学生の小論文            03年前期
文中(引用文は除く)の人名は姓のみで表記してあります。(制作者)

1 沖縄に残った子どもたちはどんな避難生活を送ったか(中部地区を中心に)
2 なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたのか
3 沖縄はなぜ戦争に巻き込まれたのか
4 沖縄戦における南風原の住民の避難状況はどうだったのか
5 沖縄県民はなぜ戦争に巻き込まれたか
6 沖縄戦における女子学徒隊の状況はどうであったか
7 沖縄県民はなぜ戦争にまきこまれたか
8 なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたか
9 沖縄に残った子どもたちはどんな避難生活を送ったか(南部を中心にして)
10 沖縄戦は女性をどうしてしまったのか

1 沖縄に残った子どもたちはどんな避難生活を送ったか(中部地区を中心に)
                                       IM生(法学科3年)
 私が、今まで学んできた「沖縄戦」に対しての印象というものは、この沖縄の地上においてどれだけの戦死者が出たのか、そしてその戦死者たちはどのようにして命を落としていったのか、といった「戦争において“死”をもっての被害者たち」のみに注目しすぎているものだった。そして、沖縄が地上戦となった背景や、戦時体制、または戦火の中を必死に生き抜いた住民たちの避難生活などについての認識が乏しいものであった。そういう偏った認識のみでは、この沖縄戦を把握しているとは言えないものであることに気付いた。

    この沖縄に生まれ育った私が、沖縄戦についてそんな乏しい認識では、“平和”を語り継ぐ上で偏ったものを植えつけてしまうかもしれない。そうならないようにも、今回沖縄戦を調べ学習するこの機会に、地上戦において私たちと同じ立場(住民)から生々しい体験をしたと思われる“沖縄に残った住民たちの避難生活”を探ることに到ったのである。

    さらに、激しい地上戦の中、住民の中でも最もひ弱な存在である“子どもたち”はいったいどのようにして生き抜いてきたのか、という素朴な疑問から子どもたちに焦点を絞ったのである。

 私は、現在中部地区に住んでいるため“中部地区”の避難生活を中心に調べていくことにした。中部地区はいったいどのような避難生活を送っていたのであろうか?

 まず、中部地区といったら、北谷・読谷と米軍が沖縄に始めて上陸し、沖縄本島においての地上戦が最初に始まった地点である。そして、激しい戦いが繰り広げられた地区でもあり、地上戦が始まってすぐに占領下になったところである。そのような流れから、中部地区の住民たちは“南部や北部に県内疎開していった者”“米軍が沖縄に上陸したという情報が回ってくる暇もなく中部で地上戦に巻き込まれた者”とさまざまな避難生活を送っていたのではないだろうか。そして、地上戦の激しい地区に残った住民たちは、北部や南部に比べて、地上戦が激しいために食糧を探しに壕から出ることができず、ひもじい避難生活を強いられたのではないだろうか。という、推測が生まれた。

 そういった沖縄戦における避難生活についての仮説をたてたのだが、中部地区の戦時体験録を一通り見ていくと、北部や南部と比べて避難生活というものがごくわずかな期間であり、ほとんどの証言が捕虜になった時のことや、捕虜生活についてのものばかりであった。そこで、私は中部地区における捕虜になるまでの避難生活とともに捕虜生活をも調べることにした。

 北谷町(当時北谷村)や読谷村など米軍が上陸した地点で避難生活を送った住民たちは、自分たちで作っておいた壕にあらかじめ食糧を蓄えてあり、地元で避難しているのもあって、北部や南部の住民や北部南部に県内疎開した住民たちと比べて、食糧に対する不安や執着があまり感じられなかった。 中部地区から南部に疎開した者などは次の証言に見られるように、食糧に大変困っていたことが分かる。

証言1(西原村・与那城ツル・当時36歳)
「捕虜になるまでの食べ物大変困りました。男の人がおったら、どうしてでも取ってくるがね、私はまあ出ることも出来ないし、小さい子どもばかりおりますから大変でした。芋
は、志多伯で1円ずつ出して掘っただけで、それから後は、芋は一度も掘りません。それで捕虜になるまで何も食べませんでした。子どもを負んぶして、少し米を持っておりましたから、伊原までは、少しずつおじやを炊いて食べさせました。それからは、畑からさとうきびを取って食べたことがありました。食べるものがないので、何も食べなかったので、子どもたちは栄養失調になって、二人はなくなったんです。」

 このような証言は、中部から北部や南部に疎開した住民たちに多く見られた。やはり、疎開してきた者は、その地区の食糧の在り処も分からずに自分たちで運んできた食糧のみにしか頼ることができなかったと見られる。そのようにして、中部地区は北部や南部に疎開したものと比べて食糧難ではなかった。

 そして、なによりも中部地区が北部や南部よりも食糧難に苦しまなかった大きな理由というのが、地上戦が始まってすぐ米軍の占領下になり、捕虜生活を行っていたからである。

証言2(北谷村・与儀カマ・当時39歳)
「私たちはすぐアメリカーに引っ張られて、海岸まで行きました。(中略)それから四、五日したら、助役さんたち捕虜になってきて、そこには急に人が増えはじめてですね。自然に共同生活になって、炊事班を作ってですね。みんな部落の焼け残りの家から鍋やお米などを取ってきたりしてですね。何もかも配給制にして、みんなにおにぎりの配給がありました。(中略)私は子どもをおんぶして毎日イモ掘りに出かけました。」

 北谷村などでは、このような証言がほとんどであった。米軍の配給が足りなくなったら自分たちで食糧を調達しに畑に出るなどして、食糧にはあまり困らなかったことが分かる。

 しかし、金武村など北部の捕虜収容所などに移されたものは、5日分の配給が1日分にも足らず、避難生活の時のように食糧の在り処も分からずに、木や草の葉を食べて飢えをしのいでいたという証言もある。そのように、さまざまな証言から、捕虜生活においても格差があったことが分かった。

 そして、中部の捕虜生活のなかで子どもたちは、どのような暮らしを送っていたのだろぅか?やはり、捕虜というのは客人ではないので、子どもであろうとも何らかの労役を与えていたのではないかと考えた。

証言3(浦添村・宮城高進・当時16歳)
 「仕事ができるものは出るようにとのことだったので、僕は腕の怪我もなおりかけていたもんだから、作業に毎日でかけました。朝、米軍のGMCがくると、並んで人員を数えてそれぞれに分乗して、仕事場へ連れて行かれるわけです。僕の場合は、今の前島あたりに食糧集積所がありましたから、そことまた、那覇港の方に連れて行かれ、食糧(米や罐詰類)の積込みをさせられました。」

 この証言の他にも、40人ほどの男だけがあつめられて、特別収容所に移動させられて、米兵の死体を洗ったり、切れた頭を胴体と合わせてみたり、米兵一人ひとりの墓を作ったり……そういった作業をさせられた16歳の青年などもいた。

証言4(浦添村・親冨祖清武・当時12歳)
「それから僕は、両親がいないので、隣の福山という部落にある孤児院に送られ、そこにずっと収容されたんです。そこには、満一歳ぐらいから十四、五歳ぐらいまでの子どもたちが、約二百人収容されていました。そこではアメリカ兵たちがよくしてくれて、食事もよく、罐詰もあり、ご飯も腹一杯ありました。」

 この証言の他には、親が捕虜収容所の病院に入院して生存していたとしても、むりやり孤児院に連れて行かれたというものもある。それは、親が傷口から感染症をひき起こさせないための配慮だったのだろう。私の予測とは違い、15歳以下の子どもたちが働かされたという証言は見当たらなかった。だいたい、16歳からを境に労役を課していたようである。そして、15歳以下の子どもたちは孤児院に送られ、英語を学ばされていたという。

 以上のように、中部地区の捕虜生活において、子どもたちは食糧に苦しむこともなく、勉学までもを与えられており生活に困っていなかったことがわかった。

 このような中部地区の捕虜生活において、子どもたちが大切に扱われていたという事実を知り、アメリカの教育に対する姿勢が見えたような気がした。アメリカは決して女、子どもを戦場に駆り出させたり、“徴用”のように軍事のために強制的に働かせることなどしなかった。そして、敵国である日本の子どもたちを安全に保護し、快適な環境を提供し、食糧を与え、勉学も与え(英語のみであるが……)子どもたちの人権を尊重していることがわかった。

 戦前・戦時の日本は、日本国民全員を戦争に駆り出させようと、犯してはならない教育の場までもを利用していた。そして、働ける体格の子であれば年かまわず軍事用途に利用していたという事実は、おおいに人権侵害であり、人権が保障されている現代では考えられないことである。

 このように、沖縄に残った住民・子どもたちの避難生活・捕虜生活を調べることによって、当時のアメリカの教育姿勢・人権価値思想や日本の誤った教育姿勢・人権価値思想が比較して見えてきたのには驚きであるし、今後、もっと深く考察していきたいものである。

 この結論(?)は、あくまでも私の感じたことから抽出されたものであるから、確かなものとは言えないが、そう記しておきたいと思う。

[引用証言]『沖縄県史9巻』

2 なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたのか
                                        OS生(日本文化学科3年)

 私はこれまで「戦争なんて意味のない殺し合い」と全否定の考え方しか持っていなかった。小学校低学年から、戦争の事実である映像や文章を目にしてきた。この戦争の残してしまった悲惨な過去は私に強烈な恐怖を与えた。人間が人間でないような事実ばかりが印象に残り、戦争とは人間がむごい姿で死んでしまう状況を作ってしまうのだと意識として植え付けられた。

    沖縄戦を学ぶ機会は絶えずあった。人間の死んでいる姿が恐怖に思えたことから、なぜ罪のない人間が死んでしまったのか、このような戦争の事実を作り出してしまった原因は何なのかといった疑問を抱くようになった。

    私たちが生まれ育っているこの沖縄の地が戦場となってしまった沖縄戦。なぜこの沖縄で戦争が起こってしまったのか。沖縄が最も多くの被害を被ってしまった根底には何があったのか。このような原因追求の思いが私の心の中にある。

