小論文(03後期)
[制作者注]
※ホームページ編集に際して題名を一部編集しました。また、学生及び文中の人名を匿名にしました。
※引用文献や参考文献は割愛しました。
※表現上や論理上における不適切な部分には手を加えました。

1 沖縄戦における県内及び県外避難について
2 沖縄における戦前の教育について
3 沖縄戦をとおして平和を考える
4 「シムクガマ」と「チビチリガマ」の比較検討
5 沖縄戦における米軍の民間人に対する態度
6 声を上げる勇気
7 沖縄戦での教師たち
8 沖縄戦における母親の状況
9 沖縄戦と戦後の住民被害
10 勤労奉仕と疎開について
11 沖縄戦における「集団自決」の意味を考える
12 沖縄戦における米軍の動きから平和教育・平和問題を考える
13 戦後沖縄教育の出発
14 有事法制と国家総動員法について
15 沖縄戦における住民のガマ生活
16 沖縄戦における教育の役割
17 なぜ沖縄住民はこれほどまでの被害を受けたのか
18 沖縄戦中・戦後、米軍基地はどのように建設されたか
19 戦後の沖縄住民に対する支援や援助について
20 沖縄住民にとっての日本兵
21 日系人の沖縄戦
22 移民証言記録から「沖縄戦」を考える

1 沖縄戦における県内及び県外避難について
法学科3年 I・H

 沖縄戦において、多くの住民が戦闘に駆り出されたり、戦闘に巻き込まれたりして、直接または間接的に日本兵や米兵に殺害されたことはよく知られている。しかし、戦争が始まる前や、始まって後に戦場から避難した人もたくさんいる。ではそのような戦場から避難した人々は、果たして何事もなく無事に戦争を終えることができたのだろうか。

 私はそのような疑問から、沖縄戦における県内避難民と県外避難民の置かれていた状況を調べてみようと思った。そのためにまずは県内外に避難した人々の証言を調べ、当時の避難民の置かれた状況を把握し、その上で他の資料や文献などと照らし合わせて自分なりの解答を出してみることにした。

 沖縄では、開戦以前から10数万人の人々が台湾や九州に移住していたが、戦争当時、沖縄本島にはなお約45万の一般市民が残っておりこれらの人々は何らかの形で戦闘に巻き込まれた。沖縄で持久戦を展開させるには、戦力とならない老幼婦女の疎開が必要と考えた日本政府は、沖縄県から本土へ8万人、台湾へ2万人ほどの疎開計画を立てたが、見知らぬ土地へ行く不安と、すでに沖縄近海に敵艦隊が出没していたことから、計画は思うように進まなかった。特に1944年8月22日、学童疎開者800人を含む乗客1700人を乗せた対馬丸の撃沈は、県民の疎開に対する不安に拍車をかけた。

 ところが同年10月10日、米軍は、北は奄美諸島から南は石垣島、東は大東島にいたるまで南西諸島全域を対象に大規模な空襲を行った。空襲にさらされた那覇市は市街地のおよそ90%が燃え尽きたほか、琉球時代の貴重な文化遺産までもがこの空襲によって失われた。この時の米軍機はおよそ1400機、死者は600人、負傷者は700人にも上るといわれている。そしてこの空襲の後から県民の疎開希望者が増えだした。

 当時日本政府は沖縄に対して、本土または本島北部へ沖縄県民を疎開させるよう要望していたのだが、当時の県知事が職務を放棄し、本土へ逃亡してしまったため、県行政がストップしてしまい県民の疎開が遅れた。その後沖縄に赴任してきた島田叡県知事は着任後、県民の本土や台湾、本島北部への疎開に力を注いだ。

 以上は沖縄県史や、他の資料から見た沖縄戦における県民疎開の状況の概要である。このことから、日本政府や沖縄県行政の対応の悪さから県民疎開が遅れ、結果的に45万人の一般市民が戦場に残され、多くの犠牲者を出してしまったことがわかる。とともに沖縄県行政もまた戦争の加害者として捉えることができるのではないだろうか。

 次に実際に本島北部や本土、台湾などに疎開した人々の証言録を基に、県民の疎開の実状を探ってみたい。

 日本の領土となった台湾には明治ころから沖縄からも大勢の人々が渡っていたが、沖縄戦直前の1944年には宮古や八重山を中心として約1万4千人の人々が、そして沖縄戦開戦後も数千人が疎開し合計2万人近くの人々が台湾に渡っている。

 台湾疎開のポイントは2つで、1つ目は「食糧不足」ということである。
 「だんだんと当時は食料を金では売らずに着物や相手の要求する品物との物々交換が主になってきました。私は大事に持ってきた衣服を一枚、また10日ほどして一枚と食料に変えながら、子供たちの命はなんとしてでも守らなければと思い、がんばりましたが、衣服が相当数あるわけではないし、とうとう着の身着のままにされてしまいました。(中略)こうした生活で、子供も私も栄養不良でやせこける一方でした。空襲の場合など、食料を持っている人は壕の中へ避難しますが、私たちの家族は壕へ避難して生きながらえても食料の無いまま飢え死にするしかないので、もう避難などしてもどうしようもないと子供たちにも言い聞かせていました。また仮に避難するにしても、子供は栄養失調で歩くことさえできない状態でした。」(K・女性)

 以上の様な食糧不足に関する証言が出てきた。特に注目したのが食料を金では買えず、物々交換しているところである。金の価値がなくなるということは、その地域には、全体的に物資や食料が不足している証拠である。日本の占領下である台湾の当時の状況を明確に表した場面である。

 そして二つ目は、「沖縄に帰る方法が難しい」ということである。「戦争が終わり、金のある人は何とか上手に渡っていきましたが、私たち一家は幼子を抱えて途方にくれる毎日でした。(中略)そこからまた汽車に乗ってゆくのですが、当時客車には到底乗れない状態ですので、やっと貨車に載せてもらい、豚と一緒に行きました。その貨車も当時のヤミで乗ったので法外な料金を支払わなければなりませんでした。(中略)船は6トンほどの小型船で、そこに100名以上の引き揚げ人が乗り込むのですから体を横たえることもできず、ひざを抱いたまま身動き一つできないという状態でした。」(I・女性)このように沖縄に帰る際の旅費など、さまざまな困難があったということである。

 次に本土への疎開を見てみたい。本土へは、多くの学童が疎開した。これらは学童疎開と呼ばれており、本土に渡った彼らは親戚の家や寺などに預けられ、そこから地元の学校に通った。そして彼らは地元の子供から、沖縄から来たという理由でいじめにあったり、食糧不足から親戚の家で厄介者扱いを受けた。などの証言が出てきた。ここでのポイントは、親戚などを頼った人々はやはり本土も食糧不足であったため、親戚の重荷になったり、
厄介者扱いをされたことであろう。しかしそれ以外にも辛い体験をしたという証言もある。

 「…慣れあるにつれ『沖縄者』といって皆から除け者にされ、学校も次第にいやになって一人クラスから孤立していった。(中略)お寺の一日は清掃に始まり、体操、冷水摩擦、そして集団登校である。下校時は、薪取りをする私はひとりで山に入るのが恐ろしかった。それでも薪取りを怠けるものは食事の配分が半分に減らされるので行かざるを得なかった。さらに追い討ちをかけるように夕方には湯船の水汲みや、上級生の弁当箱洗いと、引率教師の目を盗んでは一人で強制される毎日であった。(中略)幸い私は直接戦争を体験しなかったのだが、ある意味ではそれよりも、もっと苦難で陰湿な体験をしたと思っている。」(M ・男性)

 以上のように辛い経験をしたという証言が主であったが、県外疎開者(台湾を含む)十数万人の内全員が無事に沖縄に帰ってきたわけではなく、数千人が疎開途中で対馬丸のように海没したと見られている。したがって人口統計から県外疎開者全員を単純に引き算するのは間違いであり、海没者もまた沖縄戦での犠牲者と見るべきである。

 最後に県内疎開の状況を見てみる。県内疎開には大きく分けると北部疎開と離島疎開に分けることができる。ここでのポイントはマラリアという病気と食料不足、そして日本兵による強制的な疎開の3つである。もともと山岳地帯で食料が少ない北部では南部からの疎開者と日本軍の食料調達により深刻な食糧不足になった。人々は山中を逃げ惑いながら栄養失調に苦しんだ。そのためカタツムリや毒を含むソテツなども食用としていた。

 離島では日本兵による強制的な疎開命令によって、住む場所や畑、または家畜を奪われたり、マラリアの被害が出ている地区へ追われたりしている。「日本兵が来て『この島は私たちが使うのではかの島に移りなさい』と言ってきた。(略)私たちはどこの島に行こうかみんなで相談したが、海を渡ろうにも米軍に船を沈められる危険がありなかなか話がまとまらなかった。(略)そのうちにマラリアがひどくなり、この島は生き地獄そのものとなった。家族全員マラリアで倒れ、17名の家族から1人生き残った大泊家や家族全員マラリアで倒れているので葬式出来ず死後3日経過して庭の防空壕に引きずって入れた浦仲家などはもっとも悲惨だといわれている。毎日のようにマラリアで人が死に、中には一日に2人も死ぬということがたびたびあった。」(N・男性)

 県内疎開と県外疎開、どちらにも共通しているのが深刻な食糧不足ということである。こういった栄養失調やそれに伴うマラリアなどの病気でなくなった人々も沖縄戦の犠牲者といえるのではないだろうか。沖縄戦では本島南部の激戦に巻き込まれた住民がたくさんいる。だがその陰に隠れた、疎開した人々が体験した食糧難やマラリアなども十分に沖縄戦での悲惨な状況を表している。

 戦争というものはどの戦争であっても、一番被害を受けるのは、そこに住む人々である。現在中東やアフガニスタンでは、地域紛争や民族間題で多くの難民が生まれている。沖縄戦で県外に避難した人は親戚や寺などに行くことができた。しかし世界の難民にはどこにも行くところがない、どこの国に行っても受け入れてもらえないということが数多くあるのである。彼らの多くは食糧不足によって飢え、マラリアなどの病気に脅かされる生活を送っている。

 沖縄戦と当時の避難民から見えてくるのは、戦争の悲惨さとともに、現在世界が抱えている難民問題だった。私たち沖縄県民は悲惨な沖縄戦を経験したが、それを忘れないことはとても大切なことである。だが、ただそれを覚えているだけではなく、その経験から難民問題にどうアプローチしていくかが、私たち、今の時代のウチナーンチュの課題であると思う。

2 沖縄における戦前の教育について
経済学科3年 H・M

 昔、琉球国であった沖縄は、武器を持たない平和な国であった。「天皇」という概念を持たなかった琉球の民が、その「天皇」に命を捧げるほどの極端な忠誠心を持つ「臣民」へと変身していった鍵は教育にあると考え、今回“戦前の教育”について調べてみることにした。また、戦争体験者の証言も重要になると思い、証言の聞き取りも行った。

まず、この課題を調べるにあたり、いくつかの論点をまとめてみると、次のようになる。@琉球の人々を極端な忠誠心を持つ「臣民」へと変化させたそもそもの原因はなんだったのだろうか。
A戦前の教育とは具体的にどのようなものだったのか。
B教育によって沖縄の人々はどう変わったのか。

琉球の人々を極端な忠誠心を持つ「臣民」へと変化させたそもそもの原因はなんだったのだろうかと考えると、1879年(明12)の琉球処分にまでさかのぼる。琉球国は、1609年(慶長14)の薩摩藩琉球侵入以来、日本と中国に両属してきた。一つの国としての形を保っていた琉球が、廃藩置県をへて「沖縄県」となったのは1879年である。沖縄県においては、置県後も琉球王国の旧慣が温存された。そんな中、政府が唯一積極的に行ったのは教育制度の改革であった。日本本土では、「富国強兵・殖産興業」を目標に掲げ、国民に近代教育を施し、知識を与えることでそれを実現しようとした。日本本土の教育は「日本人の近代化」を狙ったものであった。これに対し、沖縄県における教育の目的は「沖縄人の日本人化」であった。ではなぜ「沖縄人の日本人化」が必要であったのか。

琉球は古くから、中継貿易の拠点として活躍するなど、その地理的好位置が世界から注目されてきた。それは明治政府も同様で、国防拠点の確保を図るために琉球がどうしても必要であった。そして積極的な教育により、沖縄人に日本への忠誠心を持たせること、つまり「沖縄人の日本人化」が、その拠点を確保する最良の手段であると考えたのである。こうして、沖縄の置県とともに、琉球王朝時代の学制は廃止され、全国並みの教育が行われるようになった。明治政府は、沖縄県民は「新附の民」であり、「化外の民」であるという認識をもち、皇民化教育・同化政策を強力に推し進めた。

沖縄県教師の速成養成が行われ、1880年に会話伝習所を設置し、同年に沖縄小学師範学校に発展改称した。1886年には、修業4年の沖縄尋常師範学校となり、服装は軍服、断髪を実施する。1896年には、師範学校に女子講習科が設置され、1910年には師範学校女子部、1915年には、沖縄県女子師範学校として発展改称した。また、中等教育においては、県立第一中学校で1895年、英語廃止をめぐって生徒がストライキを起こし、その中心であった伊波普猷・漢那憲和らが退学処分となる。

戦前の皇民化教育において重要なものが「教育勅語」である。「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として発布以来、第2次世界大戦の終わりまで、日本の教育の渕源および大綱となったもので、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた絶対的権威を持つ聖典であった。内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、その前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家観の理論によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と、国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民理論が説かれており、下段では、教育勅語の正統性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。

「教育勅語」の煥発により、国定教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長に対する伝統的な忠誠の2つの要素を応用し、国民を「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。また、「教育勅語」の謄本と天皇・皇后の御真影が全国の学校に下賜され、学校の式日において御真影への最敬礼、勅語の朗読が行われ、授業では教科書を用いて勅語の解読がなされた。

 こうして「教育勅語」を読むこと・聞くことは、神の言葉を読むこと・聞くことであると次第に解釈されるようになっていき、現場にいる教師・生徒はもちろん、式典に参加した父兄にも「臣民」としての意識が芽生えるようになったのである。証言によると、「小学生のころは『教育勅語』の意味などわからずただ覚えていた。式典で校長が天皇の写真を拝むとき、私たちは、天皇は神様だと本当に信じていた。」ということだ。

また、1945年4月9日「球部隊日々命令録」によると、「爾今以後軍人軍属ヲ間ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シァル者ハ間諜トミナシ処分ス」とあり、学校現場においても、標準語奨励(方言撲滅)運動が行われた。その際用いられたのが、方言札である。これは、日本の共通語を使わせるために各学校で行われた罰で、ある者がウチナーグチ(沖縄方言)を使うと、次の違反者が出るまで札を首から吊るすことを命じられた、いわゆる見せしめの札である。政府による皇民化教育・同化政策が推し進められていく中で、教育は軍事色を強め、知識・技術の教育よりも、天皇の忠良な臣民を育成するための人間教育が中心となっていく。

今回、この課題に取り組み、教職希望者として改めて「教育」の重要さを感じた。その時代の教育は、お国のために、天皇のために命を捧げるという教育が徹底して植えつけられていた。沖縄の教師たちは、天皇のために喜んで死ぬ兵隊を作り、戦場で死ぬことによって沖縄人は他府県人に負けない、立派な日本人であることを立証せよと教えていた。教育に直に接している者からその周りの者へ、つまり、子供たちからその親へ、天皇絶対主義教育が浸透していったのだ。沖縄戦の悲劇はこの教育によってもたらされたものである。

今回のテーマである「沖縄における戦前の教育とはどのようなものであったか」に対して、もし一言で言うならば「洗脳」という言葉が当てはまるのではないかと思う。学校が兵営化され、事実とは異なることが学校で教えられ、多くの人々が、戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと思っていたのだ。本当に「教育」の重さを感じずにはいられない。

今回調べたのは沖縄戦のほんの−部にしか過ぎないが、戦争に至るまでの背景という上で重要な部分だと思う。しかし、一部だけでなく全体を見なければすべては分からない。これは私に残された課題である。また、今回調べたことを糧として、将来私が教員になったときにどう伝えるか、また、戦前の教育を教訓に、現代においてどのような教育をすべきかの追求も忘れてはならないことである。

3 沖縄戦をとおして平和を考える
科目履修生 I・T

なぜ、戦争が起きてしまうのか?戦争の原因や理由は数多くあると考えられるが、実際に戦争をしたい人や家族を戦争に行かせたい人はほとんどいないはずなのになぜか戦争はなくならない。自分たちの今現在住んでいるこの沖縄でも戦争があった。沖縄戦はどうして歴史上でも類を見ないほどの悲惨な戦争になってしまったのか?そして、平和に生きていくために自分たちは戦争から何を学ばなければならないのかを考えてみたい。

 まず、ほとんどの戦争は自分の国の繁栄のための戦争であることが主な原因であることが挙げられる。歴史の上で見ても、時の権力者たちは自分の権力のおよぶ範囲を広げるために次々と戦いを操り広げている。日本においても戦国時代には武将たちは自国の領土を広げるため争いごとが絶えず、豊臣秀吉が日本国内を統一したにもかかわらず、海を越えてまで朝鮮に出兵しているのはよい例である。周りを海で囲まれた日本においてさえこのように海を越えてまで自国の領土を広げようとするのだから、陸続きである大陸などはまさに領土の奪い合いの歴史といっても過言ではないほどの戦争が行われてきた。

さらに人類の目覚ましい科学技術の進歩は世界を狭くし、戦争が世界的な規模で行われるようになってきた。第一次世界大戦である。第一次世界大戦の頃からは思想的な理由もあるが、やはり、「アルザス・ロレーヌ地域の回復」や「イギリス.フランスの植民地の再編成」などの領土に関する問題が大きな比重を占めていることは否定できない。

 では、沖縄戦が行われた第二次世界大戦はどのような背景で日本は参戦していったのだろうか?日本は第一次世界大戦で戦勝国となり急速に国力をつけ始める。しかし、これは日清・日露戦争で国力が低下し、政治的にも不安定な状況を招いている時期にヨーロッパで戦争が勃発したことで、日英同盟に乗じて他の列強がヨーロッパから動けないことを尻目に中国などに進出して利権を独り占めすることによって国力をつけていったのである。そして、国際連盟の常任理事国入りを果たし、大国の仲間入りをしたのである。これによって満州などを支配し利権を貪っていたが、徐々に反日感情が高まり国際社会からも反感をかうようになりついには満州事変をおこし、国際連盟も脱退して日中戦争へ突入することになるのである。

