証言30

少年(十三歳)の見た沖縄戦
                                                                            宮城(男性 ・13歳)
   戦がやってきた
   
    一九四五年三月二三日。その日は朝から艦載機による空襲であった。この空襲は沖縄県全域にわたる大規模なもので沖縄戦の前哨戦であった。これまでも爆撃機(B 27)一、二機による単発的な空襲は頻繁にあったが(時には銃座の搭乗員が見えるほど低空で嘉陽部落の前を通り過ぎて行った)、艦載機による大規模な空襲は前年の十 ・十空襲以来のものであった。

  この空襲はその後も続き、三月二六日には米軍が慶良間列島に上陸、四月一日には猛烈な艦砲射撃のあと、沖縄本島西海岸の読谷から北谷の海岸に大々的な上陸作戦が展開された。四月六日の夕暮れ、名護方面に艦砲射撃があり、翌七日には米第六海兵師団の一部が屋部から名護東江一帯の海岸に上陸した。

  艦砲の音は嘉陽でも聞こえた。ドスンと鈍い音がして二、三秒すると地を揺るがすような炸裂音がして、かなり近距離に着弾しているような感じがした。艦砲の音を聞いたのはこれが初めてであった。

 初めの一、二週間は嘉陽のような山間の小さな集落にも頻繁に機銃掃射が浴びせられ、曳光弾による火災が起き、浜知念屋(屋号)、中上門(屋号)を始め、数軒の家屋が焼け落ちた。小学校にはロケット弾が数発打ち込まれ、そのうち二発が運動場の海岸よりに一米ほどの高さに積まれていた石垣に当たり、その一部を破壊した。敵機は山田又上空あたりから急降下して攻撃し、海の方へ抜けていった。

  空襲中、村の入々は勇敢にも消火活動にあたったが、幸い誰ひとり機銃掃射の犠牲になった者はいなかった。機銃掃射はうけたが焼けなかった家屋の中に入ると、煤で真っ黒になった柱や桁が銃弾でえぐり取られ、生な生しい痕跡を見せていた。

  そんな空襲のあったある日の夕方、山の避難小屋から部落へ下りてみた。まだ焼け跡の残り火の熱が石垣の間に漂っているような村に、単に様子を見に来た人たちや、家財道具を取りに来た人たちがいたが、私の記憶では、妙に静まりかえっていた。誰もが大声を出すのを恐れているかのようであった。

    現在の売店近くにあった浜知念屋のフールの焼け跡には一頭の豚が丸焼けになっており、屋敷のもう一方にはビラミット形になった黒焦げのタードーシ(田倒し)芋の山があった。表面は炭化していたが、中のほうはまだ食べられた。暮れなずむ村の焼け跡で食べたタードーシ芋は実にうまかった。

    金山田(サウズ又)の住人たち

 サウズ又は学校の裏手から見ると左側に上城森、右側にフッガッチャ森があり、その間を北東に二、三百米ほど延びており、そこでほとんど直角に東南に折れ曲がっていて格好の避難場所になっている。

    その折れ曲がった部分の奥まったところに東翁長((屋号 ・区長翁長松次)、東天仁屋(屋号 ・安谷屋安信、オバー、初子、トミ、それに中城からきたズケラン中尉の妻と二人の子供)その横にわれわれの小屋(宮城敏男、奥間屋のポーマ)があり、さらに奥の狭い沢づたいに瀬名波の親子三人(那覇のオバーといわれていた)の小屋があり、沢をさらに行くと東(屋号 ・アガーリ、知念松信、苗)と伊志嶺(屋号)のオバーと三姉妹の小屋があり、その奥には食料調達にくる敗残兵たちから身を隠すために区長が使っていた小屋があった。

