ガイド資料@「糸数アブチラガマ・糸数壕

[入壕前のガイド]
1「アブチラガマ」とは

(1)全長が約270メートル
(2)沖縄戦におけるアブチラガマの状況(一期から三期)
@一期…米軍の港川上陸に備えた球部隊(美田聯隊)の地下陣地壕…糧秣倉庫(小麦粉 ・漬物・味噌・米俵等)や衣服倉庫(軍靴・毛布・衣服類)、武器倉庫、
A二期…南風原陸軍病院分室壕
B三期…米軍の進攻からの軍民一体籠城壕
 ※ガマのなかでは、それぞれの地区で一期から三期の変遷をガイドする。

2 アブチラガマ利用の変遷

(1)一期(昭和19年7月〜昭和20年4月27日)…「日本軍の陣地壕」
 @日本兵…武部隊から球部隊(美田連隊)へ、海上挺身第28戦隊、そして、4月下旬、 首里・中部戦線の第62師団の兵力消耗の増援のため移動。
 A住民避難…主としてC地区(約200人、昭和20年3月下旬)。

(2)二期(昭和20年4月28日〜5月25日)…「南風原陸軍病院分室壕」
 @陸軍病院分室…日本兵(引率・衛生兵)、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊。そして、南 部撤退(5月下旬)。
 A5/1→連日、重傷患者が運び込まれる。
 B住民避難…C地区(状況大きく変わらず)

(3)三期(昭和20年6月〜9月)…「軍民一体壕」
 @置き去りされた重傷患者…約150名のうち7名が生き残って米軍に収容された。
 A日本兵…糧秣倉庫監視役(4名)、敗残兵
 B住民…C地区からB地区へ移動した者と他へ移動した者に分かれる(残存約100名)
 C米軍の猛攻…投降呼びかけ→応じない。火焔放射、黄燐弾、ガソリン放火、大砲、生 き埋め、
 D壕内…捕虜を拒否し、籠城。反撃。
 E投降…一回目(8/22)、二回目(9月末)

[壕内のガイド]
1 A地区

(1)一期
@入り口…日本軍(工兵隊)が昭和20年2月頃掘削、出入り口とし偽装。
A発電機…独立混成44旅団長(鈴木繁二少将)が壕内に居住することになり、出入り口近くのサーター小屋で発電し壕内に電灯を灯していた。畳や電灯線等は那覇の民家からもちよってきた。小屋は偽装のため、常に煙を出すようにしていた。のち、壕内に発電機を持ち込んで発電した。
B便所…汲み出し便所を三カ所の内一つ。便壺に穴の開いた板、周囲は板で囲われ、入り口にカマス。汚物は出入り口周辺の畑に埋めた。
C兵器庫…のちに移動
D空気穴(3)…出入り口近くの空気穴は直径1mぐらいの穴でその明かりで夜昼が判断できた。
E兵舎…部落の家屋を買い取り、大人が屈んで入れる高さの二階だて小屋(茅葺き、トタン葺き)。
※お金を受け取りにいくと、「今時お金をとりにくる奴があるか」と怒鳴られた。
F慰安所…出入り口近くの兵舎の近く。朝鮮人(朝鮮のチョゴリらしい衣服がたくさんあった)。沖縄の人もいたという証言あり。

(2)二期
@兵舎→病室(脳症患者、破傷風患者、一般重傷患者)・
A学徒兵の居住。
B学徒隊の立ち入り禁止区域…A地区の奥(脳症患者室)、B地区の大部屋病室の以北。

(3)二期のポイント
@傷病兵…数百名(最大700名)、延一千名。運んだのは防衛隊員たち。
ア、B地区の大部屋へ、A地区の病室(2階)へ、びっしりと寝かされ、座っている患者もいた。
イ、脳症患者…5/10前後から出る。→A地区三号室方向へ移動。壕内に鳴や怒鳴 り声が交錯する。
ウ、破傷風患者…血清注射がなく、悪化して死んでいくパターン。いつかは自分が…という不安の患者兵たち。

(4)三期
@兵舎→置き去り重傷患者(百数十名)、住民(約百名)、敗残兵、防衛隊員、他から の避難民
A石積み…米軍の攻撃に抵抗するために積まれた。
B死体の監視兵…十体の死体を立て監視兵に偽装