この満州事変から始まり日中戦争に至る背景には1923年(大正12年)の関東大震災、1926年(大正15年)の大正天皇の死去、そしてアメリカのウォール街の株式の大暴落から始まった世界大恐慌の影響を受け、日本にも経済不況が訪れていたことが挙げられる。このような経済的・政治的に社会が不安定になっている時期に軍国主義が台頭してきたのである。

軍国主義の台頭は昭和7年、犬養首相が射殺された5・15事件やその4年後の昭和12年、陸軍の青年将校が軍部独裁政権の樹立を目指して反乱をおこした2・26事件となってあらわれてくるのである。この頃より軍部の力は強大なものとなり日本は軍国主義への道をたどってしまうのである。しかし、軍部の力だけで国民の意識を戦争へ向かわせることができたわけではなく、そこには「天皇制」の問題が深く関係してくるのである。そして、沖縄戦が歴史上類を見ないほどの悲惨な戦争になってしまったのもこの「天皇制」が大きく影響しているのである。

 そもそも、日本が中国や朝鮮、満州はては南太平洋の国々まで侵略していった大義名分は天皇を盟主とした「大東亜共栄圏」の建設であり「地の果てまで一つの家のようにまとめて天皇の統治下におく」という「八紘一宇」の考え方を大義名分としていた。天皇制が存在しているために戦争をするための大義名分を作り上げることができ、沖縄戦においては国体護持という天皇制を守るためだけの時間稼ぎのために「捨て石作戦」を強いられ、いたずらに犠牲者を増やしてしまう結果になったのである。

 このような沖縄差別、沖縄軽視はその頃に始まったことではなく、歴史をさかのばれば1609年の薩摩藩の武力侵攻により、もともと独立した琉球王国であり清との間に宗属関係があったにもかかわらず無理やり薩摩藩の直接支配下におかれ、その後の廃藩置県で琉球藩とされたがアメリカの仲介で清と交渉が続けられていたが、これも力づくで沖縄県として日本に編入し、その後の日清戦争勃発でうやむやになってしまった、いわゆる琉球処分と呼ばれるものである。この間、琉球の国民の意思は全く無視されての結果である。

 このことからもいかに日本が沖縄を差別、軽視していたかが分かる。このような沖縄差別、軽視の流れの中で沖縄は日中戦争・太平洋戦争の最終戦地となってしまい国体護持、つまりは天皇制の存続のための時間稼ぎの戦場と化し「尺寸の土地の存する限り、戦い続ける覚悟である」の牛島司令官の言葉通りの悲惨な戦闘を繰り広げ多くの犠牲者を出してしまうことになるのである。

 では、当の天皇自身はこのようなことをどう考えていたのだろうか?日本が戦争へ突入する大義名分は「大東亜共栄圏」の建設であり、戦争は天皇の名の下に行われてきたことは否定しようのない事実である。しかし、はたして天皇が本当にそれを望んでいたのだろうか?答えはノーである。昭和天皇はこれまでの天皇とは一線を画する存在であり、世界情勢を見る目を持ち、、平和を願う素顔を持っていた。これは皇太子時代にヨーロッパへ外遊した際に西欧文明に触れたことが大きな原因となっている。実際に昭和天皇は生涯英国風の朝食をとっていたことでもわかるように、かなり革新的な物の考え方をする天皇であった。世界情勢を見る目を持っていたことは、後に日独伊三国同盟を結ぶ際に対米戦に突入することは必至であると覚悟したことでも明らかである。

 その他にもこれまでの天皇とは違い側室を一切もうけなかったことでも昭和天皇の人格がうかがえる。しかし、このような革新的で平和主義者の天皇が頂点にいながら、なぜ日本は戦争への道を突き進んでしまったのかという疑問が残る。昭和天皇はその優れた世界情勢を見る目で幾度と無く軍部との衝突を繰り返してきており、好戦的な軍部の重臣からはうとましく思われていた。

 そのような情勢の中、先に述べた5・15事件、2・26事件がおこり、さらには明治憲法の軍部からの大臣がいなければ内閣は機能できないという欠陥をつき、次第に勢力を強大化させ、その勢力は天皇の暗殺の可能性も否定できないほどになってしまい、天皇は表舞台からしめだされ戦争の大義名分の象徴の役割を背負わされてしまうのである。

 このような歴史上の事実から何を学ぶことができるのか?近年においても湾岸戦争やアフガニスタン、イラク戦争など戦争は絶えない。そして、戦争の始まってしまう理由も定
かではない。アフガニスタンでは冷戦時代にアメリカが支援した武器でアメリカ軍が攻撃を受けたり、イラク戦争では大量破壊兵器の保持が攻撃の理由であったにもかかわらず、大量破壊兵器は発見されていない。なぜ、このような状況になってしまっているのか?戦争は経済や政治が不安定になるとそれらの回復のための起爆剤のような位置付けに変化しているような感じを受ける。一説によるとアメリカの軍需産業は15年に一度戦争をしなければ、滅びてしまうという。調度その時期に軍縮を実行しようとしていたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺ははたして偶然なのだろうか?5・15事件の犬養首相が射殺されたことと重なって見えてしまう。戦争によって巨万の富を得る人間の存在するうちは戦争はなくならないのかもしれない。しかし、沖縄戦を通して戦争の歴史、背景を深く考えてみることで今一度、戦争という人類の過ちを見直し、考え直し、悲惨な戦場と化したこの沖縄から平和を望む声を決して絶やしてはならないと願う。

4 「シムクガマ」と「チビチリガマ」の比較検討
商学科3年 K・N

 沖縄戦と聞いて真っ先に私の頭に思い浮かぶのは住民を巻き込んで起こった悲惨な戦争だったと言う事だ。そして住民の多くは防空壕、沖縄ではガマと呼ばれる鍾乳洞に避難していた。「住民とガマ」は沖縄戦を知る上で大きなポイントになると考え、読谷村にあるシムクガマとチビチリガマ、この2つのガマを通して沖縄戦とは何だったのかと言う事を考える。

 シムクガマとチビチリガマのこの2つのガマはわずか2〜3キロほどしか離れていないのだが、シムクガマでは約1000名全員の命が助かり、一方のチビチリガマでは140名中83名が「自決」2名が戦死の計85名の人が亡くなったという。同じ部落に住む住民が2つのガマに別れ、それが生と死にはっきりと別れてしまったという歴史がある。

 ここで、2つの疑問が生まれる。1つは、なぜ住民はガマに避難したのか。もう1つはなぜこんなにもはっきりと生と死というように別れてしまったのか。

まずは、なぜ住民はガマに避難したのかと言う事について考えてみたいと思う。当時、村民には県から国頭に避難するようにとの命令が出ていたのである。命令が出ていたのにもかかわらず村のほとんどの住民は近くのガマに避難している。それはなぜか、これは、その当時の証言を聞いてみると答えが見えてきた。証言をまとめてみると、「家族がバラバラになるおそれがあるかもしれない、それよりは、近くにあるガマに家族みんなで避難したほうがいい」となる。それから考えられたことは、読谷村には村の近くに天然の鍾乳洞があり、そこは爆撃からも逃れることができたため、危険を犯してまで国頭に疎開するよりは、すぐに避難できたガマに足が向いたと考えられる。

 次に考えたいことはなぜ生と死がこんなにもはっきり別れてしまったのかと言う事である。これも、当時の証言を調べることで、すくなからず、答えが見えてきた。全員が助かったシムクガまではハワイがえりの男性が2人いてこの2人が英語が話せたと言う事が全員が助かった一番大きな理由と言える。それに反して85名という人が亡くなったチビチリガマでは、英語が話せる人がいなかったと言う点も上げられるが、後1つ上げるとしたら、ここのガマのリーダー格は中国帰りの看護婦だったらしいのだがこの女性は中国で日本軍が中国人を虐殺してきているのを見ていたのである。しかもこの時代、日本ではアメリカは鬼畜米英と教えられていた。このときの住民の頭には絶対にひどい殺され方をされると思っていたに違いない。また、このガマにはシムクガマのようにアメリカ人を見た人は誰もいなかった。このような事柄が絡み合って住民同士の殺し合いという悲惨な惨劇が起こってしまったと言える。

このように2つのガマをとおして、私は、教育というものがいかにすごい影響力を持っているのかということを実感させられた。真理・真実を教える教育ならよいが一つでも間違ったことを教えてしまうとこのような悲しい歴史の引き金になってしまう恐ろしい面も教育はもっているんだと認識させられた。

5 沖縄戦における米軍の民間人に対する態度
〜証言を通して考える〜
人間福祉学科3年 T・J

 私は、この講義を通して沖縄戦について学ぶことができた。沖縄戦について学んでいく中で、証言等を読む機会があり、米軍や日本軍の民間人に対する態度を知ることが出来た。証言を見ていく中で、特に米軍の民間人に対する態度について、詳しく知りたいと考えた。

このような課題を設定した理由は、私自身、沖縄戦において米軍の民間人に対する態度がどのようであったのか、知らなかったので知識として身に付けておきたかったからである。近年でも、米軍による住民に対する被害(婦女暴行等)があり、沖縄においては、米軍と住民の関係はきってもきれない関係にあるように思われる。

 私は、『沖縄県史第9巻』、『沖縄県史第10巻』、『市町村史』、『沖縄戦体験記』等から、沖縄戦においての米軍と民間人に関係する証言を集めた。その証言を、米軍の男性住民に対する態度、女性住民に対する態度、その他に対する態度に分け、米軍の態度の違いがあるのか調べてみようと考えた。

 まず初めに、米軍の男性住民に対する態度についての証言をあげてみる。@「北部の本部で、捕まえた男たちにタバコを与えておきながら背後から射殺したことがあった」(M・女性)。A「北部の石川の山中で照屋カマドさんらが捕まったとき、妻や娘と一緒にいた一人の男と20歳くらいの男の二人が射殺されている」(北谷町『戦争体験記録』)。B「北部で4月7日ごろ、50人くらいの住民が捕まったが、その中の一人で、洋服を着て脚絆を巻いていた一人の男が、軍人と思われたからだろうか、射殺された」(T・女性)。C「羽地の山中の小屋に隠れていた瀬良垣克夫さんは、5月1日にやってきた米兵に父が射殺された」(S ・K『我が家の戦争記録』)。

 次に、米軍の女性住民に対する態度についての証言をあげてみる。D「部落で生活している時、夜中にアメリカ兵が銃を持って集団で部落におしかけてきて家で寝ている女性を連れ出すこともあったので、部落では自警団を作って、彼等が部落に入ってきたら、半鐘を鳴らして各家に知らせて用心させるようにしておりました。鐘が鳴ったら女性は、天井裏や床下に隠れたもんです」(『沖縄県史第10巻』)。E「避難壕に残った私達の所に、2人の米兵がやってきた。彼等は私を見つけるやいきなり強引に引っ張り出そうとした。私は全身が震え、もう気も狂わんばかりに泣き叫んで、必死になってもがき抵抗した。」

 次に、その他に対する態度ですが、ここでは赤ちやん・子供、らい病患者(ハンセン病患者)など、対象があいまいな証言をあげてみる。F「生き残りの赤ちやんや子供をアメリカーが拾ってきて、誰にも彼にも抱かして面倒みるように言いつけていました。」G「」避難先で、壷屋から一緒に避難してきた2少年が、米兵に銃で撃たれた事件を目撃した」(S・女性)。H「ある日、米軍に男3名連れられて行ってですね、拳銃を出して私らに、そこに集めてある、らい病患者を殺せと命じましたが、さすがに私らは拒否しました。私らは帰されましたが、後はどうなったか判りません。」

 J「そこで私もABCを使ってみることにしました。5、6人たむろしている米兵の傍へ行って、横を向き、知らん顔して、ABCを言ってみました。すると、米兵はびっくりして、すぐに私を取り囲みました。私が言い終わると喜び、テントへ連れて行き両手いっぱいのお菓子が集まりました。その他にも、ABCのお陰で、缶詰、タバコをたくさんもらいました。」K「私達は、『もう今日は、殺されるんだなあ』と思い、泣いていました。米兵の中には、そのような私達の姿を見て、おもしろがって鉄砲で撃つ真似をしてからかう者もおれば、また恐怖で震えている私達に同情して、一緒に泣く米兵もおりました。」

 これまでの証言から、米兵の男性住民に対する態度、女性住民に対する態度、赤ちやん・子供に対する態度、障害者に対する態度には、多少の違いがあるように思われる。米兵の男性住民に対する態度は、証言@〜Cのように殺害された証言が多くあった。米兵の女性に対する態度は、証言D、Eのような婦女暴行(レイプ)・婦女暴行未遂の証言が多くあり、その他には、殺害などの証言もあった。米兵の赤ちやん・子供に対する態度は、証言Fのような赤ちやん・子供に対してやさしく接した米兵や、証言Gのような子供を銃で撃ち殺した米兵もいた。

私の祖母の証言であるが、捕虜になり移動している時、米兵は子供の手を取り長い道のりを一緒に歩いてくれた、やさしかったと言っていた。証言Kを見てわかるように米兵の中には、住民に冷たく(殺害・レイプ)接する者もおれば、住民にやさしく、献身的に接してくれる者もいるので一概に米軍は「敵だ」「味方だ」と決め付けることはできない。証言Hは米兵が住民に対し、らい病患者を殺せと命令している恐ろしい話しである。らい病患者等の障害者は戦争中、役に立たない、足手まといだとされ、取り残され死を待つのみだったという証言もある。

 証言Hの米兵のらい病患者に対しての態度だが、それとは対照的に、誤爆で破壊されたハンセン病療養所を米軍が復興への支援をしたという事実もあるので、ここでも先程述べたように米軍は「敵だ」「味方だ」と一概に決め付けることができない。証言Kは対象がはっきりしないが、米軍に対して喋りかけているのは子供ではないかと思われる。この証言では、米軍から住民に対して食糧の援助があり、米軍は沖縄に来る時に、食糧を持ってきており、それにより救われた住民もいると思われる。

 私は、沖縄戦の証言の中のほんの一部ではあるかもしれないが、いろいろな証言を見てきた。はっきり言える事は、米軍の住民に対する態度は良いとも言えるし、悪いとも言える。今回いろいろな証言を見て、思うことがある。それは、一つの証言では、一つの場面しか見ることができない。しかし、それらが集まり自分の知識となり、沖縄戦の全体が少しではあるが捉えることができたと考える。証言を通して、沖縄戦における民間人に対する態度はどうであったかを考えてきたが、証言を通すことで、教師にとっても教えやすく、生徒にとっては、分かりやすく学べ、想像し、私達は今何をするべきなのか考えるきっかけとなる。

 私は、この講義を通して「平和」について考えることが出来た。「平和」について考えるということは、当たり前の事かもしれないが、実際に真剣に考えている人はあまりいないと思われる。この当たり前の事を将来、教師としてどのように生徒たちに教えていくかが重要になってくる。

6 声を上げる勇気
社会文化学科3年 H・K

 「今思うとおかしい。これはおかしいと思ったら『おかしい』と言える雰囲気を持たないといけない。」ある沖縄戦体験者の言葉である。この言葉にこそ、今を生きる私たちが戦争を防ぐための鍵があると私は感じる。第二次世界大戦当時を振り返って、今から思えば、日本が行った行為・考え方などでおかしいと思うことは多いとその方は言う。しかし、当時は当たり前だと思っていたし、もし疑問に感じても言えるような雰囲気ではなかった。そのことが悲惨な戦争を招いたのだという思いを、冒頭の言葉は示している。

 言葉の主はG・Yさん。沖縄戦当時は14歳であった。講義担当の先生の紹介でG・Yさんに証言を直接聞かせていただいた。その中で、「(今思うと)おかしい」「言える雰囲気ではなかった」といった言葉が何度も出てきた。これは、私が課題として挙げた、「沖縄戦当時、県民の考えはどのようなものであったか」に深く関わってくると感じた。しかし、あくまでも「今思うと」おかしいのである。

 当時はどう感じていたのかを尋ねると、「当たり前に思っていた」「まわりも同じだったので疑問は感じなかった」といった答えばかりが返ってきた。積極的に戦争に関わる中にも、どこかにとまどいもあったのではないかということを予測していた私は、ほんのささいなことでもいいから当時の気持ちの中で揺れ動きはなかったかとあらゆる角度から質問したのだが、期待通りの返答はなかった。それほどまでに当時の全体主義、皇民化教育は徹底していたことを思い知らされた気がした。

 G・Yさんは1931年、両親の移民先・ペルーで生まれた。1940年に沖縄へ戻るのだが、それまではペルーに住み、現地の日本人学校に通っていた。G・Yさんが生まれたのはちょうど満州事変の年であり、日本が15年戦争へ突入した時期である。G・Yさんによると、日本が中国と戦争をしている情報はペルーにいても「ある程度入ってきていた」そうだ。日本が勝ち進んでいるという情報に喜び、「誇りに思っていた」という。また、同じペルーにいた中国人に対しては、「支那のチャンコロ」と呼び、見下していた。G・Yさんが沖縄の土を踏んだ時、小学2年生であった。小学校では、ペルーでは習わなかった教育勅語を暗記した。まだ8歳であったG・Yさんは、こういった皇民化教育に抵抗を感じることなく受け入れていった。それ以降は徹底した皇民化教育にどっぷりつかっていくことになる。

 移民先のペルーは、日本に比べれば自由に発言できる雰囲気があったとG・Yさんは言う。G・Yさんの父はそういったペルーでの生活の影響から、沖縄に帰ってきた後、大本営発表の内容に疑問を感じ、「おかしい」ということをG・Yさんに漏らしていた。しかし、一度そのことを憲兵に聞かれてからは、そのような疑問を口にすることはなくなったそうである。このことは、太平洋戦争当時の日本において、国が行う戦争について疑問を感じたとしても、発言することができなかったことを示しているのではないだろうか。

国民精神総動員運動・国家総動員法・国民徴用令などの法令を出して、国民に戦争への協力を強制し、また新聞紙法などを出して新聞やラジオなどの報道機関に対して規制を行ったことからも国民が自由に発言出来なかったことを証明できる。政府は、皇民化教育を進めながらこういった法令を出し、戦争への積極的な参加を強制したのだ。

 国家が戦争を起こすときには、このような報道規制や言論統制などが行われる。最近の例でいえば、2001年の同時多発テロ後にアメリカ合衆国は、アフガニスタンに空爆を行った。この空爆に反対したアメリカのある女学生は、空爆反対の意味をこめたTシャツを着て学校に登校した。これに対して学校は退学処分を決定した。当時、アメリカ国内では、アフガニスタンを攻撃することに賛成する国民が圧倒的に多かった。そういった中でその女学生がとった行動は、流れに逆らうものであったといえよう。自由の国と言われるアメリカですら、世論が傾き戦争への流れが出来てしまった状況の中で反対の声を挙げることは困難であったといえる。戦争が起きる時、国家はあらゆる手段を使って戦争支持に傾けるような世論を何とかつくりだそうとする。−度大きな流れが出来てしまえば、その流れに反対することが難しいことは、15年戦争や、先に挙げたアメリカの例からみてもそのことは理解できるであろう。