 五月の終わりころであったか、アガーリの避難小屋の近くに第三中学校の谷口配属将校の隠れ家が建てられた。

 サウズ又の住人たちは、四月の中旬あたりまでは、時折村への機銃掃射があったものの、至って平和に暮らしていた。その間、第三高等女学校の従軍看護婦隊に入っていた姉郁子が帰って来た。(彼女はそれ以来ずっと病気で寝たきりになった。)そのあと、三中の鉄血勤皇隊の解散に伴い父と安信兄がタノー岳(多野岳)から帰って来た。それに、いつの間にか谷口配属将校も。

    特攻機

 そのころ、われわれはフガッチヤ森の頂上に登って“敵情偵察”をするのを日課としていた。眼下の海には見渡すかぎり無数のアメ リカの艦船が浮かんでおり、今にもこちらへ向けて艦砲を打ち込んでくるのではないかと不安になり、われわれは息をこらして木の陰から見張っていた。

  もう船の姿にも驚かなくなったころのある日の夕方、山を下りようとしたとき、いきなり眼下の艦船から一斉射撃が始まった。見る見るうちに、空は対空砲火が炸裂したときにできる黒煙の塊りで被われ、船は縦横無尽に走り回っていた。神風特攻隊だ。あまり熱心な軍国少年でもなかった私もこの時ばかりは興奮で胸が高鳴った。

    目を凝らすと三、四機の機影が見える。低空で突っ込んで行くもの、上空から急降下するもの。まるで荒れ狂う野獣に必死に飛びかかって行く蜂のように敵艦を目がけて襲いかかるのだが、体当たり寸前に次ぎつぎに撃ち落とされてしまった。攻撃は二十分はど続いたであろうか、残念な思いで山を下りようとしたとき、一機の特攻機がフガッチヤ森の上空まで低空で飛んできたかと思うと機首を東村の方向へ向けて飛び去っていった。(あとで聞いた話では、東村の海岸に特攻機が不時着したとのことであったが、真偽のほどはわからない。)

  二、三日あと、子供達だけでタッチュル岬で遊んでいると、オレンジやリンゴ、半分腐った牛肉のかたまり、コールタールの付着した枕などが沖から流れてきた。これが特攻機の攻撃を受けた船からなのかは分からない。学校の近くの浜には三菱か川崎の文字のはいった特攻機のものと思われる車輪の部分が流れついた。

    「敗残兵」と難民

 四月の末あたりか五月の始め頃から、中南部や本部八重岳あたりからの兵隊が押し寄せ、騒々しくなった。八重岳に陣取っていた「宇土部隊」(三千人)は四月十七、十八日に第二十九海兵連隊と第四海兵連隊の挟み撃ちにあい総崩れ、すでにアメ リカ軍の手に落ちていた羽地方面を突破して、久志 村方面に流れて来た。それに、中南部からの難民や兵隊が加わって、村人が避難した後の村は一種異様な賑わいをみせていた。

  兵隊たちは山の避難小屋を回って食料の調達をしていたようだが、サウズ又にも連日押しかけて来た。日本刀や銃をもった兵隊たちに取り囲まれている区長を何度か見かけたことがあった。明日切り込みに行くから、食料を供出せよと迫ったらしい。同じ兵隊たちが二、三日して戻って来て、切り込みは失敗に終わったが、今度は必ず成功するからと区長の食糧の調達を半ば脅迫的に命じたとのことであった。

  初めのうちはいくらか協力的であった区長もあとでは「友軍」がきても食料を出してはいけないと,各避難小屋に触れ回ったと言う。そして自分は沢の最も奥にあった避難小屋に隠れている日が多くなった。そのようなときに、偶然にも翁長自敬という中尉(嘉陽翁長の親戚で那覇の人)がやって来たので、その人に東翁長(屋号)の小屋にいてもらい、兵隊たちが食料調達にくるたびに説得して帰ってもらっていた。

    そのころから村人たちは日本兵がくるのを恐れた。始めは切り込みだの、敵陣を突破してどこかに集結するだのと勇ましいことを言うが、村の人があまり協力的でないと見ると、鉄砲や刀をガチヤガチヤいわせて威嚇して食料の調達をしたという。