2B地区

(1)一期
@兵舎…十数棟。
A発電機…のちにガマの中で発電
Bかまど…当初は出入り口の近くにシンメー鍋を二つ設置して煮炊きしていた。後、B地区にカマドを6つ作った。
C水ガメ…一カ所
Dポンプ式井戸…小川は流れていたが、二人でくみ上げるポンプ式の井戸を掘った。
E食糧倉庫…B地区とD地区に長期戦に備えかなりの食料倉庫があった。食料は小麦粉、乾燥野菜、乾燥味噌、乾燥醤油、罐詰類、乳牛の飼育、
F衣類倉庫…衣服、毛布、軍靴等。
G機密書類保管庫…B地区の奥

※真喜志さんの証言。
ア、「軍事極秘、軍事秘密、軍事機密など、四種類ほどに区分された書類」
イ、昭和十九年参謀演習記録(大本営の戦術)
ウ、地図…本土→赤色、台湾、支那(中国)、朝鮮、沖縄(南西諸島)→緑色
エ、「球部隊拘禁所細則」…「戦闘中、沖縄の人間が捕虜になったときはどうなるか分からん、いざとなったら沖縄人は全部スパイになる、だから注意しないといかん」
オ、「ペリリュー島、サイパン戦訓」→敵の戦車がきたら爆薬で戦車に体当たりする特攻についての対戦車戦闘法

※「球軍会報」…昭和二十年四月九日に「爾今 軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」

(2)二期
@兵舎→病室、手術室、治療室、医療器具置場、日本兵・軍医・看護婦・学徒兵の居住。
※日本兵…糧秣倉庫の監視役(上妻伍長以下四名)、
A「手術室」…マスイもなく切断等を行う。
B発電機→二、三日後美田連隊が持ち出す。→ローソク、油等の灯、
※別の証言では、5/26、7日頃入壕した防衛隊員は電燈の灯をみている。
Cかまど(6)…煙が出て苦しくなるので、煮炊きは外でやっていた。
D学徒隊の立ち入り禁止区域…A地区の奥(脳症患者室)、B地区の大部屋病室の以北。
E慰安所…奥のB地区奥に移動、B地区への学徒隊の出入りは禁じられていた。

(3)二期のポイント
@陸軍病院…衛生兵(当初5、6名→14、5名。甲斐班長・築城上等兵・沖縄出身の初年兵ら)、軍医(二名)、看護婦(三名)、衛生兵(14、5名)、ひめゆり学徒隊(14名)、引率教師(1名)

Aひめゆり学徒隊
ア、南風原の壕から移動した学徒隊は、当初設備のすばらしさに驚く。
イ、安心感から熱を出す者。
ウ、傷病兵が運び込まれた以降横になって休んだ記憶がない。
エ、生徒三人一組でチーム…水汲み、治療の助手(繃帯をとる、巻く)、手術の助手(患者抑え、手術後の片づけ−手足や繃帯など)、食事の世話(受け取り、おにぎり作り、配布、給食)、大小便の世話(重傷患者のみ)と運搬処理、水を飲ませる、蛆を取る、死体埋葬(後放置)、
オ、繃帯…当初は3、4日で交替していたが、後一週間毎の繃帯巻き直しとなる(膿と蛆)。→繃帯の再生で洗濯はヒージャー(樋川)→住民から嫌われる。
カ、食事…一日一回、カズラの葉が入った味付けおにぎり→味付けおにぎり(だんだん小さくなる)、配布(一人一人又はまとめて配布→一人で二個もとる→足りない)
→夜炊くので夜中の12時頃にあげていた。
キ、便所…便壺に穴の開いた板、周囲は板で囲われ、入り口にカマス。
ク、沖縄の学徒兵(鉄血勤皇隊)の言葉…「イッターヤー、ヤマトゥ兵しか診ないのか」

B陸軍病院分室の撤退
ア、5/25…学徒隊へ撤退命令、豪雨の夜に撤退。医療器具やその他を分担。
イ、6/2…豪雨の中、日本兵、軍医、看護婦が出る。
ウ、独歩患者も壕を出る…玄米二合ずつ配布。真壁の壕に集合。5、6名ずつ。
エ、重傷患者は置き去り…患者全員にカンパンと青酸カリを配布。「トラックや担架で運ぶ」という甲斐班長のウソ。

