証言 7

     壕から壕へ    
                                                                                新 垣(女性 ・?歳)

 最初は神差(地名)の後の「アバサーガマ」に避難した。そこから友軍におわれ、仲メーゾーのガマに入ったが、ここからもおい出された。いっしょだったのは、仲メーゾー、トクメーゾー、次男メーイリメーチ、東トクミージ、イリー、アガリタナバル、ガーターンーメー、次男イリメーゾーなどの四〇人位であった。

    イリメーチのおばあさんも、アナガー(穴蔵)に入っておられた。後で真壁の「アンガー」にいったが、そこからも出されて「ウンザーガマ」(伊敷の南)にいったが、そこからも友軍におい出されたので、また「アバサーガマ」に来た。夫の重太郎は前に防衛隊に出ていたが、艦砲の破片で右手に重傷をうけ、「アバサーガマ」に来ていた。

 ガマから出る時、つなで夫をせおい、水筒には水を入れ、ふところに砂糖をもった。道中で夫の気分が悪くなったら、あげるつもりであった。時々はつねったりした。夜になってガマから出ようとしたが、照明弾がひんばんにうたれ、あたりはあかあかとしていた。

    なんとかして、はうようにして名城村の南、コーザンメーの家の近くに来た時は、夜が明けていた。そこで息子の重政が穴を掘り、一日はひなんした。ホリョになったのはその翌日である。他の人は、重太郎さんは重傷だからとても皆についてはいけないだろうといっていたが、私はどこまでもつれていくとがんばった。

    糸満に移動することになり、ウフグムヤーまでは来たが、歩くことはできないので背おっていった。糸満では休む間もなく豊見城にいくこととなった。ここから車に乗ることになったので、トクメンスルの叔父さんは、車の上から手を引っぱり、私は下から押して乗せ、やっと伊良波まで来た。

    私は軍の依頼で豆腐を作っていたので、知り合いもあり、色々とはげましもうけていた。時には山部隊のために、餅を作ってあげたこともある。

    前に捕虜となり、「アラレーガマ」の前を通った時、みればガマからはもうもうと火煙が立っている。火焔放射器で焼かれたのであろう。よくぞ「アラレーガマ」から立ち去ったものだと思った。夫は出血がひどくやせこけているし、頭にはシラミがたかっていた。
    
    捕虜収容所では、ケガ人は別室にといっていたが、私が見放すと死んでしまうと思い、夫のケガをかくし、いっしょの小屋へいくことにした。

    ゴヤ(胡屋)に行ってから休む間もなく、すぐノダケ(野嵩)ヘいくこととなった。ゴヤまでは、子どもらもいっしょだったが、どこではぐれたのかわからなくなりちりぢりになった。幸にイリーのおばさんが子どもらを見つけ、私に知らして下さったので引きとることができた。その時神谷仁清先生にお会いした。

    その後ノダキからクチャカイクン(古知屋開墾地)に移動となった。クチャ(古知屋)には神谷先生の奥さん達もおられたので、先生もクチャに来られた。その頃の配給食料はジャガイモのカンヅメであった。神谷先生にお願いをして、夫の傷をみて頂いた。

    先生がお休みになる家をみつけ、暫くそこへおとめした。夫は馬小屋があいていたので、そこで休むことにし、手当てをした。しかし出血はまだあった。古いフトンがあったので敷いて寝床とした。神谷先生のお陰で、夫を始め多くの人々が助かった。そのご恩は今でも忘れることはできない。

    ノダキでは健康な人は、作業に出たが、夫は出られないので私が出た。いもをさがしたり、食べる野草をとったりした。ごはんのおにぎりがある時も、自分で食べることはできず子どもらにやった。自分は豆腐のかすで作ったにぎりめしを食べた。

 やがて故郷へ帰ることとなったが、しばらくは糸満にある仮小屋へ住み、後に名城へ帰った。名城では、初めの中はメーンスル小の屋敷にできた茅葺きの長屋に、インスル、アガリウンスル小の家族と共に住まった。しばらくしてから自分の屋敷に移った。

                                                          『 なあぐすくむら誌』(糸満市字名城)

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