  そんなある日、避難小屋の前の広場で竹のバーキ(ざる)を編んでいた父をみて、ある兵隊が「あのおじいさん、日本語がわかるか」と聞いたという。父はそのころ五十代であったと思われるが、白髪混じった髪は伸び放題で、長い髭を蓄えていたから、老人と思われたのだろう。兵隊たちはその老人と交渉すれば食料を分けてもらえるという考えであろうが、日本語が分からないと思ったのか、交渉を諦めたらしい。

  兵隊は単独でやってくるのもいた。ある時、一人の兵隊がわが家の避難小屋に入って来て部屋のまん中にあった囲炉裏の前に座ったきり何時間も動かない。しびれを切らした奥間屋(屋号)のポーアンマ(呼び名)が食事の支度を始めるとその兵隊はナベの中をのぞき込んだり、他愛ないことを聞いたりして、落ち着かなくなった。いよいよ食事になるとポーアンマはその兵隊にもジユーシー(雑炊)を分け与えた。おいしそうに食べ終わると、遠慮がちにお代わりを求めたので、「兵隊さんもうこれだけですよ」と少なめによそわれた椀をわたされると、一口ひとくち、味わうように食べた。食べ終わると丁寧にお礼をいって出て行った。おとなしい兵隊であった。

  余談だが、区長はあるときアガーリの小屋に松信兄(北支での戦闘に参加したこともあったが、兵役中に胸を患い山ではほとんど寝たきりであった)をたずね、玉砕になったらどうしようかと聞いたところ、民間人は死ぬことはない、白旗を掲げるか手を挙げて恭順の意を表せば、敵も殺しはしないといわれて、安心して帰っていったという(宮城苗姉の証言)。

  難民はといえば、主のいなくなった村の家々を占拠し、壁をはがして煮炊きに使っていた。ほとんどの人が着のみ着ままで、空き缶で作ったナベをもっていた。子供達は痩せ衰え、腹だけが大きかった。大人たちのなかにもソテツを十分毒抜きをせずに食べているのか体に浮腫(ムクミ)がでているのもいた。それでも戦火から逃れてきて安心したのか、それとも体を動かすのが大儀なのか、あっちこっちで横になっていた。

  弟(孝也)と母がなにかの用事で村へおりたとき、弟が難民の子供におにぎりをわけてやったら、泣いて喜んだという。母は避難生活の話になると、よくこのことを話した。

  難民の中でもいくらかモノをもっている人たちは、山の避難小屋にやって来て物々交換をした。松の葉をまいてタパコがわりに吸っていた父母は底を尽きだした食料の一部とアメ リカ製のタバコ三個と交換した。今でもそれがチェスターフィールド、ラッキーストライク、フィリップモーリスであったことを思い出す。子供心にも父母のタバコ欲しさが わかった。初めてみるアメ リカのタバコのデザインは美しく、嗅ぐと甘い香りがした。

 五月の上旬だったか、連日大雨がふり、サウズ川が氾濫した。ワラを敷いた避難小屋は水浸しで衛生状態が急速に悪化して、シラミが発生した。着物の襞に潜む白いシラミを取るのが日課になっていた。

  この雨があがって後かその前であったか記憶は定かでないが、ある日一家総出でタッチュル岬の海岸で塩を作ったことがある。シンメナービ(大釜)に海水をいれて炊く。これを半日以上繰り返すと白い塩ができる。その日は空襲もなく、敵兵がくるのでもなく、まるでピックニックの気分であった。できた塩は袋にいれてカマドの上にぶら下げておくと自然にニガリがポタポタとたれて、味のいい塩になった。
 ところで、配属将校は何をしていたかといえば、私が切って来たムレーの木(海綿状の芯のある直径三、四センチの灌木)を割いて、丹念にお箸を作っていた。食べるのは粗末なものであったが、箸だけは立派な物であった。

