証言38

南部を転々と

                                                                安和(男性 ・五十三歳・県議)
  私の当山(浦添村)の部落はですね、やっぱし浦添城址の下側になっていますので、川添いにですね、ガマ(洞窟)があって、自然壕の多いところです。自然壕の多いところであり、古墓の多いところです。そこに私、避難しておりました。

  それは堅固な昔の墓でありました。そこに線香をたいてですね、戦争の半ばで、どうぞ甚だ済みませんけれども、命を守って下さいと…それから石棺を片一方にかたずけてですね、そこにおったです。

  そうしておるときにいよいよ、四月一日に米軍が上陸したということを聞いたんですな。そこでわれわれの古墓の上に、崖をのぼってみたら、米軍が上陸した場合には読谷飛行場あたりから攻撃するだろうと思い、私は軍に関係してないもんだから解らんのですが、のぼってみたらなんの物音もないのです。

 それで私はだんだん山づたいに西側の方へ歩いて行ったわけです。今のコカコーラー会社あたりまでですな。歩いて行って海を見たら、海は船で埋まってしまってうしろは見えないんです。牧港のずっと沖、読谷岬の方まで全部米軍がおしよせてきているもんだから、ああもうこれでは敗けるんだな、と思いました。それから自分の壕に引返してきたんです。

  そこで私はみんなに、これではもう駄目だから、着物も上等の着物を出してつけなさいと言い、そして後日の用心にと持っているあの上等の白い肉など、おいしいものから食べなさいと言って、家族や親戚のものたちにすすめたんです。そしたらみんなは、びっくりしてですね、食べきらん。で、私はどんどんたいらげてですね、そうして大詔奉戴日の四月八日にですね、われわれが避難している部落の川べりに、ずらりと日本の迫撃砲が並んでおるわけですが、そのときまで弾一発も撃たないものがその日に、どんどん発砲するんだな。それでそのときには、アメ リカのトンボぐゎといっていた偵察機が上空から飛んできているし、米軍は宜野湾飛行場まできておるんですが、弾はとんでこないので、この調子なら勝つんだなあと、また意気さかんになったんですがね。

  ところが翌九日の夜明け頃から、米軍は迫撃砲の並んでいるところへ、そこばっかしに弾が集中してきた。そして飛行機も低空してどんどん機銃掃射をやるとかでですね、は、これは、また大変なことになったと思って…。

  それから私は、親戚のものと一緒に、さあ南部に下がろうか、どうしようかと毎晩協議したんですがね。そこは米軍の駐屯している宜野湾飛行場の真向うになっておるんで、非常にあの当時は危険なところでした。また日本の迫撃隊は壕の中にもぐりこんで動かんですな。そこで私らは壕から脱け出して、仲間の部落にあがって、様子をみていました。そこが激しくなってから、首里の金城町の方へ避難しました。 

  それから四月二十八日に警察から、もう浦添城址は陥落された、首里まで来るのは明日あさってだ、で、そんなに沢山の住民を犠牲にするわけにはいかんから、住民はみんな南部へ下がれと、指令官からの命令があったからと、各壕にふれまわってきておったんです。それで私らは、夕方から夜通しで、南部の兼城村(戦後糸満市に合併)の賀数部落へと、たどって行ったわけです。

  賀数の県道の下の自然壕には、百七十名あまりが避難しておりました。そこは昼もローソクを代りばんこに点けた大きな壕でしたが、もっとも安全な場所でした。入口近くには、日本の部隊の壕があったんです。

  その壕から離れた海の方に、島尻の人たち二百名余りが避難している壕があって、もし一方だけしかない入口を塞がれたら、出るところがなくなるからといって、こっちからと両方の壕から、兵隊から鶴嘴とショベルを借りてきて、掘って、とうとう通したわけです。私らの壕のことをアンマサーガマといっておりました。そこに私らが辿り着いたのは、こんなに沢山の家族だが地形が解らないので、避難する場所を教えて下さいと、兵隊に頼んだら、つれてきてくれたからで、大変助かりました。

