証言31

渡名喜島の戦争体験
                              
                                                      比嘉(男性 ・35歳 ・教員)

 渡名喜は昔から漁業に頼る島です。耕地面積が狭いので畑仕事は女にまかせて男たちは海に出ていました。昭和七、八年ごろから近海漁業はゆき詰りになって、新漁場を開拓しようと現地視察などやって、サイパン、パラオなどへ南洋出稼ぎが始まりました。漁船ごと南洋へ行って村の人たちが獲った魚を現地の工場へ売るわけです。

    戦争のころには千百名の村民のうち三百名あまりが出ていました。そのころは南洋からの仕送りで島はうるおって、今のような瓦ぶきの家がそろいました。那覇へ出る学生(中学生)の学資が月十二、三円のころに、南洋からの仕送りが三十円から四十円、多いときは百円になることもありました。おかげで上級の学校へ進学する者がふえてきました。こういう景気が戦争の二、三年まえまでは続きました。

 しかし、島は周りがわずか三里ぐらいで、山があるので水はありますが、食糧は自給できません。私の小さいころ大きな饑飢があって、粟国まで蘇鉄をとりに行ったり芋粕を砕いてポロポロ雑炊を食べたのを覚えています。平常は芋が主食ですがこれだけも自給できなくて配給米で補っていました。もちろん米を食べるのは正月とか折目のときだけでした。ですから、戦さになって第一に困ったのは食糧のことでした。

 昭和十九年の初めごろになると、いつ配給がとぎれるかもわからん、と配給米は大事に蓄えるようにしていましたが、それでも二十年の三月から配給がなくなると間もなく蘇鉄しか食えない状態になりました。当時村に残っていたのは七百名ぐらいでしたがこれだけの主食も自給できなかったわけです。麦や粟も少しは作っていましたが、これはおもに味噌を作るもので、結局蘇鉄だけしか残らなかったわけです。

 当時船便は天候のいい時で週に一便、十五屯ぐらいの木造船で、今みたいに桟橋もありませんから少しシケになると干瀬にたたきつけられるおそれがあって船がとまってしまいます。私など、国民学校の教員をやっていましたが、那覇で一日の講習を受けるために三週間もかかったことがありました。船は島の人の個人もちでした。

   夏場は漁船が二隻動いていて燃料補給に那覇へ行くのに便乗させてもらうこともありましたが、冬になるとそれもなくて、急患などが出た場合など、二、三名を雇ってクリ舟で漕いでいくありさまでした。この船が二隻とも空襲に沈められてからは本島との連絡も中断されてしまい、三月ごろから米軍上陸の九月ごろまで、世の中の動きがまったくわからなくなってしまいました。

    戦争の気配が感じられてきたのは、私らのところには部隊の駐屯はありませんでしたから、サイパン上陸の噂が伝わった頃からでした。サイパン、パラオには村の人がたくさん渡っているので皆心配していましたが玉砕になったのを知ったのは二十年の九月、戦争が終ってからです。国民学校や青年学校などでは軍国主義教育が徹底して行われていましたが十・十空襲になるまでほんとの戦争のことは何にも知りませんでした。

 十・十空襲もほとんどアッという間のできごとでした。あの空襲も島にはやってきませんでした。私は午前の授業が終って子供たちを帰した後でしたが、村の漁船が入砂島の近くでグラマンの機銃を浴びているのを見てはじめて空襲だとわかったわけです。その朝二隻の漁船が平常通りに漁に出たわけですが、久米島の東奥武島沖のリーフで餌をとっていたところ、久米島の真泊港でグラマンが運搬船をねらい撃ちしているのを十二、三キロのところから眺めていたそうです。それでも友軍の演習だろう位に思ってそのまま漁場に向い、漁の帰りを襲われたわけです。島にはラジオも電信もないし、全く情報がなかったので戦さが始まったとも思わなかったわけです。とにかく、一隻は何とか難をのがれたのですが他の一隻は私らの見ている目のまえでやられ、西浜にたどりついたときには六名が死んでいました。

 その時から皆も戦さだとわかって、その船が積んできた魚はもう那覇にはもっていけませんから皆んなで分けて非常用として鰹節にしてたくわえておきました。那覇が焼け野原になったことも後で知りました。幸い渡名喜出身には犠牲者はなかったですが、村民のショックは大きいもので、それで勝った勝ったという新聞の情報を疑いだしたわけです。それでも十・十空襲はそれ位ですみました。学校も次の日から平常通り続け、三月の卒業式までは授業をやっておりました。