    ずいぶん後になってのことだが、配属将校に頼まれて、米軍が偵察用の軽飛行機(トンボ)からばらまくビラを拾いにいったことある。田圃に落ちて来たビラを集めていると、機関銃をもった兵隊に物凄い剣幕で「お前らこれを拾ってどうするんだ」と怒鳴られた。ちょうどその時、米軍のパトロールが村に向かっているとかで、兵隊も難民も山の方へ逃げて行くところだったので怒鳴られるだけですんだが、そうでなかったらスパイ扱いでどうなっていたかわからない。子供でもそんなことは許さないという真剣な表情であった。

    敗残兵のお説教

 五月の下旬か六月の上旬か、ある日のこと安部之屋(屋号)の重敏おじ、重正、父(敏男)と四人で山田又入り口の田圃へ田草を取りに行ったときのことである。山田又の川とナクグァチからの川が合流するあたりである。三人の兵隊がわわわれが田草をとっている近くを横切つて川の土手に上つた。一人は明らかに将校である。日よけの戦闘帽を被って、腰に日本刀を吊るしている。色が白く、背が高い。他の二人は十七、八の少年兵で背は低く、色は浅黒い。ウチナンチュー(沖縄人)である。一人は日本製の銃をもち、もう一人は身の丈はあろうかと思われる重そうな米軍の銃を肩につるしている。

  川の土手にたどり着いた将校は少年兵を左右に従えて、仁王立ちに立っていきなり怒鳴りだした。あまりにもトツピだったので、初めのうちは何を言っているのかよく分からなかった。自分たちが怒鳴られていることさへ気が付かなかった。そのうちお前らは非国民だ、スパイだと大声で罵倒しているのが分かった。

  「われわれ兵隊が畏くも(気をつけっの姿勢で)天皇陛下の御為に戦っているとき、お前らは何をしているのだ。軍に対して協カもせず、のうのうとこんなところで草を取っている。お前らは非国民だ。アメリカ軍のスパイだ。許すわけにはいかん。」四人はうつむいたまま、息を呑んでじっとしている。

    将校は怒鳴っているうちに次第しだいに興奮が高まっていくようであった。ついに、腰の刀に手をやって、「ぶった切ってやる。そこの髭を生やした奴、ここへ来い。お前らは生かしておくわけにはいかん。」氷のような恐怖が体の中を走る。四人はただじっと耐えている。来いと言われて出ていこうものなら、本当に切られるかも知れない。そう思わせるほどの剣幕である。息詰るような瞬間が過ぎる。言うことを聞かないと分かるとますます興奮して罵倒は続く。しかし土手を下りてくる気配はない。

 やにわに「撃て!撃て!」と少年兵に命じる。ああもうこれでおしまいだと観念する。しかし何時までたっても銃声は聞こえない。恐るおそる顔を上げて見ると、少年兵たちはうつむいたまま立っている。撃てと再度命令されても、押し黙ったまま立っている。命令拒否である。少年兵たちは撃つほどの理由がないことを知っていたか、あるいは同じ沖縄人を、しかも民間人を、それだけの理由で撃つことはできないと無言で将校に訴えていたのであろうか。しかし、もしその兵隊たちがヤマトンチュー(本土人)だったらどうしたであろうか。命令を拒否したであろうか。

 将校の罵倒はまだ続いた。しかしその言葉にはもはや追力はなかった。今回だけは許すが、などと言っているうちに、部落の方から難民や兵隊たちが山手の方向に逃げて行くのが見えた。米軍のパトロールが来たのだ。将校も少年兵を引き連れて退散した。

 将校が怒ったのは父が「こっちの畦道は細くて歩きにくいから、あっちの方から遠回りしたほうがいい」というようなことを、鎌をもった手で示したのであろう。そのとき父がどんな言葉使いをしたのか分からないが、将校は馬鹿にされたと感じたのかも知れない。ともあれ、自分の息子ほどの若い将校に罵倒された父はさぞ無念だったであろう。