 まず、日本本土から見た沖縄を知ることで、なぜ沖縄が地上戦にならなければいけなかったのかを探ってみたい。よく耳にするのは、日本人は沖縄を差別的に見ていて、沖縄での戦いは「捨て石作戦」と言われていたことである。まさにその名の通り、「捨て石」のように本土とは切り離された感覚で見られていただろう。

 沖縄は日本にとって支配している土地でしかなかった。もちろんその地に住む人間も同じく支配下の人民ということになる。沖縄戦において、日本本土を防衛するための沖縄という位置づけで守るべき対象はあくまで日本本土だったといえる。

    沖縄への差別はどこから始まったのか。1879年、日本は沖縄県として日本の一部にした。かつての沖縄(琉球)は、中国(明)、東南アジア、朝鮮、日本との交易を行い独自の文化を作り上げていた。その当時から沖縄はコマのように扱われていたという。そのような沖縄を支配したのが薩摩藩である。それから厳しい支配が始まった。当時の日本、「明治政府は沖縄のことを軽視していたわけではなく、」(『日本史の原点・沖縄史』牧瀬恒二(1984)p337)軍事的意味と土地から得られる税の対象で見ていた。歴史的背景からもわかるように、日本は沖縄を従属国の感覚で見ていたことは確かだと考える。

 同じ国でありながら、日本本土から沖縄に対して抱く感情とは、やはり差別ということになるのだろう。明治四十三年度『沖縄警備隊区徴募概況』による日本軍の見る沖縄県民は「歴史的に勇気が欠如したもののようである(原文・本県民ハ歴史的ニ勇気欠如シ居ルモノゝ如シ)」とあり、これまでの沖縄の人物・文化・社会・風習を否定している表現のように私は感じる。それは、日本軍の沖縄の人に対するスパイ疑惑にも見られる。

    『牛島軍司令官訓示』に「防諜二厳二注意スベシ」と牛島満軍事司令官の記述がある。明らかに県民のことを疑っている。また、言葉が通じない、わからない状況であるため疑うことを正当化し、沖縄県民の中に敵がいてもおかしくないと考えている。

    戦争において、日本本土の安全のみを念頭に置き沖縄の住民を巻き込んでいった中には、日本人に根付いている差別によって、戦う前では想像もし得ない犠牲を生んだ。それは戦争の被害者を増やすような結果を招いている。

    しかし、実際の戦場では日本軍にべったりとくっついている沖縄の女の人がいたようである。そこからスパイと疑われていたケースもあったようだが、私が論じたいのは戦争が起こる以前からある、日本人の無意識の「目」である。「山の中をさまよい歩いているうちに日本軍に捕まえられ、スパイ呼ばわりされたあげくに斬殺された」(沖縄県史第10巻p492)沖縄の人がいる。
    このような事実は決して稀ではなかったようである。戦争が奪ってしまった命ではあるが、その奪われ方は怒りだけが残ってしまう。住民にとっての戦争とは人間を信じられなくなる地獄だっただろう。

 日本軍はこの沖縄に何のためにいるのだろう。結果として、敵がアメリカ軍だけではなく、日本軍もそうであった沖縄での戦争は、その地に住み生活をしている人々を苦しめた。
実際に戦場となった沖縄。沖縄の人は、日本や日本軍にどのような感情を持っていたか。元々、戦争への疑問や日本軍への反発などという行動は見られなかったのだろうか。戦争時を生きていた沖縄の人たちは、日本への怒りや不信感や軍の圧力に対する圧迫感を感じていたのではないか。実際にその一つの例として、

 「佐良浜にきている兵隊のなかには、自分らは沖縄を守りに来ているのだから君らは当然何でも言うことを聞くべきだと平気で言うのもいました。まるで戦争を引き起こしたのが沖縄の人間のせいであるかのように言って。おまけに自分らをば東京の人、東京の人といって、沖縄を馬鹿にしていました。自分こそ実際にはどこの馬の骨かわからんくせに、実に伊良部の人を馬鹿にしてね。東京の人がどれほどえらいか知らんが、他府県から来た兵隊のなかにも程度の低いのはたくさんいたのですから。」(沖縄県史第10巻p380)と述べている。

    この証言から、日本人から見た沖縄と沖縄の人から見た日本軍の横暴さの両方が窺える。このような日本兵は少なかったとは言えない。いくつもの証言から見受けられたのは、軍のための様々な協力を無理にでも強いられていたことである。戦争という国民総出で戦わないといけない状況下なら協力は当たり前と受け取れるが、人間の“生”を妨げるほどの協力などあり得ない。

    率直な感想になるのかもしれないが、このように人間が無下に扱われる状況はあってはならないと感じる。しかし、かつてこの日本では、今私がこのように考える考えが生まれないような人間を作り上げていた。教育の力、国民を取り巻く法や世論は圧倒的に戦争に肯定的であり、教室から戦場へ行けるような「心」を育てていた。

    そのため、「友軍といった言葉は民間の間で使われていて、(その友軍に)憧れていた。」(「沖縄県史第10巻」p543( )内は筆者が挿入)という証言からもわかるように、日本軍が正義であり、軍に入ることは憧れを抱くほど名誉なこととされていた風潮があり、教育の力によってこの沖縄の地でもそのような考えが垣間見ることができる。

    「あの当時の友軍は憎んでも憎みきれない。自分たちは被害者であるのだが、友軍にはそんな顔を見せなかった。」(前掲)これほどまでに「皇軍への道」を日本国民は歩んでいたのだ。この事実に衝撃を受けた。

    この沖縄においては、「旧来圧迫された結果、他県人は自分より優秀な人種と考えている」(部外秘『沖縄県の歴史的関係及人情風俗』)の記述からも窺えるように、沖縄の人たちがずっと日本人たちに差別されていた背景から、この戦いでは日本軍に協力する力が大きくなった。同じ「皇軍への道」を志す同じ日本国民と見られたいという気持ちがこのような戦争の場面で見られたことは悲しい現実だ。また、「沖縄に生まれたから、国民的意識が低いんだ、恥ずかしいと思い、劣等感にとらわれたものでした」(沖縄県史第10巻p333)と述べられている。教師がこう言っている。

    教える立場の人間が劣等感にさいなまれ、努力して日本人としての意識を早く取り込もうとしたのだから、この教師から教えを受けた人間はより強く刺激を受け、国民としての意識、つまり天皇への貢献や尊敬の念を植え付けられていったに違いない。人間一人一人が違うように戦争での体験も違うのだが、不思議なほど戦争を迎える心は統制されていたと言える。

    なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたのか−。私なりの結論として、日本という国の異常を挙げたい。それは教育に始まり、天皇のための国民、少しでも上の階級には逆らえないという軍。一国の在り方が戦争を招き、それに加え沖縄への差別的な「目」が被害を拡大した。これまで歩んできた歴史がとても大きな過ちを犯した。そのような解釈しか私にはできない。

    しかし、ここで、沖縄は悲劇の島であり、日本本土は沖縄を巻き添えにした悪の要因だという悲観的、一面的に過去を見てはいけないだろう。それでは過去を歪めていることになる。

    事実は事実として過去の出来事に目を向けることは、有意義なことである。沖縄戦を深めることで実感した。たとえ、それが現在の価値観とはかけ離れて違ったものだとしても、人間はそれを学習したことが教えてくれる実際には行っていない「経験」をしている。それを自分が実体験したような感覚を持てる。人間はそのような能力を持っており、学び得たことを伝えることもできる。原因追求は何も生み出さない。しかし、間違いを間違いであると気づき、認めることをせずに未来に歩むことは許されない。

    このような国一つのあり方の問題点を誰が正すのか。私には何もできそうにないと思ったが、それは違う。国民である一人一人の力が国を変える。戦争へと歩んだ過去。それを二度と繰り返さない一人一人の心の軸を持つことが大切であろう。今回その軸を得た気がする。

[参考文献]『沖縄県史第10巻』『写真記録これが沖縄戦だ』改訂版大田昌秀『沖縄戦−国土が戦場になったとき』藤原彰『日本史の原点・沖縄史』牧瀬恒二

3 沖縄はなぜ戦争に巻き込まれたのか
                                       OR生(経済学科3年)
 私は、この教職総合演習の講義をうけるまで沖縄戦についてほとんど無知であり、恥ずかしながら講義をうけて始めて知るということがほとんどであった。

 その中で私がもっと追求したいと感じたのは、なぜ沖縄戦があれほど悲惨なものになってしまったのか?ということであり、それは沖縄戦が起こるまでの背景、つまり、住民が戦争に動員されるまでの過程を知ることにより追求できるのではないかと考えた。よってテーマを「沖縄県民はなぜ戦争に巻き込まれたのか?」とした。

 そして下位課題を考えたところ、今まで私がうけてきた民主主義、平和主義教育から戦争への参加ということは全く考えられないことから、戦争へと動員させたあの当時の教育とはどのようなものであったか。そして、23日の発表の際は、同じ教育をうけている立場としてあえて学徒隊にしぼり、当時の教育をうけた学徒隊がどのように動員されたのかの2つの下位課題を設定したが、今回は徴用と供出はどのようなものだったのかという課題を新たに設け、調べていきたいと思う。

@ 当時の教育について

 具体的な皇民化教育として、「方言札」、「改姓改名運動」、「沖縄對話」などをとりあげ、それは本土からの沖縄差別に対して沖縄的なものを排除し、本土と同化することによって差別から逃れようとする意識が働いていたということは最初で発表した。

 教育といっても社会教育と学校教育の二つが存在する。まず、社会教育だが、天皇のために死ねることが名誉であるという意識を人々に叩き込むために利用されたもので「軍神大舛であった。沖縄与那国出身の大舛松市陸軍中尉は48年1月にガダルカナルで戦死するが、10月に陸軍省が大舛の勲章を発表したのを機に、沖縄の各新聞はこれを大々的に取り上げ、「大舛中尉顕彰運動が組織され、軍神大舛に続けと、キャンペーンがはられた。教育を担当していた県学務課は「死ねる教育」を打ち出し「大舛は体当たりの精神であり、所謂特攻精神である」だとさわぎたてた。また、町や村には「鬼畜米英撃滅」「撃ちして止まん」「尽忠報国」「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンやポスターが氾濫した。(西原町城間さんの証言)

