第八稿 「戦争をどうとらえるか」               03・9起稿

   戦争をどう捉えるかということは、戦争を学び伝える者にとって重要なことの核心である。一般的には、表現方法は異なるが、概ね次のような説明がなされる。

   (ア)戦争は、その異常状況によって人間を人間でなくしてしまう。
   (イ)戦争は人間が持っている悪が顔を出す。または、人間のもつ悪が戦争を起こす。
   (ウ)戦争は残酷なものである。または、戦争は悲惨である。

   例えば(ア)「戦争は人間を人間でなくしてしまう」という戦争観は確かに説得力ある説明である。沖縄戦においても多くの証言がそれを物語っているし、また、想像的にも納得できる。それは、戦争が異常性を伴って行われなければ成立しないことをわれわれがよく知っているからである。戦場における「人間性の喪失」は体験者のすべてがそれを指摘しているので、その意味においてこのことは確かな事実である、と言えよう。

   もちろん、このこと自体もっと詳細に分析してみることが必要である。それは、たとえば、沖縄戦において言えば、ここでいう人間というのは、住民であり、日本兵であり、米兵であるわけだが、それぞれにおいて、「人間でなくなる」という状況も本質も異なる。つまり、住民においては、戦場に放り出された結果の「人間性の喪失」であり、いわば、戦争の被害者としての立場でのことである。一方、日米の兵士は、戦闘行為を行う当事者としての「人間性の喪失」である。しかも、それは、被害者という立場ではなく、双方が加害者としての立場から「人間性の喪失」が起こる。それは、軍隊という異常な教育と訓練の中で培われた「人間性の喪失」であり、それなくしては、軍隊がそもそも成り立たない要素となっている。

   しかし、そのことをさらに細かく見ていくと、日本兵と米兵にも相違点も見られる。それは、戦争の持つ性質にもよるが、ここでは、沖縄戦における状況の中からその相違点を明らかにしたい。

   たとえば、日本軍の中には、住民がガマに入っていれば、追い出したり、食糧を強奪したり、住民虐殺をしたり、殺害を強要したり、…した。しかも、それらの蛮行は、上記(ア)における「戦争は人間を人間でなくしてしまう」という説明によってなされることがある。

   しかし、同じ戦場において戦闘行為をしていた米兵は、住民がいればその身を保護することを原則にしていた。その違いは、日米の戦闘状況における勢力の優劣の差(日本軍は追い詰められている状況であり、逆に、米軍は余裕があった)ばかりではなさそうである。戦闘行為を行う当事者におけるその差は、両軍の軍隊組織の意図的計画的軍事教育によることが大きいと思われるが、ここではさきに述べた住民の場合に絞って掘り下げてみたい。

 この戦争観において、戦争体験者の証言を読んでいると、沖縄戦のなかでも(人間性を失わない)で生きた人がいた、という事実に数は少ないが出合うことがある。たとえば、置き去りにされた幼児を自分の子どもと一緒に連れて避難したとか、食物に困っている時、避難した家主に作物を分け与えられたなどという証言がある。

 その対極には、より多くの人々が放置された状態の戦場の傷病者や死体等に非人間的対処をしていたし、また、食糧や飲料水にしてもエゴイスティックな側面を表出した者が圧倒的に多かった。だからこそ、戦争は「人間性の喪失」として説明されるわけであるが、もちろん、私はそのような非人間性を責めるためではなく、一つの事実としてとりあげたのである。いずれにしても人間性を保持しながら、すなわちヒューマニスティクな態度で戦争を体験した人がいたことも確かな事実である。

   このような証言に出合うと、上記にあげた説明は人間によって違うのではないか、という疑問に突き当たり、状況における人間性云々が前面に現れてくる。つまり、一般的には一人一人の人間の置かれた状況によってその行為の表れ方が異なる、というのである。その結果「戦争は人間を人間でなくしてしまう」という、この説明は行き詰まってしまうことになる。しかし、よく考えて見ると、この説明の思考過程は、戦争とは何かという説明がいつの間にか人間とは何かという説明に転換されてしまっている、ということに気づく。

 戦争における人間を対象化すると、「戦争」はその人間を取り巻く一つの状況設定となり、人間のあり方自身が問われてしまう、ということになるのである。状況における(戦争も含めて)人間性が問われると、そうでなかった人間もいた、という事実が反証として成り立つことになる。このような論の組み立ては、一人一人の人間性に目が向けられ、結果的に戦争そのものの説明がなされないままに戦争が免罪されてしまいかねない。つまり、論法のマジックである。論点の戦争が人間に転換されて戦争が背景に遠ざかってしまう、というものである。

