学生の報告書

沖縄戦の残したもの これからの教師、そして大人になるための課題
沖縄戦と真の平和について 平和の理念とは
米軍基地 証言から学ぶもの
沖縄戦から平和教育へ 日本の戦争問題解決の必要性について
沖縄戦から平和教育を考える 集団自決」について
沖縄戦と県内避難 沖縄戦の住民の被害〜平和学習について〜
学童たちの県外疎開 集団自決」の再検討
住民被害の実態と日本軍との関係 住民被害と協力態勢について
住民のガマ避難の際の問題点


沖縄戦の残したもの
                                             経済学科3年 I・R(女子学生)
    沖縄戦の爪痕

 私たちはこの前期間、教職総合演習という授業の中で、「沖縄戦」について学びました。恥ずかしいもので、この授業を履修するまで地元沖縄で起った、悲惨な戦争についても全くといっていいほど無知でした。小学校や中学校でも平和教育についても学びましたが、その時は適当に聞いていましたので、この沖縄でどんな戦争の悲劇が起ったのかさえも分からず、今日までいました。

    しかし、その時の記憶や学んだことがあいまいに学習していたために、誤った理解や知識を持っていました。それはすごくいけないことだと感じました。これから教師になろうとしている人間がそんなあいまいなことを子どもたちにどう教えるのだろうか?ととても不安になり、私は今回の講義をきっかけとしてちゃんと自分で課題を設定してそれについて考えて調べてみようと思いました。

    戦後57年経った現在でもさまざまな人々の戦争への爪痕はかなり残されているのだと思います。あの苦しみを二度と思い出したくない、そんな思いから戦争について語りたがらないお年寄りのみなさんもいらっしやるかと思います。

    私の祖母もそうでした。直接祖母から聞いたわけではありませんが、母から祖母は戦争で大変な思いをしたのだから、そのことについては触れないようにね、と小さいころに言われたことがありました。学校の授業などでおばあちやん、おじいちやんに戦争の話を聞いてくるという宿題があったので、私は祖母に聞こうかと思っていました。しかし当時その意味について私はあんまり良く分かりませんでしたが、とにかく祖母には戦争の話をしないようにいしなきゃな、というのだけは常に頭にありました。

    このようなことを聞いてから私は、戦争ってそんなに恐ろしいものだったのかな?というのは考えました。しかし現在の平和な生活を送っている私には、その当時の様子なんかまるで想像もつきません。今もそうですが、たくさんの資料、そして証言、書籍、ガマの追体験、平和資料館の見学などを見ていくうちに、恐怖さえ覚えてきました。
今では考えられないような悲惨な出来事が、戦争ではあたかも普通にといっていいのかは分かりませんが、日常の生活で起っていました。

 この沖縄戦の悲劇が過去にあった代償として、今日私たちはこうして今平和に暮らしているのだとすごく感じました。決して沖縄戦を美化するわけではありませんが、過去の出来事をちゃんと見詰め直し、そしてこれからの将来、21世紀に生きていく私たちはどうすべきなのかを考えることが、たくさんの尊い命を失った方々にせめてもの償いだと私は考えます。

    今まで学んできた通り、この悲惨な戦争で人々の笑顔を完全に奪ってしまった戦争を、絶対に二度と起こしてはならないと心から思いました。沖縄にとっての6月23日「慰霊の日」の意味を、私は沖縄県人としてきちんと考えなければならないし、そしてこれからも平和に対する気持ちは今も変わらず、将来教師になったからとか、なれなかったからとかそういう事は一切関係なくて、子どもたちに私が学んだこの重大な課題を教えていけたらと思いました。

    米軍基地

 米軍基地の運用から派生する問題として、地域住民への健康への影響も懸念される日常的な航空機騒音の発生、航空機の墜落事故、実弾演習による赤土の流出などの自然環境破壊、山林火災、油脂類の有害廃棄物による環境汚染など、様々な問題があります。

    私は今回、日米地位協定について書きたいと思います。私は同じ女性としての気持ちからこの内容を選びました。授業のなかでも個人発表としても課題にしましたが、この間題は沖縄戦が終わっても未だに解決できていない問題ですので取り上げてみました。

    最近の新聞でも大々的に取り上げられていました。新聞を読んでいてすごく腹が立ちました。今年で沖縄戦が終わって57年が経過しました。私たちは授業の中でも、沖縄戦についていろいろ学んできましたが、戦後の残された傷跡は今もなお続いています。

    沖縄戦がなければたくさんの人の尊い命が失われることもなかったと思います。在日米軍の75%は沖縄に集中していますが、この基地があるせいで起こった様々な問題も多いです。(過去に起こった米兵による女性への性犯罪の事件を取り上げてみて、資料として記載しようかと考えましたが、過去から現在にかけて、あまりにも事件が多いために全てを載せることができませんでした。)

 米軍の起こした事件で、特に大きく取り上げられたのは「沖縄女児暴行事件」です。しかし容疑者の逮捕状を取った沖縄県警の身柄引き渡しの要求に対し、日米地位協定を楯に要求に応じなかったことで、地元沖縄など日本国内に不満が高まり、日米間の外交問題に発展したというニュースはまだ記憶に新しいかと思います。

    日本にいるアメリカ兵については、もし犯罪を起こした場合、現行犯なら日本の警察が逮捕できますが、そうでない場合は、日本の警察は原則として逮捕できないことになっているのです。警察が調べ、さらに検察庁が調べた結果、裁判にかけることが決まったら、つまり容疑者が被告になったら、アメリカ兵は日本に引き渡されますが、それまでは日本側に引き渡されないというきまりがあります。このため、警察は容疑者のアメリカ兵を調べては、夜にはアメリカ軍の基地に戻るという状態が続いていました。

 こんな事件が起きると、沖縄にアメリカ軍の基地がこんなにもあるから、こういう問題も起きるのだと思いました。容疑者がアメリカ兵だったためにすぐには逮捕できなかったというのはすごくおかしいと思いました。全てアメリカ兵が有利になるようなこの地位協定に対し、私は強く疑問を持ちました。またこのような事件を起こすアメリカ兵は、決まって海兵隊所属が多いとも聞きました。

 何の教育もされないままに、ここ沖縄に配属され事件を起こし、モラルの低下が伺われます。県民または日本国民は怒りと悔しさでやりきれない思いです。米兵の意識と日本人の意識の違いは非常に大きいものだと感じました。
 米兵は事件を起こしても地位協定が自分を守るということを知っていると思います。それは一種の確信的犯行に近いものではないでしょうか。沖縄県民どころか日本人全体がバカにされていると感じました。

    1960年に結んだ日米安保条約で、アメリカに対するいわゆるさまざまな特典(例えば、アメリカ軍の車が日本の高速道路や有料道路を通るとき、料金を払う必要がないことや、運転免許証もアメリカでとったものや、アメリカ軍の免許証があれば、日本の運転免許証を取らなくても日本で自動車を運転できる)などが、結果的には日本のためにアメリカはいるのだから、活動しやすいように地位を守ってくださいという、地位協定をアメリカは有利なように使っています。

    この間題は日本全体の問題であり沖縄県民だけの問題ではないと思います。政府は国の政策に地方が反抗するなという態度を示し、またあるマスコミでは「地域エゴ」などと捉えているところもありました。しかしそれは私は間違っていると思います。国全体の問題だからこそ沖縄だけに押しつけてしまってはいけないと思います。その議論をまともにしない状態で沖縄県民の考えを「地域エゴ」と片づけてしまう姿勢は、無責任で卑劣な姿勢だと思います。

 そもそも日米安保が国策としてどうしても必要であると言うのなら、その負担については何らかの形で日本全体で責任を負うべきだと思いました。もしも「米軍基地があなたの町に来たら?」という問いに対し、ほとんどの人が絶対に反対すると思います。

 結局、自分には関係ないという感じで捉えている人が多いことに怒りを感じると同時に、沖縄だからしょうがないという目で見ていることの間違いを早く人々は気づくべきだと思いました。そうしなければ、日米安保や地位協定の問題も、今後アメリカとの間で平行線のままだし、これまで住民が強く願ってきた「基地のない沖縄」を夢ではなく、現実に叶うことはないと私は思いました。
     (小見出しは制作者が付けました)


これからの教師、そして大人になるための課題
                                 法学科 3年 M・Y(男子学生)

 私がこの報告書を提出する際に考えたことは、前回の授業で発表したことを、もっと深く考察し、そしてあれからさらに広がった僕の主張をしたいと思いこの報告書を作成したいと思います。

 初めに私が「教職総合演習」の授業を振り返ってみて感じたことは、自分は沖縄戦について本当に無知であり、そして自らの島で起きた事実に対して、あまりにも無関心すぎたということを実感しました。

    例えば学童疎開にしても、九州に行ったことは、知っていましたが、それ以外の本州には行っていないこと、また台湾にも、疎開に行っていた事実などは私はこの授業で疎開をテーマにするまで、全くの無知でした。

    その他にもガマで起きた事実などは非常にショッキングな内容でした。あのような光が全く届かない穴の中で、人々が足を伸ばせないほどにひしめきあい、日米軍から常に生命の危機に立たされたという証言はとても悲惨であり、まさに人間破壊行為と戦争を表現したとおりだと思いました。実際にガマに行ったことも、このような真実の辛さを感じることで大きくそのときの状況を感じるのに役に立ちました。

    また、文章や画像だけでなく、実際に体験者の言葉を聞きにいくといった、貴重な体験も、この教職総合演習ではさせてくれたと思います。私たちが証言を聞きに行った話しは、本にないような非常に内容的にも考えさせられる証言でした。なかでも、私が一番印象に残ったのは、二つあります。

    一つは、船でなくなった遺骨を収め、遺族に届けるため、身元割り出しの決め手となったのが、首にさげていた認識番号が書かれた札が決め手となったそうです。日本軍がこのような認識番号を常にさげていたという事実はそれまで聞いたことはなかったため、とても新鮮な衝撃をうけました。

    そして 二つ目が、このような遺体を小さい弥一さんが収集した時に、この作業に対して、当時の教師が、口止めをしていたという事実を聞かされました。その理由としては、当時の疎開が活性化するなかで、このように日本軍の船が沈没した事実が広まると疎開をしようとする子供やさせようとする親が減ってしまうのを恐れたから口止めという行為がでたそうです。

    情報を意図的に曲げ、教師までもが戦争の歯車となり、軍事教育が徹底される。この事実を証言という言葉から改めて聞かされた時、私は本や資料では得られない、なんともいえない恐怖を味わいました。それと同時に、私は沖縄県民として、そして教師という立場になるという意味も含めて、戦争や今の沖縄のあり方に対して、もっと向かい合わなければならないと感じました。

 私が教師になる頃は、戦後約65〜70年の月日がたっているころであり、戦争体験者で、その記憶を鮮明にもちあわせている人は、非常に少なくなっているでしょう。生きた言葉であり、貴重な証言、そして第二次世界大戦、沖縄戦に対しての膨大な資料のなかで、教師としてどのようにして伝えるのか、またどのように調べさせるのかといった課題は、私が教師になった場合定年するまでの大きな課題の一つとなるでしょう。

    この教職総合演習の中にも、私と同じ教師になった場合のことを想定して、沖縄戦をどう捕らえるかと考えていたことに驚き、そして深く共感しました。なかでも、「慰霊の日だけでなく、もっと前の日から多くの日数をとり、沖縄戦、そして第二次世界大戦を考える現場教育を作りたい。」といった具体的な発想は、私のなかで今も深く印象に残っています。

    確かに私たちが、これまで義務教育も含め、また高校生活を振り返ってみても、戦争に対しての授業をしたのは慰霊の日の前日だけだったような気がします。このような提案のように、前の日からもっと深く沖縄戦などをとらえる授業をすると生徒一人一人が、詳しく沖縄戦をとらえることができるでしょう。しかも、私たちが受けてきたような毎年、毎年同じような資料や戦争授業だけでなく、教師一人一人が生徒に対して常に新しく、そして深く考えさせられるような資料や授業のやり方をもたなくてはならないと思います。

    前述にもあげたように、私が教師になった場合、そして親になった時というのは第二期非戦争体験者層にあたると思い、その生徒、子供達にとって戦争というものは遠い過去の事実となっていることでしょう。けれども、その事実を、生徒にとって遠いものにするか、近いものにするかは、私達教師の役割として非常に重いものになると思います。なぜなら、これまで私達世代が受けてきた戦争教育は不十分であったことは先の上にも述べた通りであり、両親になった立場で、自分の息子や娘に、戦争事実を十分に伝えられるといった親は少ないことでしょう。

    塾では、受験のことしか勉強にあげられず、この事実を十分に伝えるには、学校というものが大きな比重を占めているから、私達、教師という人間は重要な役割をもっているといえるでしょう。すなわち、戦争に対しての正しい知識と、それに対しての自分なりの考え方を持つことが必要だと思います。それにより、沖縄人として心掛け、そして当たり前のこととしてもちあわせなければならない常識であるようにすべきではないでしようか。

 私達が今こうして住んでいる沖縄を好きな人は多くいると思います。落ち着いた気候、美しい空と海、そして一年中絶えることがない緑や花、音楽や食文化というものは、まさしく、平和を形にして、そして島にしたという感想を私は受けます。そしてその平和が一度大きく壊された事実を知っているからこそ、よりこの島を愛おしく思い、そして、より一層この島の事を知ろうといった姿勢に繋がり、もう二度と戦争をしてはいけないという思いがもてるものだと思います。

    けれども、今の現状はどうでしょうか?当たり前のように、島の中に米軍基地があり、そしてその軍に、経済をまかせられている事実は悲しいけど確かに存在している大きな矛盾であり、平和と両極端の存在に沖縄の経済は頼っているというのもまた沖縄の真実であるといえるでしょう。

    私は、このような基地がなくならない理由の一つとして、それは県民性にも原因があると思います。もちろん、経済的な理由は大きな要因の一つだと思いますが、それと同等ぐらいに、沖縄人ののほほんとした県民性も大きな原因の一つでしょう。けれども、私はこの県民性を変えてまで基地をなくそうとは思わないし、また県民性とはそう簡単に変わるものではないでしょう。この、のほほんとした県民性はむしろ守るべき文化であるといえるでしょう。これからも、沖縄はのんびりとした島であってほしいと思い、そのためにも基地をなくしたほうがいいと考えています。

    この県民性に基地の撤去を訴えかけるには、県民が愛してる自然が破壊されていることを長く訴えて、そして、経済自立の重要性に多くの時間をかけることが大きな意味を持つことになるでしょう。沖縄県民に意識の改革させるには、他県と違った長い時間が必要だと思います。

 私が教師を目指す大きな理由の一つとして、このような沖縄県の現状、そして戦争という悲惨な事実、そしてなにより自分達の住んでいる、この島をもっと好きになってもらうために、教師になりたいというのが強い理由です。担当教員として教科科目を教えることや、ラグビー部の顧問として頑張りたいというのも、教師になりたい理由の一つであると思いますが、それらも大きく含めて、私と関わった生徒達がもっと沖縄のことが好きになればいいなと思いました。

    先生と、クラスの打ち上げで話し合った沖縄の話しをした時に、改めて自分の中に流れている強い沖縄の血があることを感じました。そして、方言や音楽、食べ物やそれら多くの文化をたくさんの人に伝えられたらいいなと思いました。そうすることで、沖縄に住む若い人がもっと沖縄を好きになり、そして、私達と一緒に沖縄を支えてくれたらとても素晴らしい未来が作れると思いました。

 教職総合演習の履修を終えて、最後に強く思ったこと、それは自分は沖縄県民として誇りをもつこと、そして改めて教師という夢を実現させたいということでした。一時期、私のような性格、性分は教師にはむかないと悩んだ時期がありました。私の性格は、非常に大雑把でまめさがなく、なにより出世欲がなく、本当に沖縄県民らしい性格なため、教師にはなれないのではないかと考える事がありました。けれども、先生とこの前、飲み屋で話したとき、そして周りの皆も、私と似たような性格であり、なにより先生が私と同じような性格だったためビックリしました。そして、これからの教育現場は、私達ののんびりした性格、そして島やその人間を愛する人間が、教師として必要になると先生から聞いたときに、私の迷いは無くなった気がします。

    僕の好きな沖縄を多くの生徒に伝えたい気持ち、そして、総合演習でやった、多くの情報の中から、自分が必要な情報を資料として抜き出す事の重要性を強く感じました。またそのような作業は社会人としても身につけておくべきことの一つであると思います。情報が多様化して、自分の必要な情報、そして価値観を確立させるためにもこの情報収集作業はとても重要なことではないでしょうか。

