証言34

自決を思いとどまって

                                                                              仲地(主婦 ・?歳)
  私達は南洋で大東亜戦争にあったため、追いかけられるように座間味に帰ってきました。というのは、戦争が始まる直前に次男が生まれたので、ここにいると子供たちがあぶないと思い、夫を残して長男と次男をつれ、安全と思った阿嘉に帰ってきたわけです。

  それから三年後夫が帰ってきたが、すぐ兵隊にとられてしまい、私は子供たちをひきつれてにげまわっていました。ちょうど三月二十三日の空襲が始まった頃、四月生まれる予定の子供がお腹にいたため、歩くのもやっとでありました。そして逃げる時には自分の洋服は持たずおしめを十枚程持って、非常用にわずかのこげごはんを乾燥させたものを持っていました。これは炊事班にいた姪からもらったもので、私はいつも姉の家族にくっついて歩いていました。

  三月二十六日の米兵上陸の頃からは、部落の人たちは山奥に逃げ出したため、私はとうていおいつくことができず、ほったらかされてしまいました。そして二、三か所の家族が私達と一緒になり、まる三日、弾の中をくぐりぬけながら走りまわっていました。

  逃げまわって三日目の夜明け方、こうして逃げまわってもどうせ死ぬもんだから、思いきって自分たちだけで死のう、と話がまとまり、兄が手りゆう弾を一個を持っていたのでそれを使うことにしました。

    その時一人の男の子が、自分は死にたくない、と大声で泣き出したため、少し思い留まり、それではどうせこの弾一コでは全員死ぬことはできないから各自思い思いに死ぬことにしようと話しは決まりました。すると親せきのおばあさんが、自分たちは近くに絶ペきがあるのでそこからとびおりるから一緒に行こうと言ったが、私はあまりにものどがかわいていたため、少し水を飲まなければまだまだ死ねないと思い、下の方に水を飲みに下りていきました。

    そこにちょうど朝鮮人軍夫がいるので、部落民はどうしているか聞いてみると、全員生きているという。私達はそれから希望をもちだし、死ぬのがバカバカしくなってきたので、その後、部落民のいる杉山の方に移動して行きました。私達が行くと、みんなびっくりして「あそこから来るよ。生きていたんだね。」と話しをしていました。私達はしばらくそこに落ちつくことにしました。

  ここでは食糧が簡単に確保できないので、夜、軍の監視をぬって畑に行き芋と野菜を取ってきて命をつないでいました。しかし私の場合、子供はそろそろ生まれそうになっているため腹がすごく大きくて、人と同じように食糧をさがしに行くことができませんでした。そこでどうにかして流産できないものかと思い、木の上に登っていってはとびおりたりしたがそう簡単に流産できるものではない。しかたがないので子供たちには食べ物をがまんしてもらっていました。

 食糧さがしには行けなくても、お産用のふとんはどうにかして家からとってこなくてはいけないと思い、こっそり出かけて取ってくると兵隊に見られてしまいさんざんにしかられてしまいました。

 その時、兵隊たちと一緒に私のおじ夫婦が縄でしばられて立っているのでどうしたのかと聞いてみると、これから二人は死刑になるという。私は当時何が何だかさっぱりわからなかったが後で聞いてみると、叔母は足が悪くて山の上まで登れず部落の近くの壕に叔父と共にかくれていると米兵に見つかってしまい、二、三か月米兵の世話になっていたそうです。

    それを日本兵に見つかってしまい、スパイだ、といってつかまえられ死刑にされたといいます。特におばは本土出身で、フィ リピンにいたという事もあってその疑いがかけられたと思います。

 私がふとんを頭にのせて立っているのを見て叔母は、「あなたがお産したら上げようと思ってたくさんのコンビーフや牛肉をとっておいていたのに全部本部(日本軍の)にとられてしまった」と大きな声でいっていました。そして私が帰っていく時にはさかんに名前をよびつづけていたが、軍がみはりを続けているためどうしようもなかったです。

 四月に生れる予定の子供が、やっと五月になってから生まれてくれた。どうせ生まれても捨てるつもりであったため、そのままほったらかしていた。

    すると一緒にいたおばさんが暗がりをマッチをつけて子供の顔をのぞきこむので、私はみたら気がかわると思い、見ないようにと言ったが、そのおばさんは、「とってもかわいい子だのに捨てるのはかわいそうよ」と言うし、親せきのおじさんは、おばあさんの生まれかわりかも知れないから育てなさい、と言うのでしかたなしに育てることにしました。

 子供が生まれて十五日めには待ってましたとばかりにさっそくお芋を盗みに行きました。私の他に二人一緒だったので大きな袋のいっぱいとって頭にかついできました。ところが途中、軍の監視にみつかってしまい、さんざんしかられる結果になってしまいました。

    私は、子供が生まれたばかりで今まで何も食べてないから、と無理にお願いしてやっと許してもらいました。ところがもう一人の人は、前にも確かに盗んで行ったということで、さんざんになぐられてしまった。実はこの人は初めてだが、以前にこの人にそっくりのおばさんが何度かつかまっていたので同じ人だと思ってやったのです。

    部落の人たちはみんなそのような目にあい、なぐる、けるの暴行をうけた人が多かった。しかし、軍はみんな同じように暴行を加えたかというとそうではないです。

    部落民にはいつも軍は平等だ、と言っているくせに、実は知っている人たちはいつも見逃していました。食糧だけではない、川の水も勝手に飲んだり、せんたくしてはいけないという事で、いつも監視の目がきびしくて私たちなどとうてい入れてもらえなかったです。ところが軍の知り合いの人たちは自由に水を使用していました。彼らは私たちには、お産のうぶ湯にする水さえくれなかったくらいであるのに。

    その頃から私たちは軍に不信を抱き、アメ リカ兵よりもこわくなっていました。
                                                    「沖縄県史10巻」から
戻るトップへ