   そのような論法のマジックは、(イ)や(ウ)の説明についても同様の結果となる。つまり、このような戦争の説明には、一面では真実を語っているが、論点のすり替えによって底無し沼の状況を生み出し、結果的に戦争そのものを正しく説明できない、という落とし穴に陥ることになる。

 同じ事は、日本兵の残虐行為についても、同様なことが言える。現に、この論法で、「『日本兵にもいい人もいた』という事実によって、だから、沖縄戦における日本軍(あるいは日本兵)の残虐行為は、軍隊そのものというよりも、一人ひとりの兵隊、すなわち、個人の問題である。」という論法にすり替えることにより、日本軍の真実を意図的に隠す論も存在する。

 このような戦争観は、戦争という異常な状況で人間は如何に生きるか、ということがテーマになっていて、戦争を説明することにはならない、と私は考える。なぜなら、このテーマは、人間の生き方がテーマとなる文学の世界のことである。
戦争は事実である。一つ一つの事実が戦争であることを認識することが大切であると考える。したがって、体験者の証言にもあるように、戦場で偶然に生き残ることも事実であるが、死んでいった人たちの死も事実である、ということを前提とすることである。このように、戦争は事実そのものであって、戦争という抽象化された事実はなのである。抽象化された戦争の概念を規定しようとすることによって先程のような盲点に陥ることになるのである。

 このように考えれば、一人ひとりの体験そのものが戦争であることを認識することから戦争を学ぶということになるのではないだろうか。つまり、戦争というのは、一つの抽象化された概念によって括られるものではないということである。抽象化された概念で括って戦争を捉えてしまうことは、その固定概念(たとえば、「戦争は人間を人間でなくしてしまう」など)によって、実際は事実である戦争の認識を見誤ってしまうことになるのである。

 では、戦争とは何なのか、という先程の質問にはどう答えるのか。戦争は事実そのもの
である、という説明では戦争を説明したことにはならない。戦争の真実(実相)を把握することは必要である。そこで私は、戦争を説明する時、極めて抽象的だが「戦争はすべてを破壊する」という言い方をする。例えば、破壊されるのは、「人間」の肉体的な破壊や精神的な破壊だけでなく、「文化」も「生活」も「経済」も「自然」も…すべてを破壊してしまう。逆に言えば、戦争は本来なんの生産もしないものであることが理解される。

 このように言えば次のような反論が出る。つまり、近代社会の快適な生活の基盤には、戦争を前提とした技術開発の先端があった、と。しかし、これも論法のマジックであることは簡単に見抜かれるであろう。あるいはまた、自然の摂理として戦争は人間の闘争本能に基づく「自然淘汰」によって成立している、という説明もある。人間に闘争本能があることは否定しないが、その闘争本能は、己を含む生命体の維持のために発揮されるものであって、逆には働かない。生命の危機に直面した時に闘争本能は働くのであって、それは紛れもなく自然の摂理である。(したがって、侵略された者の抵抗戦争という侵略戦争とは異なるもう一つの戦争の概念が成立するのだか、ここでは割愛する。)その闘争本能を逆に働かしめる(己の生命の危機にたいしてではなく相手の生命の危機をもたらす)のは、人間の意図的計画的な教育(それは政治的、宗教的、経済的等であったり、名誉欲や征服欲等であったりする)の結果としての敵愾心の培養によるのである。つまり、これが侵略戦争の最も核心に触れる本質である。

 したがって、もっと突き詰めて言えば、(侵略)戦争は、破壊することによって成り立つ意図的計画的な人間の行為である。私たち人類を含む生命体はその根源において常に「生産」という活動によって進化・発展してきたわけであるが、この地球上の生命体を破壊するのが(侵略)戦争の本質であると捉えるならば、私たちが(侵略)戦争を否定する必然の根拠がここにある、とわたしは思うのである。

   沖縄戦が基本的に「侵略戦争」であったかのか、「抵抗戦争」であったのかの評価は、人それぞれに異なることがあっても、その本質を間違えれば、伝えることがほんとうの意味を持たなくなる場合と逆にマイナスになる場合だってあり得ることを思う時、この基本的な評価は疎かにはできない問題である。

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