小論文(04前期)

[制作者注]
※ホームページ編集に際して題名を一部編集しました。また、学生及び文中の人名を匿名にしました。
※引用文献や参考文献は割愛しました。
※表現上や論理上における不適切な部分には手を加えました。

1 戦争直後の沖縄について 2 戦時中、一般住民が受けた被害状況
3 戦中・戦後の沖縄の米軍基地 4 戦後、沖縄の住民生活の移り変わり
5 沖縄戦における恩納村の状況 6 戦時中に墓に入った住民の心境について
7 中部における戦況と住民の避難状況 8 戦時中の住民被害の状況
9 少女の体験から見えた沖縄戦 10 チビチリガマとシムクガマ
11 沖縄戦中の児童の疎開生活 12 北部地区における避難状況
13 知念村周辺の収容所生活 14 本島北部における住民の避難状況
15 戦時中の糸満市民の疎開 16 沖縄戦で住民が奪われたもの
17 沖縄戦における女子学徒隊の比較検討 18 沖縄戦における法令・文書と住民との関係

1 戦争直後の沖縄について     商学科3年 Y・N

 私がなぜこのテーマにしたかというと、学校で学習することは戦前・戦中のことが多く、戦後のことについて、自分自身あまりはっきりとした理解がなかったように思えたので、この機会に調べてみようと思いました。内容は収容所から基地問題についてで、資料を主に取り上げながら、自分の意見も入れてまとめてみました。

 沖縄戦の末期になると、戦闘を避けて山の中を逃げ回ったり、壕にひそんだりしていた人たちが、続々と米軍の収容所に送り込まれてきた。収容所は全島16カ所に設置されていたが、収容所といっても、一定地域に有刺鉄線をはりめぐらしただけのもので、人々はそこにテントを張ったり、掘立小屋をつくって雨露をしのいだ。このほか日本の兵隊と強制連行された朝鮮人の収容所が別にあった。

 衛生環境は悪く、マラリアのような伝染病が流行して多くの死者がでた。食料は米軍から配給されたが、食料配給の基準は、一人一日当たり1400calで、人々は食料不足に苦しめられた。各収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止であったから、肉親の安否をたずねるために収容所を出て射殺されたり、柵の外の畑に食料を求めにでた女性が米兵に暴行されたりという事件が頻発した。

 こんな状況の中で45年8月15日、米軍は、各収容所の地区から、戦前の県会議員や中学校長などの政治的文化的指導者たちを呼び集め、その互選で、15名の委員で構成される米軍政府の諮問機関をつくった。9月になると、各収容地区で「市長」の選挙が行われたが、市長とはいってもその主な仕事は米軍が必要とする労務者を調達することであった。戦闘の開始から翌46年3月まで沖縄では通貨の流通はストップしていたから、食料の配給は無償であったが、そのかわりに労務の提供が義務付けられていた。

10月頃から、収容されていた人々は、元の居住地への移動をはじめる。こうして収容地区単位の「市」は解体するが、すべての人々が、すぐに元の居住地へ帰れたわけではなく、元の市町村民が一団となって米軍の指定する土地を転々をさせられた例も少なくない。旧居任地への移動は、46年の半ばにはだいたい終わるが、47年の後半までかかった市町村もある。

 もちろん、米軍施設とその周辺の立ち入りは禁止されていた。住民を収容所にいれたり、各地を転々とさせている間に、収容所の外では広大な米軍基地の建設が進められていた。もちろん当初は本土進攻の作戦基地であったわけだが、戦争が終わった後も、主要な基地は住民に解放されることはなく、やがて朝鮮戦争を契機に、米軍は沖縄を“太平洋の要石”と位置付け、極東最強の恒久基地を建設して現在におよぶ軍事支配を続けるのである。

 なぜ、沖縄に基地を作ることが米軍にとって良かったのか、それは地理的環境と東西南北の距離について絶好の場所だったからである。アジア大陸は、北から南までぐるりと囲んでいる。その中で大陸から太平洋に出口を求めて突き出ているかのように伸びているのが「朝鮮半島」と「インドシナ半島」である。逆に太平洋から見れば両半島は、活用できる絶好の場所である。この両半島を制する位置に具合よくある。また太平洋と大陸を結ぶ重要な十字路に位置しているのが沖縄諸島であるということから、現在に至っている。

 現在は日本の米軍基地の75%以上が沖縄に集中しており、反戦地主の問題や、騒音被害、米兵による犯罪や事故など、戦争が終わって約60年がたってもまだ解決できていない多くの問題がある。この間題が解決して初めて、沖縄戦が終わるのではないか。どうしてこんなにも長く沖縄の人々が苦しまなければならないのか。

現在は“平和な日本”と言われているが、はたしてそうだろうか。最近になってもこの間題が解決する兆しは見えていない。学校に通う途中にも、米兵による事故を何度か目にすることがある。またニュースでも、米兵による犯罪が頻繁にながれている。こうした状況の中で、私たち県民は安全に、そして平和に暮らしていけるはずがない。その上、現在アメリカのテロの問題も危ぶまれ、基地の周辺は緊迫した空気が漂っている。基地の周辺に暮らす人々のことを考えると、決して平和とはいえない。

この間題について、政府の対応にも問題があるのではないか。一向に解決の兆しがない基地問題、基地周辺で反戦運動や座り込みやをしている人たちの願いが届く日はくるのだろうか。決して簡単なことではないけれど、もっと政府が私たち沖縄県民をもっと日本人の一員として深く考え、安心して暮らせるように適確に基地の問題を解決させてほしいと願っている。こうしてはじめて戦争で亡くなった人々や、戦中を必死でくぐりぬけてきた人々の心が落ち着くのではないだろうか。

 今までは、話を聞いたり、与えられた資料だけを読んだりと、自分から戦争について調べて学習することは、ほとんどなかった。そのために、沖縄戦についての知識があまりなく、ただ怖いものとか、悲惨なもの、というようなことしか分からなく、沖縄戦について詳しく語ったりすることができない。だけどこの授業で戦争について他の人の調べた内容を聞いたり、戦争について自分から本を読んで調べていくうちに、どれだけこの戦争についての教育が大事か分かった。

 二度とこのような悲惨な出来事が起こさないためにも、次の世代へと伝えていく人が居なければならない。そのためにも、この平和教育はとても重要なものだと感じる。

 今後の課題としては、自分が納得できる学習はもちろんのこと、多くの人にこの悲惨さを伝えていくことだろう。この課題について、あまり深く調べることができなかったが、これからもっと詳しく調べていきたい。また、基地問題以外にも、教育についてや、経済面についても問題は多くあるので、これも含めて、調べていきたい。

2 戦時中、一般住民が受けた被害状況        英米言語文化学科3年M・K

 なぜ太平洋戦争中の日本において、本土ではなくこの小さな島沖縄が唯一の地上戦の地となり、多くの犠牲を払わなければならなかったのか。なぜ最も戦争に関係のない、この沖縄という小さな島で、なぜ最も戦争に関係のない一般住民にこれほどまで多くの犠牲がでたのか。この一般住民の犠牲の多さについては、沖縄戦での一般住民の死者の数が軍人のそれを上回る、という事実からも分かるのだが、私は具体的に一体どのような被害を一般住民が受け、これほどまで多くの犠牲が出たのかということを、この講義を聴くまでは詳しく知らなかった。そこで、私はこのことを詳しく調べることで、沖縄戦の本質を知ることができるのではないかと思い、この課題を設定するに至った。

 講義を聴くまでは、一般住民の受けた被害というのは単なるアメリカ軍の兵器による被害だけじゃないのかと思っていたのだが、日本軍という友軍からの被害も受けていたという悲しい事実があることを知った私は、このような悲しいことがなぜ起きたのか、その実態や原因、そして、それを起こしたさまざまな要因を調べていくことが、この課題を深く追求していく上で重要だと思い、この三つの下位課題を設定した。

 一般住民の犠牲の多さと同時に、日本で住民を巻き込んだ唯一地上戦の行われた戦争というのは沖縄戦の最大の特徴となっているのだが、まずはその理由について少し述べたいと思う。

 まず、沖縄が日本で住民を巻き込んだ唯一の地上戦の繰り広げられた島となった理由として、日本とアメリカ双方の思惑が背景にあったためである。沖縄はその地理的理由から、日本とアメリカのどちらにとっても、今後の戦況を考えた上で非常に重要な役割を果たす島として位置づけられていた。日本は、後々の本土決戦に向けて戦況を有利に導くため、沖縄をいわゆる「捨石」として位置づけ、そこでできる限り時間を稼ぎ、敵の戦力を衰退させるという目的を持っていた。そのため、沖縄で地上戦を繰り広げ、さらにこれを持久戦にしなければならなかった。一方、アメリカは沖縄を今後の本土進攻に向けた航空基地の場所として位置づけていたため、その場所の確保という目的があった。そのため、沖縄をどうしても占領しなければならなかったのである。

このような日本とアメリカ双方の思惑が重なった結果、沖縄は日本で住民を巻き込んだ唯一の地上戦の繰り広げられた島となったのであるが、そこで、なぜその理由だけでこれほどまで多くの一般住民が犠牲にならなければならなかったのか、という疑問が浮かんでくる。これには、さまざまな要因があるのだが、一番の大きな要因としては、一般住民を根こそぎ動員した戦争ということがある。幼い子どもからお年寄りまで、動ける者は皆戦場へ駆り立てられた。これは法を無視し一般住民を戦場に送ったという、まさに違法無法の戦争動員が沖縄戦で行われていたということである。これにより、多くの一般住民が犠牲となった。

 また、もう一つの大きな要因として、友軍である日本軍からの被害がある。それは、食糧強奪や壕追い出し、沖縄県民をスパイとみなす、県民総スパイ視による拷問や虐殺など、友軍であるはずの日本軍からの被害がある。これらは、日本軍による明らかな沖縄県民に対する差別の結果行われたものであると言える。沖縄はもともと琉球という一つの国であり、中国との結びつきが強かった。したがって、日本軍は沖縄県民のことを、国家や天皇
に対して忠誠心が薄い人々だと考え、いつ国家や天皇を裏切りアメリカ側に寝返るかも分からないとして、「敵の捕虜になった者はみなスパイとみなし処刑する」という方針を出し、また、方言をしやべっている住民に対しても、敵の言葉をしやべっているとしてスパイとみなし、拷問や虐殺が行われていた。

 また、その他にも、壕内などで子どもが泣いてうるさいと、敵に見つかるという理由から殺したり、沖縄の人は死んでもいいが内地の人は生きないといけないという理由からの食糧強奪や壕追い出しなど、沖縄県民は味方であり守ってくれるはずの日本兵からこのような被害を受けていたのである。さらには、もちろんこの頃の沖縄には皇民化教育が浸透していたので、多くの住民が日本軍に対して協力的であったが、住民がその態度を示せば示すほど、逆に日本兵からは疑いの目で見られたという事実もあり、住民は辛く苦しい思いを強いられていたのである。

 また、沖縄戦の特徴として、一般住民による「集団自決」が行われたことがよく言われたりするが、この「集団自決」という言葉は一見、一般住民の自らの意思による自殺という意味で解釈されがちだが、それは妥当ではない。自決とは、自ら決する、つまり自らの意思による死である。沖縄戦においては、このような自ら死のうと思う者はいなかった。瀕死の大ケガを負い、それでも治療など受けられないため、その苦痛から逃れるために自ら命を絶った者はたくさんいたが、このような人もなんとかして生き延びたかったはずであり、心から死にたいとは思っていなかったはずである。このような「自決」を、沖縄戦では日本兵が多くの一般住民に強要していたのである。つまり、自殺命令による虐殺である。

 したがって、沖縄戦を語る際、「集団自決」という言葉は妥当性がなく、日本兵による自殺の強要、つまり「強制死」という言葉が妥当であると考える。その背景として、住民は、捕虜となったら男は惨殺され、女は辱められ、そのあとで惨殺されるという日本軍の宣伝を信じきっていたために、捕虜になるよりは自ら死を選んだ方がましだという考えが住民に浸透していた。また、「軍民一体の戦闘協力」や「軍民共生・共死」という軍の方針により、住民は積極的に戦場に駆り立てられ、日本軍の武器となり盾となった。これは、まさに日本軍による一般住民への死の強要であり、日本軍による一般住民に対する「強制死」である以外の何ものでもない。

 このように、沖縄戦では日本軍による一般住民への被害が目立った特徴であるが、日本兵にもいい人はいたという事実もあるように、結局は残虐行為というのは、日本兵一人ひとりの問題であり、個人の問題なのである。また、アメリカ兵からの武力以外での被害というのも少なからずあったのは事実である。主な被害としては、女性に対する強姦で、男性は虐殺されることもあったが、捕虜として捕まると、たいていは食糧が提供されたり、傷の治療を受けたりと平和な暮らしをしていたようだ。残虐な行為をするというのは、日本兵の場合もアメリカ兵の場合も、やはり結局は個人の問題であり、その人の心の問題であると思う。その人間の心というのは、その人の育った環境や置かれている状況によって変わるもので、私はそれが教育という大きな力によって形成されていくと考える。

 というのは、戦争の起きた大きな原因の一つとして、国家すなわち天皇の独断的な政治
体制や軍国主義、それに伴う教育勅語による皇民化教育などが考えられるが、沖縄県民を含めた日本国民全体が戦争へと向かった直接の原因は、やはり当時の皇民化教育の力によるものだと考える。これは、教育が人間をどうにでも変えられる可変性を大いに持っていることを証明していると言え、国民の賛成が得られれば戦争などすぐにできる現代の民主主義国家日本にとっては、教育が国家の将来を左右すると言っても過言ではない。

 私は、この講義を通して、またこの課題の追求を通して、このような教育の力に改めて気づかされ、有事法などの憲法改正の動きが見られる今の日本にとって、平和教育の重要性を強く感じた。この沖縄に生まれ、さらに沖縄戦について学ぶ機会があったこの講義を通して、将来、私が教師として子どもたちを目の前にして立ったとき、平和の重要性を子どもたちに伝えていけるように、これからも戦争や平和について学んでいきたい。

3 戦中・戦後の沖縄の米軍基地             経済学科3年 N・K

 軍の沖縄戦攻略の意図:米軍の沖縄占領のねらいには二つの理由があった。その一つは、日本本土決戦にそなえて、その前線基地をつくること、そしてもう一つは、日本を占領した後に、ソ連を封じこめることであった。

 布告1号:米太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は、1945(昭和20)年3月26日、米軍の慶良間上陸と同時に「米国海軍政府布告1号」を発令し、米軍政府の設立を宣言した。まだ沖縄本島への上陸を開始しない前のことである。

・飛行場:今の米軍基地の形をなすのがもとの日本軍飛行場である。米軍は飛行場を占領していった。

・北飛行場跡:一九四三(昭和十八)年に建設された。米軍上陸後、飛行場はただちに占嶺され、戦中は一九四五年四月二日には使用されていた。戦後は、読谷補助飛行場として米軍が使用している。

・中飛行場跡:一九四四年(昭和十九)年四月の着工、九月に完成した日本陸軍の飛行場。一九四五(昭和二十)年四月一日、上陸した米軍はただちに同飛行場を占蘭、整備して本土爆撃の発進基地に利用した。一九四五年四月九日には米軍は使用している。現在は、嘉手納町、北谷町、沖縄市にまたがる極東最大の米戦略空軍基地である。

・那覇飛行場:小禄村(現・那覇市、小禄)鏡水−大嶺間に日本海軍の飛行場が出来たのが一九三三(昭和八)年。その後、拡張に拡張を重ね、沖縄戦当時は、沖縄で最大規模の飛行場となっていた。この付近を守備したのが太田実少将率いる兵力一万の沖縄方面海軍根拠地隊。六月四日、同飛行場北側に上陸した米軍との間で激戦が展開されたが、一二日、米軍の手におちる。米軍占嶺後、同飛行場は大々的に拡張され、現在は、軍民共用の那覇空港、沖縄の空の玄関口である。

・伊江島:伊江島での戦闘は四月十六日に始まった。そして一週間に及ぶ激しい戦いの末、日本軍はほとんど全滅し、戦死者四七○六人にのぼった。そのうち約一五○○人は地元の住民だった。

 伊江島を占領した米軍はただちに飛行場整備、五月十日には戦闘機大隊を配備して沖縄本島、日本本土攻撃に理想的な基地をもつことになった。

 住民は、山中にこもった日本軍の統制のもとに置かれ、飢えと虐待の数ヶ月をすごすこととなった。座間味島では四月初め頃に山を下りて米軍の保護下に入ったが、各離島では八月二十二日、渡嘉敷島では八月十五日以後に米軍に収容された人が多い。

・収容所の人びと
 地獄の戦場を生きのびた人々は十六か所の難民収容所に入れられた。米軍から与えられたテントを張り地べたに寝起きした。これをカバヤーといった。十万戸の住宅を失った人びとは、このカバヤーの仮設住宅で数年をすごした。米軍に捕まった軍人・軍属はPW(Prisonorof War:捕虜)といい、民間人はシビリアン(Civilian)と呼ばれた。収容所間の従来は原則として禁止され、「越境」した場合は処罰され−カナアミ(有刺鉄線の囲い)に入れられた。

 捕虜は、金武村屋嘉のPW収容所に隔離収容された。他にPWは那覇・浦添・北谷・読谷山にあった。民間人の収容所は中部ではコザ・前原・石川に収容所。南部は知念半島にあった。

・故郷へ帰る
 収容所から元の居住地への帰郷が許されたのは、一九四五年十月以降で、故郷へ引き揚げていったしかし、多くの集落は米軍の駐屯地に囲いこまれてしまって、自分の村に帰ることはできなかった。すでに、基地沖縄の原型ができあがっていたのである。

・戦後の布告令:米国民政府は1952年(昭和27年)11月、「制約権」という布告を公布した。しかし、9坪でコーラが一つ員えるといった安い借地料で、しかも20年使用されてしまうといった内容だったので地主たちは全く契約に応じようとはしなかった。この態度に対しアメリカ側は、契約成立しなくても土地使用が可能であることを、一方的に取り決め、翌年に土地収容令を公布して、無理やり土地を奪うという非常手段をとった。

1952年11月1日   布令91号「契約権」
1953年4月3日   布令109号「土地収用令」
1953年12月5日   布令26号「軍用地域内の不動産の使用に対する補償」
1957年2月23日   布令164号「米合衆国土地収用令」
1969年2月12日   布令110号「賃借権の取得について」