 それから後、村民はさすがに不安になっておりましたが、その年の十一月未ごろ、座間味島(村)から将校をまじえた十名ぐらいの兵隊がやってきました。目的はここに通信隊を置きたいということでした。島のあちこちを調査した結果おそくとも来年の一、二月ごろまでには駐屯するから安心しているようにということでした。

    その時兵隊たちが持ってきたラジオで初めて大本営発表というものを聞かされました。こういうことだったら戦さが始まってから避難するにも都合いいな、と兵隊がくるのをひじょうに期待していました。結局これは実現しなくて結果的には幸いだったわけですが、当時としては、兵隊がくれば自分たちを守ってくれるだろうと、不安な気持で軍がくるのを待ち望んでいたものです。

 島には戦さに備える対策というのは何もありませんでした。県や軍からの疎開命令もなかったし、非常用の食糧というのも貰えていませんでした。強いて武器といえば青年学校の訓練用の木銃と竹槍ぐらいのもので、訓練といっても私らが教官を兼ねて、師範学校時代短期現役で習ったことをくりかえすだけでした。村役場では各戸に壕を掘ったり山に避難所をつくるよう指導しましたがこの壕をつくりだしたのも十 ・十空襲のあとからです。

 隣組も形だけはありましたが、いざとなると親戚どうしで行動していましたから有名無実です。後になって、敵が上陸するかもしれないと考えたことはありましたが、竹槍と実弾では戦えるはずもないのでただ逃げることばかり考えていました。要するに軍ではこの島のことはまったく眼中にはなかったと思います。

 防空壕は各戸につくりましたが、砂地に穴を掘ってその中の周りを石で積んで、天井は丸太を並べてその上に戸板をかぶせて埋めるわけです。入口は石垣に向けたり山の方に向けておきました。それでも、二十年八月の最後の空襲のとき機銃弾が壕の天井をつき抜けて頭をやられて即死した者がでました。

 部落が焼かれたときのことを考えて山にも壕をつくりました。部落から二キロ位はなれたところにアンジェーラとかユブクというところがあるんですが、そこは山の麓で、水は豊富にあるし自然の岩穴がたくさんあって、そこら辺に避難することにしたんです。

 翌年(二十年)の三月二十日ごろ、ぎりぎりのところで最後の徴用が那覇から帰ってきて、それっきり本島とは連絡がとだえてしまいました。その前に、二月には最後の召集兵を送りだしました。また、軍への供出は十九年末から二十年二月ごろまで魚、豚、牛などを運んでいきました。この頃の船便は、運搬船(定期船)が十 ・十空襲でやられているし、もう一隻の鰹船もやられていますから、残った一隻を動かしていましたが、これも三月の空襲で沈められて渡名喜の船は全部なくなってしまったわけです。

 三月からはしよっちゅう空襲がありました。グラマンが二、三機ずつ飛んできて低空で空襲をやりました。焼夷弾が落されて家が三軒焼けました。学校をねらって爆弾が五、六個落されましたがこれは近くに大きな穴をあけただけで校舎は無事でした。

 慶良間に米軍が上陸した頃は村民は全部山に避難していました。学校も閉鎖して子供たちはめいめいの家族にあずけて、教員がときどき空襲の合間とか夜間に各壕をまわって子供の健康状態をきく位のことしかできませんでした。

 慶良間への上陸のときは、三月二十三、四日ごろですか、私らは山上に登って艦隊がくるのを眺めておりました。はじめは敵なのか友軍なのかもわからないので見物していたわけです。久米島の南側の海上から点々と軍艦が現われて、それが渡名喜と慶良間の間をずんずん通って東側の方へぐるりと廻っていくわけです。

 そうしながら座間味の海岸線に艦砲をうちこんでいくんですね。向うには特攻艇がかくされていたということですからそれをさぐるためなんでしょうかね。そのうち、私らのところにも二、三発うちこんできたんですよ。東側の海岸は切り立った崖で何もないですか
ら、それっきりでした。

