第六稿 「集団自決」について     2002年12月一部改訂

 「集団自決」の状況

 「集団自決(自決)」は、沖縄戦のなかで最も悲惨なことの一つと言われているものである。これは、沖縄戦が世界の歴史の中でも最も残酷な戦争の一つであった理由にもなっている。
 例えば、慶良間諸島の渡嘉敷島や座間味島での「集団自決」は次のようなものだった。


◇事例 1「…鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱しめると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。…村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷の人のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。…若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカくり返えすのですが、私のときと同じです。とうとう、この若者は、手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それでもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのか−、誰か殺して−」とわめいていました。その時、私には「殺して−」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるように共感の気持でした。意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて、出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに私は死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった時です。私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず…。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。そのあと死んでいった私の義兄だったかも知りません。私は、殺されて私の側に寝ている二人の息子に、雨がっぱをかぶせました。」

◇事例2…「カマを首にあてながら、『サーどうしようか。これで首を切ろうか』とあわてている。…しまいには少し上の壕にいる人たちを呼びながら猫いらずをくれ、と叫んでいる。『もうしかたないからこっちにいっしょに来てくれ』という。上にいる人たちはそれに答えて下の方に来て、みんなに猫いらずを手渡した。そして一升びんの水をまわした。猫いらずをなめては苦しみながら、早く水、水、とさかんに水を求めている。例の赤ちゃんをおぶった婦人は猫いらずを手にして口に入れる前に先程言ったように私の方にやってきて、「おばさん、ほんとに生きられるだけ生きていて下さいよ」とくり返しいいながら薬を飲もうとするので、私は、『あなた方だけ飲まずに私達にも分けて下さい』とお願いしたが、その婦人は、ゆのみをひっくり返しながら、もうない、ということで自分の口に入れてしまった。すると、婦人の弟が入口の木に火をつけはじめた。しかし壕は土であるため、全部は燃えることなく入口だけをこがした程だった。上の壕からおりてきた人たちは、猫いらずを口にすると、自分たちの壕で死ぬんだ、ということで急いで走っていった。」


 「自決」の意味
 何とも言いようのない残酷極まる殺し合いの状況である。このような惨劇を知ると誰しも、なぜ「集団自決」が起こったのかという疑問を抱く。その論を進める前に、「自決」の語について共通理解をしておきたいと思う。

 国語辞典には「自決…自殺。責任をもって自殺すること」とある。この意味で言えば、沖縄戦において住民の「自決」はなかったということになる。「牛島司令官が自決」とは言えても、戦争に巻き込まれた一般住民については「自決」は適切ではない。また、証言の中に「玉砕」という表現も出てくるが、これも戦闘用語で「住民の玉砕」という言い方も適切ではない。

 沖縄戦で起こった「集団自決」の「死に方」は非戦闘員の死としては特異であるために、慣例的な「自決」という用語が使われてきたのだろうが、適切な表現ではない。また、他には「集団自殺」とか「集団死」、「集団殺害」という使い方もされている。正確な概念規定からも共通な用語の設定が急がれる。
本稿では、定着した概念を重視し、「」付きの「自決」「集団自決」を使うことにする。
 「自決」の道具
 「自決」に使われた道具は、カミソリ、ナタ、縄、手榴弾、鍬、鎌、砲弾、包丁、猫いらず、青酸カリ等の毒薬(農薬を含む)、注射、岩石、材木など、身の回りにあったあらゆるものが凶器となっている。そして、このような痛ましい「集団自決」が行われたのは数十か所、数千人と言われているが、個人的な「自決」を含めるともっとその数は増える。

 「自決」の理由 
 さて、沖縄戦においてなぜ特異な戦没の態様が起こったのだろうか。「自決」の場所や方法、「自決」前の人々の気持ち、「自決」未遂後の関係者の気持ちは様々であるが、「自決」に至る心理的な圧迫感には共通するものがあろう。それらを解明することによってその原因の真相を明らかにすることができるのではないだろうか。

