証言35

久米島に生きて

                                                  渡辺(三二歳 ・当時陸軍二等兵)

 十 ・十空襲

    私は当時、蚊坂(ガジャンビラ ・那覇市南方)で偉容を誇っていた独立高射第二七大隊第一中隊の第六門の修整を担当していた。修整というのは飛行機の進行と砲弾の爆発点とを合致させる仕事である。昭和十九年十月十日、実際に敵機と対決してみると、私の仕事は何の役にも立たなかった。修整している時間がなかったのである。

  十 ・十空襲当日の一番に爆撃された那覇港の石油タンクと飛行場の燃料倉庫から湧き出す黒煙で視界をさまたげられてはいたが、第六門は砲身を水で冷やしながら二百発撃った。

  敵機が一機フヮーと片羽をもぎ取られた蝶のように落ちて行くのを見た。結局第一中隊の陣どる蚊坂では、高射砲全六門で撃墜した米機はグラマン一機。撃破は何機かあったはず。

    ところで誰がどのように計算したのか、「我が隊の戦果三十機撃墜」ということになっていた。うそも士気高揚に必要だったのかも知らない。 

  四月一日、飛行機と艦砲に援護されて鮮かな航跡を残して数十の舟艇が嘉手納に向っていた。私たちの陣地からは上陸の一部始終は手にとるように見えた。

  興奮した面持を抑えきれないという風に、大隊長大滝善次郎少佐は、上陸の模様をまのあたりにしながら、敵は我が腹中にあり、天一号作戦を展開するから米軍は一兵たりとものがれられないであろう、沖ではすでに神風が吹いている、今やそよそよ、こちらにやって来つつあると、訓辞していた。

  二等兵の私は年令は三二であった。人生の大切な時期である。大隊長の訓辞は漫画であったが私は冷静にうけとめていた。笑えないのである。私たちの顔はき−っと張りつめていた。兵隊はみなそういう顔をしていた。

  私は応召するまで、大阪日刊工業新聞社に勤めていた。ジェネラルモータースとかフォードとかのPR映画を見る機会があった。その頃では大変めずらしい、オートメーションで自動車や飛行機を生産していた。私は米国の工業水準を知っていた。日本のそれはトヨタにしろ日産にしろまだ修理工場に毛の生えたようなものだっただけに、戦争が始まった時の私は、どえらいことになったと、ふさぎ込んでいた。

 地上戦での我が隊

  五月中旬までの通信班に入る大本営のニュースは沖縄で撃沈した米艦の累計からすると沖縄の海には米艦は一隻も居ないということになる。私たちが毎日向い合っている船団はいっこうに減っている様子はなかった。

  五月下旬、を下りて来た戦車は今や首里に迫っていた。蚊坂から見る首里は樹木と古い石垣に囲まれた風光明媚の町であった。そこへ艦砲は撃つ、戦車砲も撃つ、上空はトンボの如き飛行機が群って爆撃していた。地上には蟻一匹だに這い出る間もないほど激しいものであった。

  高射砲は地上戦にそなえて、横穴を掘って各々一定の方向に向けて隠し、「対戦車用に転用」しようということになっていた。もっとも、もう飛行機に向けて一発もうてない状況であった。

  戦車攻撃には偉力を示すといわれていたが、ついぞ試したことはなかった。戦車が射程内にはいった時、艦砲射撃で三門はすでにつぶされていた。もちろん当った砲の砲手たちは肉のこま切れとなって残っていた。

 残りの三門は砲身があらぬ方向に向いていたために使いものにならなかった。全く無駄なことばかりであった。兵員三分隊が全滅した割には、米軍に与えた打撃は、グラマン一機、このことは生残っている者にとって未だにやりきれない語り草である。

 南部への敗走

 六月十日頃、東風平を通って具志頭に撤退した。高射砲を棄てると、私たちの武器は手榴弾二コであった。そこへ米軍が糸満に追っているので、たこ壷壕を掘って待機せよとの命令であった。

 私たちは班ごと、クリ舟で台湾へ脱出を企だてた。クリ舟を求めて糸満に来ると、米兵は、糸満入口にあった共同井戸で小休止の様子であった。手頃な舟をみつけて、海岸に運び、いったんひきかえして、日の暮れるのを待って、再び海岸に出てみると、先客があって、舟は影も形もなかった。

