証言36

戦時下に製糖作業

                           比嘉(男性 ・四八歳 ・自治会長兼区長)

 十 ・十空軍以後

 私たちは十 ・十空襲以来、たびたび空襲にあいましたが、まさか沖縄が戦場になるとは夢にも思いませんでした。だから嘉手納の飛行場が空襲されている時でも、私達はガジマルの木の上や屋根に登って他人事のように高見の見物でした。

 昭和十九年十月十日の朝六時頃、与那原方面上空から編隊をなした無数の飛行機が、嘉手納方面を空襲したのですが、最初はそれが敵の空襲とは知りませんでした。この山内部落に駐屯している友軍の兵隊すらそれに気がつかず見物していたぐらいでした。

 十 ・十空襲の時は、この山内部落には空襲はなく、恐ろしいものとは思えませんでした。だからそれ以後はたびたび空襲があり、この山内部落にも爆弾を投下されるようになりました。この山内の部落はずれに友軍の陣地が構築されていてその陣地やそこに通じる道路がねらわれました。そしてこの道の真中に大きな爆弾穴ができて雨水が溜まっていたので、それを私達は「爆弾クムイ(池)」と呼んでおりました。焼夷弾で家を焼かれてしまう被害も出てくるようになりましたが、それでもまだ、沖縄があんなに激しい戦場になるとは考えきれず、疎開命令がきてもほとんど応ずる者もいない程でした。

 ところが、アメ リカ軍が沖縄へ上陸する数日前の激しい艦砲射撃で、この山内部落のある民家に艦砲の直撃弾が落ちて村一番の美しい娘さんが即死しました。これまでは、空襲や艦砲射撃があっても、壕に避難していて、飛行機が去ってしまうと、十二、三位の子供達は何が落ちているかと我先に壕を飛び出してみにいったり、みんなも北谷の浜の沖合いに群をなしているアメリカの軍艦を木の上によじ登って見物したりしておりました。

 しかし三月二十九日爆死者が初めて出てからは、村の情勢が一変してしまい、「これは一大事だ」と悟って騒然となり、疎開せずに残っていた大半の住民が次々と避難をはじめました。

 供出の強要と消極的抵抗

 この山内部落には、昭和十八年に初めて友軍が配置されてきました。それは「ハザマ隊」といって百名以上の兵隊で編成されており、なにしろ初めての部隊ですから、村あげて大歓待しました。

 そして各家庭に数名ずつ泊っていました。だがこの連中は大変タチが悪く、村では各戸割当てで農作物の供出をしているのに、部隊独自で部落から資材などを強要した揚句、全くその代金を支払わないということもありました。

    一度は、喜舎場の部隊から竹を売ってくれときていたので、部落の人たちに竹を切らしてきて部隊に引き渡たしたら、なんと市価の十分の一の代金しか払おうとしませんでした。当時六円分の竹をたったの六十銭持ってきたのです。私は部落の人に対して申訳ないからそれ相当の代金を請求しようかと思いましたが、非国民扱いされるのがおそろしくて、消極的な抵抗をしました。六十銭受取るのはなんにも受取らないのと同じだから、私はその使いの兵隊に金は受取らないとかえしました。

 するとその兵隊は、支払うように云われてきたからどうしても受取って欲しいというのだが、私は断固として受取りませんでした。それでは部隊まできて欲しいといわれて、かなり離れた北中城村の喜舎場の部隊本部まで連れて行かれましたが、そこでも、それは寄附するから金は受取らないとことわり続けたので、今度は屋宜原の部隊長の家まで連れて行かれたが、最後まで受取り拒否したことがありました。

 そして、空襲が相次いで来るようになると当然農作業がこれまでのようには続けられなくなって、自分達の食べる分だけでも確保するのが難かしくなってきても、農作物の供出を強引に追って住民は非常に難儀しました。空襲が続いてくる時にも区長を脅かして供出を迫るので、空襲のあい間にとり入れた農作物を供出しても、さらにその夜にも供出のために畑に出なければならないという程、友軍の態度は大変なものでした。この友軍は私達をいなか者といってこれほど馬鹿にしているのかと思っていました。この友軍の横暴さに抵抗して、その時の区長はやめてしまったら報復的にすぐに徴用されてしまい、配置先で結局戦死してしまいました。