 太平洋戦争当時の日本はそういった戦急に突入する大きな流れや雰囲気が出来てしまっており、法的拘束もあったため疑問を感じても外部に示すことができなかった。このことが、G・Yさんの父など、疑問を抱いた国民の声を押し殺していくことになるのではないかと感じる。

 私は、小中高そして大学と進学するなかで、沖縄戦がいかに悲惨な戦争かを学んできた。日本軍による住民殺害・食料不足による栄養失調・餓死・マラリア・スパイ容疑・「集団自決」の強制・米軍による婦女暴行など、沖縄戦において起きた事実を知れば知るほど、その悲惨さに胸が痛む。私たちは、まずそういった戦争の実態を知ることが不可欠だ。そういった一つひとつの事実を知らなくては、戦争の無意味さや平和のありがたさを語ることはできないと思う。したがって、戦争体験者の証言を聞くことや文献を読み込むことは非常に重要だ。ただ、悲惨さを知って、「あのころは悲惨だったね。大変だったね。」といったことに留まってはならないだろう。そういった事実を踏まえた上で、ではどうすれば戦争を防ぐことが出来るのかについて考え、必要なときには発言し、行動することが重要ではないかと強く感じる。つまり、現在や未来に当てはめていくことが重要なのだ。では現在の日本はどうだろうか。

 2004年1月28日の琉球新報朝刊の社説に目が止まった。全体の内容としては、イラクへの自衛隊派遣に反対するとういうものであった。わたしが注目したのは、「防衛庁は着々と報道管制を進める。」「適切な情報の提供こそ、『派遣』という政治決定を国民に理解させるはずなのに、はばかることなく情報を隠蔽しようとすることにあやうさを感じる。」「冷静に周囲を見渡せば、、戦前の風景と似てきている。」「戦後、多くの人が反省したことは、軍部の暴走、政治の無力さばかりではなかった。なぜ、自らの疑問を内に閉じこめ、声を発することができなかったのか、ということだ。」などの部分だ。証言してくださったG・Yさんも、「あのとき(太平洋戦争)の雰囲気に似てきている。」と心配していた。先述したように、一度大きな流れが出来てしまえば、その流れに逆らうことは困難だ。今の日本は、戦争をしやすい状況に徐々に近づいているように私も感じる。ただ、今の段階ではまだ戦争への大きな流れにはなっていないと思う。だからこそ、今のうちに流れに逆らってでも私たち1人ひとりの声をあげていくことが重要であろう。では今の私に具体的に出来ることは何であろうか。

 普段の大学の講義において、私たち学生は全体的に発言力が低いように感じる。中学・高校あたりから続いていると思う。このことは、投票率の低さや政治への関心の低さとも無関係ではないように思う。つまり、自分の考えを示すことが苦手なのではないだろうか。こういった現状では、例えば国の姿勢について明らかに疑問を感じたときにも、世論の流れに逆らって自分の声を挙げることは出来ないと思う。したがって私は、これからはできるだけ講義の中で発言する事を実行したい。また、教師の立場として教壇に立った時には、生徒が発言力を付けることが出来る工夫のある授業実践を目指したい。

 私が最初に挙げた課題は「沖縄戦当時、県民の考え方はどのようなものだったか」であった。その答えとしては、皇民化教育によって、国のため、天皇のために戦争を行うのだ、という意識を植え付けられた。また、疑問に思っても口に出して言えない世論・雰囲気であったということがいえる。ではどうすれば戦争は防げるのかというのが新たな課題となった。それについては、これまで述べてきたように、沖縄戦という過去の出来事を、単に過去のものとしてとどめるのではなく、現在に生かしてくことが不可欠だと私は考える。そのためには、先に挙げたような、自分ができることから始めたいというのが、今回私が出した結論だ。

7 沖縄戦での教師たち
経済学科3年 Z・N

 沖縄戦というと本当の国民総動員戦争だったのではないかと思う。年齢など関係なしにみんなが戦場にいた。なぜこのような悲惨な結果になってしまったのだろうか。私はその理由は教育にあるのではないかと考えた。国全体がお国の為に戦うという体制だったということはその意思統一は誰がやったのだろうか。当然、司令官や天皇も大きな影響を与えたが、このように全体に広まったのはこの教育というものが大きいように思う。そこで私は教育がこの国、特に沖縄にどのような影響を及ぼしたかを調べてみたいと思った。

沖縄戦における教師の反省・批判として「教師は教育勅語を教えて教え子を戦争へ送り出したのではないか?」とか「小さな子ども達が戦前教育で洗脳のターゲットにされている。教師の責任は大きい。教育の現場で戦争の実際を伝えることが必要だったのでは」と言うものもある。またそれによって、アメリカーに殺されるくらいならと集団自決を図った生徒も跡を絶たなかった。さらに、神風特攻隊として出陣した学徒隊も数え切れないほどである。なぜこのような教育しかできなかったのか。戦争はいけない、何としてでも生き延びろ、命どう宝、と教えてあげることはできなかったのだろうか。教師が断固として主張していれば沖縄はこのような大勢の被害者を出さずにすんだのではないか。

 もしも、教師が「命どぅ宝」と生徒に伝えられなかったと言うならばそれは何がそうさせたのだろうか。まず私はなぜ沖縄という島がこのような惨劇に巻き込まれたかと言う背景を見なくては全体を見れないと思い、なぜ沖縄が日本の中に入り沖縄県として戦争に参加したのかを考えていくことにした。

沖縄県はかつて琉球国という一つの国であった。しかし明治政府は琉球の地理的好位置に注目し、国防拠点の確保を図ったのであり、そのためには沖縄人に日本への忠誠心を持たせること(日本人化)が、その拠点を確保する最良の手段であると考えたのである。これはアメリカが日本を領土にすることと何ら変わりがないように思えるが、ともかくこうして沖縄の置県が行われたのだ。そのような目的で急速に日本人造りが始まったのである。他県に疎開していった教師の証言に、「沖縄では形見であるかんざしも全部取り上げられたが、疎開先の民家はほとんどなべや包丁などもきれいに残っていた。」というのもある。当時鉄砲の弾などを作る為沖縄県のいたるところの鉄が回収された。それも地域一丸となり、また子ども同士でさえもそれをしないものには非国民だと罵った。

 もし、教育によって人々が洗脳されたならばどのようなものがあるかを調べた。当時の教育勅語、教科書、御真影の存在の三点を軸に述べることにする。まず、教育勅語であるが、今回証言してもらった私の祖父によると、教育勅語はどの学年も丸暗記しなければならなかったといっていた。毎日である。また、小学校の幼い年齢では内容は余り気にせずひたすら暗号のような難しい漢字もただただ暗記していた、と言っていた。この教育勅語は本当に当時の子ども達の中に根づいていたのだろう。祖父の友人はお酒を飲むと今でも教育勅語を暗唱し始めると言うから相当なものである。しかしその内容とは今私達が考える教育とはあまりにもかけ離れているものであった。

 一文を紹介すると「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」というものであった。その意味とは「ひとたび国家の一大事(戦争)になれば、勇気を奮い立て身も心も御国(天皇陛下)の為に捧げることで、天にも地にも尽きるはずのない天皇陛下の御運勢が栄えるようにお助けしなければならない。」と言うものなのである。

 次に教科書についてであるが、教科書もこの教育勅語の内容と同じようなものであった。現在の道徳に当たる修身書と言う教科書の最初のページには「ジコクヲマモレ」とか「ナマケルナ」とかという今の道徳と何ら変わりのない内容が記されている。しかしどんどんと教科書を進めていくと、「テンノウヘイカ バンザイ」と言った内容が多くなってくるのである。戦争が終わった後このような皇民化教育ではいけないとし、それに沿った内容は墨で消されて使用されたのだが、教科書はその墨で真っ黒くなったと言うぐらいだから、その量が半端じゃないことが分かる。

 最後に、御真影の存在である。前にも述べたように沖縄を日本人化するために政府はさまざまな策を出してきた。この御真影については東京などの中央部の学校は別として他県よりも先に行われた。それは御真影の果たすべき役割を早急に明確に示すものであった。沖縄への御真影の下賜には盛大かつ厳粛な儀式が行われ、それはただ単に写真と言う存在ではなく、念入りな儀式をもって出し入れされる半神格化した天皇の「分身」としてあつかわれ、いつでも拝み命よりも大切に守れと教えられていた。もちろん空襲警報などが発令されると、校長は真っ先に御真影の祭られている奉安殿へ向かい真っ先に防空壕の中に入れられると言った様子であった。また、その奉安殿の前を通る時は必ず45度にお辞儀をしてから通らなければならないと言うような徹底であった。このような儀式が強調されるほど、庶民に「天皇=恩恵を与える最高権力者」と言った概念をもたらしたのである。

 このように学校の制度自体が日本化されているのである。また、当時の校長というのは熱烈な愛国主義者でないとその職につけなかったともいわれている。また学校の中でも軍事教練が強化され、運動会でも騎馬戦や棒倒しといった戦争を意味するような行事ばかりであった。また、戦争が本格的に始まると若い男の教師も勤労動員に取られることになった。その時の証言に「身内のものだけのときはともかく、公的な集いになると弱音を吐くものはなく、自国の盾となる気概をそれぞれに述べ合い、述べ合っている内に本当にそれが自分に与えられた唯一の道だと言う心になっていくようであった。」とあるようにそのような組織が作られているのが分かる。

 このように教育はどんどんと普及し明治26年に「学制」によって制度が整ってきた頃の就学率は19.9%だったのにもかかわらず明治の終わりには95%までとなっている。

 このように、教師と言うのは戦争へ子どもを送り出すことが職務であるかのような教育をしていた。「人の子に『聖戦遂行』のためにしたがうべしと教育した手前、自分の子どもだけ内緒に、これはおかしな戦争だから従うなと言うわけにもいかずやりきれない思いでした。」という証言がある。それは教師自身が心までは洗脳されずしかし、そう教育するすべしかなく、実の子どもにさえもその教育を賛成と言うしかすべがなかったことが分かる。

 このように沖縄戦における教師とは、教師自身もその葛藤があったにもかかわらず、「皇民化教育」を教えていかなければならなかったことが分かる。私がその立場になってもそうせざるを得なかったのだろうか。私が生きている現在は当時の教育に自由に意見を述べることができる。どんなにその信念を持っていても、伝えれば殺されると言う恐ろしい時代をこの沖縄は体験したということを私達はずっと心に留めておかなくてはならないと思う。

今、イラクへの自衛隊派遣が大きな問題となっている。戦争を体験した世代からは戦争の再来・戦前ととても似ている、と言う声がある。私達は今何をすべきなのか、問われているような気がする。私達は沖縄戦を体験していない。しかし、このように沖縄戦を知り追体験をすることで、今まで以上に戦争の恐ろしさを知る必要があるし、それを次の世代に残さないように努力しなければならない。祖父がいっていたのだが、この今いる戦争体験者が証言を語らなくなり、沖縄に戦争があったことが過去のこととなったとき、沖縄は、日本はどうなるのかと言うことを恐れていた。これからを担っていく私達はこれからも沖縄戦で何かあったかを学んでいくことで、これからの平和な未来を作っていかなければならないと思う。

8 沖縄戦における母親の状況
商学科3年 S・M

講義を通し、私にとって一番衝撃的であったのが、証言の「泣く子は殺せ」「自分の子どもは自分で始末しろ」などの人間とは思えないひどい状況であった。周りから、このような事を言われ、ひどい状況の中で、子どもを持つ母親はどう子どもを守ろうとしたのか。そして、極致に追い込まれ母親は何をしたのか。戦時中の「母親」について調べてみたかった。

 課題追求のために、多くの証言・文献などを読み本当に胸が詰まる苦しくなるようなものばかりで、最後まで読みきることなど残酷すぎて苦しいものであった。しかしながら、講義を聴いたり、証言・文献などを読んでいるうちにこれは伝えなくてはならない、二度とこんな悲惨な過ちを起こしてはならない。そのために、教師を目指す上で、子どもに伝えていかなければならないものだと強く感じた。

私のこれまでの沖縄戦についての関わり方は、小・中学校で戦争についてのビデオを見たり、平和祈念公園などに行ったり、慰霊の日に黙とうをしたりすることであった。また、私の小学校3・4年の担任の先生が戦争体験者で学童疎開の対馬丸に乗ろうとして、直前で乗る事を辞めた人でもあった。その担任の先生から戦争の様々な体験談を聞いたりしていた。また、戦争中に着ていた自分のボロボロの着物を見せてもらった事もあった。これまでの沖縄戦の平和教育については、小学校が一番そのような機会がたくさんあり、中学校・高校とどんどん平和教育の機会は少なくなっていった。やはり、平和学習の機会を少なくする事は、いけない事であるとこの講義を通して強く感じた。高校では、調べ学習などの機会を設けたほうが、より平和の心を養う事ができるのではないかと感じた。過去の悲惨な過ちを強く伝えるべきである。

本題に戻り、戦時中の母親の状況であるが、いくつかの証言を紹介する。まずは、壕の中での避難中の体験である。突然、一歳の子どもが泣き出した。前日から飲まず食わずである。母親がどんなにあやしても、子どもは泣きつづけた。すると周りの人達から「その子どもを殺せ、アメリカ一に見つかるじゃないか」と声が聞こえた。その子どもの母親は最初は、無視していたが泣き止まない子どもに、あちこちから「殺せ、捨ててこい」の声が飛んできた。ただならぬ壕内の雰囲気に、母親は思いあまって泣く子どもの口の中に力いっぱいおむつを押し込んだ。子どもは手足をばたつかせ、悶えた。真っ赤な顔は次第に黒ずんでいく。たまりかねた母親がおむつを子どもの口から取り出すと、子どもは一気に空気を吸い込み、息を大きく吐き出しながら、今度は倍以上の声で泣き出した。それと同時に「殺せ、殺せ」の声も倍になって返ってきた。

 母親は、泣きながら、子どものおむつを突っ込んでははずしの行為を、何度も繰り返した。住民から責められっぱなしの母親はともかく、子どもの消耗は著しいものであった。最後は、ほとんど声を出せなくなっていた。このような体験は、当時幼子を抱えたほとんどの母親にあった。他の証言からも子どもを泣きやますために、小水に黒砂糖を混ぜて飲ませたというのもあった。

 また、自分の子どもを敵から守るためによその子どもを殺そうとした母親もいた。自分の子どもにあげていた食料を他の母親と子どもが見て、子どもが泣き叫んだのである。そうすると、自分の子どもがアメリカに見つかって殺されてしまうのではないかという恐怖からよその子どもを黙らすために崖から振り落とそうとしたのである。子どもを振り落とされそうになった母親は、必死で自分の子どもを救った。このように、戦争中は自分の家族を米兵から守ろうとする人々は、その邪魔をする者はたとえ子どもであろうと、容赦しなかったのである。そして、母親は必死で子どもを守ろうとする。

 また、数少ない食料も自分よりも子どもに与えるのである。逆にこの極致の中で、アメリカーや他の者に殺されるより自分達で一緒になって死んだ方がまだいいという考えになる母親もいた。その母親は、子どもの喉をカミソリで切り、自分も一緒に死のうとしたのである。しかし、傷が浅く、死ぬ事はできなかった。子どもは泣き叫んだ。

また、避難中にはまず子どもを前に抱き、もう一人はおんぶして、手を引き、荷物を持ち避難する。その避難の時には、親子どちらかが先に負傷する事もある。これは、当時9歳の少年の体験談なのだが、避難中に母親はものすごく深い負傷をおったが2・3日は必死で気力だけで生き延びたのである。

 このことから、やはり母親としてこんな小さな子どもだけをおいて死ぬ事は死んでも死にきれないと思う。また、先に子どもが負傷して死ぬ事もある。この時、親として何で子どもではなく自分ではないのかと思った。悔やんでも悔やみきれないのだ。そして、戦時中の妊婦は、疎開をした方が安全だが、疎開をすると助産婦さんがいないかもしれないという不安から疎開をしないで沖縄で生む人が多かったようだ。そして、この戦争の中なので、助産婦さんが間に合わなかったら、自分が生むという決心をし消毒液やはさみなどのお産バッグというものをもっていた。しかも、こんな危険な時の出産なので安産が多かったそうだ。

 この戦争の中、子どもを早く無事に産んで、絶対子どもを守るという事と、未来に希望をもっていたと思う。このことから、母親の子どもへの愛情と母親の強さを感じる。この戦時中の母親の状況から、どんな時でも自分の子どもは守るという強い気持ちと、それとは逆に極致に追い込まれ一緒に死んだ方がまだいいと思った母親もいる。そして、子どもが先に亡くなってしまって自分を責めてしまう母親、全てこの戦争がいけないのだ。自分が生き残ったとしても、ずっとあの時の無念が残る。人間が人間でなくなるのだ。住民の人達もこんなに恐い人達ではないのだが、戦争が人間をここまでにさせてしまうのだ。戦争が未来のある家族や住民を引き裂いてしまうのだ。このことは、ずっとずっと伝えていかねばならないと思う。

 そして、こんなひどい状況にあった沖縄に、なぜまだ基地があるのだろうか。戦争でなくなった人々は、そんなものは望んでいないだ。これから先、この沖縄から基地がなくなるように、そして、世界が平和であるようにこの島から、訴えていかなければならない。若い人たちにも、そういう意識を高めていくためには、私たち教師を目指すものが、平和教育を徹底して行わなければならないと強く感じた。そして、そのためには、これからも様々な戦争のことを研究していかなければならないと強く感じた。

9 沖縄戦と戦後の住民被害
英米言語文化学科3年 T・S

 私は、沖縄戦の大きな特徴が、住民を巻き込んだ地上戦で、この沖縄戦で、一番死者が多かったのは沖縄住民で「4名に1人」の県人が沖縄戦で亡くなった、ということから、なぜ、このように多くの住民が巻き込まれ、多くの犠牲者がで出たのか、疑問に思ったことや、戦争によって基地ができ、現在でも住民は多くの不安と被害を受け続けているということから“住民被害”についての課題を追求したい。

