証言  9

 アブチラガマから南部の伊原まで
 
              
久保田 (女性 ・旧姓知念 ・二十三歳)

 沖縄への空襲が日増しに激しくなった頃、1945年(昭和20年)3月23日に港川沖からの艦砲が玉城村を含む島尻の東海岸と南部一帯に打ち込まれ、家や野原が焼かれ、ものすごい煙が糸数まできて、米軍が上陸したら私達は後5分で死ぬんだといって皆おびえていた。

 翌日の24日は村で割当てられた壕(ガマ)へ避難するようにといわれ、父母と私の上の姉とその子供5名。次の姉とその長男、私と長女の12名は糸数部落の北側に沿った地下に昔からある自然壕、俗称「アブチラガマ」という大きなガマに避難したが、ここはすでに部落民の200名位が避難しておりましたので、私達身内の12名は空いている適当な場所に入りこんでいました。

    普段は下の暗いガマに皆と一緒にいたが、暗くて子供が泣くので、上の明るいガマに1日に2、3回位時々場所を変えて避難したりしていた。

 このガマは最初武部隊が避難する陣地壕として整備したが、昭和19年12月の末頃この部隊は台湾へ移動し、その後は球部隊が跡をついだ。ガマの中には軍が糸数部落の瓦葺の家を5、6軒位購入してガマの中に家がつくられ、大きな2段ベットみたような大人がかがんで歩ける程度の高さの2階の大部屋がつくられて、一時ガマの中は電気がひかれていた。

    ガマの中での電気は南風原陸軍病院から重症患者がくる前に製糖場にあった発動機で、ガマの中に電線をひいて、佐藤少尉が1か月位発電して明るくしていた。またガマの中には現在の出口の下の明るい所に朝鮮の慰安婦が居ったが、この方々も部隊の移動によって他の場所へ移ったであろう。

 アブチラガマの他に避難壕としてウマイー(馬場)の北のガマ「ウマクェーアブ」にも10家族計36名が避難していた。その他フシジョーガマ新川の上のガマウマイー小壕上の山壕ヤンビ一山や各家庭で屋敷に掘った壕などに避難しているのもいた。

 新川の上のガマ(糸数城跡の西側)には美田聯隊の医務室があって、村出身の神里常珍軍医もここにいて、10名位の負傷兵の看護にあたっていた。このガマには私の家の上座に宿泊して居られた松田軍医も居られ、富里の川端の知念一夫二等兵もここにいて、軍医の指示によって負傷兵の治療にあたっていた。

    私のおばあさんは家にいる時、艦砲が落ちて大腿骨を負傷したので、松田軍医が新川の上のガマの医務室につれてくるようにと言われて、私達親子と親戚の方々6名はこのガマに避難しながら、おばあさんの治療をしていました。

    4月20日頃松田軍医は前戦に行くといって、このガマから出られる前に医薬品の包帯・ガーゼ・消毒液をおいて下さって、「これでおばあさんの治療をしなさい。」と、言われ、私はこの薬品で治療をしていた。

    5月初句頃神里軍医も首里へ行く、といって負傷兵を残したまま出て行かれた。

    このガマで知念一夫二等兵から負傷兵の治療も頼まれ、おばあさんの治療もしながら約 1か月位ここで協力してやっていたが、知念一夫二等兵も首里前線へ行くと言って出て行くし、このガマには軍医がいなくなったが、このガマにいた負傷兵は重症患者はいなかったので、多分南部へ移動したと思われる。私の子も大分衰弱していたので、隣りのアブチラガマを往復し軍医に診察をお願いしたりした。

 アブチラガマには村出身の大城幸雄軍医がおられたので、子供の診察をお願いし、村出身の看護婦ヨシ子が注射を3、4回位やってくれたが、思わしくなく5月の中旬頃新川の上のガマで亡くなり、私は一時茫然としていた。

    このガマも危険であったので、負傷したおばあさんをアブチラガマに移して、ここで看病していたが、傷が深くて終になくなられた。

    私達はこのガマにしばらく避難していたが、米軍の艦砲やB29(グラマンのことか)の爆撃がガマの近くに炸裂するようになった頃、このガマに友軍の球部隊が病院壕として設置されてあったので、その後 5月1日に南風原陸軍病院から重症患者約 600名が、防衛隊によって担送されて、このガマに移動して糸数分室とし、村出身の大城幸雄軍医を院長として看護婦2人、衛生兵やひめゆり学徒隊14名もここへきて、重症患者の治療にあたっていた。

 避難民のガマでの食事に使う主食の芋掘りは昼は危険であったので、夜芋掘りに行った。あちらこちらの芋畑では附近に避難していた首里や南風原の人々が、4、50名位芋を掘っているのを見た。鍬はないので硬い木でつくった「ティビク」で掘っていた。野菜やパパイヤ等はすでに供出されてないので、毎日芋食であった。

