第一稿 沖縄戦の特徴     2001年9月改稿

1 国内唯一の住民を巻き込んだ地上戦

軍人より住民の犠牲者が多い

 沖縄県の公称戦没者の数字では、日本軍と住民の戦死者はほぼ同数となっているが、この数字にはいくつかの問題点が指摘されている。実際の住民の死者は十五万人は下らない、と言われている。しかも、その多くが日米の戦闘による直接的戦没者だけではないところに沖縄戦の問題の一つがあると言える。日本軍の作戦には、住民を巻き込んだ戦闘を意図していた経緯がある。          

日本軍弱体化の途上戦

 日本軍全体としても、各戦線での敗北により戦備の増強は思わしくなかった。第32軍が編成され、それぞれの陣地構築も大方終了した頃、大本営は、レイテ島決戦のため第十軍(台湾)から二個師団を移動させ、その補充として、第32軍の精鋭であった第9師団を台湾に移動させた。しかし、その補完はなかった。その結果沖縄本島の守備軍は、3個師団1旅団の編成が2個師団1旅団になり戦力は三分の二になった。

 師団の構成や兵力でもかなり劣っていた。なによりも、直前(沖縄戦開始の三カ月前)の戦闘配備変更は、作戦上の支障をきたし、兵の士気にも影響があったようだ。また、第32軍全体の装備も旧式なものが多かったという証言もある。

 このような状況については、大本営が、沖縄戦を軽視していたことによるという論もある。とにかくも、日本軍全体としてもかなり窮屈な軍備状況であったことは否定できない。

現地自活による戦争

 このような日本軍弱体化を背景として、牛島満第32軍司令官は、着任後の「訓示で、「自活に徹すべし」と述べた。一木一草、もちろん人間も戦力及びその補完としての役割を徹底的に利用する方針であった。このことは、それ以降の沖縄戦の準備及び遂行の原則となった。        

強制疎開と最大動員

 米軍の沖縄上陸が必至となった時、集団疎開計画が作られた。老幼婦女子を対象にしたが、これは、食糧確保と足手まといの排除が最大の理由であった(学童、幼児に対しては将来の臣民の確保という側面も別にあった)。それ以外の13歳以上の者は逆に疎開を禁止した。先にのべた自活戦のための最大動員を可能にするためであった。そのために学徒動員や在郷軍人による「防衛隊」を各市町村ごとに組織している。      

住民避難地に司令部を移動する愚行

 首里司令部を守れなくなった第32軍は、5月下旬全軍の南部撤退を命令した。首里周辺の非戦闘員に対して、南部避難を指令した1カ月後である。当時南部一帯には、第32軍の「おびきよせて撃つ」の作戦の結果、読谷・北谷・嘉手納から石川線が米軍によって分断され、北部への避難経路を絶たれた住民及び避難民が20数万人もいた。     

ガマを使った日本軍の作戦

 6月10日、日本軍が最後の防衛戦と設定した八重瀬岳−与座岳−国吉−真栄里の線が突破され、日本軍は支離滅裂となり組織的戦闘の状況ではなかった。それぞれの兵隊が、帝国軍人を楯にし、それぞれの思想と感情で行動していた。

 日本軍(兵)は、住民が避難している壕(ガマ)の分捕りを行った。ガマ追い出しである。「戦闘に使う」「だれが戦争をしているのか」や「出なければ銃殺する」「お前はスパイか」等によって住民避難のガマ(壕)が日本兵によって奪われていった。  

 ガマ追い出しにしろ、食糧強奪にしろ、スパイ容疑にしろ、幼児虐殺にしろそれらはすべて、帝国軍人という肩書を背負って行われている。               

投降を阻止

 帝国軍人に降伏などはありえない。玉砕又は自決するしか道はなかった。そして、同じ論理を住民にも強制した。米軍の投降勧告に応じる住民を背後から銃撃した目撃証言は多い。

 一方住民の投降を防ぐために、米軍に対する「鬼畜米英」感情を利用した流言を流した。それは、沖縄配備の部隊が、中国戦線後期の関東軍からの移動部隊であったこととも関連する。関東軍が中国戦線で行った「三光政策(焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす)」に象徴されるように、中国人民への行為は、ある意味では帝国軍人の誇りとして認識されていた。それらの行動を日本軍の政策として行動した関東軍は、自らの残虐行為を米軍と重ねていたのである。

 また、防諜の面からの住民の投降阻止も報告されている。投降した住民は米軍に密告するだろう、というスパイ容疑の不信感であった。ここには、住民巻き添えの戦争遂行の矛盾がある。