 まず、住民からなぜこんなに多くの犠牲者が出たのかについて考えてみると、背景の一つとして、教育勅語を意味もわからないまま、強制的に暗記させるという教育が行われ、人々を「国のために命をささげることが栄誉と信じ、洗脳させた。」ということが上げられる。日本軍が常に住民に対して不信感を持っていた「スパイ容疑」がその根底にある。つまり、米軍との接触はすなわち「スパイ」と同じことだという観念が強く働いているということである。そして、「スパイ容疑」による虐殺も、常に「国体護持」(天皇の国を護ること)のためということに繋がっている。つまり、数々の日本軍の犯した住民に対する罪悪は、すべて「天皇の国を護る」ために行われていた。

 日本兵による住民虐殺事件の例をあげると、直接手を下した例はスパイ容疑による虐殺で、死に追いやった例は日本軍の命令・指導による「集団死」の強要、食料強奪、壕追い出しなどが原因となった死亡などがある。証言などを見てみると、日本軍がいない所では、住民は集団自決をせずに降伏し、助かっている例も多い。また、捨石作戦といわれる程、沖縄戦は、本土決戦までの時間かせぎの為、持久戦を望み、そのために、日本軍人だけでは戦力不足ということで、沖縄住民全体で戦い、日本を守ろうとし、多くの住民を戦争に巻き込んでいった。このように、これらの特徴からもわかるように、日本軍は沖縄県民の命を大切にせず、住民の一人一人の命は軽視されていたということから、多くの住民が犠牲となった。

また、沖縄住民は日本軍だけでなく、米軍からも被害を受けていた。米軍は、沖縄住民,日本軍関係なく艦砲から機銃掃射、火炎放射などを使い無差別に攻撃し、日本兵と同じく、住民を大量に虐殺していった。これらのことから、沖縄戦は15万人を超えてしまうような多くの犠牲者をだし、命の尊重や人間としての尊厳さえもなく、人間が人間でなくなるほど激しい戦いだったということと、住民も大きな被害をうけたことがよくわかった。

 もし私が教える立場だったら、通常の戦争での死に方にないのが「沖縄戦」にはあったということを知ってほしい。それは「集団自決」や「日本軍の虐殺事件」などで、「集団自決」は、日本軍が流した「米軍への恐怖感」と日本軍の住民に対するスパイ容疑の板挟みの中で、「どうせ死ぬなら自分たちの手で…」と、身内の愛情表現として殺し合ったり、追い詰められた住民が自ら命を断った沖縄戦における、最も悲惨な事件であったのに対して、「日本軍の虐殺事件」は、手を下したのが日本兵そのものであったという事実の事件の醜さを伝えなければならないと思った。

 日本軍(兵)による沖縄住民の虐殺は正確な数字は明らかにする調査がないので不明のままだが、約40件数百人と言われている。一方、実際に殺されそうになり、知り合いの日本兵を呼んで助かった人や、それでも助からなかった人、偶然出会った日本兵が知り合いだったりして助かった例などが、たくさん証言にでてきている。住民を巻き込んだ戦争は、このように複雑多様な犠牲をおしつけ、しかも、直接戦闘と無関係な死に方(殺され方)の多いことに驚かされた。

そして、戦争は終戦を迎えたからと言って、その時点で解決するのではなく、むしろ、終戦を迎えることによって、様々な問題が浮上し、米軍基地・不発弾などと今でも多くの問題を引きずっている。その中でも、米軍基地があることによって、起こる問題や事件も多く、例をあげると、米軍人・基地の被害は、範囲が広く、騒音、環境などや、交通事故、傷害、殺人、強姦、強盗などと、現在でも住民は不安と被害を受け続けている。そのことから、戦後の住民の被害について調べてみると、返還直前の沖縄は、いたるところで住民の人権を無視した米兵による事件が多発している。

 また、「事件事故の裁判も多く、加害者である米兵は、ほとんどが無罪で、有罪判決を受けても、本国へ送還された後の刑執行は不明で、沖縄住民は泣き寝入りというありさまだった。」さらに、「実弾演習による自然破壊、原子力潜水艦による放射能汚染、基地からの排出物による汚染は日常茶飯事で、米軍統治下の沖縄はすべてが米軍優先であり、住民の人権は無視された状態であった。」(『米軍基地犯罪』福地宏昭労働教育センター/1992)とある。事件を調べてみると、数えきれないほどあまりにも、たくさんの事件がおこっているということを知り驚いた。そのことから、米軍側からみた当時の沖縄や沖縄の住民に対してどう思っていたのかと思い、調べていくと、『沖縄に基地はいらない』(岩波ブックレット)という本の中で、ある海兵隊の黒人のことが書かれているが、そこで当時の沖縄についてのインタビューに対し、その当時、海兵隊の隊員の間に、「沖縄へ行けば、女でも酒でも楽しめる、我々がどんなことをやらかしても、何にもおとがめはないのだ」というように噂が広がっていたそうだ。そのようなことからも、米軍犯罪が多発した原因の一つとして捉えることができる。

 沖縄における米軍基地は、在日米軍の専用施設面積の約75%が集中しているという面積の大きさや、施設数などと沖縄の負担が見えてくる。沖縄基地問題を考える上でも、トレードオフ関係を考慮しなければならない。中には、国土面積の0.6%を占めるに過ぎない沖縄県と、全国人口の1%にすぎない沖縄県民のみが大半の負担を背負うことで、日本の安全保障は確立している訳だから、沖縄の基地集中というのは、「効率的」と考えている人もいる(参考:県庁ホームページ)。

 私は、そのことに関しても、基地が集中することによって、住民に多くの被害を与えていることから、沖縄は現在でも「捨て石」なのではないか、と感じた。最近の新聞によると、「現在の米軍人の犯罪は1996年に比べ約4倍に増えている」とある。米軍の犯罪も、一時は減少したが、再び増加傾向にある。これは深刻なことである。このことから、基地がある限り、犯罪はなくならないと感じる。

 沖縄に住んでいる私たちにとって、米軍基地があるということは、一番身近にある大きな問題で、現在でも住民は不安と被害を受け続けている。私たちは、これらを真剣に受け止め考えていかなければならないと感じる。沖縄戦も語り手が生きている今だからこそ教える事も現実味があるが、語り手が生存しなくなった時代、どれだけ世代に伝えていけるかが問題である。現代の子どもたちは、戦争について、全く関係のない、過去の話だと感じる子どもが多いと思う。なぜなら、今まで学んできたはずの自分たちでさえ、沖縄戦に関して無知な部分もあり、満足に説明することができないというのが現状だからである。まずは自分たちがもっと学んでいく必要がある。

 平和学習で教える側の立場に立って、生
徒に教えるためには十分な知識を身につけなければならない。これは、たとえ教師でなくても同じ事である。沖縄戦は過去の出来事ではあるけれど、その影響として現代でも米軍基地が置かれていることなど、現在の私達の身近な問題として残っていることを気づかせ、現在に残された問題にも取り組んでいくべきである。

10 勤労奉仕と疎開について
経済学科3年 H・I

  序
最初のテーマは、「戦時中の教育」であった。それは、戦時中にも学校の授業はあったのか?またそれはどのような内容だったのか?という疑問から始まった。しかし、沖縄戦は予想以上に激しく、当時の子ども達は学校に通うどころではなかった。そこで、授業を受けられなかった子ども達の行く先は?またそこには何がありどのような内容であったか?という発想に変わり、調べていくうちに「勤労奉仕」と「疎開」というテーマにたどり着いた。この2点のテーマは郷土資料コーナーやインターネットでの検索で追求していった。

「勤労奉仕」
 昭和18年7月、伊江島の飛行場の建設が開始されそれの勤労奉仕が強要された。それは、中学生・青年団・学童という子ども達が主であった。子ども達は毎日ほとんど飛行場の建設に明け暮れていたという。それにも関わらず、学校の引率で行った学童生徒らは無報酬での勤労奉仕であった。週に3日は授業の日が設けられたが実になるようなものではなく、残りの日はまた飛行場建設のための勤労奉仕に従事させられた。中学生、学童という教育を最も必要とする大事な時期に勤労奉仕という肩書きの労働作業を強要されたというのはあまりにも気の毒である。

 教育の後れというのは多少の期間では取り戻すことが出来ない。特に中学生という時期に至っては教育で将来を左右されてしまう様な時期である。それを学校の引率で辛い作業に従事されるのは、今日ではとても考えづらい。しかも、無報酬で何のメリットもない。それを「勤労奉仕」と言ってしまえば自然な行為になると考えたであろう、当時の教育庁の幹部や日本軍がとても許し難い。

「疎開」
沖縄の疎開は、1944年(昭和19年)7月7日政府の緊急会議で決定された。同年7月19日に、内政部長名通牒・教親等595号「学童集団疎開準備に関する件」を発した。この通牒には「人口疎開ノ一翼トシテ県下学童ヲ安全地帯ニ集団疎開シ戦時トイエドモ少国民ノ教育運営ニ遺憾ナキヲ期シ併セテ・・・・・」とある。国民学校初等科第三学年から六年までの男児希望者を原則とした。

 疎開先の学童は、最初のうちは「修学旅行気分」や「ヤマトウが見たかった」などと言っていたそうだ(琉球新報社『沖縄学童たちの疎開』より)。実際の疎開先では、辛い生活が待っていた。寒さやひもじさなど恵まれない環境であったり、寂しさで泣いてばかりの児童もいたという。全く動こうとしない児童もいたそうだが、これは動かないで少しでも空腹を遅らすという子どもの心理ではなかっただろうか?

 戦時中だとは言え、このように勉強するにあたって、必要最低限のシステムが整っていないという状態には実に心が打たれた。寂しさに、授業や勉強に手がつけられないというのは当たり前の事であろう。疎開という言葉について以前までは多少の知識があるという程度であった。しかし、改めてこのテーマを意識するようになり、追求していくことによって当時の子ども達の教育状態や制度が解ってきただけでなく、心理も読み取れるようになってきた。当時の子ども達は「生きる術」を身につけており、必死に戦争という時代を乗り越えてきた。これこそが今の時代の教育に問われている「生きる力」ではないだろうか?

 今の時代は何でも手に入る「豊かな時代」である。勉強も好きなだけ出来るし、教養もいくらもつける事も可能である。しかし、戦時中のような「生きる力」というものがない。現代の若者が戦時中と同じ様な教育を受け同じような生活をしたら、当時の子ども以上の苦痛が生じるであろう。

結論
教育総合演習の「小論文」という最後の場で「勤労奉仕」や「疎開」について触れることが出来た。もしこの場が設けられなければそれらの事に関して無知のままであっただろう。戦時中の子ども達は想像以上に過酷な状況にあった事を理解した。今この時代には戦時中の人々のようなたくましさはないように感じる。「生きるちから」が問われている現代だからこそ戦争時代を振り返り、教育の場に導入すべきではないだろうか?そして反面、今までの自分の受けてきた教育と戦時中の教育を比べ改めて有り難いと感じた。沖縄戦の歴史は決して途絶えさせてはならない。それはあまりにも学ぶ事が多いからである。

11 沖縄戦における「集団自決」の意味を考える
人間福祉学科3年 O・N

序論
私が「集団自決」について調べようと思った理由は、私の中で沖縄戦=「集団自決」と言う構図が幼いころから(保育園、幼稚園…高校)の6月23日慰霊の日前に学校で行われてきた平和学習によりできていたからだ。また、知り合いの人でひめゆり学徒隊の生き残りの人がいて、友達が目の前で死んでいったのに自分が生き残っていることに夢でうなされることがあると聞いていたこともこのテーマと関係している。

まず、課題を追求するにあたって、授業の中で「集団自決」という言葉の使われ方に疑問符が投げかけられたため、「集団自決」の背景などの文献等を中心に検証していくことにした。

 最初に証言集等の文献を読むことから行った。「集団自決」について調べると多くの場面で登場するのが日本兵の「自決の強制」である。そこで、強制による自殺が「自決」と言えるのかを中心に研究を進めた。また、強制されずに死んだ(自決)人も多数存在したのでどのような心理状況だったのかもその考慮の対象にした。

T.住民の心理的状況
 「自決」・「集団自決」を行った際の住民の心理的状況は、
1.入り口を米軍に押さえられ見方の日本兵に見捨てられ逃げ場のない絶望感
2.日本兵による自決の脅迫(強制)に逆らうことへの恐怖心
3.米軍攻撃による死や捕虜になることの恐怖心
4.非日常的な状況での感覚、感情の麻痩による「死」の望み、集団心理による「家族との死」の正常化といった一種のパニック状態であった。このような状態では、自分の生死についてまともな(平常時と同様の)判断が下せたとは考えにくいのではないかと感じた。

U.日本兵の存在
 「集団自決」の場面に多く登場するのが、日本兵である。彼らの多くが米軍に追いつめられた局面で、住民の「自決」を迫っている。その迫り方も、武器を手にしてである。また、集団心理を利用してプレッシャーをかけることもある。それは、ガマの中での「自決」を拒む人に対して周囲の人々を扇動して、当たり前の死を受け入れない者にしたて、心理的脅迫の後で虚偽の「自決」の受け入れをさせたことなどである。

V.結論
 「自決」とは、「主義主張を貫いたり責任をとるため自殺すること。自害。」(「大辞林」第二版 三省堂)となっている。対して、沖縄戦での住民による「集団自決」は、住民の自主選択によらないものや、恐怖心による集団パニックの末の死への逃避であることが多い。つまり、「自決」を本来の意味で解釈した場合「集団自決」と呼べないものが多数を占めることになる。

 しかし、現在ではこの誤った呼称が学校現場や平和を願う場で何の疑問も抱かずに使われている。この事実は本当に恐ろしいことである。ただでさえ戦争の記憶が薄れていく中で沖縄の住民の死を誤った言葉で教えるということは、その「死」を積極的に自ら日本の戦争に協力しての「死」に変換させることにつながることになる。その結果、国が起こした戦争の責任を軽減することになるため国にとってはとても好ましいことである。

 実際、家永裁判の過程でも「集団自決」が軍の強制によって行われたのかそれとも住民による自発的行為(天皇のための死)かが争われたこともある。この時、国は一部の己にとって都合のいい証言だけを並べ、軍による強制死が無かったようなニュアンスの見解を発表している。これは、国家レベルで国として事実を捻じ曲げることと一緒である。その時の住民の立場の証言と国の見解とを例として紹介する。

 3月28日、慶良間諸島で家族同士が殺し合う痛ましい「集団自決」が発生した。その犠牲者は実に560名余りにのぼる。このことについて、防衛庁編集の戦史「沖縄方面陸軍作戦」では、「犠牲者精神」から、「集団自決」が起こったとしている。「小学生、帰女子までも戦闘に協力し軍と一体となって父祖の地を守ろうとし‥‥戦闘員の煩累を断つため(軍隊の足手まといにならないため)、崇高な犠牲者精神により自らの生命を断つ者も生じた。」(防衛庁編集の戦史「沖縄方面陸軍作戦」)

1988年2月、那覇で教科書裁判の沖縄出張法廷が開かれた(家永裁判)。その出張法廷で、金城重明(沖縄キリスト教短期大学教授)が証言台に立った。その内容は、「…移動した夜は、激しい豪雨と弾雨の中に身をさらして、不安と恐怖の一夜を過ごした。いよいよ3月28日という、私の生涯で最も長く、暗い日がやってきた。1千名近くの住民が一ケ所に集められた。軍からの命令を待つためである。…死刑囚が死刑執行の時を不安と恐怖のうちに待つように、私どもも自決命令を待った。いよいよ軍から命令が出たとの情報が伝えられた。配られた手榴弾で家族・親戚同士が輪になって自決が行われたのである。しかし手榴弾の発火が少なかったため、死傷者は少数にとどまった。けれども不幸にしてその結果はより恐ろしい惨事を招いたのである。米軍から打ち込まれた至近弾の爆風で、私は意識がもうろうとなり、自分はもう死んだと思い込んだ。なす術を知らずにじっとしていると、一人の中年の男性が生えている一本の小木をへし折っているのである。この小木が彼の手に握られるやいなや、それは凶器に変えられてしまった。彼は狂人のごとく、その木片で自分の愛する妻子を殴り殺し始めたのである。これが恐ろしい悲劇の始まりだったのである。精神的に追い詰められた私たちも、以心伝心で愛する者たちに手をかけていった。夫が妻を、親が我が子を、兄弟が姉妹を、鎌やカミソリでけい動脈や手首を切ったり、こん棒や石で頭部をたたいたり、ひもで首をしめるなど、考えられるあらゆる方法で、愛する者たちの尊い命を断っていったのである。文字通りの阿鼻地獄であった。」

 この、二つの証言では、明らかに印象が違ってくる。だが、我々沖縄の人は、「集団自決」という言葉になれすぎて疑問さえ抱かなくなってきている。このまま行けばもしかすると国の企みは成功して、戦争の悲惨さを表わす筈の出来事が天皇の偉大さを称える出来事にすり替えられそうな状況だ。

W.今後の課題
 これからの課題として、いつからこの「集団自決」という言葉が使われ出したのか、また、誰が言い出したのかを調べることでこの言葉の背景などの考察を深めていきたい。そして、教職に就くものとして早急に「集団自決」に代わる正しい言葉が使われるように努力していく必要がある。

12 沖縄戦における米軍の動きから平和教育・平和問題を考える
人間福祉学科3年 G・M

 今日、アメリカがイラクへ侵略戦争ともとられる事を行っている。「戦争」それは、とても醜いことで悲しいことである。少なくとも戦争が正しいことはない。違う点から見れば得なこともあるかもしれない。経済面等がそうである。しかし、必ず被害者がでることになる。戦争は後悔と反省しか残さないのである。このことから、私は「平和問題・平和教育」として私達が住んでいる沖縄に焦点を当て沖縄戦を述べていくことにする。

 沖縄戦は色々な視点から見ることが出来るが、私は「沖縄戦における米軍の動き」から沖縄戦を見ていくことにする。いろいろな視点から見ることが必要だが、今はどの情報、記録、証言を本論文でまとめるのは不可能な為この視点からだけ見ていくことにする。しかし、一つの視点から見ようにもそれが出来ないのが戦争なのである。そのことをふまえて述べていく。

 米軍の動きでは、3つのことがある。その3つとは1つ目は米軍がどのようにして攻めてきたのか、2つ目は米軍がどのように日本軍に攻撃を加えたのか、3つ目に米軍は沖縄住民に対しどのような態度、行動をとったかである。この3点を知り、沖縄戦を学んでいくことにする。このことを調べ知るにあたっては文献や証言を参考にしていく。