  人っ子ひとりも居ないと思っていた町内に私たちと同じ考えの者が居たわけだ。私は班長に米軍に投降しましょうといった。班長はインテリで堂々と戦争批判もやっていた。班内は当時としてはめずらしいくらいに屈託がなく、それだけに、私は投降しようといえたのだと思う。

 今死んだら犬死だ、おまえに捕虜になるなと、命令することは出来ない。しかし自分は捕虜になるわけには行かないといってあらかじめ私と行動を共にすることにしていた高橋二等兵とを放免してくれた。

 私たちは男泣きに泣いて別れた。私はつとめて、あたりまえのように投降しようというたが、それまではさすがに腹の探り合いを演じていた。脱出しても命は助かりたいが、捕虜にはなりたくない。一族一家の名折れにはなりたくないというわけである。兵隊は皆そう考えていた。

 本島脱出

 六月二十日頃、喜屋武部落は追いつめられた人たちのはきだめのように、飢えと傷ついた人間が市をなしていた。そこにも情容赦なく弾は落ちていた。海にどぶんと飛びこんで泳いでいく人がいる。ここは沖縄本島の最南端である。泳いでどこに行きつくのだろうか。

  ひとごとではなかった。私たちも岬にいた。とにかくこの人間の集団からはなれなけれはならなかった。海岸には脱出に失敗したのか流れたクリ舟が何隻かあった。その中にプーとふくれた人間が乗ったままの船もあった。

  喜屋武岬は海岸に面した所は、一枚の岩盤みたように、平べったくくぼみの少ない所である。二メートルくらいの崖ぶちの波打ぎわで人間がころころ波にもてあそばれて、それがどこまでも続いていた。一種の異様な臭いは毎度のことである。私たちはその崖ぶちに身をくっつけているだけであった。

  そこへ、よたよたとクリ舟が流れついた。ちゃんと帆も準備されていた。奇跡である。七、八名は乗れる大型のクリ舟で、二人ではこころもとないし、何よりも、私も高橋も海のことは何も知らないので同乗する者を募ってみた。

  私たちのメンバーになった、高橋と私に、海軍の兵曹長と水夫、暁部隊の二人、それに中学生と思われる玉城少年である。暁部隊の原田という年配の男は、口が重く経験もあるらしいので、この男を船長にした。暁部隊のあと一人は、大阪弁の男で、信用できるようなできないようなこの男のことを私たちは天一坊と綽名をつけた。

  行先きは、慶良間の島嶼、そこなら一晩で着くということであった。本島をとり囲んでいた船団をくぐり抜けて行くのであるから、寝静まる頃がいいだろうということで、出発は年前二時であった。順風にのって舟は矢のように走っていた。大小さまざまな艦船に迫まると、大阪のビルの街のようであった。煌々として明るいが、どの船も米兵一人も見あたらない。

  私たちは、息を殺してビルの谷間を抜けていった。船長のカンは当っていた。それにしてもアメリカ軍は実にのんびりしていた。いちかばちかであったが、あっさり終ってしまっていた。

  船団を抜けた私たちのクリ舟は、沖縄を遠ざかって行くかに見えた。夜が明け始めると、沖縄の島々は細い孤を描いて、白々と東天を背景にくっきり浮いていた。手前には今しがたくぐり抜けて来た米艦のマストだけが林のように映えて動かない。地球は丸いものである。その実感があった。

    しかしよく見るともう沖縄の島々は攻撃が始まっていた。バンパン弾をうち込まれ、白い煙が数条立ちこめて見えた。中飛行場あたりからは、飛行機が間断なくとび立ち、東方に向っていた。船長は風が悪いといいながら帆を降していた。

  私たちの舟は今来たばかりの海原へ押し戻されていた。マストだけしか見えなかった米艦に、まるまる見える所まで接近していた。カイで漕ぐのだが、いっこうに進まない。

    そこへグラマンが一概近づいて来て、私たちの周囲をぐるぐる旋回しはじめた。大阪弁の天一坊が「陸さんも海軍さんも覚悟し−や−、これでおしまいやで−、わしらはフィリピンで何べんもこれに合い、やられているんや−、もう助からんで……」人ごとのように云っていた。私はこれでおしまいかと、とっておきのブリ罐を雑のうからとり出して格好よく食べてみたが、砂を噛んでいるようであった。

