第二稿   戦争における個人の問題 01年9月改稿

  沖縄戦の実相をとらえると、戦争史のなかでも希有な戦争が明確になってくるが、それは組織としての日本軍(第32軍)を通しての全体像である。しかし、戦没者が拡大した南部戦線では、日本軍の組織的戦闘はほとんど実効していない。日本軍は各所各局で、それぞれの部分戦闘を展開しているに過ぎない。第32軍が描いていた「最後の防衛戦」が突破されてからは、その様相はいよいよ明確であった。

   したがって、その中で、日本軍はもはや組織ではなく、個人又はそのかき集めの部隊であった。この状況の中で、いわゆる「日本兵」の問題が発生してくる。日本兵(あえてこの用語を使う)の行動に二つのタイプが現れている。一つは、天皇の軍隊としての権威をカサにきた日本兵の行動タイプであり、もう一つは、それから解き放たれた個人の人格が表出した日本兵の行動タイプである。

   「住民までは殺さないから、早く壕を出ていきなさい。」
 水を分けてやったり米などを与えたりしてした(最後の突撃の前に)
 同じ日本兵(第一のタイプ)の悪態をたしなめたりした。
 住民に謝罪する者もいた。
 日本兵に助けられた住民もいた。         

 この様な日本兵がいたことは、住民の証言で浮かびあがってきたものであるが、その行動は個人としての行動であり、帝国軍隊という組織が崩壊した以後の行動ではないかと思われる。私は、残虐な戦場の中で、このような日本兵がいたことに注目したいと思う。

    また、戦線が喜屋武半島に及んだころ、数名で戦線を離脱し、喜屋武岬から離島に「脱走」した日本兵もいた。この部隊は隊長自ら、戦局を見極め日本の敗戦を見通し、部下にもそれをいっていた。さらに、こんな戦争で死ぬのは馬鹿馬鹿しいので、早期に米軍に投降することを住民に言い、そして実際米軍上陸と同時に投降した高級将校もいた。当の住民たちが反感をもつぐらいに吹聴していたのである。

  思えば彼らは、軍人になる前は、一人の人間だった。当時の社会ではその大半が農民だった。国家総動員の戦意高揚の中で軍隊に取られ、そして、沖縄戦に動員されてきたのである。組織的戦闘から開放されて、直接住民と接した段階で、人間としての自己に目覚めた日本兵がいたとしても不思議はない。

 それでも問題は、このような日本兵がいた事実によって、帝国軍隊の侵したさまざまな蛮行を免罪にはできない、ということである。戦場における組織と個人の問題は、複雑な問題ではあるが、私たちは、これを明確に認識して、沖縄戦と絶対天皇制のもとで行われた侵略戦争の実態、さらには、戦争そのものの本質を見極めていく必要があると思う。        

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