 1つ目の米軍はどのように攻めてきたかは1945年4月1日の沖縄本島上陸から述べていく。米軍は本島上陸の際、無血で読谷村字楚辺に上陸した。日本軍は、沖縄戦線では徹底して決戦する覚悟であったが、1944年12月に大本営がフィリピンのレイテ決戦の為、第9師団を台湾へ移動させていた。そのため、大きく作戦を変更したのである。そのため、米軍は無血で上陸することが出来たのであるが、4月1日なのでエイプリルフールではないかという冗談さえでてくるほどであった。その日はLデイと呼ばれている。又、沖縄は、本土決戦のための時間稼ぎの持久戦の場とされたのであった。この楚辺から上陸できない場合は港川、知念半島から第3海兵団が上陸し、与那原、西原、中城沿岸から第24軍団が上陸する予定だった。その為、日本軍は南部に勢力を固めていたという説もある。

 米軍は上陸後、南北に沖縄を分断していったのである。また、沖縄を南北に分断したことで双方にも攻撃ができる足場ができたのであった。また、初日に占領した嘉手納、読谷飛行場を使い爆撃機や攻撃機を使えるようにしていたのである。その後、北部、南部での戦火が強まり、南部での方では悲惨な状況での戦場が展開されていったのである。

 米軍の進行を知ることによって私達は、相手の視点から日本軍がどのようなことをしてきたかを知ることができる。上記でも述べたが米軍が楽々と上陸できた背景もこのことから知ることが出来る。また、なぜ南部に勢力を集めていたかが分かるのである。

 次に沖縄戦で米軍はどのような攻撃を加えたのかということを述べる。沖縄戦では、米軍はあらゆる手段を使って日本軍を攻めた。日本軍への攻撃等は爆撃機、攻撃機、機関銃、戦車、火炎放射器等様々である。洞窟へ立てこもっている日本兵、住民には投降を呼びかけ、それに応じない場合馬乗り攻撃とも言われている火炎放射器や毒ガスで攻撃していた。それに対して日本軍は、竹を編んでつくった戦闘機のオトリ機や大木で作ったオトリの砲台等、戦力の低さを顕著にしてきたのである。又、神風特攻隊や手榴弾を持っての特攻など米軍と比べれば明らかに戦力は劣っていた。

 米軍がどのように日本軍を攻めていったかを知ることにより、沖縄戦で戦った日本軍の戦力が米軍と比べ明らかに劣っていたことが分かる。ただそれだけが分かるということなのか。そうではない。これは、沖縄戦が本土決戦への準備のために捨石にされたことを強調することになるのである。

 次に沖縄戦における米軍の住民への態度、行動を述べることにする。沖縄戦では敵の米軍よりも日本軍の方が恐ろしかったという証言が残っている。それらの証言を少しあげてみる。A・Uさん(女性)の証言では、アラレーガマに身を隠していたが日本兵が来て出でいけといわれ娘を残して出て行ったとある。又、N・Eさん(男性)の証言では、米軍より日本軍の方が怖かったと言っている。これらの証言はたくさんある。又、その他の証言に日本軍は投降を呼びかける米軍に応えるものは射殺したり、集団自決を強要させたり、スパイ容疑で射殺したり、そして食料を強奪したりとその行為は酷かったとある。

 米軍の住民への接し方、態度も又良いものではなかった。証言の中でもやはり射殺されたものがいたり、障害を持っている者は毒殺されたり、食料難で餓死するものもいたり、女性に関しては強姦されて、恥ずかしさのあまり死ぬものもいた。しかし、許されることではないが日本軍と比べると接し方は良かったのである。『沖縄戦米兵は何を見たか−50年後の証言』(吉田健正、彩流社、1996年)の中では投降するものには水を与え、食べ物を与えていたとある。又、怪我を負っている者を治療したりしたとある。第一海兵師団所属の看護兵だったチャールズ・バードは日本兵であろうと民間人であろうとも負傷者は治療するように上官から指示されていてその指示に従い実際に治療をしていたとある。

 このように米軍の住民への接し方を見ていくと考えさせられることがあるのではないか。日本軍は沖縄の住民に対して非人道的な行為をしてきた。米軍も確かに非人道的な行為をしてきたが多くの人が人道的であったと思うに違いない。日本軍が非人道的であったということから本土は酷い人達だいうイメージが沸くだろう。しかし、日本軍の中にも多くの沖縄から徴兵されたものがいることを忘れてはいけない。戦争というものが非人道的な行為を起こさせたのである。

 いままで述べてきたことをまとめると、米軍が読谷から上陸し沖縄を分断し攻めていった。そして、日本軍は沖縄を捨石にし本土決戦のための準備期間とした。そのため日本軍は南部での決戦のために兵を集結させた。また、米軍は近代兵器を使い、日本軍を攻めたが日本軍は原始的な闘いをした。住民への接しかたは両者とも非人道的な行為だったが米軍のほうが住民に対して人道的な態度であったとある。

 今までのことをまとめると米軍の動きを知ることによって日本軍がどのように行動し、どのような戦闘をし、どのように住民と接してきたことが分かる。このように沖縄戦は一つの視点から見ることでもまた違う点からも見られるのである。それが、戦争なのである。一つの視点からは見ることが出来ないたくさんの視点からみる必要がある。

沖縄は本土決戦の準備のため捨石にされたことは先ほども述べた。米軍の動きを知ることで、反対の日本軍を知ることが出来る。そして、捨石にされた沖縄を知ることができ沖縄にとってこの戦争は何だったのかと改めて知ることができる。はじめでも述べたが、現在イラク戦争が起きその復興のため米軍日本の自衛隊等が動いている。自衛隊を派遣することが良いか悪いかは個人で考えることだが、沖縄戦で起きたこと、その後学んだことを基本に考えていってもらいたい。

 「平和問題・平和教育」として、沖縄戦における米軍の動きをとおして戦争を知り学んだが、今後の課題としては沖縄戦を知り学びとったことを今、現在起きていることを考えるにあたっての基本として行動していくことである。最後に、沖縄戦、他に各地で起こっている戦争は悲惨で、後悔、憎しみしか生み出さないことを忘れないでほしい。そのことが沖縄戦が残したものであるといえるのである。

13 戦後沖縄教育の出発
商学科3年 M・T

「戦後の沖縄教育」とは
 私は、戦前帝国主義であった日本が外国侵略、つまり戦争の道具として教育が使われていたのではないかと考えていた。それを昔から平和な島琉球として栄えていた沖縄にまで浸透させあの悲劇の沖縄戦を生んだ。今回の私の課題設定理由として、沖縄戦が終わり、沖縄がどのように復興の道を辿ってきたのか、また、このことに教育がどのように関わっていたのか、教育はどのように変化してきたのかということに非常に関心を持ったからである。

 沖縄の戦後教育は、大きく二つに分けられると私は考える。終戦から本土復帰までの教育、もう一つは、復帰後の教育だ。その中で、私は終戦間もない本土復帰までの沖縄教育に焦点を紋って課題研究を進めた。ここで、私の課題研究の小タイトルとして、“戦後の沖縄教育の出発”とつけた。そして、この“戦後の沖縄教育の出発”は、二つの特質をもって出発するという発見に至った。二つの特質とは、まず一つ、“米軍という異民族による支配のもとでの出発”、二つ目は、“戦争による大量破壊、大量殺傷による「ゼロ」からの出発”である。

1,“米軍という異民族による支配のもとでの出発”とは
 まず一つ目に簡単なタイトルを付けるとすると“沖縄人としての教育”が的確であろう。その当時の教育方針を記した初等学校令(1946年)や初等学校教科書編纂方針(1946年)には、「初等学校ハ新沖縄建設ノ精神ヲ体シ、初等普通教育ヲ施シ、児童心身ノ基礎的錬成ヲ為スヲ目的トス」(初等学校令第1条)、「沖縄文化ノ向上ヲ図り」「沖縄人ノ業績ヲ顕揚シ」「新沖縄建設ニ邁進スル積極進取ノ気ハク」(初等学校教科書編纂方針)といった文句が盛りこまれている。特に、初等学校教科科目内容表(1946年)をみれば、一目瞭然である。第4学年〜第8学年までに、「郷土の観察」、「沖縄史の大要」「沖縄中心の地理の大要」、「沖縄中心の東洋史・西洋史」といった沖縄人の育成を目指した沖縄中心のカリキュラムの編成が行われていたのである。また、沖縄から本土への大学留学などは好ましくないとして、沖縄には沖縄の大学「琉球大学」が開設されたのである。このように、長期的に支配下に置こうとするアメリカの占領戦略の一環として、本土から沖縄を切り離し、沖縄独自の立場を強調していく教育方針、つまり、“沖縄人としての教育”が徹底して行われたのである。

 二つ目は、アメリカ占領の象徴といえる“英語、英語教育の重視”である。占領当初、米軍政府は、沖縄の教育を英語で行うことを目論んでいたが、沖縄の教育関係者の反対をうけ実現されなかったといわれている。しかし、学校教育には初等学校の第1学年から英語が正式教科として導入され、英語重視の方針が打ち出されたのである。1946年に定められた初等学校教科科目時間配当表をみると、英語の時間は第1〜4学年は週1時間、第5・6年は週2時間、第7・8学年は週3時間となっており、公民、歴史、地理などといった科目よりも多く時間を配当されているのが分かる。

 しかし、実際教師たちに英語を指導する能力はなく、ほんとに初歩的な指導しかできなかった。そこで、米政府は、英語の普及と英語教師・翻訳者の養成を目的とした「沖縄外国語学校」を設立する。そして、後々には、英語の知識がある者は、仕事面あるいはその地位、給与など多くの面で優遇されるエリート的な存在として浸透するまでに沖縄教育に大きな変化をもたらしたのである。このような“英語、英語教育の重視”は、対米協調の促進を目的とするものであった。つまり、米軍による沖縄支配は軍事的理由によるものではあるが、長期的安定支配のために親米的文化状況をつくる営みも熱心に展開されていったのである。

2,“戦争による大量破壊、大量殺傷による「ゼロ」からの出発”とは、戦争による破壊はまさに「ゼロ」からの出発といえる。町や村といった自然はもちろんだが、教育面でも多大な破壊をみせた。

 まず一つは、学校校舎の約90%以上の破壊、そして、もう一つは全体の約3割を失った教師の破壊である。この破壊された状況から沖縄教育は再建を目指したのである。教育再建の第一歩として米軍によって設けられた収容所の中で、15歳以下の子供たちを集め学校教育らしいものを子供たちの生徒指導を狙いとして始めた。それは、沖縄決戦が開始されて以来沖縄の児童生徒は学ぶ機会を奪われ、4ケ月間の空白を過ごしているということがきっかけである。

 そして、学校を設立するためにまず教師がかり集められた。現職教師の約3割が失われ行方不明の者もいた。そこで避難から帰ってきた数少ない経験のある者を校長や教師として迎えた。他には、中卒小卒で無資格者なども教師として含まれた。すべての教師には辞令もなく月給も支給されなかった。また、教師の養成には時間が掛かるため教師不足は教育再建において大きな問題であった。このことから、戦争による教師の破壊は本当に大きかったといえる。次に問題となるのが約90%以上の破壊をみせた校舎である。そこで、海岸や木陰を利用して毎日一定の場所に子供たちを集合させた青空教室を学校とした。

 多くの授業は木陰や海岸などで行われ、石で白ぼくを作り、ベニヤ板に墨を塗って黒板としたり、砂浜を黒板代わりに用いているところも珍しくなかった。教科書も学用品もなく、毎日、遊戯・体操・開墾・初歩的英会話などで一日の授業を終えることも少なくなかったのである。また、鉛筆の支給はあったがノートがないため、米袋の紙や福木の葉を使用したところもあった。そして、校舎は時代が進むにつれコンセット校舎(トタン葺きカマボコ型兵舎)からブロック校舎へ丈夫さを増していった。また、次に問題となったのが、授業するにおいて必需品である教科書その他教材の皆無である。このことは、初め教師を中心とした収集作業に始まり、後に、米政府による一斉捜査命令が行われ、沖縄教科書編修所で教科書の編修が行われるに至り、徐々にではあるが解消されていった。

 このように戦後沖縄教育はゼロから出発し、教育を復興し「教育を守りぬく」という課題に直面した。そして、ここで注目すべきことはこれだけの破壊にあいながら、戦後、
早い所では沖縄戦終戦以前にすでに学校をつくるという兆しをみせたように、教師が中心となって住民を動員し学校づくりをすすめていっているということである。

 私は今回の課題研究の最終疑問として、「教師たちの教育復興のエネルギーは何であったのだろうか」を掲げた。その問に対して、戦後、沖縄の教育の中心指導者の一人である屋良朝苗氏の次の言葉が答えのように思える。

「私が常に云っていたことは、終戦後の教育の目標は、平和的な文化国家の建設で、その国を担って立つ若い青少年の文化的要求がかなえられないようでは、文化国家の建設などはありえないから、今はともかく必ず時期は来る、まもなく来る、といってたんです。来てから勉強すればよかったと思っても追いつかない。一生悔いを残す。だから、いつ来てもいいように準備をととのえておけと。これは、私の沖縄の教育全般に対する考えだったのです。沖縄は、必ず復帰すると、終戦直後から思っていた。(中略)いかなる条件下で復帰しても、環境に負けないで、環境を乗り越えていくような人が必要だ、人の準備なくして、沖縄の将来の備えはないということです。」

この屋良朝苗氏が述べたように、その後教師は、米軍弾圧や日本政府との隔たりの中で中心となって復帰運動をすすめていく。そして、日本復帰を実現させ、本土と沖縄の間に生じた終戦20年間の教育の空白「日本国民としての教育」を推進させていくのである。

 この時期の教育再建の動きは現在の沖縄に教育のみならず全てにおいて多大な影響を与えたのではないか。この事について今回の研究では、まだまだ教師の組織やその運動など掘り下げなければならない内容が多く私には残っている。全てを掘り下げていくことによって自分自身この時代背景を明確にする必要がある。それは、この教育再建の時代背景を沖縄戦の平和教育を語る上では外せない内容だからである。また、次の時代に教師として、また沖縄戦を伝えていく立場として、まず自分たちの理解が不可欠なのである。そして、先人である教師たちの働きを感心するだけでなく、今抱えている基地問題への解決への見本としなければならないのである。本当の終戦、平和を目指して。

14 有事法制と国家総動員法について
            社会学科3年次 M・H

 今日の日本の情勢はきわめて反動的であると言わざるを得ない。それはなぜかというと、つい先日小泉内閣がイラクへ自衛隊を派遣する事を決定しそれを実行したからである。そもそも日本は憲法9条(『1:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』)が存在しているのに、小泉首相は憲法と国民の反対の声を一蹴するかのように自衛隊をイラクへと派遣した。

このことで本当に『平和』が守られるのかと疑問に思うし、自衛隊の派兵の後にやってくるのはおそらく国民を戦争に動員できるように有事法が制定されるであろうと私は思っている。そして、その不安が否定できない法律が有事法の中に存在しているのである。それがいったい何かというと、有事法の中の“武力攻撃事態法案”である。

 また、有事法というのは1965年に暴露された軍事研究である『三矢研究』を基に作られた法案である。この“武力攻撃事態法案”の中で、とりわけ私が危惧を覚えたのは『国の責務』(第4条)・『地方公共団体の責務』(第5条)・『指定公共機関の責務』(第6条、第7条)・『国民の協力』(第8条)の個所である。これらの部分では、武力攻撃事態に対しては国・地方自治体・「指定公共機関」・国民が連携して万全の措置を取る、つまり国家の総力を挙げて対処するという事が記されている。そして、それと同時に首相に対して権力が集中し、戦前では天皇が権力を握って戦争を進めていったのと同様なことができるようになる。また、それと同時に第2条の定義6において、『アメリカ合衆国の軍隊が実施する日米安保条約に従って武力攻撃を排除するために必要な行動』を政府や地方自治体・指定公共機関が支援する事まで明言されているのである。

この部分から言えることは、国民は自衛隊だけではなく米軍の戦闘行為にも協力を強制されるのである。また、指定公共機関はこの法案の中でNHKやその他マスメディアをはじめ、電気・ガス・水道といった「公益事業」体、陸・海・空の輸送業者、日本赤十字などの医療機関、そしてNTTなどの通信事業などというように具体的に示されている事から、法律が施行された日からいつでも動員できるような体制をすでに作り上げているとしか言いようが無いのである。その上で国民の行動を全て国家が制限し、戦争に動員するのである。この時、国民が反対の声を上げたり、食料などを隠し持ったり、動員されるのを拒否すれば罰金・罰則が与えられるのである。

そして、基本理念の4では「国民の自由と権利の制限」が明記されている。具体的にはどのようなことが言われているかというと、有事の際には電話が使えないとか、前もって飛行機の席を予約していたとしても、いざ有事になればどんな事情があるとしても飛行機にも乗れなくなってしまうということである。他にも、例え重症の病人でも、有事の際には何がなんでも傷病兵が優先され、診察・治療が受けられないという事でもあるのだ。つまりはここで言われている「制限」は最小限だと小泉首相は言っているが、そもそも自由や権利を云々する前に政府が有事だと宣言すれば国民一人一人の生存そのものが危険にさらされ、命を落とす事と同じかもしくは近くなることであるから、小泉首相が言っていることは全くのまやかしであるという事がいえるのである。そして、それは同時に憲法第11条の『基本的人権』の権利を国民から奪い取るものでしかないのである。

 これらの事から、この法案で私が想起したのは第二次世界大戦前に制定された『国家総動員法』であり、さらに沖縄戦の時に動員された県民の事である。その時は小学生から60代の年寄りまで嘉手納飛行場や小禄飛行場をはじめ、戦争のための壕など作るのに動員され、他にも戦時中にはひめゆり高等女学校の学生を学徒隊として動員させられたのである。今にもこのような悲惨な歴史が繰り返されようとしているのだ。そして、武力攻撃事態法の中の『指定公共機関』の定義で言われている機関で働いている労働者は全く同じ役割を果たすことになるのである。もし、ここで動員されるのを拒否すれば、第二次世界大戦の時代と同じように、「懲役」や「罰金」などといった罰則が与えられ、非国民と罵られるのではないだろうかということが考えられる。最悪の場合、反対した人々がデモなどでも起こせば、それに対して『暴動をおこした』として、自衛隊が彼らに向かって発砲をしてもおかしくないのではないかと思う。

つまりこの事は、この『武力攻撃事態法』が成立すれば、有事の際に『指定公共機関』とされた諸企業で働く労働者は「職務命令」の名において戦争に片っ端から動員されるということである。また、先述した第8条においては『国民は指定行政機関、地方公共団体又は指定公共機関が対処措置を実施する場合は、必要な協力をするように努めるものとすること』と書かれているのである。このことは全ての国民に戦争への協力を強制することであり、同時に国民に対して『国のために命を捧げろ』といっていることと同じなのである。

