証言33

 ヒ素のはいった井戸水

                                                                  西江(女性 ・十七歳)

 六月の初めごろアメ リカが上陸してきたので私たちは部落の我喜屋(伊平屋村)の人たちと一緒に裏山(賀陽山の麓)に逃げましたが、二、三日したら部落の人たちそろって白旗をあげて山を降りていきました。私が十七、八歳のころです。

 捕虜になるとすぐ前泊に移されてそこに二、三日いたと覚えていますがそこから田名に移されて米軍が引揚げていくまでずっとそこに居ました。島の人たちは全部田名に集められていましたので、一軒の家に何世帯も詰めこまれて不自由な生活でした。前泊に居たころは焼けのこった二、三軒の家に我喜屋の全部の人を詰めて、寝るところもなかったぐらいです。座っていられればいい方で床下に寝ているのもいました。

 田名の場合は親戚の家とか知り合いの家を頼ってお世話になったわけですが、ここに居たのは半年ぐらいだったと思います。

 その間に我喜屋部落は米軍のマリン部隊のキャンプになっていて自由に立入りもできませんでした。

 CP(米軍任命の民警)とか軍作業へ行っている人たちの話ですと、カヤ葺家とか家畜小屋は全部焼払われてブルドーザーできれいに敷きならされていたそうです。部隊は学校に本部をおいていたそうですが私の家は学校のすぐ隣りにあったものですからそこまで拡張してありました。

 私たちの戦前の家は大きなカヤ葺家でしたが母屋も牛小屋も豚小屋も焼き払われて石垣囲いもブルで敷きならされていました。

 マリン部隊が引揚げていったので我喜屋の人たちはみんな一緒に部落に帰ってきたわけですが家はないからしばらくは前の海端にある製材所の小屋に居て山から木を切りだしてきて親戚どうしでめいめいの家を建てたわけです。この時、村長さんの相談で、私たちの元の屋敷はどうせ運動場の拡張に使われるから近くの空地と交換しないかと言われて、それで現在の屋敷に家を建てたわけです。この屋敷はもともと空地で井戸が一つだけありました。米軍はここを弾薬集積所に使っていたそうです。

 症状があらわれたのは一九四七年ごろからでした。最初に目がチクチク針でさされるようになって、涙がでてですね、肌が茶褐色になってあっちこっちに斑点ができて見られたザマではなかったですよ。手足がしびれてきて、肝臓と腎臓と心臓が全部やられたんですね。重くなると体ぜんぶから力がぬけて立つことも食事をすることもできずただ寝ころがっているだけです。そのうち腹に水がたまってふくれあがり死んでいました。家族がぜんぶいっぺんに同じ症状になってしまいました。

 私の家族は父正徳、母モウシ、長男正敏、次男正宏、長女名嘉カネ、その子敏子、次女ヨシ子、その子蒲、それに私をいれて九名おりました。カネの長女敏子が四歳ぐらい。ヨシの長男蒲がまだ一か月ぐらいの赤ン坊でした。

 最初に死んだのは父で四七年の十一月ごろでした。二、三か月して姉芳子が亡くなり、それからは次々と死んでいき、一年のうちに八人も死んでしまって私ひとりがやっと生きのこったわけです。体力の弱い者から順に死んでいきました。

 初めのうちは、ながいあいだ原因がわからなかったわけです。島の診療所ではただ皮膚病の薬しか塗ってくれませんでした。部落では悪性梅毒だとか何かのたたりだとか言って、家にも寄りつかないし道ですれ違っても向う側へ逃げていくありさまでした。葬式もごく近い親戚だけで出しました。島の習慣では普通部落全部が参列するんですが。

 他の家族の者たちは島ではどうにもならなくなって名護病院(名護市在)に入院しました。そこでも原因はよくわからないが内臓の治療を受けていると少しはよくなって、それで家へ帰ってくるとまた悪くなるわけです。二回目に入院するともう手のつけられない状態になっていました。

 私は比較的体が強い方でしたから、寝ている病人に御飯をつくってやったり看病しておりました。私が本島に出たころは母と合せて二、三名しか残っていませんでした。母は私に向って、自分たちはもうあきらめているけれどあんただけは生きて、自分の思うように生きて、婿養子でもとってこの家を継いでくれと遺言のように言っていました。それで私は本島へ出て名護病院にはいっていたわけです。その間に母も他の残りの者も全部死んでしまいました。私は葬式にも出られませんでした。

 私はひとりだけ残されて、名護病院、コザ病院(コザ市、現在沖縄市)、赤十字病院(那覇市)、石川病院と入院しましたが全然原因がわかりませんでした。戦前私の家は部落でも二番目の財産家だったんですが田も畑も山も二つの屋敷も入院費に売り払ってあとには田と畑で六百坪ぐらいしか残っていませんでした。財産が全部なくなるまでは救済も受けられないわけです。

 調査員が来たのは八名が死んでしまって私が石川病院にいたころですが、私の空家に無線技師の松本さんが借りて住んでいたんです。家じゅう消毒して井戸水も全部汲みだしてからはいったんですが、この家族にも私たちとまったく同じ症状が現われたんです。それで名護保健所に水を送って検査してみたらヒ素がはいっていることがわかったわけです。松本さんの家族は二、三か月ぐらい治療したら退院できました。

 私の病名も慢性ヒ素中毒ということになって治療法も変わりましたが、もう体じゅうに毒がしみこんでいるのでこれ以上よくなることはありませんでした。今でも少し無理をするとすぐ倒れてしまいます。鍬を二、三回振っただけで体がフラフラになってしまうし昼間じゅう起きていることもできません。今は小さな店をもって子供相手の十円商いをやっています。

 去年(昭和四六年)の夏、いつまでも毒のはいった井戸があると目ざわりだし、思いだしたくもないものですから、人を雇って埋めさせたんですが、井戸のまわりの石を掘り起こしたら下から空カン(鉄製円筒形のボンベ)が二個でてきました。警察に知らしたのですが爆弾ではないし中は空っぼでした。私はこれがヒ素の罐ではないかと思います。ある人に聞いてみたら、ヒ素は米兵の死体に塗るものだそうで引揚げるときいらなくなったので捨てていったんだろうと言っていました。
                                                           「沖縄県史10巻」から

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