 グラマンは何回か旋回して、まっしぐらに低くつっ込んで来た。高橋は海に飛び込もうとしていた。私は飛び込ませまいと高橋の足首を摘んでいた。死ぬなら海でよかったと思っていた。泥んこの中にころがっていた戦友みたいにだけは死にたくないと、思っていたからだ。

  つっ込んで来たグラマンは、何もせずに、来た方向へ飛んで行った。やれやれ、助かったと、思いきや、入れ替りに、大きな飛行艇がやって来た。天一坊の機転で私たちは、あおむけになって死んだふりしてみせた。私は目を開けて、飛行艇の行動を追っていた。ゆったりと、速度をおとして、これもぐるぐる旋回していた。

  飛行艇の横っ腹の大きな窓から、サルマタ一本の赤い米兵が、ニコニコ手を振っていた。飛行艇は、手の届かんばかりに接近して、白い円筒を落して飛び去って行った。白い円筒は、ぱっくり二つに割れて、あたり一面を鮮やかに真白に染めてしまった。

  私は生きられるかも知らないと思った。次は哨戒艇がやって来て、私たちを捕虜にするだろう、飛行艇の落していったこの真白い液体は、そのための目印に違いないと思った。

  私はそのことをみなに話すと、シュンと黙ってしまった。海軍の若いのは、俺はいやだと、手榴弾をとり出して、米軍がここに来たら…と、右手に持ちなおして、今にも信管を抜き取らんばかりであった。海軍兵曹長も船長も天一坊も知らぬふりしていた。幸いに米軍はやって来なかった。 

  夜のとばりは再び私たちをつつんで、風向きがかわって来た。飛行艇の落した白い液体は、べたっとクリ舟にくっついて、クリ舟の進路を固くとざしていたが、帆を上げると、クリ舟はすいすいと走った。

  船長はまたいった。「夜中に暴風になるからカイはぜったいに手ばなすな」と、少年は水の汲み出し、船長はカイで梶とり、他の四名が漕ぎ手であった。船長のいったとおり、またたく間にクリ舟は、エレベーターに乗せられているように、山と谷とをいったり来たりしていた。ど−っと谷間におちる時、海水で全身水びたしになって寒い。

    飢えと疲労と寒さとが重なって私は意識が朦朧として来た。夜光虫はその中で、人の顔を異様に照らして、誰とわかるくらいに、青白く光っている。青白い光の中から、戦友の眼がにゅ−ツと出てそれが顔になり、「渡辺、わしらをおっぼり出して、にげて行くのか─」と、目をむいていた。ふっとして目を覚ますと、船長はあいかわらず梶をにぎり、少年は水を汲み出していた。

 久米島へ上陸

 白々と明けはじめていた。風も止んでいた。クリ舟は湾に向っていた。湾の右手が突出した島であった。湾の奥深く侵入し、這うようにして上陸した。

    一本の農道を上へ進んで行くと、小川に囲まれた一軒の農家があった。中でこっとんこっとん音がしていた。一人の中年の農婦が米をついていた。この島は「久米島」であるといった。

 農婦はびっくりしていたが、心よく招き入れてくれた。私たちが沖縄から来たというと、沖縄はどうなったか、那覇はどうなったかと、矢継ぎ早にきき、那覇にいる身内の者の安否を気遣っている様であった。

 私たちは小川に入り、べとべとの軍服を脱いで身体を洗い、洗濯をしていた。農婦は、野菜を混ぜた雑炊をたいて食べさせてくれた。力いっぱい私たちの労をねぎらっていた。

 私たちは満たされていた。そして前後不覚に眠りこけていた。ゆり動かされて目が覚めた時、太陽は西に傾いていた。そこに厳しい顔して海軍が鉄砲に着剣して立っていた。私たちをむかえに来たということであった。

 鹿山隊長

 婦人からこの島には海軍の電探基地があって二十七名の兵隊が居ると、聞いてはいた。私はいやな予感がした。こんな所まで逃げのびて来て、海軍とはいえ再び軍の指揮下に入るのかと。私は百姓の手伝いでもしながら戦争の終るのを待ち、郷里へ帰ろうと考へていた。私たちは乾かない軍服を着けて、山に入っていった。私は屠場につれて行かれる羊みたようなものだった。

