証言 6

  砲弾の中に避難(八名が犠牲)
                                                            知念 (男性 ・十四歳)

 当時、家族は十六人の大世帯だった。昭和十八年叔父の栄昌が召集され支那大陸の戦線へと行った。昭和十九年十月十五日、三男叔父の栄徳が初年兵として武部隊に入隊し、豊見城村の根差部へ行った。そこで駐屯中、おばさん(栄徳の妻)と二人で度々差し入れを持って行った。十二月の下旬、叔父の栄徳は台湾派遣軍となって行ってしまった。

    間もなく父も防衛隊として沖縄守備軍に召集され、クシヌカー(字東風平の屋号長田の後の井戸)に行った。クシヌカー一帯は沖縄守備軍三十二軍の第二十四師団防疫給水隊の基地があった。又、叔母のハル子も県立第一高女の三年在学中、学徒看護隊として南風原の陸軍病院へと行った。一家から四名も働き盛り者が国の為、天皇陛下の為にと戦場へとかり出されていった。

 戦前、私の家は農村では比較的甘蔗作りが多かったので、十 ・十空襲の日も砂糖製造を予定していた。ところが米軍が那覇の港、飛行場、そして那覇の町を空襲していたので砂糖製造を中止した。

 祖父は家の再建築を予定し、与那原から多くの建築資材を買って積んであった。敵機がこっちまで来て焼夷弾を落とされて焼かれては大変だといって資材の上に砂糖甘薦を積んであった。ところが、十 ・十空襲は那覇だけの空襲で終わって田舎には一機もこなかった。

 私達は、激しい米軍の攻撃で県都那覇市の焼けるのを高い所から眺めていた。ある人は空襲が終わったら那覇に行って爆弾の破片で鎌を作ろうじゃないかという者もいた。当時は鉄器類は極度に不足し、売る店さえ無いくらいだったから破片で鎌を作る思いつきも当然うかんでくるのであろう。

 昭和二十年三月下旬頃、空襲が始まった。又港川から艦砲射撃もあった。日本軍も住民も米軍の上陸は港川から来るであろうとささやかれていた。祖父も港川から敵が来たら、東風平は戦場になるであろうと思って、急いで荷物をまとめ、家族揃って馬に乗せ、中城村の知人の家に避難をさせた。その晩、祖父は中城の知人と酒をくみかわしながら、「生きていたら又会えるからな…」などと、話し合っている中に酔ってしまった。帰りは馬車馬の手綱も私が取った。

 二、三日すると顔色を変えて家族全部が引き返して来た。アメ リカ軍は中部から上陸しているからだと言っていた。私も予期していたとはいえ、ショックだった。

 その頃から昼は外に出る事が危険になっていた。家の近くの防空壕に家族がひそんで敵の砲弾から身を隠していた。防空壕もこの時に備えてコの字型に掘ってあった。間もなく球部隊の兵隊がこの壕で炊事するといって来た。兵隊とは争えないので一方の入口を彼等兵隊に貸した。兵隊は壕を掘って大きくして炊事場として使っていた。

 祖父は砲弾の止むのを見計らって再々家を見廻っていた。祖母は、壕口に立って、家は大丈夫だろうかと見ている中に祖父が艦砲の破片でやられて倒れるのを見て「アキサミヨー……」(方言で悲鳴の声)と、祖母の涙声にみんなびっくりした。炊事をしている兵隊にもお願いして、四名で両手足を持って壕の中に連れてきた。

    祖父は、「早くハルを呼んで来い」と、何回も叫んでいた。しかし、外は米軍の飛行機の機銃と、艦砲で出るに出られない有り様だった。祖父の傷は大腿部切断も同然、片足は皮でくっついているようなものだった。大動脈からの出血はひどく止血の術がなく、間も無く帰らぬ人となった。

 祖父が亡くなったので、近くの壕にいる親戚と防衛隊へ行っている父を呼んで、葬式の事で話し合った。父のいる部隊のヤマトゥーは父が逃げはしないかといって着剣で父の後をついて来ていた。

 早速、棺箱を作って夜が明けない中に祖父のダビを済ませた。翌日、陽が落ちて「ナーチャミー」(葬式の翌日お墓参りをすること)にといって線香と水を持参して行ったら、墓の側にある機関銃陣地の兵隊に止められ、問答の後ようやく通され、「ナーチャミー」をする事ができた。兵隊は、私等がスパイをするとでも思ったのか?…、いやな思いをさせられた。

 祖母は、祖父が亡くなったので、此処は危ないから上の壕に行こうとみんなを引き連れ移動した。その頃、ここら辺にいた兵隊は中部の戦線に行っていなくなっていた。

 五月の中旬頃、首里の後方や運玉森では日米の戦闘で砲弾の飛び交うのが見られた。間も無く、父の戦死の報せが来た。祖母は本当かどうか、オジー(祖父の弟)に頼んで確認させたら、間違い無いという事だった。それを聞いて気丈夫な祖母もがっかり悲しんでいた。

    父は防衛隊で運玉森で負傷した兵隊を後方に運搬する任務のようであった。この任務中、頭の右側を破片で砕かれ重傷だったようである。でも車で後方に下がる時などは「私はどこも痛くない。なんでもない。」と、本人は言っていたようだが「クシのカー」に来る迄には亡くなっていたと、防衛隊仲間は言っていた。この頃は私等が行って父を葬る事も出来ない程になっていた。

