証言 5

  戦禍を逃れて
                                           大城 (旧姓赤嶺 ・十六歳 ・女子学生)

 昭和19年10月10日、私は、朝6時半、南風原駅発、那覇行きの汽車に乗っていた。那覇市にある女学校への通学のためである。汽車の中は通勤の人や、学校へ通う中学生、モンペ姿の女学生等が乗り、殆んど満員であった。真玉橋を過ぎた頃、誰かが「那覇の上空で演習が始ってるよ」の声で汽車の窓から、飛行機と高射砲の砲弾の炸裂するのを眺めていると突然汽車は止まり、乗客が騒ぎ出した。「演習ではなく敵機来製だ。早く汽車から降りろ」の声で、みんなが慌てて汽車から飛び降りた。

 茅をかきわけながら丘に登って行くと、少し掘られた防空壕があったのでそこに隠れた。そこから澤山の敵機と高射砲の砲弾の炸裂するのがよく見え、又、那覇港の辺りから真黒い煙がもくもくとあがった。

 敵機は大編隊で耳も裂くような爆音と共に私達の頭上にも襲いかかって釆た。ひっきりなしに来襲する敵機の隙をみて、森や、きび畑に隠れながら家に着いた頃には日も暮れかかり、空襲警報も解除になって居た。「沖縄も大変な事になったよ」と言う父と共に真の丘に行くと、そこから見える那覇の空は真赤に焼け焦げ続けて居た。その日に那覇の街は殆んど焼き尽くされ、私の通学していた学校も焼けてしまった。

 併し近くにあった知事官舎が焼け残っていたので其処で授業は行われたが、もう、その頃から私達は垣花天久の高射砲隊の陣地構築の為に、毎日毎日、土運搬の作業に動員された。そのとき、日本の勝利を信じて居た私達は一日の労働が終り家に帰える道すがら軍歌を歌い足も軽やかに戦勝気分で帰宅したものでした。

 その頃には、公共建物は殆んど軍が使用していたが、南風原国民学校も陸軍病院となり字兼城の家々には、軍人や軍属が入居するようになった。私の家にも陸軍病院の婦長、看護婦、雑役婦のオパさん達が一緒に住むようになっていた。又、部落の事務所である「ムラヤー」も、看護婦の宿舎に変り、道で行き交う人も兵隊や軍属の人が多くなっていた。その頃には軍も食糧が欠乏し、軍病院の入院患者も食物を求めて民家を尋ねて来るのが、しばしばだった。

 昭和20年の正月、私の家では豚を屠殺して豚肉料理を作り、又、タビオカのお餅を作って婦長や看護婦、雑役婦のオバさん達と一緒に新年を迎えました。婦長は熊本出身で従軍看護婦として支那に赴き、それから沖縄に転勤になったが、もう10年間も戦地勤務をした方で、その婦長も初めて食べるソーキ骨の汁を珍らしそうに、でもおいしいと言って澤山食べていました。併し、そのような楽しく一緒に食べたのもこれが最後で戦争は日一日と激しくなっていった。

 3月頃から空襲警報のサイレンは、昼となく夜となく響き渡った。婦長や看護婦たちは緊張の毎日が続き、空襲のない夜中にも突如飛び起きて「空襲だ」「空襲だ」と叫び陸軍病院へ走って行く日もしばしばだった。

 3月24日の夕方、港川方面に艦砲射撃が始まり家族で心配していると、婦長や看護婦達が荷物を取りに来て、「南部は戦場になるから早く北部へ疎開しなさい」と言ったので父はその夜のうちに祖母、母、妹それに私の四人と叔母達二家族女子供だけ合計13名を山原(本島北部)へ疎開させた。私達を送り出した父は親類のオジーさん達の世話や、家の後片付等の為に残った。

 私達が兼城を出る頃には東風平から来たと言う避難民もいたので心強くなった。

 首里を過ぎて「此処が普天間の街道だよ」と言う声を聞いた頃には、道路は避難民でいっぱいになっていた。暗い夜道を各々の家族が離れ離れにならないようにお互いに名前を呼び合い乍ら歩いて行くと、明け方近くに、美里村池原と言う所に着いた。遠くから敵機の音も聞えてきたので私達は茅ぶきの家を見つけて昼中はそこに隠れた。

 日が暮れて煙もくすぶり、悪臭を放つ焼けあとの残る部落を通り、海の近くに来たときに、そこが石川海岸であることを知り、「石川を過ぎれば金武村だよ」と言う声を聞いたときは、本当に、“ほっ”とした。

 しかし歩いても歩いても遠い道、疲れきった避難民の群。つまづき、よろめき、倒れそうになるが、みんな必死に歩いている。夜の明けないうちに金武村にたどり着かなければ其処には隠れる場所もないので危険だ。年寄も子供も声も無く、唯、足を交互に前に踏み出すだけだった。通り過ぎて来た南部方面の夜空には一つ又一つと照明弾が不気味に上っていた。