  山の中はかん木の林であった。着いた所は三十坪ほどの小屋が建てられてあった。私たちは小屋の前に整列した。小屋の中から二人の兵曹長と数名の下士官が出て来て、沢田と名乗った兵曹長がつかつかと歩み寄って来て、大声で、なぜ本島から逃げて来たかと、ひとりびとり尋問していた。

  私は本島がだめになったので、再起をはかって脱出して来ましたと答えた。本島は決してだめにはなっていないぞ、貴様らは、脱走兵だなあ−っと、いい放って、私たちはいやというほど殴られた。気の毒なのは二人の海軍であった。帽子をとり、火のついた煙草を頭のてっぺんにのせ、髪の毛が、ちりちり臭い出すまで焼かれていた。そのやり方が陰気で、しつこいと思った。

  沢田兵曹長のうしろで黙って見ていた男は目のふちが黒ずんで、あごひげを伸ばし杖を持っていたこの男は鹿山隊長であった。なんとなく暗い感じのする男であった。その晩はにぎり飯をもらい、その小屋で寝た。翌朝早ばやにたたき起されて、陸軍は別に小屋を建てて自活せよとの命令をうけて、私たちは海軍の小屋と山一つへだった所へ小屋を作った。

  二人の海軍はそのまま鹿山隊に引きとられた。私はこの二人がその後どうなったか、知りたいと思う。この二人は初めから余計者の扱いをうけていた。余計者が生きられたかどうか。この二人とはその後会ったことはない。この二人にこそ、久米島の戦争の証言をしてもらいたいと思っている。

 陸軍だけの寄合世帯

  私たちの小屋に特攻隊の伍長が現われ、沖縄から来たというのは貴方がたですか、鹿山隊長の命令で、陸軍はいっしょに居るようにということですので、引き取りに来ました、といっていた。彼について行った所は、山城部落であった。山城部落のはなれに一軒の空家があった。そこは、村全体を一望できる、高台にあった。

 先客は、この伍長の他に特攻隊の竹腰少尉、慶良間から逃げて来たという、特高警察の高橋と木村、それに、米軍上陸まえ久米島に初年兵受領に来て、そのまま帰れないでいる辻上等兵、茶谷一等兵、吉村二等兵であった。玉城少年は兵隊ではないので逃げかくれする必要もないので、村民に引きとってもらった。

  辻上等兵は重機を一丁持っていて、いつもぴかぴか磨いていた。やる気充分の男であった。二十歳そこそこの竹腰少尉がいわば陸軍の指揮官であった。竹腰少尉は日大の学生で、戦争の経験も全くなく、私たちに勇猛さを見せつけようとしてはいなかったが、辻上等兵といい竹腰少尉といい、私にはおっかない存在であった。

  私たちはこの二人にこき使われていた。二等兵は、どこに行ってもつらいことばかりであった。

  三日目の早朝、朝もやの中を、私は小川で顔を洗っていた。ひょいと銭田の海辺を望むと、大型の輸送船が五隻、浮いていた。みているうちに、その艦船の、かんのん開きにドアーが開き、水陸両用車が、ど−っと出て、一直線に、こっちに向っていた。す−と私は小屋に舞い戻って、兵隊たちを起した。竹腰少尉は、今時あの米軍に、斬り込みをかけるといって、竹槍十本造って持って来いと命令した。はいと、京都出身の吉村二等兵が本当に持って来た。

  辻上等兵は、唯一本ある通路に、山の上から待ち伏せして、撃つといっていた。上陸したばかりの米軍は、二千名くらいにふくれ上って、銭田の浜に、キャンプを張っていた。

 そこで竹腰少尉と、特高の高橋、木村は額を合わせて、なにか相談していた。結局私たちは、斬り込みも、待ち伏せもせずに、その家を出て、比地川によって、一時避難することになって、私は重機をかつがされて、ふーふーついて行った。

  氏も素姓も知らない者ばかりの寄合世帯であるから、いいかげんであった。特攻の高橋と木村が「大日本陸軍之印」という判コを造り、それを持って竹腰と辻があの村、この村と巡って、米一俵味噌一樽とあがなっていた。終戦の時は、現銀にて、支払いいたしますと、書いて借用証みたいなものに、まことしやかに竹腰が、判コを押していた。

