかげんなデマを言ったのである。しかし、情報に乏しくデマかどうかを判断することはできなかった……。

 戦争が激しくなると食糧事情が悪化していった。住民だけでなく兵隊も満足に食事を取れないでいた。兵隊が芋畑に行くと「ご苦労様です。どうぞ掘って持っていってください」と言って貴重な食料を分け与えた。決して本心ではなかったはずだが、ルールとして成立していた。当時は地元民と避難民との間で食料をめぐる小競り合いが頻発し、鎌を持った地元民に「イモ泥棒!」と追いまわされる者もいた。なかには殺された者もいるが、栄養失調で死んだ者も多い。「このままでは飢え死にしてしまう」と、収容所に行こうとする者がではじめた。アメリカ兵が「降伏しなさい」と呼びかけたばかりか、飛行機から「降伏すれば命は保証する。食事も支給する」というビラをしきりに撒いていたからである。しかし、「つかまれば男は殺され、女は辱めをうける」と教えられていたので躊躇する者が多かった。わずかな希望よりも不安のほうが大きかったのである。

 ある日、先に収容所に向かった人がアメリカ軍のMPを連れて壕に現れた。収容所での生活を話し、住民を収容所に誘った。疲弊してこれ以上の逃避行が困難であったうえに、生きて迎えにきてくれたのだから安心しても大丈夫だと多くの住民が思った。彼らは幸運にも生き延びることができた住民であった。

 A 日本兵のとった行動
 沖縄戦では数え上げられているだけでも15万人以上の一般住民が死亡している。これは戦闘に加わらない老人や女性、子どもまで犠牲にした結果である。恩名河原に老幼男女が集まり、互いに鎌やクワで殺し合い、自決用に渡された52発の手榴弾をつぎつぎと爆発させて死んでいった。死ねなかった住民も日本兵によって殺された。

 凄惨な「集団自決」の行われた渡嘉敷島を守っていたのは、爆雷をつんでアメリカの艦船に体当たりをしていく特殊部隊だった。この隊長が「食料を部隊に提供して自決せよ」と島民に命令したのであった。この命令により渡嘉敷島では住民329人による「集団自決」が行われた。「…多里少尉は住民のひとりにスパイの疑いをかけて斬殺した。家族を失って悲嘆のあまり山中を彷徨っていた者も、米軍に通ずるおそれがあるという理由で、高橋伍長の軍刀で殺害された…」(『沖縄戦とは何か』より)

 M・Kさんの証言
 昭和19年に村上大隊に召集されたが、米軍の上陸により撤退した。一度、親に会うために家に帰るが「名誉の戦死としておくから帰ってくるな」と追い返された。そのころ家にはMPが頻繁に来ていたので、家族に兵隊がいると知れたら危険だと思ったらしい。家族の安全と生活のためにはしかたのないことであったのかもしれない。言われるままに家を出て、山に身をかくし、渡辺大尉と一緒に行動していた。渡辺大尉は部下30人を連れて運天の特殊艇陣地から源河山に来たりしていた。彼こそが今帰仁村民5人をスパイ容疑で処刑した張本人である。彼らは夜間、米軍がいなくなったころに住民地区におりて食料強奪、住民の処刑を繰り返していた。住民が米兵と接触することでもになれば日本軍からスパイの嫌疑で殺されることになる…。

 日本軍は米軍兵と接触のある者をスパイとみなし徹底的に処刑した。住民への見せしめのために虐殺を行ったのである。スパイの容疑は何でもよかったに違いない。沖縄の方言を話せばスパイとみなされ、米軍に保護されて食料をもらった者、米軍に投降しようとした者もスパイだとして殺された。警察や密偵を使って、米軍の占領地区で保護されている住民の動向を密かに探っていた、という資料もでてきている。
 日本兵による住民の虐殺はスパイ容疑だけにはとどまらない。食料の確保のためならば
住民を殺すことにも躊躇しなかった。初めのうちは躊躇や罪悪感があったのかもしれないが、次第に薄れていき平気で住民に銃を向けている。戦う相手が違っていることにも気づかないくらいに人間としての心を失っているようだ。

 K・Sさんの証言
 一晩中米兵の声が聞こえるなかで緊迫状態が続いたが、昼となく夜となく交戦を続けていき、ついに射撃戦で敗北した。「歩ける者は持てるだけの米、塩、味噌を持って退却」と隊長が言うままに撤退したが、その食料も喜瀬武原に着くころにはすでになくなっていた。ここに避難小屋が一軒だけ残っていた。付近の避難民は米軍によって全員下山させられていたが、この一組の家族だけは産気づいた婦人がいたので残ってもよいとの許可をもらっていた。この家族に「持たすだけの食べ物はないが、食べれるだけは食べて下さい」とご飯をすすめられた。しばらく休んでいると、陸連隊の敗残兵4人も来ていた。彼らも同じように食べ物の世話になった。翌日のお昼ごろお礼を兼ねて挨拶に行った。すると小屋の入り口に夫が死んでいる。小屋の中では妻がうなっている。彼女は息も途切れ途切れに「昨日の陸連隊にやられた」という。食料を目的で再びこの家に来たのだが、「いつ下山するかわからないので」としぶったところ、いきなり手榴弾を投げ、拳銃を撃って食べ物いっさい奪っていったと説明した。7歳になる女の子は死の息をしている母に泣きすがっていた。生まれたばかりの赤ちやんはもはや生きていくことできないだろうと思った…。