    さらに、米軍の猛攻に対して、多数の負傷兵が壕(ガマ)の中に放置されたまま退却しているが、彼らの投降(捕虜としての)も許さなかった。それは、捕虜となった時、米軍に情報が漏れることを恐れたからである。そのために、どの壕でも、独歩患者は各自の部隊に強制的に帰還させ、そうでない患者に対しては、銃殺、刺殺、毒殺、自決強要等が行われた。

2 終戦のない戦争

 太平洋戦争の終戦(敗戦)は1945年(昭和20年)8月15日である。しかし、その中で行われた「沖縄戦」には公式の戦闘終了日がない。

 6月 23日の「慰霊の日」は、第32軍司令官牛島満が自決した日を沖縄戦の戦闘終了日としたといういわれがある。しかし、19日の「最後の軍命」でも、すでに連絡さえとれない状況から、組織的戦闘はもっと早く終わっていたとみるべきであるし、牛島司令官の自決にも 22日説がある。したがって、6月23日は、意味をもたなくなっているのが現状である。

 一方米軍は、7月 2日に「琉球作戦」の終了を宣言し、そして、沖縄戦に関する降伏文書は9月 7日に調印している。なぜ、そのような事態になったのであろうか。 

本土決戦の「捨て石」となる

 それは、沖縄戦が始めから、「本土決戦のための持久戦」(実質は天皇制護持のための捨て石作戦)という位置づけと関係が深い。第32軍は、「戦争指導大綱」「当面の緊急措置」に基づき、1944年3月に新設された。当初は2個旅団の編成で、絶対国防圏を防衛するための航空基地的部隊であった。  

 ところが、連合軍の進攻が早く、それに対応するために急きょ増設が行われた。第32軍の整備が完了したのは同年5月である。さらに、当初は大本営直属の指揮下にあったが、西部軍(九州・熊本)の指揮下に移され、さらに第10方面(台湾軍)の指揮下に変更されている。太平洋戦争突入計画は、「全く、最初に慎重に十分研究した」のに、沖縄戦に関しては、各地での敗戦に対応する術もなく泥縄方式であった。

 牛島司令官が沖縄に出発するとき、阿南陸軍大将は「玉砕するな」といって、なにがなんでも持久戦を貫き通せという意味の「命令」をしている。さらに、第32軍直属の情報組織を編成し、ゲリラ戦に備えている。そして、日本軍が壊滅寸前6月4日、その情報要員は米軍の戦線を突破し、米軍後方での地下工作(諜報活動)の命令を受けたのである。           

 最も顕著なのは、牛島司令官の「最後の軍命」である。第32軍の置かれた状況を最も知っていた彼が「最後の一兵まで戦え」と言って、自決したことは、終われない戦争の象徴であろう。沖縄戦は本土決戦のための捨て石にされたといっても過言ではない。

司令官のいない戦争

 5月22日全軍の喜屋武半島への撤退と持久戦持続を決定した牛島司令官は「なお残存兵と足腰の立つ島民とをもって、最後のひとりまで、そして沖縄の南の果て尺寸の土地の存する限り、戦い続ける覚悟」であった。撤退完了は6月4日、残存兵は約 4万( 3万ともいわれる)。

 5月 30日、牛島司令官は、神直道少佐を沖縄から脱出させ、沖縄の近況を大本営に報告したが、大本営は、25日すでに沖縄作戦に見切りをつけていた。

 6月10日、米軍の降伏勧告が出たが、それを拒否し、18日に大本営へ訣別の電報、19日に「最後の軍命」を発して、23日(22日ともいわれる)に長参謀と共に自決した。

 その後、米軍の一方的な掃討作戦が進み、7月2日米軍は「琉球作戦」の終了を宣言した。9月7日の「降伏文書」の調印は先島・奄美司令官代理が行った。

 沖縄戦は、「降伏」という言葉のない戦争であった。そのために、どれだけの尊い命が失われたのか。終戦を知らずに1946年( 昭和21) 8月まで壕(ガマ)の中で避難生活をしていた住民もいた。首里司令部が落ちた時に、降伏すべきであった。沖縄戦の戦死者の大多数は、島尻の戦闘(というより掃討戦)の中で戦没しているのである。                       

3 沖縄差別の戦争

 沖縄戦に関する中央の認識については、様々な角度から指摘できる。そして、これらの指摘は沖縄戦に限っていえるものでもなさそうである。つまり、絶対的権力をもった天皇制国家が引き起こした侵略戦争であれば、その本質に特殊はないと言えよう。 