 「自決」時の直接理由について、証言から拾いあげると次のようになる。
〇 逃げ場のない絶望感による
〇 米軍の上陸、または、攻撃による恐怖感による
〇 友軍(日本軍)による恫喝と庇護拒否による
〇 捕虜になるよりは
〇 日本軍に「自決せよ」と強制されたことによる
〇 「死ぬ」のが当然という気持ち
〇 周囲の雰囲気に呑まれて
〇 自分だけ生き残れない。
〇 生き残るのは恥。
〇 死なないのは申し訳ない。

 これら多様な個人的とも言える理由を整理すると、次のようになる。
 [米軍上陸→避難→逃げ場の喪失→日本軍の庇護→拒否及び恫喝→捕虜拒絶(米軍が恐い、友軍が恐い、不名誉、申し訳ない等)→「死」の選択( みごと死んでみせる、絶望的に死んでいく、自分だけは生き残れない、恥)→「自決」決行]

 もちろん、一人一人がそれぞれの理由で自分の心の中で「死」を覚悟していることは否定できない。しかし、自分の命を絶つことの覚悟の段階での「死」の決定ならば、それは「自殺」であり、また、その数の多さは同一場所での「集団自殺」として扱われることになろう。

 「自決」の共通項
 沖縄戦における「集団自決」の特異性は、その「死」の覚悟が共通項として収斂されているところにある。あたかも、事前に共通理解を諮ったかのように、状況が熟した時に一人一人が「死」を覚悟し、暗黙の了解でそれを実行に移しているということである。その中で異議を唱えるものはいない。いや、疑念さえ抱いていないように見受けられる。完璧な「死」の覚悟である。

    ただ、子どもの「死ぬのはいやだ」という発言があったことが事例として数例あるだけで、上級学年の学童から上の大人まで、その声は全くと言ってよいほどにない。大人の場合、その実行を延ばす発言はあるが…。また、状況の判断の相違によって、多少の時間的な「自決」決行のずれはあったが…。しかも一方では、子どもが「死ぬのはいやだ」といった瞬間、相対する大人(ほとんどが親)が「自決」を思い止まり、「死」の覚悟から解き放たれている事例もある。

 それらは一体何を意味するのか。「自決」は個人の「死の覚悟」という意志としではなく、すでに共通認識(一種の集団的覚悟)として存在していたことを意味する。そして、その共通認識を各人の心の奥深く醸造していったものが「集団自決」の本質を解明する糸口に思えてならない。

 では、その収斂された共通項、すなわち、「集団的覚悟」とは何か。苛酷な戦場では、戦死を免れても逃げ場を失えば「捕虜」になるしかない。しかし、それは出来なかった。そこに共通項がある。つまり、「捕虜への拒絶感」である。そして、その裏には「米軍に対する恐怖感」と「日本軍に対する恐怖感」が同時に存在する。しかも、この「集団的覚悟」は、戦場で彷徨っていた時に生れたのではない。もし、そうであれば、それぞれの「集団自決」の現場では、かくも完璧な「集団的覚悟」が成立するはずがない。

    先にも触れたように、あたかも事前に諮ったように、もっとずっと前から「覚悟」は当人の意識下であれ、無意識下であれ存在していた。そして、その「集団的覚悟」は、他からの一切の干渉や疑義等もなく、その目的に向かって深く沈潜していったものと思われる。しかし、戦場で、まさにその覚悟の実行の段階で、初めて疑義が挟まれた。その相手がわが子であっただけに、覚悟からの覚醒は本能的であったのだ。

    しかし、疑義が挟まれなかった多くの場合、その覚悟は実行へ突っ走ってしまったのである。思い詰めた覚悟とその覚悟の決行を促す状況の成熟が一致した時、その号令は下された。したがって、ここでの問題の核心は、なぜそのような共通認識が作られていったのかであり、それが「自決」を解く鍵ともなっている。

 「自決」の背景その1
 「自決」という行動を決定する思想が、沖縄県民にいつごろ芽生えたのかは定かではない。明治期、「皇国」と「軍隊」思想が持ち込まれ、学校教育を中心としたあらゆる場で強圧的な施策によって普及してからのことであることは予想される。