 当時、私は自治会長をしておりましたので区長職も兼務することになりました。経験の浅い区長では、こういう難かしい時期には勤まらなかったのでしょう。

 私は割当てられた農作物の供出はなんとか確保できるように努力して軍隊に相当協力しましたが、しかし、それ以外にも部隊独自に供出を強要したことには本当にいやな思いをしました。その点は、その後「ハザマ部隊」が去って、「武田隊」が配置されてきましたが、彼等は、割当て以外に供出する分に対しては、その分の代金を私に支払っていました。勿論、それも私が部隊にかけあって、前みたいにただで取られないようにかけ合ったから代金を払ったはずです。そこの部隊長は私の家に寝泊りしており物わかりのよい人でしたから助かりました。

 当時、山内部落では、ほとんどの家が、牛、馬、豚、山羊、ニワトリなどを飼っており、空襲の時にも避難壕にかくれながら、夜間に農作業をする傍ら、それら家畜類の飼料捜しもしなければならず、大変な苦労をしながらそれらも飼っていたわけです。友軍は、そのような家畜類の供出や資材の供出を無理にさせて代金も払わなかったが、私が区長になってからは、部隊もかわったのでそれらの代金は全部受取りました。アメリカ軍が上陸して来た時には、山内には「塩見隊」も配置されておりました。私は、この部隊に牛の供出を要求されたので、代金は受取って牛を引渡たそうとする時に、アメリカ軍が上陸しそうだという知らせで、大騒ぎになり、軍は牛も受取らずにどこかへ移動してしまいました。

 米軍上陸直前の疎開

  山内部落は、当時人口七百名位でした。村は、この山内部落に国頭の「源河」を指定地域として疎開命令を出しましたが、しかし実際にそこへ疎開したのは三十名位でした。

  私はあの三月二十九日の民間人の爆死者が出た翌日、三世帯一緒に国頭めざして荷馬車で避難しました。二世帯は疎開指定地の「源河」の方へ行くことにしており、私は今帰仁村に親類がいたので、そこへ行くことにしていました。もうその時は夜間行動しかとれない程空襲が激しく、また石川恩納村の橋は友軍が自爆させてこわしていたので、荷馬車を通すのは大変でした。恩納村ではこわされた橋には、丸太を並べてあるだけでした。

  恩納村で夜が明けてしまったので、私たち一行は恩納の山中に一時避難して、日が暮れるのを待ちました。

 そして三十一日の晩には、恩納を出発して、翌朝にはそれぞれの目的地へ無事到着したのです。しかし私は家族を七人は連れてきたが、しかし自分の母を一人残してあったので、母のところにその日の内に引き返えしました。しかし今帰仁の「オイド橋」がその日の昼に友軍がメチャクチャに破壊していてどうにも渡ることができず結局今帰仁村を出ることができませんでした。

 そしてその日アメ リカ軍が上陸したらしいという知らせを聞いて、これはだめだと思いました。というのは、以前北中城村の喜舎場で友軍の地区部隊のある会議に私達の部落に駐屯している武田隊長に連れられて参加した時、そこでは「敵軍を上陸させておいて一か所に追いつめて全滅させるのだ」と我々区長連中に話してきかせていました。しかし私の家に泊まっている武田隊長は、その会議から帰る途中、「もしアメリカ軍を上陸させたら沖縄はおしまいだよ」と話しておりましたので、私もこの隊長の話が本当だろうと思っていました。

    今帰仁には私の娘の嫁ぎ先があったのでそこを頼りに訪ねていったわけです。しかしもう真暗になっていたのでその家を捜すことができずよその人に道案内してもらいました。馬はあまりにもくらいのでいなないて暴れるので、その人は「いなかの人はこんなところにまで馬を連れてきて」と冗談を言っていました。
着いた翌日から二日かけて山の入り口の方にやっと自分達が入れるだけの壕を掘りました。すると、敵軍が上陸して今ここへやってくるから山奥に逃げ込めという知らせがあって、その壕には一日も入らずに、馬と荷車をそこへつないで山奥へ避難しました。馬からはずしておいた鞍に弾丸が落ちて壊わされてしまいましたが、馬と荷車は大丈夫でした。