 このように生きていくためには、他人を殺してまでしないといけないのである。住民から食料を奪ったのは日本兵だけではない。住民同士でも食料を奪い合い、生きていくためには文字通り他人を踏み台にしなければならないのが戦争である。

 戦争は何もかもを奪いつくす、それだけではなく人間性をも破壊する。しかし、残念ながら世界中で戦争が休まる時はない。得るモノよりも、失うモノの方が多いことは歴史が物語っているのにもかかわらず…。沖縄戦を私は経験していないが、恐怖の体験は想像してしまう。文献にでてくる言葉には「想像を絶する地獄絵図」という最上級の言葉が用いられる。想像することも許されない恐怖が戦争にはあるのだと思う。

 今回の課題に残ったのは、あまりにも狭い範囲で沖縄戦について学習してしまった部分があるなと感じた。やはり沖縄戦を知るためには、なぜ戦争を行ってしまったのか、それで得たものはなんだったのか、もっと掘り下げていく必要があるように感じる。

20 朝鮮人強制連行について
                                                 社会文化学科3年 T・K

 幾多の悲劇を生みこんだアジア太平洋戦争。その悲劇の全てを言葉で表すことは困難であるが、中でも沖縄戦は地上戦として、住民をも巻き込み、数多くの死者を出したということは事実である。しかし、沖縄戦の辛い体験は県民だけが味わったわけでは無いということを、今回の講義を通して知ることができた。数々の戦争にかり出されたほとんどの朝鮮半島出身者もである。

   沖縄にも多数の朝鮮半島出身者が強制連行され、男性は軍夫として飛行場建設などの過酷な労働をさせられ、女性は日本軍の従軍「慰安婦」として使役された。沖縄戦では、1万人以上の朝鮮半島出身者が死亡、あるいは虐殺されたとされる。朝鮮半島からの連行者が多かった理由の一つとして、朝鮮半島が日本の植民地でああったことがあげられる。私は、強制連行された女性が「慰安婦」として日本軍の性欲解消の相手とさせられていたということに対し、疑問と憤りを感じたため、慰安婦のことを中心に今回の発表のテーマとし、様々な角度から考察していきたい。また、教師の立場に立ったとき、生徒たちにどのようにしてこの事実を伝えていくべきかを考えながら整理していきたいと思う。

 戦線の拡大に伴い、当時日本の植民地化にあった朝鮮半島では、日本での労働力不足を補うために徴兵・徴用として多くの人たちが日本に強制連行された。1940年から45年の間に日本に連れてこられた朝鮮人は120万人余りで、沖縄戦にも1万人余りの朝鮮人が送られ、戦争の犠牲者となったことは先にも述べた通りである。最初に、慰安婦とは、日本帝国主義の植民地時代に日本軍の慰安所に連行され、日本軍から強制的に性暴力を受けた女性達のことを指す言葉である。その多くが朝鮮人女性であったのは、朝鮮半島が日本の植民地にあったことを利用し、当時生活の貧しかった朝鮮人女性に甘い言葉をかけ、もしくは強制的に騙して戦場へと連行していったのである。

   そして、もう一つの理由は、朝鮮人の女性性行為経験が少なく、未婚者が多かったということがあげられる。日本では、毎旬一回、日本人慰安婦の検診を軍医が行っていたが、その時に日本内地の女性は性病を持っている人が多かった。彼女たちはもともと売春が職業であったこともあり、慰安婦の対象は植民地下の生活が貧しい朝鮮人女性に向けられたのである。

   では、戦場であった沖縄には売春を職業にしていた女性はいなかったのかと言うとそうではない。沖縄には「辻」の遊女がいた。遊女とは、本質的には金銭と性欲によって成立する世界といわれており、そこにいた女性たちがすがらざるを得なかった伝統があったのである。そのため空襲(10・10空襲)によってもたらされた辻の壊滅により、慰安婦という選択を余儀なくされたのであった。遊女といえば、男を商売道具としか見なかったのではないか、といった通念があるが、自らの本来の意思で慰安婦になったわけではないようである。

 韓国では、長い間、彼女たちのことを「挺身隊」と呼んできた。「挺身隊」は戦時の体制下で日本軍の戦闘力強化のために特別に労働力を提供する組織などを指す言葉であり、決して慰安婦の意味を指す言葉ではなかった。しかし、太平洋戦争が大詰めを迎えた1943年以後には女子挺身隊あるいは女子勤労挺身隊に対して使われる傾向が現れはじめ、1944年8月には「女子挺身隊勤労令」が発令された。そのため、以後より挺身隊という言葉は、戦争労働力として動員された女性に限って使われるようになったのである。

   「女子挺身隊勤労令」に基づき組織された女子勤労挺身隊は、男子の戦争動員によって不足になる労働力を補うためのものであった。したがって女子勤労挺身隊と日本軍慰安婦制度はもともとは違うものであった。

 では、なぜ、女子勤労挺身隊と慰安婦が同じ意味であるといったことが言われていたかというと、日本人が朝鮮人女性を騙して強制連行されたことにある。日本人は本来の従軍慰安婦という仕事の内容を伏せて、朝鮮人女性に対し、女子勤労挺身隊として人員を募集したためである。端的に言えば、騙されて動員された「朝鮮狩り」といっても過言ではないのである。