    この強圧的施策は、一方では民主主義運動を弾圧しながら長期にわたって進められ、日本軍の沖縄配備によって完成期を迎えた。つまり、「自決」の思想的背景には、「国体護持」の日本軍を抜きにしては成立しない。

 沖縄県民は、日本軍(軍隊)との関係では、明治以来、他府県と違う特異な状態に置かれていた。それは、薩摩侵攻に続く明治維新以来、政治的、経済的、文化的に差別された中で、全国的に浸透していった「皇国史観」に基づく天皇制度への組み込みが、加速度的に強制されていったことを意味する。

    その一つが、「皇国」と「軍隊意識」に対する沖縄県人の「後進性」を克服する性急な教育だった。それは、あらゆる場において急速にしかも強圧的に実施されていった。学校はもちろん、社会教育と言う名目で、県 ・市郡町村 ・字・隣保(隣組)を縦割りにした上意下達の組織を整備し、「皇国」への忠誠と「軍隊意識」の高揚を図っていったのである。

 例えば、知念村の場合は、村 ・部落 ・隣保の常会が村→部落→隣保という順序に月一回開催され、その会合で「常会の誓」が朗読された。「ささやかなこの集ひながら、必ず皇国の礎として大きな役目を果たします。この集ひにおいては、たがひに私を去って語り合ひ、唯ひとすぢに、皇国につくす覚悟を固めます。この集ひによって皇国に生れた喜びを新にし、一丸となって、大御心にたたへ奉らんことを誓ひます。」(『知念村史』)

 このようにして涵養された「皇国」への忠誠心と「軍隊意識」の高揚は、太平洋戦末期の三十二軍の沖縄配備によってその実践舞台へと移っていったのである。もちろん同様の教育は日本全国、いや外地と呼ばれた朝鮮・台湾・「満州国」においても進められたが、沖縄ではそれが加速した。しかもそれは、「内地」対「内地でない県沖縄」という図式による沖縄差別の中で。

 もっとも日本軍の配備に関しても、沖縄は「外地」扱い(「内地でない」扱いが正しいかもしれない)で、正規の軍隊が配備されていない。(昭和16年の中城湾、舟浮要塞司令部の配備目的も本土防衛の視野でしかない)。軍隊の配備有無の善し悪しではなく、「皇国」にとって、沖縄は「祖国」の範疇には入っていなかったのである。守るべき対象であった「内地」(俗に言う「本土」)の危機が明白になった時、急遽その防衛(国体護持)のために三十二軍の沖縄新設へと動いたのである。したがって、当初は所属も決まらず「大本営直属」でスタートするほど泥縄式の三十二軍の誕生であった。後、九州方面軍へ、三たび台湾方面軍へと変更される。

    「沖縄戦」は本土防衛のための「捨石作戦」だったと言われ、一方では、大本営による第九師団の台湾移動とその補充拒否等による作戦変更の成否云々等が言われている。しかし、「皇国」における沖縄の位置と三十二軍の設立を見れば、作戦の意味づけというよりも、三十二軍そのものが、本土防衛の防波堤の外海に放り込まれた「消波ブロック」の意味をもつ「捨石」だったのである。その意味で言えば、牛島司令官以下の三十二軍の兵士たちは、全くの犬死だった言えよう。

 それにしても、実際に日本軍の沖縄配備が始まると、住民は、日本軍の要求する「供出」と「徴用」に対して真面目に応じた。その心理的背景には「本当の日本人」になるため、つまり、「皇国」と「軍隊」に対する自らの「後進性」を克服するための精一杯の努力であったといわれている。学校を中心に各地域で強調されてきたことの実践的集大成だともいえるだろう。

 しかし、献身的な住民の「供出」や「徴用」に対しても、日本軍は満足していなかった。その任にあたった区長たちの証言によれば、各地で区長たちを困らせるほど難題を持ち込んでいた。例えば、「時化で漁に出られなくても、魚は海にいるんだから捕ってこい」とか「住民は食わなくてもいい」とか嫌がらせとも思われる日本軍の将校たちの発言である。