  後日談であるが、その将校たちは数日後に偶然にも安部之屋の避難小屋にやってきて、戦友が負傷して寝ているので、食料を分けて欲しいと懇願したという。二、三日前に“処刑”されそうになった人達の小屋ともしらずに.安部之屋は命令拒否をした少年兵たちの心情を思って、米を分け与えたという。

    米軍野営

 ある日、部落の西側を流れるナーツミガー(川の名)を越えたところにある畑地(マツバマ)に北上する米軍の一隊が野営した。そこで芋掘りをしていた村人たちは、慌てふためいて近くのマンカ森に逃げ込んだり、部落を経て避難小屋に帰ったが、逃げ遅れた数人が墓の裏手の山腹やマンカ原御獄の森に身を隠したが、一人が米軍に捕まった。がしかし数時間後には開放され、毛布に身をつつみ金山田の避難小屋へ帰って来た。宮城屋のチルおばさんであった。

 その夜は照明弾がいくつも打ち上げられ、そのたびに小銃が連射された。闇夜に打ち上げられる照明弾の光は強烈で、サウズ又まで照らしだした。

 翌朝、ガン屋に保護されていた上里源松君は何の危害も加えられず一人で避難小屋へ帰った。しかし、帰って来ない村人が一人いた。源松君の父親である。山腹に身を隠していたが照明弾の光にびっくりし、ガサッと音を立ててしまい米軍の銃弾に倒れたのである。源松君は父親とはわずかに離れた所にいたが難を免れ、ガン屋に保護されたという。沖縄戦中、嘉陽で米軍の弾に当たって亡くなった最初で最後の犠牲者であった。

 いつのころからか、嘉陽にも頻繁に米軍のパトロール(斥候兵)がジープでやってきては部落前の海岸で銃やピストルを乱射して帰って行くようになった。(当時、車が通れるような道は嘉陽までしかつくられていなかった)

    われわれ(たしか安信兄も一緒)はフガッチャ森の頂上からパトロールの来るのを発見すると、大急ぎで山をおりて「敵だ敵だ」と触れ回った。近くの田で田草を取っている人たちも作業を中断して小屋や森に避難した。(フガッチャ森からは安部から嘉陽に下りる道の一部が見えた。)

 そのころ、サウズ又も危ないというわけで、上ナンガに避難することになった。サウズ又から上ナンガまではかなりの距離である。真っ暗な夜、タイマツもつけずに、人一人がやっと通れるような山道を手探りで歩き、やっとの思いで上ナンガに着いたのは夜おそくであった。小屋は川沿いの土手にすでにできていた。その夜はなかな寝付けなかった。奥間屋のオバーはハブよけに一晩中ミソを焼いていたという。

 上ナンガは戦争とは無縁の全くの別天地であった。鬱蒼と茂った木々、木漏れ日をうけて流れる清流、シタマンギーの巨木、生い茂るシダ類。全く手付かずの自然の美がそこにはあった。その美しさと秘境めいた谷のもつ神秘さが少年の心に探検でもしたい気持ちをおこさせた。何日でも留まっていたいところであった。

 しかし、その美しい環境とも二、三日でお別れをすることになった。近くの尾根伝いに道があって、米軍がそこを通るという噂がたって、結局引き上げざるを得なくなった。帰りは下ナンガを経てナクグワチにでて、サウズ又へ。

 上ナンガには私たち以外にも嘉陽の人達が避難していたらしく、伊志嶺の初子姉の話では安谷の譲おじさんや西翁長の久栄兄などは竹槍を作って敵の来襲に備えていたという。その話は別の人からも聞いた覚えがある.

