証言39

移動命令を拒否して

                                                         喜納(男性 ・六十二歳・村会議員)
  教員を三十三か年やりましたが、その後、住民から村会議員になれと推されて、村会議員になったわけです。そうして村会議員になったら、中城村全部で二十四名です。そうして上陸当時になったら、村会を召集して、全会一致で久志村の瀬嵩に移動するようになったんです。その時にわたしひとり立って、出来ないと断ったんです。そうしたら皆、わたくしに顔を向けて、小奴はいけない奴だ、どうしてそんなことをいうか、全会一致しているのにどういうわけか、善良の議員ではないではないかと、強く言われたんです。

   それでは理由を言いましよう。国頭(沖縄本島北部の総称)に行ったら食料がない。それから、アメ リカがこっちに上陸するにしても、戦は、兵隊と兵隊がやるのである。それからあっちに上陸しないと誰が保証するか。今度また四番目に、同じく死ぬなら、なぜあっちで死ぬか、これまではあたりまえに言ったが、おしまいに強く出て、もしアメ リカ兵隊が鉄砲を向けたら、わしが真ッ先きになって見せるといったんです。そうしたら大馬鹿、これとは相手にならんといって、議会を解散してしまったんです。

    それからその翌日、村長、助役、収入役、県会議員、駐在巡査、議員全体、島袋(当時中城村、現北中城村)に押寄せて来たんです、わたしは島袋出身の議員だから。そうして吟味集会をして、あなたがたが出した議員は、どうもいけない、全会一致で移動を決議したが、ただひとり反対しているよ。だからわしたちがいうとおり移動するように、こうとき聞かしたですよ。

    その時にわたしはまた立ったですよ、行くな、わしがいう通りやれ、今いう通り食糧がない、同じ死ぬならこっちで死ね、兵隊と兵隊の戦さであって、人民は殺さない、そうわたしがいったんです。そうしたらみんな怒っているんですよ、役所から来た人たちは。皆さん、心配するなというけれど、われわれ二十三名がいうのがほんとぅか、これ一人がいうのがほんとか、どっちにつくかと、いろいろとひどいんです。二時間ぐらい自分たちのいうのがいいよ、どうのこうのいうんです。

    それでわたしはまた立って、もしアメ リカ兵が殺すようなことがあるなら、わたしが真先きに立つ、それでも皆が行くというなら行きなさい、といったんです。そうしたら、皆おちついてしまったです。それで町長や駐在巡査たちは帰ってしまったんです。それでその後まあ、安心したといって、そのまま誰も行きませんでした。

 それから四月一日もどうもない。二日目もどうもない。三日目は午後の二時頃だったですが、アメ リカ兵が鉄砲向けて来た。ああわたしの意見が間違ったかな、殺されねばならんかな、と思った。それに英語知らんでしよう、また、兵隊の前に行って頭こうして(おじぎをする)、おかしいんです、まあ芝居です。それでおしまいに、「ユー、アメ リカ、ゼントルマン」、といったんです。そうしたら変った手真似をしたんです。何かな、と思っていたら、二世をつれて来たんです。その二世がこれです(写真を示す)比嘉太郎。これが、ああ、喜納先生といって手を取ったんですよ。その時にアメ リカ兵は銃を引いたんです。それで安心して、人民にももうどうもない、どうもない、安心しなさいといって、これが教え子の比嘉太郎、(先に示した写真を出す)裏に書いてある。戦争中あったといぅことを。ここで学校出て、ハワイへ行っていたんです。それでその後、皆おちつかしたので、比嘉太郎に、教会を建ててくれといって、これがはじめの教会で、これです(写真を見せる)。

 ──そうしてこのことが、リーダスダイジェストに出たそうです。(中略)───

 その後島袋の前に大砲をすえて、首里にどんどんやっていたんですよ。それからアメ リカの日本語知っている、何といったかな、ああミョヘンという副領事が見えて、ここは危険だから、金武の福山に、移動することになったんです。