    また、「お前たちの沖縄は自分達で守れ」とか「お前たちは死んでもいいが、俺は死ぬわけにはいかない」などという戦場での発言も同様な意味を持っている。

 当の三十二軍の部隊(兵)は、その多くが中国戦線からの移動部隊だった。(司令官の牛島中将や長参謀は、中国戦線での勇将であり、特に長参謀は、1931年(昭和6年)の武力クーデター(10月事件・未遂)による新内閣の警視総監(予定)に名を連ね、「南京大虐殺」との関わりが言われている人物である。また、多くの将兵にも「南京大虐殺」と直接間接に関わったものが多いと言われている)。つまり、外地での戦闘体験が「内地でない沖縄」配備と重なって、沖縄での戦闘を国内防衛戦とは受け止められていなかった心理的背景がある。

    狭い沖縄での三十二軍の配備(当初十万人体制)は、あらゆる戦争準備が住民の生活の場やその身近で行われている。その多様な接触の中で日本軍の本質を表した言動がざまざまに沖縄県民に対する差別 ・偏見を露呈していた。中には沖縄県人を異民族視、異人種視する日本兵もたくさんいたといわれている。明治以来の「内地」の差別観は、沖縄県民が「皇国」への忠誠と「軍隊意識」の高揚の実践のあらゆる場で噴出していたのである。

    一方で、「軍民一体の祖国防衛戦」とか「生きて虜囚の辱めを受けず」や「玉砕」という崇高な犠牲的精神の発揮を促すなど、沖縄県民の「本当の日本人」になる熱意を逆手にとった心理教育宣伝も行われている。
 しかし、この面に関しては、学徒隊などのように、中等教育の中で徹底した教育を受けた者程には一般の住民には浸透はしていない。とは言っても、狭い沖縄の戦場の中で、「生」への選択肢をすべて奪われた状況では、己の意志に伴う行動などとれるわけがない。「どうせ死ぬなら…」という気持ちは誰にもあった。

 日本軍は、住民を守ることをしないばかりか、逆に、利用できる者は徹底して利用し、利用出来ない者に対しては「戦闘の邪魔者」扱いをして、軍から遠く追いやっていた(疎開はその典型であり、邪魔者を遠ざけることと食糧の確保の意味もあった。また学童疎開は、将来的な皇国軍隊の要員という意味が加わる。戦場でのガマ追い出しの理由も「ここは軍隊が使うから出ろ」であった。)
本島内疎開にしても、その責任のすべてを民間に委ねて、自らは何の援助もしていない。知事との交渉では、「短期決戦」を言いながら、軍からの食糧の割り当てはなく、逆に住民から供出させておきながら、疎開の十万人四か月分の食糧の確保を県に押しつけた。また、輸送手段にしても、交渉では軍の車両の確保を言っていたが、その約束の殆どは反故にされている。

    さらに、疎開条件にもれた非戦闘員についての、米軍上陸直前の山原疎開も空手形であった。それは、紛れもなく、使える住民の戦場動員を目論んでいたとしか言いようがない。 これらの日本軍の方針は、米軍が上陸した後も変わらなかった。米軍の攻撃が始まり、住民が避難生活を余儀なくされた時でも、その避難場所ごとに日本軍は「弾薬運搬や食糧運搬」等に避難している住民を戦場動員している。体が丈夫そうであれば十五歳であれ、六十歳であれ、お構いなしに命令で動員していた。

 避難壕にしても、利用できる間は同居させる(食事の世話や食糧確保等の使役)が、用が無くなれば追い出し、また自ら移動の場合は先の住民を追い出し、途中避難して来る住民は拒否している。また、アメリカ軍上陸や進攻の際、住民を放置したまま軍のみ移動したり、防衛隊員が斥候の任を終え部隊に戻ったらそっくり移動した後だったという事例も多数報告されている。このように日本軍は一貫して住民を守ることなく、逆に結果的には危機に追いやっていたのである。