   日本人は、朝鮮人女性に対し、「お金がもうけられる」「1日3回腹いっぱいご飯が食べられる」と声をかけ、仕事の内容も@軍隊食堂のまかないA軍隊の衣服の洗濯B看護員助手などとしか伝えていなっかたのである。朝鮮人は当然、挺身隊として働けると思い日本に渡ったのであったが、女性たちは、なすがままに慰安所に配置され、さらには集団で監禁され、繰り返し性暴力を受けることとなったのである。中には、一日50人以上の軍人の相手をさせられて気を失ったままの人もいたという。

 慰安婦とともに強制連行させられてきた朝鮮人軍夫も、沖縄各地に配属され、壕堀や弾薬運搬などの危険かつ過酷な労働を強いられた。さらには食事もわずかな食料だけで、多くの朝鮮人は痩せ衰え、病気や栄養失調などで倒れていったのである。「毎日一定の配給がなくはない。しかしその量たるや、一個分隊70人に対して、やっと飯盒ふたつだ」「ましてやそれが、一食分ではなく一日分」(金:1992:148頁)といった証言からも朝鮮人軍夫が極限の状況に置かれていたことがわかる。朝鮮軍夫が極度の空腹をしのぐため、食料の奪略や逃亡をする者も出てきたのは言うまでもない。さらには、「スパイ容疑」や「逃亡未遂」などの違反が見つかり、見せしめとして銃殺される人もいたという。このように、強制連行された人々は、日本軍による人権を全く無視した差別の中、人間ではなく家畜同様の扱いを受けたのであった。さらに、言葉のわからない異国の地で戦火にさまようという二重、三重の苦しみを味わったのであった。

   1995年、太平洋戦争終結・沖縄戦終結50周年を記念して、沖縄県の摩文仁ケ丘に「平和の礎」が建てられた。この記念碑は沖縄戦の全ての戦没者の名を刻銘したものである。1998年6月現在刻銘されている総数は23万7138人、うち大韓民国出身者は189名、朝鮮民主主義人民共和国出身者も189名である。多くの朝鮮人が沖縄戦で命を落としたのにも関らず、刻銘者があまりにも少ない。

 私たちが巡検で訪れた時にも追加刻銘されているという話を聞いたが、戦後何十年経った後に、遺族の方を探すことが困難であったり、(戦争遂行者と)同じところに名前を入れたくないという遺族の意見など、実に様々な問題が生じてくるようである。また、1995年には摩文仁ケ丘敷地に「韓国人慰霊塔」が建てられた。韓国の各地から集められた石が石塚を取り囲むように並べられている。石塚の前の円形広場にはさまよえる魂のために故国(韓国)への方向を指す矢印がある。

 現在、朝鮮人の強制連行について知っている学生は多くないであろう。私自身大学で沖縄戦に関する講義の中で得た知識が多くあり、これまでの学校現場で、沖縄戦の内容以外に朝鮮人の強制連行についてはそう多くは取り上げられていなかったことに気付いた。実際に、中学・高校の歴史の教科書に「従軍慰安婦」という言葉は出てくるが、それが何なのかという説明は細かくは記述されていない傾向にある。性的に関わる内容で過激すぎた為に授業での扱い方が困難であるといったことも考えられるが、「一番大事な点は、日本軍性奴隷であったということをはっきりさせるということではないでしょうか」(吉見:1997:161頁)という意見もある。私は説明の仕方次第で生徒たちにも的確に伝えることが出来るのではないかと考える。しかし、性的関心が著しいこの時期の生徒たちに伝えていくことは容易ではないと思うため、今後の課題へと?げていきたいと思う。

   あの悲劇的な沖縄戦で苦しみ死んでいったのは沖縄県民、米軍、日本軍だけではない。沖縄県民を守ろうとしていた日本軍が朝鮮人に対してやってきたことを隠すことなく、これからの教育現場、授業の中に組み入れていけたらと考える。また、元慰安婦の中には人権を抑圧されたまま今も生きている人がいるということ、沖縄戦は過去の出来事として終わらせてはいけないということを念頭に置いて、生徒たちに伝えていけたらと考える。

 今回の講義を通して「総合学習」の必要性や意味を学ぶことができた。自分が教えたい、伝えたいことを生徒たちが自ら考えるような授業内容にしていくためにも今後の課題は尽きないであろうが、証言や参考文献を元に自分なりに考察していきたいと考える。

21 沖縄戦中の住民の暮らし
                      地域行政学科3年 東琴乃

 はじめに
 私は、「沖縄戦時中の住民の暮らしはどうだったのか」を課題とし、命の尊さについて改めて考え学ぶことが大切なのだと気づき、沖縄戦で最も犠牲となった住民にスポットを当て、この課題を設定した。研究方法等については、インターネットによる情報収集や文献研究をすることで課題追求・展開をした。今まで、小・中・高と平和教育について学んできたが、戦争を体験したことのない私たちにとっては、戦争の悲惨さや残酷さを感じることは困難である。こうして、平和な社会に生まれ生活している私たちであるが、世界のどこかでは、かつて日本が体験したこの悲惨で残酷な戦争が起こっている地域が存在している。このような現状の中で、悲惨で残酷な「戦争」を無視してしまっていいのだろうか。二度とあの悲劇を繰り返えさないためにも、戦争について学び、次世代に伝える義務があるのではないかと感じた。