    千五百名の住民全部、アメ リカの軍のトラックで移動したわけです。それから福山で集団生活を始めたんです。それで昨年(一九六八)は住民皆で、ご招待して、歓迎会をやりましたよ。副領事です、日本の(駐日の意)。

    福山は、漢那(金武村、現在宜野座村)を越えて、宜野座字の上にありますよ。移動したのは、六月の中旬だったですかな、それまでは、島袋にいたんです。福山は今は金武から分村しているので、宜野座村になっているんですね。

    そこに約一か年いたんですが、戦争は、行ってじき終ったので後悔したですよ。早くおしまいになれば、移動させられなくてよかったのになあ、といって、後悔したですよ。

 そうですな、四月三日から六月下旬に、金武村の福山に移動するまでの島袋での生活はですな、製糖工場がありましたからね。避難民は、東方面ばかりではない。島尻からも、首里や那覇の方からも大分来たんですよ。でその方がたにも、砂糖をだいぶ積んであるから、全部分けて上げたんですよ。それから軍の米も沢山積んであったですよ。それも分けて上げたんですなあ。それで皆喜んで、島袋での生活は、ゆっくりでした。

    島袋の建物は、部落にいる間は、一軒もこわされてはいなかったんです。全部完全に残っていたんです。ところが、福山から帰って来た時には、一軒も残っていませんでした。

 島袋の字の一般住民で、部落に残っていた者には犠牲者はありませんでしたな。福山に行ってからも、マラリアはありましたよ。それで亡くなった人はいません。子供がハブに殴れたのはいましたね、福山で。マラ リアは軽かったですから。      

 福山での生活は、最初は楽でしたが、最後は海の藻(ほんだわら)や芋の葉も食べたし、それさえもなくて、いっときは非常に困りましたよ。

(註)宮城盛輝さん発言。「先生のおっしやるのは、島袋の部落はですね、戦争による戦争被害はほとんどないといっていいぐらいですね。ほかはですね、村でもですよ、疎開しています。働き得ないものは全部あそこへ行っておれといって、疎開してですね。今お話のあった久志に行ったのは(司会者の質問)皆犠牲になっています。そうして、島袋が疎開しているのは、戦争が終ってからですよ。この人(安里永太郎さんを示す)わたしといっしょに、喜屋武(村、戦後合併して現在糸満市)の福地ですね、あそこで六月の十九日捕虜になりましたのでね、この人はアメリカ帰りで英語を知っていたので、出て来いといったから出って行った。それでその時まで島袋という部落は、疎開も何もしていないから、いわゆるそこでの戦争被害というのは何にもないぐらい。でわたしたちは、福地で十九日に捕虜になって、伊良波(豊見城村)に移されて、それからまたコザに行きましてから、島袋はそれから移されています。戦争がもぅ終ってからですよ。わたしたちが捕虜になったのは十九日で、コザに来てからですから、戦争地域になる、危いから移せ、あるいは軍の施設をするかどうかという意味で移されたんですよ。僕等は、伊良波の甘蔗の中で、CIDということで、あっちに一週間くらいいてからコザには来たんですからね、島袋の移動は、完全に戦争が終ってからですよ」。

 わたしは聖書をずっと見ていましたから。戦前からわたしはクリスチャンです。あの時に、比嘉太郎が来たことは、神の助けだったかもしれませんね。世界各国から手紙は、沢山貰いましたな。

(註)喜納さんのそれは、クリスチャン精神による強固な信念を持っていられたからだと、ほかの同席の方の発言が最後にあった。戦火の中に追いつめられて生き残った住民が、終戦後北部に移されて、飢餓による栄養失調とマラリヤのために、砲爆撃の犠牲に劣らない人命が失われているが、それ に反して、島袋部落千五百余の生命が、一年間の疎開生活にも何んの犠牲もなかったことは、戦争中、三月の間、衣食住にそれほど不自由なく平穏に過して、移動の時には、米軍のトラックで、可能の限り衣食を持って行ったからではないかと思われる。
                                                     「沖縄県史9巻」から
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