    教師として、社会人として人間に必要なことは多く存在し、そしてそのことは死ぬまで学びきることはないと思います。だからこそ、自分自身が常に学ぶ姿勢を保つことが大事であり、そのことの重要さを生徒、そして子供達に伝えなければならないと思います。平和や沖縄の経済状況、そして自分の夢をしっかりと考えて、成長させてくれた教職総合演習は強く心に残りました。私が教師になった時、平和教育授業の際には生徒にも苦しいと思いますが、この授業のような形で徹底した調べ学習をさせたいと思います。
 最後に先生ありがとうございました。


沖縄戦と真の平和について

               経済学科3年 N・E(女子学生)

 これまで沖縄戦について学んできましたが、最後に私は、「沖縄戦という戦争がなかったら、今の私たち(現代人)は真の平和についてここまで考えていなかったのではないか?」という課題にぶつかりました。なぜなら、沖縄戦についてまだまだ不十分な学習しかできてない私でも、このような戦争は二度と起こしたくないと心から願い、この沖縄戦という事実がなかったら、きっと安易な気持ちで、ただただ平和な毎日を過ごしてきたのではないかと思ったからです。

    沖縄戦のことを学ぶことで、人それぞれの価値観は違うと思いますが、一つだけは誰の胸に聞いても絶対戦争だけは起こしたくないという思いがあるのではないか、と私は思います。

 沖縄戦があったから良かったとかではないのですが、この学習を通して沖縄戦に触れてみて、改めて知ることや、考えさせられた事など、私にとって沖縄戦というのは非常に大きな意味を持つものだと気づきました。

    それは、私たちと同じ年頃の子が、戦時中最も危険な肉弾攻撃に参加し、その他に伝令や食糧確保などに動員され若い命を散らしたことを知り、自分はいかに幸せな世の中に生きているんだなあと改めて実感する事ができました。そして、そんな生活の中でも、戦時中に住民や軍隊などが生活していたガマなどは、今でも民家のすぐ近くにあり、また実際に残っている資料の写真集、報道や情報による映像、映画、体験者の証言などを聞くことで、戦争を近くに感じることができるような気がします。

 しかし、身近に感じることができる沖縄戦というのが、戦争を体験した人々が次第に少なくなってきていることや、社会の変化によって以前はたくさん残っていたガマなどの、戦争の傷跡などが、もしかしたら壊されていく可能性があるのではないか? そういう意味で、風化してきていて、多くの人たちにとっては歴史の一こまになりつつあると私は考えます。

 これから21世紀を歩む私たちや、戦争を知らない世代の子供たちに、それをどう語り伝えていくか? 自分たちに何が出来るのか? それを話し合うことが大切であると私は考えます。そのためには、私たちがもっと沖縄戦について学び、知ること、そして平和運動で行進したりすることも大事だと思うが、それよりも今や少なくなってきている体験者の証言などを、紙に残すだけではなく、より多くの証言を映像として残し、語り伝える事ではないでしょうか?

 今、私たちにできる事とは、「政治にもっと興味をもつ!」ことや「武力を禁止する!」こと、後はやはり「戦争の悲惨さ、恐ろしさを大人から子供に伝える!」ことでもありますが、その中で、現在、有事法制ということが問題になっています。

    私は、戦争を体験していません。だから今戦争が起こったらどうなるかなんて全く分かりません。ですが、戦争を起こることを前提にして法律を作るのは変ではないでしょうか? これからは戦争を起こさないために何をするべきかを考えるべきではないでしょうか?

 ここで−つの作品を紹介したいと思う。これは、今年の3月にR大学を卒業した、T・Yさんの「238161」という作品です。この238161とは、2001年6月23日までの「平和の礎」の刻銘者の数です。それを、白く透けた布に、黒く塗りつぶした238161人分の瞳を書き、死んだ後でも沖縄を見つめているその魂の存在をいつまでも感じていこうということで、この作品の内容を理解した上で、参加者を募り、参加してくれる人にこの白い布を配り、毎年6月23日の慰霊の日に家や庭に展示しようということです。

 作品はまだまだ進行中のようですが、私は、私と同世代の人がこのように行動している事はとても素晴らしいことだと思いました。

 歴史化されつつある、沖縄戦を忘れぬよう、このような活動をし、それを表現していき、また改めて平和について考えさせられます。沖縄戦があったからこそ、今、私は本当の真の平和について考える事ができたのではないかと思います。


平和への理念とは
      

                   経済学科3年  K・T(男子学生)

 私は「総合演習」という講義の中から「平和問題・平和教育」に焦点を合わせて本講義を受け、学んできました。そして、私が思ったことは「戦争(争い)なくして歴史は語れない」ということです。誰もが振り返って分かるように歴史の大半は争うことでしか時を刻んでいないことが多いということです。つまり、このことから歴史とは「楽しい事」、「嬉しい事」よりも「辛い事」、「悲しい事」というの方が多く読み取られます。それに、人間というものは「優しい心を持つ生き物」であると同時に「争う事を好む生き物」であり、今後の課題としてその争いを無くために私たちがしなければならない事とはなんでしょうか。

 太平洋戦争で日本は負けることによって戦争の醜さ、非道さを知ると同時に、私たち日本もこれまで戦争をしてきた国々に同じようなことをしてきたのです。そして、今では「戦争をしない国」、「武器を持たない国」として今日まできたわけですが、私たち日本が戦争で他の国に残した傷跡が消えることはありません。それと同時に私たちの傷跡も消えることがありません。

    しかし、二度と戦争が起こらないように私たちは次の世代に受け継がなければなりませんが、そのことについて沖縄戦で与えられた傷跡を次の世代に受け継ぐということでしょうか。それとも戦争とは醜いものとして非難しつづけなければならないということでしょうか。

    私はその考え方、伝え方に賛成ではありません。そのことについて、沖縄では慰霊の日がありますが、慰霊の日にだけ戦争を取り上げるという一般化が一部(中学生とその地域の人々がそのことについて討論しているのをニュースで取り上げていました)問題になっており、それに付け加えて、「太平洋戦争は日本全土を巻き込んだものなのになぜ沖縄だけにしかその日がないのか」という問題もあります。

    その事に関して私が思うことは「戦争で多くの犠牲者がでて、その人たちを慰める」という意味では何も言いませんが、「これまでの戦争を反省する」という考えを持っている人は少ないのではないでしょうか。確かに、沖縄戦では多くの「犠牲者」をだしました。

    しかし、日本という国が他の国に対して「犠牲者」ではなく、「被害者」をだしたのも事実です。つまり、ここで私が言いたいことは「反省からくる平和への理念」が日本人は少ないということです。反省も無しに平和を語ることは私には考えられません。私たち日本人は「被害」を与えたもの、与えられたものとして平和について考えなければならないと私は考えています。

    その事を踏まえ、私たちが今最も伝えなければならないことは戦争を起こさないという普段からの心得、もし戦争時になった場合にいかに協力性を発揮し、どの人々も同じ目で見るという善良なる心を持つということ+(プラス)戦争で得るものは少なく、失うことの方が多いということです。

 そこで、今パレスチナでは戦争は続いていますがこの事を踏まえて私たちはどういった行動をとるべきでしょうか。今日まで本講義を学んで考えられる事は、「戦争とは周りからの援助・協力・助けがないと止められないということではないでしょうか。

    今戦争を起こしているのはテロリストとそのテロリストの撲滅を願っているアメリカ国民の心とその米軍であり、その戦場となっている無関係のパレスチナの国民にとっては地獄を見ているかと思います。その実際の状況や現状をメディアを通じて知り、気がついたと思いますが、今起こっていることはまるで沖縄戦を再現するかのように多くの人々を巻き込み、そして命を落としています。

    この時に私が思うことは今のパレスチナ戦と沖縄戦を照らし合わせて戦争が起こっている最中に他の国々はどういった状況・心境で見ているのかという「第三者の目」について本講義である「平和問題・平和教育」を学びながら考えました。

 同じ体験をした沖縄住民、他の国々も同様に戦争を防ぐものに対してあまりいいアイディアが浮かばないのが実際のところでしょう。そこで、私は小泉首相が唱えている「有事法案」について取り上げてみたいと思います。

    私が考えていることは、この法律はあくまでも最終的な考えだということです。内容自体は私たち国民にとっては太平洋戦争・沖縄戦を思い出すくらいに嫌な思いが強いと思いますが、しかし、それは私たちが戦争をしたくないという以前に戦争に巻き込まれたくないからくる不安からくるものではないでしょうか。それは、他の国々にも言えることです。しかし、戦争を無くす為には各国々が協力し、一つよりも二つ、二つよりも三つ、というようにみんなが一つになり戦争よりも上回る絆を築くことではないでしょうか。

 これから私たちがしなければならないのはやはり次の世代に受け継ぐキーワードとして「平和への祈り」とともに、「平和への協力体制」ではないでしょうか。その為にも2002年度から導入された「総合的学習の時間」をいかし、平和への理念を広げていかなければいけないと私は考えています。そして、次の世代が平和へ理念を考えるにいたって私たちはこれまで起こってきた戦争の実態とその時に必要な人々の協力体勢、その状況に適した行動を共有しなければならないと思います。


米軍基地

            法学科3年 M・M(男子学生)

 私は、幼稚園の頃から今まで宜野湾市に住んでいます。私が生まれた時には、基地はすでにありました。私が通った小・中・高の学校は全部基地の側にあり、私にとって基地があるのは当たり前のことでした。

    中学校の頃は、運動場のフェンスの向こう側は基地で、そのことについて何の違和感もなかった。今まで平和学習をしてきたが、私の中で戦争は悪いこと、ただそれだけしか思ってこなかった。基地について真剣に考えたことなどなかった。

    しかし、今度の総合学習で平和学習を通してたくさんのことがわかった。昔の沖縄は平和だったが、戦争によって基地ができて、今のような沖縄になったと。そして基地は、私達住民にたくさんの被害、不安を与えてきた。私は、そんな基地はない方がいいと思う。

 沖縄の基地問題は戦争から始まった。戦争が始まる前に、日本軍は米軍の攻撃に備えて、飛行場などを建設していった。その土地を接収するときは、農民を説得していった。しかし、説得ではなく、「国に協力しない者は非国民」と言って脅してもいた。土地の支払方法は、国債、現金があったが、現金は強制貯金させられて、戦後には貯金通帳はただの紙切れになっていた。国債も同じである。

    戦争が終わって土地が帰ってくると思ったら、今度は米軍による基地構築が始まった。皇軍が作った基地は、米軍が引き継ぎ、拡張整備されていった。米軍は土地接収に反対する住民に対して武力を行使した。そして沖縄は全国の基地の74・7%を請け負っている。沖縄は国土の面積0.6%の小さな島だのに、こんなにたくさんの基地が集中しているとは驚きである。私はこういう基地は早く返還してほしいと思う。

    私が基地返還を訴えるのにはいくつかの理由がある。一つ目は、米軍人・基地による被害。二つ目は、日本の予算を使いすぎ。三つ目は、日本は憲法で定めているように、平和主義をとっている。それなのに基地が存在している、真の平和のためにも基地は必要ない、などである。

 米軍人・基地の被害は、刑事犯罪から環境問題までとても範囲が広く、たくさんの住民に被害・不安を与えている。米軍人による被害は、交通事故・傷害・殺人・強姦・強盗などがある。

    沖縄県警の統計によると(1972年5月15日〜1995年11月末)米軍人等による殺人、強盗などの凶悪犯の検挙件数は、511件、684人に達する。しかしこれはあくまでも、事件として処理されたものであるから、犯人が特定されなかった場合や被害者が告訴しなっかた場合、更に婦女暴行未遂事件など、この統計に含まれていない事件もあるので、実際はもっと多いだろう。

    米国のオハイオ州のデイトン・ディリー・ニューズ紙で、「醜いアメリカ人」という見出しで記事が出ていて、そこには「世界の他のどの米軍基地でよりも、日本の基地において、より多くの海兵隊員や海軍の兵士がレイプや児童への性的いたずら、その他の性的犯罪のため裁判にかけられている」と指摘している。

    また交通事故も多い。沖縄県の基地対策室は、「今でも米兵が起こす事件や事故は、年間千件ぐらい、その90%は交通事故だ」と説明している。しかも、米兵の乗るYナンバーの車両は、ほとんどが任意保険に加入していなく、米兵個人には支払い能力が無く、補償交渉は進まない場合が多い。

    基地の被害も演習・訓練によりたくさんある。ここでは軍用機をあげるてみる。軍用機による被害は、爆音被害や墜落・落下事故などがある。爆音被害では、医師団の調査によると、航空基地周辺は爆音の影響で未熟児の出生率が高くなったり、難聴者の発生率が高い、という結論もでている。

    また落下・墜落事故では宜野湾市から提出された資料によると、1986年7月〜1995年7月の間の普天間基地に所属する軍用機の事故は23件も発生している。普天間基地の周辺には小学校7,中学校4,高校3,大学2,合計16校もある。もし学校に落ちたら大惨事になるだろう。

    1958年には、宮森小学校ジェット機墜落事件があった。それは沖縄中部石川市の宮森小に墜落、児童11人を含む17人が死亡、負傷者170名(児童156)というものだった。私は自分が通っていた学校にいつ軍用機が落ちてもおかしくないと思い、ぞっとした。
    
    環境問題については、米軍基地からのし尿などの汚染やオイル、廃油などの流出があり、復帰後以降1994年3月までに65回発生し、環境汚染とともに人体への影響が問題になった。土壌問題も深刻で、PCB(塩化ビフェニル)という極めて有毒な科学物質が嘉手納基地内で野積みされ、漏出していたという事件もあった。久米島の近くでは千数百発の劣化ウラン弾なども見つかっている。

 二つ目は、日本の予算を使いすぎているという理由である。日本はアメリカに対して「思いやり予算」という経済負担をしている。「思いやり予算」とは、1978年に金丸信防衛庁長官がアメリカからの財政援助の要求に応えて日本人基地従業員の福利厚生費の一部62億円を日本が負担することを認めた際に、その根拠を問われて、「思いやりが根拠」と答えたことから名付けられたものである。

    この使い道は様々で、米軍施設の整備費、労務費に使われ、更に米軍の電気・ガス・水道・下水道・燃料料金などの水光費にも使われている。 その額は、1995年では2714億円であり、始めの年の1978年の62億から18年間の間で約43倍にもなっている。財政難と言っている日本は、こんな負担を負う必要がるのか。

 三つ目は、日本の平和の為にも基地は必要ない、というものである。日本は第二次世界大戦後、憲法を改正して、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義をとっている。しかし日本には自衛隊もあり、アメリカ軍基地もある。日本は昔の反省をして、今後あのような過ちを繰り返さないようにと憲法を改正したのではないのか。

    日本にある米軍基地は朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争の三つの戦争に関わっている。沖縄の基地からも出撃している。攻撃されている方からしたら日本も戦争の加害者として見られてもおかしくない。日本の飛行機でなくても、日本の飛行場から出撃しているのは事実だから、その反撃をうけて、私達が被害者になることだってないとはいえないだろう。

    私は湾岸戦争のニュースをテレビで見たとき、沖縄も攻撃されないかと、不安な気持ちになったのを覚えている。そんなことで真の平和といえるのだろうか?日本は平和な国だと聞くが、私はそう思わない。沖縄では基地によって住民がたくさんの被害・不安をうけている。基地が返還されて初めて、平和な国作りができると思う。そうなるように早く基地が無くなってはしい。

 しかし、基地が必要ないからと言って簡単に基地をなくすことはできない。基地が無くなることによって問題が出てくるからである。

    その一つとして労働者問題である。1990年代の基地労働者は8300人といわれている。もし基地が無くなったら、この人たちは仕事を失うことになる。今の沖縄の失業率は約7%もある、こんな状況の中で新しい仕事を探すことは大変なことだろう。

    二つ目は、軍用地主の中には、軍用地料をあてにして生活をしている人がいるということだ。高齢者の人では、この軍用地料で生活している人もいる。そういう人たちにとっては基地は大切な収入源である。

    そして、基地をなくすことができない大きな理由がある。それは、日本政府である。日本政府の米軍に対する考え方とは「我が国には不可欠」・「我が国の安全には不可欠、国際の平和・安全の維持のためにも必要」というものである。

    沖縄で反米軍基地運動が大きくなり、米軍問題がとりあげられたとき、「日本にとって一番大事なことは、日米安全保障条約というものを事由とした日米関係」という発言もあった。私はこれを知って、驚き、そして怒りを感じた。日本国民よりも、米国の方が大事だといっているように聞こえたからだ。