    ガマの中で炊くと煙が出て、敵に感知され集中砲火を浴びせられるので、皆夜外に出て自分の屋敷で1日分の食事を炊き、鍋のままガマにもってきて、ここで食べていた。鍋類は外においておくと盗まれるので、皆ガマにもってきて保管していた。夜の食事炊き出しは現在の出口の所から出ると敵にすぐ発見されやすいし、監視兵が糧株倉庫を監視していたので、ここから出ないで現在の入口の所から出入りをしていた。

    この時ガマの中には多くの重症患者がいた。この時分仲里の屋敷のうしろの道には友軍の特攻隊が爆雷をもって整列をしているのを見た。皆20才以下の若い兵隊達で、これから中城湾に行くんだと言っていた。

 私達の父母は戦争前に武部隊にお茶をあげたり、芋やラッキョーの漬物をあげたりして仲よくしていましたので、台湾に移動する時に米2俵を戴いたおかげで、これを少しずつ炊いて食べていた。ガマの中は昼でも暗いので、石油入りの小壜に布をいれて、これを燃やしてアカ リにしていた。

    また4月頃部落内にビラがまかれ、私達のガマの近くまで落ちて飛んできていたが、これを取ると友軍の監視兵が「デマに迷わされるな」と拾うのを叱っていた。内容は「老人や女性や子供は安全な所にいておきなさい。米軍は殺すことはしないから‥・・‥」と、いう内容だったらしい。

 ガマの中の患者の食事はおにぎりが一日に1個だけで、夜炊くので夜中の12時頃にあげていた。飯炊きの時は避難している糸数の若い婦人達が炊事係のおばさんに協力して炊いてあげていた。ガマの中にある米や缶詰は避難民には分けてあげなかった。

    ガマの中での炊事は四、五日位で、ガマ内で火を燃やすと煙が充満して、皆咳をして苦しくなるので、すぐに止めて夜外に出て糸数樋川の所で炊いていた。避難中は風呂もないので、夜製糖場の所にある池で水浴びをした。ガマの中は大きい白いシラミが多く、着替えも充分になく、同じ服を着けっぱなしであった。

 その頃南風原陸軍病院からの重症患者が移送されてくるし、また前線からの負傷兵も日々増加するばかりで、ガマ内は負傷兵と糸数の住民がひしめきあっていた。

    私達若い婦女は割当交代制で、ひめゆり学徒隊と共に、負傷兵の身のまわりの世話や食事の炊き出しに昼夜協力してやっていた。

 ガマの中での重症患者は毎日6〜10名位死んでいたので、ガマの中にいる部落民が毛布で包んで、今の入口から出て上の畑に穴を掘って埋める等、軍に協力をした。附近に米軍がきてからの死体処理はガマ内の死体安置所のくぼみにおいたと思う。

    丁度その頃軍医から「お前達も知っている通り、このガマには次々と前線からの負傷兵で充満するし、お前達がいる場所も患者室として拡張するから、早く別の避難場所を探すか、又は南部方面に移動するか、一刻も早くこのガマを出るように…‥・」と、指示されました。

    私達姉妹3人は子供達を父母にあずけ、近隣の山林に避難場所を探し求めましたが、すべての避難出来る場所は、那覇・首里方面からの避難民でひしめきあい、私達11名が避難出来る状態ではありませんでした。

    途方に迷いましたが、私達は常日頃から最後は友軍が勝つと信じて居りましたので、私達姉妹3名は子供達をつれて、友軍が陣取っている南部へ移動することを決意し、父母に相談したら「南部へは行くな、自分達のガマで死んだ方がよい。外に出るな。」と、言って居られたが、私達は「こんな暗い所で米軍のガスで死ぬより、明るい所で死んだ方がよい。」と、言って南部へ行く決心をした。

    やっとのことで父母も同意したので、ここから出発したら親達もおっかけてきて、結局父母と私と上の姉とその子供達5名に次の姉とその長男の計11名の身内の者は早速行動しようとしたが、空や海上からの艦砲や爆撃が激しく、行動出来ませんので、夜間照明弾や砲撃を避けながら、南部へ移動を始めました。

    友軍から無理やりにお願いしてもらった手榴弾は1個だけ持参して万一の場合に備えましたが、身内の者11名で1個だけでは駄目だと思い、或る家族は3個もっていたので「1個譲ってくれ」と、頼んだが譲ってくませんでした。

    私達一行がガマを出たのは昭和 20年 6月 2日頃と記憶して居りますが、行動を始めたものの、昼夜をとわない砲撃のため中々進むことが出来なかった。ガマを出た時大雨が降っていたので、昼は危険でもあり、グスクの下の内原山に行っていたが、食糧を取りにガマの所へ行こうとしたら、米軍が近くに来ているとの事で、そのまま何も取らずに引きかえして、急いで前川から具志頭へ行った。

