第七稿   学徒隊動員の根底にあるもの      2005年4月寄稿

   地元の某紙が戦後60周年に「戦前X年」を企画としている。そのX年がいつにあたるのかはかなり興味をそそられる設定である。沖縄戦の体験者が「戦前に似てきた」という表現で最近の国内動向を説明するが、あまりにも漠然として?み所がない。

   思えば、沖縄戦での学徒隊の過酷な戦場体験に触れる度に、たとえ、法制が敷かれたとはいえ、あのような積極的な戦争協力が成り立つのか、という疑問は常に残る。そのようなとき、人々は、徹底的な「皇民化教育」でその理由付けをするし、体験者もそれを語る。しかし、「皇民化教育」が徹底されたからといって短絡的に人間の意識がそれほどまでに変容するとは考えにくい。

 それほど、教育が計り知れない影響力をもつものであることの証ではあるが、「皇民化教育」によって培われた学徒達(一般青年や子ども達を含む国民)の意識改革はどのようになされたのか。

 人間の思想形成は単線的ではなく、絡み合った複線を伴って形成される。今、「戦前X年」という設定のなかで、学徒たちの思想形成がどのようになされたかを昭和を区切りにして、「戦前に似てきた」という体験者の象徴的な実感を検証してみたい。もちろん、それは、先程も述べたように、複雑に絡んだ複線であることから、その一つ一つを解明することは今はできない。ここでは学徒達に絞る関係上、彼らが直接受けた学校教育や彼らの生活を取り巻く社会教育が彼らの思想形成にどのように与えたのかについて触れる。

 明治以降から天皇主権国家の隆盛と海外侵略の道を突っ走ってきた国家権力にとって、大正期における諸分野での民主主義の高揚(俗にいう大正デモクラシー)は目の上のたんこぶであった。このような国内の内憂に対して政府は「思想国難」とし、一方、日中戦争の前哨であった「山東出兵」等による経済の破綻を「経済国難」として、国民の目を外に向けるべく、「治安維持法」を制定・改悪することによって民主主義を弾圧し、「思想善導」の名目で「教化総動員運動」を組織した。

 この運動は地方において、各地方教化団体のほか、女子青年団や婦人団体が積極的にこの運動を推進し、政府主導から次第に民間レベルでの運動へと転換していった。その内容は、学校教育においてはもちろん、社会教育、家庭教育(「家庭教育振興ニ関スル件(昭5)」)にまで及び、進行中の日中戦争への国民統合の柱となった。まさに「草の根」のファシズムの拡大ということができよう。

 このなかで「天皇機関説」が唱えられたが、政府は、これを敵視し、「国体明徴に関する内閣声明」(昭10)を発表し、それを封じ込めた。さらに政府は、昭和12年、「国民精神総動員実施要綱」を出し、官民一体の一大国民運動として先の「国民教化運動」を質的に転換させた。

 昭和14年、さらに政府の指導力を高めるために組織改編を行い、中央と末端の組織を一元化した。そのことによって、昭和15年に法制化されたいわゆる「隣組」にいたる天皇国家の一大精神総動員組織が完成したことになる。ちなみに「隣組」の目的の一つに「国策ヲ汎ク国民ニ透徹セシメ国政万般ノ円滑ナル運用ニ資セシムルコト」とある。そして、その年、紀元二千六百年で天皇国家の繁栄を祝って日本中は沸いた。このエネルギーはその後の太平洋戦争へと突っ走ることになり、大政翼賛運動へと吸収されていくのである。

 一方、日中戦争が長期化する中、現在の教育は、内外の状況に合わないとして攻撃しながら「小学枚教育改革要綱」(昭11)が出された。その改革の内容は、教育内容、受験制度、教員養成、教育財政の四分野であったが、教育内容では次の5項目が上がっている。
1 道徳教育の徹底
2 詰込教育の排除
3 体格の向上
4 実業教育の刷新
5 画一的制度の廃止と地方の実情への適合

 受験制度では、入学準備教育の弊害をなくすこと。教員養成では、教員養成機関を刷新すること。そして、教育財政を改革することである。

 教育内容の改革についてのみ触れれば、道徳教育の徹底は、当時の世相(民主主義思想の拡大)を反映して、個人主義、物質主義、功利主義の思想が蔓延し、これを道徳の頽廃だと攻撃し、国体観念を明らかにし、日本精神に立脚した道徳観念を確立することが緊要だとしている。詰込教育の排除については、「いたずらに多量の知識を概念的、小学問的に詰込む」ために「各科目とも徹底せず生活力」となっていないとし、教科や学習内容を根本的に整理し、「自学自習を主とした創造力や応用力」の養成が急務だとした。