    しかし政府は本当に平和の為に基地が必要といっているのだろうか?基地建設や軍備強化で利益を得る人がいるからではないのか。現に名護市の海上基地を必要と言っていた、防衛施設庁長官が汚職事件で逮捕されるという事件があった。とにかく日本政府のアメリカへの態度には本当にあきれる。

    環境整備が膨大な予算を使って行われている。しかし日本では、沖縄のPCB問題でもあったように、アメリカは自分で起こした問題について補償しようとしない。日米地位協定で補償の義務がないということもあると思うが、強くいえない日本政府はおかしいと思う。

    ドイツでは、アメリカに対して条約の改正をして、アメリカ軍が責任をとってクリーンアップさせるようになった。日本もドイツを見習って、行動することが必要と思う。

 私は基地返還には、はじめに日本政府を変えていくことが必要と思う。そのためにも、まずは沖縄にいる私達が反基地運動をおこし、少しでも多くの人にその気持ちを伝えていけたらいいと思う。反基地運動といっても、個人によって出来ることと、出来ないことがあると思うし、行動に移すことは大変なことと思う。しかし、沖縄戦について勉強して、戦争について考えることができたら、それだけでもいいと思う。小さな事でもそれが大きくなってたくさんの人に影響を与える。

    1995年の沖縄での反基地運動は韓国で関心をよび、韓米行政協定改正の動きもあった。このように一人一人が自覚を持っていくことが大切と思う。私はこれからもっと平和学習について勉強しなければいけないと感じた。


証言から学ぶもの

    経済学科3年 M・T(女子学生)

 証言。戦争を学ぶ上で、何故これほどまで証言が重要視されるのだろうか?沖縄戦で亡くなられた約20万人の犠牲者のために、生き証人となった戦争体験者の証言は、今後どう生かされるべきなのか。

    戦後初期の段階で、証言を語る人は、ほんのわずかであった。人間は誰でも、自分の興味があること・楽しい体験は進んで語ると思うが、人間を破壊させるとまで言われた戦争について語ることは、苦痛なことである。体験者自身も、すぐには語ることができず、長い年月が経ち、惨たらしい戦争当時の体験を語る人が後をたたないという。何故、彼らは長年苦しんだ結果、今、体験を語ってくれるのだろうか。

    私達、戦争を体験していない世代は、沖縄戦を学ぶにあたって多くの資料から知識を得ることができる。しかし、身近な人に証言を聞くこと(自ら行動すること)により、沖縄戦、または平和について、個人の考え・思いがどれほど変化するのだろうか。実際、自ら証言を聞きにいき、どのように感じ、変化したのか述べてみたい。

    グループの発表のため、戦争体験者から証言を聞きに行く事になり、人探しから始まった。高齢で痴呆のため、証言を聞くのは難しい、戦争当時、沖縄にいなかったなど、証言者を探すのに一苦労といった状態の中、義理の祖母が当時8歳で避難生活を送っていたと母に聞き、さっそく連絡してみた。事情を説明すると、「私は当時幼かったから、あんまり覚えてないけど、少しでも役に立てるなら」と快く引き受けてくれた。

    班のメンバー3人で、証言を聞きに祖母の自宅を訪れ、聞き取りを始めた。あまり覚えていないといい、祖母も最初は質問に対して、「どうだったかねえ〜よくは覚えていないさあ」という返答が多かったが、時間が経つにつれ、徐々にその当時の事を詳しく語ってくれた。大家族で北部まで避難するのは困難なため、家の近くの亀甲墓に避難したと言う。空襲が止むと、母親が近くの山におにぎりを作りに行き、食糧などには困らなかったそうだ。このような生活を2、3ケ月送り、墓の上から米兵の足音が聞こえるようになり、数日後、墓の中に避難していた人は全員捕虜となった。それから、具志川の収容所へどのようにして行ったか、また収容所での生活については覚えていないらしい。

    「捕虜になるということは、みんなどういう事なのかわからなかったみたいだけど、私は捕虜になったから助かったと思うさあ」と語っていた。

     一番驚いたのは、班のテーマだった日本兵について質問すると、戦争開始以前に、日本兵(本土出身の海軍)に住居を提供し、共同生活を送っていたということだった。講義の中で、日本兵と住民が共に暮らしていた所もあったと聞いていたが、こんな身近に共同生活を送っていた人がいたと知り、沖縄戦がもたらした住民への犠牲の大きさを改めて感じた。

    祖母自身は、幼かったためか、日本兵への恐怖感はなかったという。共同生活を送っていた日本兵は、もともと軍人で非常に礼儀正しかったと言っていた。それを聞き、日本兵のすべてが悪い人ではなかったのだと気付かされた。さまざまな住民の証言の中には、日本兵は米兵よりも怖いなど日本兵による住民への多大な犠牲について資料等でよく目にする。しかし、祖母の体験を聞き、戦争は1人1人の体験が特殊であることがわかった。だからこそ、より多くの戦争体験者から証言を聞き、過去の歴史の1つとして風化させないためにも、住民をも巻き込んだ沖縄戦の実態について後世に伝えていくべきではないかと思った。

    体験者それぞれが異なる経験をしていても、敵・味方関係なく、「戦争の恐ろしさ・愚かさ・平和の大切さ」を思い、願う気持ちは同じだからである。

    戦後57年と言う月日が経過した現在では、戦争体験者が高齢化しているため、戦争体験者はいるが、証言者を見つけるのに、苦労した。祖母の体験を聞くのは、初めてだったので、こんな身近に資料に書かれてある事を経験した人がいたなんてと、正直驚きを隠せなかった。

    それまで、戦争に対する知識は、すべて資料によって得たものであり、私自身が体験してないため、実際どれほど恐ろしいものなのかについて、考えることができなかった。証言者の生の体験を聞き、戦争は人間の理性さえも失わせることを知り、そんな戦争に国民を駆り立てた国に、憤りを感じた。 祖母とは、普段よく会うものの、戦争の事について話し、体験・意見を聞く事で、これまでより祖母を身近に感じることができた。

    証言を聞くにつれ、いつも明るい祖母の顔から笑顔が消え、表情がだんだん暗くなり始めた。途中、涙ぐみながら語りつづける祖母の姿を見て、沖縄戦がもたらした犠牲の大きさを改めて感じた。証言者の深い悲しみ、戦争へ対する思いというものは、資料からだけでは伝えられないことをひしひしと感じた。

    私は、班のテーマに取り組む前に、日本兵の全員が住民を差別の対象とでしか見ていなかった、また日本兵というものは、全員本土出身者だと思っていた。沖縄で生まれ、沖縄で育った者として、沖縄戦について調べる上で、つくづく自分の無知さに気付かされた。しかし、課題についてさまざまな資料を読み、証言・他の班の発表を聞く事によって、一方的な考え方ではなく、他面から沖縄戦を捉えることができたと思う。

    先日、T講師(講義担当の私・作成者)のご紹介で、沖縄戦当時、鉄血勤皇隊だったHさんの戦争時の状況を、証言を聞きながら南部を回ることができた。その時に訪れた首里城からは、南は豊見城、北は残波岬まで、西海岸がきれいに見えた。Hさんの証言では、地平線が見えなくなるほど海は軍艦で埋め尽くされたという。

    現在の沖縄の海からは想像できないことが、57年前の沖縄では繰り広げられていたのかと思うと信じがたい事実であるように思えた。ここから一望できる海が、軍艦で埋め尽くされた光景を見て、その当時の人々は何を思い、感じたのだろうかと私自身考え込んだ。

    捨石作戦とまで呼ばれた沖縄戦の恐ろしさに改めて考えさせられた一日だった。避難・捕虜となった場所を見学し、そこでの体験を語ってもらった。Hさんの証言の一語一語から、軍国主義を叩き込まれた無念さ、級友を失った悲しみなど、戦争は、人間を破壊し、精神的・肉体的にも多くの犠牲者を生むことだという事が、ひしひしと伝わってきた。「」母からの最後の言葉を語ると涙がでる」と言って自分の口からは語ろうとしなかったHさん。

    戦争は終戦を迎えたからと言って、その時点で何もかもが解決するのではない。むしろ終戦を迎えることによって、さまざまな問題が浮上し、後世にもその間題を引きずるとなるのである。57年が経過した今でも体験者の中では、まだ戦争は終わることなく、島自体にも、米軍基地・不発弾・遺骨収集など多くの戦争の爪あとを残したままである。

    戦争を学ぶ上で、戦争体験者から証言を聞くことは、戦争当時の様子を知るだけではなく、人としてどう生きるべきかなど、人と接しながら学ぶからこそ得られるものがあるのではないかと思った。言葉に表現しなくても、伝わってくるものがあるからである。

    学校では、授業を効率よく進めるため、体験等に行く機会が減少している。効率的という考えによって、現代では失われつつあるものが数多くある。思考能力をつけることが大事な時期だからこそ、教師が結論だけを述べるのではなく、児童・生徒自身が自ら答えを導くような学習をしていかなければならないのではないだろうか。

    沖縄戦といった悲劇を昔起こった出来事の1つとしてだけではなく、平和の尊さを忘れないために、戦争体験者と接し、過去の過ちを知り、2度と繰り返さないためにはと、自分の問題として考える必要がある。

    過去があるから、歴史は現在に至るのであって、有事法案のような戦争法を国が進めて行こうとする中で、平和学習の中から、現代の問題を指摘することができ、自分の意志を示せる行動をとることも、同じ過ちをおかさないために、必要ではないだろうか。

    戦争体験者の方が、亡くなると次は私達世代が後世に語り継ぐことになる。戦争体験者が語るのに比べ、体験していない分あいまいな点もでてくると思うが、悲惨な出来事を繰り返さないために、また平和の大切さを忘れないために努力していきたいと思う。


沖縄戦から平和教育へ
     

       社会学科3年 K・Y(男子学生)

【はじめに】

 私は、3班の一員として、3班の「沖縄戦の本質とその中での生活」という課題の中の、「沖縄戦の本質」という下位課題を調べた。さらに、個人報告として、「平和教育について」調べ報告した。

 課題設定の理由としては、「沖縄戦の本質」、「平和教育について」の二つとも、私達が今までに受けてきた教育に関連する。沖縄戦は「日本国内で住民を巻き込んだ地上戦」、「住民が根こそぎ動員された住民総力戦」など、いくつかの意味づけがある。確かに、沖縄戦は戦闘員、非戦闘員合わせて約20万人の犠牲があった。しかし、そこの部分だけが大きくクローズアップし、教育の教材として取り上げられ、なぜ沖縄戦まで至ったのかという経過は、あまり教えられていないと感じた。

 「平和教育について」という課題も、現在行なわれている平和教育は、沖縄戦の被害についてばかりしか教えられてなく、率直にこれでいいのかと思ったのが理由である。

 そこで、今回の報告書では、「沖縄戦の本質」と、「平和教育について」のあり方を改めて考え直し、これからの平和教育にどう繋げていくか考えてみる。

【沖縄戦の本質】

 沖縄戦とは一体何だったのか。定義としていくつかがある。「日本国内での唯一の地上戦」、「捨て石作戦」。しかし、「沖縄戦とは、日米間の戦争の『太平洋戦争』の中の一つの戦闘」としての捉え方もあるのではないだろうか。歴史に「もし」という言葉は無いのだが、あえて考えてみる。もし、日米間で太平洋戦争が勃発しなければ、沖縄戦も起こらず、約10万人の非戦闘員である住民の命は救われていただろう。したがって、太平洋戦争の中の一つの戦闘という定義は、少なくとも私は聞違っていないと思う。

 おさらいとして、太平洋戦争の中で重要な戦闘を、二つ紹介している。そもそも、太平洋戦争はどのように勃発したのだろうか。1941年(昭和16年)、12月8日(日本時間)7日(ハワイ時間)、日本軍がハワイのオアフ島及び真珠湾を攻撃。俗に言う、「真珠湾攻撃」である。これが直接的な原因となり、太平洋戦争の火蓋が切られた。

 1942年(昭和17年)6月、「ミッドウェー海戦」が起こる。この海戦を境に、日米両国の立場は逆転する。攻勢に転じた米軍は、日本が占領する太平洋上の島を次々と制圧し、日本本土攻略を目指す。いわば、太平洋戦争のターニングポイント的な戦闘である。

 こういう状況下で、沖縄という場所は地理的・軍事的にどう見られていたのか、両国の視点を考える。

 アメリカは、対日戦争を1945年末までに終わらせる計画であった。1944年9月29日サンフランシスコでの米将軍たちの会議で、「台湾を攻略するより沖縄を基地化すれば、日本本土へ上陸しなくても降伏に追い込むことは可能」とニミッツ提督が進言し、10月3日に公式の作戦として発令させた。この時の作戦名を「アイスバーグ作戦」と名付けた。アイスバーグとは氷山のことであり、小笠原・奄美諸島・沖縄を氷山になぞらえ、一つ一つ叩き潰していく計画であった。

 沖縄作戦に、入念な計画と周到な準備をしていたアメリカに対し、日本はどうだったのだろうか。

 大本営は、沖縄を含む南西諸島に巨大な航空基地を造成して、「不沈空母」にすることしか考えておらず、沖縄の戦略的地位をそれほど重要視していなかった。

    1944年3月22日、第32軍(沖縄守備軍)が創設され、沖縄の戦略的地位を見直すが、「民族的紐帯の薄い地域」として、三等地と軽視した。また、本土防衛の準備が完了するまでの防波堤的な役割として、捨て石とされていた。

    「友軍」と呼ばれ、自国の領土である沖縄を守るはずの日本軍が、沖縄という島を地理的・軍事的に過小評価していた。これに対してアメリカ軍は、県出身の海外移民から沖縄について情報を多く入手して、周到な作戦準備をしていた。この違いが沖縄戦での勝敗を左右する一つの要因である。

 日本軍は「皇民化教育」と称し、沖縄県民を日本人として作り上げようとしたが、最終的には日本人としてではなく、沖縄県民を軽蔑して見ていた。そこから民間人のスパイ容疑、住民虐殺という同じ日本人ではありえないことが行なわれた。沖縄戦は「軍隊は第一に軍隊を守り、住民は二の次」という軍隊の本質を立証した戦争であり、これが沖縄戦である。

 こうした悲惨な戦争が終わった後、これを教訓にどういった平和教育が行なわれてきたのだろうか。

【平和教育について】

 沖縄で一般的に行なわれている平和教育は、資料などを使って沖縄戦の被害を知ったり、ガマなどに入って追体験したり、生き証人から当時の話を聞いたりするなど、沖縄戦そのものについての教育が主である。

    こういった反戦平和の教育で戦争の悲惨さを訴えることはとても大切なことであり、現実の平和運動と結びついて大きな成果をもたらしたのは事実だと思う。しかし、身近な現実に脅かされている子どもたちに、何の前提もなしに「57年前の戦争について知ろう、考えよう」と求めるのは難しいことだと思う。

    過去の戦争を振り返り、平和について考えることも重要だと思うが、同時に過去に固執しすぎだと思う。現在起きている問題、特に沖縄では基地・米兵がらみの事件から平和について考えていくのも、平和教育の一つの手段ではないだろうかと考える。

 沖縄戦そのものについて考える平和教育では、日本軍による住民虐殺、スパイ容疑、アメリカ軍による総攻撃など、被害についての教育しか行なわれていないような気がする。「捨て石」と称され、軍部から見捨てられた沖縄では、そういった教育が行なわれるのは必然であるといえよう。しかし、本土でもそういった教育が行なわれている。広島・長崎の原爆資料館を見学させて、「戦争とは悲惨なもの」と考えさせている。それが間違いというわけではないが、なぜ戦争が始まったのかという、根本的かつ重要な問題は扱われていない感じがする。

 ドイツの平和教育では、ナチスの過去をどう教えるかが中心となっている。ナチスが行なったことを受けとめて、その反省点とそこから平和についての教育を行なっている。日本は、中国・朝鮮・東南アジアへの侵略戦争のことをあまり教えていないと思う。それは、ドイツの加害者意識に対し、日本は被害者意識が強いからだと思う。自分達が行なった過ちを包み隠さず伝えることが、真の平和教育であり、それを行なうためには、日本の戦争責任に対する謝罪を各国に行なうことが始まりだと考える。

 平和教育というと、沖縄では6月23日の慰霊の目前後に行なうことが多いと思う。毎年一回、しかも1時間程度の授業で、沖縄戦を通して平和について考えるのは困難であり、毎年同じような内容を小・中・高の12年間続けるとなると、生徒がマンネリ化に陥っていく恐れもあるのではないだろうか。

 ドイツでは、ナチスの過去について中学校2、3年くらいの時期に1年間かけて学んでいくので、かなり深く立ち入ってやることができると思う。

 したがって、小学校低学年ではこの段階のものを、中学校ではだいたいこの段階のものを教えていくということで知識を積み上げていく、要するに、小学校から高校まできちっとした形にカリキュラム化することが理想だと思う。

