証言40

 喜名東の壕で
                                    伊波(男性 ・14歳 ・軍用務員)
 私は当時、軍の用務員で座喜味のトーガーにある壕にいた球九一七三部隊におりました。数え十五歳です。

    その頃は郷土を守るというので徴用の年齢に満たない十六歳以下でも用務員という形で軍に雇われていたのです。我々の隊は本田主計大尉を隊長に百二十人ぐらいいましたかね、とにかく百名を越えていました。物凄い空襲が続き、敵の艦船が海を覆っていたので今にも上陸するような状況になっていました。
三月三十一日の夕刻、敵が上陸した前の日です。アメリカーの空襲は午後五時を過ぎると決まって途絶えていましたから、その空襲が途絶える頃を見計って座喜味のトーガーからイチャバーヤを通って喜名東の山の壕に逃げ込んだのです。部隊全部です。上陸すんど−してね。兵隊たちも先を争うように走っていました。

    イチャバーヤから県道を越えて山に入り、山道を駆けて海軍が南部に移動したために放棄されていた壕に移ったのです。そこは一般にアバラーヤシチと呼ばれていましたが、泉川からウフドーに行く道の背後の山です。
 山をぶち抜くように掘られたとても奥行きの長い壕で、壕の中には缶詰などが入った箱が所狭しと放棄されていました。兵隊はその缶詰箱を寝台代わりにしていた程でした。

    ところが四月二日にはアメ リカ軍はもう壕の前まで追っていたのです。そして昼前には私たちの入っている壕も迫撃砲の政撃を受けるようになったのです。壕の外は機関銃や迫撃砲、爆弾の音がもう何の音か分からないぐらいにがなり立てていました。ちょっとの切れ目もないほどです。

    でも、壕の奥の方では土嚢を積んで三人の兵が入り口に向かって銃を構えていましたからね。米兵も入ってこないわけですよ。ですから敵は入り口から迫撃砲を投げ込むのです。炸裂する轟音が耳をつんざき壕の中に白煙が立ち込めてね。それが間断なく続くのです。 ちょっとの間ですが、その煙が晴れるとちょうど壕の中からは、泉川からウフドーに行く道が見え、その道を歩いている米兵の姿が見えるんです。二〜三人の米兵が悠然と歩いているのが見えるのです。

    突然、壕の中から眼鏡をかけた一等兵が壕の入り口近くまで走って行くと銃を構えてその米兵を撃とうと構えたとき、壕の入り口から手榴弾が投げ込まれてね。轟音とともに入り口は白い煙で見えなくなり後で見るとこの兵隊は首がもぎれ、顔が背中に向いているむごい死にかたでした。あのむごさは今でも思い出すと身震いがします。思い出したくありません。

    この様に敵に包囲されている状況ですからね。敵の投げ込む手榴弾や迫撃砲で次々と死者がでるので、この死んだものは横穴に引きづり込むのです。ですからもうその頃からは、兵隊たちも生きられないと諦めていました。酒が開けられ、ラッパ飲みであちらこちらでも回し飲みをする兵や低い声で歌を歌う兵隊もいました。故郷の歌を歌っているようでした。人間死ぬ間際になると故郷や家族を思い浮かべるのでしょう。

    そんな中にも日の丸鉢巻きに白たすきをした四〜五人単位の切り込み隊が弾雨の中に飛び出して行きました。切り込み隊ですか?何度も何度も出ていきましたよ。当然だが行ったきりです。出ると同時に銃声がけたたましくがなり立てすぐに静かになるのです。ですから出て行った切り込み隊が全滅したことは壕の中でも分かりました。

    暗い壕の中は死が刻々と追ってくる、まさに追い詰められた地獄でした。切り込み隊は「もう鉄兜は必要ない」と鉄兜を放り投げて鉢巻きを締めるのがおり、将校の中には「もう鞘は必要ない」と鞘を放り投げるのもいました。私は壕の奥の方にいました。一人の兵隊が寄ってきて「君は子供だから或いは助かるかもしれない、やるよ」とお金の入った財布をくれて立ち去っていきました。もうみんな生きられないと知っていたのです。壕は馬乗りの状態でしたからね。

    夜になったら脱出しようと思っても照明弾が昼のように壕の外を照らし、砲音も銃声も夜になっても全然途絶える気配はありませんでした。耐えれなくなってただ死にに行くだけの切り込み隊が次々と壕を飛び出していきました。

    そのうちどこからともなく「壕を爆破するためダイナマイトの穴を掘っている」「明日の朝まで壕は持たない」との声が口づてに伝わってきました。ダイナマイトの穴を掘っていたかどうかはわかりません。多分恐怖がつのってそんな話になったのでしょう。どうせ死ぬなら壕の中に生き埋めになるよりは弾に当たって死んだほうがよいですからね。

    兵隊たちが次々と飛び出して行きました。 五人単位ぐらいが弾のとぎれるのを見計らって飛び出して行くのです。後の話ですがこの兵隊たちは全部やられてね。やられると水が欲しくなるのか川の水に顔を突っ込むようにして、四〜五体が折り重なるように死んでいました。

    私たちは兵隊ではないから脱出するのも一番後でした。壕の中には歳も私と大体同じぐらいの沖縄出身の少年四人がいたのです。中城の人で朝光というのも一緒でしたがね。この朝光とは戦後も何回か会うことがあります。この用務員だった沖縄出身の少年四人は「生きるも死ぬも一緒だよ」といってね。午前一時頃だったと思いますが、カシガーイール (かますをほどいた紐)を四人が握って一列になって壕を飛び出したのです。

    ところが壕を飛び出すと同時に照明弾がポーンとあがり辺りが昼間のように明るくなったものですから、一番最後にいた私は反射的にいま出たばかりの壕に飛び込んだのです。結局自分一人になったものですから心細くなってすぐに壕から飛び出しました。あのシージャーガーラ(喜名東にある川)川沿いを無我夢中で逃げました。あの川沿いには撃たれた日本兵の死体がたくさん転がっていました。惨めなものでした。

    後で考えると、たとえ壕から脱出できた者でも軍服をつけた者には生き延びることはできなかったでしょう。なぜなら何処に行ってもアメ リカ軍がウヨウヨしていましたからね。

 それから私の家族はヤンバルに避難していましたから、ヤンバルに行けば会えるだろうというので山づたいに石川に向かったのです。ところが伊波から仲泊に通ずる道があるでしょう、その道は米軍のトラックが引っ切りなしに通るものだから渡れないのです。しばらく木に登って様子を見ていましたが、とても突破できないと諦めてまた喜名に舞い戻ったのです。喜名に来ると牛山内のおじいさんに会ってね。その頃喜名の人たちはすでに米軍に保護されていたのです。それで喜名の人たちと一緒になったのですが、戦争の話はなるべく話したくないです。
                                                   「読谷村字喜名誌」から
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