   沖縄の悲劇
   1941年、日本で太平洋戦争が勃発。沖縄県は、軍部や政府の方針で「本土決戦の準備ができるまで、捨石となってアメリカ軍を食い止め、時間を稼ぐ」という役割を背負わされたのである。1944年10月10日、初めて大空襲を受け、那覇市は一日で焼け野原となったのである。1945年4月1日、10万発の艦砲を撃ち込んで18万3000人の米軍は現在の読谷、嘉手納の海岸に上陸し、住民は北部へ疎開することができず、戦場をさまようことになった。

   集団疎開の学童、年寄り、女たちを乗せた貨物船団が、那覇港を出発して、九州に向かった。1700人が乗り込んだ対馬丸は、速力が落ちて船団から離れ、一隻となって、鹿児島県奄美大島の悪石島の沖合いに差し掛かった。このとき、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、対馬丸は、青い海へ沈んでいってしまった。死者は1473人、このうち学童が641人、助かった人が227人、そのうち学童がたったの59人だった。海に沈んだ子供たちの魂は、那覇市の「小桜の塔」に祭られ、「命短く 青潮に 花と散りつつ 過ぎにけり 年は巡れど 帰りこむ 幼き顔の 目にはみゆ」と謳われている。「沖縄の悲劇」はこうして始まったのだった。

   米軍、日本軍による二重の犠牲
 沖縄住民にとって、沖縄戦は敵であるアメリカ軍との戦いであり、友軍である日本軍との争いであり、飢えと降り続く大雨との戦いだった。日本軍により殺されたり、沖縄方言で喋っていてスパイと疑われ殺された人、「敵に知らされる」と仕方なく泣き叫ぶ赤ん坊を手にかけた母親など、沖縄本島だけでなく、周囲の離島を含め、幾つもの惨劇が起きている。

   中部戦線では、戦死者を多くだし、怒りの米軍は容赦なく砲弾を浴びせ軍民無差別殺戮を行った。実に一人あたり52発の爆弾が落とされたと言われている。その後の戦闘は、米軍は一つひとつのガマや墓を潰していき、壕や穴の中で投降を呼びかけ、それに応じないと火炎放射器で焼き払ったり、爆弾を落として住民を皆殺しにした。そんな中、住民が隠れるガマの中には敗残兵の姿もあり、彼らは捕虜になると男も女もなぶり者にされて殺されると住民の不安を煽った。不安と恐怖の極限に追いやられた住民は、敵にやられるよりは、自分たちで家族一緒に死のうと「自決」を決意した人もいたと言われている。

   もともと山岳地帯で食料が少ない北部は、南部からの疎開民と日本軍の食料調達により深刻な食糧不足になった。そのため、人々は山中を逃げ惑いながら栄養失調に苦しんだのである。捕虜となった人々は収容所での生活を余儀なくされた。収容所は沖縄全島に12ケ所あったのだが、収容所とは言うものの、何にもない場所に有刺鉄線を張り巡らせただけのものであり、住民はそこにテントを張ったり、小屋を作ったりして雨露をしのいだ。衛生状態は悪く、マラリアのような伝染病が流行して多くの死者がでたとされている。

   ひめゆりの学徒隊
 女学校では、本土に準じて、昭和13年頃から体育に薙刀が採用されたり、16年から制服のセーラー服に変わって「へちま襟」に変えられたり、必修科目の英語を敵性語だからと随意科目にしたり、授業時間を削って食料増産のための農作業を行ったりした。ひめゆり学園では、19年に入ると、日本軍のための陣地構築の作業も加わった。授業、校内作業、動員の三部制が二部制に、つまり一日おきの動員となり、その間をぬって、芋や野菜作り、防空壕堀りなども行わなければならず、勉学からますます遠ざかっていった。

   米軍が激しい艦砲射撃を始めた3月24日、第32軍司令部から沖縄師範学校女子部と県立第一高女に従軍命令がでた。かねて軍は陸軍病院の看護要員として200名を要請しており、両校上級生は速成の看護教育を受けていた。両校生徒は後に言われるようになる「ひめゆり学徒隊」を編成するが、同夜は帰郷することになっていた離島出身の、非看護要員の下級生も一緒だった。16歳から20歳までのひめゆり学徒は、学園の甍や想思樹の並木に別れを告げ、淡い月影に照らされながら、道を急いだ。四月なかごろから戦闘が激しくなるとともに、患者が激増した。学徒隊はそれまでの学校独自の編成から、病院側の第一、第二、第三の各外科に応じた分散編成となり、生徒は各科看護婦長の直接の命令を受けるようになった。

   始め外科手術に立会い、血を見て卒倒してしまうような生徒たちも、次第に訓練されて気強くなっていった。ひめゆり学徒隊は約200名も亡くなったと言われている。当時、ひめゆり学徒隊だった宮城さんの証言によると、食料は一日おにぎり一個という過酷なもので、しかもそのおにぎりは、日に日に小さくなってゆき、最終的には「ピンポン玉のおにぎり」と呼ばれるほどになったそうだ。もちろん戦場に性別の関係はなく、上官から男性と同じ言葉使いを徹底された。すぐに防空壕内は満員になり、上官からは「自力で来た者は中に入れるな!」とか、「死にそうな患者はほっとけ!」と指示されていた。そして、助け無しでは歩くことも不可能な人だけ中に入れ、自力で来た人は再び戦場へ送り返したそうである。負傷のひどい患者の手術には、学徒隊の上級生が補佐役を勤めていた。時には麻酔無しの手術も行われ、補佐役が暴れる患者を必死に押さえている間に、えそなどを切り取っていたそうである。死亡した兵隊の後始末も彼女たちの役目だった。