 ところでこの収用通告は講和後初めてのケースであったため、立法院では、米軍にかかる強制収用権はないと主張し、当時の法務局も「この指令は別に強制的なものではない」という見解を明らかにしていた。ところが米民政府は、あくる1953年4月3日突如として布令109号「土地収用令」を発布し、4月10日これに基づき右土地に対して収用通告を発した。しかも、翌11日早朝には米軍武装兵の銃剣に守られたブルドーザーがやってきて、収用地域内の農地を次々と破壊していった。こうした強制的土地取上げは、講和後の政策についていくらか緩和を期待していた住民にショックを与え、その根拠法令である土地収用令は「占領権力」の象徴として住民の非難を浴びることになった。

・米軍基地をどう捉えるか:復帰後、米軍基地は、安保条約第6条及び地位協定第2条によって日本政府が米国に提供している形となった。安保条約は、日本がサンフランシスコ講和条約を結んで独立した時、独立とひきかえに米軍の駐留を認めた条約である。

 米国高官が「日本における米軍基地がなければ、朝鮮戦争やベトナム戦争は戦うことができなかった」と明言しているように、米国の戦略上重要な位置を占めていたのである。安保条約が憲法の平和主義と矛盾する条約である。

 日本政府が米国に安保条約の廃棄を通告すれば、米国は一年後に日本中にある基地を撤去しなければならないことになっている。それには、国民世論がたかまり、「安保条約は必要ない」という日本政府をつくれば、日本中から基地をなくすことは可能である。

 これらからみても米軍基地は平和主義に反している。基地がある以上危険と隣合わせである。これで本当に平和なのか、考えたい。

 私がこの課題を設定した理由は、最近の沖縄ブームに伴い観光客が増加していく−方で、何か大切な事が忘れ去られていくような気がしてならず、どうしてもそれを言葉として伝えたかったからである。

 観光客の沖縄に対するイメージは、大半が青い空、青い海、癒されるなどの沖縄の表面的ともいえるようなイメージ位しか持っていない。確かに、それらは沖縄の素晴らしい魅力であり誇りであるともいえる。しかし、沖縄の具体的な中身を覗いて見ると、住民を巻き込んだ戦争が行われ、住民十数万人が死亡した場所である。それに伴い全国の米軍基地の約75%が沖縄に集中することになり、米兵の犯罪も大きな問題となっている。

 沖縄には、様々な解決しなればならない非常に重要な社会問題が点在している。私が不安に感じていることは、観光客が持つ沖縄に対するイメージが、沖縄の重要な問題を覆い隠しているようにも思えるし、沖縄から発信しなければならない情報が伝えられなくなってしまうのではないかということである。

 十五年戦争期に目を向けると、日本は国民に対して皇民化教育を行い、標準語の使用、神社参拝、創氏改名等を強制し国に従順な精神を植え付けていった。

 例えば、沖縄においては「学校では、方音を使った生徒に罰則として『方言札』を所持させたり首にかけさせたりして、方言を使った他の生徒にまたこれを渡すという方法で標準語励行がすすめられた」(新城俊昭 高等学校 琉球・沖縄史 東洋企画 2001年 210貢)名前も、例えば「大城(ウフグスク)姓を大城(おおしろ)に、金城(カナダスク)姓を金城(きんじょう)に読みかえたりする人が多くなってきた」(同前 209貫)ここからも読み取れるように、日本の国家主義・軍国主義政策のもとでは、個人が尊重されるような事はなかったと言えるだろう。この時代を経験した人々は、戦争というものは人間を精神から変えてしまうものであり、極端に言うと、人間が人間でなくなるような感覚を抱いたのではないだろうか。

 戦前は、戦争の出来る国づくりをこのような強制で推し進めていったのである。戦争の出来る国を作っていくという意味で、現在も教育を通して着々と進められているのである。

 現在、小学校、中学校の教育現場に「心のノート」が文部科学省から配布されている。
 心のノートの内容は、前半部分は、協力していく気持ちを持とう、他人のことを思いやろう等の否定しがたい内容が書かれている。しかし、最後には国を愛しなさい、国に忠誠を尽くしなさい、ということ意味する内容が示されている。

 最初の方は、誰が見ても良いことが書かれていて、最後には国の為に尽くしなさいという内容。このことを考えると戦前の教育勅語と全く同じである。教育勅語も、最初の方は誰が見ても良いと思うような徳目が並べられていた。しかし、結局何が言いたいかというと国(天皇)の為に命を捧げなさいということである。

 心のノートは、使わなければならないという義務はなく、使うかどうかは教師の判断に任されているのだが、「きれいなカラー刷りの家庭向けパンフレットまで配って、しかも配布状態をチェックし、実地の点検もやると言って、学校に事実上『強制』しようとしている」(小沢牧子 長谷川孝『心のノート』を読み解く かもがわ出版 2008年 21頁)

 教育基本法十条では、不当な介入を禁じているが、これらの国の行為は不当な介入であると考えられ、教育基本法に違法していると考えられるのではないだろうか。

 現在、政府は自分たちの政策に不都合な教育基本法を改正しようとしている。改正するにあたり焦点となっている事は「愛国心」という言葉を入れるかどうかという事である。私は、愛国心という言葉を入れるだけであればよいと思う。例えば、オリンピックで野球、サッカー、バレー等の日本代表チームが出場すれば、多くの国民は自ずと応援する。これは、自分の中から自然と湧き出てくる愛国心であり良いものであると思う。しかし、愛国心という言葉をいれることにより、戦前のように戦争の出来る国づくりを進めていく事になると、非常に恐ろしい行為である。私は、心のノートは「ただの『資料の配布』ではなく、教育基本法を改悪する動きと連動しているという捉え方」(同前85頁)を教育現場では行ってほしいと思う。

 教育基本法改正を訴えようと、色々な動きも見られる。例えば、フォーラムが行われたり、インターネット上にも様々な意見が寄せられている。

 私は、平和の為であっても戦争は必要ないと考える人間として、沖縄戦経験者の方にはこのようなフォーラム等に参加する事も、戦争を二度と起こしてはならないことを伝える一つの手段として、積極的に参加して欲しいと願っている。

 経験者が亡くなっていく中で誰がどのように戦争の悲惨さ、二度と起こしてはならないということを伝えていくかという問題がある。経験者の中には、あのような悲惨な事はもう二度と思い出したくないし、ましてや話したくもないという人もいる。確かに、あのような惨たらしい出来事は忘れてしまいたいという気持ちはある昔である。しかし、実際に沖縄戦を経験したからこそ伝えていかなければならないことは必ずあると思う。

 戦前のような人間を人間だとも思わないような差別を受けたり、住民十数万人が亡くなるという悲惨という言葉だけでは言い表せないような、沖縄戦を経験した人々が現在も残っている。この中で、何を得たかということは、一人一人違うではあろうが、あのようなことを二度と起こしてはならないということは、共通していると思う。それを下の世代へと伝えていくことは、経験者に残された役割だと言えるのではないだろうか。

 次の世代へと伝えなければ、戦争の恐ろしさ、惨さ、皮肉さ等を知らない子ども達が育つということであるから、再び戦争が起こる可能性も出てくるのであるから。

 以上の内容が私の意見であるが、心のノートにしても、戦争にしても、私は否定的意味で捉えたのであるが肯定する人も存在していることを決して忘れてはならない。何故なら、教師になろうとしている立場の人間としては、子ども達に教えることを念頭におかなければならない。その為には、私自身の偏った考えだけでなく、多くの人の意見を聞き入れることができる柔軟な頭が必要であり、常に公平な立場で教壇に立たなければならないと考えているからである。

 公平な立場でいることが前提ではあるが、今まで述べてきたように私自身の意見はこれだというものは、教師を目指すものとして又は教師として必ず持っておかなければいけないと感じる。

4 戦後、沖縄の住民生活の移り変わり                            商学科3年 Y・A

 私は「戦後、沖縄の住民生活の移り変わり」という課題を設定しました。私は祖父から戦争の話を聞いた記憶がなく、その代わりに戦後米兵を相手にしていた商売の話をよく聞いていました。その話から戦後沖縄住民はどのようにして生活をしていったのか、という事を知りたいと思いこの課題を設定しました。

 当初は、終戦後から近年までの沖縄の生活を大まかに捉えていこうと考えました。しかし時期が広すぎることと、「深く沖縄住民の声も取り入れなければ見えてこない」、と先生に言われたので戦後から沖縄県復帰前後までを調べることにしました。
調べる以前に私が持っていたイメージは、アメリカ(基地・兵)と沖縄との関わり合いは密接したものであるということでした。私が物心ついたときから、基地はそこにあるものでした。そこでアメリカとの関わりに重点を置いて調べました。

 戦後沖縄では、軍作業という職業に就く人が多く、それは米軍基地内での仕事を意味していました。タイピングやウエートレス、ドライバーなどいろいろな職業がある中で、ドライバーは男性の間で花形の職業でした。それほ米軍物資を運ぶ役目を負うため、それを途中で盗めるため人気があったようです。その盗んだもので親戚と食いつないだり、それをお金にしたりしたそうです。それだけ貧しい時代であったということだと思います。

 八年間の軍事作業によって、高校・大学を卒業した人が言っています。「今の私があるのも、軍作業のおかげである。……しかしながら米軍や基地は幼少の頃から大嫌いである」この言葉には沖縄県民の深い思いが表されているのではないかと、私は思います。職業として戦後の生活を支えてきた軍事作業。それをすることにより、基地や軍との関わりをもっていく。自らの意思とは逆の行動であったと思います。しかし,それをしなければ生活していけない。軍作業をしてきた沖縄県民が、みな感じた思いではないかと思います。 

 このような思いが背景となった事件が起こりました。それ1970年12月20日の午前零時ごろ起きたコザ騒動です。一人の米兵が引き起こした交通事故がきっかけで、コザの町に居た県民が次々と軍関係者の車に火をつけていった事件です。これは、普段から米軍に対しての怒りや不信感が募っていた、沖縄県民の思いが表に出た結果だと思います。この事件の群集の中には日頃米軍相手に商売をしている人も少なくなかったようです。それらの行動には、いままで米軍が起こしてきた事件や事故が不平等に処理されてきたこととも深く関わっていると思いました。

 戦後に沖縄の貨幣・紙幣が何度となく変わってきた事についても、米軍や日本政府の沖縄経済を操作しようとしたためであると思います。B円や新旧日本円、ドルなど。私の親も見た記憶があるといっていました。貨幣・紙幣などのお金は経済を示すうえで、もっとも大きな要素といえると思います。それを変更され、慣れたと思うとまた違うお金が出てくるといった事は、沖縄県民を混乱させたものと思います。
このことから終戦から本土復帰までの間で、県民が抱いた不安は相当のものだったと思いました。社会が安定しているというのは、家計にも安定をもたらすと思うからです。

 戦争について私は、小学校などの低学年から調べ学習などを通して知ったり、関わってきたりしてきました。しかし今までは、戦争中の悲劇や激戦などだけに目を向けていたように思います。終戦したからといって、そこで戦争が終わるわけではないのだと今回私は思いました。調べていく上で、住民の証言はとても貴重なものでした。表面的な経済についてのグラフなどでは、見ることの出来ない当時を見つめられたと思います。

 沖縄県民の米兵に対する矛盾した気持ちについても、未だ決着がついていないのだと思います。いまだに米軍基地があるからこその、経済が沖縄には残っています。その他にも日本とアメリカの間での取り決めによって、アメリカから受けているものもないとは言えません。しかし、基地があるからこそ米国軍人の事件や事故が起こり、基地の返達問題も終わることを知りません。

 このようなことから現在でも米軍との関わりは根深いと思います。しかし県民の思いは、基地返還が基本になっていると思います。このような矛盾した気持ちをもっと深く探り、今後私がどのように基地と向かい合っていくのかということを考えていかなくてはならないと思いました。個人では何も動かすことが出来ないかもしれませんが、深く考え昔のことを通して学んでいくことはとても大切だと思ったのでこう考えました。そのためにも、もっと戦後の県民の生活について調べて、まだ見えていない深い沖縄県民の思いについても追求していきたいと思います。

5 沖縄戦における恩納村の状況       人間福祉科3年 T・A

   私はこれまでの小中高の教育の中で、沖縄戦について何度も学び、糸満でのフィールドワークも何度か経験してきた。それにより、戦争の悲惨さや無意味さ、恐ろしさ、二度と繰り返してはいけないものだということを知り、平和の大切さも感じてきた。

 しかし、それらを学ぶために使用された資料や具体的な名称、事例の舞台は私の地元から遠く離れた南部地域やひめゆりの塔などの有名なところばかりだった。また、それと同時に沖縄戦は、罪のない住民を巻き込み犠牲にした地上戦であることや、味方であるはずの日本軍によって住民が被害を受けるという特徴なども教わってきた。だがそのなかで、私の生まれ育った地域にスポットがあたることは一度もなかった。このような見方を繰り返しいると、まるで私の住む恩納村では戦争がなかったかのような錯覚が起こり、何となく沖縄戦は私とは少し離れた問題で、南部で起こったこととして感じていた。

 しかし小学生までは、毎年慰霊の日には子供会で近くの慰霊碑周辺の清掃していたし、、戦時中住民として戦争を体験したと思われる人もいることから、もっと沖縄戦を自分に近づけるために、身近な恩納村(特に安富祖)の戦時中の状況を調査することにした。

 その方法として、地域住民の証言の聞き取り、地域誌からの証言、区にある慰霊碑との関わり、について調べることから、地域を通して沖縄戦を見つめることにした。そのための下位課題として(1)住民はどこに避難したか?(2)慰霊碑周辺の清掃の由縁は?(3)地域住民がうけた被害はどのようなものだったか?の三つを設定した。

 まず(1)については、「現存する壕の存在は知らないが、恩納岳の麓の村であることから、その山と慰霊碑のある高台に避難したのではないか」という仮説を立てた。そして調査の結果としては、半分正解で半分は誤りだとわかった。「恩納村誌」の説明の中で、住民は恩納岳を中心とした山の谷間谷間で友軍と米軍に挟まれた状態で右往左往していた様子が伺える。整備されていない山中で、何度も移動しながら送った避難生活は大変だったと思う。いくら地域住民とはいえ、米兵に見つからないように夜間に移動することは、成人男性を兵役でとられてしまい、残された老人、子供、女性にとっては大変危険なことだったといえる。天候が悪かったという証言や、食糧難だったという証言を踏まえても、安富祖誌の戦没者名簿では栄養失調や戦病死の住民はひとりずつとされているが、実際にはもっといた可能性があるのではないだろうか。ここで、当時大勢いたとされる他の市町村からの避難民についても触れたいと思う。

   地元住民に比べて土地の様子が分からないことは明らかで、先に述べた以上に避難時の危険度や苦労は大きかったといえる。「友軍の近くにいては米軍からの攻撃の巻き添えになり、直接米軍に発見されれば恐ろしい目にあわされ殺される」というような心境が予想され、心理的な証言はあまりなかったが、慣れるとはいえ、常に緊張したままで先の見えないひもじさを抱えての避難生活は、どちらの住民にもいえ、計り知れない苦痛であったと思われる。

 逆に、後で述べることになるが、慰霊碑のある場所への避難はなかったと考えられる。その理由として、そこが「第二護郷隊」と呼ばれる友軍の基地であること、海岸や道路が近く、逃げる立場である住民が自ら見つかりやすいところへ出て行くとは考えられないからである。これは、慰霊碑が区民のために建立されたものと勘違いしてしまっていたことから誤った仮説につながってしまった。

 次に、Aの課題について述べたいと思う。沖縄戦について考えるとき、私の中でいつもこの慰霊碑がキーワードのように存在していた。私の地区では、慰霊の日の朝、子供会が中心となっての清掃活動があり、パンとジュースをもらって帰るという年一回の行事があった。その時は何の説明もなく、「慰霊の日だから戦没者がまつられている碑の清掃をしよう」としか捉えていなかった。そして、卒業するまで「慰霊の日には冥福を祈る場所」という認識のまま、私の中で平和の礎やひめゆりの塔以上に沖縄戦の悲しみを伝える、身近なモニュメントとして意識していた。

 しかし、今回の調査の段階でまつられているのは、当時この地区で戦死した他市町村出身者であり、その遺族と生き残りの兵による「郷護の会」によって建立されたものであると知った。その維持活動として地区へ清掃活動を依頼していたのだった。調査のために初めて慰霊祭に参加したことで、これらの人々の存在や、感謝されていることを知った。

 ここで、私が問題だと感じたのは、ボランティア精神と平和教育の一環としての子供会の取り組み方である。確かに、この活動は平和教育に重要な意味を持っているといえるが、その碑についての十分な説明もされず、ただ体験として触れさせるだけでは正しい平和教育とはいえない。

 最近では、教員が一緒に参加したり、当事者の体験を聞かせる等の取り組みがされているらしいが、正しい知識と体験が合わせられない限り、学び、感じ得られるものも半減してしまうと思った。しかし何よりも注目することは、幼いころから当たり前のこととして慰霊の日を特別に思わせていた環境が、今回のテーマを設定することにつながったといえる。問題や疑問が浮かんだとき、それを探求する今回のような機会や教師などによるサポートがあれば、自分の興味に基づき、学ぶ姿勢を高めることにつながると感じ、自分なりの総合的学習における必要性の一端を見つけた。

 次に、Bの課題について述べていきたい。この課題については、Aで述べた護郷隊という部隊が存在していた事実を知らなかったということと、「激戦地だったと聞いたこともなかったことから、数字や種類としてはあまり出てこないだろう」と考えていた。しかし、その結果は想像を上回るもので証言*1,*2からわかるように日本軍による避難所からの追い出し、食料強奪、米軍による住宅破壊、収容所での暴行、食糧難、住民同士の殺害強要、集団死などがあった。

 これらは、沖縄戦の特徴といわれるものと重なり、戦争被害が少ないとされる地域でも共通する被害が確かにあったことを表わしている。また、恩納岳での地元住民による証言が地元誌にのっている際、捕虜時のことや食料難に関する証言が多いのに対し、他の市町村誌や証言からはもっと生々しい残酷な証言が語られていることに気づいた。それは、同じような体験をしながら深く話したがらないのか、証言者によって、体験したことが忘れられずに伝えようとしているのかはわからないが、他の市町村住民の証言によって、集団死や米兵虐殺という恐ろしい行為が、私の住む地域で起きていたことはショックだった。