 そして学校教育では、我如古さんの証言でもあったが「教育勅語や五箇条の御誓文を意味も分からないまま覚えさせられ、覚えないと先生に殴られた」といったように御真影礼拝、教育勅語の奉読とを一組にして儀式化する慣行がうまれた。それによって忠君愛国の思想を生徒たちに植え付けていた。また、城間さんの証言「毎朝の朝礼時に軍隊式の点呼や服装検査がとりいれられ、教育内容にモールス信号や手旗信号も入るようになった」「中学2年までは何とかまともに授業らしい授業がうけられたが、3年の夏ごろからは、その様相は一変し、勤労動員を『教育実践の一環としての一科目』として位置づけ、授業総日数の半分は勤労奉仕作業に充てられるようになった」。

 このような証言から、これがまさしく軍国主義、天皇主義教育!だとかんじた。このような教育では天皇と国に忠実な人間をつくるために強制的に思想を統一され、善悪の判断もできずただ国のいうとおり動くという、個人が全くといっていいほどない人間がつくられると思う。この教育が何につながるのか、何と結びつくのか、まさに最後には戦争しか行き着くところがない。

A学徒隊が動員されるまで

 師範学校と中学校、実業高校、高等女学校が対象であった。
 男子生徒は鉄血勤皇隊や通信兵として女子看護隊は看護要員として動員された。当時高等女学校四年の宮城さんの証言「学徒隊に参加することに反対する父親と口論をして反対をおしきって参加した。」といったようにほとんどの生徒は皇氏化教育、戦時教育をもっとも徹底的に叩き込まれていたため、学徒隊に参加するということは当然の義務と考えていたと思われる。

 学徒隊を動員するにあたって、疎開をめぐる問題もあったようである。(この疎開の対象は、軍も県も戦闘に役に立たない婦子女)そうした疎開を求めた生徒の扱われ方として、当時師範学校1年の平芳枝さんは「本土疎開を女子部長にお願いしたところ、戦争になったら真っ先に逃げるのか。非国民じゃないかと非難された」「今から疎開を望むような気持ちの者には、卒業証書はだせないといわれ疎開をあきらめた生徒もいた」と証言している。

 疎開すること=非国民とされ非難されていたことが分かる。そして、少数ではあるが必ずしも学徒隊に参加することが義務とは思っていなかったこと、疎開によって参加を回避しようとした生徒、そしていやいやながら参加した生徒もいたということである。

 証言を読むと、「あの当時は、戦争に参加することに疑問さえも感じなかった」といったような証言が数多くあった。そして学徒隊は当時の皇民化教育によりなんの法的根拠もないにもかかわらず「自らどうぞ動員して下さい」と戦争参加を志願するくらいの国への忠誠意織が育っていたこともうかがえる。つまり、そのような教育の成果が一番色濃く現れたのは学徒隊であり、だからこそ迷うことなく戦争に参加したのではないか。

 しかしさまざまな証言を読んでいくと、必ずしも戦争に自発的に参加しようとするものだけでなく郷里、疎開しようとする生徒もいたことが分かった。その背景には10代半ばの少女たちまでも戦場に動員することに反対しひそかに生徒一人一人疎開するように働きかけていた教師がいたようだし、生徒にしてもすぐに戦場にでていくのが当然とはならなかったように思う。

B徴用と供出について

 国家総動員法にもとづいて1939年国民徴用令が公布。国民登録では、男子は満12歳以上60歳未満、女子は満12歳以上40歳末満の無配偶者は市町村に申告しなければならなかった。これにもとづいて勤労動員がおこなわれた。軍→県機関→町村→字→各家というルートをとって徴用や供出が命ぜられた。 徴用について、中城村安谷屋の区長だった宮城さんの証言では、「兵隊が区長のところにきて人員が足りない、来たものはだらしがない。大変な剣幕で折檻するんです。居丈高に怒って、自分の子供ぐらいの青二才から顔を殴られたこともあった」という。

    供出については、西原町桃原区長だった喜屋武さんの証言では「供出物を取りにきた上等兵に対して供出は一度だけはいけない、今一度に全部とったら後の供出に困るからというと、ナタで鼻を殴られて鼻血を出してしまった。」

    他にも様々な証言を読んでいくと、徴用、供出など、厳しい労働、日本兵の横暴ぶりに住民の不安やいらだちは募っていったことが読みとれた。しかし、その反発に対する日本兵の仕打ちはもっともおそろしいものであり、住民は人間以下の扱いにされまさしく、日本兵の思うがままに利用されていた。自らのいらだちと不安をおさえて軍の命令に絶対的に従わなければならなかったこのような状況におかれた住民の心情はいかなるものだったのか。

    ほとんどの証言でわかったことはこのような形での戦争への協力というのは、住民は学徒隊のように自らというより、本当に渋々仕方なくという心情でおこなったということだと思う。やはり、自分を犠牲にしてまで日本兵のためにとはいかなかった人間らしい部分があったということもいえるのではないか。それは、社会教育での思想統一の流れがあっても学校教育での皇民化教育が学徒隊ほど行きとどいていない住民だからこそ反発という行動が出せたのだと思った。

○結論

    今回「沖縄県民はなぜ沖縄戦に巻き込まれたのか」と題して下位課題に沿って発表したが、学徒隊の戦争動員に関して教育が果たした役割ははかりしれないほど大きいものであった。まさしく教育によって思想が統一され、国の思うがままにコントロールされていた。拒否するものには権力によって有無をいわさず脅迫、強制するなどしていた。まさに教育によって人間がかえられ、それによって住民を戦争へと導かせ教育によってあのような悲惨な戦争がおこってしまったといえるのではないか。

    しかし少数ではあるが、このような教育に反対した教師や一般住民がいたということは私がこのレポートを作成するにあってたてた仮説(反対する人はほとんどいなく、いたとしても仕方なく参加した。反対するということはもってのほかだったのでは)から全く想像もしていなかった。どんなに島民化教育がいきとどいていたといっても、このような人がいたということは本当に完璧にはいってなかったといえるのでは。あの時代に自分の意思をもって反発した人がいたということ、それが何を意味しているのか?私の中では衝撃的であり、今となって重要な意味をもっているように思う。

    沖縄戦を、背景から追ってきて私が一番感じたことは、教育の力というもの、教育が及ぼす影響は半端なものではないなということだった。だからこそ私が今、教師を目指す立場として、教師になれた時には本当に真の教育を子供達に伝えていかなければならない、教育者としての自覚を日ごろから身につけていかなければ、そして、自分の意志をつらぬける人間になりたいと感じた。

[参考文献]『沖縄戦と民衆』林博史『15年戦争の証言』沖縄県『沖縄戦─国土が戦場になったとき』青木春雄

4 沖縄戦における南風原の住民の避難状況はどうだったのか
                                      GS生(英米言語文化学科3年)
 はじめに、今回なぜ私が「沖縄戦における南風原の避難状況」について調べようと思ったのか、その理由を述べてみたいと思う。私は、幼い頃から南風原に住んでいて、よく友達と南風原陸軍病院跡や戦車第27連隊の本部壕跡でかくれんぼや木登りなどをして遊んでいた。当時は、その場所で悲惨な戦争があったことは授業を通して知っていても、怖い、恐ろしいという感情はなく、ただ遠い昔に恐ろしいことがあったという感覚であった。

    しかし、この講義を通して、私が住んでいる南風原でも、多くの尊い命が奪われていったことを考えると、戦時中に地元で一体何が起きていたのか、住民はどのように避難したのか、ちゃんと調べないといけないと思い、今回最終レポートの課題を南風原に絞って設定することにした。2つの下位課題に分けて、研究結果を述べていこうと思う。

 まず下位課題@「南風原の住民は壕の中で、どのような避難生活をしていたのか」についての、私の仮説から述べていきたいと思う。

    南風原の住民は壕に避難したが食料不足で苦しみ、体力のない子どもたちは亡くなるケースが多かったと同時に、壕の中は亡くなった人たちの死骸などで蛆虫などがわき、不衛生で、日々米軍をはじめ日本兵の脅しから恐怖を感じ、生きるか死ぬかの瀬戸際で苦しい生活をしていただろうというのが、この課題に対する仮説である。

    その理由として、戦時中、米軍をはじめ日本軍が爆弾や火炎放射器などで、ほとんどの畑を焼き尽くし、食料が手に入りづらかったと思うし、住民は自分たちが持っている食料を日本軍に取られるケースが多かったことから、住民は戦時中に食糧不足で悩まされたのではないかという仮説を立てた。

    特に、南風原の場合、激戦地であった糸満に近かったことから、戦闘期間が長期化し、住民は日本軍と米軍との間で命をかけて逃げ回り、体力のない子どもやお年寄は壕の中で命を落とすものが多かったのだろうと予想した。その仮説が正しいかどうかを別資料に載っている証言を基に課題に対する結論を述べていこうと思う。

 先に結論から述べると、私が設定した仮説はほぼ正しいと検証した結果言える。その過程を述べていきたいと思う。

    壕の中に避難した住民が食糧不足で悩んでいたということがわかる証言は、証言@とBである。「おっぱいが足りなくて泣いた」という言葉が語っているように、子をもつ母親は十分な食べ物を口にしていないために乳がでなくなり、そのため我が子に乳をあげることもできない様子がうかがえる。つまり、逃げ回ってやっとの思いで壕の中に避難しても、十分な食料がないために大人も子どもも食糧不足で悩んでいたことがわかる。壕の中が不衛生だったということは、証言Aからわかる。「死人やまだ生きている人も、水の中に入れられ踏まれていた」という証言は、壕の中が死体で埋もれ、死体から発生する異臭や虫などで壕の状況は不衛生だったことを物語っている。

    住民は壕の中でも恐怖を感じていたことは、証言Cからわかる。「米軍からの投降の呼びかけは何度もあった」という証言から、住民は壕の中で米軍が投降する度にいつ死が迫ってくるのか心配で、いつも死に対する恐怖を感じていたと思う。これらの説明から、下位課題@に対する私の仮説はほぼ正しいと言える。

