証言 4

ベニヤ船を担いで
                                       當眞(男性 ・二十五歳 ・防衛隊)
 
八重山への徴用命令


 私は、両親が南大東島に出稼ぎに行っている間に生まれ、生まれて間もない三か月頃、両親とともに帰村しました。父嗣良は仲伊保の出身ですが、父の伯父嗣福に男子が無かったので帰村後すぐに養子に入り、宇佐敷に住むことになりました。父はもともと大工の棟梁でしたが、一九四一年(昭和十六)頃には手登根で精米所を経営するようになりました。

 私の妻は、知念村海野の出身で一六歳で大阪の紡績に行っていました。二人は、許嫁でしたから、それで私も一度くらいは紡績で働いてみたいと思い、大阪に行きました。当時は一度くらい大和に出稼ぎに行ってないと、一人前とはみなされなかったんですよ。それで二人で戻ってきて結婚をしました。澄が一七歳で私が一九歳の時でした。

 最初の徴用は四四(昭和十九)年に八重山の飛行場建設の作業に行くようにとの命令でした。ですが、船の出発直前に県庁にかけ込み、八重山行きを免除してもらうように願いました。というのは、精米所は私がいないと操業が不可能だったからです。機械は私でないと動かすことができませんでした。

 そうなると住民の食糧供給にも困りますので、それを理由に八重山への徴用は免除されました。代わりに近くの作業に出るようにということだったので、西原の飛行場の建設の時に泊まり掛けで行きました。

 防衛隊へ召集

    一九四五年(昭和二十)三月頃、具志頭村の港川に防衛隊として召集されました。球部隊の海上挺進戦隊で、避難をして人のいなくなった港川の集落の民家に駐屯していました。隊長の名前は大田大尉と言いました。特攻隊は一トンくらいのベニヤ板の船に爆弾を後ろに二つ積み、米軍の船に体当たりする役目でした。実際に特攻隊員が出撃するのを目の前で見、あとで港に揚がってきた遺体を運んだこともあります。

 入隊当初は、毎日壕掘りや訓練をやりましたが、規律がとても厳しく、勝手に洗濯をしても「自分勝手なことをして」と叱られてしまうくらいでした。

 日本軍は当初、アメリカ軍は港川に上陸するものと予想していたようです。今日、明日にでも上陸するかも知れないということで、港川の浜に各班から何人かずつ出て、アメ リカ軍の様子をうかがっていました。

 ある日、浜の近くに地下壕があって二、三人でそこにいると、アメ リカの軍艦の回りに友軍の飛行機が低空飛行しているのが見えました。米軍艦は、すぐにそれを見つけて砲撃しました。そしたら、その飛行機(特攻機)は火を散らして、逆さまに落ちて消えてしまいました。沖には軍艦がずらりと並び、艦砲も鳴り響き、グラマン機も飛びかっていました。そして上陸用舟艇を並べて、いかにもこちらに上陸するそぶりを見せて、結局のところ米軍は北谷の方に上陸しました。

 特攻艇を担いで

 港川の後方の壕には特攻艇が分散して隠してありました。特攻艇はベニヤで作られていて、陸に揚げる時には底が壊れないように、台が付けてありました。一トンくらいの重さがあり船を移動させる時には、三〇人くらいで担ぎます。

 といっても簡単ではないのです。これだけの人数で担ぐとなると身長にばらつきがあって、重量が平均して掛からないため、うまく担げない時があり、そんな時は、指揮官にこっぴどく叱られました。

 米軍が北谷に上陸してからだと思いますが、港川から大里村の大城まで船を担いで持って行き、さらにそれを豊見城村の高安まで運びました。昼間は壕の中に隠れていて、夜に移動しますが、私たちは毎晩のように、大城から船を担いで高安まで行きました。

 大きいサバニでこれに、爆薬を積んで真玉橋辺りから川に船を下ろして、久米島慶良間辺りに行くということでした。これで米軍の船に体当たりするわけですが、佐敷出身の人も一人犠牲になりました。

 自宅で捕虜に

    五月頃、首里・松川に弾薬を運びに行きました。その時、アメ リカ軍が安謝方面からどんどん攻めてきて、弾はどんどん飛んでくるし、黄燐弾も落ちてくる。これにやられたらひどいやけどだからね、通りがかりの墓の中に隠れました。

 墓の中にはほかに、行動をともにしていた私のいとこともう一人同じ部落の人が一緒でした。隠れたのは部隊を出る時に補充兵の人から「今度の戦は負け戦だ。だからどんなことがあっても生きるように」と、言われたことを思い出したからです。それでも一応私たちは、自分の部隊に帰ろうとしていましたが、国場の辺りで近くに艦砲が落ちて、前方にいた五人がやられました。その頃は部隊も転々と移動していましたから、私たち三人は佐敷に帰ることにしました。

 五月末にはアメ リカ軍は馬天に上陸しています。佐敷はアメ リカ軍が上陸する前に飛行機によって焼かれていて住宅は、瓦葦きの家がわずかに残っているだけでした。私の家も半壊していましたが、かろうじて残っていました。私は天井に隠れていましたが、MPたちがきて、敗残兵を探しまわっていました。その時にとうとう私は捕虜になって、屋比久の収容所に入れられたわけです。

 妻澄は長男嗣泉(三歳)と長女キク(二歳)を連れて、宮崎県西臼杵郡鞍岡村(現在は五ヶ瀬町)という所に疎開していました。両親は子どもたちが小さいので疎開に反対でしたが、妻はその頃カミダーリ(神がかり)していて、「早く行きなさい、今に激しく爆弾が落ちるから」と神様に教えられたと言って、自分から進んで疎開して行ったのです。

 その妻たちが、宮崎から無事に帰ってきたのは四六年(昭和二一)九月頃でした。  
                            
                                                      『佐敷町史・4戦争』(佐敷町)

戻るトップへ