 今回、今まで知らなかった恩納村の沖縄戦の状況を調べていくなかで、教科書や想像として何となくしか捉えていなかった沖縄戦を、いろいろな角度から見ていくことではっきりとさせられた気がする。また、住みなれた現在の地域と、戦時中の地域とをリンクさせて考えられたことが、戦争の恐怖を今までよりも強烈に感じ、平和の尊さを改めて実感することにつながった。また、これまで普通に接してきた近所のおじさんやおばさんが体験者である事実も、現実味を感じる要因になった。

 戦後半世紀以上が経過し、「郷護の会」が会員の高齢化を理由に解散する事実を目の当たりにし、「当事者による伝承」というもっとも効果的で戦争の本質をとらえた存在が、形あるものとともに風化、なくなっていくことをとめることはできないと実感した。将来教員になった時、これまで得てきた知識や体験を、本当の平和教育とはどうあるべきで、どうやって正しく伝えることができるかを、生徒とともに模索していきたいと思う。

(参考証言)「安富祖誌」より
*1 「大きなミソガメをようやく、カンダ山まで運んだのに翌日はそこから追い出されて、パーになった。」
*2 「ウンメーが寝ているのを友軍二人が来て、出なさい、と追い出してヨー。」

6  戦時中に墓に入った住民の心境について                 日本文化学科3年 U・A

 沖縄に住んでいる私はこれまで沖縄戦について幾度となく触れる機会があった。触れる度毎に多くの疑問が出てきた。その中でも一番の疑問が「祖先信仰の強い沖縄で、戦時中に先祖の遺骨が納められている墓に入った時の心境はどのようなものだったか」という疑問である。これまでは、戦時中の避難状況はどのようなものだったか、というような外側の疑問ばかりであった。しかし、大学に入って沖縄について学ぶ機会が増え、沖縄を考える際に「祖先祭祀」「祖先崇拝」という言葉が頭から離れなくなった頃に、沖縄戦について調べる事になったとき、「沖縄戦」が「祖先崇拝」という言葉と結びつきこのような疑問が浮かんだ。沖縄戦は、戦争という地獄と人々が最も畏れていた墓(祖先の家)という恐ろしいもの同士がぶつかったときであったと思ったのだ。

 今回、この課題を追求していくために戦争体験者の気持ちが表れる証言を調べた。中南部を調べたのは、一つには、中南部は門中制度が強く門中墓が多く、これにより墓に入ることへの躊躇があっただろうと思われたこと、二つには、門中墓は大きい上に、住んでいる茅葺きの家よりも丈夫な石でできているため多くの人が避難しただろうと思われたからである。また、墓と壕の区別を明確にするために沖縄の墓について、墓に関するタブー事項、沖縄の人にとっての祖先信仰についても調べた。

 墓に避難したという証言を調べていくと証言を大きく4つに分類することができた。分類結果を述べるその前に、『沖縄懸史第9巻』で証言についての補足等を行った筆者の一人、宮城聴氏の、住民が墓に避難したことに関しての見解を以下に引用することにする。

 墓を壕にしていることは、いかに戦争が怖いものであるかをしみじみと知らしている。われわれ沖縄では、墓は、恐いところというのが通念である。ことに死人が入って間もない墓は、そばを通るのでも恐がったのが、一般の人の心だったところが艦砲が撃ちはじめられてから、祖先の遺骨の入っている墓を壕にしている。(中略−上原)艦砲の前には、この恐い墓を開けて、亡くなって間もない棺を出して自分たちが入るという例も多い。艦砲は何よりも恐く、幽霊とか死人の霊とかは、艦砲の前には何等の恐怖でもなくなるのであった。(頁48、1行目)

 この宮城聴氏の見解を十分に理解した上で以下に、証言と証言に対する私の分析を述べ、証言の分類を行うことにする。(証言は別紙を参照するものとする) 別紙最初の例は、空襲が激しくなって最終手段として墓へ向かったが、自分の墓には洗骨をして間もないか、洗骨をまだ済ませていない舅が眠っているということでそこを立ち去ったというもので、@「祖先信仰が強く祖先への畏怖の念が強いもの」と考えることができる。

 二番目の例は、墓に入ったけれど、おばあさんの遺骨を洗骨したというところに祖先への畏怖の念、祖先信仰が見られるため、A「祖先信仰を大事に思いながらも、自分の命を守るため墓に入ったもの」と分類することができる。

 三番目の例は、B「戦時中、生きることに必至で祖先への畏怖の念がなくなってしまったもの」と分類することができる。

 四番目の例は、C「祖先信仰が強く、先祖が自分たちを守ってくれると考えているもの」として分類できる。

 このような墓に関する証言(分類外も含む)から分かったことは、一つには、墓が最終手段の逃げ場所として使用されたということである。私は、戦時中は壕がないところはすぐに墓に隠れたものだと思っていたが多くの場合はそうではなかった。壕がない場合は壕を作り、その壕が危ないと感じた時に墓へ避難していたのだ。

 二つ目に分かったことは、宮城氏の言うように戦争がどれだけ恐ろしいものであったかということである。墓に入る前に洗骨したりと墓、先祖に対する畏怖心はあったが、最終的に墓に入って命を守ったことからそのように言うことができる。これに関して宮城氏は、「艦砲は何よりも恐く、幽霊とか死人の霊とかは、艦砲の前には何等の恐怖でもなくなるのであった。」と述べているが、果たしてそう断定することができるのか、疑問である。

 私が調べた証言には、今回載せた証言、特にAのような「祖先信仰を大事に思いながらも、自分の命を守るため墓に入った」というものが多くあった。そこから分かることの三つ目は、人々の中には、たとえ命が危険に晒されても祖先への畏怖の念を完全に消し去ることはできなかった者も少なからずいた、ということである。この点で、宮城氏のように断定することはできないと思うのである。しかし、宮城氏の言うことも当たっている。

 「戦争は、これまで人々にとって最も恐ろしいとされてきた墓のイメージを越えるくらい恐ろしいものだった」ことは事実であり、これが今回の課題追求から導き出された一つの答えである。平和な戦前、墓に関してのタブー等を忠実に守ってきた多くの人々が戦時中にそれを破り、戦後、平和が戻るとまた元のように墓に関する習慣を忠実に行っているという事実は、それを証明していることになるのではないかと思う。

 分かったこと四つ目は、沖縄の人の祖先に対する信仰の強さである。それは、戦後すぐ遺骨収拾に取りかかったことや、家族の死を確認して死体をそのままにして逃げたが2・3日してすぐにその場所を訪れて戦後に遺骨を納められるようきれいに葬った、という多くの証言からも言えることであると思う。

 以上が今回の課題を調べて分かったことである。今回載せた証言から不思議に思ったことは、戦争でたくさんの死体が転がる恐ろしく悲惨な状況を目の当たりにしているのに、墓に入るときには亡くなった死者の魂・霊を恐ろしく思っていた、ということである。ここにも沖縄の祖先信仰の強さをうかがうことができると思う。また、自分の祖先がいない他人の墓でも洗骨の済んでいないものが眠っていたら洗骨したという証言も多く、不思議に思った。人々の死者に対する弔いの気持ちがそうさせたのであろうが、そこには祖先崇拝の精神が流れていると私は思う。

 先にも述べたが、「沖縄戦は、それまでの人々の墓に対する畏怖のイメージを越える恐ろしいものだった」これが、今回自分の課題を追求した結果、導き出された、戦争とは何かに対する一つの大きな答えであると思う。

 今回、追求していく中で残った課題は、体験者の声を直接に聞くということと、戦後の遺骨収拾がどのような形で実施されたのかを調べるということである。この二つの課題は残ったが、今回この授業で、沖縄戦に関して自分で課題を設定し、追求し、自分なりの答えを出すことができて本当に良かったと思っている。沖縄戦については、小・中・高で毎年6月23日が近づく頃に幾度となく触れてきた。しかし、受身的で自分で課題を見つけ自分で調べるという作業をしなかったので、心から真剣に「平和を考える」「平和を守るために何をすればよいのか」という考えまでには至らなかった。やはり、どんな小さな疑問でも自分で課題設定し、直接それに向き合って追求しないと、真剣に「平和」について考えることはできないと思う。

 小さなことでも真剣に追求していく姿勢が大事である。平和はつくられるもの、守るもの、受け継ぐものだ、ということを実感することができた。平和とは、世界中の誰もが、勝手に自分の人権を奪われることなく、安全に生活できる社会、のことであると思った。その実現のためにも今回の課題追求の姿勢を大事にしたい。

別途資料

@「祖先信仰が強く祖先への畏怖の念が強いもの」
 あんまり空襲が激しくて、(中略一上原)自分たちの墓にいようと思ったんですが、この墓は自分の舅が十九年の四月に亡くなって入っていまして、まだ一年にしかなっていません。それでそこには入ることができないと思って、そこを諦めた。(頁658下段2段落目)
A「祖先信仰を大事に思いながらも、自分の命を守るため墓に入ったもの」
 うちの墓は池田の方にありますが、お墓を開けて、おばあさんが以前に亡くなっていたもんですから、おばあさんの遺骨を洗骨して、そうして自分の墓に避難しておったんです。(頁632下段最後から2行目)
 墓を探し歩いてね。そうして近くの神墓とか言われている墓を見つけて、恐れられて開けられなかったから、朝真兄さんがあけて・‥。(頁724上段6行目)
B「戦時中、生きることに必至で祖先への畏怖の念がなくなってしまったもの」
 墓のあるだけ開けて、人が入っている。開いていない墓があるならどこでも開けて入っていいという格好になっていた。(中略一上原)その時から、墓場を開けるのは何ともないですよ。(頁150下段3行目)
C「祖先信仰が強く、先祖が自分たちを守ってくれると考えているもの」
 それは堅固な昔の墓でありました。そこに線香をたいてですね。戦争の半ばで、どうぞ甚だ済みませんけれども、命を守って下さいと…。(頁416上段4行目)☆墓には入っていないけれど祖先信仰が強く表れている証言☆
 わたしの父は、「まことに御先祖のお陰だ、御祖先さまが守って下さったのだ」と繰り返しがえし言っていました。それで位牌もずっとお供して、壕の中でも安置して毎日朝も晩もお茶を上げて家族みんな無事にしのがしてくださいますようにといって拝みました。 それから糸満の壕の入り口でですね、さあ、もうここにはいられないのに行こうねといて、もう出ようとする時に蟹が二つ出てきてですね、そこにいるんです。だからうちの父は、「これは祖先のお使いだ」といってですね、おすの蟹とめすの蟹が出てきたんです。それで父は、「この蟹は神様だぞ、今日はここを出るのを控えて置け」といって、そこを出ませんで、それでここで捕虜されました。(頁692下段5行目)

7 中部における戦況と住民の避難状況     日本文化学科3年 O・Y

 「沖縄戦」と言うと、いつも考えることがある。それは、もし自分がこの時生きていたら、どんな戦争体験をしていたのだろうか、ということである。また、普段何気なく見ている景色や、いつも通る道、いつも遊びに行く場所は沖縄戦によって、いったいどのようになってしまっていたのだろうか・‥と。

 「沖縄戦」に巻き込まれた人々の苦しみや悲しみは私たちには100%で理解することはできない。しかし、私は少しでもその悲しみや苦しみを知り、伝えていくことで「平和」を考えていきたいと思っている。その第一段階として、「中部の戦況と中部住民の避難状況はどうだったのか。」を課題とし、自分の住んでいる中部を中心に、同じ中部住民として、彼らの目線(証言)で、様々な文献と照らし合わせながら課題解決を図りたいと思う。その際、5つの下位課題から考えていくことにする。

1、どのような攻撃を受けたか。

 まず、中部において、どのような攻撃を受けたかというと、真っ先に思い浮かべるのは四月一日の米軍上陸時の攻撃であろう。しかし(というかもちろん)、それ以前にも攻撃を受けている。那覇が壊滅状態になったことで知られる十・十空襲でも、中部の嘉手納方面が空襲を受けているし、三月二十三日からは空襲が激しくなり、この時、壕へ避難したという証言もある。この証言は比較的多い。そのために、中部でも北谷や読谷の住民が米軍上陸を知るものが少なかったこと、また多くの人が捕虜になるしかなかったと言われる原因であるだろう。

 そして、四月一日、「戦艦十隻、巡洋艦九隻、駆逐艦二十三隻、そして百七十七隻の砲艦が、総攻撃直前の掩護射撃を開始。この攻撃で撃ち込まれた砲弾は、五インチ砲以上四万四千八百二十五発、ロケット弾三万三千発、臼砲弾二万二千五百発の激しい集中攻撃。」であったことはどの資料にもはっきりしており、一致している。このように明確にわかっていることにも驚くが、住民からしてみれば、このような言葉では言い切れないものがあったのではないだろうか。たとえ、米軍の上陸を知らず、壕の中にいたと言っても、この激しい攻撃による爆音や地響きは、かなりの恐怖を与えたであろう。

 最後に、上陸してからの米軍による攻撃があるが、ここからは、一人ひとり違った、様々な攻撃を受けている。
 証言 急に何か爆弾をその壕の入り口に投げ込まれてしまったんです。多分催涙弾でしょう。(中略)むこうから銃をかついだアメリカさんが来るんですけど…(旧浦添/銘苅幸江)

 他にも、火炎放射や手榴弾、集中砲弾を浴びた人たちもいた。しかし、このように直接攻撃を受けたものは少なく、ほとんどが艦砲や流れ弾の中を逃げたというものであった。

2、いつごろ避難を始めたのか。

 避難については、攻撃を受けた日とほぼ重なる。@三月二十三日ごろA四月一日ごろである。

 証言 私は三月二十三日ごろまでは、よく高台から西海岸を見ていましたよ。(中略)それから艦砲がはじまって、外に出られなくなって…(旧宜野湾/知花文)

 次にB疎開が挙げられる。疎開には県外と県内に分かれるが、県外には3万人ほどしか疎開ができなかった。しかし、県内疎開(山原疎開)において、ほどんどの中部住民は、空襲が激しくなってからしか移動していない。これは、山原の食糧事情もあるが、やはり、家や畑、家畜などを手放すことができなかったり、沖縄が戦地になることが目の前に来るまで、信じられなかったという心理的なものが働いていたと言えるのではないか。そして、このことは「沖縄戦」で住民の被害が多かった原因の一つであろう。

 証言 沖縄があんなに激しい戦場になるとは考えきれず、疎開命令がきてもほとんど応ずる者もいませんでした。(越来村/比嘉盛隆)

 C十・十空襲については、空襲を空襲と思っていなかったことや、空襲から上陸まで時間があったためか、その時だけの避難であった。それ以外は、十・十空襲のことは書かれていないものが多かったが、疎開をする一つのきっかけにもなっているため避難を始めた時期として最後に入れた。

3、どのような被害をもたらしたか。

 私の調べた範囲では、怪我(死)、爆(死)、病(死)、集団自決(死)、焼(死)、餓(死)、衰弱(死)、栄養失調(死)、殺害、生き埋めなどがあった。

 証言 大川では、みんな餓死したようであります。マラリヤなども流行して、栄養失調で年寄り幼い子どもはほとんど死んだという話でありました。(西原村/山本亀一)

 また、被害は人間だけではなく、建物や自然も攻撃によって大きな被害をうけた。戦闘の中、証言者たちは、私たちが想像するよりもかなりの人間の死を見ていただろう。そのためか、“ほとんどの戦争体験者たちは、死に対して麻痺していただろう”という考えが多いが、私はそうは思わない。目の前で人が死んでしまうことで、次は自分ではないのか
など不安などもではないだろうか。これは、私の想像でしかないが、米軍による攻撃が、人の心まで傷つけたとは思えないのである。

4、避難生活

 避難場所として多かったのは、やはり壕であった。私は、壕と言ったら、山の中にある大きな洞窟のようなものだけをそう呼んでいると思っていたが、そうではなく、家の近くに穴を掘っただけのものもそう呼ばれていた。壕については、中部でも南部に近い、宜野湾や浦添、西原あたりになっていくと、大きなものは日本軍が使うために住民はそこから別の場所へと移動しなくてはならなかった。この移動の多さは上陸地点である北谷、読谷住民と比べるとはるかに多い。それによって、南部へ逃げたために、その激戦に巻き込まれてしまったと言える。しかし逆に、それによって生き残ることができたとも言えるのである。

 また、墓も避難場所となった。墓は非常に大きかったようで、

 証言 家族は十二人でしたが、主人の弟、次男は海軍の兵隊に行っていましたので、十一人の家族が自分の墓に行っておりました。(中城村/普天間ツル)
のように、かなりの人数で避難していた。しかし、このような大きな墓もまた、時には立ち退きを命令され、友軍の壕として使われることもあった。そのほかにも、他人の家や、馬小屋、ヤギ小屋に避難していた人々もいた。このように見ていくと、住民と戦闘が隣り合わせであり、避難場所が避難場所として機能していたかどうかの判断は難しいものである。

5、捕虜生活

 中部でも南部方面の証言者は、もちろん捕虜となって助かっているわけなのだが、犠牲者の数を比較するとやはり米軍上陸地点に近い北谷、読谷あたりの犠牲者の数の方が少ない。これは、ほとんどがすぐに投降し、捕虜となったからである。

 その捕虜生活は一体どのようなものだったのだろうか。捕虜となった住民は、収容所を転々と移動している。証言からはなぜこんなにも移動をしていたのかはわからなかったが、「米軍の軍事作戦のため」(沖縄県史8・P415)だったようだ。南部の住民が壕探しで移動していたとき、捕虜となった住民は収容所を移動していたのである。

 収容所は、テントもあったが、多くが焼け残った民家であった。しかし、収容所が必ずしも安全であったとは言えなかった。

 証言 野嵩に行ったら、弾がどんどん飛んできて(中略)民家に隠れている人たちは弾にあたって、それは友軍の弾だったかもしれませんけど…(北谷村/上間カメ)
 また、場所にもよるが、中北部の人にとっては、避難していた時より不自由しなかったというものが多かったが、南部方面に逃げた住民は食糧事情がよかったためか、不自由になったという証言が多かった。捕虜生活からチョコレートやチーズ、クラッカーなどのアメリカのお菓子が多く出てくるようになるが、まだ逃げているときに、米兵は何もせずチョコやお菓子をくれたという話がある。しかし、捕まったときでさえ、毒が入っているか
もしれないと口にしなかったものをこの時に食べるはずはないと考えた。