そして、先述した通り米軍の戦争にも協力をしなくてはならないのであるから、この法律は極めて今の情勢を反映しているという事が窺える。どのようなことかというと、今の首相である小泉はなんとしてでもアメリカと共に戦争のできる国を作ろうと画策しているが故に、先述した通り米軍との行動ができるような文を明記しているのである。

 このことからも、この有事法案は本当に日本の平和を守るための法律なのかという事が誰もが疑問に思うのではないだろうか。確かに、世界が平和になるということは大切であり、そのためにも軍隊が必要不可欠だと思う人もいるかもしれないが、果たして軍隊というものは国民・民衆を守ってくれる存在なのだろうか。この事を考えた時、沖縄戦を経験をした人々の『兵隊は国民を守らない』という多くの証言からはもちろんのこと、沖縄戦の後に米兵が起こした犯罪からも、現在のイラク情勢を見ていると反米感情を募らせているイラク国民がアメリカ軍に対してデモを行えば、武器を持たない彼らに対して銃剣、もしくは戦車で持って鎮圧するといった行動から、決して軍隊は国民や民衆を守ってくれる存在ではないという事が言えるのである。

以上のことから、この法案はきわめて危険であるものという事がいえるのと同時に、悲惨な戦争を繰り返す引き金になる存在ではないだろうかと私は思う。また、それと同時にここでは触れることができないけれども、『個人情報保護法』や『改正後』教育基本法や日本国憲法を活用しての戦争のできる国として、日本は今その第一歩としての有事法制定に突進しているのであるのではないだろうか。また、有事法をなし崩し的に作り上げるためにイラクへ自衛隊を派遣したのではないかという事にも目を向けて考える事が必要なのではないかと思う。そして、その上で自分は今何をすべきか?ということを考える事がこれから大切になるのではないかと思う。

15 沖縄戦における住民のガマ生活
                      人間福祉学科3年 N・A

 私は、本講義において「平和問題・平和教育」を意識し、住民のガマ(壕)生活の視点から沖縄戦を学んでいった。沖縄の島々には、「ガマ」と呼ばれる自然の鍾乳洞が数多くある。ガマの多くは古くからの住民の生活に密着しており、堅固で地下水もあるため、沖縄戦では住民の避難場所となっていた。また、日本軍の陣地や野戦病院としても使用されていた。ガマ生活の中で、私の祖母からガマの中で起こった事実についていくつかの証言を得た。それは、食料強奪、スパイ容疑、ガマ追い出し、職場動員命令、入壕拒否と許可、壕や避難所の紹介、住民投降の勧告、幼児虐殺等である。祖母が証言する沖縄戦は、本当の事実と言えるのだろうか。

 確かに、証言から考えられることは、沖縄戦を一人一人が体験した場所も違うしその人の沖縄戦に対する価値観や見方は異なるのであろう。しかし、沖縄戦で実際に起こった一人一人が体験したことは事実なのである。祖母は「食料は、水・砂糖・黒砂糖(マメグー)・塩などで生活していた。また、油(豚)の固まりと芋、味噌をアメリカ兵の鉄カブトで煮て食べ、フロシキで包んで夜は逃げ歩き、昼はガマに隠れていた。そこでは、赤ちやんが泣けば砂糖を少しなめさせて泣きやませていた。」と証言している。それに対する証言の共通事実として「食料を入手できなかった地域では、日本兵による住民への食料強奪が相次ぎ、食料を強制的に提供させられ拒否する場合には殺害されることもあった。さらに、食料の乏しい離島では、日本軍にすべての食料を管理され住民は飢餓に苦しんだ。日本兵が虐殺の対象の一つとしていた幼児の泣き声も、米軍にとっては攻撃を中止する理由の一つになっていた。」

ここで私が言えることは、祖母の証言では、食料には比較的困っていないように思える。しかし、証言の共通事実としては飢餓に苦しみ、日本兵のよる食料強奪が行われているのだ。祖母の証言によるガマ生活の避難経路は、嘉手納飛行場からウクラ島、具志川の赤野、ヤンバル(東村)宮里であった。しかし、証言の共通事実の避難経路(西原村民)としては、「西原村役場壕→小波津の軍陣地壕→西原村池田ヘンサスク→与那原運玉森→作戦道路(池田〜南風原村大名)→大名→南風原村宮平→南風原村兼城→南風原陸軍病院壕→南風原村神里→東風平村友寄→東風平村東風平一東風平世名城→東風平村高良一兼城村与座岳(または東風平村八重瀬岳)→真壁村真栄平→摩文仁村米須→摩文仁村摩文仁(または喜屋武村喜屋武岬)→具志頭村ギーザバンタ→具志頭村具志頭一玉城村仲栄真→玉城村百名(以後収容所)→知念村志喜屋(「西原町史」)」となっている。

 米軍が沖縄を攻めたのは、1945年(昭和26)年3月23日である。米軍は最初の上陸作戦を慶良間諸島で決行し、続いて4月1日に読谷から北谷にかけての海岸に上陸、その日のうちに飛行場(読谷)と中飛行場(北谷)を占領した。ここで私が言えることは、米軍は、嘉手納飛行場から攻めてきたと祖母は証言しているが、実際に攻めてきたのは読谷飛行場である。また、米軍が攻めてくることによって祖母が中部から北部へと避難しているのに対し、証言の共通事実で読み取れることは中部から南部へと避難している。明らかに証言の内容とは異なっている。やはり、沖縄戦での体験は個人一人一人の体験は異なるのであろうか。

 祖母の証言によるガマの中での日本兵と住民の関係を聞くと、「ガマの中はあらしあいである。日本兵が住民は出なさい。私たち(日本兵)が入るからと日本刀を持って脅していた。ガマの中での日本兵は、米兵よりも恐ろしい存在であった。日本兵は愛がなく、どちらかというとアメリカ兵のほうが愛は大きかった。」と証言している。証言の共通事実としては、「日本軍による住民犠牲が大きく、兵員、兵器、弾薬、食料などすべてが不足する中で沖縄戦に突入した。このため、食料・避難壕などの強奪や戦争での水汲み、弾薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民などに強いた。」ガマ追い出しでは自分たちの住む町や村が戦場となった住民にとって、ガマや墓などが避難場所であったのだ。

 しかし、首里から南部へ撤退してきた日本軍は、陣地として使用するという理由でガマ・墓などを強奪した事例もある。避難場所を追われた多くの住民は、砲弾が飛び交う戦場で犠牲となり、砲弾炸裂するなかに放り出され、避難場所を求めてガマを探しまわった証言が多い。さらには、「日本兵がガマを使うから」と強制的に住民を追い出した。そのような、日本兵の「ガマ追い出し」でどれだけの住民が死んでいったのか数知れない。避難壕にしても、利用できる間は同居させるが、用が無くなれば追い出し、また自ら移動の場合は先の住民を追い出し、途中避難してくる住民は拒否し追い出していった。アメリカ軍上陸や進攻の際、住民を放置したまま日本兵のみ移動し部隊に戻ったらそっくり移動した後だったという事例も多数報告されている。

 このように日本軍は一貫して住民を守ることなく逆に危機に追いやっていたのである。日本兵が沖縄に住んでいる沖縄住民を守るどころか、犠牲にしてまで助かろうとする姿を証言により事実として受け止めるとあまりにも悲惨な姿が浮かんでくる。戦争という悲しみだけしか生み出さない争いは二度と生み出してはいけない。なぜなら、人間としてのなくてはならない「思いやりの心」が失われ、信頼関係を得ることができなくなる。戦争を起こしてしまっては自分が精神的・肉体的に衰えていくのは当然であるが、相手(他人)も同じように衰えていくのである。世界が平和へと発展していくためには沖縄戦体験者の数多くの証言を共通事実としてかき集め、世界に訴える(主張)することが必要だ。その一歩を踏み出すことで「真の平和」が築きあげられていくのであろう。戦争に関する資料や文献を読んで戦争とは何かを理解するよりも、多くの証言から理解した方が本当の戦争の恐ろしさ、悲惨さ、姿、そして平和の有り難さを実感できる。

 アメリカ軍の攻撃に対してアメリカ兵よりも日本兵が怖かったという証言は多かった。沖縄戦に放り出された一人ひとりがそれぞれの違った戦争体験を持っているということを知ることができた。また、いくつかの証言を集めていくうちに同じガマ生活の中でも時間の経過によって違った状況があったのも事実である。
 この講義を受講して私は、今の平和の大切さを再確認することができ、戦争の「恐ろしさ」というものを沖縄戦を知らない時の何倍も感じることができた。課題解決として沖縄戦は一つの証言だけでは語ることができず、証言は事実のすべてとは言えないのである。ガマにおける戦争体験はあまりにも一人ひとりの体験が特殊で独特なものである。そこでの生活の中で生き残った人、死んでいった人それぞれの戦争体験がありそれが沖縄戦になるのである。生き残った人たちと死んでいった人たちの体験証言の思いを重ね合わせ事実として表現することで沖縄戦の真の事実が浮かんでくるのではないだろうか。

16 沖縄戦における教育の役割
                   社会文化学科 3年 S M

 私がこの講義で課題と設定したものは「なぜ兵隊よりも住民のほうが多く亡くなったのか?」というものである。しかし、多くの証言や文献を調べていくうちに「教育」というものが大きく関係していると思った。そこでこの課題追求・課題解決の焦点を「教育」に絞って見ていくことにした。ここで主に見ていくのは、戦争に国民をかり出させた日本の教育方針と実際に教育を受けた人の話を中心としたものである。

今回、聞き取り調査をさせていただいたG・Yさんの話を事例としてあげながら私の課題追求・解決を行って行きたいと思う。

 まず、始めに国家政策の一つで制定された多くの法律について見ていきたいと思う。国民を戦争に巻き込んでいった法律の中で「国家総動員法」「治安維持法」といったものが大きく影響していると私は考える。証言のなかにもあるように、強制的に国民の意識を変えようとして反抗する者には拷問したり、逮捕して留置所に入れそこでは殴る蹴るの暴行を加えていた。そのようにされるとイヤでも認識を変えるのではないか?恐怖感の中では冷静な判断はできないし、反抗すれば何をされるか分からないから従うしかない。周りがどんどんそうなっていけばおかしいと思っていっても主張することは許されなかったわけである。そして社会の体制に反感を持たせないような教育がされていった。

 次に聞き取り調査をさせていただいたG・Yさんのお話を主に戦時中どのような教育が国民に対して行われていったのかを見ていきたいと思う。G・Yさんは、ペルー2世で小学校2年生の時(昭和14年)に沖縄に帰って来た。ペルーには、いくつかの日本人学校があり、教育内容は日本とあまり変わりはなかった。日本の学校ではなかったスペイン語やスペインの歴史を学んでいたそうだ。そして、G・Yさんが中学1年生の頃に沖縄戦があった。戦争がしだいに激しくなっていくと、もともとあった英語が敵国の言葉だといって廃止された。

 学校の教員は兵隊あがりの者であり、学校には昭和18年頃から軍のほうから現役の兵士が来て直接生徒を指導していたそうだ。このときの社会は戦争一色だったために軍が何よりも絶対的な権威を持っていたために校長先生も逆らえなかったという。G・Yさんを含め多くの国民が軍事教育を受けた。その内容というものは、例えば「軍人勅諭」「教育勅語」を丸暗記させたが、G・Yさんは小学校6年の時には「教育勅語」の暗写をさせられた。この「教育勅語」というものは、1890年に発布されたものである。勅語とは、大日本帝国憲法下、天皇が直接的に国民へ発した意思表示である。そして、大日本帝国憲法では、天皇には大権が認められていたので、勅令によって個人の人権を侵害することができたのである。

 天皇自身が教育方針を定めていたので戦争にかり出すような教育もできたということになる。それを最も表しているのが教育勅語の中にある「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」である。この部分を意訳すると、「もし、万が一、戦争でも起こった場合には皆、勇んで君国(天皇国家)のために一身を捧げて大いに尽くすように心がけなければならない。」というふうになり、簡単に言えば、国家の危機が迫れば忠義と勇気を持って働き一身を捧げて天皇のために尽くせということである。自分の大切な命を天皇のために捧げなさいというような教育を行い、天皇のために尽くすことが日本国民として、また人間としての最高の徳という概念を国民に植え付けたのである。そのような教育を受けてきたG・Yさんやそのお父さんはガマに日本兵が入って来たときに「出ていけ!」という風に言われ、その命令に素直に従ったそうだ。これは明らかに軍事教育の影響を受けておりG・Yさん自身も当時は出ていくのは自然・あたりまえと感じていたそうだ。

 G・Yさんはペルーの日本人学校でも教育を受けていた。そして、沖縄に帰ってきた当時は教育の違いを感じていたがみんながやっているから自分も、というふうに自然な形で軍事教育を受けたそうだ。このころ学校で使われていた教科書は軍艦や戦車・兵隊などが挿絵で用いられており「日本軍の船がアメリカ軍の10隻の船を6隻大砲で撃ちました。では残りのアメリカ軍の船は何隻でしょう?」といった問題の中にも使われていた。そして、学校では日本はどこにも負けない強い国だということを頭にたたき込まれていたので、戦争が終わりに近づき実際には負けていても、作戦の一部で弱っていると見せかけて敵が油断したところで一気に攻撃を仕掛けるんだと思って決して負けはしないと思っていたそうだ。

これまで見てきたように国民が戦争に狩り出されたのは教育というものが深く関わっている。今回、私の課題を追求・解決するにあたって私が学びとったものは、「教育」のありかた一つで社会は大きく変化するということである。天皇のためにすべて自分の命まで投げて奉仕することが美徳だというふうに幼い頃から教えられれば何の疑問を持たずに命を投げ出してしまうそんな悲惨なことが起こってしまうのである。彼らは皆、自分のために生きたのではなく天皇のために生きてそして死んでいった。とても悲しく言葉では表現できないくらいの憤りを感じる。あの戦争に何の意味があったのだろう?人々に何をもたらしたのだろう?もたらしたものは何とも言えない悲しみだけで多くの大切なものが失われていってしまった。

 戦争の反省を受けて、1947年「教育基本法」が制定された。この法律は、日本国憲法に基づいて教育に関することが細かく記されている法律である。戦前は「教育勅語」により教育が行われそこでは天皇の支配を受けていた。しかし、この教育基本法では第10条に「教育は、不当は支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものとする」と記されている。このほかにも教育の目的や教育の方針について述べられている。教師を目指すものとして、この教育基本法の本質的意味を理解しなければならないと私は思う。なぜならば、戦前のまちがった教育のせいで戦争は起こってしまったといっても過言ではない。だから教育というものはとても重要なものであり、その真意を私たちは学ぶ必要があるのである。もう二度とあのような悲惨な戦争が起こらないためにも教育がどうあるべきなのかをもう一度考えてみる必要があるのではないか?その一つの手段として教育基本法がもつ真意を捉えていくことが今後重要になってくると私は思う。

17 なぜ沖縄住民はこれほどまでの被害を受けたのか
〜日本軍と住民の関係から観る〜
            人間福祉学科3年 K・S

 これまで私は、沖縄戦について学校の授業や文献、テレビなどのマスメディアを通して観たり聴いたりしてそれなりの怖さ・悲惨さを学び、それに伴う自分なりの知識と考え方を持っていたつもりだった。しかし、この総合演習で改めて沖縄戦についてまた、平和教育・平和学習に正面から向き合う機会を得て、自分の知識が穴だらけであることに気づいた。私自身知らなかったことや、表面しか捕らえきれていなかったことがこの課題を通して見えてきたのである。

 文献や資料、証言などを調べていくうちに、沖縄住民によく思われていなかった日本軍の姿が浮かびあがってきた。それは、一般的な沖縄戦の特徴からも読み取ることもできる日本軍の沖縄県民に対する仕打ち、また、住民の証言の中に「アメリカ兵よりも友軍兵がこわかった。皇軍は天皇の軍隊であって国民を護る軍隊ではなかった」「日本軍に助けられはしなかったが、米軍に助けられた」などの日本軍を非難した声が多く見られる。

 また、あるアンケート調査で、「日本兵と米兵どちらが恐かったか」という問いに対して、日本兵と答えた人と米兵と答えた人がほぼ同率であるという結果がでた。これらのことから、日本軍は必ずしも住民の味方とは言い切れなかったということに注目した。それにより、「沖縄住民がどうしてこれほどまでに被害を受けたのか、日本軍と住民の関係から観る」と題した課題を得ることになった。この課題は、文献や資料、証言をもとに沖縄住民と日本兵の間にどんなことがあったのかを、主に日本兵の住民に対する虐殺や仕打ちの観点から分析するというものである。

 まず初めに、沖縄戦の主な特徴を見ていきたいと思う。第一に住民を巻き込んだ最大規模の地上戦が行われたこと。第二に住民対策が不十分であった上に民間人がすべて戦場に動員されたため、軍人よりも一般住民の方に多大な犠牲者がでた。そして第三の特徴として、日本軍による住民殺害事件の多発があげられる。どの特徴も、沖縄戦以外の戦争では見られることがなかっただけに、沖縄戦の悲惨さや残酷さを物語っている。

 第一・二の要因としては、「米軍の進行が予想外に早くて住民を避難させることができなかった」と一説にあるが、詳細は定かではない。私は、この第三の特徴に焦点を定めて進めていきたい。この第三の特徴は、大きく分けて二分割できると考える。一つは、誤射による射殺,スパイ容疑をかけられての殺害,ガマ内においての乳幼児・子どもの殺害、投降や声かけなど、非国民・スパイ視による殺害などの直接手を下した「直接的な犠牲」、二つ目は、「軍官民共生共死」の指導方針の下での集団死や情報操作による「集団自決」,強制退去先の山中で悪性マラリアによる戦病死や栄養失調死、壕からの追い出しによる被弾死、食料強奪による餓死などの間接的な要因を持つ、「間接的な犠牲」である。こうしたいわゆる住民虐殺の事例は数多く実在した。

では、このような住民虐殺がなぜ行われたのか。また、どのように行われたのだろうか。主な虐殺例を取り上げて観ていこう。

 直接的な儀性の主な要因としては、まず、スパイ容疑による虐殺があげられるが、これは日本軍の上層部による命令が大きな原因だろう。「軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ス沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(スパイ)トシテ処分ス等」とある。この命令により、住民の中にスパイがいるという情報を流し、住民を監視させた。知らない人や初めて見る人が道を歩きながら紙と鉛筆で字を書いている者はすべてスパイ容疑で捕まえるといったことも、命令に含まれていた。また、この虐殺の一番の被害者は、移民帰りの人々であった。疑いをかけられ常に警戒され監視されていて少しでも不振な動きがあれば容疑をかけられたのである。