 さらに、体格の向上は、「国力発展の基本」としてとらえ、「児童の学習負担を軽減し、体育の充実を図ること」を重視している。また、実業教育の刷新は、「社会的要請」(企業の要請)であるとし、その内容と方法を改善することはもちろん、「特に勤労愛好の精神を涵養することは重要」としている。さらに、画一的制度の廃止と地方の実情への適合においては、「現在の教育はその制度が画一」だとし、その改善のために「教科目、教科書、教授時間等諸般にわたる事項について地方の実情に応じた裁量」が必要だとしている。

 以上は教育内容に関する改革のポイントであるが、その指摘は教育本来の正論ではある。注意すべきは、それらの一つ一つが、現在の教育改革の内容と符号することである。今流に言えば、「詰込教育」は知識偏重教育であり、「体格の向上」は体力の向上、「実業教育」は職業教育(すぐ使える労働者職業人)、「地方の実情への適合」は地方重視となる。そして、そのことは、以下の「入学準備教育の弊害」(受験制度改革)、「教員養成機関の刷新」、「教育財政改革」についても同様なことが言えよう。人はこれを「歴史は繰り返す」というが、歴史が繰り返すのではなく、政治経済体制が同じで、それを守ろうとする人間
の思想や思考に進歩がなければ同じパターンが繰り返されるのは当然のことである。

 昭和12年、政府は、「国体の本義」を二カ年で六十三万部を発行し、全国の学校に配布した。「国体の本義」は、「教育勅語」実践の理論的裏付けとなる教師たちへの解説書である。文部省が編纂して、ヨーロッパにおける近代思想と根本的に異なる日本民族固有の文化的土壌は天皇を中心とした国家体制(皇国)によるものであることを説く。たとえば、
「諸々の知識の体系は実践によって初めて具体的なものとなり、理論的知識の根底には、常に国体に連なる深い信念とこれによる実践とがなければならぬ。」として、知識もすべて万世一系の天皇国家にその忠義を尽くす行動によって確かなものとなる、という論法である。そのことは逆に、科学的根拠に基づく知識を排除し、忠義に合致した知識のみを教育していくということになり、その本質を示していて興味深い。また、近代思想についても一定の評価をするが、たとえば、「個人主義教育学の唱へる自我の実現、人格の完成」というものは、単なる「個人の発展や完成を目的」としているから、天皇国家の教育とは「全くその本質を異にする」として排除された。個人主義が偏狭な利己主義としてすり替えられ、個を超えたところに公(天皇制国家)の存在の高貴さがあるとしている。

 同じ年、昭和天皇が発した「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」はその実践を支える重要な精神的な支柱となった。一方、社会教育の分野では、昭10年に、実業補習学校と青年訓練所を統合した青年学校が創設され、そして昭和13年の義務化へと集約化されていった。

 昭和13年、政府は、「軍需工業動員法」と「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」に代わって「国家総動員法」を公布した。同じ日、改正「職業紹介法」も公布され、その第一条で、「政府ハ労務ノ適正ナル配置ヲ図ル為本法ニ依リ職業紹介事業ヲ管掌ス」と謳い、日中戦争下における国民の職業統制へ入った。その改正と軌を一にして、先の義務教育改革の一つであった「実業教育の刷新」の具体化として「小学校卒業者ノ職業指導ニ関スル件」が発表され、「児童ノ職業ヲシテ国家ノ要望ニ適合セシムルコト」とした。後の学徒動員の呼び水となり、働くことが己の生活と幸福追求の糧としてではなく、国家的要請に応えるものになったのである。

 「国家総動員法」の施行以後、この悪法は五十条の短い法律ながら約百二十の子や孫の法令を産み出し、法制の面から国民を束ねる戦争動員の大本となった。そのなかの一つの長男役が昭和14年の「国民徴用令」で、敗戦後廃止になるまで10回も改正を繰り返しながら戦争動員の手続きをとった。しかし、まだ、この時点で学徒たちは専ら学校のなかで「天皇国家の赤子」になるべく教化が行われていた段階である。

 昭和16年、「国民学校令」が制定された。学校教育の目的が「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ」となった。これまで教育内容の改革等によって日中戦争への道を突き進んできたが、教育の目的はまだ「道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」であった。この改正で「尋常小学校」から「国民学校」へと学校名の変更ばかりでなく、その目的の大転換でもあった。学校教育のあらゆる活動が「皇国ノ道」に基づいて行われるのである。そのような中で「天皇のために命を捨てる」という究極の人生観がまだ未熟な子ども達を洗脳していった。

 この目的は中等教育(「中学校」から「中等学校」)や高等教育、社会教育の中心となった「青年学校」までも拡大した。また、主たる教員養成機関であった「師範学校」や「高等師範学校」「青年師範学校」「高等師範学校」「女子高等師範学校」においても、同様であった。

 昭和16年を境にして、日本という国家体制は、12月8日の太平洋戦争開戦に向けて総戦争体制へと進むのであった。

戻るトップへ