 沖縄戦における平和教育は、追求していくと当時の沖縄の経済関係、社会関係、日本の歴史、世界・中国・ヨーロッパ・アメリカとの関係、世界史の流れなど、いくつもの要素が絡み合っている総合的な学問だと思う。戦後生まれの教員が大部分を占めている現在で、戦後世代の教員が、どの部分をどういうふうに生徒に教えていくかということが、大きな課題だと感じる。

 今日の沖縄というのは過去の沖縄があってのことであり、未来の沖縄は今日の沖縄をふまえてしか考えられない。したがって、この沖縄でおかれている現状でしか未来を切り開くことはできないので、もっと生活の中に入り込む平和教育が必要だと思う。

【まとめ】

 今回の「教職総合演習」では、沖縄戦という課題を取り上げてきた。ゆくゆくは教壇に立ち、沖縄戦について教育するであろう私達は、この講義で多くのことを学び取ることができた。その中でも私は、改めて沖縄戦について深く知ることができ、今ま何気なく受けてきた平和教育について疑問を持つことができた。

 沖縄戦では、住民を虐殺したのはアメリカ兵ではなく、日本兵だと思っていて、また、そう教えられてきた。私は、A教授の「日本史」の講義を受講しているが、「沖縄戦の住民虐殺は日本兵も行なったが、沖縄出身兵も行なった」と、話していた。これを聞いたとき、とてもショックを感じた。逆に、北海道のアイヌ出身兵は、身を盾にして住民を守ったという話しもした。今まで「残虐な日本兵」と教えられてきた教育は何だったのだろうか。これはほんの一例にしかないのだが、今まで積み上げてきたものが、脆くも崩れ去ったという気持ちである。

 前でも述べたが、沖縄戦という教材を教師がどれだけ詳しく調べ、真実を生徒に教えていくのか、これからの大きな課題だと思う。沖縄戦とは教師の技量が試される深いテーマだと感じた。

日本の戦争問題解決の必要性について〜沖縄戦を学んだ今だからこそ〜
経済学科3年     F・A(女子学生)

 これまで私は、沖縄戦(日本兵は沖縄住民に対してどのような存在だったか)について学んできました。沖縄住民に対して日本兵は食料強奪・住民殺害・自決強要・壕追い出し・脅し・住民避難拒否・スパイ容疑殺害・米軍の攻撃からの盾など、さまざまな行為をおこなったことがわかりました。

以上のような被害が多く現れた場所が、沖縄に多く存在するガマ(壕)です。ガマの本来の役割は住民の命を守るためですが、日本軍が組織的に崩壊していった頃からガマはこれまでの機能を失い、ガマの中での住民の被害は増加していくばかりでした。捨石作戦と呼ばれた沖縄戦では、日本兵は沖縄(住民)を救う者ばかりではありませんでした。

 だが、沖縄住民は日本兵からの加害があったからといって、自分たちが沖縄戦で受けた被害ばかり取り上げてはいけません。外国から見れば沖縄も日本の一部という事実。「日本」という視点から、日本が行なってきた数々の戦争(残虐行為)に対して世界(特にアジア地域)に責任を問う必要があると思います。

    日本が戦争責任を問わなければいけない理由は(一つではない)数々の視点から挙げられます。なぜ戦争責任問題の解決が必要なのかについて、私なりに考えてみたいと思います。

 世界全体の帝国主義や戦争犯罪をなくし、世界全体の平和を願うため、日本は戦争責任問題の解決が必要です。世界には今なお戦争犯罪が行なわれたり、戦争を求める人がいて、世界は平和とはいえません。そのため私たち(日本人)が「戦争はいけないよ。武力で解決することはいけないし、被害が増えるだけだよ」と言っても過去に侵略戦争や植民地支配など数多くの戦争犯罪を犯しているので、日本に言われても納得いかない国や、反発する国がでてきます。そのため過去の戦争犯罪や人道に対する罪などについて、きちんと調べ明らかにして事実を認め、その責任を取ること(謝罪・賠償・繰り返さないための教育や対策などを含む)は、何よりも日本国民の責任であり、必要です。

    私たちが自らの責任を果たすことによってのみ、他国・他国民のそうした行為を批判し、やめるように主張することができます。他人の間違いを持ち出して自分の間違いを帳消しにすることは卑怯だと思います。他国の犯罪を許さず、批判できる資格を得るためにも、自らの犯罪をきちんと認め、責任を取ることが必要不可欠です。

 日本の未来・将来に向けるためにも日本は戦争責任問題の解決が必要です。現在の自分たちがどこにいるのか、よりよい未来を築くためにどうすればよいのか、それを考えようとするとき、私たちは歴史を振り返ります。

    今日の日本を考えるとき、韓国・北朝鮮や中国、東南アジア、さらには世界の人々との間に、信頼関係を作ることができていません。その最大の問題の一つが戦争責任問題です。あれだけのひどいことをさんざんしておきながら、その事実を拒否したり、反省しないままに過去のことだと言っている日本人が信頼されないのは当然だと思います。これからアジアや世界の人々と、政治・経済・安全保障・環境などさまざまな分野で協力していくときに、日本が行なった侵略戦争の問題は何よりもまず、解決しておかなければいけない問題だと思いました。国家の責任を認め、アジアの人々との理解と友好をすすめるために。

 中国や韓国などでは、一面的な日本批判がなされてきました(保守派)が、他方で民主化の進展とともに日本を批判しながらも自国の問題をも冷静に議論しようとする人々(良識派)が生まれてきています。この良識派が生まれてきた背景には、経済発展と民主化がありますが、同時に、日本国内で戦争責任に真剣に取り組む人々の増大とその人々との交流があげられます。

    日本がおこなった戦争や植民地支配を正当化する日本での議論は、「やっぱり日本人は何も反省していない」と保守派を活気づけ、冷静に議論しようとする人々を極地においやるだけだと思います。良識派の人々は、日本とコミニュケーションを取ることを必要とし、そのため努力しているのだから、日本もきちんと対応し、アジア同士仲良く認めあわなければいけません。

    日本が戦争責任問題をきちんと処理することは、アジア諸国の良識派を励まし、民主化を促し、東アジアの冷戦構造を解体していく取り組みの一環でもあります。他国を一方的に非難しあう関係ではなく、批判すべきところは批判しつつ、自己反省と相互理解を進めることは重要なきっかけになるでしょう。

    また、中国や韓国の人々には、戦争の惨禍のために回復しがたい心身の痛手に悩みながら生きている人々がまだ存在します。その人々のおさえきれない怒り、悲しみに対して責任を明らかにし、できるだけその人々の在世中に可能な限りの保障を提供しなければいけないと思います。(このことは、もちろん日本の被害者も多く存在します。日本の被害者については、レポートの後半部分に少し述べたいと思います)

日本は、欧米に憧れることもよいですが、欧米ではなくアジアの国としての自覚を持ち、近隣国を大切にしなければいけません。

 今日の日本の無責任社会を変え、未来を願うために戦争責任問題に取り組む。現在の日本の政治や経済(国会議員)を見ると、日本は無責任社会といえます。失敗の原因をあいまいなままにして誰も責任を取らない、あるいはお金の力で矛盾をしのいで先送りにするなど無責任が蔓延しています。

    何百兆円も借金を作りながら、目先のことしか考えずに不必要な公共事業を次々に行なう政治家や業界たちが、日本の権力を握っている現状はまさにその典型です。こうした問題は戦争責任問題への対処の仕方と同じです。経済援助だといって札束をちらつかせて、相手を黙らせてきたやり方もその一つだと思います。

   戦争責任問題への取り組みは、こうした日本の無責任社会を変えていくためにも不可欠な課題だと思います。

 現在・未来の子どもたちの成長のために、戦争責任問題の解決が必要です。大人は子どもたちが悪いこと、やってはいけないことをすると隠さず正直に言いなさいと言い、なぜやってしまったかを詳しく聞こうとします。しかし子どもたちは、なるべく隠し、ばれないように逃げ、反省することの大切さを失います。そのような子どもたちの見本となっているスタイルを造ったのが今の政府や大人たちだと思います。彼らは先ほども述べたように、矛盾をしのいで、責任をあいまいにしたまま逃げようとします。

    そのことは戦争責任問題にもおおきくあてはまります。そんな大人たちが、子どもたちに「反省しなさい」といえるわけがありません。今の大人は矛盾だらけで、子どもを叱る、注意する権利なんてないのです。その権利をつかむためにも戦争責任問題をきちんと解決し、胸をはって、子どもの成長を見守ることが必要です。

 内輪の人だけでなく、他の国民・民族・社会の人々の痛みや悲しみを感じ、ともに生きていくことができる人間になるために。侵略戦争ではなかったとか、日本がおこなったさまざまな残虐行為を否定し、「日本人の誇りを」などと言っている人々は、仲間内だけで自慢話をして、他の人々の痛みや悲しみには無感覚なエゴイストだと思います。

    自分は立派な人間だと自分で言って陶酔している、そんな人間にろくな人間なんていません。さらにそうした議論に影響を受ける人がたくさんいるということ自体、日本人が利己的になっている証拠です。私は、小林よしのり氏の「戦争論」は支持できません。彼は相手国がおこなった悪い行為(残虐行為)だけを拾い集め、日本の受けた被害だけを並べて書いているような気がします。また、日本が行なったと言われている残虐行為に対しては否定し続ける一方です。 自国の行為をすべて認め、相手国に注意・主張するならわかりますが、彼の場合は筋が通っていない感じがします。そのため私は「戦争論」に対して支持できません。中国・韓国・朝鮮なども日本と同じアジアの国であり、また世界の一つという視野から戦争について考えるべきだと思います。

 以上のことが、戦争責任問題の解決の必要性について調べ・考えた私の意見です。沖縄戦を学び、次に考えることを探した結果この課題となりました。

 反対に、私の意見と異なる考えの人々がおり彼らは、日本は戦争責任をとらなくてもよいという考えでした。その考えの原因に、中国・韓国・朝鮮側の意見解釈のとらえ違い「日本人は悪いやつだ。そのため・過去の反省のため永遠に世界に謝罪すべき」と誤って解釈しています。

    また「戦争責任は必要以上取ることはない。今までで十分。必要以上に責任をとることはわりにあわない」との考えで、過去の日本の戦争問題の解決策に対して十分だと考えています。さらには、日本人の戦争行為に対して、悪行為と認めず、なぜ戦争責任を問わなければいけないか、わからない人々がいます。

    また、『反戦平和という美名で運動しているサクヨの人たちは「ニセ写真」をつかっているのです。「ニセ写真」まで使って子どもたちをだます反戦平和は、もはやカルト宗教なのだ!』(「戦争論」)(資料1参照)
と語っている人もいます。

    私は、このような人々に対して他国を理解しきれず愛せない人、他人のことがいたわれない人だと思いました。そのため、他民国に責任を償うことができないのだと思います。このようなことから、新平和記念資料館問題・歴史教科書問題が浮上(資料2参照)し、日本国民や他国から反感をあびることがありました。この間題に対しても日本政府は反省の意思を表せず、責任から逃げ、あいまいなままでした。

 最後に、戦前の国民は国家の制度の下で権力支配に服せしめられ、人権もなく、権利・意志を認められず、軍事主義教育の基で「戦争ばんざい」と戦争参加をよぎなくされました。そのため、彼らの人生・未来・将来・財産・家族・友達が奪われ心身の痛手となる一生の(悲しみ・憎しみ・恐怖・怒りからくる)傷ができたと思います。その彼らに対する、また彼らの未来を受け継いでいる現在の日本国民に対する戦争責任をどうするべきかについては、大日本帝国とその承継者としての日本が全面的に責任を負わなければいけません。それは、謝罪や補償・戦争を繰り返さないための教育という形や、有事法案などに関係する軍・戦争のための法を改善し、私たち国民のためにそのような法をつくることです。さらに、外国(特にアメリカ)を大切に思い、国民を犠牲にすることをやめること。そして、日本を戦争から守ることだと思います。

    (戦争参加・協力の被害や日本を今の状態のまま戦争ができない国にすること)このような対策で日本(戦争で心身の被害にあった人)に対する戦争責任をとる必要があると思います。もう二度と、沖縄戦のような残酷な戦争が繰り返さないことを祈ります。

 私たちは戦後世代に生まれ、前の世代がおこなったことに対しての責任を直接問われても、戸惑い・困ると思いますが、現在日本の主権者である私たち。日本や世界のためにも日本政府とともに、戦争の責任を償う義務があります。愛国心も必要だとは思いますが、他国を愛し、理解する努力も必要です。国際化の必要な時代になってきた今日、世界中の国民と、笑っていられる関係でありたいです。

沖縄戦から平和教育を考える

経済学科3年 M・T(女子学生)

 沖縄戦では、「住民の被害が多い」というのが特徴であるといわれている。沖縄戦における戦没者は約20万人余りに上るといわれている。なぜこのような悲劇がおこったのであろうか。そこで私たちグループ(1班)は日本で数少ない地上戦がおこなわれた沖縄の住民が受けた被害と避難生活を探ってみることにした。テーマは『戦時中の住民が受けた被害と非難生活』とし、下位課題は「住民を道づれにした沖縄戦」「兵隊が沖縄住民に与えた被害」「住民の協力体制はどうだっただろうか」「伊波ハルさんの証言から」の四つをたてた。

   私は、「住民を道づれにした沖縄戦」を主に調べていった。沖縄戦はどのようにして展開していったのかみていく。

   まず、1944年に「10・10空襲」があった。そこでは1300機が各島に来襲し、死者500人、負傷者700人を出した。那覇市は90%が焼失した。そこで1945年1月、「帝国陸海作戦計画大網」がだされた。そこで沖縄守備軍によって根こそぎ動員がおこなわれた。足腰が立つ住民すべてを総動員するものであった。

   軍は44年10月以降、三次にわたり、防衛隊の召集を実施した。住民は前線に出ることを命令された。ろくな武器もないままに前線に引っ張っておいて、使えなくなったら捨てるといった使い捨ての道具のように扱われていた。 また、生徒たちは「鉄血勤皇隊」、「学徒看護隊」として各部隊や野戦病院に配置された。

    生徒の戦場への動員は法的根拠がなく、生徒の「志願」という形がとられ、保護者の承認を建前としていたが、実際には強制的なものであった。全動員の六割に相当する一万三千人が戦没した。 牛島満中将が自決した6月23日になって、防衛隊を動員する義勇兵役法が成立。沖縄戦は、住民を戦場に駆り出す「実験場」になった。

 そして、3月23日米軍による沖縄本島攻撃が始まり、4月1日にはいよいよ米軍が沖縄本島に上陸を開始した。米軍は日本軍の予想に反し、北谷・読谷海岸から上陸してきた。
米軍第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、艦船140隻、陸軍と海兵隊を合わせて○○個師団18万3000人を率いた。このとき、日本軍の抵抗はなく、無血上陸した。米軍は即日、北・中両飛行場を占領して足場をかためた。

    4月8日から日本軍は依然抵抗をつよめた。現在の宜野湾市にある嘉数高地、前田高地では太平洋戦争を通じて最大規模といわれる砲爆撃がこの一点に集中した。日本軍は夜襲や、肉弾攻撃で反撃した。

    物量にモノをいわせる米軍も、一日に100メートル前進するのがやっとだったという。一進一退の攻防戦が2週間もつづき、米軍は一時、沖縄攻略を断念しかけたという。

 そして5月22日、南部撤退が決定する。沖縄戦の最大の悲劇はこの南部撤退によって引き起こされたといわれている。5月27日には南部撤退命令が出された。そこで、「手まといは青酸カリで処置」という信じられないことがおこなわれていた。撤退命令が出たとき、重症患者は青酸カリで“処置”されたり、手榴弾で自決することが強要されていた。

    その数を「南風原陸軍病院壕址」の碑は、2000余人と刻んでいる。青酸カリを飲ますというのは「日本軍人として、恥かしくないように死んでくれ」ということだった。そのなかには、重症で歩けないひめゆり学徒隊にも青酸カリが配られていたという。飲んだふりをしたり、隣の人が苦しんでいるのをみて毒だと判断し吐き出して生き延びた人もいたそうだ。

 そして、6月23日牛島満軍司令官は、摩文仁で沖縄作戦の責任をとって自殺した。これによって日本軍側には戦闘を収拾する責任者が不在となったのである。

    局地的な戦闘はなおも続いたが、ほぼ沖縄戦は終わったといえる。そして7月2日、米軍が沖縄戦終了を宣言し、8月15日日本が無条件降伏をして戦争は終わった。

 沖縄戦は、日本がしかけた侵略戦争の末期に迎えた国内戦で、1945年3月末から7月中頃間で戦闘が続き、およそ20万人の戦没者をだした。このうち県民の犠牲者は、15万人にものぼるといわれている。