 次に下位課題A「南風原の住民は誰と避難していたのか」についての、仮説を述べていこうと思う。南風原の住民のほとんどは家族と一緒に避難していただろうというのがこの課題に対する仮説である。ここで私が意味する家族とは、兵隊でない父・母・子ども・祖父・祖母・親戚・従兄弟である。特に、南風原は南部に位置し、日本軍の中心基地があった首里からも近いことから南風原にいた男性は子ども、お年寄を問わず兵隊にとられていったため、住民は母親を中心に避難しただろうということも予想できる。この仮説も正しいかどうか証言を通して、検証していきたいと思う。

 先に結論から述べると、この仮説もほぼ正しいと検証した結果言える。その過程を述べていこうと思う。証言D〜Hに「親類6人」、「親子4名」、「家族全員」とある。その証言から、仮説で述べたように南風原の住民は家族を中心に避難したことがわかる。証言Hの中で、「父親」という言葉が出てきたため、避難する家族は父親を中心に避難したことも言える。私は仮説の中で、母親を中心に避難しただろうと述べたが、それは家族によって違うと思った。父親がその家庭にいる場合は、父親が中心になって避難し、いない場合は母親が中心に避難したこともわかる。その家庭の状況によって、誰と避難したかということが異なってくるということも、この検証を通して理解できる。これらの検証から、私が設定した仮説はほぼ正しいと言える。

 次に下位課題以外ではあるが、検証して気づいた点を述べていきたいと思う。証言DとGから、南風原の住民の中には必死に避難していた人もいたが、自ら自殺する人もいたということに気づき、非常に驚いた。

    悲惨な戦争状況の中で、住民は精神的に不安定になり、追い詰められて自殺したと思うが、家族全員で自決するとはとても悲惨なことだし、もし私が父親だったらどうしていただろうかと考えさせられたと同時に、戦争は人間が本来持っている人間性、理性を奪ってしまうのだということを知り、戦争の恐ろしさを実感した。

    証言@からは、母親が自分の赤ん坊を窒息死させてしまったことが読みとれるが、それから読みとれるのは、赤ん坊だけが犠牲者ではなく、母親もその周りにいた住民もすべて戦争の犠牲者だということに気づいた。本来なら、一番弱い赤ん坊を母親だけではなく、周りの大人たちが守ってあげるべきだが、逆に赤ん坊が泣くと「壕から出て行きなさい」と言って自分たち中心に考えてしまう。しかし、よくよく考えてみると、弱いものを強いものが守ってあげるという本来の人間性が戦争によって失われ、自分中心に考えてしまうのだと感じたし、戦時中には住民みんなが犠牲者だったのだと感じた。

    また、証言Fからも、悲惨な戦時中には、人々が本来もつ互いに助け合う心が戦争によって奪われていることに気づいた。昔から「お年寄りを敬うことを忘れてはならない」と言われていたのに、戦時中には敬って助けるどころか、足手まといになるからといって置いてけぼりにしていたこと知り、大変胸が痛くなった。なぜ住民は家族であるお年寄りに対してそういうことをしたのか、はじめ疑問だったが、あの悲惨な戦争状況を考えると住民もお年寄りだけではなく、自分たち家庭を守るのに必死だったから、仕方なく自分たちだけ急いで逃げたのだと思った。

    また、お年寄りも本当は家族と一緒に逃げたかったけど、体が思い通りに動かないし、足手まといになったら一家全滅してしまうからという理由で、自ら一人になったお年寄りもいたのだろうと私は予想した。それを証明する証言を読んだことはないし、確信して言えないが、私だったら家族のために、自ら一人になると思った。

    このように、下位課題以外にも、証言から戦争状況、戦争の姿をたくさん知り、感じることができたし、教科書や戦争に関する資料を読んで、戦争とは何かを理解するよりも、多くの証言から理解した方が、本当の戦争の恐ろしさ、悲惨さ、姿、そして平和の有り難さを実感できるのだと、下位課題を検証していくにあたって実感した。この講義を受講して、平和の大切さを実感できただけではなく、真の戦争の姿を知るにはどうすればいいのかを学んだ。

 最後に、この講義で学んだことを踏まえて、未来への展望を語っていきたい。将来、私は英語教師になりたいという夢を持っている。教師になったら、英語だけではなく、総合的時間の授業を通して、平和学習をしていこと思っている。沖縄戦の真の姿、悲惨さを生徒たちに伝え、戦争が人間に対して何をもたらすのか、平和な世界にするためにはどうすればいいのかを生徒と共に考え、平和の有り難さを共感していきたい。

    また、沖縄戦を取り上げるとき、この講義を通しての班発表、個人発表で用いた、「証言を基に調べていく」方法を生徒と共に用いて学習していきたいと思う。また、戦争体験者が減ってきている中で、本当の沖縄戦の姿を風化させないためにも、授業を通して、生徒たちを証言者と話す場を作り、「聞いて自らの心で実感する」平和授業をしていきたいと希望に燃えている。 英語教師ということから、生徒たちを諸外国の生徒たちと交流する場を作り、お互いに平和を希求する心、お互いに愛する心を育み、国籍、人種で差別するのではなく、同じ地球に住んでいる人間、生き物なのだということを生徒たち自ら意識できるように、平和学習と英語教育を混ぜて、総合的に授業を行っていきたいと思う。そういう授業こそが、総合的時間の授業のあり方だといことも知った。

[引用証言](ホームページ「沖縄戦の記憶」より)(*南風原の住民の証言のみ)
@壕があったのでそこに入ったんですがね、そうしたら抱いている赤ん坊が泣くもんだから、口を塞ぐつもりなのが、鼻をおさえて、窒息させて死なしてしまったことがありましたがね。
A壕の真中に水が流れていて、死人やまだ生きている人も、水の中に入れられ踏まれていた。私たちは「ここで死んだら、私たちもあんな風に踏まれるんだね」と思って、死ぬなら外で死のうといって外に出ようとしたが、壕の入り口に門兵が立っていて、出してくれなかった。
Bところが、まだ乳飲み子だった娘の房子が、私のおっぱいが足りなくて泣いたために、「飛行機にチカリンドー、出なさい、出なさい」、つまり子供が泣いたら米軍に聞こえて攻撃されるので、壕から出なさいと言われたのです。
C米軍から投降の呼びかけは何度もありましたが、火炎放射器か何かを壕の中に打ち込むというので、とうとう出ることになりました。
Dここで死のうと思って、親類6人くっついて、手榴弾の信管を抜いた。しかし、不発で死ねなかった。
E私たち親子4名はとある民家で4〜5泊まっていましたが、すぐに空襲が始まったので、軍の大きな防空壕に避難しました。そこには1週間ほどいましたが、その間にはすでに米軍が沖縄に上陸したようです。
F途中、家族に置いていかれて泣いているお年寄がたくさんいた。
Gここで印象に残っているのは、古謝さんという人が家族全点を薬で自殺させたが、自分は死にきれず口から泡をブクブク出してフラフラ回っていた。
Hその中には大家族らしい一団があって、父親らしい人は棒で両側にいっぱい荷物を詰めた袋を担いだ姿で倒れているし、母親らしい人は頭の近くに大きな荷物の袋が転がっている。老人の姿も見られるし、数人の子供たちは一列になって点々と離れ離れになって死んでおり、小さな荷物がその間に転がっている。この一家はここで全滅したのではないかと思った。
※「沖縄戦の記憶」は本ホームページのことです。(制作者)

5 沖縄県民はなぜ戦争に巻き込まれたか
                              KI生(経済学科3年)
 私は小、中、高校で平和学習をしたというのは覚えているが、その時だけの悲しみと、知識で終わっていた。戦争をあまり重要な事に感じていなくて遠い昔に起こったこととしてかみていなかったのだが、それではいけないと思った。実際に私たちが住んでいる沖縄で戦争が行われ、私たちの周りにいる身近な人も沖縄県民として地上戦に巻きこまれたということを思う時に「沖縄県民がなぜ戦争に巻き込まれたか」を知りたいと思いこのテーマを設定した。課題解決のために二つの観点から捉えてみようと思う。@住民の戦争協力への意識A教師についてである。

 まずは@住民の戦争協力への意識についてである。戦争というのは軍隊が戦うものだと考えている。だが沖縄戦では住民や子どもたちまでも兵士として巻き込んでいった。このことを深く考えた時に怒りが込み上げる。私が親だったら愛する子どもを死ににいかせることはしないと思い、当時の親は反対しなかったのかと疑問に思ったのであるが、子どもが親の反対をおしきり学徒隊に参加したという証言もあった。このような意識はほとんどの学生にあったと思える。教育のなせる技を改めて実感した。

    この他にも「軍隊に行かないとどうも悪いことをしている気になりまして、軍隊に行くことにしたんです」(『沖縄県史9巻』)とか「軍の言うことに従わないとどういうことになるのかあとが怖いから仕方なくしたがったものです」(『沖縄県史9、10巻』)などがある。このことからいやいやながらとか仕方なくということが読み取れる。

    住民の戦争協力への意識は内面では反対する気持ちはあったのだろうが受身的になってしまっている気がする。沖縄の人の性格もあったと思った。他にそれだけ軍の支配は絶対的なもので圧倒的なものだったのだろう。

 次にA教師についてだが教師はどのように教育していったかを言及していく。沖縄では本土への同化政策が進められ、さらに皇民化教育も本土以上に強力に推し進められた。当然のことだと思うがそれを担ったのは教師達だっただろう。証言の中に熱心になって皇民化を推し進める例がたくさん見られる。『戦争と民衆』より引用する「日本人として恥じないような立派な死にかたをするんだ(中略)米兵を一人でも多く殺してから死ぬんだ」「捕虜になるくらいなら自決のみちを選べと繰り返す教師もいた」(市民の戦時体験記 第1集24頁)とあったがよく子どもにこんな無責任なことを言えるなと思った。

    当時の教師は威厳にあふれている。子どもを戦争のための道具としてつくり変えなければいけないという使命感からだと思った。現代とは違った熱心さが見られるのだがそれは可哀想だと思った。皇民化しか教えられない教養の狭さ少し視点を変えてみるなら教師こそ国に利用されてしまった道具だったと。ほとんどの教師が皇民化に満足してしまったのだろう。また自分が教えた通りの人間が育つし、言った事に忠実な子ども達を見ていたら悪い気はしなかっただろうと思う。