    父を葬った仲間も戦死したので、父の遭骨も分からないまま、戦後は「ヂーチヌヂ」しかできなかった。父の墓碑もあったが、その下を掘ってみると遺骨と一緒に印鑑もあったので、父でない事がはっきりしていた。後で聞いてみると芋掘りの人々が墓碑を抜いていい加減に立ててあったようだ。

 六月の始め頃、兵隊も住民も南部に雪崩をうって流れるような避難民と兵隊の群があった。首里城が落ちて、米軍に追われているのである。私達も家族揃って南部に避難した。世名城の知念屋取を通って高良の上から一路安全地帯へと避難した。辿り看いた所は真壁部落だった。

    そこには大きな瓦葺きの家があり、馬小屋は二階建ての立派な建物だった。この小屋から日本軍が出て来ていきなり私の持っていた豚脂(ラード)をそっくり兵隊に取り上げられてしまった。強盗同然な兵隊のやり方に唖然とさせられた。今まで国を守る兵隊、住民を助けてくれる兵隊と思っていたら、それは逆だった。兵隊にやり返す力のない私達は自分ながら哀れを感じた。

 この家の後には大きなガジユマルがあったので当分ここで避難していた。祖母は、一ケ所に全員いたら、もし爆弾が落ちたら全滅のおそれがあるから、二、三人ずつ別れるように注意していた。祖母は家系が絶える事が非常に心配していた。

    その中、立派な二階建ての畜舎と、石垣囲いに、艦砲が落ちて、多くの犠牲者が出た。赤ちゃんを抱いている母は破片でお腹を切り裂かれ赤ちゃん共々大怪我をした。又、叔父の妻も男の子を抱いたまま負傷した。又、初年兵に行っていた字東風平の知念栄吉さんの所に来ていた、妻子を守りに来たはずの旦那(知念栄吉)さんも同時に破片で即死してしまった。

    二階の畜舎にいた兵隊も直撃弾で全滅した。真に生き地獄同然の光景であった。祖母はびっくりして、ここにいたら大変だ、移動するといい出した。怪我した母と叔母はまだ意識はあったが傷の部分には蛆が一杯うようよしていた。間もなく、母の親子、叔母親子は傷の手当てもできず、これがもとで息絶えてしまった。砲弾雨の中、母と叔母親子の埋葬もできずに野放しにして、残った者だけ避難場所を移動した。行き着いた所は字新垣(現糸満市)とかいっていた。

 新垣には壕があった。多くの避難民がこの辺に押しかけた割に、この壕には一人の避難民もいなかった。私達家族と西原のおじいさん達親子がこの壕に入った。

 この壕に来てから食糧も不足がちになって夜毎、畑に出て甘蔗や芋を取って来て食べていた。畑の中からは、「助けてくれ−」の悲鳴があっち、こっちから聞こえてくる。中には痛さをこらえて、ウンウン、うなっているのもおり、ことばでは言いつくせない状況だった。

 この壕で何日か過ぎた。ある日、壕の周辺から騒々しい人の声が聞こえて来た。西原の姉さん(おじいさんの娘)が、いきなり、なんだろうと外に出た途端、アメ リカ兵に見つかってしまった。娘さんは大声で「アメ リカーだよ」と、叫んだ。壕内は忽ち騒然となった。どうしようかと、迷っている中に、アメ リカーは「カマワン、カマワン」とくり返し言っていた。みんなはどうなろうがとにかく出てみようと決心し壕を出た。

    西原のオジーは恐怖の余り、全身がふるえていた。オジーは腰に紙幣を丸めて包んで持っていた。米兵はこの包みを指さして「これはなんだ」と言わんばかりにオジーに聞いた。オジーは慌てて包みをはずして紙幣をアメ リカーに渡そうとしたら、米兵は、これは要らん、と受けとろうとはしなかった。

 これで私達も米軍の捕虜になった。外に出てみると米軍は草木の生えている茂みは全部火炎放射器で焼き沸っていた。一木一草、すべてが黒く焼け、南部一帯は見るも無残としかいいようがなかった。

 私達は、早速、米軍の車に乗せられ、与那原から糸満に通ずる道を通った。車上から、自分の家も見た。家は煙が出ていた。間もなく稲嶺の十字路で下ろされた。そこには多くの住民や兵隊、防衛隊などが戦さで疲れきった顔で座っていた。

 稲嶺から、知念久手堅志喜屋と収容所を転々とした。どこに親戚や知人がいるか探すつもりであった。しまいには目取真の収容所に落ちついた。目取真では、志喜屋で規格住宅造りの作業があったので泊まり込みでその作業に出た。その頃、叔父の栄幸も台湾から帰還していた。

 昭和二十一年、七月だったか、東風平村の住民も生まれ故郷に帰れるようになった。

 家は祖父が家を再建築する為に戦争前に購入してあった資材で家を建てる事ができた。その中、叔父の栄昌も佛領印度支那(今のベトナム)から帰還していた。

 叔母のハル子だけが待てど暮らせど帰って来なかった。叔母はひめゆり部隊の皆さんと共に米須の壕の中で日本の勝利を信じて自爆したのではないか。又、ヨシ子(叔母)も積徳高等女学校二年生だったが家族と離れてどこで亡くなったのか十四歳の若さで亡くなっていた。

 十六名の大家族から八人が沖縄南部の戦場で米軍の砲弾の犠牲になった。

                                                 『東風平町史 戦争体験記』(東風平町)

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