証言32

 小学生の体験

                                                  与那城(男性 ・十三歳 ・学童)

    一九四四年(昭19)十月十日の空襲のとき、私は国民学校高等科の二年生だった。それ以後、わたしは学校へ行っていない。毎日が、飛行場建設や陣地構築に明けくれたからだ。当時、伊江島の民家には、必ず各戸一名の徹用割当があり、私の家では、私がそれに出たのである。私は、主としてグシク山の陣地掘りの作業に従事させられた。石油ランプを灯した地下の作業で、鼻の穴がまっ黒になるような労働だった。

 私の家は空襲で焼かれ、また石造の豚舎に移しておいた衣類、食糧が艦砲の直撃弾を受けたので、私は、当時学校から配給のあった学生服一着の着たきり雀で、二月から五月までの三か月間をすごした。

 三月の末から、伊江島上陸(一九四五年四月十六日)まで、伊江島は連日連夜空襲と艦砲の猛攻撃を受けた。昼は空襲、夜になると艦砲射撃で、首もあげられないほどであった。私の家の納屋には、守備隊の保管米がおいてあり、不足はなかったのだが、猛爆のもとでは火を使うこともできなかった。ある時、近所の内間さんという人が、炊事をしているところへ艦砲弾が飛んで来て、即死するということもおこった。葬式もできず、ただ、土の中に埋めるだけだった。そんな訳で、私たちは、防空壕の中でナマ米を噛って毎日を過したのである。

 ある朝、あれ程までにすさまじく荒れ狂っていた空襲も艦砲もハタと止んだ。私たちはみんなホッとしたが、それがアメリカ軍上陸の日だったのだ。
島の西海岸に上陸したアメリカ軍は、その日のうちに、部落近くまで迫ってきていた。ホッとしたのも束の間、ふたたび、同じ生活にひきもどされた。ナマ米を噛るのも飽きてほとんど水を飲んですごした。

    当時、母と幼い弟たちは今帰仁に疎開させられており、家の壕には、父と私の二人だったが、グシク山の守備隊の玉砕後、警備召集にとられていた兄が帰り、それに姉も加わった。私たちは、父が島の北部にかっこうの自然の洞穴を知っているというので、みんなしてそこへ移ることになった。

 父を先頭に、その指示に従いながら、兄、姉、私に、隣家の父子の七人で、米袋を銛を天秤棒にして担ぎ、一升ビンや鍋に水をいれてさげ、航空燃料のブタノールを五合ぐらい手にさげて、夜七時すぎ暗闇にまぎれて、北海岸めざして部落を出た。ところが、栄養が悪いため全員が夜盲症にかかっており、一寸先も見えず、文字通りめくら滅法、あっちにつまずき、こっちにつまずきで歩くありさまであった。また連日の好天つづきのため、カラカラに乾いた落葉は踏みつけるだけでパリパリ音をたてて気が気ではなかった。

 家の壕を出ると、道にはおびただしい人馬の屍体がころがっていた。なかには、胴のまん中がふっとんで、胸から上の部分と腰から下の部分が残っている屍休もあった。もはや、死の恐怖などなくなっている自分だったが、さすがにその無惨な屍体には眼をおおいたくなるほどだった。

 目的地は、ワジの東側のイヌガというところで、部落からはグシクの西側を直進した方が近いのだが、東側から遠まわりして行くことになった。グシクの東あたりで水を汲みに行くらしい守備隊の兵士一分隊に出会った。途中、アメリカ軍の照明弾があがったり、銃撃があったりした。

    照明弾があがると、道ばたに伏せてかくれ、それがおちて暗くなると目的地へ急いだ。そのため、鍋にいれてあった水はこぼれて一滴も残らなかった。一時間に百メートルぐらいの速度で進んだ。途中には、戦車やトラックの残がいがひっくりかえり、銃砲器が散乱し、屍体がころがっていた。天秤棒をかついだまま倒れている男、母親の屍体と一緒に倒れている幼児の屍体など…。しかし、もうその時の私の神経は麻痺しており、「ここにも死んでる」「ここにも…」という程度であった。

 こうして、真夜中やっと目的地にたどりついた。七人のうち二人が途中ではぐれてしまい五人だった。岩の割れ目にできた自然の洞穴をみつけてそこにかくれることにした。父と私が銛を持って交替で見張りに立った。二日目の夜、私が見張りに立っていると、岩の割れ目の下の方に民間人らしいのを見つけ、近づいてみると、途中ではぐれた私の兄だった。

 兄は、アメリカ軍の罐詰、たばこ、ビスケットなどの野戦食糧を持っていた。アメリカ軍の陣地あとから拾ってきたのだった。私たちは、最初毒が入っているのではないかと疑ったが、兄がすでに食べてみたというので、鎌を使って用心深く音を立てないように罐詰をあけ、セロハン紙につつまれていたビスケットといっしょにたべた。