 慶良間が全島燃えていくのは皆が見ています。座間味、渡嘉敷に、島じゅうに艦砲がうちこまれて夜どおし島が燃えていました。そのころはこの島も空襲が激しくなっていて、やがてこの島にも上陸するだろうと予想して、軍もいないところですから心細い思いをしていました。

 船便がとだえて、供出がなくなったかわりに、県からの米の配給も二月ごろからはとだえてしまいました。われわれは各家で一斗とか五斗とか大事に貯えていましたがこれはなかなか手をつけませんでした。麦とか豆とかも、これは来年の種子にとっておかんといかん、これを食べてしまえばもうおしまいだ、と思って大事にしていました。しかし、これもやがて尽きてしまって、あとは蘇鉄だけになりました。畑のものも取り尽し牛豚も殺してしまっているので何にも食う物がなくなったんです。

 私らの家族は実姉と中学一年の男子を頭に六名の子供をひきずっていましたから食糧には苦労しました。毎日が蘇鉄です。この息子は一中の一年生でしたが、三月二十日の最後の船で帰ってきました。そうでないと、学徒隊にとられていたところです。

 蘇鉄は太くて短いのが澱粉があります。これを切ってきてツメ(爪?)といっている表皮を削り落すと中に繊維質のもう一つの皮と中にアーシという芯の部分があるわけです。この繊維質の部分と芯の部分を指の長さぐらいに薄く刻んでからからに乾かして、これを二、三日ぐらい水漬にしてアクを抜くわけです。これをさらにコモなどかぶせて朽すわけです。手をいれるとあつくなるぐらいまで発酵させるわけですね。そうすると指でポキッと折れる位まで柔らかくなります。これをそのまま炊いて食べることもできますし、また干して臼でついて粉にして料理してもいいわけです。

    こうやって蘇鉄の毒を抜くのに一週聞から十日位かかるわけですが、それでも中毒するのはこの粉にカビが生えた場合です。このカビは猛毒です。比嘉さんといって、母親と子供三人の家族がこの犠牲になりましたが気の毒でした。父親は南洋にいっているし長男は商業学校の生徒で学徒隊にとられているんですね。それが母子三人避難して蘇鉄ばかり食べていたわけですが、蘇鉄中毒で三名とも倒れてしまいました。母親は何とか助かったんですが次男と三男は死んでしまいました。

  こんなふうにして命がけで食べた蘇鉄ですが、水で煮て糊みたいにして食べても、その味はいいものではありません。土質によってとくに味の悪い蘇飲もあるんですが、食べなければ死ぬと思って食べているだけでした。

  山の中の壕生活でとくに思いだされるのは、どこから湧いてきたのかシラミがいっぱい湧いてきたことです。もともと島ではシラミをみかけることがめったになかったものですが戦さが始まったとたんにどっと湧いてきました。着物の縫目にびっしり並んでいて避難生活の退屈まぎれにしょっちゅうシラミつぶしをやっていたものですよ。

  そのかわりにハブがいなくなりました。この島は昔からハブどころで、季節もちょうど出まわるころですが、どんな深い山の中を歩きまわっていてもハブにぶっつかったことはありませんでした。戦後になって皆にきいてみたんですが、ただ一人だけ一度見たというのが居ました。ハブに咬まれたというのは一人も居ませんでした。

  四月ごろからは栄養失調で亡くなる者がでてきました。年寄りなどが顔や足がふくれあがるとやがて死んでいきます。六月ごろからはどんどん倒れていって十月ごろまで続いています。七〇歳以上の年寄りはほとんど死んでいます。私の部落、東では三〇戸ぐらいのうちから十名ぐらい死んでいます。

  食糧事情でもう一つ打撃を受けたのはほとんど唯一のタンパク源である魚が四月以降まったく獲れなくなったということです。島の周囲は遠浅の海ですから釣や潜りで魚をとったり夜の干潮のときは漁火をともしてタコなどとって、これが村民のタンパク源になっていたんですが、いつ何どきグラマンが襲ってくるかわからん状態ではそれができないわけです。

    私は一度六月の末ごろ昼間に海に出たことがあったんですが、すぐ機銃掃射でバラバラやられてしまって、逃げることもできず水に潜って難をさけたこともあります。こんな状態で、食うものといえば蘇鉄とヨモギと苦菜(ニガナ)といったありさま、それで栄養失調で死ぬのが続出したわけです。