 「自決」の背景その2
当時の教育では、連合軍のことを「鬼畜米英」として、日本の「神国」と対置して宣伝していた。これは日本人全体に対する宣伝文句ではあったが、沖縄では、直接住民を巻き込んだ戦場となったことと関連し、「男は戦車で敷殺し、女は弄んだ後殺す」などの具体的な風評として流されている。沖縄戦が始まる前の段階で、すでにその風評は住民に浸透していることからして、相当強力な宣伝であったことがわかる。

 この風評に関して、三十二軍の関東軍出身の兵士や県出身の退役軍人の影響が大きかったことは否定できない。彼らは自ら中国大陸で行った蛮行(「三光作戦」を現実のものとした「南京大虐殺」などの大事件から現地女性強姦の奨励などまで)が、当然のこととしてアメリカ軍も沖縄(外国)で行うものと信じていた(事実、米兵による暴行事件も数多く起こっている)。したがって、関東軍出身の兵士(退役軍人)は、己の蛮行をアメリカ兵にダブらせ、住民を「米軍恐怖」に追い込んでいったのである。事実、日本兵が、自ら中国人の肉を食ったことを話し、住民をガマから追い出そうした証言がある。また、在郷軍人の指導者(翼賛会の相談役として常会に参加した)を通して、投降勧告拒否(日本軍の方針)を住民に伝達していたことなどからも、その影響は計り知れない面があったと推察できる。

    そのような中で、戦前から海外移民の多い県として、沖縄には移民帰りの人がかなりいたことは、部分的にではあるが、その風評を払拭する側面があった。もちろん、県民をスパイ視する圧倒的な軍の統制下では、そのような声をあげることは不可能であった。したがって、移民帰りの人たちの知識が生かされたのは、戦場と化した避難場所での個々の対応で発揮されるしかなかった。

    日本軍がこのような風評を流し、徹底して住民に「米軍恐怖」を植えつけた理由には、「機密保持」と「沖縄県民総スパイ視」の二つがある。

 一つ目の「機密保持」は、「徴用」等による住民と日本軍の間の壁が低くなり、住民は軍事機密を知りすぎた、と日本軍は認識していた(このことに関して、上層部は一般兵士の住民との接触を忌ましめた命令を出している)。そのため、住民が捕虜になることは、日本軍の機密が漏れることと同様であるという危機感をもっていた。つまり、捕虜すなわちスパイ行為と受け止めていたのである。この危機感は、あらゆる場面で、機密が漏らされる恐れのあるものを問答無用に葬り去っている(各部隊長による処刑、私刑等)ことからも言えよう。捕虜となって投降する住民 ・日本兵に対しても、日本軍は射殺、阻止、妨害等をしている。

    二つ目の「沖縄県民総スパイ視」の大本は牛島司令官の「訓示」の中にある。「防諜ニ厳ニ注意スベシ」。「訓示」の中で、この七番目の一項目だけがなぜか説明抜きで最後を締めくくっている。もちろん、この「訓示」が沖縄戦のすべての原型を形作っていくのであるが、「沖縄県民総スパイ視」の思想はここに始まったのではなく、明治以来の日本軍(ここから醸造される日本人の意識)に根付く「沖縄蔑視」観の再確認を意味していたのであろう。どのようにでもとれる不気味な十文字が、沖縄戦の最中県民を恐怖のどん底に陥れたたのである。

    それほどまでに、「スパイ容疑」の疑念が拡大されていったのには、やはりここでも、自らの軍隊の行動がオーバーラップしていたのである。国家権力機構におけるスパイ活動は常識的である。国外はもちろん、国内にもスパイ網を張りめぐらし、常に監視の目が注がれている。日本軍も「陸軍中野学校」(スパイ養成)をもっていて、この学校出身といわれる特務機関の人物が沖縄にも配備されている。つまり、日本軍の住民に対する「スパイ容疑」の目は、軍隊の本質であるスパイ活動に、住民に対する不信感と差別感が幾重にもオーバーラップされ、拡大増幅されたものであることがわかる。