    沖縄戦の最大の悲劇は先にも述べたように南部撤退によって引き起こされたといわれている。牛島満軍司令官は、日本軍の約8割の軍隊が壊滅していたのにもかかわらず、首里決戦を避け、住民の避難地域に残存部隊をなだれこませていった。

    沖縄の日本軍の役割は「国体護持」のための終戦工作に必要な時間稼ぎであった。つまり本土上陸を1日、1時間でも遅らせるために住民を巻き込んだ持久戦をとるといった皇軍の論理が、沖縄戦の悲劇を増大していったといえる。

 グループではこのような課題を調べていったが、私はさらに「どのようにして住民は戦争に動員されていったのか?」という課題をたて、調べていった。沖縄戦では、「足腰が立つ住民すべてを総動員する」といった日本軍の方針で多くの住民が巻き込まれていった。子どもたちだけでも、二千三百人余りの生徒が、男子は「鉄血勤皇隊」、「通信隊」、女子は看護要員として動員された。

    命令と強制的なものだけで、これだけの人々が動員されたというのは考えにくいので、どのようにして多くの住民を戦争に動員する事ができたのか疑問を持ったのが課題設定の理由である。

 そこでは、住民の受けてきた「教育」の力が大きいと言われている。どのような内容だったかみていく。まず、「教育勅語」に忠実な教育の実施であった。「修身科」といったの今の社会科の教科は、「教育勅語」の解説の教科としておかれていた。「教育勅語」の内容は15の徳目に分かれていて、初めの方は父母に孝を尽くし、兄弟は仲良くし、夫婦は協調し、などといった今でも大切とされていることが書かれているが、「教育勅語」ではこのことが言いたいのではなかった。

    一番重要とされているのが「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天攘無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」である。「いったん国家に危機がせまってくれば、忠義と勇気をもって働き、天と共にきわまりない皇室の運命を助けるようにしなければならない」という意味である。 私は、これを見たときとてもおそろしくなった。親のためにつくすことは、国家のために戦争にいくというのと同じ意味だとして、おしえこんでいっている。

    このように、道徳性をコントロールする事によって多くの住民を戦争にかりだしていたことがわかる。また、「教育勅語」は授業以外でもいろいろな行事の中でも朗読させられ、徹底的に植え付けられていった。このように熟読暗記されていった「教育勅語」は私の、おばあちやんも今でも覚えているといっていた。「教育勅語」が当時どれだけ重要視されていたかがわかる。

 また、学校生括の中で軍事教練が強化されていた。戦争のための訓練であって、もう学校が戦争一色に染められていたことがわかる。運動会でも、模擬戦争のような騎馬戦や棒倒しなどが行われていた。また、低学年の子ども達はその影響で“戦争ごっご’をして遊んでいたという。今の私たちの感覚ではとても考えられない。学校では、毎日全体朝会がもたれ、「君が代」斉唱のもとに「宮城遥拝」が行われていた。

 学校では、疑問点があって質問すると「教えられた通りに覚えろ。それ以上のことは知らなくていい!」と先生にどなられ、考えることさえ禁じられていた。そして子どもたちは「天皇のためなら死んでもいい」と考えるようになり、国のために命をささげることが栄誉なことだと信じて疑わなかった。

    考えることさえも禁じられていたため、自分なりの善悪の判断ができなくなっていることがわかる。そこでは自他ともに命の大切さがわからなくなっている。このように、無意識のうちに好戦住民が育てられていった。そうして、戦争の被害の拡大につながっている。

    教育の力を使って住民を思うがままにコントロールして戦争に動員していた。そこでの住民は人間的扱いなどなく、戦争のための手段・道具でしかなかったこと、そして教育の影響力の強さがわかった。

    「住民の被害が多い」ということが特徴の一つである沖縄戦の悲劇の要因の一つが「教育の力」を使って住民をコントロールしていたところにあることがわかった。そして、こういった事実を胸に止め二度と繰り返すようなことがあってはならない。

 このように総合的学習を通して、自ら沖縄戦から課題を発見し、「社会体験」、「見学、調査」など活動を通して、課題を解決していくなかで戦争の恐ろしさ、悲惨さを痛感した。

    今まで私は授業の中で受けてきた平和学習は「教わる」といった受け身的だったので自分の中で消化しきれていない気がしていた。そこで今回はじめて、自ら考え、行動することによって戦争に対しての認識、平和の大切さを強く感じた。有事法案といった国家総動員法に似た法律が検討される、などといった再び戦争の起こる危険性が高まった今こそ、沖縄戦の教訓の次世代へ伝える平和教育がさらに重要となってくる。

    私たちが教師になったとき、戦争を自己体験として子どもたちに平和の尊さを訴えることはできないが、平和を語り継がなければならない。そこで私は、平和教育は教師に言われた通りに実行するといった一方的で押し付けのようになってしまっては、本当に身につかないと思う。総合的学習のように、生徒が主体となり自分で考え、行動していく中で身についていくものだと思います。それらを私は、総合的学習を通して学ぶことができました。

集団自決について」
経済学科(二部)3年 M・K(男子学生)

1 はじめに
 グループで発表した時のテーマである「日本兵は、住民にとってどのような存在であったのであろうか?」の下位課題であり、自分が担当となり調べて考えた「集団自決」について今一度考え、報告書としてまとめてみようと思います。

2 「集団自決」とは
 「集団自決」とは親が子を殺したり、兄が妹を殺したり、夫が妻を殺したりと肉親同士あるいは親戚の人同士、知人同士などの殺し合いのことをいいます。ある者は手榴弾で自害したり、ある者は石で殴り殺したりと、悲劇が繰り返された。地上戦が行われた沖縄では、数多くの惨劇が起きたなかでも最も悲惨だったのがこの「集団自決」と呼ばれるものです。

3「集団自決」が起きた要因とは
 沖縄戦において」最も悲惨な出来事となった「集団自決」が起きた要因とはいったい何だったのであろうか?

    まずその背景として天皇のために死ぬことが美徳とされる皇民化教育があげられる。その当時は「敵の捕虜になるくらいなら自決せよ」という捕虜になることは恥であるという考えがあり、それにより多くの人々が犠牲になった。また「米軍につかまると男は戦車で轢かれ、女は米軍人の慰み者にされる」という鬼畜米英の考えもまた集団自決が起きた要因となった。追いつめられた人々は冷静な判断をする余裕はとてもなかったのである。

    しかし、やはり一番の大きな要因は日本兵の存在であろう。日本兵は沖縄住民を差別・スパイ視していたり、住民を虐殺したりした。日本兵たちは米軍に包囲されたときに「投降はするな、投降するぐらいであれば自決せよ」と住民に自決を迫り、手榴弾を渡すなど自決手段を供与するなどして、住民の自決への強制・誘導をしたのである。

    また、ガマの人々を説得しにいった人をスパイ扱いし処刑したり、投降するためにガマを出ようとした住民を後ろから銃撃するなどもしている。日本兵の存在はとても大きいものだったのである。また県民をスパイ視し、あまり信用していなかった事も要因の一つである。

     「自決」という言葉は、「自らの意志で死ぬ」ということであり、「自決」という表現よりは「集団死」の方が適切である。沖縄戦の「集団自決」は<天皇の軍隊>による住民虐殺であるという見方が強い。強制と誘導によって集団死が起きたのであり「自決」ではないことが分かる。

4集団自決に使われた道具
 集団自決に使われた道具としては、手榴弾、鎌、鍬、石、かみそり、ネコイラズ、棒などであった。道具がない場合には、首を絞めたり、縄で首をくくったりした人もいたようである。

5チビチリガマとシムクガマ
 集団死がどのようにして起きたか有名な読谷村チビチリガマとシムクガマを見てみると、自然壕、避難場所として利用されていたチビチリガマでは日本兵はもう撤退していなかったが、避難者の中に中国戦線に従軍経歴がある元兵士、元看護婦がいて、「米軍に捕まったら何をされるか分からないよ」と恐怖心をあおり立て、人々を集団死へと向かわせた。そこでも悲惨な集団死が起き、ガマにいた139人のうち83人が集団死で亡くなった。全員が亡くなったわけではなく、投降して助かった人もいた。

 しかし、チビチリガマからわずか数百メートルしか離れていないシムクガマではまったく展開が違っていた。1000人近い避難者の中にハワイでの出稼ぎ経験のある兄弟がいた。二人は「米軍が銃も持たず、抵抗もしないものを殺すはずがない」とみんなを説得し、ガマの中にいた1000人を説得し集団で投降した。したがってガマにいた約千人の人々が助かったのである。

 まさしくこの二つのガマの例はほんのわずかしか離れていないが、日本軍の言うことを、あるいは天皇のために死ぬと言うことを信じるか信じないかということで大きく明暗を分けたのである。チビチリガマでは日本兵はもう後退していなかったが、集団死が起こったほとんどの地域では日本兵が恐怖心をあおり立て、一般の人々を追い込んでいったのである。

 だが「シムクガマ」のようなケースはむしろ稀であり、日本軍将兵だけでなく、一般民衆にも、「投降」悪であるという教えが骨の髄までしみこんでいたのである。

6集団死が起きた地域・起こらなかった地域
    集団死が起きた地域は読谷チビチリガマをはじめ、渡嘉敷島・座間味島・慶良間島・伊江島・南部海岸付近があげられる。起きなかった地域をみてみると阿嘉島・前島・屋嘉比島・久米島・粟国島・伊平屋島・伊是名島・伊計島などがあげられる。

    起きた地域をみてみると、そのほとんどの地域に日本軍の存在がある。反対に起きなかった地域では日本軍の存在がない。起きた地域を比較してみるとそれが明確になる。日本軍のいない所ではでは投降して犠牲を最小限に止めている。

    また「集団死」では同時に軍に協力し戦争に動員していた村幹部や教員の役割も大きい。軍民一体の戦争体制が悲惨な「集団死」を招くことになってしまったのである。

7 「集団自決」のまとめ
 「集団自決」とは、文字通りの「自決」ではなく日本軍の強制と誘導によるものであることが、起きた地域と起きなかった地域を比較したとき明確になる。したがって「集団死」の方が表現が適切である。

 沖縄戦全体でみると「集団死」を行わなかった人々の方が多く、日本軍がいないところでは、住民は自らの判断で助かっている。
したがって、集団死が起きてしまった要因にはやはり、戦前の皇民化教育がある。天皇のために命を捧げるという事を信じ込み命を落としていったのである。

 また、沖縄戦における「集団死」が日本兵による虐殺なのか真の自決なのかとても不明瞭であるということも問題である。あるニュース番組で沖縄戦の特集をしていたときに、「沖縄戦における集団死は日本兵による直接手を下さない虐殺だ」という言葉を聞いて、実際自分でも調べて行きながらそう思った。あいまいにされているという事はまた問題である。

    日本兵は、沖縄県民に対しては明治大正期から『軍事思想にとぼしい』『皇室国体に関する観念、徹底しからず』とあまり信用していなかったことや、沖縄戦では県民を動員して陣地構築をなどをしていたため、投降されては軍の動きが伝わると考えていたということも、県民の被害が大きくなった要因の1つでもある。

 そして現在においても沖縄戦における集団死の犠牲者の数は明らかにされていない。沖縄戦を通じて何件の事件が起きて、何人がなくなったのか今も分からず、もしかすると、今も土に埋もれている犠牲者がいるかもしれないということである。
また資料K番の写真は砲弾で倒れたとあるが集団自決にも見える。この写真は現在でも問題となっている。

 これからもし戦争が起こったりすれば、また沖縄戦のように悲劇的な事件がおきるかもしれない。なぜなら沖縄戦において戦争では一般の人々が多く犠牲になるということが分かっているからである。このような悲劇を起こさないためにも今の時代を担う世代がきちんと事実を受け止めて平和について考え、しっかりと後世に伝えなければならない。またそれはとても大事なことである。

    戦争を体験した人からしてみれば思いだしたくもない体験であろう。きっと資料でみたり、人から聞いたりしているだけの自分たちでは想像を絶するものであると思う。また絶対に体験したくないものである。これから教職総合演習で学んだこと、沖縄戦について調べたことを忘れずにしっかりと、考えながらまた勉強していこうと思う。以上で報告書を終わります。

沖縄戦と県内避難
法学科3年T・H(男子学生)

 ミッドウェー海戦で大敗した日本は制空権を奪回するため、沖縄を重要な拠点と考え、飛行場建設を進めた。この沖縄を重要な拠点と考えた作戦が「本土決戦のための捨て石作戦」(「沖縄県史8巻」)であり、日本国の防波堤となった。

    ミッドウェー海戦で戦局は悪化し、勝敗は、もう目に見えていたはずである。もし、あの時点で降伏していれば、広島、長崎には原爆は投下されず、沖縄戦も始まらなかったであろう。

 沖縄が戦場化するといっても、住民はアメリカ軍が上陸する事は考えていなかった。人々は、空襲のおそれだけが現実味になり、まず、狙われるのは那覇であると考えていた。那覇には港があり、軍艦や輸送船、軍需品があったからである。那覇市民は、家財道具を地方に避難させた。これは誰の命令でもなく、緊迫感がそうさせるのであった。

    太平洋諸島における戦闘が不利になり、遂には絶望的になると昭和19年7月7日に緊急閣議がおこなわれた。そして沖縄本島、各離島の疎開命令が下ったのである。東条内閣は、南西諸島の老幼婦女子を南九州と台湾に疎開させるよう県知事に指令した。沖縄県では諸機関を通して希望者を募集したが、当初は家族の離散、疎開先での生活不安、海上の危険等を考えて応募者は少なかった。それでも7月には、県庁高官や寄留人の家族、疎開先の身寄りのある人達が第一陣として那覇港を出発する。

    しかし、第三陣の対馬丸が米潜水艦の魚雷を受けて沈没した。この対馬丸には、多くの学生達が乗っており、幼い命が奪われたとして、とても悲惨な出来事であった。対馬丸の遭難によって県の疎開推進にブレーキをかけた形となっていたが、十・十空襲後、希望者が急増して、翌1945年3月上旬までに187隻の船で6万人を送りだした。疎開先は熊本県、大分県、宮崎県、台湾の各地であった。沖縄に残った住民は、北部への避難が督励された。

    県外疎開、県内避難は誰でもできた訳ではない。該当者は老幼婦女子に限られ、満17歳から46歳までの男子は特別の理由のない限りは疎開、避難ができなかったのである。
女子においても学徒隊として動員され組織の中に組み込まれていった。県内避灘といっても軍が進めたのは県民のほんの−部でだけである。後は自主的に避難し戦禍の中を右往左往するといった事が現状である。

    一般住民に多大な死者を出したのも県内避難がうまく遂行されず、戦場に置き去りにされたことが原因の一つといえる。

 県内避難の中で中頭郡を見てみると、そこは一番早く戦後を向かえている地域である。米軍の上陸地点となった中部では、「1945年3月下旬」(沖縄県史9巻)、艦砲射撃が激しくなり住民は北部や南都に避難し始めた。しかし、そこへ米軍が上陸し、壕や墓の中に隠れていた避難途中の住民や中部に残っていた者の多くは、次々と捕虜に捕らわれていったのである。

    住民は日本軍の宣伝などにより米軍は鬼と信じ込み、当然、殺されると思い恐怖感でいっぱいだった。だが、米軍は軍事作戦の障害にならない様に、各地に難民収容所を設置し、戦場から隔離、保護し、住民の宣撫工作に努めた。

    避難民の収容は被害を免れた部落の民家が当てられ、中部一帯は一夜にして難民収容地帯と化し、戦後生活の第一歩を送ったのである。戦後生活が一番早かったため、確かに艦砲や空襲の被害は大きくなかったが、米兵による強姦事件、抵抗したため射殺、食糧難といった被害は多い。

 各収容所は部落全体が一つの収容所として外部との交通も制限されている。また、軍政隊長がおかれ、各部落収容所には約十名の軍政要員が配置され、占額政策の遂行の任にあたっていた。

    所内の「行政機関」として米軍によって民間人捕虜の中から市長、班長、警察署長、巡査が任命され、軍命令を徹底させたり、違反防止の役目を持つと共に社会事業班、労務班、農務班、衛生班の責任者でもあった。社会事業班は軍支給食糧、衣類、諸物品の配給、管理の仕事。労務班は米軍や各班からの労務提供要求に対する人見割当、資材運搬や集荷、公共建築の建設など。農務班は農作業や農機具の収集。衛生班は蚊やハエの発生を防ぐために便所や、溝の清掃などが割り当てられていた。