    主導権を握ってしまった教師。その虜になったのかもしれない。教師が言うことにはある程度の権力や説得力があると思う。だから子どもは教師の言うことを素直にうけいれて、当たり前のように思い疑問までもいだかなくなってしまう。おしつけてしまうのはいけないことだと思うのだが、ここでは一方的または強制的に教育をしていることが分かる。「皇民のためと聞くだけで緊張し感激するように叩き込まれ、華々しい特攻隊員の死に方に憧れていた」(『鉄血勤皇隊』143頁)とある。

    現在では叩き込まれるほど教えられるということはなくなったと思う。華々しい死に方に憧れを抱かせるほどの教育ぶりに違う意味で感心した。その言葉は適切でないと思うが目指していたものの実現がなされていることにある意味すごいと感じた。ここまでできたのなら皇民化教育ではなく違った教育をしていたらもしかしたら何か変わったのかもしれない。しかし教師の中には皇民化に反対する人もいたのだ。「おい、お前たちまだそんなところでボヤボヤしているのか。どうして早く熊本へでも鹿児島へでも転校しないのだ。転校手続きは俺が必ずやってやる。沖縄で死ぬのは俺たちだけでたくさんだと声をかけてくれたという」(『ひめゆりの沖縄戦』23頁)。

    この当時疎開をさせるということはいけないことであった。ばれて学校を追われることになった教師もいたようだ。このように反対したという教師がいたということだけでも安心した。周りとは違った意見をもちそれを主張することは相当な勇気と決断が必要だったと思う。そんな中で行動に移すことができた教師には見習うべき所があると思う。

    最後に資料1,資料2より教師の判断で生きもするし死にもすることが分かる。皇民化を貫き通すことを言えたのも教師だと思うし、生きる希望や道を示すことができたのも教師だと思った。教師の役割は大きいと思った。

 教育が沖縄県民を戦争へ巻き込んだ大きなかぎになっていると思うのだが、その役割をになった教師にも少なからず責任はあると思う。学徒隊の戦死者も多いことから生きるという道をすすめた教師は少なかったのだろう。国の皇民化という政策がこの小さな沖縄のいたるところまで浸透していき平和だった沖縄を変えてしまった。そして戦争動員に自ら志願して行く民や、国に反対できなくて仕方なく参加していった民も出し、多くの県民が戦争に巻き込まれていったと私は思う。

    捕虜になるよりは死んだ方がましという言葉から、誤った情報の教え込みがなされていたことを感じる。他にも同じような証言はたくさんある。こういった誤った情報または知らされていなかった情報も県民を巻き込んだ原因となると思った。

    今まで戦争は二度とおこしてはならないものだと思ってはいたが、正しい知識がなかったり恐怖だけを感じて言っていた。しかし軽々しくこの言葉を口にしたくないなーと思う。もし今戦争が起こるとしたら、状況にながされるままで自ら行動を起こそうとは思えない人間になるかもしれない。自分自身が行動でもって本当の戦争ではないが、体験したり、このように深く学習していき真の悲惨さを理解してこそ、この言葉の意味に重みがでると思うし、説得力をもつのだと思った。

    調べていくにあたって二度と戦争はしていけないという言葉の重みを少しだけ得た気がする。
※参考証言の内容は省略しました。(制作者)

6 沖縄戦における女子学徒隊の状況はどうであったか
                                   KY生(日本文化学科3年)
 この講義を受けて4ケ月。講義を通して私の沖縄戦に向き合う姿勢は大きく変わった。これまでの私なら、戦争体験者の方の話を聞いたり証言を読む時、戦争は二度と起こしてはならないと感じただけだった。感じるというのはいいことかもしれないが、悲惨さを感じただけで、「なぜ」という疑問は生まれてこなかった。今の私は「なぜ」しかでてこない。

    その「なぜ」の中から学徒隊に目を向けていくことにする。それは私の祖母がひめゆり学徒隊として任務に就き、戦場を生き抜いてきたからである。その体験を語る祖母を前にし、そもそもなぜ女学生が戦争へ動員されなければならなかったのか不思議に思った。それをきっかけに、女性という観点から女子学徒隊について述べていく。

 まず、なぜ女学生が戦争に動員されたのかという所から調べていく。動員される前に疎開を始めていたというところから、はじめから使うつもりではなかったはずである。しかし、昭和18年6月には「学徒戦時動員体制の確立要綱」が制定され、看護訓練が強化され、必要に際しては戦時救護に従事せしむる方針がなされていた。昭和19年になると「緊急学徒勤労動員方策要綱」や「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」が制定され、学園は兵営とされ、生徒たちは「軍事陣地構築への積極的協力奉仕」が強いられた。また、生徒たちは陣地構築の他、その合間をぬって看護や戦闘の訓練が行われた。

    県教育も戦闘配備体制に移行し「一人十殺」の合言葉で郷土防衛に殉じることが学徒の当然の本分だとされていた。学徒動員について『沖縄戦と民衆』に関連する部分があったので引用する。「こうした学徒を動員することについて、44年12月から翌年1月にかけて第三十二軍の三宅忠雄参謀と県教学科の真栄田義見事務官との間で数回にわたって協感が行われた。その結果、米軍が沖縄に上陸した場合に備えて、中学下級生に通信訓練を、女学校上級生に看護訓練をおこなうことに決まった。県では、「女子学生を戦闘に参加させることには強く反対した」(山川泰邦『秘録沖縄戦記』76〜77頁)が軍に押し切られた。選ばれた生徒たちを対象に、1月から訓練が開始された。」とあった。

    とりあえず、県は反対していたということが分かった。しかし、女子生徒が動員されることになった背景には次のことがあった。「師範学校の西岡一義女子部長が女子学徒の協力を強く主張したという。県立第二高等女学校の校長は、西岡女子部長がそうした提案を軍に出したとき、内心では反対だったが、それを言うことはできなかった。『あの男が軍へのへつらいであのような提言をしなければ、女生徒たちを戦争に巻き込ませないですませられたものを』とうらめしがっていたという。−(中略)−この西岡女子部長は、ひめゆり学徒隊が動員されても生徒たちに同行せず、軍司令部と行動をともにした。」という部分である。

    これが教師の姿であろうか。軍に逆らえず生徒を軍に渡す。しかも、自分は生徒とともに戦おうとせず、軍と行動をともにしている。なんということか。そのせいで生徒は犠牲となり、女子学徒隊の約半数は命を落とした。この責任は重いのではないか。

 私は生徒たちは無理やりやらされていただろうと考えていたが、それは間達っていた。確かに、訓練や陣地構築は大変だったという証言は多く出てくる。しかし(1)や(2)の証言を見ると、軍国主義教育の徹底さがよく分かる。女学生たちもこのような徹底教育の中で、戦死して靖国神社で祀られたいという気持ちがあったようである。また、家族や親戚の戦死で、「兄の仇!」という気持ちで喜んで軍属になったという例もあった。

    ひめゆり学徒隊では、沖縄戦に向けて17里行軍が行なわれた。この趣旨は、戦意高揚と心身鍛錬、更には宣伝効果も狙っていたという。女生徒を歩かせることによって、それを見る住民をも戦意高揚させるということである。このような徹底した教育の中で、何の疑いもなく戦地へかり出されていったのである。

 看護訓練を受けた女学生たちは、1945年3月下旬に女子学徒隊は従軍看護婦として陸軍病院や野戦病院に配属された。その任務はとても過酷だったという。看護活動は、注射・包帯交換・包帯洗い・患者の食事の世話・手術時のローソク持ち・切断する手足を押さえる仕事・切断した手足の処理・患者の排泄物の処理・死体埋葬・薬品搬送・患者護送など数多くあった。その中、日に日に患者は多くなる一方で、手術するための麻酔もなくなり、麻酔なしで手術が行なわれた。眠ることのできない過酷な任務は続き、看護活動だけでも大変なのに、その他にも壕掘り作業・食料調達・飯上げ・水くみなどもやった。その任務の中で、水くみに行くといって艦砲にやられた友、壕を移動する途中で艦砲にやられた友、任務中にも何名かの女学生が命をおとした。当初の任務ではない伝令や斬りこみという任務もやらされたと知り、私はすごく驚いた。

    (3)は伝令で犠牲になった女学生の証言である。なぜこんなことまで女がやるのか。しかし、(4)(5)を見て、私はさらに衝撃を受けた。それは、自ら斬りこみを志願したということである。だまって死ぬより少しでも多くの敵を殺してから死ぬ。という考えはまさに「一人十殺」の精神ではないか。教育のおそろしさを感じた。

 そんな任務の中で女性としての差別などはなかったのかという疑問が生まれた。住民女性の中の多くの女性が友軍の兵隊や、敵軍の兵隊に暴行されていたという証言が多くある。まさか、学徒隊にこんなことはないとは思ったが、とりあえず調べてみることにした。
すると、少しだが、(6)(7)といった証言が出てきた。(6)の場合は、もう女として見られていない。まさに軍隊そのものである。(7)のような証言がもっと出てくるような気がしていたが、これ以上それらしい証言は探すことが出来なかった。

    石垣島の例ということから、沖縄本島では激戦だったため、こういう例は出てこないのかもしれないと感じた。しかし、(6)のようなことが起こるということ自体おかしなことである。主従関係を利用して暴行をしようという下劣な行為だ。戦争だから仕方ない、状況が状況だという考えはよく分からない。戦争だから緊迫感がすごく、それを癒すために求めるということなのか。それにしても女性が犠牲になりすぎていると私は思う。女子はその軍国主義の徹底から、親に反対されても親を押し切ってお国のために戦い、また、伝令や斬りこみといったとても危険な任務までやらされた。やらされたという表現は少しおかしいかもしれない。それは自ら進んでそれを望んだからだ。沖縄戦が始まる前にそういう軍国教育を徹底し、完璧にしていたのである。すごく恐ろしいことだ。女は女として扱われてはいなかった。しかも女性は、「女生徒も女だから何も出来ない」と言われるのを大変嫌い、お国のため、天皇のために戦ったのである。その気持ちは男性よりも強かったのではないだろうか。