 これまで、「沖縄の住民の暮らし」として沖縄戦の悲劇、米軍・日本軍による二重の犠牲、ひめゆり学徒隊に視点を当て調べてきたが、戦争で多くの人が亡くなったという現状と一般の住民への犠牲が大きかったという現状を改めて実感することができた。戦争を体験してない次世代のためにも、体験した人が悲しみを乗り越え、悲惨で残酷な戦争が日本で起きていたということを真理・真実に基づいて、伝えていかなければいけないのである。平和の象徴でもある白い鳥が羽ばたき、緑多き平和な沖縄を私は心から願っている。

22 沖縄戦にいける「集団自決」について

                      社会文化学科3年 T・T
 1 はじめに
 沖縄県宜野湾市で生まれ育った私は、物心ついたときから基地のフェンスが目の前にあった。小学生のときから平和教育を受け始め、中学、高校と進み、そして大学に入った今も、沖縄に生まれたもの、教員を目指すもの、平和を願う一人として沖縄戦について学び、考え続けている。そんな中、私が沖縄戦を学ぶ際、常に疑問に思うことが、「なぜ沖縄の人々は自らの命を、愛する人々の命を奪っていったのか」ということである。私は、このような状況にまで追い込んだ沖縄戦の背景を知ることにより、“沖縄戦”の姿というものがまた一歩進んで理解できるのではと思い、今回の課題にした。また、“沖縄戦”を理解することは、教員を目指すものとして必要なものだとも考える。

 2 証言にみられる「集団自決」
 「集団自決」についての論を展開していく前に、証言の中から「集団自決」について見ていきたいと思う。

 「戦地を逃げ回り、疲れ果てた私たちに、棚原家三男の妻が『こんなに苦しむより、今日ここで死んで一緒に中頭へ帰ろう』と言い出した。どの顔にも疲れが見え、その方がいいと自決することに意見がまとまった。そして3個ある手榴弾のうち1つは私が、もう1つは提案者の三男の妻、そして五男の妻が残りの1つを持って一斉に自分の近くにたたきつけたのである。するとどうだろう。三男と五男の妻の手榴弾2個が爆発し、恐ろしい叫び声と共に24人の親戚が、一瞬のうちに「自決」したのである。体が吹っ飛ぶもの、うずくまるもの、あたり一面鮮血が散り、まるで地獄絵図そのものであった。」(宜野湾市史)

 「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられた。また、すでに米軍は300m近くまで迫っているとの知らせもあり、張り詰めた緊張感が破裂した。村長のもと、『天皇陛下バンザイ』が三唱され、いよいよ第一の「集団自決」がおこった。村の青壮年と防衛隊に手榴弾が配られ、その周りに家族・親類が10名、20名と群がった。そして炸裂音とともに悲鳴があがる。しかし、手榴弾は栓を抜いても発火せず、多くが不発に終わった。したがって、手榴弾による死傷者は少数にとどまったのである。しかしその後、私の目に信じられない光景が飛び込んできた。1人の男性が1本の木をへし折り、彼の愛する妻子を狂ったように殴殺し始めたのである。以心伝心で私たち住民たちは愛する肉親に手を掛けていった。地獄絵さながらの阿鼻地獄が展開していった。剃刀や鎌で頚動脈や手首を切ったり、紐で首を絞めたり、棍棒や石で頭部を叩くなど、戦慄すべきさまざまな方法が取られた。」(金城)

 以上、二つの証言を文献中から引用したのだが、その様子を客観的に見ていくことにする。

 まず、いずれにしでも戦場で“追い詰められた”住民が自らの手でその命を絶っている。そして「自決」がおこなわれた様子からは、張り詰めていた糸が切れたかのように、“あるきっかけ”で「自決」へと至っている。また一端張り詰めていた糸が切れると、人々は何かにとりつかれたかのように、人間としての感情が見られず、死へと向かっている(子どものある一言が人々を正気に戻したという証言もあった)。

 では、なぜこのような状況へと人々を向わせたのだろうか。人々の精神状態とはどのようなものだったのか。当時の時代性からその原因をみていくことにする。

3 戦前日本の時代性
 戦前の日本では、天皇を中心とする「皇民化教育」が国家によっておこなわれていた。つまり軍隊と教育が構造的に直結しており、皇民化教育と軍国主義は密接に関わっていたのである。当時の天皇は“神”と同様に扱われ、日本国民の精神を統一するための精神的支柱として存在していた。この流れが国民を「天皇の忠実な臣民」として育て上げ、個々のアイデンティティーを排除するに至ったのである。

 明治以降の日本が前述した道を歩み始めた頃である。1879年の琉球処分以後、日本の一行政区として日本国の一員となった沖縄県は、日本本土と同様な国家政策の中に組み込まれていった。だが廃藩置県などの諸制度の改革が進められる本土とは異なり、沖縄では旧来の制度・慣習を温存する政策が講じられていた(旧慣温存策)。