 戦闘下の製糖作業

  それで今帰仁がちょっと平穏になった頃、多分五、六月頃、今帰仁の各製糖工場が、戦争のために時期はずれではありましたが、操業を始めていたので、私と長女、嫁の三人は、荷馬車を修理して、近くの村の二、三か所の工場で加勢してあげました。

 工場側は賃金を出すといっていましたが「私らは金儲けに来たのではないから要りません」とことわって一銭も貰いませんでした。すると、馬の飼料としてサトウキビの葉や、黒糖は持たせてくれました。

 日本軍の夜間斬込み

 今帰仁では友軍の夜の斬込みがさかんでした。私は謝名部落の山の麓の民家に泊っており、五百メートル先にアメリカ軍の部隊がありました。その部隊に夜間斬込みする友軍が、私の関わりのあったものだけでも三回はありました。
 友軍の兵隊が夜中家にやってきて「明日の夜、斬込みをするから夜中の十二時に食事を用意しておけ」と云い残して山奥の方へ消え去りました。斬込みは五〜十五人位の人数で行なわれるから、それだけの食事を準備するのは大変なことでした。私達自身避難民であり、何かと村の世話になっているわけですから。また彼等が斬込みした翌日は大変でした。アメリカ兵が大勢出て、畑や附近の山をしらみつぶしに捜し回わるし、私達も尋問されて非常にこわかったです。

 三回目の時は、雨降りの時でした。例のごとく食事を用意しておくように云われ、その時は十五名分も準備しなければなりませんでした。雨降りのどろんこ道ですから、当然無数の足跡が山の方から私の泊まっている家まで続いている筈で、そうなれば翌日アメ リカ兵に私が手引きしていると思われるから、彼等が立去った後、私は近所の人にも手伝って貰って、池から水を汲みあげて、それを道に流して、この友軍の兵隊の足跡を消すのに必死になりました。案の定、翌日は沢山のアメリカ兵が捜索に来ました。村の青年で地下タビをはいている者が二、三人疑いをかけられて引っ張られました。しかしまもなく釈放されたようでした。

    区長職の疎開

 その頃隣り部落の平敷に宜野湾の大山で区長をしている人と知りあいました。私たちは、もしこの戦争で友軍が勝ったら、区長職にあるものが避難したという罪で殺されてしまうかも知れませんね、と話しあいました。

 私は、足に腫れ物があってアメ リカ軍が上陸した後家族を連れて避難するのは非常に困難なので、上陸以前に家族を避難させなければいけないと思い家に泊めてある隊長に相談して荷馬車も自分のものがあるから、二、三日では必らず戻ってくるという約束で認めてもらい、そして母ひとりは家に残こして今帰仁へ向かったのでした。しかし、アメ リカ軍は上陸したし、橋は壊されたからとうとう帰れなかったのです。

 収容所生活

 アメ リカ軍は、今帰仁の私達のいた謝名、平敷附近をキャンプにする予定だったようですが、一週間に一回位の割で友軍の夜間斬込みがあるので、そこを取止めて六月十九日私達は久志村の大浦崎に移動させられました。

 大浦崎の収容所生活は、これまでに比べて食糧に乏しく苦労しました。そこには七か月もいました。福山の民間収容所に親類の者がいて、私の消息を知った時、自動車で迎えに来てくれました。福山には、村出身の者が沢山いました。そして大きな収容所なので、それぞれ各区、各班別に組織されていました。私は十二区に編入されましたが、村での実績があったのですぐに書記に推されました。そして十一区の方から毛布の配給を貰いました。

 二、三日経って十二区の方からも毛布の配給がありましたので、私は、十一区で貰ったばかりだから、大家族で困っている人にあげて下さいといって返しました。知人には馬鹿なことをするもんだと笑われました。

 しかし後で救済部長によばれて「きみは配給の毛布を返したらしいな」というので、その事情を説明したら、今度は特別に私の家族全員にアメ リカ軍払い下げの真新しい服を支給されました。ほとんど着のみ着のままの状態でしたから大変うれしかったです。毛布をかえして大変得しました。