 このように、学徒隊を戦争動員するためにどんどん新たな法案が出され、それがとおっていくことに恐ろしさを覚えた。女学生も、その頃の環境が軍事一色であったために、動員されるということに何の疑問も感じず、むしろ進んで協力していったのではないかと思う。教育するということの怖さと、責任の重さを深く感じた。

    任務についても多くの死者を目の当たりにし、飢えと悪臭の中、天皇のために働いた彼女たち。命を大事にすることもなく、天皇のためなら喜んで死んだ生徒、死にたくなくても艦砲射撃にあたり、命をおとした生徒、解散命令後に行くあてを失ってガス弾によって苦しみながら死んでいった生徒。

    何の罪もない彼女たちがなぜ死ななければならなかったのだろうか。女性だということは気にすることもなく、軍隊として生きていた。差別の例にしても、さらに多くの例があるはずだと考えるので、これからも証言を探していこうと思っている。

 この沖縄戦を考える時、西岡女子部長のように環境に流されて生きるのではなく、自分
をしっかりもつということの重要性を考える。これまでの悲惨さだけを学ぶ平和教育では
なく、この沖縄戦という事実をしっかりと受け止め、どう生きていくかということを考えるべきだと思う。

   とりあえず私は、この講義で出た多くの「なぜ」を検証していこうと考えている。そして、祖母の沖縄戦の足跡を辿り、共にその証言を編集し、祖母が亡くなった後も、私が亡くなっても、ずっと残るようなすばらしいものにしたいと考え、祖母と共に計画している。

[参考・引用文献]『沖縄県史9・10』『ずいせん学徒の沖縄戦』宮城巳知子『沖縄戦をみつめて−日米両軍のはざまに生きる−』沖縄戦を考える会『証言沖縄戦戦禍を掘る』琉球新報社『証言・沖縄戦 戦場の光景』石原昌家『ひめゆり平和祈念資料館10周年記念イベント『沖縄戦の全学徒たち』展報告書』ひめゆり平和祈念資料館
※参考証言の内容は省略しました。(制作者)

7 沖縄県民はなぜ戦争にまきこまれたか
                         SA生(日本文化学科3年)
 私が住むこの沖縄は、昔戦争があり、自分の祖先も犠牲になったことは、身内の話や、学校の平和学習などで知っていた。しかしこの教職総合演習で本格的に沖縄戦を考えるまで、自分は沖縄戦を「知っているつもり」だったんだという事を痛感した。「悲惨・残酷」という感情を持つことだけで終わってしまい、現実に起こった出来事とわかっているようで、どこか空想のようにとらえているようなところがあったと思う。

    しかしこの講義で少しずつ「沖縄戦とは何なのか」を学んでいくうちに、「それではいけない、その先を考えていかなくては」という気持ちになり、これからの沖縄の未来を担う−人として、沖縄戦の定義を自分なりにみつけようと考えるようになった。

    そして調べを進めていき、その恐ろしさを知るほどに、私の心にはいつも疑問があった。「戦争体験者だって人間なのだから否定するに違いないのに、なぜ戦争に巻き込まれたのだろう?」というものだ。それで今回二つの下位課題を設定しようと思う。

 まず一つは「県民を取り巻く状況はどうだったのか」ということである。証言から当時の状況をみていくと、私が調べた範囲では、1938年の「国家総動員法」が多くでてきた。

    西原町の城間さんのように「食料品をはじめとする主な生活必需品を配給制にし、諸物資の統制を図った」@や、豊里友美さんの「前に掲げてある土地を提供せよとの命令である。国家総動員法による命令である。当時だれでもそうであったように、国家の命令には絶対服従である。国が勝つためには、やむを得ないという立場に追いやられていたのである。」Aなどから、国家の定めた法律にはいやおうなしに従わなければいけない状況だったといえる。

    また、城間さんは「町や村には、『鬼畜米英撃滅』『撃ちてし止まん』『尽忠報国』『欲しがりません勝つまでは』などの軍国スローガンやポスターが氾濫するようになった。」@と言っているので、生活の中にも軍国主義の色は濃く出ていたといえる。

 そして最も多く証言から出てくるのは「教育」であった。当時学生であった城間さんと、教員であった瑞慶覧(教員・41歳)さんの対照的な立場の二人の証言をみると、城間さんは、「軍国主義教育の最もたるものに軍事教練があった。」@」とあり、瑞慶覧さんは、「大東亜戦争が始まる前から、音楽の時間には歌で、また朝礼のときには校長先生のことばによって、それから社会科の時間を通してとか、すべてにおいて子ども達に、常に天皇中心の軍国主義の教育を教えたのが私達であります。いわば戦争犯罪者になるわけです。」という風に述べている。また、聞き取り調査した我如古さん夫婦も、「わけもわからないまま教育勅語や五箇条の御誓文を覚えさせられた」と言っていた。

 これらの証言からみてもわかるように、当時の教育は天皇の為なら死ねるような人間を育てる皇民化教育であったことがわかる。また、城間さんは「兵士たちの中から戦死者が相次ぐようになった。白木の箱に納められた遺骨が帰ってくるたびに、『英霊の無言の凱旋』と称えられ、学校の校庭で『村葬』の形で村民あげての葬儀が営まれた。」@とあり、また、伊集さんは「この兵役というもの、徴兵検査というものは非常に重んじられておりました。そういう関係で徴兵検査にあたる家族は、みな大きなお祝い、隣近所、親戚中が集まりまして大きなお祝いをするわけです。酒をくみかわし、鐘や太鼓をうってお祝いを盛り上げるところもありました。〜省略〜赤札がきてその該当者に家に持っていくとき、『おめでとうございます』といってそれを渡すんです。」@とあり、戦地へ赴くことは名誉であり、祝うべきものだという状況になってしまっていたことがわかる。

 次に、このような状況にあった県民は、戦争に対してどんな気持ちを持っていたのかを探ろうと思う。証言を読んでいると、証言者たちは当時、表に出すことのできなかった本当の気持ちを出しているように思える。城間さんは「不安の中にあっても勝利の日を信じたいというジレンマに陥っていた」とあり、また、「弟・清の召集令状を手渡すと、さすがの気丈な母も、きっとなって、目をうるませながら抗議めいた口調で私を詰るにであった」@と述べている。

 戦争に対する不安と自国の勝利を信じる気持ちに板ばさみされ苦しむ姿と、自国の為よりも、自分の息子を思う人間らしい母の姿をみることができた。また、仲原さんは、「日本がアメリカに勝てるはずがない。日本が負ける事は明らかだと考えていましたがその事が軍部にでも聞かれると、わたしは打ち首だから秘密にして欲しいと、念を押して知らん顔をしていました。」@と、軍に聞かれると殺されるから気持ちを押し殺している。

 また、宮城さんは、「苦労といえば苦労ではありましたが、そういったり思ったりしては、日本国民として悪いということで辛抱してきました。実際はいろいろと大変きついことでありました。」@と、立派な日本国民でありたいが為に辛抱している。

 元教員の瑞慶覧さんも、「戦地に召集されるときも『おめでとう、おめでとう』と心ないことを言って軍隊に送りだしたものです。」@という風に、周りの状況から自分の気持ちとは違った言葉を発していたようだ。

 私の読んだ証言で、このように戦争に対して全面的に戦争を肯定していたわけではないものがみつけることができた。本当の気持ちは読んでいてもわかる通り、軍に聞かれると大変だという状況から気持ちを押し殺したりと、自分で押し殺したりとしている人もいたようだ。

 先に考察した状況なども考えると、国家に立ち向かうことのできる人はいなかった為、戦争を否定する気持ちがあっても表に出す事ができなかったことがわかった。目の前にいる軍であったり、法律であったり、教育だったり、人々を取り巻く軍国主義・国家主義の環境から、身も心も国の為に捧げる人間が育ったのだ。人の命が消えていくことに疑問を持ったりと、人間らしい心を持っていても、そういった国家の化身に人々は犠牲になってしまっていたのだろうと思う。

 これを踏まえ今回の課題を追求した今の、私なりの定義は「戦争とは、国家が人間の身も心も支配し、人間ではなく戦争の道具とすること」としたい。これを考えた今「人間」の持つ意味がとても深く感じられる。

 幸いにも私は少なくとも「人間」であるといえる。こうやって平和について考えられることも幸せだと思うことができた。しかし今までの私がそうであったように、それで止まってはいけないのだ。現に戦争は世界のあちこちで起こっている。「過去の話や空想ではない、身近な問題なんだ」ととらえ、そして、二度と起こさないためには何ができるのか考え行動しなくてはならない。当時の人々が国家の思惑に巻き込まれたように、間違った考えにはしっかりと意思を示し、自分を持ち、常に人が人でいられるように努力していくことが必要であると思う。こういったことに気付けただけでも今回沖縄戦を追求する意味があったなと思う。

 まだまだ私の平和への道は一歩を踏み出したばかりである。この島に生れた者として、犠牲になった祖先達の声なき声を胸に、これからも沖縄戦を追求していこうと思う。
[参考文献]@『15戦争の証言』沖縄県A『沖縄県史9・10巻』沖縄県教委

8 なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたか
                                             TN生(日本文化学科3年)
 6月23日慰霊の日。真先に思うのは「悲惨で残酷だった地上戦」といわれるもので犠牲になった人々への鎮魂の思いと、沖縄戦が沖縄でほんの半世紀前に繰り広げられていた事実と実感できず、恥ずかしながら公休日であることを喜んでいる私がいる。

    なぜ私の中に沖縄戦に対する二面の価値感が存在するのか。それはおそらく沖縄戦に対する知識の土台となっている学校教育であろう。なぜならその内容は「もうすぐ慰霊の日だから」という理由で聞かされた体験者の講演か、同じ理由で見せられた多くの写真である。それらはなぜそうなったのか、という素朴な疑問を生むきっかけにはならず、あくまで悲惨な内容を毎年紹介する、そして感想を書くにとどまってしまう現状がある。