 次に一般住民の虐殺があげられる。これは、軍に協力しないとか、戦闘の邪魔になるといった理由で、もしくは、理由なしに一般住民が殺されるといった虐殺である。例えば、被弾したり何らかの理由で負傷したりした人や障害を持っている人は、戦闘の時や避難するときに足手まといだからといって見捨てたり殺したりした。また、壕の中で子どもが泣いたりすると、泣き声で敵に見つかってしまうという理由で日本兵が首を絞めて殺したり注射をして殺した。中には、母親に殺すように命令し拒否すれは壕から追い出されるか、いっしょに殺されたのである。

 間接的な犠牲の主な要因は壕からの追い出しや食料強奪などがある。壕からの追い出しというのは、住民が避難していた壕に日本兵がやってきて軍隊のためにあけわたせと軍刀や拳銃で威嚇し強制的に立ちのかすといった身勝手なふるまいで、拒否をするとやはり殺された。食料の強奪は、住民に対して食料を強要したり収容所や避難所から食料を盗んだりした。こうした日本軍の横暴で身勝手な振る舞いが住民の恐怖を二倍にも三倍にも大きくしていったことは言うまでもない。

 住民からしてみれば、外にも内にも敵がいるようなものだから安心できる場所がなく常に緊張の糸を張り詰めていた状態だったのだろう。また、方言の制限や権利の黙秘、住民にとって安心できる場所はなかったのではないだろうか。米軍も日本軍も住民にとっては自分たち自身を脅かす存在にすぎなかったのだと私は考えるのである。少なくとも、このような状況を日本軍が作りだしていたことはまちがいないといえる。これが、沖縄戦が住民に多大な被害を与えた一つの大きな要因である。

 こうした日本軍の行為の裏側には、当時の教育が根本的に関わっているのだと私は考える。当時の教育といえば、「教育勅語」を中心とした指導であった。教育勅語は1890年に明治天皇の名で発布されて以降、日本の敗戦後にいたるまでの56年という長期間にわたって、日本の教育の根幹となっていたものである。

 子どもの頃から天皇を神と崇めるような文章を暗記するまで何度も復唱させられ、その概念を教えられていては、それが当然と考えるのは仕方のないことである。教育勅語の一文に、「いったん国にことある場合には、勇気をふるいおこして命をささげ、君国のためにつくさなければなりません。このようにして、あまつひつぎ(天つ日嗣)の大みわざをお助け申し上げるのが、私たち臣民のつとめである。」とあるが、これは、「戦争がおこったときには、天皇と国家のために敵を殺し自らも命をささげろ」と教えている文章である。

 日本軍が、いや全国民がこのような教育を受けていたのなら、住民に対する仕打ちや虐待もうなずける。人格や人間性を問う前に根本から間違っているのだから。このことから教育の大切さが見えてくる。だからこそ今「平和教育・平和学習」なかで正しい情報や知識を子どもたちに与え、「真実とは何か」と常に考える力を育てなければならないのである。

 沖縄戦、これは決して忘れてはならない惨劇、決して消えることのない心の傷痕、そして人類が犯してしまった最大の過ち。私たちの住む沖縄でこのような歴史が生まれてしまった。私はそれを経験していないし見てもいない。だから沖縄戦がどれだけ悲惨なものだったのか、恐ろしいものだったのか、実際に肌で感じることはできないし知ることはできない。しかし、だからこそ「平和教育・平和学習」の場などを有効に利用して、少しでも多く沖縄戦について、平和について考える時間を持たなければならないのである。そうすることによって、過去の過ちがこの先の未来に二度と起こしてはならないものだと実感していくのだ。そして、人類の一人ひとりが平和について真正面から真剣に考え取り組んでいったとき、真の平和がそこに存在するのである。未来に「真の平和を願う」…。

18 沖縄戦中・戦後、米軍基地はどのように建設されたか
人間福祉学科3年 U・J

 はじめに
 アメリカのイラク攻撃が起こり、世界情勢はアメリカ、イラクに目をむけるようになった。そして他国もアメリカを支援、ついには日本もイラクへ自衛隊派遣を決意した。アメリカのイラク攻撃で私たちの住む沖縄に一気に緊張感が走った。イラク攻撃をしたアメリカ軍の一部がここおきなわの基地から出兵した。また、イラクへ向かう飛行機の一部の出発拠点が沖縄の基地である。そのことを知っている県民は基地のある沖縄が反撃される対象になるのでは、と不安を募らせていった。そんなときに私は、なぜ沖縄に基地が存在しているのだろうかと考えた。それが課題の発見である。

 また沖縄に暮らしている私たちにとって基地とは身近なもので、私たちの世代からは[沖縄=基地]などというだけのものになりつつあり、基地の存在が何気ないものになってきていると思う。しかし、基地についてもう一度考え、私たちが生まれた時にはすでにあった基地について、基地はどのようにして沖縄に置かれたものなのか、そして基地を持つ沖縄県について考えていきたい。

1.今、現在沖縄にある基地はどのようにして置かれたものなのか。
−沖縄に一番初めに置かれた基地は、実は日本軍が建設して置かれたものだった。−

 基地は1944年、米軍からの攻撃に備えて日本軍が沖縄の各地に飛行場などを建設していき要塞として強化していく。しかし、米軍が沖縄に上陸するとこの日本軍が造った飛行場は次々と占領され米軍の基地として利用されるようになった。沖縄にできた基地は当初は日本軍のものだったのだ。また戦争が終わっても住民は難民収容所に隔離されていたため米軍は沖縄の土地を取り上げ、基地を造っていった。このような米軍の行いは、国際法に反していた。

日米安全保障条約と基地
 そんな中、1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約とともに日米安全保障条約が結ばれた。この条約によって日本はアメリカ軍の駐留を認めた。これによって国際法に反していたはずの沖縄の基地は法的に認められてしまったのである。

 2.米軍の全面占領支配
 −沖縄をアメリカに売り渡した二つの文章−

 このようにして日米間でサンフランシスコ条約、日米安保条約が結ばれたが、この日米間で結ばれた条約で日本は沖縄を米国に売り渡し、日本の独立の回復をしたのである。その沖縄を売り渡した文章がこの二つである。

「サンフランシスコ条約」〜北緯39度以南の沖縄を含む南西諸島をアメリカの唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおく。それらの島々の住人にたいし、司法、立法、行政の権利の全部、または、一部をアメリカが有する。

「琉球諸島に関する天皇の見解(1947年9月20日付の米マッカーサー元師当てシーボルト米対日政治顧問の書簡)」〜「アメリカによる沖縄の軍事占領の継続は、国民も希望するだろう」
これで沖縄がアメリカの支配下におかれるようになった。

 3.米軍の沖縄占領のねらい
 −日本軍と米軍の沖縄の見方−

 戦前・戦中の米軍の沖縄占領のねらいは何だったのだろうか。米軍の沖縄占領のねらいには、二つの理由があった。その一つは日本本土決戦に備えて、その前線基地を造ることだった。そしてもう一つは日本を占領した後にソ連を封じ込めるためにあった。米軍はこのように、沖縄を本土決戦の前線基地にすることと、その後ソ連を封じ込めるために基地を造りたいという目的で沖縄を見ていた。しかし、それに対して日本軍は、沖縄戦を本土決戦までの時間稼ぎとして、沖縄を時間を稼ぐための場としてしか見ていなかった。このように日本とアメリカと比べてみると、日本は沖縄を捨て駒としていたが、アメリカは沖縄を本土決戦の中心にしたいと考えていて沖縄での戦いをとても重要視していたことになる。

 4.武力による土地接収

 日本はアメリカに敗れ、サンフランシスコ条約が結ばれた。沖縄はアメリカに主権を奪われていった。そして、米国「民政府」は、1953年3月に「土地収用令」を布告した。これは、軍用地契約に地主が応じない場合、米軍が勝手に土地の評価と借地料を決めた契約書を作り30日以内に契約しなければ、有無を言わさず「強制接収」できるというものだった。

1953年12月に小禄の具志、55年3月に伊江島、同年7月の宜野湾村伊佐浜の土地接収で農民をはじめとする県民の激しい抵抗にあった米軍は、完全武装の軍隊を投入して略奪に等しい手段で土地を強奪していった。米軍がこうして県民から強奪した土地は1960年までに沖縄本島の陸地面積の約25%、351.26平方キロメートルにも及んだ。現在は基地の整備・縮小などが行われ、米軍基地は19%までに減りはしたものの日本全体の米軍専用施設面積は75%も沖縄に集中しているのである。

 5.安保条約と平和主義
 −基地のある沖縄は、本当に平和主義に当てはまるのか−

 沖縄は安保条約によって基地配置を余儀なくされた。一方アメリカはこの沖縄の基地をアジアなどを抑える格好の場として位置づけていった。それについて、米国高官は「日本における米軍基地がなければ、朝鮮戦争や、ベトナム戦争は戦うことができなかった。」と証言している。この事からもわかるように沖縄は米国の戦略上重要な位置を占めていたのである。しかし、日本国憲法には平和主義という理念がありもう二度と戦争は起こさないという国民の平和を願う気持ちがうたわれている。その平和主義という理念に基地は反しているのではないか。平和主義を求めているのに沖縄からは、戦争へ向けて軍用機が飛んでいく。それは、戦争の拠点が沖縄であるといっても過言ではない。そのような基地を認めた安保条約は平和主義と矛盾するのではないか。

6.「日米安全保障条約第10条」
 −平和を願う気持ち−

 「…いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させることができ、その場合には、この条約は、そのような通知が行われた後一年で終了する。」(安保条約第10条)
 この条約により、日本政府が米国に安保条約の廃棄を通知すれば米国は一年後に日本中にある基地を撤去しなければならないことになっている。条約にも書かれているように基地の廃棄通知が行われたら基地を撤去しないといけない。

 この事を日本全体が知り、沖縄による基地による被害を知り基地は要らない、安保は要らない考えを持てば基地はなくなるのだ。そして基地が無くなったときに本当の平和が沖縄にくるのではないだろうか。一人一人が平和を願えば基地は無くなるのだ。

まとめ
 沖縄の基地は沖縄県民の意志を無視して造られた。今もある基地の被害や危険性をもう一度考え、平和について見つめ直すことが重要だと思う。そして安保条約第10条を考え、基地の要らない沖縄、基地のない沖縄、そして心から望む沖縄について私たち一人一人が考えていかなくてはならない。平和主義国といわれるこの日本で基地のある沖縄は本当に平和なのか、平和というものを考えた上で基地は要らないものということを沖縄に住む一人一人が意識していかなければならない。その平和への意識を伝えていくことが私たちのこれからのこれからの課題だと思い。

19 戦後の沖縄住民に対する支援や援助について
人間福祉学科3年 O・Y

 太平洋戦争において、日本の作戦として沖縄は激しい地上戦の舞台となった。その結果、皇軍によって、土地や財産を没収されたり、身内を奪われたりと様々な被害を受けた。その沖縄県民への人的被害や土地・財産は戦争後どのような援助・支援を受けたのか?又復興に対する援助支援はあったのか?

 まず、収容所内での生活だが、収容所内では作業などの労務をする代わりに食料や水が与えられていた。その配給の食糧は、六斤缶のアイスクリームパウダー・粉ミルク・牛肉・牛タン・チョコレート・ココア・干しジャガイモ・いも等様々なものがあった。しかし、作業で与えられる食料は家族分というわけではなく家族が何人いても決まった分量が配られていたので、一人の人はおにぎりを一人で食べられるが、家族がいる人はその一つのおにぎりを家族のみんなで分けながら食べていたのである。その当時、沖縄に配給用の食糧を調達していたロストロー軍曹は、沖縄の住民の食生活を考慮した上で食料を調達していたが、彼は船舶から海岸に運ばせ、沖縄人が運転するトラックに積むまでしか把握しておらず、運ばれた物資などはどのように配られたのかは彼も知らない。しかし、アメリカ軍は、沖縄の食生活を考慮した上で配給する食糧を考え、それをアメリカから移送していたのである。

 また配給されていた衣服の背中には「PW(プリズナーウオー=戦争罪人・敗残兵)と書かれている服が配給されていた。この衣服はアメリカ兵の軍服であり、当然沖縄の住民にとっては大きすぎるものであったが、着るものがろくにない時代であり住民は袖や裾を折り曲げて着ていた。

 また住民の住宅はテント小屋だけではなく、1945年8月から3年間の間で、戦災復興住宅「規格家」が75000棟が建てられた。しかし、住民の全てが規格家に住めるわけではなかった。このように戦争直後は全ての面において不足している状態で、たくさんの物資を持っているアメリカ軍から盗んでくる人達もいた。那覇の泊には当時、米軍の資材集積所があり、そこの材木の仕分け作業を行うと、賃金の代わりに折れた半端な材木がもらえたという。しかし監視の目を盗みトラックの荷台の中央にまっさらな材木を置き、周りを半端な材木で囲み、半端物の材木しかないかのように見せかけ材木を盗み出し、その材木で学校を建てた。

 沖縄戦直後、住民の住むところはなくなり収容所での生活を余儀なくされたが、しばらくすると元住んでいた地域への移動が許可される。しかし、元の部落に戻る住民の中には、以前はその部落で生活をしていなかった人が入ったり、元の部落の土地全てが使用できるというわけではなく、いったん部落に入った後、開放された地域の住民が移動するというものであった。また、米軍は自分たちが必要な部分は立入禁止地域にし、不要な土地の一部を解放し各住民に振り分けていったのである。

 終戦直後の沖縄の土地所有権については、土地関係公簿類が戦火によって焼失していて、公証の手段がなかった。砲撃機や基地設営その他の軍事行動によって、地形の変動を受けた地域では、界標物証も失われており、土地所有権秩序は混乱不明の状態にあった。そんな中、アメリカ軍が、割当土地制度を作る。これにより、米軍政府司令に基づいて、各地で宅地、農耕地等の個人用地と、公共施設用地の割当がなされ、割り当てられた者は無償でその土地を使用する権利を有し、所有者といえどもこれを立ち退かせたり地料を取り立てることが出来ないものとされた。つまり、戦前この土地が誰のものであったか分かっていても、この割当土地制度によって農耕地を奪われたり、または戦前は土地を持っていなかった人がこの制度によって土地を無償で得たりするということが起きたのである。この割立土地制度は戦前から部落に住民だけでなく、戦前は他の部落に住んでいた人に対しても少ないながらも土地が分けられた。

 沖縄戦後アメリカは沖縄に本土決戦に備えて基地を作りはじめた、その軍用地はもちろん住民の許可を得ているわけではない。土地確保を計画しその土地を囲んでいった、囲い込まれた土地は軍用道路に変じ金網がはりめぐらされ、部隊駐屯所や食糧倉庫、弾薬貯蔵庫などが建設されていった。これが現在の沖縄に残る「軍用地」の始まりだった。先ほど書いた住民の部落への移動時の立入禁止区域ももちろんアメリカ軍が軍事の目的で使用するためのものである。

 沖縄は、大規模な地上戦が行われ、米軍から攻撃され、がまの中に逃げたら日本兵に追い出されというように板挟みになり、逃げまどう最中に無数の被害者を出した。その被害者の数は今もはっきりとした数は分からない。しかも終戦後、そのような人的被害(身内の死亡等)への保障は無く、遺骨収集も許可がないと行えないというような状況になった。住むところも制限され、食料も満足に手に入らないというなか、アメリカからの援助は、食料・住宅等様々な形で行われていたのであるが、しかし、割当土地制度によって、住民の土地は奪われ、日本本土を攻撃するための基地づくりに使用した。

 自分は今回、太平洋戦争後、沖縄に対する援助・支援などはあったかどうかについて調べてきた。沖縄戦の後アメリカ軍から支援はありはしたが、最低限の衣食住の確保だけであり、復興を目的とした支援・援助ではなかった。また、土地の割当においては自分たちの必要な地域は立入禁止にしたりして沖縄人への援助はわずかであった。

 今の世代に生きている我々は、戦争に対する知識が乏しくなってきていて、関心も薄れてきていると思う。だからといって、戦争を過去の悲惨な物語とするのでなく、二度と起こしてはならない行為であるということを認識し、二度と戦争に関わらない国を作り、全世界が平和で安心して暮らしていけるような世の中にするために沖縄が世界平和のシンボル的なものになっていけばいいと思う。戦争や争いが残すものは、憎しみや悲しみだけであり、又新たな戦争や争いを起こす引き金になる可能性も少なくない。

 世の中から戦争をなくすために今の自分たちが出来ることは、次世代に戦争の悲惨さや無意味さ、戦争の恐ろしさというようなことを学ばせていくことが大切であると思う。沖縄戦において沖縄は一番被害を被っており、「被害者」であるかのように見えるが、沖縄も日本の一部であり戦争の加害者でもあったという事実は忘れてはならないことであると思う。

20 沖縄住民にとっての日本兵
社会文化学科3年 N・K

はじめに
 「沖縄戦」という言葉を聞くと、誰もが悲惨な状況を思い起こすだろう。これは、沖縄戦に限らず「戦争」という言葉がそのような状況を思い起こさせるのであろう。今回私は、沖縄戦の中でも沖縄住民に対する日本兵の対応について取り上げた。日本兵が沖縄住民に対して残酷な扱いをしたというのは周知の事実であるが、では、日本兵はどのようなことをしたのか。そして、それは沖縄住民に対してどのような影響を及ぼしたのかを課題とし追求していきたい。

 沖縄戦はどのような性格をもっていたのであろうか。沖縄戦は、沖縄の土地を守る戦いではなく、住民を守らず虐殺し「捨て石作戦」と呼ばれ、「本土決戦」のために準備する時間をかせぐための戦闘であり、できる限り抵抗しようとしていた戦闘である。沖縄戦がはじまったころ、住民は10・10空襲以後、米軍の攻撃により那覇などは生活できる状況になく北部に避難していたが「指導者たちは士気高揚のため『犠牲的敢闘精神』や『皇国必勝の情念』という言葉が叫ばれるようになった」(沖縄戦と教科書)。これにより「死ぬなら敵を巻き添えにして死ね」や「国のためなら死ねる」などの感情や日本兵の言うことは絶対であることを沖縄住民の心に植え付けた。このことがきっかけになり日本兵が住民への酷い対応を行うこととなり、沖縄戦は多くの戦死者をだしたのである。