C日比野勝広さん(元日本兵)のこと…破傷風患者で奇蹟の生還。

D大湊清次さん(元日本兵・視力を失う)のこと証言
ア、病院長陸軍少尉自から「日本軍人の汚名を残さぬように」と、「青酸カリ」といわれる風邪薬一服ぐらいの包をそれぞれに渡し、軍医・衛生兵・看護婦と歩ける患者は皆つれられて夜にまぎれて糸数を出た。
イ、残った者は140−150名と言われていたが、それから壕を出る3か月余が地獄の惨状であった。
ウ、連日5、6名の殆どが親の名を呼び妻子の名を呼びつつこの世を去っていった。「かあさんの作ったおはぎ腹一杯食べてから僕は死んで行きたい」と、叫びながら息を引きとった者もいた。
エ、住民の人はどうして工面をしたのかわからないが、大きなおにぎりに沖縄には砂糖がたくさんあるので、軍隊の携帯粉味噌を使っておにぎりに砂糖味噌をつけたのを日に一度位をバケツに入れて持ってきてくれた。
オ、自暴自棄になり、手榴弾で自決しようとしたが、周りに止められて失敗した。

[資料]「国土決戦教令」(昭和20年4月20日大本営陸軍部)
「第十一 決戦間傷病者ハ後送セザルヲ本旨トス 負傷者ニ対スル最大ノ戦友道ハ速 カニ敵ヲ撃滅スルニ在ルヲ銘肝シ 敵撃滅ノ一途ニ邁進スルヲ要ス 戦友ノ看護、付添ハ之ヲ認メズ 戦闘間衛生部員ハ第一線ニ進出シテ治療ニ任ズベシ」

(4)三期
@兵舎→日本兵(上妻伍長と他三名)、置き去り重傷患者(百数十名)、住民(約百名)、敗残兵、防衛隊員、他の避難民
A上妻伍長の部屋…B地区奥。
B死体置き場…米軍の砲撃が激しくて、壕内に死体を放置。
C石積み…米軍攻撃の防御
D監視所…男女二人で銃をもち昼夜交替(軍民一体の縮図)

3 C地区

(1)一期
@住民避難所…C地区及びB地区の路地部分。C地区は一部大きなドリーネを形成。
A出口(当初入り口)…当初はここだけ。出入り口を掘削するまでここから出入りしていた。階段は戦前からあるもの。

(2)一期のポイント
@昭和20年3月24日に200名近くの住民が入った。(殆ど糸数の住民で字外の方は字担任の玉寄先生とその家族4名と、大里出身の少年)
Aガマの中の人数は入れ替りで、ずっとガマの中にいた人は少ない。
Bガマに出たり入ったり…農作業、食事の煮炊き、避難、

C最初は石油ランプ→ローソク→機械油を入れた小さい石油ランプに布ヒモをよじって入れて燃やしていた。また小皿に豚脂や菜種油(マーアンダ)を入れ、布をいれて燃やしている家庭も。
D食事…5月迄は夜自分達の家や屋敷で炊いてガマの中にもってきて食べた
ア、主食の芋掘りは昼は危険であったので、夜芋掘りに行った。
イ、1日分の食事を一度で炊き
ウ、現在の入口から出入りをしていた。

Eガマの中では小さい子供を抱えた母親が4、5名いた。暗くて子供達が時々泣くのがいるし、ひもじさのため「ヒモジイーヨー」と泣き叫ぶ子供もいたので兵隊が「子供は泣かすな。声が聞えたち攻撃されるぞ。」と、言われ母親は手拭で子供の口をふさいだ事もしばしばあった。
F母親が外で芋を煮て子供達にあげるため、ガマの中に入ってきたら、兵隊にうばいとられてしまった。

(3)二期のポイント
@地元住民、KHさん(旧姓知念・23歳)の証言から
ア、糸数の若い婦人達が炊事係のおばさんに協力して炊いてあげていた。
イ、ガマの中の米や缶詰は避難民には分けてあげなかった。
ウ、私達若い婦女は割当交代制で、ひめゆり学徒隊と共に、負傷兵の身のまわりの世話や食事の炊き出しに昼夜協力してやっていた
エ、重症患者の死体は、ガマの中にいる部落民が毛布で包んで、今の入口から出て上の畑に穴を掘って埋める等、軍に協力をした。
オ、その頃軍医から「お前達も知っている通り、このガマには次々と前線からの負傷兵で充満するし、お前達がいる場所も患者室として拡張するから、早く別の避難場所を探すか、又は南部方面に移動するか、一刻も早くこのガマを出るように…」と、指示されました
カ、私達一行がガマを出たのは昭和20年6月2日頃と記憶して居ります

A他地区からの避難民(AYさんの場合)
親子…識名の壕から交換条件で入壕(4月下旬)。十日ほどたった時、壕を追い出された。→近くの岩蔭に避難していた。日本軍が来て、弾薬運搬の命令をした。