    戦争終結

 もう六月も半ばを過ぎたころであろうか。米軍の迫撃砲の音も聞こえるようになっていた。そんなある日、福地又あたりから飛んで来た迫撃砲の一発が後翁長屋(謙良君の家)の納屋に落下して、兵隊一人が即死したという話が広がった。見に行ったときには既に遺体は運び去られた後であったが、地面に僅かの血痕がのこっており、ミカンの木の枝が折れていた。恐らく弾は枝に当たって空中で爆発したのであろう。しかし迫撃砲が落ちたにしてはあたりの福木や家の壁への損傷が少なく、本当に迫撃砲なのだろうかと不審におもったのを覚えている。

 話は前後するかもしれないが、学校の奉安殿裏にモクマオの木の林があって、そこで村の代表たちと二世たちがテーブルを囲んで話し合っているのを見た。父はその席にはいなかった。とにかく、その話し合いで、部落の人達は山から下りることになり、米軍もその問は砲撃を中止することになったという。

 部落に戻った人達はもはやアメ リカ兵に対する恐怖心はなくなっている様子であった。私が米兵をはじめて見たのはその頃であった。現在の売店のあるあたりに機関銃を装備したジープが一台入ってくるところであった。サングラスをかけた米兵は上半身裸で、赤く日焼けした皮膚の色が印象的であった。
 そんなある日、一大ショーが始まった。安部オール(岩礁島)攻撃である。どんな人があの岩だけの小島に隠れていたのか、米軍は迫撃砲で執拗に攻撃を繰り返した。その攻撃の模様を嘉陽の人達は護岸の上から、まるで対岸の火事でも眺めるように見ていた。何百発打ち込まれたのだろうか。攻撃が一時止むと、水陸両用の戦闘車が沖側から島を偵察しながら機関銃を放つ。この繰り返しである。

    嘉陽側からよく見えるところで迫撃砲が炸裂するたびに“見物人”の間からウォーという声がきこえた。(水陸両用車といえば、まだ村へパトロールがやってくる頃であったと思うが、二台の水陸両用車が干潮時に嘉陽のヒシ(礁原)にやって来てヒシのうえを走り回っていたが、その一台が嘉陽口を渡ろうとしたが失敗して沈んでしまった。乗組員は全員無事だったようだが、車はそのままになった。まだ、その残骸が残っているかもしれない。)

  村の後方の山々は、米軍が火をつけたとの噂であったが、昼夜燃え続けた。

  いよいよ村を出る日がやって来た。汀間瀬嵩方面への一時避難てある。村人たちは持てるだけの物をもって米軍のトラックなどにのって避難地へ向かった。病人たちのためには米軍のアンビュランス(病院車)が用意されたが、アガーリ(東)の松信兄は敵の病院車に乗ることを潔しとせず、病身ながら歩いたという(苗姉証言)。(あとで手押し車に乗せてもらった。)

 陽気な米兵たちは村人たちがそばを通るのを横目で見ながら、サーバロウに迫撃砲を並べてシッタやピジャー方面を攻撃していた。迫撃砲の弾は発射されるとヒュルヒュルと音を立てて飛んで行き着弾地で炸裂した。弾が頭上を飛ぶ時には枯れ葉を猛烈に引っ掻き回すような、サラサラという音をたてて過ぎていった。

    夏の暑い日であった。嘉陽の沖縄戦が終わった。西翁長の翁長久雄、アガーリの知念重正ほか数人が帰らぬ人となった。

 山の避難小屋に一人で残った谷口配属将校は孤独に耐えかねてか、深夜にサウズ又をでてきたが、学校の近くに米兵が敷設したピアノ線にひっかかり、集中攻撃をうけてほうほうの態で逃げ帰ったという。数日後、汀間のわれわれがいたところ(玉城さんの家の裏座にいた。その家は米軍政府の分室のようなもので、表の庭では二世が捕虜の尋問などをしていた)にこっそりやって来たが、降伏の決断がつかず、そのまま帰って行った。降伏を決めたのは、二度目に来たときであった。そのとき、山の小屋に日本刀がおいてあるから君にやるといわれた。

   汀間から帰って早速探しにいったがみつからなかった。
                                                                                
                                                   『嘉陽史』(名護市嘉陽区)から

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