 それから私は、福山で救護院の仕事をさせられました。すると各区長などが、わいろを使っていろいろな物をねだったりしよったが、私は「そんなことはできない」とはねつけました。そのかわり当然やるべき人には八方手を尽くしてやってあげました。収容所で火事があって九人名が焼け出されたことがありましたが、救済部では毛布が買えず、私の方で支給したこともあったので、元の部落に引き揚げてきてからもその時のお礼をいいに来る人もいました。救護院で働いていたほとんどが、「戦果」と称して帰りしなカバンにいろいろな物を持ち帰るのが普通でしたけれども、私にはどうしても持ち帰ることはできず、一度も「戦果」をあげたことはありませんでした。救護院だからいくらでも物資はありました。

 福山の収容所は、二区が一番大きく二千名位いました。十二区までありましたから一万人以上はいたはず。

 この福山に約四か月位住んでいました。その内、元の村役場から他村の者に牛耳られているから早く帰るようにと指名されて、六、七名はみんなより先に帰りました。その時は、越来村(現在沖縄市)の嘉真良が中心になっていました。それから二か月位経って、福山からは、諸見の収容所の方に移動してきました。

 嘉真良では菜園部の方にいたので、人夫はいくらでもいたから一般作業というかたちで大量の野菜類を作らしました。大浦崎などではとても苦しかったが、嘉真良にきてからは食糧も豊富にあったから本当に楽でした。 

 私が大浦時の収容所にいる時は、ずいぶんアメ リカ兵にこき使われました。毎朝、アメリカ兵が丈夫そうな人を適当に選んで、班を作って各班毎に道路補修、収容所を作るための伐採、歩いて数時間もかかる畑からイモ掘り作業などをさせられました。私は体格ががっちりしていたのでいつもきつい仕事を割当てられて閉口しました。夜通しイモを担いで歩かされたこともありました。

 帰村後

 山内部落に帰ってからは、アメ リカ軍の風紀が非常に乱れていて大変困りました。特にこの辺は部落がすぐに林に面しており、畑もそのような中にありましたからよくアメ リカ兵に女性が襲われたようです。林の中には、よくアメ リカ兵が出入りしていたので、毛布などがそのままに置かれている場合がありました。私も二枚も拾ったことがありました。

 戦時中の出来事

 戦争というのは本当に恐ろしいもので、いろいろな出来事があったようです。この部落近くの人が、自分の妻の実家の方に子供三人連れて避難していたらしいが、妻の兄が、アメ リカ軍の上陸直後、アメ リカ兵に捕虜されたら虐殺されるから自分達で死んだ方がよいといって草刈鎌で自分の妹やその夫、子供達三人を次々とノドを切って殺し自分も死ぬつもりが死に切れず、戦争にも生き延びて現在まで生きている人がいるそうで、ここらでは大抵の人がその事を知っています

 また私の近所の人で退役軍人でしたが、この人はいつもとぎすました包丁を隠し持っていて、私の家の壕に隠れていたそうだが、アメ リカ兵がその人を見つけて、捕虜にしようとした時、その包丁で突き殺そうとしたので逆に射殺されたという人もおります。

 今帰仁村の謝名部落の山中に避難小屋を作って隠れて生活している時、ある日アメ リカ兵がいなくなる晩を待って山道に立っていると十名位の民間人に変装している日本兵の一団と一緒になりました。彼等は、日本刀やハサミのネジをはずしてこしらえた「槍」をそれぞれビンロウの葉などに包んで、これから塩屋の方へ行こうとしていました。

    彼等は私が何も持っていないのをみて「貴様は武器も持たずに山をおりるのか」といったので、私が「そんな槍でアメ リカ兵と闘えますか」と逆に聞いたら物すごく怒り出して、ひどい目に合ったことがあります。本当に忘れられません。ハサミの槍なんて見たこともきいた事もありませんでしたからあれでは戦争ができるはずがないと思いました。

 私たちにとっては、友軍がこの沖縄へ入ってきたから、アメ リカ軍との戦争に巻きぞえにされて多数の住民が殺され、私たちのように生き残りはしたが、非常な苦しみを味わされたという考えが非常に強いです。

 私のように日本軍にいじめられた者にとっては、復帰して日本の自衛隊が沖縄へ上陸してきたら、また大変なことになりはしないかと心配です。                                                                              「沖縄県史10巻」から       

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