(4)三期
@住民…他への移動、B地区への移動へ分かれる。(後述)
A米軍の攻撃…(後述)

4 D地区

(1)一期
@独立44旅団の食糧倉庫、家畜飼育所

(2)二期
@状況変わらず

(3)三期
@米軍の最初の攻撃(火焔放射)を受け、監視兵三人が死亡、食糧や家畜が全焼。
A月頃から他の住民が食糧を取りにくる

5 A〜D地区の三期ポイント〜米軍の進攻から軍民一体状況へ

(1)糧秣倉庫の責任者としての上妻伍長と監視兵三名…住民の投降阻止、
@上妻伍長が責任者となっていた。
A住民側の指導者は、知花さんと当間さん

(2)米軍に対する監視活動…男女二人組で24時間体制。住民も銃を持った。
(3)「壕内の住民は壕外へは出さない。出る奴は撃ち殺す。」(上妻の方針)
(4)一人に付き玄米一合の配給。
(5)敗残兵…米軍の接近とともに入壕してくる敗残兵及び防衛隊員がいた。敗残兵は上妻伍長と行動、食事も別格だった。
(6)傷病兵…百数十名。食事は住民の婦人たちが作り、配布していた。
(7)地元住民…約二百名。B地区への移動を許可されて安全なB地区に移動する。

(8)食事…ガマの中で炊いて食べた。夜炊いて夜中に食べたが1日に1回であった。
@米は米軍の攻撃後は壕の中にある米を1日に1合ずつ配られた。
A7月中旬以降は夜畑に野菜を取りに行った。
(9)死体処理…附近に米軍がきてからの死体処理はガマ内の死体安置所の窪みにおいた

(10)米軍の攻撃
@6/6…D地区が火炎放射器で攻撃され、食糧倉庫の監視兵三人が戦死、乳牛も殺された。食料は全焼した。
A6/ 6…C地区攻撃の時、壕内から反撃。米軍の攻撃を激化させる。
B6/8…黄燐弾を投げ込まれる。

C6/10か11…C地区の出入り口やB地区の空気穴からガソリンを投入(ドラム罐10本)、引火せず。その匂い(あるいは揮発ガス)によって老人や子供が4〜5名死亡。
D今の出口の所から10本、入口の所から6本、空気孔から4本
E6/13〜14…出入り口に大砲を備えて攻撃するも滑り落ちる。被害はない。

F出入り口を土砂で塞ぐ。(別の証言から7月ではないか)
G7/19…ガソリン攻撃(別の証言)→空気穴付近でくすぶり悪臭が漂う。母(73歳)死亡。他にも数名。
H監視兵が住民に「米軍が攻撃に来ているぞ。米軍がガス弾をうち込むから注意しろ。」と、言われ、私達は洗面器に水を用意し毛布をかぶってうずくまっていたが、弾を投げ込まれ、白い煙が立ちこめ手拭をぬらして口や鼻にあてて防いだ。この白い煙はガス弾であったと思う。この攻撃で住民の年寄りの方々や重症患者が死亡したのもいた。

(11)壕外の住民の犠牲

@7月…OJさん(銃撃死)、OMさん(〃)、TMさん(〃)
A上妻伍長の命令「近づいてくるものは誰でも撃て」との命令が出ていたし、みんなもそう信じていた。
BTMさんが撃たれた日…米軍は滑り落ちた大砲を利用しながらC地区の出入り口を塞いだ。

(12)壕内から外へ出る

@7月の末頃…Tさん、Hさんらは、夜、横穴から外へ出、食糧探し。

(13)他の住民二人が入壕…住民救出のため、「日本国バンザイ」を叫んで入壕。上妻伍長の説得に失敗し、逆にスパイ視される。二人は捕縛されるが、一人は脱出。上妻伍長の住民不信が募り、壕内捜索。

(14)アブチラガマの住民脱壕
@8/22…米軍の宣撫班が入壕説得→脱壕の意思に傾く。住民の約50名
A上妻伍長、Hさん、住民の姉妹、少年の五人が残る。(村の調査では日本兵は姉妹の3人とある)

(15)9/中旬…日本兵の宣撫班の説得によって上妻伍長らも脱壕。

※このガイド資料は「アブチラガマと轟の壕」(石原昌家)「糸数アブチラガマ」(玉城村)「沖縄県史9巻」「各市町村史」をもとに作成してあります。

戻るトップへ