 元々は琉球国民としてのアイデンティティーや先に述べた旧慣温存策の流れもあり、沖縄においての「天皇」「軍隊」思想は他府県に比べて遅れていたのだが、このような考え方の遅れを取り戻すために軍に協力する形で県・市郡町村・学校・警察・その他の機関の強力な教育の力でいわゆる“洗脳”がおこなわれ始めたのである。この“洗脳”行為の例としては、方言の禁止や朝礼の度に東京方面に向って礼拝をする宮城遥拝、天皇の写真“御真影”にお辞儀をするなどといった、生活と根づいた“教育”がおこなわれていた。

 このような徹底された戦前の国家体制、軍国主義と結びついた教育のあり方が沖縄にもしだいに浸透し、沖縄戦が始まる頃には住民の心にその精神が植えつけられていたのである。その結果が「御国のためなら…」という玉砕精神となって表れることになるのである。

3 住民を「自決」へと追い込んだ理由
 前項で当時の皇民化教育、軍国主義が住民を天皇の臣民として作り上げたということを述べてきた。このような時代性を理解した上で「自決」ついて考えてみると、住民一人一人が「死の覚悟」としてではなく、全体が沖縄戦の始まる前に「死の覚悟」をしていたとみることができる。では「死の覚悟」ができていた住民は、どのようなことがきっかけとなり「自決」へと追い込まれたのか?以下の9つからその理由をみていきたい(項目はT
・N氏のホームページから引用)。

 @逃げ場がなくどうしようもない状況
 A米軍の上陸が目前、または攻撃が近づいてくる恐怖
 B助けを求めた日本軍に拒否されたり、追い返されたりした
 C捕虜になるよりかは死んだほうが…
 D日本軍に「自決せよj と言われた
 E「死ぬ」のが当然な気持ち
 F自分だけ生き残れない
 G生き残るのが恥ずかしい
 H死ねないのは申し訳ない

 以上のような証言の分析から、T・N氏は「米軍上陸→逃げる一逃げ場を失う→日本軍の守護に頼る→拒否される→捕虜にはなれない一死ぬしかない→「自決」という構造であらわし、分析している。確かに戦前の徹底化された皇民化教育が人々の精神の土台として存在しているので、T・N氏が分析したような流れで「自決」へと向うのは理解ができる。

4 「自決」という用語
 今まで述べてきたような歴史的背景、「自決」がおこなわれた理由などを踏まえた上で考えてみると、「自決」という言葉にある疑問が生まれてくる。そもそも「自決」という言葉を『現代国語辞典』で調べてみると、「責任をとって自殺すること」と記述されている。はたして沖縄の住民たちは責任をとって自殺したのであろうか。当時の皇民化教育、軍国主義思想に“洗脳”されて自殺へと追い込まれたのではないだろうか。

 この表現については1965年におこった家永教科書裁判でも問題になっており、当時の政策によって住民は死に追い詰められたのにもかかわらず、あたかも「崇高なる犠牲的精神による自発的な死」というような間違った表現がなされ続けていることになっている。このような解釈・理解の相違が沖縄戦の姿を曇らせ、沖縄戦の真実を書き換える危険性を持っているのであり、歴史の間違った捉え方にもつながる恐れがある。

 このような「自決」という表現方法に対し、I・M氏は「沖縄県民に対する“日本軍の作戦による軍事的他殺”」「日本軍の強制による集団死」というような表現を用いている。「自決」というたった二文字の言葉であるが、そこに含まれている意味というものは計り知れないほど大きなものである。それぞれの歴史的背景や当時の住民の心情を踏まえて考えると、この「自決」という言葉を理解することは沖縄戦の姿をまっすぐに見ることになり、私たち沖縄県民として、平和を願うものとして、「自決」という意味を知ることには大きな意義を持っている。

5まとめ
 以上のような流れで「沖縄戦における「集団自決」」について述べてきたが、先にも記述しているように、私たちが「自決」の持つ意味を知る意義というのはとても大きなものである。それは一沖縄県民としてであり、平和を願うものならなおさらである。私たちの前の世代が体験した悲惨な沖縄戦を、また現在にも続いているとも言える沖縄戦の真実を知ることで、平和へとつながる第一歩になるであろう。ただ、「集団自決」のみだけでは沖縄戦の実体を知ることは不可能であり、それだけ沖縄戦の姿というのは理解できるほど単純なものではない。

 私も今回のレポートにおいて、まだまだ勉強不足な点が多々あった。証言の読みこなしが不十分であり、文献においてもまだまだ不足していると思う。今回の反省はこれからの学習、調査にいかしていきたい。

 また課題解決のみにとどまるのではなく、「学ぶ・伝える・行動する」という視点から追求するよう心がけたい。その際にも総合的学習の目的や平和への構成員である私たちがすべきことを考えながら積極的に取り組んでいきたい。

 本講義を通して、戦争の悲惨さ、複雑さ、そして平和を目指す大切さというものを再確認できた。先生の誇義で学んだことを、現場でいかしていけるよう頑張っていきたい。

23 戦場で働く少女たち〜ひめゆり学徒隊〜

                   社会文化学科3年 S・I

 私は今回沖縄戦について考えていく中で、ひめゆり学徒隊に焦点をあてて見ていこうと思う。少女達があんな悲惨な戦場でどれだけ国のために働き、辛い思いをしたのか知っておくべきだと思ったからである。きっとこの平和な時代を贅沢に生きている私には想像も出来ないことが起きていたに違いない。なぜ少女達までが働かなければいけなかったのか、戦場での事実を見ながら考えていこうと思う。