    そこで私は沖縄戦を自分の中で理解し、平和に対して積極的に学べるには、その被害状況だけでなく、その前の段階から、つまり、なぜ沖縄が地上戦に巻き込まれたか知ることで、今までとは違った戦争の捉え方ができると考えた。

    前回「なぜ沖縄が巻き込まれたか」という課題を解決する為に四つの下位課題を立て、住民、日本兵、米兵の関係とその地理的要因から検証していった。その結果、地理的要因より、本土から「捨て石作戦」米国から「氷山作戦」と両国の思惑の板ばさみになった沖縄が見えてきた。

 今回はその地理的要因を踏まえ、戦時下にあった人間の心理、行動、立場からくる差別を中心に沖縄戦を捉えていきたい。その方法は、個人の証言が主であるが、それを選ぶ際以下の三つを基準にした。@日本兵のスパイ視、A住民(エリート官僚)、B米国の住民に対する態度。この3点は、沖縄戦に参加したそれぞれの立場という視点で人間を見たとき、県民、日本兵、米兵の3パターンに分けられ、各々の持つ立場から沖縄戦を検証することによって、多角的に地上戦を捉えることができると判断したためである。

    戦後、特に沖縄の本土返還後に生まれた県民は私も含め、どんなに学習をしたとしても沖縄戦のすべてはわからない。それは体験者にもいえることであるが、少なくとも彼らは地上戦を実感として捉えることが可能なのだ。その差は大きなものである。しかし彼らの残した膨大な証言と記録をより多角的に捉えることで沖縄戦についてあくまで間接的にではあるが、その断片を知り得ることができるだろう。

 まずは@日本兵によるスパイ視である。沖縄戦の特徴として上げられるものの一つに住民を巻き込んだ軍民混在の戦場がある。そこには現地自活や集団自決、壕追い出しなどに日本兵の県民に対する仕打ちが元で命を落とした人も少なくない。(証言13,14参照) なぜ日本兵は県民に対してこの様な仕打ちができたのか。そこには沖縄差別あると考えられる。なぜなら同じ日本でありながら言語や文化が全く違ったのである。とりわけ本土に比べ沖縄は生活苦難を理由に移民の道をたどった歴史があり、そこでは奴隷の様な扱いをされたと聞いている(金武町仲間さん)。おそらく相当の差別と労働の中を生き抜いてきたことが予想される。

    このような県民の背景を踏まえると、日本兵が県民に対して対等の気持ちを持って接することが困難な状況になっていたということができる。敗戦が色濃くなり始めた頃、日本兵のいらだちを向ける矛先は、スパイ視という形で住民に向いたと推測できる。

 次にA住民(エリート官僚)について言及する。
 沖縄県民の全てが戦争の被害者かというと、そうでもない。確かに数々の証言を取り上げる中で、あたかも県民は被害者という意識を持ってしまいがちであるが、第六回講義の「沖縄戦体験者の証言」の資料を考えてほしい。同じ轟壕にいながら立場が違うだけで全く違う体験をし違う証言をしている。このことから、戦前の官僚の戦争に対する意識と一般人のそれを検証した時、かなりくい違う部分があるのではないかと予想されるのである。 

    太平洋戦争時に当時の那覇市長であった当間氏(後の太政翼賛会の県支部長)は沖縄戦を始める前から敗戦を予想していたし、県庁の幹部であった伊芸氏は「私たちは軍から地方人と蔑視され、軽視され、やり場のない憤まんと失望を禁じ得なかった」と振り返っている(『日本軍を告発する』p69)。つまり、当間は敗戦を予期しながら住民を戦場に送り出し、伊芸は軍に差別された事で、ますます住民に対し戦争に対する圧力をかけていったと考えられる。県民を守るはずの官僚らはこうして日本軍に対し特に強い抵抗をすることもなく沖縄を地上戦に巻き込んでいったといえる。

 最後にB米軍の住民に対する態度である。
 ここまで検証してきたのは日本という立場にいる人間である。沖縄戦は日本と米国の決戦である以上、米兵が日本人である住民に対してどう思い、どう対処したかを検証する必要がある。

 第10方面軍事令部が出した通達によると、「米兵と住民が親密になることを戒めた内容になっている。このことから、少なくとも日本兵の様な住民差別が存在しているとはおもえない。また証言資料では住民をねらって殺す兵はほとんどいなかった」としている。しかし一方で証言20のように、収容所で捕虜になった住民に対して残酷な仕打ちをしている一面もある。

 ここで注目すべきことは米軍の証言で、証言20は住民の証言ということである。証言している立場が違うだけで、「米軍の住民に対する態度」がこうも違うのはなぜか。おそらく軍民混雑の地上戦であることと関わってくるのではないか。なぜなら、現地召集である兵と住民とをどう区別できるか、持久戦を念頭に置き、住民の壕追い出しをしてまで生き抜こうとした日本兵が住民にまぎれているかもしれないと米兵が感じていたとすると、当然自己防衛を強化した行動をとるに違いないだろう。

 これまで日本軍によるスパイ視、住民(エリート官僚ら)、米軍の住民に対する態度を検証する中で見えてきたことは、一つだけある。それは日本という立場から強く戦争に反対人間が住民を含めていなかったということである。数々の法律が出来上がっていく中で、少しでも反戦を主張すれば罪になる社会ができあがってきたことを意味している。この様な社会におかれた住民、日本軍は立場が違うものの戦争に積極的に参加していったといえる。つまり「沖縄がなぜ地上戦に巻き込まれたか」という問いに対しての答えは以下に述べる通りである。

?戦争に反対する人がいない社会になっていた。(人間的要因)
?「捨て石作戦」と「氷山作戦」の間で板ばさみになっていた。(地理的要因)
少なくとも今回私が調べた範囲によると、これらの要因が複雑に組み合って沖縄が地上戦になった。誰も反戦を主張することができなければ、避けることもできない「起こるべくして起こった戦争」といえるだろう。

[引用・参考文献]『沖縄戦をみつめて〜日米両軍のはぎまに生きる〜』(沖縄戦を考える会)『沖縄戦50年後の証言米兵は何を見たか』吉田健正著『沖縄戦のはなし』安仁屋政昭『改訂版沖縄戦民衆の眼でとらえる・戦争』大城将保『沖縄戦と民衆』林博史『日録20世紀悲劇の島沖縄!』「聞き取り調査『うないの会』」から

9 沖縄に残った子どもたちはどんな避難生活を送ったか(南部を中心にして)
                                         NA生(法学科3年)
 私はこれまで小・中・高とずっと沖縄戦については何かしら学んできた。もちろんその年齢にあったやり方で、映画を見たり、平和祈念資料館へ行ったり、戦争体験者の話を聞いたり……というものだったが今回のように何ケ月も連続して沖縄戦について調べ、取り組むというのは初めての経験だった。だから沖縄戦について調べるといってもどうすればいいのか分からなかった。しかしとりあえず課題を設定し、それについて調べていこうと思った。

 私の課題は学童疎開などをせずに沖縄に残った子どもたちが、戦争に巻き込まれ、どんな避難生活を送っていたのかということだが、このような課題を設定したのは次のような理由からだ。これまで学んできた中で私は、沖縄戦はとても悲惨で特に沖縄の住民は弱い立場であったという印象を持っていた。だからより弱い立場であっただろうと思われる子どもたちは一体どんな避難生活を送っていたのだろうと興味を持った。また私がこの講義を取ったのは教師になるためだが、これから教師になるものとして、当時の子どもたちはどんな状況にあったのか、それを踏まえたうえで平和教育をしていけたらという思いもあり、このような課題を設定した。

 私は特に南部について見ていくが、その際大まかな下位課題として@誰と避難したか、そしてA食糧事情はどうだったか、を設定しそれらを中心に見ていくことでメインの課題である“沖縄に残った子どもはどんな避難生活を送ったか〈南部〉”を解決していこうと思う。また他の地域、主に中部と比較しながら見ていきたいと思う。

    課題解決の方法としては避難生活について調べていくので出来るだけ多くの住民の証言をよみ、そこから避難生活の実態が見えてきたらと思い証言を中心に調べていくことにする。
 まず@誰と避難したかについて親や家族と一緒だったのではないか。また南部の特徴として他の地域よりは親とはぐれたり、死に別れたりするケースが多かったのではないだろうかという仮説を立てた。

 証言をみると南部・中部を問わず、戦時の子どもたちのほとんどは親や家族と一緒に避難生活を送っていたということがわかった。また、南部は他の地域より親とはぐれたり死に別れたりするケースが多かったのではないだろうか、ということを仮説としてたてたがそのような証言は多くあった。おもに当時母親であった人の証言だったが、親とはぐれた子や、死別してさまよっている子どもを避難しているときによく見かけたというものであった。

 このような証言は南部に多く見られたように感じた。他の地域でも同じケースはあったと思うが南部にこんなにたくさんの証言があったことを考えると、それだけ南部には親とはぐれたり、死に別れたりした子どもたちが多かったのではないかと思った。

    また中部にこのような証言が少ないのは、中部は激戦地であったこと、南部と比べて早くアメリカ軍の制圧下に入ったことなどから、戦闘状態が長く続かず、早い時期に捕虜になった人たちが多かったからではないかと考えた。

 以上のような証言から、私の立てた仮説はとりあえず当たっていた、ということが言え
るのではないかと思う。南部の子どもたちは親とはぐれたり死別してしまったりしたケースが多かったのだな、ということが分かった。子どもたちの避難するときの状況にも南部と他の地域ではその特徴に差があったのだと感じ、沖縄戦では本当に様々な状況があったんだな、と実感した。

 次にA食糧事情はどうだったかについて立てた仮説は芋や米、サトウキビなどを主食としていたのではないか。そして児童以下の子どもたちだけでは食料を調達するのは困難であっただろうと思った。また南部では特に一般住民と軍が入り乱れた状態だったので、日本軍による住民に対する壕追い出しも他の地域に比べると多かったと思うしそのせいで南部の食糧事情は厳しかったのではないかと考えた。

 証言を見ていくと食糧事情はじつに様々だった。子どもの避難生活を調べるということだったが大人と一緒に避難生活を送ったという証言しかでてこなくて食料事情も大人によるところが大きかったといえると思う。