 六月の初めごろ、私は蘇鉄をとりに北の山に登っていくと、向うの栗国島がぐるりと艦隊に取りまかれて、軍艦からはさかんに艦砲を撃っているのが見えました。ドーンと音をたてると砲煙があがって、島で爆発して何かが燃えあがるのも見えました。粟国は渡名喜と同じように軍隊のいない島でしたから、いよいよ次はこちらだなと思いました。 

  しかし、それからしばらくたっても上陸の様子はないし、この頃からは空襲も止んでいましたので、もう大丈夫だろうとそろそろ村民は部落へ戻りはじめたんです。もちろん当時は沖縄戦が終ったことも知りませんでした。まだ戦さは続いていると思っていたんです。

    そうやって、六月、七月、八月と平穏に過ぎていったんですが、八月はじめ頃、突然二機のグラマンが低空してきて西から東の方ヘバラバラと機銃掃射をやりながら通りすぎていったわけです。皆は安心して家に居るところだったので、このたった一回の機銃持射で六名がやられてしまいました。グラマンは久米島方面から沖縄本島へ帰る途中だったと思います。たぶんいたずら空襲だったと思います。

  六名のうち四名は即死です。重傷を負った者も、島には診療所もない時代ですからどうすることもできず死んでしまいました。そのうちのひとりは桃原善勇という人で、腕を貫通されていましたが、私が毎日通って手当てをしました。私はオキシフルとか赤チンキなどはもっていましたから、それで傷口を消毒して手当をやったんですが、四、五日で破傷風になって死んでしまいました。

 九月半ば頃、米軍の舟艇がやってきて初めて戦さが終ったことを知らされました。それを聞いても、アメリカ兵の姿を見ても、島の人たちはそんなに驚きもしないで、女たちまでが物珍らしそうに見物に集まったものです。アメリカ兵は民家をまわって国旗とか国防婦人会のタスキなどを出せ出せと言ってきました。たぶん記念品にするつもりだったんでしょう。私らはけしからんと思って、後で将校にかけ合って返してもらいましたが。 

  その間に将校たちは役場へ行って、戦さは終ったと伝えたわけですが、村長たちは半信半疑で宣撫工作ではないかなあと思ったそうです。こういう場合は、一般の人たちはどうせ負け戦さだろうという意識が強かったんですが、私らのような立場の者には口にはだして言えないしそういう態度もとれないわけです。そこで米軍では、座間味まで一緒にいったら証明できるからと、村長とか郵便局長とか三、四名を舟艇でつれていったわけです。その人たちは死ぬ覚悟でついていったそうです。

  向うへ行ったら、どうもほんとらしいとわかって、それで同じ舟艇でひっかえしてきたわけですが、その時食糧も一緒に積んできたわけです。私らにとってはその日が終戦の日といっていいでしょうね。

 渡名喜で忘れてならないことは、島で弾にあたって死んだのはわずか十二名だけですが、サイパン、パラオなどではずい分死んだことです。私は以前学校の卒業生名薄を整理したことがありますが、そのとき痛感したことは、私が卒業した大正十年の二九期生(尋常科)から昭和十四年卒の四七期生までの男たちが大半戦死していることです。

    たとえば、私と同期の男は十三名でしたが生きのこったのは四名だけです。ほとんどは南洋で漁船が沈められたあと現地召集されて陸で戦死しています。私が教えたのは昭和七年卒の四十期生からですが、この教え子たちのうち男はよくて三分の一しか生きのこっていません。

  なかでも気がかりなのは、二十年の二月に四七期生のなかから四、五名の新兵を送りだしたのですが、これは沖縄戦の直前ですから死ににやったようなものです。その時久米島では船がないからと断ったそうですがここからはわざわざ鰹船をだして送っています。生きて帰ってきたのは又吉治堆という青年ひとりでした。こういうのを全部あわせると島では二百名以上の戦死者をだしています。

  あの頃、私は忠君愛国だとか国策だとかと聖戦だとか言ってこの子たちを教えてきたんですが、その結果はあたら尊い教え子を死地へ追いやってしまったわけです。これを思うと心底からお詫びしなければならない気持になります。南洋で死んだ人たちはほとんど遺骨もかえってきていません。
                                                           「沖縄県史第10巻」から

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