証言  8

手術場勤務とロ−ソク踊り

                                                       真栄田(?歳 ・女性・旧姓長嶺)        
 落盤騒ぎから数日後、いつものように外科病棟に勤務中、突然名前を呼ばれて上の壕の手術室勤務を命ぜられました。津波、垣花、桑江、與那覇文と私の五名。全財産の入った軽いリュックサックと肩掛けの救急袋をさげて、百メートル位離れた丘の中腹に位置する上の壕に引っ越しし、早速昼夜二交替の勤務についたのでした。飯上げ、水汲み、用便の世話、手術の時の雑役の明け暮れでした。

 上の壕は岩盤で、採石場の跡をさらに拡張して掘り抜いた人工壕で、L字型に掘られ左手の方が二段収容になっていて、奥と手前に二人ずつ収容されていました。そこで休んだ記憶はほとんどありません。通り抜けができてラッパ状になっている西側もまた、二段収容で独歩患者が大勢収容されていました。

 辺りが夕闇に包まれる頃、衛生兵と看護婦が壕の入口でステンレスの消毒器に、手術用のメス、鋏、ピンセット、鋸、注射器、針等を入れて、七輪に木炭で火を起こして煮沸消毒に取りかかりました。いよいよ手術が始まります。手術室は壕の入口のすぐ右手の方に、六畳間位の剥き出しの岩壁にカンテラが数箇所に下げられ、高さ一メートル位の手術台があるだけ。

 患者はほとんど手や足の切断でした。内田和三郎上等兵(医師の卵だと聞いていました)が患者の腰椎に全身麻酔を注射すると、数分で意識がなくなります。局所をアルコール消毒して、石黒信芳軍医中尉が執刀、メスを入れた途端、ムクッと白い脂肪が飛びだし、皮膚を上下から切り肉をえぐり骨を糸鋸でゴシゴシ切り落とし、血管や神経を引っ張って奥で結び、皮膚で包むようにして縫合して行くのです。 看護婦は器具を軍医や衛生兵に手渡す役目で、学徒はもっぱら灯り持ちでした。

    二名の学徒はローソク四本を両手の指の間にはさんで、手術の局所を照らす役目でしたが、ローソクをたらしたり、ゆらゆら揺らしたり、その上、連日の睡眠不足でついうつらうつらしたりすると、軍医に肘で(手は消毒されたゴム手袋をしていました)小突かれ足で蹴飛ばされました。すると、ハッと我にかえりました。それはローソク踊りと呼ばれていました。

 切断された大きな手や足を「捨ててこい」と手渡されます。体から離れた手や足のずっしり重いこと。ひとまず壕の入口に置かれてあるブリキの空罐に入れておきます。一晩で四〜五人の切断手術が行われ、終了する明け方には満杯になりました。早速、金城奈津子看護婦が「これ担ぎなさい」と命令。「はい…」と満身の力と勇気をふり絞って、一瞬目をつぶって罐を担ぎます。重い……。怖い……。素早く壕を飛び出し一番近い爆弾穴に、肩から一挙に流し込み、手でそっと土をかけて、空罐を持ち逃げるように壕に駆け込んだのでした。

 その頃は、前線から続々、負傷兵がトラックで運ばれ、手術を待つ負傷兵は壕内には収容不可能となり、担架に乗せられたまま壕の外に並べられていました。負傷兵は、人体の絵が刷り込まれた荷札のようなものがくくりつけられ、貫通、盲管銃創(弾丸が貫通せず体の中に止まっていること)、擦過症の印がついて、負傷部分がチェックされていました。運ばれてきた時、回復の見込みがなく、既に、ガス壊疽に冒されている負傷兵も多く、施術もせず擬装小屋に収容されていました。

 昼夜二交替の勤務もいつの間にか二十四時間勤務になり、「み号剤」の空瓶に包帯で芯を作った小さなランプを片手に持ったまま、岩壁にもたれてまどろむ程度になりました。昼夜の区別がまったくなくなり、尿瓶(薬の広口瓶に、包帯で吊手を作ったもの)を下げて、厠の処理に行く時だけチラッと太陽を仰いだのです。

 飯上げに行く炊事場は、本部坑道の広場に擬装されたテントを張り、大きな石で窯を作った簡単な設備でした。毎日のように標的にされるので、その都度、場所を移動しました。東風平の教育隊の炊事係りだった正善寛治上等兵が私たちを覚えておられ、愛想良く声をかけて下さいました。門歯二本が銀冠だったのが印象に残っています。

 玄米の重湯、五分粥、全粥、汁、惣菜と五個の食罐を長い竹竿に吊り下げ二人で前後して担ぎ、丘の中腹に上り岩間を抜け、道なき道を行くのです。竿がしなって揺れ、凸凹地面をすったり岩にぶつかったり、容赦なく炸裂する砲弾の中を伏せては担ぎ、担いでは伏せて、やっとの思いで患者の元へ運びました。勤務の中で一番恐怖。「やられる時は一瞬に死にたい」とその度に思いました。
    壕には一滴の水の蓄えもなかったので、患者の水筒を肩に掛けられるだけ掛けて、五百メートル位離れた麓の富盛集落の井戸で水を汲み、髪を洗い体を拭き、身に着けている上着を手早く洗って、濡れたままの上着を着て帰る事もありました。この頃には砲弾の遠くに落ちるのと至近弾とを聞き分けられるようになっていました。

 度の強い眼鏡をかけた野田隆平上等兵から、内緒で水がわりにアンプル入りの五十CCの蒸留水やブドウ糖液を飲ませて貰ったこともありました。とても気立てのやさしい衛生兵でした。

                                『沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録白梅』(白梅同窓会)

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