最後に

 ここでは、主に証言を中心に課題解決を図っていった。中間報告では、証言以外の本ばかりを読み、考えていたが、それでは本当に「沖縄戦」を知ったことにならない。それは、一人ひとりの体験は違うけれどもすべてが「沖縄戦」であるからである。「沖縄戦」とは何かと問われたとき、証言は無視できないものである。しかし、私は証言がすべて正しいとは言わない。なぜなら、「向こうの家の人たちは砲弾でみな死んでしまった」とある人の証言であっても、実際は、生き残っている人もいるし、「集団自決」をしても、なんらかの奇跡で助かっている人もいる。また、人によって日にちが違っていたりする。何が正しく、何が間違いなのか。様々な視点から証言を読み、また事実と照らしあわせていくことが大切なのである。

 そして、私たちが「平和」を考えるとき、ある意味で平和だと思っている私たちが本当の意味での「平和」とは何かを考えるのは難しいと思う。講義の中で先生に質問されたときも、「平和」とは何なのか自信を持って答えることができなかった。しかし、課題解決をしていく中で証言を読み、その苦しみや悲しみを考えることで少しだが自分の中で見えてきた。この講義を受けて本当によかったと思う。総合学習で「平和学習」を行う場合でも、生徒一人ひとりの「平和」についての気持ちを大切にするべきだと思う。

 これからの課題としては、このような体験をした住民たちは、戦前と戦後ではどのように変化していったのか。これも戦中の証言や事実をもとに考えていくことが必要であると考える。また、捕虜となった後、元の部落への住民移動の際に、米軍に土地を奪われた中部住民はどうなっていったのか。ということも課題としたい。

8 戦時中の住民被害の状況             人間福祉科3年 H・H

 いまを去る59年前、沖縄の天地は凄惨な地獄と化した。本土の日本人が空襲に逃げまどい、疎開の不便な生活に悩んでいるときに、沖縄はその大地の上に敵の兵士と戦車を迎え、間断のない艦砲射撃の下にさらされながら数ヶ月を送った。この間の記録は数多くの沖縄県史としてすでに発表され、私たちの胸を揺さぶってきた。そして、沖縄本島の中南部に林立する各県の慰霊塔、これらは、それがそもそもの目的でないにせよ、私たちに一時の罪悪感を与えて、そして解放するというカタルシスの役を果たしていることも否めない事実である。涙は人間を浄化し、人間の苦悩をやわらげる作用をもつ。戦後59年、沖縄の戦いの記憶は、慰霊塔を残したまま過去に押しながされようとしているかにみえる。

本土復帰によって、沖縄に戦後は終わった、という人が出てきた。私たちは沖縄の大地に聞くほかない。それは果たして事実であろうかと。

 これまで軍人や知識人が沖縄戦について発言しても、沖縄の住民ばかりは沈黙していた。私がこの住民の沈黙の岩盤につきあたり、その大きさが分かったのは、沖縄県史に収録されている沖縄住民の非戦闘員の証言記録を読んだときである。私は、皮肉にもこの証言に触れてはじめて、沖縄の住民の言辞に絶するまでの苦難や被害。そして、戦後を貫いたその苦難を語るまいとする沈黙の意味をやっと諒解したのである。

 苦しみが大きすぎるとき、人は告白する衝動を失い、それに触れることを極度に嫌悪する。沖縄の住民が過ごした戦後は、まさしくそのようなものだった。極限状況まで追いつめられた住民にとって、その苦難はあまりに大きすぎたので、それを語ることを欲しなかった。しかし、それは沖縄の住民の心底にまるで鋼のように重く、冷たく沈んでいたのだ。

 そしてやっと戦後59年を迎える今日、彼らの寡黙な心情は、戦争体験を語ろうとするまでに余裕をもってきた。とすれば、沖縄の戦後はこの沖縄の住民の抱えてきた沈黙の岩盤に支えられていたといっても、決して過言ではない。これこそ、戦後の沖縄の思想の原点であることを私は確認した。

 そこで私は、沖縄の戦後社会をいろどるさまざまな心情の差異は各々の住民が受けた被害に鍵がある。したがって、課題のテーマを戦時中に住民が受けた被害について掘り下げて考えていくことにする。

 戦時中に住民が受けた被害について研究していく中で、3つのことを述べていきたいと思う。一つ目に強制死の被害状況、二つ目に日本兵から受けた強制死の被害状況、三つ目にアメリカ兵から受けた武力以外の被害状況について考察していく。

 一つ目の強制死の被害状況については、手榴弾や劇薬を飲んで死ぬ住民や薬物で死にきれない住民は、頭をたたき割って最期を遂げる住民。また、ひもやなわで首をくくる住民や剃刀で頭を切ったり、鍬で頭を割る住民など数々の強制死の種類が存在した。がしかし、戦時中は誰一人として自ら死のうとする者はいなかったということを忘れてはならない。

 人間はやはり生きたい。なんとか生き延びたい。また、それが人間の根ざす本能でもある。自分で死のうとしたのではない。それを皇民化教育によって強いられたのだ。虐殺と語る証言者もいた。強制死の原因として、ただ米軍に捕まったらむごたらしく殺されるか、米軍の捕虜になるからかえって死んだ方がお国のためであると友軍から聞かされ、それを信じていたいから死を選択した住民が多数いたことは否めない事実である。

二つ目の日本兵から受けた強制死の被害状況として日本軍には、多数の住民がまじって戦った。女たちも例外ではない。頭髪を切り、戦闘帽をかぶり、男装して爆雷を持って飛び出し、竹槍を引っさげて切り込みにくわわり、自ら死ぬと知りながら米軍陣地に体当たりした。そして、住民は、日本兵から死か捕虜かの二者択一を迫られたりもした。だが、日本軍は一刻も長く生き延びるために沖縄の住民を犠牲にすることをあえて伝えなかった。そして、友軍は沖縄住民の最後の住家である壕と食料とを奪い、壕の中にいる生まれて2、3ケ月の赤ん坊を乳房で窒息させ、子ども一人一人の喉を切っていく。それだけではなく、スパイ容疑で多くの沖縄人の非戦闘員を刈りだし、斬殺した。

 例えば米軍が上陸したとき、逃げ遅れて米軍に捕まった住民はその一週間後、日本軍に切り殺された。スパイ容疑として斬殺されたわけだが、日本軍に協力しようとしてその善意がかえってあだとなった結果といっても過言ではない。日本兵は、「焼け・殺せ・犯せ」を文字通りに実行し、沖縄住民に対しては数多くのスパイ容疑、拷問、虐殺を加えた。戦場における住民は、日本軍からみれば危険な二面性を持っていた。

 戦闘協力者として利用できる面と作戦の足手まといになる邪魔者としての存在である。沖縄戦が開戦されたとき、沖縄守備軍の間には沖縄住民に対する不信感が芽生えていた。それは、長いものには巻かれろ式の事大主義。つまり、自主性を欠き、勢力の強い者につき、自分の存続を維持するといったものが染みついているため、いったん強敵が襲ってきた場合、敵に寝返る恐れがあった。要するに住民には、国家と天皇に対する忠誠心が乏しいことが分かる。つまり、国のためには死ねないと考えられていた。

 よって、このような不信感からスパイ説は生まれた。そして、結果として友軍であるはずの沖縄の守備軍からたいした根拠もなく、拷問、虐殺され、守備軍は自らの安全を図るために住民を壕から追い出したり、食料を奪ったり、また強制死を強要したりした。

三つ目のアメリカ兵から受けた武力以外の被害状況として目立った被害は、研究してきた結果あまりありませんでしたが、米軍の捕虜にされた住民は結果として、非戦闘員でも男子はみな殺しにあい、女子は陵辱されて辱めを受けるということがあったのである。

 このように教職総合演習で実際のテーマにして研究してきて、沖縄戦で戦闘員よりも非戦闘員である住民の犠牲がなぜ多く出たかということは、日米両軍の作戦目的である。日本の沖縄作戦は国体護持のため、住民を楯にした形で、終戦工作を有利に導く時間稼ぎ作戦を取ったのが根本思想で目的でもあった。

 それに対して、米軍は本土進攻作戦に向けて沖縄の航空基地の確保というのが沖縄戦の目的であった。このような両軍の作戦目的により、沖縄戦は長く激しい地上戦となった。その結果、多くの住民被害をもたらした。沖縄戦では、防衛隊、義勇隊、学徒隊などの名目で多くの住民が根こそぎ動員された。学徒隊とは、今の中学生にあたる学徒からなる部隊のことで、ひめゆり部隊で有名な女子学徒隊と男子からなる鉄血勤皇隊がある。女子学徒隊は、従軍看護隊として600名動員された。

 通信隊では、砲火の中の伝令を任務としていたため、特に死亡率が高かった。防衛隊には、戦況が不利になるにつれて、避難民からも手当たりしだいに補助要員を徴集。子どもから老人まで、足腰の立つ住民は全て戦闘要員にされ、被害者となった。

 また、忘れてならないのは戦時中に人間的弱さを持った住民が米軍にもいたし、日本軍にも存在していたということだ。つまり、戦争によって、若しくは皇民化教育によって人間的理性を失ったのである。であるから、日本軍も米軍もあまり関係ない。殺すか、殺さないか、全ては、人間対人間の問題であると私は考える。したがって戦時中においてはそういった心理状況に陥るといったことや、戦争とは誰が悪いという問題ではないということを前提として捉えていかなければならないと研究してきて知ることができた。

9 少女の体験から見えた沖縄戦          人間福祉学科3年 S・M

 私の家はひめゆりの塔の隣の民芸品店である。幼い頃からひめゆりの塔に出入りしたり、慰霊の日の行事を見てきた。小学校・中学校と平和学習でもひめゆりの塔見学や地元の壕へ入ったり、一度は地元に住む戦争体験者の証言を聞いた。その時の涙ながらに語っていた証言者の姿は心に焼き付いて離れない。私の身近な親族での戦争体験者は、今年で百歳になる祖母である。

 私が幼い頃に戦争の話を聞くと、話を軽くそらされた記憶がある。平和学習などで、‘戦争体験者の多くが思い出すのも辛くて語ろうとしない,と知って以来、私は祖母に戦争の話は全くしなくなった。今、祖母は施設に入所していて、自宅にはもう帰って来れない状態である。今思えば、もう一度記憶が確かなうちに戦争の話を聞けば良かったと悔やんでいる。戦争体験者が年老い、証言が出来なくなっている現在では、これから生まれてくる子ども達に戦争の悲惨さを語れる者がいなくなっている。これからは私たちが沖縄戦を後世に伝えていく役目を担っていると考える。

 そこで、戦争の悲惨さ、命の尊さを私自身が学習するためにも、“ひとりの少女の人生が沖縄戦でどう変わっていったのか”、“ひとりの少女の体験から学ぶ沖縄戦”を課題として宮城喜久子さんの書いた一冊の本から研究していく。

『ひめゆりの少女・十六歳の戦場』宮城喜久子著1995年6月3日発行 発行所・(株) 高文研
宮城喜久子(みやぎ・きくこ) │
1928年10月31日、沖縄県勝連村(現、勝連町)に生まれる。
1945年3月23日、沖縄県第一高等女学校4年在学中、球1616部隊沖縄陸軍病院(通称、南風原陸軍病院)に動員される。
同月29日、一高女卒業(戦場で卒業式)。同年6月21日、喜屋武荒崎海岸で米軍に収容される。
1946年8月、沖縄県文教学校師範部卒業。1946年以降、高江洲小学校・古謝小学校・佐敷中学校・大里北小学校・西原小学校・嘉数小学校・宜野湾小学校に勤務。
1986年退職。84年より、体験を伝える講演活動を始める。
1986〜89年、ひめゆり平和記念資料館建設期成会・資料委員をつとめる。
1989年より、ひめゆり平和記念資料館・運営委員/証言員。

 軍国主義教育を受けて育った世代である宮城さんは、憧れのセーラー服も着られず、へちま襟の制服を着ることになった。女学生はいざという時のために、常にもんぺを着用、包帯や薬品などを入れた救急がばんを肩からさげ、住所、氏名、血液型をしるした布を胸に縫いつけ、非常時の体制で登校した。学園では「精神力と体力を養う」という目的で「行軍」が行われ、女学生のほとんどが「強い身体と精神をつくり、国のために役立つ人間になる」ことを、だれもが当然のこととして受け止め、不平を言う者はいなかった。「学徒動員法」により、軍への奉仕作業が次第に増え、戦いに備えて実弾を使っての射撃訓練も行われるようになった。

 そして、1944年には、授業時間数は一段と減らされ、壕掘り、陣地構築、砲台づくりなどの作業に毎日のように動員された。また、陸軍病院で看護訓練を受けるなど、学生は勉強する時間より戦争の準備のために働かされた。当時は、みんなと異なる行動をとることはタブーとされ、国の方針に少しでも反することをすると、「非国民」「国賊」という言葉でののしられ、迫害されたので、だれもがその言葉を恐れていたのだった。国家の力、社会の力、教育の力によって人間の生き方がただ一つの方向に統制された時代であった。

 学校側から、近く戦場へ動員されることを父母に告げ、許可をもらってくるようにと言われ、自宅に戻った宮城さんは教師をしている父に南風原陸軍病院で動員されることを伝えると、ひどく反対された。喜んでもらえると信じていたのに、返ってきた言葉に驚き、父母から逃げるようにひめゆり学園へと戻って行った。十六歳の少女が親の反対を押し切り、戦場への道を選んだのも教育の強い力だと考える。

 3月は卒業シーズンであり、宮城さんも卒業の年となっていたが、卒業式は戦争のために延期され、そのまま戦場動員となった。延期になったのも軍の命令であり、米軍進攻に備える沖縄守備軍は県下女子中学校の生徒らに看護訓練を強化し、米軍が上陸すると、ただちに学徒隊を編成して、戦場に駆り立てた。何の法的根拠もなく、少女らの戦場動員を強行した。こうして、宮城さんは日中戦争、太平洋戦争と、戦争の時代に育ちながら、戦争というものの実体、本当の姿については何も知らぬまま、戦場へと送られたのだった。3月29日の卒業式は、至近弾に怯えながら行われ、卒業の門出の言葉も戦争へ出陣といった言葉で、歌も「海ゆかば」を歌い、学園生活の思い出の歌を歌うことも許されずに悔しい思いをしたという。

 宮城さんらの仕事はアメリカ軍の攻撃がいくらか鈍くなる夕方から夜にかけて、水汲みをすることとであった。二人一組で一斗樽抱えて砲弾に怯えながら、急坂を上り下りしていた。そのうちに、砲弾の飛んでくる音によって、それが危険かどうか判断できるようになっていき、風を切る砲弾の音で、その方向や落下地点までの遠近が分かるようになったというのは戦場生活に慣れていったという悲しい現実からである。それから、ひもじさ、泥まみれ、垢まみれも当たり前になり、体調もおかしくなり、生理もなくなった女生徒がほとんどであった。さらに、水汲みの他に食料集めの作業もあり、砲弾の下、第三十二軍の司令部へ野菜を供出するために収穫に女学生の労働力が使用された。

 水汲みなどの雑役が主だった宮城さんの仕事に看護活動が加えられ、動員前に一・二回しか注射の打ち方や包帯の巻き方などを練習しただけなのに、看護婦代わりをさせられた。戦闘が激しさを増すにつれ、重症患者が運ばれるたびに、惨い姿と化した兵隊の看護に当たり、死にも何度も直面した。さらに、切断された腕や脚を弾痕へと運ぶのも生徒達の仕事で、砲弾の飛び交う下、人の腕や脚を抱え、あるいは引きずり、穴へ運ぶ光景はとてもこの世のものとは思えぬようだった。

 国際法で禁じられているガス弾が、この沖縄戦でも使用された。また、あいつぐ学友の死が宮城さん達を恐怖の底に突き落とした。その間も水汲みや看護活動が続き、頭にも服にもシラミが列をならしてうごめいて、髪は一度も洗うことはなくべっとりとして汚れていた。髪だけでなく、全身が汚れていて歯も洗えないという現実に、おしやれをしたい年頃の彼女らにとっては悔しくて情けないありさまであった。しかし、毎日人が死んでゆく戦場ではどうしようもなく、ただ耐えるより仕方がない状態であった。

 最前線では、残った兵隊はアメリカ軍を迎え撃つため、陸軍病院付近一帯に出勤したため、兵隊がやっていた「現品受領」も女学生の仕事となった。そこで、兵隊達に届けるおにぎりを握り、砲弾の飛び交う中運んでゆくのは、沖縄出身の防衛隊であり、若い人から中高年の人まで様々な年代の人たちであったが、「動作が遅い、さっさとやれ!」と怒鳴
られてばかりいた。また、方言で話しているのを聞きとがめられ、殴られているのを目にし同じ沖縄の人間として、悔しい思いで見ているだけであった。

 戦場では多くの朝鮮人もかり出されていた。女学生は軍国主義を吹き込まれると同時に、他国の人々、他民族に対する差別意識をしっかりと注入されされたため、彼らを見ると「同じところにいるのは嫌だ」とさけていた。アメリカ軍に対しても「鬼畜米英」と教え込まれ、見たこともないアメリカ軍が押し寄せる恐怖は計り知れないだろう。

 伊原の第一外科壕に行く際、傷ついた子ども達が置き去りにされ、家族を泣きながら呼んでいる姿を見ても、自分が逃げるだけで精一杯であり、心を鬼にしてその場を急いで通り過ぎた宮城さんは辛かったであろう。宮城さんの入った第一外科壕のすぐ隣に、第三外科壕があった。そこへ移動したグループは米軍のガス弾投下にあった。戦場での生死の予測は誰にも不可能である。生き残った第一外科壕では、食料と水不足で水汲み当番があり、それはえい光弾、小銃弾が飛び交う中で地面を這いながら井戸に行く仕事である。死体が浮いていようが、負傷した人が倒れていようが、水を飲むのをあきらめず、思いっきり水が飲める水汲み当番を恐怖の中でもやりたい仕事という心境は、想像を絶する情景である。