 住民が隔離されている間に先祖伝来の土地は、軍用地として米軍に確保されてしまい、米軍が必要としない地域を徐々に開放していった。米軍が必要とした軍用地は中部地区に集中している。しかもその大部分は農耕地であり、戦後再建は苦難の道であった。

    戦前の沖縄の基幹産業は農業であり、その中心地帯は中部であった。しかし、それは戦争によって荒廃した上に、引き続く米軍の土地接収によって基地依存の生活を強いられていったのである。

 本部半島北部(今帰仁村)は社会全体が戦場化した経験はなく、沖縄戦が村の有史以来の歴史的事件といってよい。同村は首里、宜野湾、及び伊江村民、計7,700を受け入れ民家並に山に避難小屋を送り収容した。空襲を受け村民は壕生活に入るが、警察の命により村民は山に避難した。

    村の特徴的な出来事は、村民の移動方向と村外からの移入者の進路とがほとんど直角に交差している。村民は東西に移動するが日・米軍そして、いわゆる避難民は南から北へ移動している。しかし、一旦、戦火がおさまると他の移入者は自ずから村民の移動方向に習っている。

    もう一つの特徴的な事は、村の西部では日本軍と米軍の激突や長時間の対立がなかったせいか、スパイ容疑による虐殺や、戦闘による直接犠牲者が少なかった事がある。反対に東部では、日本軍と米軍とのある距離をおいた対立によって両軍は、それぞれの民衆を自陣に引き入れようとしたための悲劇が多かった様に思われる。

 本部半島南部は本島中南部および伊江島からの疎開民の収容地であった。県の疎開計画によって進められたものだが、食糧の補給もないままにこの山地に数万の避難地がひしめき合う結果となった。地元住民も伊豆味を中心とした古我地から伊野波にいたる山峡に避難命令がでて、不自由な生活に追いやられた。

    名護・屋部海岸に上陸を開始した海兵隊は、ほとんど抵抗を受けることなく北上して羽地一帯を占領。本部半島はその付け根のところで分断されて孤立状態に陥いったのである。

 沖縄本島の北部山岳地帯(国頭村、大宜味村、羽地村、東村、久志村など)は、沖縄戦の直前から戦中にかけての約四ケ月、県民の重要な避難地となった。平時でも食糧の確保には苦難をしいられている北部各村では、これら大量の疎開民を受け入れるにあたり、食料の確保が最大の課題であった。各部落では、ほとんどすべての家庭で自宅の一部をさいて疎開民を受け入れ、谷間ごとに「避難小屋」の建設にとりかかった。

    また、乏しい食糧も疎開民に提供する事が強制された。米軍上陸直前まで、北部の避難民の大部分は名護、羽地の地域にとどまっていた。名護、羽地、屋部、本部半島の地元民や避難民は米軍の攻撃をさけるべく山中に入り、なかには山を越えて大宜味、国頭、久志、東の山中に避難した。米や芋はすべて食べつくし、山中の動植物など、口にいれることのできる物はすべて口にした。しかし、避難民の大部分は山中で飢え死に、栄養失調で倒れていった。

    住民にとって不幸な事は、これだけではない。日本軍の敗残兵の横暴であった。住民の避難地に出没して食糧の提供を強制し、スパイ容疑で住民を拷問し虐殺したり等がある。

    また、マラリアやその他の病気で死んでいったものも多数いる。ともあれ、北部地域の住民の犠牲者は、戦中より敗戦直後に多かったのである。
 南部に避難した住民は一番、戦闘が長引いた地域である。戦闘といっても逃げに逃げ延びて追い詰められていったのである。そこでは集団自決に追いやられたり、虐殺もとても多かったのである。

 県民の避難経路をこのように見てみると、米軍が上陸した中部から南北に分断され、これによって各人に生死の境が少なからず影響しているのではないだろうか。しかし、各地域には必ず被害は存在する。

    皇民化のもと、「お国のため」に働いてきた住民は米軍、友軍にまで被害を受けている。日本の侵略戦争がいかに美化されても、それは殺人集団との衝突であって、結局はその狭間にいる住民は利用され、排除され人権というものは保障されないのである。戦争は常に住民の犠牲を伴い国家や軍隊によって、人間否定されることと言えよう。

    私達はこの事を常に胸に秘め、過去にあったこの悲惨な戦争を忘れてはならない。そして、戦争体験者が少なくなってきたこの世代に、どのように語り継ぐかが課題となるだろう。

    現状としてこの沖縄には米軍の基地が存在する。戦後はまだ来ていないのである。過去の事でもない、今こうして残っている問題をどう考えるかは沖縄県民として必要な事である。私達も歴史の中にいるという事を認識し、現状に残っている間選を解決していく努力は大切な事であり、それをなくして沖縄の平和は訪れないだろう。

沖縄戦の住民被害−平和学習について
                   経済学科3年 I・S(女子)

 私は、この講義で平和学習ということで沖縄戦について勉強しました。そこで、私が学びたいこととして沖縄戦の住民が受けた被害について、そしてどのくらいの犠牲者が出たのかということについて、前期を通して調べていきました。調べてわかったことをまとめたいと思います。

 まず沖縄戦という戦争が住民を巻き込んだ激しい戦争だったということです。なぜ住民が巻き込まれたかというと、沖縄戦の裏には日本国家の企みがあったからです。それは国家が国、天皇を守る『国体護持』のため、米軍が本土上陸を遅らせるために、沖縄は本土の防波堤とされ「捨て石」とし、持久戦を望んだからでした。そのために、日本軍人だけでは戦力不足ということで沖縄住民全体で戦い日本を守ろうとし、多くの住民を戦争に巻き込んでいきました。

 私は、まず始めに被害を受けたのは児童・生徒の学生たちだと思います。
当時の日本という国が国家主義、軍国主義であり富国強兵ということで日本を強くするという目的がありました。強くするためには、国民全体で国を守らないといけないということで国家は教育に目をつけました。子どものころから教育で国を愛する国民をつくり、国を守る人間を作ろうとしたのです。そして国家は天皇を「万系一世」として天皇を利用し、「教育勅語」をつくり教育で天皇を守ることは国を守ることとし、国、天皇を守ることは人間にとって人生最大の美徳として、子ども達に国家主義的思想、軍国主義思想を植付けいきました。学校教育では、国家のいうがままの教育をし、国を守る人間、いわゆる臣民(家来)をつくるため、真理を歪ませた国定教科書を使い勅語を暗記させ、暗記主義の教育をしていきました。そして、体育の時間もなぎなたなどであり、音楽の時間は軍歌を歌うなど学校全体が臣民づくりの教育になりました。そのため、どのような子どもが育ったのかというと、真理が判断できない、批判できない人間、上からの押し付けの教育だったため、考える力のない言われるがままの人間になってしまったのです。国を守ることが美徳として教えられた児童、生徒達は、戦争がおきると国の言うとおりに従い、学徒隊として戦場にかき出されました。

    国家は沖縄戦の学徒動員から見て臣民をつくることに成功したといえると思います。つまり、国民は国の道具としてつくられたのです。そのように私は、戦争が始まる前から精神的にも思想的にも、住民は被害を受けていたと思います。国家が教育の力をかり、臣民をつくるという日本の教育のあり方が沖縄戦の被害を大きくしたともいえると思います。と同時に人間は洗脳されやすい生き物なのだと思いました。

 そして、日本軍は住民もいっしょに戦うように(持久戦のため)、住民に鬼畜米兵ということを教え、米軍につかまると殺されるとし、また捕虜となるのは人間として恥じであると教え込みました。沖縄戦は、日本が沖縄住民を思想的にも支配して、そこから住民の被害が大きくしたともいえると思います。

 そして戦争が起きると、13〜17歳くらいの生徒達は学徒隊として戦場にかり出され、40歳くらいまでの住民も兵隊(防衛隊)としてかりだされていきました。沖縄戦は大人から子どもまで戦争にかり出されたのです。学徒隊、兵隊とされた住民は国のためにということで米軍と戦いました。

 その他の住民は避難して無事だったかというとそうではなかったのです。普通だったら避難したら安全のはずですが、そうではなかったのです。沖縄は本土にはない方言(ウチナーぐち)を日常生活で使っていました。そのことが、日本兵には米軍のスパイとみなされ、方言を使うと虐殺されました。そして、スパイ視からくる拷問・虐殺だけではなく、住民の被害は、日本軍たちの陣地確保のための壕追い出し、食糧確保のための食料強奪もありました。そして一番ひどいのは「集団自決」です。それは、思想的に植え付けた「鬼畜米英」によっての自決が多く、そこから家族同士、仲間同士の殺し合いがはじまり、人間が人間ではなくなり最悪な事態を生んでしまったのです。手榴弾などで死のうとして不発弾だったために、死ねないことに不安をもつ住民もいたそうです。これらのことから住民の被害は増していきました。沖縄戦は、軍隊が住民を守るための軍隊ではなく、日本を守る、軍隊を守る軍隊だったということがよくわかりました。

 沖縄住民は日本軍だけでなく、米軍からも被害を受けていました。米軍は、沖縄住民,日本軍関係なく艦砲から機銃掃射、火炎放射などを使い無差別に攻撃したのです。そして日本兵と同じく、住民を大量に虐殺していったのです。

 これらのことから、沖縄戦は15万人(当時の沖縄にとどまっていた住民のうち4〜5人に1人)を超えてしまうような多くの住民の犠牲者をだし、命の尊重や人間としての尊厳さえもなく、人間が人間でなくなるほど激しい戦いだったということがよくわかりました。私は、このような多くの犠牲を生んでしまったことは、日本の国のあり方に問題があったと思いました。

   私は、このように人間が人間でなくなり、住民を巻き込んで激しい戦いとなり、多くの犠牲者を出してしまった沖縄戦を自分達でテーマを設定し、調べ、聞いて、見て学んできました。そして戦争の恐ろしさを痛感することができました。悲惨な戦場となった沖縄に住んでいる私達こそ沖縄戦を学び、ありのままに語り継いでいくべきだと思います。そのためには、伝えていく人たちはただ恐ろしいのではなく、しっかりした知識も必要です。そして生徒達に戦争の実態を語るだけでは、「戦争で死んだ人はかわいそう。気の毒だ。」ということでとどまってしまいそうです。そうならないためにも、戦争を体で体験した証言者の話を聞き、野外学習などで実際に戦いのあった場に足を踏み入れてみたり、体で感じるべきであると思います。そして見て、聞いて、感じたことを自分たちで、劇等を使って言葉や体で表現することもよいと思います。

   私もそうなのだけど、本物に触れる方が一番いいと思うし、生徒達の感性に訴えることができ過去の悲惨な出来事を語り継いでいくと思います。過去を学び、伝える、そして現在を見つめさせ、自分の周りは平和なのか、平和とは何かなどを考えさせたいと思います。

   確かに沖縄戦は過去の出来事ではあるけれど、その影響として米軍基地が置かれていることなど現在の私達の身近な問題として残っていることを気づかせたいです。

 今回は沖縄戦から平和学習をどう行うか見てきましたが、平和学習は沖縄戦だけからではなく、今自分の身の回りからの問題を解決していき平和について考えていくこともできると思います。現在、日本は有事法の問題を抱えています。これからは、平和学習の時間というのがもっと大切になっていかなくてはならないと思いました。

学童たちの県外疎開
             法律学科 3年 T・H(男子)

 昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリス両国に対して宣戦布告をし日本のハワイの真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった。日本は戦争区域を次第に拡大し、太平洋全地域の要所に散存する敵の拠点を次々と攻略した。

 ところが、長期にわたり支那大陸において中国と戦争を続けてきたので、人的・物的共にその大半を消耗した。このような戦局の悪化する中で、アメリカ・イギリス両国と開戦するに至った。その際、日本が祖国防衛のためにアメリカ軍と最後の決戦の地としたのが沖縄である。

   沖縄における地上戦は太平洋戦争末期、日本の戦力の隔絶する中で多数の県民を巻き込んで戦われた凄惨な戦闘であった。そんな沖縄戦の中から本講義の報告書として、班の課題として取り上げた「学童の県外疎開」についてまとめたいと思う。

 沖縄から本土への学童の集団疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議において決定した。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人計10万人を7月中に引き揚げせよ」であった。(当時の県民数約60万人)政府が、集団疎開を打ち出した理由としては、これから戦場となる沖縄において戦争のじゃまになる老人・女性・学童らを他府県へ疎開させ、その分の兵隊の食料を確保し戦闘に備えるというところからであった。

 疎開業務は警察部が所管となり進められた。その中で学童疎開は文部省の指示を受け県教学課が計画を推進した。疎開業務は各国民学校単位で行われ、県の当初の計画では疎開学童は国民学校初等科3年から6年までの男子が原則であったが、実際には1,2年生女子や高等科の学生もいた。疎開学童を集める際、内政部長から出された「学童疎開準備に関する件」、「疎開児童に関する調書」の文書を各学童に1枚ずつ配り親同意でもって疎開する生徒を各国民学校単位で人数を集めると言う形であった。

   ところが、疎開業務は容易には進むものではなかった。その理由としては、アメリカ軍の潜水艦が沖縄近海で日本の艦船を沈め多くの犠牲者が出ておりそのことを県民が知っており、たくさんの親が疎開に対して反対していたからである。県外への疎開、しかも危険な航海。幼い子どもを手放すことの親心としての忍びなさ、たとえ無事にたどり着いたとしてもその後の生活の不安など親にとってはとても辛い胸中だったと思う。校長先生らは毎日のように説得に懸命になり一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な教師と言われる程疎開学童を集めることは大変なことであった。(対馬丸のビデオからもうかかえる)

 ところで、親たちは「家族会議」や「親族会議」を行う中で、「玉砕から子どもを守るためには、肉親の情を断ち切ってでも疎開をさせたほうがいいのではないか」、「玉砕すれば沖縄県民は滅びてしまうんだ」、「玉砕から子どもたちを守るんだ」というような声が各所で巻き起こり多くの親たちは疎開に対してようやく踏み切るに至ったのである。(「私の戦争体験記」より)

   一度も沖縄から出たことのない学童達にとってはまるで修学旅行のようで、これからこの沖縄で何が起きるとも知らず、また「疎開」というものが何を意味し自分たちがどんな状況にあるのかも知らぬままに疎開は行われた。

<南九州・台湾への県外疎開>

 親達の理解を得たのち、県内67の国民学校総勢約7000人が疎開することになりすぐさま疎開業務が開始された。疎開先としては沖縄本島と宮古島の学童達5586人は南九州に宮崎・大分・熊本の3県であった。内訳は宮崎県に2643人、熊本県に2602人、大分県に141人である。また、石垣島の学童1200人は隣の台湾へ疎開させられた。

   ここで一つ疑問がある。それは、南九州の3県の中に「なぜ、一番近い鹿児島県が入っていないのか」である。私自身この報告書を書くまでは気づくことがなかった。本来であれば、真っ先に気づくべきだったものだと思う。でも気づかなかったところに僕の追求の甘さがあったと思った。このことは最も大切な事だと思う。それに対する回答だが、それは鹿児島県には沖縄戦に備え日本軍の航空基地がたくさん設置されていたからである。そのため、鹿児島県には多くの航空兵が他府県から移動してきて、それだけでたくさんの人数になり食料や生活施設の面から疎開者を受け入れるだけの余裕がなく、また受け入れるには非常に危険であったからである。(A先生の講義より)このことで、鹿児島県がなぜ疎開地に入っていなかった事が分かった。

 次にもう一つ疑問があった。それは石垣島の学童達が「なぜ、南九州ではなく台湾に疎開させられたのか?」ということであった。僕は、発表のなかで「石垣島から船で沖縄本島まで行くのは危険であるからそれよりは近くて安全な台湾へ疎開した。」と理由を述べたと思う。それもあるが、もう一つ歴史的関連から大切な理由があった。それは、石垣島と台湾は昔から商業貿易をしていたためお互いによく行き来していた。そのようなことから、台湾政府も日本の疎開計画に協力して石垣島の学童達を受け入れたのである。(同上)たまたまではあるが、A先生の講義の中で疎開地における二つの大切なことを知ることができた。

 学童達の疎開は、1944年8月16日の第一陣をかわきりに始まった。疎開地までの移動法としては日本軍の軍艦や貨物船等が使われた。疎開には学童だけでなく、一般の疎開者も多くいたため、港は毎日のように疎開者で混雑状態であった。学童を見送る際「着いたらすぐに手紙を書くんだよ」「体には気をつけるんだよ」「戦争がすんだらすぐに帰って来るんだよ」と涙を流しながら叫ぶ親もいた。再び会えるかどうかも分からない別れではあるが、学童達の顔には寂しそうな影はなく父や母に喜々としてわかれを告げたという。親たちは涙を流しながら手を振り、海上の平安を祈ったのである。このような背景の下に学童達の県外疎開は1945年の3月まで行われた。