  この連中と一緒でいると、大変不安であった。各グループ、グループ何を考えているのかわからないし、腹の探りあいをしていた。しかも、おのおの人殺しの道具をちゃんと持っていた。

  私は一日も早く、このグループから離れなければならないと考えていた。ある日私たちは竹腰少尉の命令で、川に下りて、豚をつぶしていた。そこへ、あたふたと駈けつけてきた村民が、竹腰少尉と激しく問答をしていた。どうやらこの小豚は、特攻の高橋、木村が、やっぱり村民をペテンにかけて、盗って来たものらしい。

  戦争はいつ終るかわからない。私はこの先村民の協力がなければ生きて行けないと思っていた。私は高橋とはかって豚を放り出して逃げた。吉村二等兵もついて来たが、途中で引きかえした。

  その後私が収容所に入ってから聞いたことによると、陸軍の三つのこのグループは、分れ分れになってしまい、しかも、辻、茶谷、吉村組は、小屋の中で、何者かに手榴弾を投げ込まれて、腹わたを出して死んでいたという。陸軍の他のグループが殺ったと村の人たちは信じている。

 投降

  私たちは山の中に一晩中隠れていた。翌朝山城部落に出ていた。まさか白昼日本軍の捜索でもあるまい。若い娘がかけ寄って来て、今仲村渠さんの家に米兵が来ているので、こんな所を歩いているとあぶないという。

  投降の機会が来た。私は逆にこの娘に仲村渠さんの住いを教えてもらった。娘は目を白黒させていた。私たちはちゅうちょする心はなにもなかった。今や投降こそ唯一の生きる方法なのである。

 仲村渠さんの家は、広い庭を前にして、沖縄独特の赤がわらの古い家であった。米兵は居なかったが、庭で焚火を囲んで五、六人の村民が談話に興じていた。私たちは中にはいって行った。村民は、はた−っ、と立ち上って、武器を持たない私たちでも陸軍二等兵の階級章を付けた兵隊なので、びっくりして、上から下までじろじろ見ていた。

    「陸軍さんどこから来ましたか」と口をきいた人は、海軍の服装をちゃんと着けていた。仲村渠明勇と名乗り、次のようなことをいっていた。「私は沖縄で捕虜になりました。久米島出身なので本島のような悲惨な目に合わせたくありません。村民と海軍を一日も早く山から下ろして米軍の保護に入るよう勧めに来た」といっていた。   

 私たちは今すぐ投降したいと申し出ると、米軍は捕虜に対して寛大であること、など説明して、明朝九時にここに落ちあって、銭田の米軍基地に行くことを約束した。

 仲村渠さんは立派な体格で、目は鋭いがまだ童顔が残っているようであった。お茶を勧めながら本島の戦争状況など話している彼は久米島を本島のような悲惨な目に合わせたくないと、先ほど出た言葉が真実であることがわかった。

 その時、月が煌々と照りつけ、上気してきている高橋の顔がはっきり見えた。私は感無量であった。戦争は馬鹿ばかしいが、何か重大なものを体験して、今それが終ったような気持であった。

 私はその足で世話になった人たちに別れの拶挨をしようと、郵便局長の安見さんの住いを訪ねた。安見さんは二日前、海軍にスパイ容疑で殺されたと、奥さんは、とり乱している所であった。私を見ると、も−っとかきすがって、一緒に山に逃げてくれと哀願していた。アメリカも憎い、海軍はなお憎い、もう私にはたよれる者はいないと、わめくばかりであった。

 そこへ父親が現われ、私は、明日投降するので別れの挨拶に来ました、というと、自分の息子がこうなるまでには、具志川ではたくさんの人命が、むざむざ皇軍の名で殺されています。この戦争は負けます。天皇も日本国民もみな捕虜になるはずですから、貴方は投降することを、ちっとも恥と思ってはなりません、といっていた。

 私はその言葉で、気分が非常に楽になっていた。そうするうちに奥さんも気を落ちつけている様子であった。私は形見にと、時計と、ありったけのお金を置いて来た。

 今や、私たちは、海軍からも、陸軍からもねらわれている身である。再び山の中に入り、一夜を明すことにした。

 翌朝早目に仲村渠さんを訪問すると、仲村渠さんは一時間待っても来なかった。私たちを本物かどうか試したに違いないと思った。その次の朝はちゃんと待っていた。私たちは仲村渠さんについて約一時間も歩いた。米軍の幕舎の並ぶ銭田に出ていた。私たちは黙って歩き続けた。