 それから、各壕からは、毎日、本部壕へ命令受領のため、生徒達も衛生兵とともに伝令として行かされた。砲弾の中、鉄かぶとをかぶり、兵隊同様の危険な任務をさせられていた。ついに、6月18日陸軍病院本部から「解散命令」が出された。宮城さんらはあまりのショックで言葉を発することが出来ないでいた。戦場動員後、砲弾の下、命がけで働いてきた生徒達、その中で何人もの生徒が傷つき死んでいった。そして、今、さらに追い打ちをかけるように戦場へ投げ出されたのだ。戦争という異常な状況の中ではどんなことが
起こっても不思議ではないと知ったとはいえ、こんな非常なことが許されるのか。

 第一外科壕を出た後、喜屋武の荒崎海岸へ着いた。そこで見たのは、海から呼びかけるアメリカ軍・アメリカ軍に助けを求めた兵隊を味方の兵隊が撃ち殺した現場であった。「もう一度、弾の落ちてこない空の下を、大手を振って歩きたい!」三ヶ月の間、軍隊の中に身を置き、愚痴もこぼさず、ただひたすら御国のためと頑張ってきた学友達が、本音をもらしたのは、まもなく命が果てる、この時が初めてだった。

 ついに米軍に囲まれ、米軍の声を聞いた一瞬、左に身をかわした宮城さんらは助かり、右に身をかわした者は銃弾を受け死んでしまい、その瞬間、追いつめられて手榴弾の信管が抜かれ、十名の学友も死んでしまった。

 その後、宮城さんらは収容され、収容所から脱走を繰り返し、親兄弟に会うことが出来た。さらに、文教学校へ通うことが出来、民主主義の教育がはじまった。十ケ月前の教育とは、まさに一八○度の転換に対し、少しずつ理解はしていったものの、これまでにたたき込まれたものの見方、考え方を正反対に転換させることは簡単ではなく、講義をしている先生がたに対し、不信感さえもったという。それから、二七年間あの忌まわしい戦争のことは忘れよう、二度と思い出したくないと、あまり語ることをしなかったが、祖国復帰を機会に荒崎海岸へ足を運び、沖縄戦の悲惨さを知らない本土の人たちに、真実を伝え始めたのだった。

 十六歳の少女は教育という大きな力で、軍国少女として育てられ、国の力で戦場へとかり出された。「御国のために」「敵国へ捕まえられるのは恥である」「鬼畜米英」などと頭にたたき込まれ、自ら命を絶つ者を目にし、また、容赦ない砲弾の嵐の中多くの人々が死
んでいった。それだけでなく、日本兵による住民虐殺・差別・強要自決、朝鮮人への差別など戦争という時代に生きた少女が見たのは、命のはかなさと戦争のむごさである。戦争のために、天皇のために、と間違った情報と教育を純粋な子ども達は信じて、犠牲になったのだ。ただの普通の女学生が勉強ではなく、壕掘りや銃撃の訓練をし、戦場では看護を強要され、死にものぐるいで水汲み・食料集めをさせられていた。親元を離れ、学友や兵隊、住民達が死を迎える中で、いつ自分が死ぬかも分からない日々を送っていた少女の心境はとても想像がつかない。沖縄戦という中を生き延びた人の多くは、口を閉ざしたままである。思い出したくない・忘れたいとまで思わせるできごとであったのは確かである。

   ひとりの少女が戦争で青春を謳歌することなく、死と隣り合わせに生きてきて、生き延びても忌まわしい記憶に悩み、苦しみ、言葉に出すことも避けていた。戦争とはもう二度とあってはならないと戦争体験者は言う。私たちは戦後に生まれ、沖縄戦を学習する機会がある。しかし、教科書だけの沖縄戦でなく、住民ひとりひとりの証言を聞き、住民の視点から沖縄戦を学ばなければ、本当の平和は訪れないと思う。今回、宮城喜久子さんひとりの戦争体験を学んだが、これだけが沖縄戦でない。多くの人々が全く違った経験や教訓を経験したに違いない。だが、宮城喜久子さんの例だけでも、沖縄戦が十六歳の少女の人生に及ぼす影響が強いことを学ぶことが出来たと考える。また、教育の大切さがどれほど大きいかを感じると同時に、今子どもを産み、育て、教育していく立場から、正しい教育・正しい沖縄戦を自ら学び、考え、行動しなくてはと、強く考えた。

10 チビチリガマとシムクガマ          人間福祉学科3年 H・A

 私が課題として「チビチリガマとシムクガマ」を設定した理由は2つある。まず1つめは、私の出身地である読谷村の沖縄戦について知りたいと思ったからである。沖縄全体の戦争被害について学ぶ前に、身近なところから調べていこうと考えたためである。2つめは、高校生の時にチビチリガマを見学し、実際にシムクガマに入るという体験をしたことである。わずか2〜3キロしか離れていないガマで全く逆のことが起こり、その結果、一方では1000人が助かり、もう一方では「集団自決」という悲劇が起きた。なぜ、同じ部落内に住む住民が、このような全く異なる選択をしたのか。2つのガマを比較しながら研究していき、そこから見えてくる背景を追求していきたい。

 チビチリガマとシムクガマは、読谷村の波平という部落内に存在する自然壕である。チビチリガマは深さ約10メートルのX字型をした谷の底にある鍾乳洞で、中は狭く、小さな川が流れ込んでいる。一方、シムクガマは、全長約2750メートルの巨大な鍾乳洞で、谷の底に大きく口を開けた入り口は、高さ7〜8メートルあまり、横幅10メートルあまりの大きなガマである。チビチリガマには、波平の住民、約140人が避難し、シムクガマには波平の住民約1000人が避難した。

 本格的にガマでの避難生活が始まったのは、米軍が艦砲射撃を開始した3月23日以降であり、人々はガマから出ることができず、夜になると家で炊事をしてガマに食べ物を持ち込むという生活が続いた。4月1日、米軍は無血上陸を果たし、チビチリガマとシムクガマはその日のうちに発見され、米軍によって包囲された。それぞれのガマで米軍は中にいる避難民に対し、「デテキナサイ、コロサナイ」と降伏を呼びかけた。

 チビチリガマでもシムクガマでも、説得のためにガマに米軍が入ってきたことにより、人々の緊張感と恐怖心はより一層増し、ガマ内は騒然となった。そのような中、両方のガマで、米軍に反撃するために竹槍で攻撃するという案が出されたのである。

 チビチリガマでは実際に竹槍を持って米軍に突撃したため、2人が重傷を負った。それに対しシムクガマでは、警防団員の少年らによる突撃が寸前のところで制止されている。竹槍を捨てるように命じ、その攻撃を制止したのはハワイ帰りの老人であった。このことがチビチリガマとシムクガマの相違点の1つであると考えられる。竹槍による突撃がシムクガマでも起こっていたならば、チビチリガマと同様に米軍によって反撃され、犠牲者を出し、錯乱状態に陥っていたと考えられる。そうなれば、避難民の恐怖心と絶望感は増し、チビチリガマと同じような選択をする者が現れたであろう。

 米軍の上陸、包囲によってパニックに陥った人々の中からは、「自決」という声がでてきた。この声はチビチリガマとシムクガマの両方のガマで共通して起こった。シムクガマでは老人が「アメリカーに子どもを殺されるくらいなら、自分で殺しなさい」と自決を主張し、チビチリガマでは「サイパンでも、こうゆうふうにしたから、そうしよう」とサイパン帰りの2人の男が自決を口にしている。それは、「女は辱められてから殺され、男は戦車で轢き殺される」という日本軍の宣伝を住民が信用していたためである。さらにチビチリガマでは、中国戦線での経験を持つ者や元従軍看護婦が避難民の中にいたことにより、日本軍が中国軍を残虐したのと同様に、今度は自分たちが同じように米軍に殺されると思い込んでいたことが、捕虜になることへの恐怖心と拒否感を強めた。

 しかし、チビチリガマでもすぐに「集団自決」が起こったわけではない。自決派と反自決派に分かれて激しく対立し、口論が起きている。怒りに狂った2人の男がガマの入り口に火を付けたが、幼い子を持つ4人の母親たちによって消し止められた。彼女らは出産という経験をしたことにより、生命の大切さ身をもって知っていたため、このような状況の中でも「生きる」という道を選択できたのではないか。彼女らが火を消し止めたことにより、その日は「集団自決」には至らなかった。

 だが、翌日の4月2日、米兵が再度ガマに入ってきたため、ガマ内の緊張感は極限状態になり、「集団自決」が始まったのである。母親に殺してくれと懇願した18歳の少女が母親の手にかかり死亡したり、元従軍看護婦の毒薬注射による「自決」によって14,15人が「天皇陛下バンザイ」と叫びながら死んでいった。そして、前日には消し止められた火が再び着火され、ガマ内は煙に包まれ奥にいた人々は死を覚悟して「自決」していったのである。

 一方、シムクガマでは、ハワイに移民していたため英語が話せた比嘉平治が、同じく英語を話せるオジの比嘉平三を伴い、ガマの外へ出て行き米軍と交渉を始めた。彼らはガマの中には日本兵はおらず民間人しかいないことを説明し、殺さない事を交渉した。そして避難民に対しても米軍は捕虜に対してひどい扱いはしない、殺さないことを説明して投降を説得し、避難民約1000人全員が助かったのである。

 この2つのガマで明暗を分けた大きな違いは、やはり主導者の違いである。さらにアメリカ人に対しての情報の大きな違いもその明暗をわけた。それは「愛国者」と「非国民」としての違いであるとも言える。愛国者とは、「自分の国を愛すること」であるが、当時の日本は国ではなく、天皇を愛すること、つまり、天皇のために全てを捧げる人のことを愛国者と呼んでいた。チビチリガマの出来事は、天皇の民=日本人になろうとして、あるいは日本人になることを強要されて起きた結果であると言える。住民であっても米軍に捕まることは恥辱であり、いざとなれば死ぬべきだという教育=皇民化教育が徹底的におこなわれていたため、多くの住民が「自決」という道を選択させられたのである。

 「集団自決」の背景には、国民は自らの生命を喜んで天皇に捧げるという皇民化教育があり、それは天皇制を守るために徹底して行われた。「敵を殺して自分も死ぬ」という子どもを「兵器」として生産した教育は、地上戦が行われた沖縄で最も効果を発揮した。それは、警防団員の少年らによる竹槍突撃からもわかるであろう。つまり、「集団自決」は、「皇士防衛」「国体護持」作戦の犠牲なのである。

 シムクガマで「集団自決」が起きなかったのは、このような皇民化教育を十分に受けていない移民帰りの存在があったことである。彼らは日本軍の宣伝の嘘を見抜き、それらを信じなかった。教育という「洗脳」によって国家のために自らの命を投げ出し天皇のために死ぬ事が最高の美徳とされ、生きる事を選択するものは非国民として弾圧を受けた。

 しかし、その非国民によってシムクガマでは1000人という多くの住民が生還したのである。彼らが主導権を握る事がなかったのなら、シムクガマの結果は変わっていただろう。実際に証言を聞かせてもらったシムクガマの方の「もし、比嘉さんがいなかったら、あっちと同じようになっていたかもわからんねえ。」という言葉がとても印象的だった。チビチリガマもシムクガマも結果さえこのような大きな違いが出たものの、生死は紙一重だったのである。

「自決」とは、「みずからが決断して自分の生命を絶つこと。自裁。」と広辞苑に記されている。しかし、チビチリガマの犠牲者の年齢別構成(資料1)から分かるように、犠牲者の過半数が子どもである。その中でもさらに12歳以下の子どもが4割以上を占めている。そのような子どもたちが自らの決断で死を選択する事ができたのだろうか。彼らは母親の手によって「自決」したと考えられる。

 母親らが我が子を道連れに「自決」を選択した理由は、やはり皇民化教育と日本軍の嘘の宣伝を信じたためである。このことから沖縄戦における「集団自決」は「自決」とは程遠いことがわかる。そして、「集団自決」における「死」は自らが決断して自分の生命を立つという「自決」ではなく、社会的に強制されたものと言える。そこからは、「教育」という力の恐ろしさ、偉大さ、そしてそれを国家の国益として利用するのではなく、個人のためとして行う必要があることを教えている。

 また、正しい情報に基づく教育を、1つの側面から見るだけの教育ではなく、多くの側面から見た教育の重要性を示している。そのような教育において、自らの考えで選択し、自由に意思を表明できることが最も大切なことである。

11 沖縄戦中の児童の疎開生活           商学科3年 N・Y

 当初、戦後の憲法推移について調べることで、憲法の考え方がどのように人々に浸透していったのかを考察しようとしていた。だが、調べていく中で、憲法と教育の密接な関係が目に留まった。そこで、教育とは何か、教育の与える影響の大きさと脅威、そして教育はどのようにあるべきかを検討しようと思い、テーマを変えた。

 児童を取り上げたのは、私が小学校教員を目指しているという理由もあるが、児童は、国からの教育を初めて受ける存在なので、教育の基礎を形成する時期であると考えた。そのため、児童に焦点を当てた。

 資料収集にあたり、児童の視点から見るために、当時児童だった方々の体験談を中心に調べるよう心がけた。また、自分なりの捉え方をするために、体験者の証言を中心に考察した。

   「雪がみたい」。そんな子どもらしい理由から本土行きを決意し、家族と離れ、児童らは疎開した。初めて見る本土に、子どもたちは感動したに違いない。これから過酷な生活が待ち受けているとは知らずに。

   疎開先での生活は楽しいものであったという証言もあったが、大抵の体験者が、疎開先での体験を「ヒーサン(寒い)」「ヤーサン(ひもじい)」「シカラーサン(寂しい)」と証言している。大人になってからの幼少時代の紀憶は、印象に残ったことぐらいしか思い出せない。従って、この三つの言葉から、どのような生活をしていたのかが想像できる。戦時中の深刻な食糧不足と、慣れない土地での家族と離れ離れの生活は、まだ小さい子どもたちにとって辛かったであろう。

 子どもたちを苦しめたのは、自然環境と境遇だけではない。子どもの世界では当たり前のようにあるいじめである。沖縄から来たということは、それだけで充分いじめの理由になるようだ。体験談の中にもいじめについての話はあったが、私が注目したのは、文集に寄せられたお別れの言葉である。今の子どもには書くことはできないと思われるしつかりした文章と、ありきたりの寄せ書きが目を引いた。そこには軍国主義の中、日本のために、日本が与えた勉強をまじめにこなしていた成果が見られた。文章の書き方や丁寧語の使い方には頭が下がる。今の子どもの学力が低下していると書われている理由が頷ける。だが、しっかり書かれたありきたりのお別れの言葉の中には、人間らしい感情が見受けられなかった。

 ところで、以前私が読んだ、いじめを苦に自殺をした学生について書かれた本の中に、お別れの寄せ書きを見たことがある。生前の彼に渡された、彼が死んだものだと仮定したお別れの色紙。そこに寄せられるコメントは、ありきたりの言葉ばかりで、感情などなかった。この色紙と疎開学童への色紙が似ているように思えてならない。いじめる者に対しての差別が含まれているような文章のようにみえた。ここでしっかり断っておくが、前述はあくまで私が感じただけのことである。子どもの残した言葉を疑いたくはない。疎開先の児童が純粋に思ったことを色紙に書いて送ったと信じている。

 児童の生活の中で、差別という言葉は切りたくても切り離せない存在であった。同学年だけでなく、周囲の大人にも差別はされていたようだ。だが、戦後、疎開先でお世特になった方々への感謝の気持ちを述べた体験談が多い。また、疎開に行った世代の多くが、本土に対するコンプレックスと憧れの念を持っている。

 私は授業の最終発表の際、「なぜ、沖縄県民は日本人になりたかったのかJと述べた。差別は戦前・戦中だけでなく、戦後も続いた。普通に考えれば、過去の嫌な経験から、日本人になりたくないと考えるのが当然ではないだろうか。そこで、沖縄が日本人になりたかった理由を、私なりに考えてみた。

第一に、経済的な要因である。もし沖縄が独立国として成立した場合、沖縄だけで経済復興できたとは思えない。資源も働き口も少ないため、出稼ぎをしなければ生計を立てられなかったのではないだろうか。現在の経済復典は、アメリカと日本の手を借りて成し遂げたものである。つまり、この両者の手を借りなければ、立ち直れなかったとも捉えられる。

   第二に、本土に対する憧れが要因という考えである。当時の沖縄のトップは、本土から来た者であった。 第三に、日本人だという意識である。沖縄がアメリカにならなかった理由がここにあると思う。明治に沖縄県として発足して以来、県民は日本人だと信じてきた。敗戦後、アメリカの統治下におかれた後、復帰運動を起こしたのも、「我々は日本人だ」という意思からのものであろう。県民を日本人へと方向付けた手段の一つが教育だったのではないだろうか。疎開生活の中、耳にすることといえば「日本は勝つ」、やることなすこと全てが「お国のため」。このような環境の中で育った児童が、日本人として育っていくのは当然のことだ。沖縄の児童も例外ではない。耳にする情報を疑うことを許されず、ただ一方的に受け入れるしかなかった。「当時の教育は洗脳だ。」最終発表で耳にしたこの言葉に、私も同感だ。当時、教師が教えることを鵜呑みにした子どもが優秀だったのだから。

 しかし、洗脳教育は、戦前・戦中だけに行われていたことなのだろうか。敗戦から過去の失敗を学んだはずの現在の教育と数えている内容は異なるが、教育方法は変わったといえるであろうか。私が受けた平和教育について例に挙げると、怖い写真と怖い体験談を聞かせて、「戦争はいけない」と教えられた。そのため、小学生のときには「怖いから戦争をしてはいけない」と考えていた。このような教育を受けたのは私だ
けでなく、現在小学生の私の妹も同じように教えられたという。この教育方法は、洗脳となんら変わらないではないだろうか。また、現在問題となっている心のノートにも同じことが言える。「国を愛しましょう」と書かれていたが、この表記もまた洗脳と捉えていいだろう。