<疎開先での生活>

 学童達の疎開先での生活は毎日が苦しいものだった。学童達は学校や旅館、お寺や青年学校などにおいて寝泊まりをする生活だった。食べる物と言えば、戦争中であるから栄養のある食べ物もほとんどなく、また一日に食べる量も少なく学童達は毎日お腹をすかせ、時には栄養失調で死んでいく学童もいた。あまりの空腹さに、学童達はよその人の畑から食べ物を盗んだりして、疎開先の人達から「疎開者のくせに」などと怒られたり、罵られたり、また疎開地の学童達からいじめられたりなどの苦しくて、惨い生活だった。まだ幼い学童達にとっては、精神的にも肉体的にも追いつめられ、特に親のいない寂しさと言うのは本当に辛いことだったと言える。

 次に、疎開地での学校教育についてだが、それは沖縄で行われていた軍事教育が疎開地の学校においても行われていた。毎日決まった時間にみんなで天皇のいる方向に向かって手をあわせたり、兵隊になるための教育など学童達は毎日御国のためというような厳しい教育を受けていた。

   以上のように、学童たちは安全な所へ疎開をしたとはいえ生活における状況は沖縄で親と共に生活していた時よりも辛く、学童達の二度とない青春時代を奪う2年余りの生活だったと私は思う。

<対馬丸の悲劇>

 学童疎開における最も悲惨な出来事と言えば、何と言っても対馬丸の遭難である。1944年8月22日午後10時15分北緯29度30分東経129度30分に奄美大島十島村悪石島北緯6、7海里の地点で、潜水艦ボーフィン号(船長・ジョン・H・コーパス1525トン20ノット)の魚雷攻撃を受けて約10分後に海の底に沈んだという学童遭難事故である。

 この事故は、親たちの疎開に対する不安に思っていたことが本当に起きてしまったのである。乗船者1661人(県内26校の学童、引率教師、一般疎開者)中犠牲者が1484人、救助者177人であった。奇跡にも生き残った学童たちは、親の下へと帰されるが、毎日が何かに怯える毎日であった。それは事故のショックのせいもあったが、もう一つ理由の理由がある。それは、親の下へ帰されたときに、「対馬丸のことは決して誰にもしゃべったらいかん。もししゃべったらおまえを殺す」と日本兵に口止めされていたからである。そのため、親の下に帰された学童は毎日のように怯えていた。幼くして、あのような悲劇を目の当たりし、多くの友達を失った学童にとって心に負った傷は大きく、消しても消えぬ青春時代の悲しい出来事だったと思う。

 今回学童の県外疎開をいろいろ調べてみて、今まで分からなかった学童疎開の実態や、疎開における親たちの気持ちを知ることができ、良かったと思う。戦時中学童達があのような苦しみのなかで、必死に生きようとしていた姿を思うと、果たして僕たちがあのような状況で苦しみに耐えて生きていけるかと考えた時、僕自身は耐えられなかったのではと思った。

   現在でも世界中の至る所で戦争や紛争が起きている。人間が人間を殺す。それも幼い罪のない子ども達までが巻き沿いとなって命を落としていく。そんな残酷な争いは誰も望まないし、また起きてはならないものだと僕は思う。これから先、この地球が平和であるためには沖縄戦における多くの人達の死を無駄にせず、またそれを教訓として後世代へ語り継いでいくことが大切なことであり、そしてこれが僕たちの責務だと僕は思う。

「集団自決」の再検討
                                                経済学科 3年 H・Y(女子)

   課題設定の理由
   講義を通して、「集団自決」に興味を持ちました。沖縄戦における「集団自決」は、「言葉本来の意味において集団自決はなかった」ことがわかりました。調べていると、沖縄本島だけでなく太平洋諸島でも「集団自決」があったことを知りました。日本人の引き起こした大きな要因について、もう一度学び直したいと思います。

   「集団自決」とは
   「住民の自由意志によるものではなく、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導に基づく集団の殺しあい」であり、「言葉の本来の意味において集団自決はなかった」ことがわかった。「自決」という言葉は、「自らの意志で死ぬ」ということだ。「集団自決」と言われている言葉の中身は、親が幼子を殺し、子どもが年老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺した。つまり、肉親同士の殺し合いがあったということだ。

   「自決」について
 天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育、軍による「共生共死の一体化」、捕虜を侮辱とする観念、「鬼畜米英」への恐怖、軍の沖縄住民への差別・スパイ視(住民虐殺と表裏一体)、自決手段の供与など自決への強制・誘導・逃げ場のない追い詰められた地理的状況、島(村)共同体の規制力などの諸要因が指摘されてきた。このなかでも、日本軍の存在が大きな要因になっていることが確認されている。

   沖縄戦における「集団自決」
 「集団自決」が行われた地域には、読谷チビチリガマ、渡嘉敷島、座間味島、慶良間島、伊江島、南部海岸付近があげられる。特にチビチリガマの住民犠牲については有名である。沖縄戦のとき波平区民140人余りが避難していた。そのうちの85人が死亡。83人は「」集団自決」死。2人は米軍に殺された。その半分は子どもたちであった。53人は助かった。

   当時は米軍につかまったら、女は強姦され殺される。男は八つ裂きにされる、といわれていた。ここには、軍国教育の影響を大きく受けた元中国従軍兵士と元中国従軍看護婦、村の消防団がいた。子どもたちは自分の意志で「自決」を判断することはできないと見なければならない。また、大人たちにしてもガマのくびれたところで火をつけられたため逃げようとしても逃げられず煙に巻かれてしまった人たちがかなりいると見られる。このようにチビチリガマでの事態は、日本軍の意志を代弁した元軍関係者らの独走によってであった。「ウソを教えなければ、ほんとうのことを教えていてくれたなら、誰も死なずにすんだのに」という生存者の中に騙されていたという痛恨の念がにじんでいる。他の地域を見てみても、日本軍の存在が決定的な役割を果たしていると言えるだろう。同時に、軍に協力していった村幹部や教員の役割も大きいことがわかる。軍官一体の戦争体制が人々を「集団自決」に追いやったと言える。

 「集団自決」が行われなかった地域には、阿嘉島、前島、屋嘉比島、久米島、伊計島・宮城島・平安座島・浜比嘉島、粟国島、伊平屋島・伊是名島があげられる。沖縄本島周辺の島々を見ると、日本軍がいない島では「集団自決」はおこっていないし、ほとんどのところではそういう意志すらもたなかったことがわかる。軍がいない島では島幹部の判断で投降して犠牲を最小限にとどめている場合が多い。そしてその投降しようという判断をする場合、移民帰りが重要な役割を果たしているケースが多い。

   太平洋諸島での「集団自決」
 ここでは、サイパン、テニアン・ロク、パナイ、旧「満州」における「集団自決」について、見てみたい。※住民=日本人

   サイパン
   サイパンには約2万人の日本人がいたがその約半数が犠牲になったと見られる。1944年6月から7月にかけてのサイパン戦の中で、住民虐殺、住民スパイ、投降阻止、自決強要、壕追い出し、食糧の強奪など沖縄戦でおこったことのほとんどすべてがすでに行われていた。そうしたなかで、住民の「自決」がおこなわれた。北端のマッピ岬周辺に追い詰められ、軍民が雑居しているなかで、「捕虜になるな、捕虜になるくらいなら自決せよ」という軍命令が住民に伝えられた。島の端に追い詰められながらも投降することを許されず、軍からは「自決」せよと命ぜられ、「集団自決」を余儀なくされたのである。

   テニアン・ロタ
 米軍はサイパン占領後、隣のテニアンを攻撃、一週間で占領した。ここでも日本軍によってサイパンと同様のことがおこっている。

 ロタでは、いよいよ米軍が上陸してくるということで、「男たちは海岸での決戦を覚悟し、女・子どもは明け方に自決するようにと言われた」。そこで貯金通帳を焼き、子どもたちに新しい着物(死装束)を着せて夜明けを待ったという。ただロタは幸いなことに敗戦まで米軍が上陸せず、自決をせずにすんだ。米軍が上陸すればここでも「集団自決」がおこなわれていたことはまちがいない。

   パナイ
 1945年3月18日約2千の日本軍と約3百の住民は米軍の上陸とともにイロイロの町を脱出、逃避行をはかった。3月23日(沖縄戦が始まった日)に自決がおこなわれた。この自決の方法をみると、足でまといとなる者を日本軍が処分したという性格が強いのではないだろうかと考えられる。また、校長や日本軍との間でなんらかの話があったと考えられる。住民は日本軍がフィリピン人に対しておこなっていた残虐な行為を見解していた。そうした実体験から米軍やゲリラも残虐なことをすると信じていた。日本軍がフィリピン人に対しておこなっていたことが、日本人にはねかえってきたといえる。

   旧「満州」
 麻山事件では、逃避行をしていた先頭集団が「集団自決」をするが、団長は「沖縄の人たちも最期を飾って自決した」と沖縄の例をもちだして「自決」の断を下した。サイパンや沖縄にならえという意識が植え付けられていたと見られる。開拓団は単なる民間人ではなく武装した準軍事組織であり、団幹部が軍の論理の体現者であったことも見ておきたい。

 こうした各地での「集団自決」を見ていくと、サイパン・テニアン−フィリピン−沖縄−「満州」と繋がっていることがわかる。それらは日本軍が敗北していくなかで、日本住民が一緒にいた地域で共通に起こっているのである。日本軍がアジアの民衆におこなった残虐行為が日本人の「集団自決」を引き起こす大きな要因にとなっているのである。またいずれも日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たしており、日本軍による日本人住民虐殺や様々な迫害も同時に起こっている。

   このことを見てもこうしたことが一部の例外の日本軍がおこなったことではなく、日本軍の体質にかかわる問題であることを示している。

 「集団自決」についてのまとめ
   「集団自決」は文字通りの「自決」ではなく日本軍による強制と誘導によるものであることは、「集団自決」が起きなかったところと比較したとき、一層明確になる。そしてその要因の解明には地域の戦争体制、支配構造の分析が不可避である。「集団自決」は太平洋戦争のなかで日本軍の敗北の過程で起きている事象であり、日本軍による侵略戦争のひとつの帰結であった。

   沖縄戦での住民の行動を見ると、「集団自決」をおこなわなかった人々の方が圧倒的に多い。日本軍がいないところでは、住民は自らの判断で投降し助かっている。そこでは移民の経験者やクリスチャンのように「鬼畜米英」などという軍の宣伝を批判的に見る、「皇民」とは異質な資質を身につけた人々が、住民を生還に導くうえで大きな役割を果たした。移民を出している率が全国トップだった沖縄にはそうした人々が多かった。

 天皇のため、国家のために命を捧げよ、という皇民化教育にからめとられなかった人々が実はかなり存在したことを物語っている。そうしたことを見るとき、従来の沖縄戦研究の一面も見えてくる。つまり、軍のために献身することを信じこまされていた「ひめゆり」に代表される学徒隊のようなイメージ、あるいは軍の宣伝を信じ込んで「集団自決」に追いやられた人たちというイメージは、沖縄戦のなかの住民の行動の、重要ではあるが一面でしかない。日本軍の住民虐殺は沖縄戦の最も重要な特徴だが、そこでの住民像はあくまで受け身の存在にとどまっている。それに対し、米軍と交渉し話をつけて投降する人々の姿は住民の主体的な意識と行動を示している。

 こうした住民の意識と行動を明らかにすることによって、もうひとつの沖縄戦像が出てくるであろうし、沖縄戦がより豊かなイメージでとらえられるであろう。
※参考文献…省略

沖縄戦における住民被害の実態と日本軍と住民の関係
                                          経済学科3年H・K(男子)

 今から50数年前に私たちの生まれた地であるこの沖縄で繰り広げられた沖縄戦について、どのようにとらえ、何を学び、感じ取るのか、それは人によってさまざまだと思うが、実際に戦争を体験することのない比較的平和な時代に生まれてきた私たちは、沖縄戦が現在に残す遺物を通して、戦争の事実と向き合い、平和の意義について考えていかなければいけません。私自身今回沖縄戦を考えるにあたって、なぜ20万人以上の戦死者の中に15万人を超える住民の犠牲者を出してしまったのかという疑問にぶつかり、住民犠牲の実態をとらえることを課題にして、沖縄戦を再認識しようと考えました。

 「沖縄戦における住民犠牲の態様は、大きく分けて、3つに大分類できる。」(「沖縄日本軍最後の決戦」)(資料1参照)その中で米軍の圧倒的な攻撃力の下に住民がさらされ、なすすべなく犠牲となった様子がうかがえるが、それ以上に日本軍のために殺された人の態様の多さに驚かされます。敵に向けられるべき日本軍の武力が、味方であるはずの住民に向けられるという信じがたい出来事が実際に行われていた。では、このような悪態が行われたその背景をおってみたい。

 沖縄に配備された日本軍、沖縄守備軍・第32軍(資料2参照)は、1944年3月に創設され、創設以後来る地上戦に備えるため、各地から部隊が配備され、「軍官民共生共死」の一体化(「沖縄日本軍最後の決戦」)という方針の下、県民総動員体制で急ピッチに陣営を整えていくことになります。ここで、「軍官民共生共死」の一体化について考えてみたい。

   当時の沖縄県民にとってこの方針は、県民の日常生活を圧迫し、戸惑いを与えてしまうことになるが、沖縄守備にやってきた友軍という存在は、県民に対し戦争に向けての安心感を与えたのではないだろうか。しかし、第32軍の任務は沖縄を本土決戦にそなえた、「時間かせぎの持久戦の場」(「沖縄戦のはなし」)にするということで、少なくとも沖縄、そして沖縄県民を守るということではなかった。このことから、第32軍は、「軍官民共生共死」の一体化という方針で県民感情をコントロールし、それを盾にみずからの与えられた任務を進めやすくし、沖縄県民を本土防衛のための道具としてとらえられていたと考えられる。つまり、「軍官民共生共死」の一体化という方針を立てたにもかかわらず住民一人一人の命は軽視され、のちに日本兵による食糧強奪、自決の強要、壕追い出し、スパイ容疑での殺害などの残虐な行為は行われてしまったのです。このように「天皇の軍隊のために、住民が死に追いやられたことが、住民被害の特質だと考えられています。」(「沖縄戦のはなし」)

 いま当たり前にある平和な日々を過ごす私たちこそ戦争の恐ろしさ、悲惨さ、無意味さを真に感じ取らなければならない。沖縄戦がいつまでも後世への平和の道標となっていくようになってほしい。そのためにも正しい事実の伝達と、平和学習の多様性は、必要最低条件となるのではないだろうか。

 日本兵による食糧強奪−戦況が悪化する以前の住民と日本軍の関係と食糧事情
1944年3月、沖縄守備軍・第32軍が創設。以後各地から部隊が沖縄へ移駐県民総動員体制で急ピッチに守備軍の陣営を整えていった。そのような状況の下で、「軍官民共生共死」の一体化という方針がとられ軍民雑居の形が必然ととられていった。

 軍隊との接触がとぼしかった県民にとって、このような大部隊の配備と軍民雑居といった状況は、日常生活に戸惑いを与え、日常生活を圧迫することとなったが、多くの住民は、沖縄守備にやってきた友軍を歓迎し、食糧を供出するなどして、日本軍に協力した。
1945年2月、沖縄県庁の行政が戦時行政にきりかえられた。

 2月7日には、日本軍の参謀長が県庁を訪れ、以下の2点のことを緊急に実施するように要請した
・県民食糧の確保
・中南部老幼婦女子の国頭疎開計画

 県庁も、これに応じ平常事務を停止し、戦争遂行事務として軍から出された2つの要請を徹底的に強化していくことをきめた。当時、県内にあった食糧米は3カ月を支えるので精一杯であるのに対して、日本軍は6カ月分の食糧を確保していた。それにもかかわらず、軍の食糧は民間には分けられないとあらかじめクギをさしていた。このような状況の中で、沖縄は米軍上陸による地上戦へと向かっていくこととなる。

   避難生活の中不足する食糧と日本兵による食糧強奪
   1945年3月26日、米軍、慶良間諸島上陸、4月1日、沖縄本島に上陸。沖縄の地上戦がはじまる。米軍は、その圧倒的な実力で戦局を優位に進め、沖縄本島を占領していく。米軍の激しい攻勢により住民は、着の身着のまま山中や壕への避難を余儀なくされる。避難に追われる中、蓄えていたわずかな食糧はあっという間になくなり、住民は、激しい食糧難とも戦っていかなければならなくなっていく。 野草や、虫も貴重な食糧になる。口にできるものはすべて口にする。