 まず「ひめゆり」というのは、併置校である沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部を合わせて称したものである。1944年4月に校舎の3分の1が兵舎になったことを境に、生徒達は名札、モンペと防空頭巾、救急鞄の常時携帯が義務づけられたのだという。そして壕掘りや飛行場建設にかりだされ、看護訓練も受け始めたのである。

 そんな少女達までもが戦争の準備をさせられていた1944年10月10日、米軍による空襲が起こったのである。それを10・10空襲と言う。

 私は昨年の10月10日にパレット市民劇場で行われた「10・10空襲を風化させない市民の集い2003」に参加し、2人の体験者の話を聞くことが出来た。私がまずそこで感じたことは、今までこの事実を聞くことも考えることも無かったということである。この講演会の始まりは黙祷が行われたのだが、思い返してみると今まで慰霊の日には黙祷をしてきたがこの日に黙祷をしたことは無かったことに気付かされた。そこでこの講演会の題目の持つ意味、そしてこの事実が風化されることを悲しく思う体験者の思いを感じることが出来たのである。

 この講演会では体験者である久場千恵さんと牧野豊子さんの話から、空襲を受けた時の様子をリアルに聞くことが出来た。空襲が起きた朝、米軍機は辺り一面にガソリンをまきそこに250kgもの爆弾を落としてきたのだそうだ。この行為からは、人間も自然も建物も消せるものは全て消そうというような米軍の恐ろしい考えが見えるように感じる。米軍の強さを証明するために、多くのものが犠牲になったような気がしてならない。

 2人の話を聞くところによると同年の4月には看護婦の採用は200人となり以前よりは増えたものの、まだ穏やかだったそうである。それで友達と山形屋で綺麗な服を着たマネキンを見たり、映画を観たり、三角食堂で食事をとったりしたと楽しそうに話してらっしゃった。三角食堂の名前が出た時に会場がざわめいたところをみると、その当時多くの人々が利用していて憩いの場となっていたのじゃないかと思う。その平和な時があの一瞬の出来事で消えてしまうなんて誰が想像しただろうか。

 あの朝押し付けられるような爆音で始まった空襲により、那覇一帯焼け野原になり、歩こうにも道が熱くて歩けず、浜辺には多くの死んだ魚がうちあげられていたそうである。やはりあの爆禅は相当の力を持ったものなのだと実感させられた。2人は「昨日のことのように恐怖感がある。この傷を風化してはいけない。」とおっしやっていた。けれども現在ではその恐ろしい空襲の事実を知る人は少ないのではないだろうか。10・10空襲という言葉自体聞いたことのないウチナーンチュもいるという事実は信じられないことである。また毎年10月10日に行われる那覇の大綱引きが、この空襲の追悼の意味を込めて行われているということをメディアなどでもしっかり伝えるべきだと思う。

 今回この講演会の中で初めて体験者の方の話を聞くことによって、空襲の事実と被害者の思いを知ることが出来たのだが、次に戦場にかり出された少女達の様子を見ていくことにする。

 1944年10月10日午前6時40分、240機もの米軍機が爆弾を落としていき、その時には空襲を免れた沖縄高等女学校もその翌年1月22日には焼け跡となってしまったという。こうしていく中で女学生たちは沖縄陸軍病院にかりだされ、1945年2月15日、看護実施訓練が本格的に始まった。そして沖縄戦が始まった1945年の3月23日、ひめゆり学徒隊は南風原へ動員されたのである。

 米軍の攻撃が激しくなる中、学徒隊は壕掘りなどの作業もさせられたという。力もない彼女達には非常にきつい作業だったに違いない。またそれは危険と隣り合わせのため、学徒隊の犠牲者が日に日に増えていったという。

 攻撃を受けるたびに、病棟壕の天井の土塊が落下し、炭酸ガスが充満し、灯火も消え、ウミや糞尿のにおいが鼻をつく状態だったそうだ。想像するだけで気持ちが悪くなり、そんな中で生活出来るなんて到底思えない。また最下級生の仕事である飯上げも危険な仕事だったようである。壕と炊事場は離れており、その間をおにぎりの入った醤油樽をふたりでかついで運ぶのである。こんな自分の命をかけて人のために献身する姿には、とても目を見張るものがある。その任務を遂行していたのが、まだ10代の少女たちだということを忘れてはいけないと思う。現在の中高生にこれほどの責任感や献身性はあるのだろうか。

 学徒隊は同年5月25日、重病患者を残し南部への撤退を開始した。その後南風原には米軍が迫り、白兵戦の模様が繰り広げられたのである。またそんな状況の中南部への道のりも険しいものだった。雨のためぬかるんだ夜道、そして10数万人もの避難民が足をとられ負傷した。学徒隊は自分自身が移動するのも必死な状況にあるにも関わらず傷ついた友人をたんかで運ぶなど、思いやりの気持ちを忘れずにいたのだという。この学徒隊の友情は素晴らしいものだったと思われる。