住民に対する日本兵の行動
 では、戦死者はすべて戦闘中に米軍の攻撃によって死んでしまったのであろうか。それは違う。米軍の攻撃によって戦死したものはいるが、全戦死者の中には日本兵によって直接的(刺殺・銃殺・紋殺・毒殺)に殺されてしまった人もいるのである。また、殺されかけた人や殺されなくても日本兵に間接的(食料強奪・ガマ追い出し・殺害強要)に殺された人がいるのだ。ほかにも、戦闘の邪魔となるという理由で殺されてしまった人もいる。それは、ガマの中で泣き叫ぶ赤ちやんであったり障害者であったりする。

 障害者にとって沖縄戦は健常者とは比べものにならないほど残酷であった。障害者なので戦闘に参加できないから日本軍にしてみれば邪魔な存在であったことは確かである。だから、日本兵は障害者を助けずにその場に置き去りにした。これは、上述した間接的に住民を虐殺した一つの例になる。なぜなら、戦場で置き去りにされるということは、そのまま「死」につながるからである。健常者でも戦場で置き去りにされれば「死」の確率は高くなるのに、障害者にしてみればなおさらである。

 住民を守るはずの日本兵がこのような行動を取るのはなぜであろう。それは日本兵は沖縄の人々を天皇に対する忠誠心がない、戦闘経験がないから使い物にならないという考えから差別していたからであろう。差別する心があれば同じ人間であっても人間とは考えないから簡単に殺してしまうことができる。そして、沖縄住民もこのような行動を取る日本兵に対して恐怖を感じていた。

 本島各地・座間味や渡嘉敷などでは日本軍の強制・誘導による「集団死」が起こったが、これは日本軍による間接的な住民虐殺といってもよい。また、沖縄住民だけではなく朝鮮軍夫の虐待・虐殺も起こっている。

 虐殺された理由で一番多いのは住民を「スパイ視」し虐殺したものである。なぜスパイ視したかというと、沖縄戦のために着任した第32軍の牛島司令官が「防諜に厳に注意すべしJ(歴史と実践第20号平和祈念資料館問題特集)と言っていたからである。この発言は国外で戦争をしているときに注意することであり、牛島司令官は沖縄を国外とみなし、沖縄住民は日本人として考えていなかったし、沖縄住民をすべてスパイとして考えていたことが分かる。しかし、なぜここまで住民をスパイとしてみてしまったのだろうか。

 それは一つには沖縄住民に対する噂があったからである。その噂により日本兵は沖縄住民に対して猜疑心を持ったのである。その噂とは、「戦闘中、米軍はサイパンで捕虜にした沖縄県民を特別教育し、沖縄に送り込み諜報活動していた」(沖縄県史8)という噂である。この噂は調べようがないことだが、日本軍の動きや飛行場などの情報が米軍に正確に伝わっており、それをおかしいと思った日本軍が怪しんだのであろう。これは情報がスパイによって漏れているのではなく、米軍は毎日のようにB29を飛ばして相当精度の高い航空写真をとっており日本軍の状況が手にとるように分かっていた。そして、この航空写真によって沖縄の地図(立体地図もあった)が作られたが基地の位置などかなり正確にしるされていたことから、日本軍が陣地構築に参加した沖縄住民が情報を漏らしたと勘違いしていたのであろう。

 この地図の話は参考文献の中にもでてきたが、聞き取り調査を行なったG・Yさんから伺った話でも出てくる。実際にG・Yさんも地図を見ていて地図の正確さに驚いたと言っていた。この噂があったからこそ日本軍は沖縄住民をスパイとみなし、日本兵の中には「沖縄人はみんなスパイだ。戦争が終わったら殺してやる」(沖縄県史8)と言っていたことからもわかる。

 また、方言を使っただけでスパイだとして殺された沖縄住民もいた。日本軍にとって沖縄の方言は何を言っているかわからず、まるで英語を話しているように聞こえただろうから疑っても仕方ないが、沖縄住民にとって方言は日常生活で使う言葉であり、方言をいつ日本兵に聞かれるか分からないので注意しないといけなかった。戦争という非日常的な生活、精神的不安定の中で話す言葉まで注意をはらわねばならないということは非常に窮屈な生活であったであろう。このように、沖縄住民にとって日本軍とは守ってくれるはずの味方ではなく、虐殺などで米軍よりも恐ろしい存在であった。

 ここまで日本兵の悪いイメージしか述べていないが、こんな悪い兵士だけがいたわけで‘はなく良い兵士もいた。当たり前のことではあるが住民を助けたり、住民を追い出したりせず共に暮らしたり、子どもの面倒をみたりと住民と良い関係をもっていた兵士もいるのだ。中には仲間がやったことに対して怒り住民に謝罪させた兵士もいた。このような兵士がいたにもかかわらず住民虐殺などした兵士の話のほうが我々には有名であり、沖縄の人々にとって日本兵は悪いイメーージが先行してしまう。

まとめ
 沖縄住民にとって沖縄戦は悲惨なものであり、日本軍よりも多くの戦死者をだし一番被害を受けた。そして、日本軍に差別され虐殺やスパイ視など残酷な仕打ちを受けたのである。そのことは、戦後多くの沖縄戦体験者の方が証言して残っており現在まで語り継がれている。この証言は戦争を体験していない私たちにとって非常に重要な資料であり、この証言を読むことによって戦争を頭の中で想像できるし、実際にガマに行き住民が避難していた内部がどのようになっているのか知ることで追体験できる。

 日本兵はなぜここまで沖縄住民に対して残酷なことができたのであろうか。そして、住民もなぜ日本軍に強要され抵抗もしないまま集団死や虐殺されてしまった人が多いのか。抵抗した人も中にもいるが、抵抗しなかった原因は軍国主義に進む中の「教育」だったのではないだろうか。皇氏化教育により日本人以外の民族を差別し、天皇のため、国のためなら死んでもいいなど死を恐れない、そして個人の人権は無視し教育してきた。

聞き取り調査を行なったG・Yさんも「捕虜になったときここで爆弾を爆発させれば米軍を道ずれに死ねるなと考えたが多くの住民を巻き込むからやめた」とおっしやっていた。日本軍の住民を虐殺するなどの行動は、沖縄住民の心に恐怖と絶対服従の精神を叩き込み、日本軍は米軍よりも恐いと思わせた。守ってくれる日本軍を恐れ、もちろん敵である米軍も恐れ、日米両者にはさまれた沖縄住民は孤立し不安な毎日を過ごしていたであろう。また、この虐殺などの行為は真実として知られているのに本土ではあまり知られていないし、教科書にすら載せられていない状況にも問題がある。

 沖縄住民は日本兵から不当な扱い(虐殺など)を受けたというのは沖縄戦を知っている人は当たり前のようにその事実を知っている。しかし、不当な扱いを受けたことによってどのような影響を受けたかはあまり考えられていない気がする。私は、この不当な扱いは多数の被害者をだしただけではなく住民に人間を信じる心を失わせてしまったと考える。なぜなら、日本軍は米軍から守ってくれるという住民の気持ちを裏切ったからである。信じていた者に裏切られるのは人の心に計り知れない痛手を負わすからである。虐殺などの表に出てくるものはよく知っていても裏に潜むものを感じとらなくては沖縄戦の本当の真実は分からなくなってしまう。これからは裏に潜むものは何かということを考えなければならない。そして、考えただけではなく、それをどうやったら「平和教育」に活かしていけば良いのか考えていくことが必要である。

21 日系人の沖縄戦
商学科3年 A・Y

 かつて、日本とアメリカは敵国であった。1941年12月8日、日本軍の真珠湾奇襲攻撃により突入した太平洋戦争当時、日本の攻撃はアメリカの日系人社会にも大きな波紋を投げかけた。この日米開戦により、アメリカ政府は日系人を「敵性国民」とみなし、日系人社会に対して様々な圧迫を強めた。しかし、そのような事態に置かれながらも、アメリカへの忠誠を誓い、志願兵として、沖縄戦で闘った日系人も少なくない。日系人たちは、外では両親の祖国を敵として闘い、ときには裏切り者とみなされ、内では自国の人間から受ける偏見や差別と戦わなければならなかった。

沖縄戦については多くの戦史や戦記が出版されているにも関わらず、彼らについての資料はほとんど皆無と言っても過言ではない。このようなことから私は、アメリカと日本、双方から虐げられたアメリカ日系人が、沖縄戦を通じてどう過ごしたか?アメリカで暮らす住民と、実際に沖縄戦で参戦した日系米兵の二つの立場から調べてみた。

 大陸日本人は戦災難民
アメリカ西部沿岸では、もともと日系人の勤勉さには太刀打ち出来ないと、白人社会では日系人を妬み日本人排斥を始めていた。そこへ日米戦争が始まり、何百という圧力団体がうまれ、「危険な日本人は隔離して、戦争終了と共にジャップは米国から追い出せ」と、アメリカ在郷軍人会を先頭に州議会、市議会、公務員、民間団体、公器であるべき新聞や牧師までもが日本人排斥の一大運動を起こした。結果、西部沿岸在住の日系人約12万人は強制隔離された。一世も二世も、女子供も、老病者も、日本人の血を受けた者は軍司令部の厳命こよって着のみ着のまま奥地の仮収容所に移された。立ち退きの際は、24時間の予告しか与えられなかった所もあり、短時間では巨万の収穫も、繁盛する商店も、とうてい有利に処分するすべもなくそのまま護送された日系住民も多い。強制収容所では毎日安月給で働かされ、有り金を全部使い果たす者も少なくなかった。後に、彼らが住み馴れた里に帰ってみても、住宅や事業が留守中に他人の手に渡ってしまった者も数多い。
戦況がアメリカに有利になるとともに、日系人は強制収容所から釈放はされたが、彼らを待っていたのは排日の魔の手だった。排日家は、日系人の所有の土地を外人土地法の死文を活かして州に没収させようと起訴したり、また日系商人に対しては営業のライセンスが与えられず商売の運営には更なる圧迫が加えられた。

以上のことから、当時アメリカで暮らす日系人は、爆撃こそ受けなかっただけで戦時中は自由と経済活動を抑制され、監獄同様な生活を強いられた点、また、収容所から釈放された後もアメリカ社会からの長い軋轢があった点からも彼らがいかに差別を受けていたかが何える。
次に、米兵として沖縄戦に参戦した日系米兵について述べる。

日系米兵は裏切り者?
沖縄戦当時、米兵として沖縄にやってきた沖縄出身の移民がいたことはよく知られている。しかし、彼ら日系兵の心の内までは知られていない。これまで語られなかったその心の内とは一体どのようなものなのか?果たして当時の沖縄住民が彼らを「裏切り者」としたように日系米兵は故郷沖縄を裏切ったのか?彼らのなかには幼少時代を沖縄で過ごした者も多い。当時、通訳兵として沖縄戦に従軍していたT・H氏もその一人である。実際ヒガ氏は2歳から16歳まで沖縄で暮らしていた。彼はある文献の証言で自身の複雑な心境を次のように述べている。

「私はアメリカの兵隊だ。果たさなければならない義務がある。しかし、沖縄には文化的な義理がある。私の心は、忠誠心や愛国心と個人的な感情に引き裂かれた。私は沖縄戦に参戦したが、殺す意図で人に発砲したことは一度もない。和英辞典、携帯用メガホン、ノートブックそして鉛筆によって“生まれた国”アメリカへの義務を果たし、同時に、“育ちの国”沖縄のお役に立てたことをとても嬉しく思う。」

日系米兵は、戦闘そのものには加わらなかったものの、和英辞典を片手に日本軍文書の翻訳、捕虜の尋問、無線の傍受や写真解読、日本兵や住民の救出などに大きく活躍した。事実、当時の住民は、日本軍によって「米軍は捕虜を虐殺する」というようなありもしないでたらめを植え付けられ、米軍に捕まるより自決を選んだ為、彼ら日系米兵の熱心な投降呼びかけでその命を救われたという話も多々ある。

以上のことから、日系米兵は決して裏切り者ではなかったことが分かる。むしろ、日米軍の犠牲になって多くの死者、負傷者をだした沖縄住民にとって、彼ら日系米兵は救世主だったのではないだろうか。証言からも読み取れるように日系米兵自身、複雑な心境で日
々葛藤にかられていた、と言える。
 今回、様々な文献や証言を通して今まで知らなかった、または見えなかった「日系アメリカ人」について多くの事実を知ることが出来た。彼ら日系人は、戦争という悲劇や激動の時代にあり、思想的民族的ジレンマや動揺を経験せざるを得ない時代に生まれながら、たくましく生き延びた世代である。彼らの受けた日米両社会からの軋轢や偏見または自身の複雑な念は計り知れない。しかし、改めて言えるのは、「戦争」という悲惨な出来事が全ての発端であることだ。私達は二度とこのような事態を起こさないためにも、再度教育の場から「戦争」についてもっと学ばなければならない。

22 移民証言記録から「沖縄戦」を考える
〜さまざまな視点からの地域史学習の模索とその意味〜
科目履修生 A・M

 これまで地域学習のなかで沖縄戦をテーマに取り組んだ学習例は枚挙に暇がないだろう。そして、(筆者が思うに)従来まで「沖縄戦≒沖縄島内で展開された地上戦」がクローズアップされがちであった観(感)が否めない。さまざまな角度・素材から課題追求を試みることは、沖縄戦をより客観的な視座でみるという意味で意義深いと考える。
 課題追求の材料を何に求めるか。毎年、「世界のウチナーンチュ大会」など海外在住の県出身移民(1世)・その子孫(2世以降)の交流大会の様子が各種メディアで報道されるように、沖縄県は海外移民が多く地域的特徴のひとつでもある。「移民県沖縄」の地域的特徴は、戦前の移民数統計からも観取できる。戦前移民を素材として、いわば「外」の視点から沖縄戦を考えられないだろうか。筆者はそこに本課題のオリジナル性を求めた。

 沖縄県移民の歴史的経緯について簡記すると、1899(明治32)年のハワイ移民を嚆矢に、食糧問題・失業問題など当時の県内における社会事情から、ハワイ、北米、中米(メキシコ、キューバ)、南米(ペルー、ブラジル)、満州、台湾、フィリピン、南洋群島に盛んに移民が出掛けた。明治末〜大正期における日米関係の悪化が顕現して以降は南米、第一次世界大戦(1914年)で旧ドイツ領南洋群島が日本の委任統治下になると南洋群島に、主要渡航地が推移していった。

 当初、出身地(沖縄県)で展開された沖縄戦に対する意織について、各市町村市(誌)記載を中心に証言記録の収集作業を行った。しかし、移民証言全体に戦時体験は意外に少ないうえに、故郷・沖縄島における戦闘(沖縄戦)に対する意識が観取できる証言例は非常に稀少であった。

   証言記録・文献にあたっていくなかで新たな疑問が浮上した。移民社会において故郷沖縄の情報は入手し得たのだろうか。筆者が聞き取りしたH.A氏(ペルー日系2世・現在具志川市在住)の証言でも、「戦争が本格化してくると、故郷(沖縄島にいる親類)との手紙のやりとりも警察が全部明けて見るし取り上げられたからできなかったようだ(H.A氏は当時8歳。沖縄には兄が残されていた)。」と述べるように、当時の移民社会において沖縄関係の情報入手は困難な状況だったことが窺える。ハワイにおける当時の新聞記録等をみても、沖縄関係記事は戦闘経過の記載が殆どである。現地政府および現地住民の日系移民に対する抑圧・蔑視を意識していたことは容易に読み取れる。

 沖縄戦意識に直接的に検証し得る証言が少ない背景については、上記のように推察されたが、昭和戦前期の主要移民地であるフィリピン・南洋群島まで資料絶対数の拡大をはかり、証言記録の検証作業を行ったが結果的には南米のケースと同様であった。

 他方で、沖縄戦の特徴として強調されがちなのが日本軍による住民殺傷・住民虐待であろう。沖縄島南部における集落住民虐殺、避難壕からの締め出し、乳幼児の殺害強要など、日本軍人による非人道的行為を証左する証言例は無数に存在する。ここで視点を海外移民の体験証言に移すと、たとえばフィリピン移民証言の場合、「日本軍上陸の際に(現地兵により)強制的に建物内に男女別に監禁され、日本軍戦闘機を迎撃する際の「盾」とされたという複数の証言が認められた。日本軍人の非人道的行為も沖縄戦の一面ではあるが、それのみを伝えるのではなく、−戦争という極限状態で人間の理性・良心がいかに蝕まれるか−実際の教育現場において表層的事象だけではなく本質的な部分を伝え得ているか。移民証言をみていくなかであらためて考えさせられた。

 続いて、県出身移民の戦時体験証言を具体的にみていきたい。第二次大戦時、南米諸国は中立的立場にあったが、連合国側、殊にアメリカに遠慮し日系移民に対して抑圧を加えていた。具体的には日本語使用・集会の禁止、家宅捜索や強制連行(スパイ視)、強制退去、土地没収などであるが、あわせて留意されるのが、日系移民社会内でも日本人同士で「勝ち組」「負け組」に分かれた確執があったという事実である。このことからも移民社会に正確な情報が少なかったことが観取できる。

 現在、国際社会への貢献・復興支援という名目で、政府与党は自衛隊のイラク派遣を強行採決、遂に自衛隊の本格的派遣を開始したことが最大の時事問題として報道されているが、その経緯にはアメリカとの同盟関係が深く関わっていることはわたしたちにも明らかに見て取れる。当時の南米諸国政府の対応はそれとよく似ている。自衛隊のイラク派兵問題は国際情勢の現実から妥当な対応だったのか、その歴史的妥当性について当時の南米諸国の対応からみえてくるように思える。

 今回の課題追求では十分な検討が行えたとは言い難いが、沖縄県の特色である「海外移民」から沖縄戦をみつめる可能性、そして、さまざまな角度から自己の歴史認識についてより客観的に考えることの重要性は提示し得たと思う。

 学校教育改革の特色のひとつである『総合的な学習』が導入されて以降、地域学習・地域理解のなかで「郷土(地域)の歴史・文化」が教材に取り上げられる例が増えている。終戦後およそ60年が経ち戦争体験者が年々減少していく現在、沖縄戦の記憶の「風化」を危惧する声をよく聞く。「負の遺産」を次世代にいかに継承するかが現状における大きな課題であることは、教職を志すわたしたちも含めて教師側に共有認識として存在する。

 確かにわたしたちの周囲においても戦争を肌で感じた感覚はなく、「遠い過去の出来事」のような感覚が主流になりつつある。しかし、(筆者の)年齢が20代後半になり自身の高校時代が10年前の出来事と振り返ると、沖縄戦はまだそのわずか6倍の年月しか経過していない。

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