   米軍の激しい攻撃の中、必死の食糧調達
   昼間明るいときは、山中や壕の中で過ごし、米軍の攻撃がゆるくなる夕方を見計らって食糧を探し、炊事をする。住民は、避難に追われ疲労こんばいにある中で、追い打ちをかけるように食糧不足にもみまわれ、栄養矢調を起こしてしまうといった極限状態においこまれる。

   そのような中でも住民は懸命に生きようとするが、やはり体力的に弱い老人や幼児が戦況の悪化につれて食糧難はさらに激化していく。同じように日本兵も食糧難に追いやられていく。

 米軍の圧倒的な攻撃により陣地を追い出されることとなり、そこに蓄えていた食糧を持ち出せずに各地へ撤退していた。撤退する日本兵と、戦火を逃れ避難する住民は壕やガマ(自然壕)などで一緒になってしまう。そこで、日本兵の住民に対する食糧強奪が行われることとなる。せまい壕やガマで、弱肉強食の情景が繰り広げられる。

   日本兵は持久戦に持ち込むため、食糧が必要と主張。武器を使って住民を脅し、食糧の提供を強要。中には壕を追い出し、さらに食糧までも奪うといったケースも。逆らうものは、皇軍に非協力、あるいはスパイであるとして殺害。

   住民は生きていくために、食糧はどうしても必要。極限状態にあるなかで、軍のためなど考えられるはずがない。しかし、武器を持った日本兵には逆らえず、なけなしの食糧を提供することになる。

   明らかに敗色濃厚だったにもかかわらず、持久戦に持ち込むという風に考えていた日本兵はいたのだろうか。自分たちが食いつないでいくために、その武力を守るべきはずの住民にむけるといった愚行が行われてしまったのである。本来住民を守るべきはずの兵隊が、自分たちが生き延びるために住民から食糧強奪を行った。軍官民共生共死の一体化とは、住民より兵隊の命を重んじる方針だったのか?「軍民雑居」という状況が、住民の犠牲を広げてしまう要因となってしまった。

住民の被害と協力態勢について
                                                  経済学科3年 K・T(女子)

   住民の被害と協力態勢はどうだったのだろうか。という課題について詳しく調べてみることにした。
   沖縄戦は住民の被害が多いと言われている。その被害が多くなったのには、何らかの理由があると考えられる。なぜそのような悲劇が長い間続いたのだろうか。沖縄という場が、地上戦となり、沖縄の住民が避難生活についての私なりにまとめてみることにした。

 沖縄戦は、「勝ち目のない戦であり、本土防衛・国体〈天皇制〉護持のための時間稼ぎの捨石作戦であった。」〈注1〉それにもかかわらず、根こそぎ動員・防衛隊・学徒隊・御真影防衛隊・県外疎開(強制退去)・「集団自決(集団死)」・一般住民が戦争犠牲・食料強奪・壕追い出し・スパイ容疑・無差別攻撃によりたくさんの犠牲によって尊い命が落とされることになった。

 「沖縄戦の意義として、アメリカ軍は、日本本土攻略の第一着手として、沖縄攻略を策定し、第二段階として南九州上陸、最後に関東平野上陸を考えていました。アメリカは沖縄戦の単なる勝利ではなく、占領後の沖縄を西太平洋で最大の軍事基地にするという極東戦略をかためつつありました。沖縄は東アジアにおける冷戦構想の中枢に位置づけられたのです。大本営は、1945年(昭20)1月「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定しました。その中で、「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を作戦の目的としました。第32軍の任務は、沖縄を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によってアメリカ軍を沖縄にくぎづけにし、防波堤となることでした。これによって本土決戦を準備し、沖縄は「捨て石作戦」といっています。」〈注2〉

 この中で、住民による集団自決(集団死)はとても残酷であると考える。それは、自ら死を選択したのではなく「天皇の軍隊の強制と誘導」〈注3〉によって、死を強制させられたことである。アメリカ軍による死の強制でもなく、肉親同士の死の強制は考えられない事態である。また、「『親が子を殺し、子が年老いた親を殺し、夫が妻を殺し、兄や弟や妹が殺す』といった親族同士の殺しあいは、あちらこちらで起きたものではありません。天皇の軍隊とそれにつらなる地域の指導者と住民が混在していた極限状態の戦場で起きているのです。天皇の軍隊が展開していない地域では、アメリカ軍の攻撃があっても、このような事件は起きていません。」〈注4〉という、日本兵による住民への死の強制はいかなる場でも存在してはならないし、死を強制することはあり得ないと私は疑問を抱く。そのときの日本が、天皇主権という軍国主義から成り立つ国だったとして見える。そして、国体護持としての軍による任務が沖縄という離島では、少し薄れかけた部分を大きく見下したものと私は考える。こういう死の強制は、集団自決ではなく「集団死」〈注5〉として伝えることがよいと感じる。

 避難生活において、戦場の模様があった。「避難途中、戦場の中でもさまざまな人間模様があった。那覇市内の主がいない店から品物を壕内に持ち込んできて避難民相手に注文を取って歩く人、芋畑を坪あたりいくらという値段で避難民に売る地主などもいた。また、戦場の異常な緊張状態が続く中で、「いくさ(戦)花遊び」と称して砲弾の止んだひととき、踊ったり・笑い興じたりした人たちもいた。〈注6〉普通なら考えきれない異常な行動・行為があったと知ったが私には考えきれないのである。それは、ほんとうの事かもしれないが、非体験者としては本当に驚かせる人間模様である。人間が人間じやなくなる事が、沖縄戦だけではなく、戦場では考えきれるだろう。

 日本軍だけではなく、アメリカ軍による攻撃は耐えなかった。無差別攻撃は、陸・海・空と艦砲射撃を初め、戦車による射撃、銃による殺害と武器による攻撃を繰り返している。そんな「鉄の暴風」〈注7〉と言われる攻撃の中は、沖縄住民は必死で逃げ切った人もいれば、この攻撃によって命を奪われた人たちの被害は大きいのである。

 住民間における協力態勢には、2つのパターンがあったとして考える。一つ目に、軍(日本)に対しての協力が挙げられる。

 中等学校や女学校の生徒、青年団の男女も戦場に動員され、鉄血勤皇隊・ごきょう隊・義勇隊・特志看護隊・救護隊・学徒隊等が挙げられる。そして、住民は動員されて、飛行場建設や壕作りや避難所作りに参加したなどである。

 もう一つは、避難生活の中での沖縄住民による避難生活においての協力が挙げられる。そこでは、食糧不足が困難であるにもかかわらず、戦場をさまよいながら、やっとの思いで食糧を探した。その中には、貴重な食糧を分け与えない人も多かったが、分け与えてもらえたなどという例などがある。

 このように、沖縄戦の被害と協力態勢からいえることは、兵隊による攻撃は日本とアメリカの両国によるものである。その中には例外もあるが、私が調べた戦場は、日本軍とアメリカによる沖縄住民に対する攻撃があったことは事実であるとはいえ、日本軍が守るべきだったものは、沖縄住民ではなく、日本本土(天皇)国体が主であったと考える。住民においての集団自決(集団死)は人間の想像を超えた異常な行為であり、それを強制した日本兵への見方が偏見を創りだした。

   協力態勢においては、動員による被害の中必死でそれに参加する沖縄の住民が一時期だけでも日本のためにと強制され、指導されたことはこの沖縄戦から学べる無惨な過去であると考える。あってはならない、戦争の過去を振り返ることで今までにない感情や思いができたことには自分自身へ沖縄戦のあり方を考えさせられた。

 沖縄戦について問題を取り上げてみて私が気づいたことは、調べれば調べるほど、新たな疑問ができ、解決が遠ざかるという不安でいっぱいだった。

   情報収集にしても、一つの資料の判断では、問題解決することは難しかった。資料として利用したのが、「南風原の文化センター」である。そこには、遺留品が大事に保管され、展示されている。その当時の食器・医療器具・衣服・銃弾の破片・野戦病院内の模型がある。そこを訪れる人の目をひきつけるほど、沖縄戦の一部のリアルさを感じ知ることができた。その中でも、野戦病院を再現した模型は、今までにない驚きと恐怖と違和を感じた。たった一部の資料が見る者の感情を動かし、実物のように想像ができるくらいであった。私から覗く、考える「沖縄戦」は、本や資料だけでは納めきれないほどのモノとして残っていると考える。

   この沖縄戦を歴史の一部として知るだけではなく、その沖縄戦を体験した人たちによる感情や想い・憎さや悲しみをほんの少しでも心に留めることができれば、今後の世代へと「沖縄戦」の在り方を捉えさせることができるのではないか。そのためには、今以上にもっと沖縄戦に関する資料やイベントに参加してもっと調べ、知らなければいけないと考える。

 沖縄戦を振り返ってみて私の課題は「非体験者だからこそ、知れない部分をそのままにして置くのではなく、調べ、少し前の過去の歴史を大切に保管し、伝えること」が私たち世代にとってできることである。そのためにも、沖縄戦と平和教育の結びつきについても考えていきたい。
参考文献・引用文献…省略

住民がガマ内に避難している際の問題点として、どのようなことがあったのか
                                                  経済学科 3年 I・H(女子)

 私にとって、授業の一環として行った「轟壕」での、ガマの中の追体験がとても衝撃的なものとして残っています。今、その時の事を思い出しても、得体の知れない恐怖感でいっぱいになります。そこで、私たち3班の下位課題の一つである「沖縄戦でのガマ(壕)での生活はどうだったのか」をもとに、「住民がガマ内に避難している際の問題点として、どのようなことがあったのか。」という課題を新たに設定しました。

   ガマは沖縄戦を学ぶうえで、住民が避難する場所として、必ずといっていいほど登場してきます。では、戦争から住民たちの身を守る場所としてのガマ内で、どのような問題が起こっていたといえるのでしょうか。この点について、いろいろ述べてみたいと思います。

 まず、住民がガマへ避難している時の一番の問題点として、日本兵の存在があげられます。なぜなら、日本兵によって、ガマ内では「ガマ追い出し、住民スパイ容疑、幼児の虐殺(斬殺・絞殺・毒殺等)、住民銃殺、米軍攻撃のつい立て、食料強奪、封じ込め、住民投降妨害等」(インターネット資料『沖縄戦とガマ(壕)』)が無数に行われていたとされるからです。(資料1〜4参照)

   これらは、弱い立場に置かれている住民を、兵隊という権力を振りかざして脅す卑怯な方法だったと思います。私は、日本兵が住民に行う、以上のようなガマ内での行為から、日本兵の利己主義的な考えがうかがえました。そして、この考えの根底には、日本兵の「自分だけが助かればいい。」「自分だけがよければいい」という気持ちがあったのだと思います。また、これは裏を返せば、死ぬことが恐いということの現れでもあるのではないかと感じました。「天皇のためなら死ねる」といった日本兵がこのような行動をとるのは矛盾していると思います。やはり、自分自身がかわいかったから、住民を犠牲にしてまでも自分を守りたかったのではないかと感じました。

 私には、ガマ内でも、日本兵がいることによって日本兵と住民との「小さな戦争」が起こっているように思えて仕方がありませんでした。住民を人とも思わず、虫けら同然のように扱っていたということが、信じられません。

   戦争も恐ろしいのですが、その中で人を人とも思わない理性を失った人間というのも恐ろしい存在であると感じました。人間の尊い命を、とても軽視しているからです。そのような日本兵たちと同じガマの中で、肩を寄せ合って避難している住民はよほど恐ろしかったことと思います。ガマの中の暗さと、日本兵が一緒にいることの恐怖で息が詰まりそうだったに違いありません。このようにして、まさにガマ内では、弱肉強食の世界が繰り広げられていたといえるのではないでしょうか。

 次の問題点として、「集団自決」をあげたいと思います。チビチリガマに代表されるような、「集団自決」の起こったガマでは、軍や指導者に逆らえない一般の女性の大人や老人たち、そして自分で意志決定のできない子どもなどが「集団自決」を主導した軍や指導者たちによって自決においやられ、巻き込まれることが多かったといいます。(資料5参照)

   「死にたくないけど、死なねばならない。」そんな葛藤にかられながら死んでいった人たちのことを思うと、非常に残念で仕方ありません。私は、自分の死の決定権を、人の手にゆだねることは絶対あってはならないことだと思います。しかし、沖縄戦の状況下では、こうした決定権も許されていない程、人々が追いつめられていたということが伝わってきました。その人たちは、「集団自決」したというよりも「集団強制死」(下嶋『沖縄・チビチリガマの“集団自決”』1992年p.42)に追いやられたという表現の仕方がより正確なように思えます。

   一方、シムクガマでは、チビチリガマとは対象的に、ガマ内のリーダー的存在だった人が、ハワイ移民帰りだったために、米軍と交渉できたおかげで、全員助かることができたとされています。(資料6−A参照)「集団自決」の道を選ぶか否かは、ガマ内のリーダー的役割を担っていた人の考えにも左右されるのではないかと感じました。

 次に、衛生面と食料面についての問題点を述べたいと思います。私の祖母の証言によると、戦争もひどくなってくるとガマ内に人の死体が放置されたりして、その臭いと避難民の排出物の臭いが混じって鼻が曲がりそうな、すごい悪臭がしていたそうです。それに、シラミが多く発生していて、振り払っても、振り払ってもきりがない位でてきたと言っていました。また、他の証言では「食料も底をついていたため、三日三晩小便を飲んで暮らしていた」(資料(4)証言が語る沖縄戦)との記録がありました。今の私たちの生活からは、想像を絶するような事ばかりです。不衛生なガマ内の生活の中で、そこからくる病気と飢えで苦しんだ人のことを思うと、胸が痛くてたまりません。(資料6−B 参照)

   食べるのが大好きで、一日でも風呂に入らないと、気が済まない私が、沖縄戦当時のガマの中へタイムスリップしていくとなると、きっと気が狂ってしまうに違いありません。沖縄戦を体験した祖母が「あんたたちは今の世の中を生きていることに感謝しなさいよ。」とよく言います。今まで、その意味がよく分からなかったのですが、祖母のガマ内での証言を聞いて、祖母の言葉が身にしみたと同時に、現在の生活がとてもありがたく感じました。

 最後の問題点として、外からの米軍による攻撃について述べたいと思います。米軍は、ガマ内の住民に最初は投降を呼びかけるそうですが、それに応じない住民には、容赦ない攻撃を続けたといいます。「馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射器による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つ」(インターネット資料『沖縄戦とガマ(壕)』)などの行為が行われたそうです。(資料7参照)

   これらから、住民はガマの中に避難しているからといって、決して安全なわけではなく、外からの攻撃にもおびえながら身をひそめていたということが想定できます。また、捕虜となって出ていきたくても、同じガマの中に日本兵がいたら、捕虜として出ていくことを止められたり、また出ていかなかったら外のアメリカ軍からの攻撃を受けたりと、住民は両者の間に挟まれて「生きるか死ぬか」の究極の選択をしなければならない辛い状況下に置かれていたということが言えます。

 ガマ内で避難する住民の問題点をあげるとすると、きりがないと思うのですが、私は以上のように、問題点を「日本兵の存在・集団自決・衛生面と食料・外からの米軍による攻撃」の四つの視点から見てみました。私は、大学生になるまで、沖縄戦についての学習をしてきたつもりですが、ガマ内に入っての「追体験」をするのは、この教職総合演習の授業でやったのが初めてでした。「追体験」をしたことによって、沖縄戦当時の住民のガマ内での様子を、身を持って体験することができ、沖縄戦の悲劇をより深く感じることができました。

   しかし、県内に住んでいながらも、ガマに入って「追体験」をしたことのある学生はあまりいないと思います。そして、年月を重ねていくにつれて、戦争の記憶が薄れかけていく気配があります。その中で、沖縄戦で犠牲となった人たちの死を無駄にしないためにも、私たちのような若者が沖縄戦の実態について知り、戦争の恐ろしさについて考えることが必要なのではないでしょうか。ガマは、そういった意味で私たちにメッセージを投げかけているように思いました。

 そして、私が教師の立場に立って総合学習の授業をする際には、是非、生徒たちにもガマの「追体験」をさせてみたいと思います。沖縄戦について知ってもらうためには、耳で聞いて頭で理解するだけではなく、体でその当時の恐怖を感じてもらうことが、一番大切なことだと思うからです。このようにして、世代から世代へ沖縄戦について語り継いでいくことが、悲惨な戦争の犠牲者の平和への願いに応える道の一つでもあると思います。
※参考資料…省略

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