 現在のように、知織を教えただけの教育では洗脳になりかねない。では、教育が洗脳にならないようにするためにどうすればいいのだろうか。戦前・戦時中の環境と現在の環境の大きな違いは、「考える」ことができるかどうかである。かつては「考える」ことがいけないことであった。そのため、知識を得ても、発展させることができずにいた。戦時中にまじめに勉強をする子ほど戦争の犠牲になったといわれる所以は、当時の教育の中で育てられたため、考えることが疎かになってしまったためではないだろうか。だが、今は、考えることが許されているにもかかわらず、考える機会が与えられていない。学校では戦争をいけないことだと教えるだけで、なぜだめなのかを追求しない。戦争に関する事実を提示することが教員のすべきことであり、事実から結論を見つけ出すのは個人に任せるべきだと思う。

   児童の疎開生活を調べたことから始まり、たどり着いた意見だが、目を通せなかった資料はまだたくさんあるので、この意見を断定することはできない。だが、今まで全く知らなかったもう一つの沖縄戦を知ることで、以前に比べれば考えを深めることができたような気がする。ただ、短い時間の中での資料収集には限界があったため、もっと時間があればもっと深い考えができたのではないかと思うと残念でならない。また、全く同じことを書いている資料はなく、必ず例外があった。そのため、今までまとめてきた内容全てが覆される可能性もある。そうなった場合、再び改めて考え直すつもりだ。

 とにかく、現時点で言えることは、考えることの必要性である。考えることが許されている今、様々な知識を得て、経験に学び、自分なりの考えを持ち、その考えについて話し合うことが、平和にも繋がるだろうし、自分の成長にも繋がると思う。

12 北部地区における避難状況          地域行政学科3年 Y・K

 私がこの課題を設定した理由は、今まで沖縄戦の知識として南部における戦闘しかしらず、北部ではどうなっていたのかと疑問に思い、調べていくことにしました。調べる前の予想としては、南部に比べては比較的激しい戦闘もなく、被害は少なかったのではないかと考えていました。しかし調査していくうちにそうではなく、戦争は戦争、地域など関係なく悲惨な状況であることが浮き彫りになってきた。北部地区における避難状況を疎開受け入れの実態と、大宜味村の避難生活、宜野座米軍野戦病院の実態からみて少しでも理解していきたい。

   開戦前、北部地区は重要な避難地とされ、中南部からの多くの疎開先として受け入れた。県は疎開者の配給証明書をつくり、予定としては3月中旬までに約10万人の疎開を計画していたが、結局は戦闘開始までの約1ケ月で3万人しか疎開することができず、多くの疎開者たちは疎開の途中で被害にあった。疎開受け入れをした地域は、国頭村、大宜味村、東村をはじめ数ケ所ある(別紙@)。北部地区で唯一疎開を受け入れていないところが本部である。これは、本部地域が非常に複雑な地形であったことが日本軍にとって都合がよかったからである。日本司令部はこの地理的要因を軍事的にいかし、米軍の名護地域侵入を阻止しようと防衛戦力として宇土部隊をおいた。

 そのため北部地区では唯一本部が疎開地区としてはなかったのである。受け入れ側の町村は避難小屋を全村あげて作っていった。そこで問題になったのは食料のことであった。県からの供給は計画通りいかず、食料をめぐる醜い争い(畑あらしや盗みなど)が住民側と避難民側で多発していた。やがて米軍の上陸により北部地区は比較的大きな戦闘もなく米軍に制圧されていった。大宜味村では、上陸前の疎開受け入れは総数10,247名であったが、米軍の進行により制圧されていく中で人々は、山の中へと避難していった。その数ヶ月のおよぶ山の中での避難生活は、とても不衛生で小屋の中ではシラミが湧き、一部ではマラリアも伝染していた。この時期はちょうど雨季で、なかば水浸しの寝起きであった。近くの畑にはもう食べるのがなく、昼夜かまわずに米軍の警戒線をくぐり抜け食料の供給源である部落や海岸に行き食料をあさっていた。

 白昼部落に接近して米軍に射殺された者も少なくない。ソテツは毒性だが、川などで水に浸して毒をとりたべていた。そのほかにもツワブキ、ヘゴ、パパイヤの茎、カエル、イナゴ、ハブまでも食べていた。食べられるものはなんでも食べていた。栄養不良、不衛生で多くの病人がでた。また、米軍の捕虜になり大宜味村の渡野喜屋の収容所に入れられた住民の証言によると、真夜中、十数人の日本兵に起こされ浜辺に連れて行かれ、「お前らは捕虜になり日本人として恥ずかしくないのか」と激しく激怒されたあとで、虐殺されたという悲惨な証言もいくつか残っている。住民を守る味方であるはずの日本兵に虐殺、強制死させられた。その理由としては、米軍が上陸する前に日本兵と住民が親しく避難小屋を作ったり、民家でご飯を食べさせていたため捕虜になると軍の情報を敵に漏らす恐れがあったから、スパイの恐れがあったからであろう。沖縄の人々を、琉球人として非皇民、非日本人として差別があったことも事実である。

 次に宜野座米軍野戦病院の元患者と看護婦の証言を基にみていきたい。宜野座米軍野戦病院は現在の宜野座小学校の敷地全域とその周辺にあり、中南部からの激しい戦闘からの負傷者が運ばれてきた。戦闘が激しくなるにつれて、多くの負傷者が運ばれ、簡単な治療をも受けれずに死んでいく者もいた。比較的宜野座には重傷患者が運ばれてきており、中部では宜野座にいくと命が危ないとうわさまであった。そこにはテントが数個、A,B,Cと番号がつけてあり、ひとつのテントには30名から40名はどの患者が地べたにおかれた寝台に並べられていた。テント内は蒸し暑く患者の傷口からはうみが湧き、たくさんのうじやハエがたかっており、異臭が漂い、ひもじさと傷の痛みに苦しむ患者がうめき声をあげ夜も寝れる状態ではなかった。寝たまま排尿をする者もいた。猛暑と雨季でテント内はまるで地獄のようであった。食事は小さいおにぎりと少々の煮た大豆と水であった。遺体を埋葬するための穴掘りをした者には少し大きめのおにぎりがくばられていた。

 患者は、年寄りと女性が多く、臨月の人、流産する人、栄養失調、破傷風で苦しんでいるひとがいた。また、もし日本兵が運ばれてくると注射を打って殺していた。

 ある日、本土出身の日本兵が入院してきたが、彼は絶対日本兵ではない、民間人だと米兵に頼んで助けたことがあるとの証言もある。この野戦病院には沖縄人の看護婦をはじめ、軍医、衛生兵はすべてが米兵であり、通訳として二世が数人いた。野戦病院内には、レントゲン室、手術室、治療室があった。(別紙A)遺体の埋葬も近くに集団埋葬地に、一つのあなに3人ほど埋葬された。また、この米軍野戦病院内でも米兵による婦女強姦などの証言ものこっている。

   このように北部地区の戦争の様子を調べていると、調べる前は比較的中南部にくらべ被害はすくないように考えていたがそうではなく、激しい戦闘はないにしろ悲惨な避難生活や、収容所での生活がみえてきた。

 戦争というのは敵と見方が殺し合い、住民が被害に巻き込まれていく。国家と国家の身勝手な行為に住民が巻き添えをくわえられているものであるとしか知識がなかった。そうではなく、戦争は人間を人間ではなくするものなのだ。避難民は味方であるはずの日本兵に殺され、助け合うはずの住民同士は醜い争いをしている。武器をもって敵が向かってきたら、自分の身を守るために戦うであろう。武器をもたない住民を虐殺したり、強制死させたりすることは人間として間違っている。人間を心身ともに破壊していくのが戦争なのだ。中南部においても北部地区においても戦争の悲惨さは変わらないのである。

   現在、日本では戦争のできる国づくり、子どもづくりの動きが急速に高まっている。憲法改正や、教育基本法見直しといった政府内でのいわゆる逆コースの動きである。人間の良いところであり悪いところは、忘れることができることである。いやなことがあっても忘れて次に進むことができる。しかし、忘れてはいけないことはある。悲惨な同じ歴史を繰り返してはならない。沖縄戦からの教訓は皇民化教育の間違い、捨て石作戦であったこと、人間破壊の戦争、非戦闘員である住民の被害の多さである。

   このことをしっかりと大人が理解し、子どもたちに真実だけを伝えていくべきなのだ。戦争経験のない世代の私たちがこれから子どもたちに戦争とはなにか、平和とはなにかを伝えていかなければならない。そのために私たちはもっと戦争についての理解を深めていかなければならないのではないだろうか。

(添付資料)
1、北部地区における避難民受け入れの実態
北部地区=重要な避難地
疎開の実施計画=3月下旬までに、10万人を予定…結局は3万人しかできなかった。
主な疎開避難民受け入れ町村…別紙@
* 避難民と住民との関係は食料情事の悪化とともに、食料の奪い合いなど陰惨な事件が発生した。
2、難民収容所
 中南部で戦闘が続いているなかで米軍は保護下に入った住民を北部の東海岸地域に移した。
* 大宜味村喜如嘉=約1万人
* 羽地村田井等の収容所=約5万7000人
* 中川、漢那(現在の金武町中川と宜野座村漢那、城原)=約3万人
* 宜野座(現在の宜野座村宜野座惣慶、福山)=約4万人
→米軍の野戦病院が置かれる。共同墓地死者名符によると603人の死者が確認。現在も遺骨収集作業中。
* 古知屋(現在の宜野座村松田)=約3万5000人
* 大浦崎(現在のキャンプ、シュワープ一帯から旧久志村久志、辺野古)=約3万人
* 瀬嵩(旧久志村の二見、大川、大浦、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽)=3万人
 読谷村史、「戦時記録」第一章 本平洋戦争より
3、宜野座米軍野戦病院‥・別紙A
 元患者と看護婦の証言から。
別紙@主な避難民受け入れ町村
* 国頭村(那覇市、真和志村、浦添村、読谷山村)
* 大宜味村(那覇市、真和志村)
* 東村(読谷山村、具志川村)
* 羽地村(美里村、越来村、北谷村)
* 名護町(小緑村、その他)
* 今帰仁村(宜野湾村、伊江村)
* 久志村(中城村、西原村、佐敷村)
* 金武村(大里村、南風原村、東風平村、玉城村、他)
別紙A宜野座米軍野戦病院施設配置図(省略)

13 知念村周辺の収容所生活          法律学科3年 S・M

 私は、これまでさまざまな場面で沖縄戦というものを学んできたのだが、今回のように自ら課題を設定し、それについて独自で証言を取り文献を調べ、そして自らの課題においての問題や疑問を解決へと導き出すという取り組は、初めての試みだった。だからこそ私は、この沖縄戦についての課題を設定することが出来なかったのである。

 最初、私の課題は「地元である知念村での戦争体験とはどのようなものだったのか」というものだったが、身近な人の証言からは戦争に巻きこまれ、どのように避難生活を送っていたのかという戦争体験を聞くことは出来なかった。しかし、『収容所での生活』についての体験は証言が多くあり、また文献にも多く書かれていたためたくさんの情報を得ることが出来たのだ。

 しかしなぜ、知念村では収容所での生活についてだけの情報しか得ることが出来なかったのかというと、私の地元である、知念村は当時広大な収容所が造られていた。南部であるのにもかかわらず、激戦地にみられるような、悲惨な戦闘状態は幸い長くは続かず、米軍が入ってきたと同時に、米軍によって収容所が造られたために、地元の人々は戦争を体験することなく捕虜になった人々が多く存在していたとことが考えられたからだ。

 このことから、私は今回の課題のテーマを、地元である知念村の収容所での生活がどのようなものだったのかを調べ、またこの課題から当時の人々がどのような状態だったのかを知ることにより、戦争の実態を捕虜という立場から、考えることが出来るのではないのかと思い、このような課題を設定したのだ。

 まず、収容所での生活がどのようなものだったのかを調べていくのだが、その大まかな下位課題として、@収容所にきた経緯と、A収容所に集まった人々についても調べてみようと思う、そしてB生活・環境はどうだったのかという、柱を立てて私の課題を解決し、まとめていこうと思う。この下位課題の解決方法としては出来るだけ多くの証言を見ていき、そこから収容所での生活の実態を見ていきたいと思う。

 最初の、下位課題である@収容所にきた経緯についてだが、私は予想として、知念村には戦闘がほとんどなかったということから、避難していた住民自らが、進んで捕虜になり、安心した生活を早く取り戻せたのではと考えていた。しかし、証言を見てみると、千差万別であり、私の立てた予想通りに自ら進んで捕虜になった人もいたのだが、ほとんどが、米軍を恐れ捕虜になることをためらっている人もいたのである。また、食料に釣られて入ってきたという人もいた。この収容所での多かったパターンは、捕虜になった知り合いに会ったことで、収容所での生活の情報を得ることにより、収容所に入ることを決めたという証言が多かったように思われた。

 米軍による収容所への人の集め方としては、収容所がどこにあるのかということを書いたビラを撒いていたり、壕を一つずつ回って『デテコーイ』と呼びかけて、避難している人たちを説得している場合もあった。同じ収容所で捕虜になるにしても、人によってさまざまな経験がありこのことからでも、沖縄戦では本当にいろいろな状況があったということを、実感させられた。

 次に、A知念村の収容所に集められた人々についても、証言から見ることが出来た。南部にあるこの収容所は、中部からの避難民が多かったこともあり、住民の捕虜は多いのではないのかと予想することが出来る。やはり、調べていく中で、中部や那覇といった所から、避難してきた人たちが多くいたことが分かってきた。また、地元の住民はもちろんのこと、摩文仁といった激戦地まで避難していった人たちも、米軍に連れられて、この収容所に入ってきた人というたちがいたのだ。これは、証言によって知ることが出来たのだが、このことから、知念村の収容所では人口が多くなり、次々と拡大していったのだと考えることが出来る。そして私は、南部に人を確保することが出来なくなり、北部に移動することになったのだと考えていた。

 B知念村の住民は、地元の収容所の他に、北部へ移動し大浦湾近くの収容所で、生活していたことがある。そのため、生活・環境については両方の違いをおって調べてみた。
 知念村の収容所では、ようやく自分の部落に帰ることが出来たことにより、焼けた自分の屋敷跡に仮小屋をつくったり、また焼け残った家に数世帯が入って、どうにか人間らしい生活をもどりつつあった。食糧は芋ほり班をつくってあちらこちらに行かされたらしいのだが、戦闘がもうおさまっている場所であり、元から知っている場所であることから、そんなに苦難を感じるような証言は見ることがなかった。

 それに対して、北部での生活は、人々を山あいの小さな集落に押し込めて、焼け残った民家に何世帯もいっしょに入れられ、山の木を伐りだして仮小屋をつくり、またテント張りの土間に草の葉を敷いて寝起きをしていた。食糧事情は厳しく野菜はなく、食糧の配給は、主食の米が足らず、トウモロコシ、豆等も配給された。副食には、イワシ缶や、牛肉、その他の缶詰も配給されたが、配給される量が少なく、配給物資だけでは、とても足りなかった。そのうえ、不衛生と食糧不足が原因で、収容所ではマラリアが発生していた。多くの老人や子供たちが栄養失調とマラリアで山原の収容所で亡くなった。

このことから、知念と山原の収容所では、生活や環境に対して違いがあることが分かってきた。

 以上のことから、米軍に対する対応は本当に適切なものだったのかと考えるようになったのだ。この避難住民の北部移動は米軍の都合で行われていた。南部を本土決戦の前進基地にしようと考えていた米軍にとっては、知念の収容所にいた住民たちが邪魔であり、北部へ移動になったことが、調べていく中で、分かってきたのだ。ちなみに、北部への移動は、7月10日から始まり、8月15日の日本軍降服によって中止となった。しかし、実態は18日まで行われ、10月になるまで帰ることが出来なかった。

 また、証言の中からブルトーザーで家々を壊し、大きな道(現国道331)を造ったり捕虜を使いテントづくりをさせる行為は、住民を収容所におさめる上で、必要なものだったと思うのだが、住民のことを考えているようには思えないのである。

 本土決戦をひかえていたこともあるのかもしれないが、沖縄に住んでいる人々の人権を考えていないのではないのかと思うのである。北部への移動は避難生活に追われ、やっと安心できる生活に向かうことができた人々にとっては、二重の苦難をあじあわせたのではないのかと思うのである。

 確かにこれまで学んできた日本軍の対応よりは、米軍の対応は、はるかに最善をつくしているようには思う。しかし、世界で定められている「国際法において、捕虜は人道的に処遇すべきことを前提として、一定のルールが存在していた。」国際法から考えでも、当時米軍が沖縄の住民にしていた収容所での対応は人間として人道的に扱っていたとは思えないのである。

 今回地元の収容所について調べた結果、私にはまた大きな課題が残ってしまった。米軍が国際法において、捕虜の対応が不十分であったのか、今回の取り組みからは結論として出すことが出来なかったのだが、沖縄戦の実態を捕虜という立場から、考えるという、目標は達成することが出来たと感じることができた。

 そしてこれまでとは違い、自ら設定した課題に取り込むことで、また新たな沖縄戦に出合うことが出来たと思う。自分の観点で平和教育をすることにより、これまで感じたことのないものを感じ学ぶことが出来たことにより、平和教育が大切であることを実感したのである。

14 本島北部における住民の避難状況                  日本文化学科3年  I・S

 「沖縄戦」というと、真っ先に頭に浮かんでくるのは、本土決戦を遅らせるための時間稼ぎで、住民を巻き込んだ地上戦が展開されていったということである。住民は南部へ南部へと追いつめられていく。私の中では沖縄戦=南部の激戦となっていた。

 今回、講義で自分の課題を決めるとき、ふと、自分の出身地ではどのような沖縄戦があったのか気になった。そこで、北部の沖縄戦を課題に調べていくことにした。私は自分の地元である北部の沖縄戦については、全くと言っていい程知らなかったのである。そのことに驚き、自分が地元について、沖縄戦についてまだまだ知らないことを痛感した。「戦争は二度と起こしてはいけません。平和な世界にしましょう」といくら言っても、戦争の実態を知らなければ、その言葉は伝わらないはずである。沖縄戦について深く追究していくことを決意した。また、実際に教師になって総合的な学習で生徒の援助をする時のことを考えた。生徒は自分の住んでいる所の方が、身近に感じ、興味を持つと思う。そこで、教師として適切な援助ができるように、まずは自分自身で調べてみたいと感じたため、北部を選択した。