 以上の二点は「日本軍=皇軍」の本質を突く表裏一体のものである。これらは実際の戦場では相互に影響し合って人間の限界を超えたところで、住民を「自決」へ追いやったのである。つまり、捕虜=スパイという日本軍の監視という枠組の中で、戦場を彷徨った挙げ句、行き場を失った住民の選択肢は、アメリカ軍の砲弾にあたって「戦死」する以外に、次の三つしかなかった。

@捕虜となること(「アメリカ軍による殺害の恐怖感や屈辱感」と「日本軍によるスパイ視」の二つを被ること)
A自ら命を絶つこと(「自決」「集団自決」又は「自決」強要)
B日本兵に殺されること(「日本兵の虐殺および殺害強要」)

 本来の選択は、もちろん@であるが、そのことが許されないほど沖縄県民の心は米軍と日本兵への恐怖感で満ちあふれていた。その結果、自ら命を絶つことを選択したのが「自決」だったと言えよう。

 実際に捕虜になった人たちの証言の中でも、「もし日本が勝ったら自分はスパイ容疑で殺される」という不安な思いで投降した人も多かった。また、同じガマ(壕)から捕虜として投降する時でも、頑強に捕虜になることを拒み、個人的に「自決」した人も多かった。

 「自決」のスイッチ
 ただでさえ異常な戦場の中に放置された住民は、以上の様な根深い沖縄差別の思想的背景に裏打ちされた「県民総スパイ視」や「鬼畜米英」を具体的な恐怖感として背負いながら、戦場の異常性からの脱却のために、自らの生命をコントロールすることができなかった。洗脳されたように「死」が当然となり、無感覚な精神状態の中で、恐怖感だけが増幅されて絶望的な状況に追い詰められていったのである。その結果、覚悟していた「自決」の道へと突き進んで行ったというのが実際の姿ではないだろうか。

 したがって、「自決」実行の段階では、一人一人が、改めて考え直すということは無かったと思われる。「自決」の覚悟は決まっていたわけであるから、それを「どのような状況で実行するのか」ということだけに選択の余地が残されていた。もちろん、それは「絶望的な状況」をさしているのではあるが、その決定はその場の集団の判断(時には集団の雰囲気)、特にリーダー的存在の人物の判断が大きな比重をしめていたと思われる。

 そして、その決定に伴う実行は、その状況の判断によって誰でも何時でもできたのである。きっかけは極めて単純であった。正確に言えば単純さが要求されたのである。複雑さはことを複雑にするだけである。暗黙の了解・覚悟があればこそ、単純なきっかけが、まるで機械仕掛けのようにスイッチ一つで「自決」は始まったのである。

 したがって、「集団自決」が沖縄戦突入の初期及び離島の隔絶された状況やガマ(壕)深く避難した密室同様の状況下で多発していることも納得できる。

 しかし、戦闘が長引くにつれ、日本軍の県民蔑視の言動や戦場を同じく逃げ回っている姿に直接触れるにつれて、日本軍に対する不信感が募り、覚めた目でみる者が出始めていた。それはまた、住民がアメリカ軍との接触を多くして、住民に植えつけられた偏見−「鬼畜米英=恐怖感」も徐々に取り除かれていく時期とも合致する。一方で、アメリカ軍は進攻当初から、捕虜の中から軍民問わず避難民への投降呼びかけ担当を設け、その任にあたらせていた。(そのことが日本軍の住民スパイ視を増長させ、逆に日本兵の虐殺にあった人もいたが)。それにしてもこれらの措置が無ければ「自決」はもっと増えていたことが予想される。

 それにしても、明治期から十五年戦争まで、沖縄県民を不幸のどん底に陥れた「皇国」と「軍隊」の思想は、沖縄戦の体験でも払拭されず、敗戦後もなお、沖縄戦生き残りの日本兵の中から、「沖縄人はスパイだった。そのせいで戦争は負けた」というデマがでっちあげられた。「日本人」の根底に潜む差別観念は何を糧にいつまで生き延びるのだろうか。

※証言は「県史10巻」から引用しました。

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