    具志頭部落の橋の傍で富名腰出身の湧上蒲助先生に会った。先生は「お前達は南部へは行くな。向うは激戦地で大勢の人が死んでいる。南部へは行かないで、糸数へ帰るか、知念村へ行った方がよい。」と、注意された。でも南部への移動を決心していたので、具志頭部落を通過する時に、私の隣り字当山の知り合いのおばさんとその長男(当時14、5歳)親子と出会い、それから同一行動でした。

 私達はやっとのことで真壁部落にたどりつき、部落の北側にある自然壕に避難したのが昭和 20年 6月の14日か15日頃だったと記憶しております。それから二、三日後の夜中に友軍の兵隊が4、5名程度来て「この壕は軍の作戦上必要だから他に避難するように」と指示されたので、私達は仕方なく避難場所を求めて行動していました。

    避難中食糧もなく、畑に立枯している大豆をむしって、生でかみ夜はよもぎ草を取りに行ったが、暗くてわからないので手当り次第ひきむしって壕にもってきて、昼よもぎの葉を選びとって、これをかんで食べていた。サトウキビもあったのでこれをかじって飢をしのいだ。

    附近の松の下や森の中は死者が一ばいで、特に新垣部落で水汲みに行ったら、50名位の人が死んで居り、この死体を飛びこえて溝の所で水を汲んだ。水の中には赤い虫が一ばい居ったが、これを汲んできて畑から大豆を取ってきてこれを炊いて食べた。

    避難中道に迷うて砲弾が激しいので、米須の畑のススキの繁みに1週間毛布をかぶって身をひそめていましたが、6月20日の夜明け方私達のすぐ近くに艦砲弾が落下し、その爆風や破片で私の父母・姉2名・姪5名計9名はその場で即死しまたが、私と甥と同行した当山のおばさんの3名は全身数か所に傷を受けたが、生命に支障はなく、また私は戦前3年間看護婦経験がありましたので、直ちに止血応急措置をしました。

    6月23日に伊原の部落近くで米軍に発見され、私達の負傷に気付き、「心配ない、早くこのトラックに乗りなさい。」と、手招きされ、私達はトラックで豊見城村の伊良波の米軍の野戦病院に運ばれ、すぐに応急治療を受けた。

    甥は足に重傷を負っていたので4名は更に宜野座の米軍病院に移送され、甥の足はここで切断した。それから入院生活が始まりましたが、不幸にも当山のおばさんは傷が悪化し、その病院でなくなりました。その人の長男は母の処理も済まして昭和 20年の10月の末頃自分の本籍へ帰りましたが、私と甥の2人はこの病院で6か月間治療を受けていました。

 病院から昭和 20年の12月 25日玉城村仲村渠の下田に部落の人がいるとの事で、そこへ行きました。隣りの百名には病院がありましたので、甥の足の傷の手当を浜松医者にみてもらいました。

    翌年の7、8月頃下田から富里へ来て、更に本番の糸数へ行った。字民が仮小屋を造ってくれてあったので、ここで生活することが出来た。

    思えば艦砲で亡くなった次女の姉は昭和 19年 9月 23日の疎開船で内地へ行くことになっていたが、疎開船も危険であったので疎開を断念した。もし内地へ疎開しておれば今頃元気だったかも知れない。人の運命というのははかないものである。

 私は南部の避難地で野ざらしにされている肉身のことを考えると心が落ちつかず、長女の姉の夫の兄に協力依頼して、艦砲でなくなった身内の方々の遺骨を取りに行った。行く前に富里の焼け残った幸之一病院跡にC.P(赤帽 ・民警のこと)の巡査事務所があったので、そこの知念所長にお願いしてC.P2名に私と知りあいの兄と4名は現地へ集骨に行った。

    この附近は米軍の黒ん坊(黒人)がたんさんおり危険であったので、C.Pも2名つけてくれた。私は艦砲で亡くなった9名の方々の戦死した場所を去る時に念のため石で目印をしてありましたので(2つの石を横に並べその上に平石をおいてあった)、その石がそのまま残っていた。その目印や遺留品で確認することが出来たが、つけている着物はなく白骨化し、姉の時計とお金もあり確認出来たので、9名の骨を 2人でカシガー(麻袋)に分けて持ち帰えり、おのおのの墓に納骨することが出来た。

    私は負傷して体に不自由はあるものの、現在家庭の留守をしながら家事に専念しております。

 以上の通り私の戦時中の行動の総てを申し述べましたが、最後に50年前の悪夢の出来事はだれをうらむものでもない。あの当時の軍国主義教育と戦争のすべてが悪いのです。生きている限りあの悲惨な沖縄戦は生涯忘れることはないでしょう。

                                            『糸数アブチラガマ(糸数壕)』 (玉城村)

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