 私はこれまで、沖縄戦の時北部はすぐに米軍の占領下となり、住民は収容所で生活していたと思っていた。果たして実際はどうだったのか市町村史や証言をもとに調べていった。まず最初に、北部の市町村史に目を通した。すると、いくつか共通していることがあった。
(1)島内疎開の避難地として、多くの避難民を受け入れたこと。
(2)本部半島に国頭支隊として、宇土部隊がおかれていたこと。が共通して述べられていることが分かった。そこで、地元住民と避難民、宇土部隊の避難状況・関係に焦点を絞り探っていくことにした。

 地元住民は戦時中、主に壕と家を往復していた。昼は壕に潜み、米軍がいなくなると村へ下り、家から食糧を取ってきたり、畑から食糧を探したりした。しかし、米軍が頻繁にあらわれるようになると、山の中での避難生活が続く。また、子ども(特に乳呑児)を連れている家族はひどく嫌がられ、みんなとは離れて隠れていたという。食べ物に関しては、芋が十分あったという人、草などを摘んで食べたという人、何も口にしなかったという人というように様々であるが、次第に食糧がなくなってきたのは事実である。その他にも、日本兵による食糧強奪・スパイ視虐殺、米軍による婦女子の強姦事件が住民を脅かした。

 つづいて、避難民受け入れについてだが、本島北部は10・10空襲後から、中南部の避難民が徐々に増えてきた。第32軍は疎開実施計画を県と協議し、1945年3月下旬までに中南部の住民約10万人を北部疎開させる予定であった。しかし、3月下旬の沖縄戦開始まで疎開できたのは約3万人であった。食糧の問題などもあり、自分の住みなれた土地から離れるのには不安もあったのだろう。北部への疎開は思うように進展しなかった。

 避難民受け入れの問題点として、
  @避難民の移動 A受け入れの体勢(住居) B食糧問題がある。

 @避難民の移動についてだが、司令部が示した疎開要領では、「各部隊が車輌、舟艇をもって援助する」となっていたが、実際は軍の援助はほとんどなかったと言ってよいだろう。小禄は軍の援助があり早く退避作業を進めることができたようであるが、軍が協力してくれたのはほんの一部であった。多くの村では住民は徒歩で移動した。歩けない年寄りや子どもはお金を払って馬車を頼み乗せることもあった。

 しかし、米軍の空襲が激しくなると馬車を頼む値段は上がり、しまいには危険なためなくなった。避難民はやはり徒歩で移動しなければならなかった。村によっては50km以上もある道のりを、避難民たちは歩いては道端で休み、歩いては休みの繰り返しで移動した。敵の戦闘機が頭上を通過していく中、子どもの手を引き歩く母親の姿もあったという。慣れ親しんだ土地を離れ、これからの不安を感じながら、それでも敵に捕まらないように捕まらないように必死に歩いたのだろう。

 A受け入れ体勢については、県から避難民の割り当てが決められると、地元住民は自宅の一部をさいて疎開者に提供したり、避難小屋を建設した。前もって作った避難小屋も、米軍が上陸し、山奥の壕などに隠れ始めると使用されなくなった。山奥に移動する際、地元住民と避難民が一緒に行動していたという証言は少なく、避難民は慣れない北部の山中で、生活に苦しんだ。避難民の中には中南部に戻ろうとした者もいたが、すでに北部と中南部は米軍によって遮断されていた。戻ろうにも戻れず、北部での避難生活を余儀なくされた。

 B食糧問題は避難民受け入れの際の最大の課題であった。食糧問題での地元住民・避難民・宇土部隊の関係を考えていきたい。

   地元住民の証言(比嘉松吉/久志(現名護市)/当時53歳/引用『語りつぐ戦争』)
   「一番苦労したのは、那覇の方から避難してきた人達じやないですかね。栄養失調で死んだ人もいっぱいいるし、木の皮をはいで食べていたようですから。私達も食料を分けてあげました。」

 その他にも割り当て以外の避難民にも配給米を分けたという証言などがあった。

   避難民の証言(国場信子/北谷村/当時22歳/引用『沖縄県史 第9巻』)
   「(地元の人は)イモを売ってくれないんですよね。(略)空家の小屋にイモが沢山積まれてあるのを見つけて、どうせ売らないから取っていこうじやないかと決めて、みんなで南京袋にイモを詰めていたんです。もし主が来たら、お金を払おうね、と話しながら、(略−区長らしい人が回ってきて、山のほうの部落の人たちが集まっているところに連れて行かれ)みんなガヤガヤ私たちを罵って、泥棒あつかいして、私たちは軽蔑されたんです。みんなから顔をじろじろ見られてから追い返されたんですけど・・・」

 その他に、友軍の米を盗んで食べた、部落の人といさかいを起こし、そこを追い出されたら、行く所もなく困ってしまうから遠くの部落に行って芋を盗んだという証言があった。

   日本軍(宇土部隊)に関する証言(石嘉波源竹/本部/当時53歳/引用『沖縄県史第10巻』)
   「私は、区長として山の中に潜んでいた日本軍に利用された。それは、食糧調達係ともいうべきもので、村人たちが砲火の下をくぐって担いで来た食糧を、軍命によってかき集める役割であった。たしか曹長だったと覚えているが、夜中にこっそり現れては、『極秘だぞ』などといって供出を命ずるのであった。」

 その他に、友軍に米を取られた、友軍から斬込みをするから食事を用意しておけと言われた避難民の証言などがあった。「日本軍(宇土部隊)は本部半島において、終始積極的な迎撃には出ず、名護−羽地間の遮断線を突被して、国頭の山中に敗走していったのである。その敗走中に住民から食糧強奪などをしている。」

 食糧を分ける地元住民、芋を売ってくれない地元住民、日本軍の米を盗む避難民、畑から芋を盗む避難民、食べる物がなく栄養失調で死んでしまった避難民、住民の食べ物を強奪する日本兵…。北部における地元住民・避難民・宇土部隊の関係は複雑である。取ったり、取られたり、助け合ったり、喧嘩したり。本島北部の沖縄戦で、住民は米軍にも日本軍にも脅えながら、飢餓とも闘わなければならなかった。そこには、北部での沖縄戦の苦しみがあった。しかし、私の今回の報告ではまだまだ不十分である。宇土部隊には、地元の人が防衛隊として召集されたり、三中や三高女の生徒が戦場へかりだされている。これらの関係も今後追究していきたい。

 今回、自分の課題を調べるため、多くの証言にあたった。沖縄戦と一言でいうが、一人一人の沖縄戦が存在するということを強く感じた。しかし、共通して言えるのは、大切なものを失った(破壊した)ということである。それは、自らの命だったり、家族だったり、友人だったり、家だったり…。人間関係をも破壊した。戦争が作り出すものが、憎しみではなく、二度と戦争をおこさないという気持ちであることを願って、今回の報告とする。

15 戦時中の糸満住民の疎開          経済学科3年 T・M

 今回の教職総合演習での課題を、私は「戦時中、糸満市民の疎開による避難生活はどのようなものであったか」にした。その理由は、私は糸満市民で、しかも父が戦時中に疎開したことがあるので、戦時中の糸満市民の疎開状況を知りたくて、この課題を設定した。

   その中でも、下位課題1を「疎開の決定理由と糸満市民の疎開状況」、下位課題2を「疎開先での生活はどのようなものであったか」、下位課題3を「疎開生活はその後、体験者にどのような影響を与えたか」に設定した。学童疎開を中心に、特に下位課題2をメインとして追求した。課題の解決方法としては、「糸満市誌」と、疎開者の証言を使った。

 まず下位課題1の「疎開の決定理由と糸満市民の疎開状況」では、疎開がどういった経緯で決まったのか、糸満市からどれくらいが疎開して、どこへ疎開したのかを調べた。疎開決定の理由としては、アメリカ軍が日本の絶対防衛圏である、サイパン島に上陸したことで、次は沖縄に上陸されるという展開を懸念しての疎開決定ということが、どの資料または著書にもあった。しかし、閣議決定された疎開実施の目的は、沖縄戦で地上戦が始まったとき、老幼婦女子のように生産力や軍の作戦遂行に役に立たないものは邪魔になるからということなので、疎開決定の理由は、沖縄の市民を心配してというよりは、日本軍がアメリカ軍と闘い易くするための疎開という傾向が強いと思われる。

 次に糸満市域の疎開状況はどのようなものかというと、県外に疎開したのは沖縄県全体で、本土に約六万人、台湾に約二万人とされており、糸満市域で一般疎開としては、1,731人で糸満市民の7.5%の人が県外に一般疎開している。その中でも、糸満町の比率が10.7%と最も高い比率となっている。私の予想はもっと疎開した人は多いと考えていた。全体を見ても実際に、目標の10万人に達していない。

 このことには、当時の人々は、「どうせ死ぬなら地元で」「見知らぬ地に行くのは危険」などの考えや、対馬丸の沈没事故が、人々を疎開させるまでの妨げになっていたと考えられる。疎開の受け入れ地としては、宮崎県・熊本県・大分県があり、宮崎・熊本県に集中している。

   一方の学童疎開は沖縄県全体で、宮崎県に2,643人、熊本県に2,602人、大分県に341人、世話人や引率の先生などの関係者も合わせると、6,565人疎開している。糸満市域では、各部落の国民学校単位で疎開している。

 次に、下位課題2の「疎開先での生活はどのようなものであったか」を、一般疎開と学童疎開を比べながら考察していく。一般疎開の疎開先での生活と、学童疎開の生活では、両方とも食料の心配があったというが、学童疎開より、一般疎開はそれほど食料に苦しまなかったという。それは、学童疎開が主に学校や旅館を宿舎としていて、畑があまりない場所で生活していたのと比べて、一般疎開は主に公民館やお寺、民家が宿舎として割り当てられていたため、農村での生活が多く、農作業を手伝ったりして食料を得ていたためである。熊本県の日奈久町では沖縄から15校も旅館が宿舎となっており、糸満市域の学校では摩文仁の児童と真壁と兼城の生徒が日奈久で生活していた。

 日奈久町での学童疎開生活では、苦しいときの人間の嫌な面が人々との関わり合いの中で見えてきた。まず、日奈久の学童から沖縄の学童、糸満市の学童に対するいじめが証言
でも記述されていた。学校帰りを待ち伏せしていじめられたとか、当時、沖縄の子供にシラミが大発生していたため、「シラミ人」と呼ばれ、いじめられ喧嘩したという証言もある。このような、いじめられたという証言は、一人二人のものだけではなかったため、いじめは確かであったと考えられる。

 ではなぜ、いじめが起きたのかと自分なりに考えてみた。私の考えでは、日奈久の人々の沖縄に対する偏見からくるものだと思う。戦時中で生活が苦しい中、多くの部外者が疎開という形で流れ込んで来たら、誰でも快く思わないだろう。しかも、子供たちは、学校が沖縄の子と地元の子に別れていた二部授業だったため、交流がなく、あまりよい関係ではなかったという証言もある。また、日奈久が温泉街であるため、畑も少なく、盗みに入る児童もいたために、地元の人との関係はよくなかった。

 学童疎開者の証言に、ひもじいことが一番辛かったとあり、人間の欲求が満たされないとき、いつどこで人間の悪が出てきてもおかしくないと思った。それに比べて、一般疎開して農村で生活した人は、「親切にしてもらった」などの証言が多く一番恐れていたのは病気であった。また宮崎県の都農町と糸満市は疎開でお世話になったと、今でも交流を続けている。

   こういったことから、学童疎開と一般疎開では、地元の人々との関わり合いの違いに、受け入れ先の環境が要因となって大きな差がでている。そのことが学童疎開にも二見村に二次疎開したときは、二見が農村であったため、食料事情も改善され、また学校も、地元の子供と同じ授業であったため、地元の子と仲良くなる子が出てくるなどに表れている。一般疎開も学童疎開も、沖縄から離れることで身の安全は守られるが、やはり学童などは親・家族と離れて暮らす事に寂しさという辛さを感じていた。疎開先での生活は、そういった寂しさとの戦いでもあり、ひもじさの戦いでもあったので、疎開者は、戦争とは違う別の戦いを見知らぬ地で繰り広げていたと思われる。

 以上が下位課題2の考察で、次は下位裸題3の「疎開生活はその後、体験者にどのような影響を与えたか」を見ていく。この裸題を解決するには、疎開体験者の証言を読むことが必要とされる。「戦時資料」−関連座談会−の証言を元に考察してみると、疎開の感想に、「あの苦しさは二度と味わいたくない」「子供たちには経験させたくない」「疎開での体験が今の人生を形成しているものの一つ」など、疎開という体験を、マイナスに考える人と、プラスに考える人で別れている。しかし、証言者の証言に共通して感じとれることは、戦争は二度と起こしてほしくないという願いである。疎開先での辛い生活を経験したことで、戦後、多くのものを失った沖縄で生きていくための生活力、あるいは、私たちは戦争から生きて帰って来ることが出来たから、亡くなった家族の分まで生きないといけない!という生きる力を、疎開の体験を通じて持てたのではないかと思う。

 私は今回の課題である、「戦時中、糸満市民の疎開による避難生活はどのようなものであったか」を通して、疎開についていろいろなことを学んだ。この課題を一言で表すと「苦」であると思う。ひもじい、寂しい、寒い、苦しい、など多くの「苦」が糸満市民の疎開生活の中に含まれている。しかし、そんな苦しい中でも、受け入れ先の人たちの暖かい心と触れ合って、「楽」に変わる瞬間もあった。そんな中で人々は本当の優しさを知り、戦後の沖縄を支えていく強い力を身につけた「糸満市民の疎開による避難生活」は、今の沖縄を創る上で欠かすことのできない貴重な体験だったと、私は考える。

16 沖縄戦で住民が奪われたもの          経済学科3年 T・Y

 私が生まれたこの島。沖縄は「戦争」という人間同士の争いに巻き込まれた。それは残酷なもので、戦闘員よりも一般住民のほうの死者が多いのと地上戦だったことが特徴である。その戦争で沖縄は「平和」という大事なもの半永久的に奪われた。つまり沖縄に平和はもう戻ってこないことである。しかしながら、平和とはいったい何だろうか。沖縄戦でどのような平和が奪われたのだろうか。私はそう疑問が残った。

 沖縄地上戦前。このときからすでに沖縄の平和は奪われているのである。沖縄諸島の16ケ所に日本軍の飛行場設置のために住民の土地が強制的に奪われ、設置のために作業員として、2000人〜3000人の老若男女が動員された。そのことで住民は自分の土地を奪われ、自分の土地を自分で飛行場設置のために労働させられたのである。さらに、国民学校生徒までが動員され、授業ができなくなる状況まで各地で起こったというのである。それだけなく、沖縄に続々と日本軍部隊が派遣され、兵舎(兵士の宿泊所)のない日本軍部隊は各学校を使用したのである。

 ここでも、学校を奪われ授業ができなくなり、公民館や民家・仮小屋・木の下といった場所で行われた。決戦態勢の状況下では、住民が母屋を兵隊に奪われても当然のことのように思われ、兵舎として使用されていた。また、食料確保のために、米や野菜・サツマイモなども強制的に提供として奪われた。このほかにも、沖縄の島は戦場になるかもしれないと非戦闘員の疎開を始めた。しかし、昭和19年8月22日。1788人を乗せた対馬丸が悪石島近海で米軍の潜水艦によって水没した。学童約700人を含む約1500人のたくさんの命が奪われ海の藻屑となった。

   そして、10月10日。米軍の艦載機(軍艦を載せた飛行機)が延べ1000機あまりで沖縄を襲った。(十・十空襲)とくに県都那覇市は、たった1日で約90%が焼失してしまう無残な結果となった。されながらそのとき許せないことが、日本軍の将軍らは前の晩の宴会で酔いつぶれ、気づくのが遅れため空襲警報を出すのもやっとだったことであるという。空襲警報が遅れたということは住民の避難もおくれ、十・十空襲の死亡者は、沖縄全体の330人中那覇市は255人の命を奪われたのである。全焼家屋もほぼ那覇市が焼失している。

 このことから、那覇市住民は日本軍の空蕪警報の遅れで無謀にも多くの命と町・文化財産を奪われたのである。沖縄戦は地上戦に入る前から日本軍に土地や民家の一部を戦争という目的で奪われ、住民は日本軍に協力するようさせられたことになる。これが平和を奪われた前触れなのだろう。

 沖縄地上戦。昭和20年3月。米軍は慶良間列島に猛烈な空襲と艦砲射撃をあびせ、慶良間に上陸した。そして慶良間に補給基地を確保した米軍は、4月1日、沖縄本島に無血上陸をした。補給基地にされた慶良間では「集団自決」が相次いだ。当時16歳だった学生がこう証言している。「最後まで戦う覚悟のはずの日本軍の陣地からは一発の応射もない。私は爆風に冒され・・・やがて意識がはっきりしてくると、私の眼前で区長が木を折って妻や子供をなぐり殺している場面が目に入った…。その状況を見ていた周りの人たちも以心伝心で、次々と家族同士、木や鎌を使って殺し合いを始めた。(中略)私も兄と一緒になって夢中で母と妹をなぐり殺した。以下省略。」

 ちなみに沖縄戦での日本兵による住民殺害はいろんなところで起こっているが、住民自身による「集団自決」はまとまった地域で起こっている。このことは、米軍がせめてきているにも関わらず、日本軍がしっかり応戦しなかった。だから、「集団自決」で住民は「死」を選ばざるをえない状況にあったのだろう。つまり言いたいのは、「集団自決」したのは住民自らだが、「集団自決」まで追い込んだのは日本軍のせいだろうと私は思う。その背景には「捕虜になるまえに自決(自殺)することを徹底的に教えられた。」「刃向かうものには日本軍に殺される。」徹底的な教育からも命を奪われたのである。

 地上戦が本格化してくると住民の巻き沿いはひどくなっていった。米軍は砲弾や火炎放射器・ガスなどを使い、沖縄を侵略してきた。戦闘機が超低空飛行で避難民の群をめがけ銃を発砲したり、戦闘機が去ったとたんに艦砲が打ち込まれた。戦闘の犠牲者になってたくさんの命が奪われたのである。また、捕虜になっても食糧不足で、栄養失調で命をおとす住民も数知れない。米軍のそれに対し日本軍は米軍よりひどいものがある。