 ところで、アメ リカ軍の陣地は、私たちのかくれ住む洞穴からものの二、三百メートルのところにあり、また、ある日、兄がワジに水を汲みに行ったところ、水汲み場にアメリカの哨兵がいるのを目撃したりしたので、ここでは危険だというので、この洞穴を出て、東側のイヌガウリクチという断崖の降り口、たいへん危険でこわい降り口だが、そこから海岸に降りた。

    ちょうどひき潮で、リーフの上を歩いたが、海面は重油やタールにおおわれ、それが身体や衣服にこび りついた。罐詰なども散乱していた。それを拾って、イッテヤーガマという自然洞窟に行った。そこには、私の近所の人たちがさきに入っていて賑やかなものだった。そこで約一か月くらいすごした。その間、太陽を見たことがなかった。

 食糧は、海岸に漂着したアメリカ軍の罐詰や乾燥ポテト、人参、玉ねぎなどが豊富にあった。ただし、持久に備えて、一日一食をふきの葉に盛ってたべた。飲み水はなく、海水を飲んだ。ある日、大雨が降ったので、飯盒のふたと一斗罐で溜り水を汲んできたら、まっ赤な泥水で、底に一センチもの泥が沈澱していた。それとも知らず、汲んで来た夜はみんなおいしく飲んだのだった。

    一か月たったある夜、一人の日本兵が、私たちの洞穴にやって来た。不時着した少年飛行兵で、若い少尉だった。飢えていたらしく、私たちの大事な食糧をガツガツ食い、二日くらい滞在して、本島(沖縄島) へ泳いで渡ると告げて出ていった。その後も、敗残兵が洞穴に入りこんで同居するようになった。

 そのようなある朝、洞穴の上で耳なれない話し声が聞こえ、まもなくアメ リカ兵が数名洞穴に入って来た。私たちは、更に奥深くかくれたが、散乱する鉄帽や銃を見たアメ リカ兵は、衣類や毛布、食糧などを焼き、ビンを割るなどの乱暴をはじめた。壕内は、煙とガスが立ちこめてきた。このままでは殺されるというので、父、兄、私、それに玉城さんという人は、とび出す用意をしていた。まず玉城さん、ついで兄がとび出したが、入口で銃を構えていたアメ リカ兵の銃撃で二人は負傷して捕虜になり、父は入口で両手をあげて無傷で捕虜になった。

    私は、中の小さなくぼみにうずくまったままだった。そのままの姿勢で、衰弱のため睡魔におそわれたが、時々アメ リカ軍の手投弾のさく裂する音で眼をさましたりしていた。そのうち、午後の三時頃、壕の外で「ゲンコウ」と私の名を呼ぶ声がしたが、側にいる兵隊が、「あの声はアメ リカ兵だから行くな」といって手を引っぱって止めたので、そのままうずくまっていた。

    そうすると、今度は、はっきりと父の声で、「おまえたちが出て来ないのなら、私は行くぞ」といった。それを聞いた私は反射的に出口にかけ出した。先刻、私の名前を呼んでいたのも、実は父だったのだ。外にとび出すと一人のアメリカ兵が、まさに壕内めがけてガス弾を投げようとしているところであった。

 私がとび出したので、中にいた残りの人たちも、ゾロゾロと出て来た。その中に、阿波根さんという軍服を着た防衛隊員がいた。足に負傷していた彼は、私の父の背を借りて出て来たが、それを見たアメリカ兵は、父に阿波根さんを下ろすように命じ、地面におろすや否や射殺した。私がアメリカ人の顔を見たのはこの時が初めてであった。

 太陽がまぶしく目が痛い程であった。私たちは、アメリカ軍のトラックに乗せられ、西のナーラ浜につくられた収容所につれていかれた。収容所に、たくさんの住民が生き残って収容され、それらの人たちが私たちと違って健康に日焼けしているのが私にはにわかには信じられなかった。その日が、何日だったか確かでないが、その時聞いた話では、あと二日で上陸の日から一か月になるということだった。

 ナーラで二、三日すごしたあと、慶良間に連行された。

 渡嘉敷島では、山中に赤松隊がたてこもっており、アメ リカ軍との間にしばしば小ぜりあいがあった。渡嘉敷島の住民も山中に避難したままで、私たちはその民家に分宿させられたが、家の軒先を弾がかすめてとぶありさまであった。

 そのころ、伊江島の戦闘は完全に終っており、その平和になったところから、なぜ、まだ戦闘のつづいているところに伊江島住民を連行したのか、私は不思議でならない。おそらくは、渡嘉敷住民を下山させるための囮ではなかったかと思うがどうだろうか。
                                                        「沖縄県史10巻」から

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