 ただ、沖縄戦に関してはもう一つの側面があった。それは沖縄県民への差別と偏見である。これは、薩摩による武力進攻そして支配に始まり、明治政府による琉球処分を経て、沖縄戦で頂点に達した。特に、天皇制に対する沖縄県民の反応には、懐疑的感情をもっていたようだ。沖縄戦は、皇民化政策にこれら本土側からの差別感情が重なり増幅された形で表面化していったと考えられる。その主なものをみてよう。 

スパイ容疑

 沖縄の歴史と文化、生活習慣を無視して、本土決戦の捨て石とした沖縄戦であってみれば、住民を理解することは無理であった。逆に住民を戦争の協力者としての側面(協力不能者には軽蔑感)だけから接していた。したがって、方言や生活習慣の違いは、第32軍にとって拒否すべきものであった。

 牛島司令官は着任早々、「防諜ニハ厳ニ注意スベシ」と訓示した。また、「方言を使うものはスパイとみなす」という命令を出した部隊幹部もいた。          

沖縄(住民)蔑視

 戦線が島尻一帯に後退後、島尻のガマは避難民であふれていた。そこへ第32軍がなだれ込み、食糧強奪、ガマ追い出し、住民虐殺、婦女暴行、米軍の砲火の楯等あらゆる暴虐をした。住民の証言や生存将兵の証言等から、あきらかに沖縄の住民を蔑視していたことがうかがわれる。それは、日中戦争の最中、日本兵が中国人にしたことと似たスタイルであった。その背景には帝国軍人の権威もあったが、それだけではなかった。
    沖縄は薩摩の侵攻以来薩摩の属国として江戸幕府の体制に組み込まれ、明治以降は「天皇制国家」の後進県として、差別的な政治的経済的文化的処遇を受けてきた。その中心的柱になったのが、「皇国日本」への貢献度という物差しで計られた沖縄(人)蔑視であった。
    徴兵制が敷かれ、沖縄に対する差別は一段と増幅された。すなわち、沖縄在の徴兵機関による報告書の中には、沖縄県人が如何に遅れているかがこと細かに報告されているのである。それらは明治、大正、昭和と引き継がれていて、その評価は決して変わることはなかった。
    離島県である沖縄の政治、経済、文化の歴史を全く無視した偏見の目は、沖縄戦で配備された本土出身の日本兵にも根強く引き継がれていたと考えるのが普通である。それらの歴史的偏見に基づく沖縄作戦であってみれば、沖縄県民への対処のしかたも当然変わってくるものであろう。

4 違法・無法の戦争動員

  非戦闘員女性を戦場に動員

 戦時動員については、法の改悪等で年齢の上限と下限を拡大して、動員態勢を敷いたが、沖縄においては、その時々の法が必ずしも守られていない。女子学徒動員にしても、戦場に看護要員として配置することはその年齢、身分(配属された野戦病院では、兵隊の身分として扱われていた)等からして違法といえよう。また、学徒動員以外でも、各地で地域の女子青年が簡単な訓練を受けて戦場に動員されている例もある。

  少年の戦場動員

 沖縄戦の後半、島尻では、12、3歳の少年が弾薬を前線に運ぶ要員に動員されているし、また、伝令として動員された証言もある。

在郷軍人の防衛隊組織動員

 牛島司令官の命によって、各市町村単位に編成され、軍隊と共に行動したことが証言されている。戦場動員では主に弾薬運搬だった。これらのことは大本営でも逆に取り上げられ、後には法制化されていった経緯がある。

5 国体護持の戦争

 以上みてきたとおり、沖縄戦は近代戦争の中でも、まれにみる残虐非道の戦争であった。そのような状況をつくった根本は、やはり、天皇の軍隊による戦争であったといえよう。沖縄戦のみならず、日中戦争や太平洋戦争のさまざまな場面で、天皇の軍隊は同様の状況を生み出している。

降伏のない軍隊は昭和天皇がつくった

 天皇は戦況の推移を最もよく知っていたにもかかわらず、側近(近衛)の和平への進言に対して「もっと戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいとおもう。」といったり、「沖縄で勝てるという目算がありますか」に対して「統帥部は今度こそ大丈夫だといっている」と切り返している。更に念をおす近衛に対して「今度は確信があるようだ」と突っぱねている。

 一方、沖縄戦で表出された、第32軍のさまざまな残虐行為も、絶対君主としての天皇の軍隊として行動した結果である。この戦争の中で明らかになった「軍隊は住民を守らない」という原則も、実は、この戦争が国体護持のためであったことを思えば当然と言えよう。そして、沖縄戦は、また沖縄差別の戦争でもあった。その沖縄戦の終末は、昭和天皇自ら、米軍に対して沖縄の長期占領を提言するという驚くべきメッセージで、新たなスタートを迎えるのである。

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