 夜明け前、大きな木に囲まれた金武のお寺の洞窟に着いた。薄暗い洞窟の中は、中、南部からの避難民がいっぱい入っていた。夜が明けると上空は敵機が飛び交い、遠くで爆弾の炸裂音がひっきりなしに聞えた。

 やがてその日も暮れ、私達は目的地の宜野座へと出発し、深夜に宜野座に到着した。此の村は字兼城の疎開割当地であった。

 それから4、5日後に到着した避難民から敵は既に読谷山に上陸していることを聞いて驚き祖母と妹は、先に疎開していた字兼城の婦女子、老人達、又、多くの避難民が隠れている宜野座の自然洞窟に残して母、叔母(子供をおぶって)と宜野座の山中へ防空壕を掘りに行った。

 その間にも宜野座にも米軍が来て、自然洞窟に隠れていた多くの避難民は米軍によって金武に収容されていること、又、住民は殺さない事等を宜野座から来た人から聞いたので、私達は山を降りて金武に行った。

 金武では、疎開していた字兼城の人達50人位が恐怖に脅えながら1軒の民家に一緒に住んだ。そこには日本兵を探す為武装したこわい顔の大きな5、6人のアメ リカ兵が鉄砲を構えながら、1日に何回も家の周囲や、家の中まで探しに来るので、殺されはしないかと私達は身の危険に脅えていた。

 しばらくして米兵は私達女、子供には危害を加えないことがわかった。
 米兵は毎日見ているが目前で戦争は見ていなく、果して戦争がどのようになっているか全然わからなかった。私連子供には、すぐにも家に帰られるぐらいに思っていた。

 米軍の命令で金武から古知屋に移された頃南部方面からの住民が、米軍のトラックに乗せられて続々と古知屋に来た。

 古知屋では、開墾地に山から切り出された丸太で多くの小屋が作られ、南部から送られてくる避難民の住居に充てられ、忽ち大きな部落が形作られた。私は避難民を乗せたトラックが着く度にその中に父がいないかと探し求めた。しかし見あてることは出来なかった。

 或る日、南部の戦場から来た友人に会った。その友人は同じ学校の一級上級で看護隊として従軍していたが、南部戦線で激戦に次ぐ激戦の中で病院の存続も不可能となり看護隊が解散になったこと、そして壕内で火焔放射器の掃射を浴び、行動を共にしていた看護隊の同僚や、多くの人がその時に最期を遂げたが、その友人は頭髪を焼かれただけで九死に一生を得たことを話してくれた。

 それから幾日か過ぎた或る日、宜野座に、負傷者を収容している病院があると聞き、もしや家を出るとき以来離れ離れになった父が負傷でもして収容されていないかと、知人と一緒に山を越えて行くと、そこには澤山のテントが張られて重傷患者がテントいっぱいに収容されていた。そこで片足を失った友達に出会ったときは、私は悲しくなり泣いてしまいました。幸か不幸か、そこでも父を探し当てることはできなかった。

 日本が戦争に負けたと云う話が出始めた9月頃、父が知念村志喜屋に生きていることを知り、私達家族は許可をもらって知念村へ移動した。

 知念村志喜屋で始めて見る父は、髪は伸び、顔は真青に痩せ衰えた病人でした。父は南部戦線を親類の老人二人を抱えて逃げ惑ううち、爆風で吹きとばされ、木の技にかかって命拾いはしたが破片で腕に傷を受けていた。

 父の話によると、私達が山原へ発った2、3日後には兼城部落にも爆撃が始まり爆弾による死者が続出した事や、父が爆風で吹きとばされたとき一緒にいた親類のオジーさん達2人も死んでしまった事等を昨日の事のように話してくれました。

 志喜屋では澤山の男女が警官(CP)に守られて砲火に荒れ果てた畠へ芋掘り作業に行ったが、芋掘りの行き帰りの道端には数多くの遺体が、あちらこちらに散乱しており、その傍を通り過ぎるときには、皆無言で合掌するだけだった。

 やがて百名にハイスクールが出来たので入学した。教室は米軍の払い下げのテントが幾つかあり、形ばかりの机と腰掛があるだけでした。

 その頃着る物と云えば米軍の軍服の配給品で男も女も、みんな同じ服装をしていた。

 昭和21年3月頃、知念村に居住していた南風原村出身者は字宮城に移動した。

 7月頃から南風原村の各部落に移動が許され各字単位に男の人達が先に行き、焼け残りの材木で仮小屋を作り、それが出来上った頃に老人や女子供達は各自の部落に帰って行った。
                   
   『南風原町沖縄戦戦災調査2「兼城が語る沖縄戦』(南風原町教育委員会)

戻る戻る