 ここで南部撤退までの4つの学徒隊の様子を見ていこうと思う。

   まず「白梅学徒隊」である。白梅学徒隊は1945年3月6日、第一野戦病院で看護教育を受け、病院本部壕、新城分院壕に配置された。毎日2〜3時間しか睡眠をとれない状況で、赤痢になる人も多かったそうである。こうして6月上旬に撤退を始め、その際移動に支障をきたす重病患者は青酸カリで殺され、それでも死にきれない患者はピストルで眉間を打たれ殺されたのだそうだ。なんて残虐な行為なのだろうか。こういう立派な殺人があちらこちらで起こっている、その光景は想像しがたいものである。戦争の勝利のことしか考えず、人間が人間でないのだと思う。この白梅学徒隊は45名中20人が死亡している。その犠牲者たちは現在白梅の塔に祀られている。

 そして次に「瑞泉学徒隊」と「梯梧学徒隊」である。彼女らは1945年3月6日識名と浦添に配置された。5月29日の撤退の際、重病患者はクレゾール液を注射され泡を吹き、10分後に死亡したのだそうだ。瑞泉学徒隊は61名中33人が死亡、梯梧学徒隊は17名中9人が死亡している。

 そして最後にもうひとつ「積徳学徒隊」がある。1945年3月6日“軍服を着けない入隊”と言われ、兵士並みの訓練をうけた後、豊見城に配置された。撤退の際は、重病患者はその事実を知らされず、水、缶詰、カンパンなどを与えられ、軍医1人と共に残されたのだという。そして6月26日に解散命令が出され、病院長は「ひとりでも多く生きろ」と言い自決した。積穂学徒隊は26人中4人死亡している。

 私はこのひめゆり学徒隊をより鮮明に感じようと思い沖縄県糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」へ足を運んだ。資料館の前にはひめゆりの塔が建てられており、その手前には深い壕の跡が残されていた。真っ暗なそれを覗くだけで戦時中の住民の様子が目に浮かんでくるようで恐怖を感じた。でもそんな暗い壕が、戦時中には最も安心する場所だったのかと考えると、戦争というものがどんなに恐ろしいものなのかを実感させられたような気がする。また壕の隣に飾られている鮮やかな色の折り鶴を見ると、平和な現代を生きる人々の犠牲者に対する追悼の思いを感じることが出来た。そこで沖縄戦の犠牲者が教えてくれた平和のありがたさを、私達はしっかりと感じるべきだと思った。

   1941年12月太平洋戦争が勃発し、1945年米軍が沖縄に上陸し始まった沖縄戦。この沖縄戦は米軍の本土上陸を遅らせる、つまり時間かせぎの戦いだった。この悲惨な事実は「捨て石作戦」と言われ、小さな沖縄ゆえに回ってきたこの役目にはとても悔しさを感じてならない。

 この沖縄戦をとおして、123人もの若い命が奪われていったのです。彼女たちは一体どんな思いで死んでいったのだろうか。資料館の第四展示室には犠牲者である学徒隊の写真が飾られている。その写真のにこやかな顔を見ていると思わず涙がこぼれそうになった。この少女たちは戦争の真っ只中、どんな思いで働き、どんな思いで死んでいったのだろうか。彼女たちの言葉の中で、死んでいくむなしさや悔しさ、そして最後の優しさを感じることが出来た。

 家族の名前を呼びながら死んでいく子。「足が無い!」とさけんで死んでいった子。「青空の下で死にたい」と壕外に出て間も無く死んでしまった子。「私はもう駄目だから他の人を看て」と思いやりを示した子。そして戦場で受けた精神的ショックから立ち直れず、衰弱死した子もいたという事実に、戦争が人に与える精神的ダメージの大きさを強く感じた。またこのような生きるか死ぬかの状況でも、周りの人を思いやることの出来る少女達の心の美しさにも胸を打たれた。

 この「捨て石」とされた沖縄戦で死亡した日本人は、全部で188,136名にものぼる。その中で本土軍人65,908名、沖縄軍人12,228名、軍人軍属28,228名、戦闘参加者57.044名、沖縄住民36,956名となっている。これは米軍の12,520名という数とは比べものにならないくらいである。

 今回ひめゆり学徒隊に焦点をあてて沖縄戦を見てみて、今までよく知らなかった事実を知ることが出来た。今まで沖縄戦のことは様々な場で耳にし、その度にいろいろと考えさせられたが、学徒隊についての知識はあまりなく、今回これを取りあげたことはとてもいい経験になったと思う。

 戦時中にまかされた看護の任務は、少女たちにとってとても重いものだったと思う。見知らぬ人の、被害を受けた残虐な姿。それは思わず目をふさぎたくなるようなものではないだろうか。けれども時にはその手術の手助けをしたり、糞尿の始末までしなくてはいけないのである。それが少女たちにとってどんなに重い任務だったか、想像するだけで胸の奥が痛む。しかもそれは危険と隣り合わせの任務であり、私なら逃げ出してしまうような気がする。どうして少女たちは、こんな状況に置かれている時でも献
身的な行いが出来たのだろうか。
 また私が最も胸を打たれたのが、彼女たちの思いやりである。死ぬ間際でも“自分よりも他の人”という思いやりの気持ち。自分の命が消えかかっている時に他の人のことを考えるなんて、誰しもが出来ることではないと思う。

 彼女たちは平和の大切さだけではなく、人を思いやることの大切さをも教えてくれた。その心をいつまでも忘れることなく、平和な世の中を目指していきたいと思う。

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