 証言によれば「2人の日本兵が壕内に入ってきて『出て行け、出て行かない手榴弾を投げて殺すぞ!』」と脅して壕を奪った。「『タバコをくれ。何か食べ物を出さなかったら手榴弾をなげつけるぞ』、と壕入り口で鉄かぶとをかぶった日本兵が声をかけてくるのです。母は、『うちにはなにもないですよ』とこたえるのです。(中略)この日本兵が、手榴弾を投げ込むのを見ました。多分、そのとき同じ日本兵か住民が殺されているはずです」などといったことから、住民は味方だった、住民を守るために来たはず日本兵に壕を奪われる。食料を奪われる。家族や兄弟・友達というかけがえのない命を奪われたのである。

 また、激戦地から奇跡的に生還しても「なぜ、生きている。おまえはスパイだろ。」と言われた。方言を使うと「何をしゃべっているか。スパイだ」と日本兵に殺された。米兵よりも日本兵のほう恐かった。同じ「命」という形が奪われたが、日本兵による住民殺害や強奪など、虐殺があったことが許せない。

 「米兵に抱えられて轟の壕をでたとき、片言の日本語で問い掛けてきた。
米兵:『下ニ日本ノ兵隊イマスカ』
住民:『たくさんいる。たくさんいる。』
米兵:『日本ノ兵隊生カシマスカ 殺シマスカ』
住民たち:いっせいに『ころせ!ころせ!』」

   この証言から住民は日本軍にうらみや憎しみ・怒りが感じられる。壕内で(日本兵に)住民はどれほどいじめられ、どんな思いをしたか。少しわかるような思いがする。日本人でも、味方だけど敵としか見えないことなのだろう。しかし、住民から「ころせ!ころせ!」という言葉が出てきたことに、私は本来あるべきの沖縄の人間像が奪われたのだろうと思う。

 沖縄戦では、10万人以上の住民が「戦争」という争いに「命」を奪われた。その背景には、米軍による殺害。日本軍の虐殺や異国人扱いの差別があった。なによりも日本軍の沖縄に対する価値観がどれだけ低いことか、感じられるのは私だけだろうか。戦争も許せないが友軍のはずの日本兵に裏切られ、住民の命を奪ったことに、衝撃的で怒りを生む。

 美しい海も一瞬で赤い海と化す。町も山も跡形もなく焼失した。戦争というのは住民の命も美しい自然も人ひとりひとりのすべてにおける「平和」を奪ってしまうのである。戦後から約60年も経つが、戦争があったといえないほど沖縄は栄えている。住民にも笑顔が見える。でも、それは一沖縄住民として本当の笑顔ではない。今生きている私にも。戦争があった事実に笑顔を奪われ、実物、軍基地に土地を奪われている。同じ命を持つもの。奪ったり、奪われたり。

 この講義の「平和学習」を通して、奪われたものは沖縄住民にとって、残されたものだと思う。だから、奪われた平和を追求すれば、私達に残された平和が見えてくると思った。
最後に私は教員と言う職業を目指している。その教育の中で平和学習は、命の重さと沖縄であった戦争について多くのこどもたちに語りつけたい。そして、いつか沖縄はじめ世界に平和が戻ってくることを祈りたいを思う。

17 沖縄戦における女子学徒隊の比較検討         日本文化学科3年A・R

 私は今まで「沖縄戦」について、小学校・中学校・高校で色々勉強してきた。その勉強の方法は多種多様ですが、それなりに私自身も真剣に取り組み考えてきたつもりだった。しかし、この講義の最初に先生が、「沖縄戦の始まりはいつ?終わりはいつ?」などという問いかけをしていましたが、私は全く検討もつかず、自分の知識のなさを実感した。私の「沖縄戦」に対する考え方・姿勢に反省させられた。今までの私は「勉強したつもり・考えたつもり」だったのだと痛感した。

   「沖縄戦(戦争)」という事実・出来事をただ外側から見ているだけで、その中に隠されている多くの事実には触れず、目をそむけた事しかしてこなかったである。先生の「一人一人が“平和”を考え、心にとめておかないといけない」という言葉に、すごく重みを感じました。私はもっと多くの事を学んで考えていきたいと思った。

 講義を受けている中で、多くの事を学び、感じる事があった。それと同時に多くの疑問も生まれてきた。特に私が疑問に思ったことは、女子学徒隊の存在である。沖縄戦の特徴とも言える一般住民の犠牲者の多さである。その中で私よりも若い年齢の彼女らが、どうして戦場で働かなくてはいけなくなったのか、その理由はどういうものなのかという疑問から、女子学徒隊について調べる事にした。

 女子学徒隊と言っても私はこの講義を受けるまで“ひめゆり学徒隊”しか知らなかった。しかもその知識は乏しく、活動内容など詳しい事はほんの少ししか分からなかった。なので最初はどのような学徒隊があるのかという事から調べていった。
 沖縄戦(沖縄本島)で活動していた女子学徒隊は六つありました。今回私が取り上げるのは〈ひめゆり・白梅・積徳・瑞泉・梯梧学徒隊〉の五つにする。また証言を読みながら追求していく。そして下位課題として

  @学徒隊の動員される前の状況
 A沖縄戦の状況と動員日
 B解散命令日の比較と犠牲者数
 C解散命令前と後の犠牲者数の比較とその後

と課題を設定して追求していく。

 まず、なぜ女学生が戦争に動員されたのかという所から調べていくと、学徒隊が動員されるにあたって多くの法令が関わっているのが分かった。昭和16年には「国民学校令」、昭和18年には「学徒戦時動員体制の確立要綱」「師範教育令」が制定され、看護訓練が強化され、必要に際しては戦時救護に従事せしむる方針がなされていた。昭和19年になると「緊急学徒勤労動員方策要綱」や「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」「学徒勤労令」が制定され、学園は兵営とされ、生徒たちは「軍事陣地構築への積極的協力奉仕」が強いられた。この様に多くの法律が制定されていくと同時に、日本は戦争一色・天皇一
色に染まって行く。

 証言@「入隊が決まり、父に許可を取るために話をしたら、父は「敵が上陸すれば日本は負ける。それに戦争になれば看護どころか女子は足手まといになるだけだ」といい反対したが、私はその言葉を押しきって入隊を決めた。お国のためにという気持ちのほうが大きかった。」

 このようにその中で教育を受けた学徒達は、自分達が戦争に参加するということの本当の意味も分からず、それが当たり前でありとても名誉なことだと思い何の疑問も持たなかったと言う。

 従軍看護婦としての学徒隊への入隊が決まる前と決まった後、どの学徒隊も活動内容はほとんど同じである。また、配属された日にちはそれぞれの学徒隊で違いは見られるものの、ほぼ同じ時期に配属されている。これは沖縄戦の流れとも大きな関連があるのが分かる。

 昭和19年頃から学徒達は飛行場建設や陣地構築に従事するようになる。この頃から勉学よりもこうした作業に時間が費やされていったという。そして昭和19年の十・十空襲をきっかけに特訓看護教育を受けたりと本格的な仕事になっていく。昭和20年3月23日米軍が沖縄攻撃をしたのをきっかけに、それぞれの学校に軍からの要請があり従軍看護婦としてそれぞれ各軍隊病院に配属される。その時の彼女たちの気持ちはさまざまであるものの、やはり期待の気持ちやお国のために頑張ろうというものが多く見られた。

 沖縄戦の進行と共に、彼女たちも戦争へと進んでいく。配属になった病院では、負傷兵の看護の他にも、飯上げ、水汲み、汚物の処理、洗濯、遺体の処理、そして手術の助手としてあらゆる仕事を任されていた。始めの頃は患者も少なかったが、日に日に負傷兵の数は増え、何日も寝ずに活動することも多かったという。

 戦況はますます悪くなるのだが、彼女達は日本軍の勝利を信じながら、懸命に活動を続けている。しかし5月中旬頃米軍に首里を占領されたため、南部撤退を命じられる。その後も活動は変わらず続いていく。それに戦争が激しくなるのと比例して、患者の人数も増えていくが、物資は足りなくなりまともな看護もできなくなっていった。

 このような活動していくなかで、運命の日とも言える日が刻々と近づいてきている。軍と共に活動をしてきていた彼女たちだが、軍から「解散命令」が言い渡される。解散命令とは、今までは軍の傘下にいて活動を共にしてきたが、これからは自分たちの考えで行動しなさいというものであるが、事実上それは軍から見放されてしまったのと同じ状況である。解散命令が言い渡された時期というのは、米軍の南部侵攻の時で壕の外に出ると雨のように弾が飛び交っているという状況である。解散命令後はそれぞれ各自の判断で彼女たちは行動をした。

 今回女子学徒隊について調べて比較してみると、活動内容にそれ程差は見られなかった。しかし、犠牲者の人数には大きな差が見られた。また、私が今回気になった点は、解散前の犠牲者よりも、解散後の方が犠牲者数が多いという事である。これは、どの学徒隊にも言えることなのだが、解散の日にちが大きく関係していると思われる。ほとんどの学徒隊は6月18日以降に解散命令が下っている。その日というのは沖縄戦の組織的敗戦の日であり、6月23日は事実上の敗戦日と言える。この18日から23日というのは沖縄戦において大きな意味を持つものであり、その中で解散を命じられ戦場を彷徨た彼女たちは大きな闇の中に追い詰められたのと同じではないだろうか。

 学徒隊について調べていく中で、色々な視点から比較をした。しかし犠牲者の数や活動内容は関係ないと思う。同じ戦場で活動し命をかけて頑張った姿には何の変わりもないと私は感じた。

 今回、自分でテーマを決めて調べてきたが、本当に多くのことを考えさせられた。体験者の証言を読んで、何度も何度も涙がこぼれてきた。この調べ学習をする前の私なら、悲しい悔しいと涙を流して終わることが多かったのだが、今回はそこから自分に何ができるのだろうと考える事ができた。また多くの事実に目を向けながら事実だけを捉えるのではなく、そこから疑問に感じたりした事を追求する事を学んだ。

 戦争では多くの人々が犠牲になり命をおとしていった。また、命だけではなく心にも多くの傷を受けた。そこから私たちは学ぶ事がたくさんある。体験者の「最近の世界の動きに目をむけると、中近東での戦争。日本の在り方。いつしか来た道をすすみつつあるような気がするのです」という言葉に、すごく胸を締め付けられる思いがした。私たちは何を学んだのだろうか。「戦争は二度としてはいけない。戦争は恐ろしいものだ」と口々に言いますが、そこから何が見えるのだろうか。

 戦争に隠されている本当の恐ろしさや、悲しさを本当の心の目で見ないことには意味がないのではないだろうか。現在、多くの戦争体験者が事実を伝え、平和を築こうと活動をされている。しかし伝えるということは、それを受け止める人がいないと意味がないと私は思う。一人一人が戦争を事実としてだけ捉えるのではなく、そこからさらに戦争の中身に目を向けていき、“平和”というものを真剣に考える姿勢が必要だと思う。

 戦争と平和というのは本当に紙一重なのだと感じた。この両方とも同じ人間が作り出すものである。どちらを築くかは私たち一人一人次第なのである。「〈戦争のない時代に生まれたかったということを、生き残ったらのちの人々に伝えて欲しい〉という戦争で亡くなられた学徒の言葉が私の胸の奥深くにずっと残っていて、私にはそれが使命だと思う。」という体験者の言葉に、もっと私たちは耳を傾けていくべきなのではないだろうか。多くの犠牲者の上に成り立っている平和を、もっと大事に受け止めるべきだとわたしは考える。私たちにはそれを考え、平和を築いていく義務がある。

18 沖縄戦における法令・文書と住民との関係          英米言語文化学科3年 H・K

はじめに

   戦争において、その方向や始まり、中身、結果というものはその時にある法令・文書と非常に密接な関係にある。

 例えば明治13年に出された法律『国家総動員法』、その翌年に出された勅令『国民徴用令』などは当時の権力者である政府や天皇が、戦争に勝つため自国民の命・財産などを供出させ、全国民を戦争へと巻き込んでいくように方向づけていった悪しき法令そのものである。他にも彼らはマスコミなどを管理・統制し、肉体だけでなく国民の精神をも戦争へと導いていった。また『戦時教育令』などの勅令により、学校において子どもたちに天皇を崇拝させ、国のために戦うことを教えるなど学校教育も侵し、いよいよその方向はあらぬ方向へと向かっていった。

 このように法令が持つ力というものは非常に大きなものだ。今現在、私たちもその法令に基づいた社会のルールがあり秩序が守られ普通に生活している。しかしその法令をつくり扱う人間が判断を一つ誤れば、その法令は国民を守るものではなく国民を管理・統制するものに変わる。そして国を、国民を違った方向へと向かわせていってしまう。

 沖縄戦においても、その法令・文書などの影響をうけ沖縄住民たちの被害はより複雑に、より大きなものへとなっていった。私は沖縄で戦時中どういった法令・文書があったか、そして出されたか、そしてその法令・文書はどのようにどういった被害へとつながっていったかを調べた。法令や文書は数が非常に多くひとつひとつあげて説明すると報告書のようになってしまいきりがないため、その中から私が関心を持った大きなものだけをあげそれを分析し、最後にそれに対する私の考えを述べたい。

   沖縄住民を戦争へと巻き込んでいった法令

    「国家総動員法」

 1938年(昭和13年)4月1日に公布、同年5月5日施行された。この法律の制定により、戦時において労務・物資・貸金・施設・事業・物価・出版など経済活動の全般について、政府が必要とする場合、議会の審議をへることなく勅令等によって統制することが可能となった。

 以後、同法に基づいて国民徴用令・国民職業能力申告令・賃金統制令・従業者移動防止令・価格等統制令・新聞紙等掲載制限令・会社利益配分および資金融通令などの私企業や国民生活の自由な活動を制限・統制するための法令が次々と制定され、国民を戦争に駆り立てるための根こそぎ動員を可能にした。沖縄戦戦時中においても、この国家総動員法に基づく「国民徴用令」などによって住民たちから食糧・物資・労働力を供出させた。読谷や伊江島、その他の離島などでは飛行場建設と全島要塞化の作業を手伝わされた。その働き手は「国民徴用令」や「国民勤労報国令」などによって動員された中等学校生で、果ては国民学校(現在の小学校)の児童まで動員された。

 飛行場設営には沖縄全域から動員され、伊江島・読谷山(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)・牧港(南飛行場)・首里(石嶺飛行場)・西原(東飛行場)・那覇(那覇飛行場、海軍と大日本航空の共用の、戦前からあった唯一の飛行場で現在の那覇空港)・糸満・南大東島などの飛行場のほか、宮古島・石垣島でも航空基地の建設が強行された。食糧や資材はほとんどが軍に供出させられ、農家の労働力もほとんど陣地構築に動員されたので、食糧の確保は困難をきわめ、これが飢餓地獄の原因の一つにもなった。

 宮古・八重山では学校や公共施設、民家などを強制接収し食糧を供出させたうえにその食糧確保のため住民を九州や台湾などに強制疎開させている。そしてこの疎開船はそのことごとくが海に消えていった。

   「陸軍防衛召集規則」

 1942年(昭和17年)9月26日の陸軍防衛召集規則制定、1944年(昭和19年)10月19日の陸軍防衛召集規則改正により満17歳から45歳までの男子が防衛隊として徴兵された。沖縄では、約2万5000人が防衛召集をうけ、その約半数以上が戦死したとされている。しかし実際は規則に関わらず13歳から60歳までの男子は根こそぎ召集され戦場へと送られた。一部では70歳を越えた非戦闘員である老人まで戦場へかりだされたところもあり、まさに沖縄住民への戦争動員は根こそぎであった。それに加え防衛隊に対する扱いはひどく、蔑視、差別といった扱いを受けた。

   このようにして戦場に動員された人々は、陣地構築や砲弾運びに使役され、戦闘訓練も受けず、武器も与えられず、一般に階級章もなかった。竹槍だけを持たされていたことから「棒兵隊(ボーヒータイ)」と自嘲する人々も多かった。これらの防衛隊員をひきいて班長や隊長となり、軍当局と隊員との間に立っていたのが、役場吏員として、あるいは学校教師として召集を免れていた年配者(在郷軍人)たちであった。

   文書−日本兵による住民虐殺などの背景にある県民総スパイ視
・明治43年度『沖縄警備隊区徴募概況』大正11年
・沖縄連隊区司令部報告書『沖縄県の歴史的関係及人情風俗』昭和9年
・沖縄連隊区司令部『沖縄防備対策』

 この3つに共通して見られる軍部の思想は、沖縄県民の皇室尊崇・国体思想・軍事思想の希薄さを著しい後進性ととして捉え、その原因を琉球王朝時代の日中両属の歴史的特異性に求めているところにある。そしてさらに、県民の国体思想の希薄を「事大主義」と解釈し、形勢次第で敵勢力へ転向する可能性もあるやも知れぬと示唆している。極端に言えば沖縄県民は総て潜在的なスパイ容疑者ということになる。

 こうした軍部の沖縄に対する偏見が、沖縄戦の直前になって配属された第32軍の作戦方針に影響を及ぼした。それがもっとも現れているのが軍司令部が沖縄住民に命じた方言の禁止である。「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」といった命令文書が司令部より出され各部隊へ飛び交った。また、具志川村警防団連絡書類においては「敵ガ飛行機其ノ他ヨリスル宣伝ビラ散布ノ場合ハ早急ニ之ヲ収拾纏メ軍当局ニ送付スルコト。妄ニ之ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側スパイト見倣シ銃殺ス。」と住民たちの行動に対し、厳しい対応がなされた。

   まとめ

 このように沖縄住民はさまざまな法令により老若男女を問わず戦場へとかりだされ、軍事施設建設のため労役を強いられ、食糧を強制的に供出させられ、軍国主義を教えられ、どんどん戦争へと組み込まれていった。そして友軍であるはずの日本軍に差別され、スパイ視され、守られるはずの住民たちはガマ追い出しや虐殺をうけた。これはその行為を行った兵士個人個人だけの問題ではない。

 これは政府・天皇のつくる法律・勅令、軍部が出す命令などによって導き出されたものだ。このようにわずかの馬鹿げた権力者によって何百万という国民が戦争へと巻き込まれ命を落としていった。今現在有事法なるものが騒がれているが、日本は過去の戦争から何を学んだのだろう。法律とは国民を守るものであり、国民を管理・統制するものではない。再び国民を戦争へと導こうとする法律には断固としてNOと言わなくてはいけない。しかしそれよりもまず、私が一番大切だと思うことは、これからの若者たちがこういった自分たちの国の将来に関することに対してもっと興味・関心を持つことだと思う。

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