 基地の入口には、西部劇みたように、丸太ん棒で高くゲートを造ってあった。明勇さんがアメリカ兵と何か話している間、私たちはそのゲートの下で待っていた。裸のアメリカ兵たちが野天でコーヒーをわかしていた。グッド・モーニングといっていた。その日は七月一日、久米島の捕虜第一号は私たちである。

 大尉が出て来て、私たちを幕舎の中に招 き入れた。側にニューヨーク・タイムス社の記者がいて、堪能な日本語で、私たちの尋問がはじまった。氏名、出身地、部落名、をカードに書き入れていた。「ヒロヒト」知っているかと聞いていた。「ヒロヒト」を私は知らなかった。「ヒロヒト」を近い中にしばり首にしますと言って私たちの尋問は終った。

    幕舎を出てみると、もう鉄条網をはりめぐらしただけの十坪ほどの捕虜収容所が出来ていた。そして衛兵が六名ついていた。水かんいっぱいの水と、三十コ入りレーション一ケース、それにスコップが投げ込まれてあった。

 七月の太陽は、ビリビリ砂を焼いていた。レーションの空箱を細工した覆いを、浜辺の砂の上であるから、夜は寒く、やっぱり、それを覆っていた。さて、一歩も外へ出してもらえないから、そのまま、そこで排便もする。変だな−と思っていたスコップは、排便の度ごとに穴を掘る道具であった。

 七月五日十時頃、激しく撃ち合う機関銃の音を聞いた。しばらくしてジープで運ばれた二つの日本兵の死体があった。内田という水兵と地元の仲宗根少年であった。頭に数発うち込まれて、無惨な死様であった。

 あとで知ったことであるが、銭田基地から具志川まで往来しているジープを待ち伏せして重機で撃ったという。はじめはうまくいったが、三連射目の弾をこめる時の充填をやっていた内田があわてて弾倉に弾を逆に入れてもたもたしているうちに、返り撃ちに合ったという。しかしこれが久米島での唯一の米軍との撃ち合いである。ものの十分で終ってしまったが。

 屋嘉収容所で鹿山隊長と会う

 捕虜になって十日目、私たちは沖縄中部の屋嘉収容所に送られた。収容所の入口に近い幕舎は本部で、そこにはMPの下で捕虜の世話をする班がいくつかあった。私はそこで捕虜の写真を撮ったり、現像したりして三人のMPとともに働いていた。

 ある日、まさかと思った鹿山と沢田の写真を現像していたのである。この人が生きているとは信じられなかった。私はその晩さっそく二人の幕舎を訪問した。二人とも別におどろいた様子もなかったが、鹿山はちらっと私を見て、ぶいと横を向いた。沢田はふたことみこと話の相手をしていた。鹿山はその間終始横を向いたまま、うんともすんともいわなかった。

 それから二、三日して、鹿山の部下の一人が私を訪ねて来た。この人は久米島では身にあまる事をやり、今、良心に咎められ、訴えに来たといって、久米島のことを逐一話していた。

 仲村渠さん一家の虐殺は、私はしばらく声も出なかった。私がここで知ったことであるが、仲村渠さんが久米島に渡ったもう一つの理由は、鹿山を説得して山から降すことであった。それはすでに捕虜になっていた鹿山の上官の大尉の強い依頼によるものだったという。海軍のめしを食べていた仲村渠さんにしては当然引き受けるべきだと信じてやったに違いない。

 久米島で殺した村民二十余名。みなスパイ容疑だったという。しかし朝鮮人一家皆殺しにいたっては、私が鹿山や沢田と初めてあった時の印象を実証してみせているようなサデイステックな殺人である。

 屋嘉収容所では、朝鮮人が日本人を襲ったり、日本人の間では、上官私刑が毎夜行われていた。戦争時の報復である。これらの事件は特筆されるべきであろう。朝鮮人は永らく根強い日本人の朝鮮人への仕うちに対する仕返えしであったろう。

 日本人収容所では、将校も下士官も、戦争中悪いことをした連中は、毎晩必ずどこかで私刑にあっていた。そのようなある晩、塵山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。
                                                  「 沖縄県史10巻」から
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