    “食糧事情はどうだったのか”という課題に対して、“芋や米、サトウキビなどを避難生活が始まる前から保存していたり、あるいは拾ったりして食べていたのではないか”という仮説をたてた。この仮説はある部分では当たっていると思う。しかしそれだけではなかった。戦争が激しくなるまでは豚をつぶして食べたとか、逆に避難生活が長引くにつれ、ソテツや、木の芽、干乾びた豆、麦、など口に出来るものはなんでも食べたという証言もあった。むしろ芋や米などを避難生活が終わるまで食べていたというのはごく稀だったようだ。水もわずかな水滴をなめて命をつないだとか、まさかここまで……と今なら思うようなものまで口にしなければ生き延びられなかった人たちもいたのだと、改めて沖縄戦の過酷な状況を知った。

 またもう一つ、“子どもたちだけでは食料調達は無理だったのではないか”という仮説をたてたが、私の読んだ証言は全部、親や親戚の人といった大人と一緒だったというもので、食料の調達も大人がやったり、大きい子の場合は食料を探しにいったという証言もたまにあったが、やはりほとんどは大人に頼るところが大きかったと思われる。

 また、南部は他の地域に比べて食糧事情は厳しかったのではないかという仮説については予想に反して他の地域の方が南部よりも食料は乏しかったようだ。南部では日本軍が残していった食料を見つけたとか、軍のおこぼれにあずかったとかという証言がけっこうあった。

    主に中部の証言と比較したが中部では避難生活についての証言はあまりなかったように思う。むしろ捕虜になってからのほうが証言として多く残っていた。これは私の推測であるが中部は米軍の上陸地点でありそこから南部、あるいは北部へと進んでいった。だから中部の人たちは他の地域に比べて捕虜になるのが早く、結果避難生活での食料についての証言が少なかったのではないだろうか。もちろん捕虜生活も避難生活に含まれるだろうし、捕虜になってからも食料の問題は多くあったようだ。

    ここであらたな課題がでてきたと思うが、それについての調査は次の機会に行うとし、ここでは推測するにとどめておこうと思う。

 以上が私のテーマ“沖縄に残った子どもはどんな避難生活を送ったか”についての考察である。下位課題に対してそれぞれ結論付けてきたが、それがひいては大きなテーマにつながっていると思う。

 子どもの避難生活はどのようなものだったのか、証言を読めば読むほどいろいろな事実を知った。おなじ沖縄戦といっても地域によって特徴があるし、ひとくくりにはできないと感じた。 悲惨だったといっても程度も異なるし避難生活の様態も様々であった。しかし、子ども達はひ弱な存在であり、戦争の一番の被害者であったということはどこでも共通して言えることではないだろうか。

 この課題に取り組んで証言などを数多く読んだが、一概に沖縄戦はこうだった、子ども達はこんな避難生活を送っていた、と言い切ることはできない。やればやるほど沖縄戦の奥の深さが見えてくるように感じた。

 この課題を通し、私は沖縄戦について、いろいろなことを学んだが、同時に平和教育の重要性も痛感した。

    これまではいつも同じような戦争の話ばっかり……と思っていたが、成長していく過程でその都度、年齢にあわせた平和教育を行うことは大切だと思った。なぜなら、学習者はそのときの自分と同じ年代の人がどのような戦争を体験したのか、という目で捉えると思ったからだ。今の私は、いつかは子どもを持つかもしれない女性として、そして将来教師を目指そうとしているものとしてこの課題に取り組んでいたような気がする。その時々の自分の観点で平和教育をとおして何を学び、感じるかは違うと思うし、だからこそ連続的に平和学習をしていくことは大切ではないかと思った。

    学校を卒業してからも生涯学習というかたちで多くの人が沖縄戦を通して平和とはなにか、どうすれば二度と戦争を起こさないようにできるのかを考えることが平和への第一歩となるのではないだろうか。

[参考文献]『沖縄県史第9巻』『具志頭村史第2巻』『佐敷町史4戦争』『西原村史三巻』『糸満市史7巻』『東風平町史』
※参考証言の内容は省略しました。(制作者)

10 沖縄戦は女性をどうしてしまったのか
                               MS生(日本文化学科3年)
    「『沖縄戦』は悲惨だ、決して同じような思いをしてはならない。」何度も何度も聞いてきた言葉であり、私自身口にした言葉でもある。

 では、『沖縄戦』とはどういうものなのか?本当に私は『沖縄戦』を知っているのか?同じ思いをしないためにする事(出来る事)は何か?…この質問に私はどれ程の言葉で答えることが出来るであろう。ただただ学校行事に参加して、受け身で『沖縄戦』を考えていた気がしてならない。

 ここでは、『沖縄戦は女性をどうしてしまったのか』に焦点をあてていこうと思う。戦争時、どんな時でも一番に追いつめられる立場は、「弱い者達」である。大人よりも子供・老人、男よりも女。「弱い者」であるからこそ、戦争の残酷さ・悲しさを一身に受け止めてきた者達。この者達に(ここでは女性)目を向ける事で、真の『沖縄戦』の意味を探していきたい。

    まず、『沖縄戦は女性をどうしてしまったのか』を考えるために、二つの柱をたてておきたい。@沖縄県民女性の状況と、A朝鮮人女性(慰安婦含む)の状況である。これらを考察し、最終的な結論を出していきたい。

@沖縄県民女性の状況

 仮説としては、母親・祖母が中心となり、避難していた。「食べ物」も「安らげる場所」も乏しく、「生」か「死」かただ受け入れていくしかなかったのではないかと考えた。理由としては、男性・男児・女学生は全員徴兵・徴集等があり、友軍等からの壕も追い出し・食料強奪・米兵からの暴行・米軍下での捕虜生活が背景にあるだろうと思ったからだ。

 結論として、仮説はほとんどあたっていた(沖縄県史H1991.6.30の@〜F)。しかし“「生」か「死」かただ受け入れていくしかなかった”というのは少し違うようだ。

    「生」か「死」しかない状況で、ただ受け入れるのではなく、必死に生きていこうとする母親の強さがあった。中には子供を拒絶してしまう親もいたが(沖縄県史H1991・6・30のGH・町民の戦時体験記1996.3.15の@)、乏しい食料・安全な居場所の中で全てを背負っていこうとする母親が多かった。もし子供がいなかったら「生」を諦めてしまう親も出てきたかもしれない。実際に「生」を諦める証言も出ていた(沖縄県史H1991・6・30のI・TNさんの前回発表分の資料より)。

    子を想う母の気持ちというのは、生死までも変えてしまう程の力があるのだろう。(沖縄県史H1991・6・30のJ)子供が足手まといになっている状況もちらほら出てきたが、それ以上に子供を守ろうとする気持ちを強くかんじた。友軍からの無理な追い出しをされても(沖縄県史H1991.6.30のK〜N)、米軍による暴行があっても(沖縄県史H1991・6・30のO・町民の戦時体験記1996・3・15のA〜E)決して「生」を諦めずに生き抜こうとした彼女達の姿があった。

A従軍慰安婦(朝鮮人女性)の状況

 仮説としては、人権等なく、人間以下の扱いをうけていたのではないかと考える。理由としてはその当時だと「元々差別のある国」から来た人々であっただろうし、慰安婦に関しては、動機が「兵士の慰安」であるが故にそのような扱いを受けざるを得なかったのだろうと思ったからだ。

 結果としては、私の考えていたもの以上に残酷なものだった。連れてこられたのも、半強制ではなく本当の強制で(前々回グループ発表の資料@A)、人間を人間とさえみていない扱い方。「朝鮮慰安婦は、豚以下の扱いを受けていた」と昔母から聞いたことがあったが、まさにその言葉に虚偽はなかった(前々回グループ発表の資料B〜@。

    必要な時はさんざん使い、使用不能になると捨てる。彼女達に感情がないわけはないのに、モノの様な扱いしかない状況。戦後、肉体的にも精神的にもおかしくなってしまう人が出てこないはずがないではないか(前々回グループ発表の資料GH)。

    また、県民と慰安婦・米兵と慰安婦の接触はほとんどなく(前々回グループ発表の資料I)、私の調べた範囲内では、慰安婦による慰安を経験した県民・米兵はいなかった(米兵にとっては、慰安は県民女性が対象だったからという理由もあると思う)。それが幸か不幸かは分からない(県民・米兵と接触していたらある程度の保護はあったかもしれないし、余計に慰安が増えるだけでもっと苦しんでいたかもしれない)が、慰安婦は日本兵の道具でしかなかった事ははっきりといえる。

    生命を司る女性が一番死に近い立場に追いやられる。「弱い」事は残酷であり、「強い」事は暴力である。戦争というものは、人間を極限にまで追いつめてしまうものだ。それは結局、強い立場の者が弱い立場へ、弱い立場の者はさらに弱い立場の者へと「強さ」(言葉や身体での暴力)をぶつけていく事になる。また、そうでもしないと皆生きていけないのかもしれない。「いじめ」だって、学校や先生からの圧迫があるために弱い者へとぶつけていく。そうやって、日常生活の自己を保とうとする。程度は違うにしろ、両者は似ている。
人間が追いつめられる、圧迫・恐怖・不満感がなくならない社会では、暴力も絶対になくならないと私は考える。

 女性はいつも弱者になってしまう。弱者であるからこそ、守られなければいけない存在なのに(ここでは女性だけだが・老人・子供にも当てはまる)、戦争という「人間個人が見えすぎてくる」環境の中では守られない。それどころか、真っ先に攻撃(被害)を受けてしまう。しかし、どんな状況下であっても必死に生きていこうとする女性がいた。自分よりも弱者の子供・老人に暴力を向けるのではなく(完全に暴力はなかったとは断定できないが)、自身を犠牲にしてでも守り抜こうとする。

    沖縄戦において、女性は、女性であるがゆえ利用(暴力)され、女性であるがゆえに非力で地獄のような環境で生きなければならなかった。「生」を殺していく事が目的の戦いの中で、生命を司る者として懸命に「命」を守り、必死に生きていこうとする姿がそこにはあったのだ。

[参考・引用文献]『沖縄県史9』『町民の戦時体験記 本部町』「その他」


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