  それから六月二日に、こんどは糸満警察署から、米軍が糸満へ上陸しておるから知念・玉城の方へ行けという命令があったんです。それで私は知念・玉城へ行こうと思って行きかけたら、こんどはまた日本軍の将校連中がどこへ行くかと、知念・玉城、あそこは敵が占領しているのに、なんであそこへ行くかと、すぐスパイだと疑われたわけです。

  それで私は東風平から兼城のもとの壕に引返したわけですが、次には地元の人たちも他村の人たちも全部さがって行ったんです。六月三日に私は遠い親戚をたよって具志頭村の安里へ行ったんですが、行ったらあそこは、避難できる壕はない。たった三名ぐらい入るような穴があっちこっちにあるだけで、そこも友軍が使うからとおっぱらわれてしまいました。途中、富盛の東に何十名もの死人がころがっていました。また瓦葺の大きな家があったが、私らはそこには入れず、途方に暮れているとき偶然、当山の私の家に宿泊していた兵隊と出逢い、製糖工場の跡に隠れ場があるよと教えて貰い、砂糖も貰ってから、そこで仕方なく製糖工場のボイラーの下のじめじめした所で一夜をあかしたわけです。

  それから真壁村(戦後合併し現在糸満市)の新垣に戻ったんですが、ますます弾がひどくなってきて、真壁へ行って、大きなガジマルの下の避難小屋にじっとしていました。昼間、そこで私の家内と従弟は右手を怪我し、私の姉と従弟の妻は直撃弾で即死したもんだから、畑に穴を掘って葬りました。

  真壁の避難小屋で、いよいよ捕虜になったのが六月十九日です。そこには避難民が二十名ぐらいいました。その頃、噂があって、捕虜になりたいものは裸になって手を上げて出て行けば米軍は殺さないで助けてくれる、とチラシなんかも配布されてあるということだったが、私はそれは嘘だと思っていました。そのうちに、みんなぞろぞろ出て行くんですな。真壁の前の大通りからアメリカのいる方へ歩いて行くのが、見えるんです。私はそのとき、こんな奴らは、と腹立たしく思いましたな。

  それから私の家内は、私に出て行こうと言いましたが、私は残っていたいからお前たちだけ出て行きなさいと、私一人残ったんです。で、一応出て行った家内が、戻ってきて、みんな捕虜収容所に集っているが、あんただけ残ってどうするか、はやく行こうと誘いにきたわけです。私は避難小屋からどうしても出ないつもりでいました。長男は兵隊の現役だし、将来のことを思い、あとで恥をかきたくなかったんです。

  出て行かなければ、アメ リカ兵が射殺するだろう、でも死んでもいい、と私は思っていました。私は頑張ったんですが、家内がなんども出て行こう出て行こうというもんだから、ようやくその気になった。

    あのときカバンに県会議員の証書やら婿の勲章やら入れてあったもんだから、見つかったらまずいと思い、カバンをそこへ置くし、それから、浦添の勢理客の人から聞いた話では、カマンカマンと出てこいといって、アメリカ兵は女には親切にして何もしないでいるが、男の大事な持物は全部取り上げるということだったんで、もし私が死んだときはそこに金を隠してあるよと、みんなに教えて、私はガジマルの根っこの所に穴を掘って金を埋めておいたんです。

    そして家族一人一人には五十円ずつ持たせてあったが、糸満に向かって捕虜になりに行くとき、途中アメリカ兵から、私と長男と次男の三名が持っているものは案の定、捲き上げられ、空の財布だけを返されたんです。

  糸満から私らはすぐに具志川村の前原にトラックで送られて、収容されたんですが、あそこに行って私が心配だったのは、元村長、元県会議員といった人たちが捕虜になっているかどうか、私一人だったら大変な恥辱だがと、非常に心配でしたな。しかし当間重剛さん( )が捕虜になっているということを聞いて、私は安心し、やがて犬死するところだったなと思い返しました。
                                                                  「沖縄県史9巻」から

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