証言3

    私の戦争体験記
                                                              久保田(男性 ・二十八歳 ・防衛隊)                                                                                                    
 私達は、昭和一九年一一月頃、兼城小学校に集合命令を受け、五時間程度の訓練を終り自宅に帰れると思ったが、その日に防衛隊として任命され、字小彼蔵の球部隊に配属、この部隊は特攻隊で字名城の海岸でエンジン付のボートに三百キロ爆弾を積んだ、一人乗りの船を防衛隊三十名位で海岸まで運ぶ作業が夕方から夜明まで繰返し、約一ケ月の訓練をしていた。

    五月二十日頃に米軍の戦艦が現れ、一五隻の一人乗りボートが一斉に出発(体当たりのため)したが、一隻は舟の故障を理由に途中から引き返して来たため、私達防衛隊はこの舟が偵察機に発見されないよう、陸上にあげて擬装するため一生懸命でしたが、偵察機に発見され、爆撃を受け、焼かれてしまい、その後は特攻隊も武器がないため、あそんでいました。

 私達は、そのあと小波蔵の山の中にあるトロドンガマで、五〜六日の訓練を受け、今度は山部隊に配属の命令を受け、出発しました。

 私達十名は、山部隊に参加、そこでは、爆弾を担いで米軍の戦車に体当りするよう、命じられたが、爆撃が激しく、途中で、五〜六名が戦死したため、引き返せとの命令を受け、私達四名は部隊に戻りましたが、攻撃はなお、激しさを増し、八重瀬岳方面に下がれとの命令で、八重瀬岳まで行ったら、そこには防衛隊が大勢いました。

    私達のここでの作業はおもに畑に積んである、食糧物資を移動する作業で、食糧はおもに、ソーメン、米、コンプなどでしたが、当時は雨が多く、コンプなどは、まったくバナナの葉っぱみたいでした。

 私達は、五日目に食糧を運ぼうとする時に、激しい艦砲射撃を受け、私と字真栄平の金城次郎の二人が負傷し、壕にかつぎ込まれましたが、立つことも歩くこともできませんでした。

 しかし、敵軍は攻撃を続け、さらに近づいているので、明日はこの壌も馬乗り攻撃されるかも知れないので、歩ける者は南へ、下がれと命令が出て、私もなんとか立ちあがり、ゆっくりゆっくり、苦しさ、痛さをこらえて米須に向いました。

    ようやく米須までたどり着いたが、家族と別れて四ケ月もなるため、家族がどこに避難しているかまったく見当がつかず、学校の近くまで来ると、夜が明けてしまい、近くのも新喜納山城の竹山の壕に入って行ったら、新屋新徳門の家族が避難していたので、自分の家族の事情を聞くと、学校東の壕に避難していることがわかり、私は夕方までその壕で待ち、六時半頃、家族のいる壌に行きました。壕に入ると同時に、従兄弟の新屋徳喜納の二男兄の妻、カナー姉さんに、清の妻エミは、五、六月前に子供一人と共に亡くなり、清の母も今日、この付近で亡くなったと知らされた。

 私はその時、しばらくは口もきけませんで、ただぼうぜんとしていました。次第に落ち着きを取り戻し、家族の居る場所に行ったら、父一人で子供達三名を見ている姿は、一時はなんともいえませんでした。父は私に、又も防衛隊に行くのかときかれたが、私は少し負傷して帰って来たので、もう行かないでよいと答えました。その時私の家族は、飲水がなく、カツオ節一本もって、水と交換してもらうよう、壕の中を廻ってみたが、皆さん水が不足しているのか交換してもらえません。

 私は、しかたないので暗川(クラガー)まで行って水を汲んで来て子供達に飲ませてから、母の死んだというところにいってみたら、母は道の側に座っていたので私は不思議に思い、お母さんと呼んで顔に手をふれると、そのままくずれおちました。母は即死でした。

 私は母を弔うため、よい場所を探して葬りましたが、その時も艦砲射撃は激しく撃ちこんで来ます。私は母と一緒なら、と思ってゆっくり埋葬していたが、不思議なことに怪我一つもなく、無事家族の所へ帰り、少しでも休もうと思って、横になっていたら、壕の上に艦砲射撃を受け、壕の中の天上の岩がバラバラに落ちできて、私の額に当たりました。

 私は、こんな所で死ぬよりは、海岸まで行って、「スガー」の水を飲んでから死のうと父に相談して、この壕を出ることにしました。

 その時、徳前久保田の父母とヨシ子の三名が隣にいたので徳前久保田のお父さんが、私にあんた方が出るんだったら私達も−緒に出るとのことで、一緒に壕を出て、海岸までは皆、無事に着いた。

    海岸のアダンは非常に青々としていたので、ここに隠れると安心だと思い、一時はここにいたが、三十分程してから非常に激しい艦砲射撃が始まり、一瞬にして、あの青々としていたアダンがほとんどなくなっておりましたが、私達は何度か生き残りました。

    私達はまた艦砲射撃が始まると、大変だと思って三十メートル位離れた所に一メートル位のくぼみがあり、一応そこに移り、徳前久保田のお父さんと一緒に「スガー」に水汲みに行ったら、私達よりも先にカミントウ壕からも、女の方四〜五名来て水あそびをしていたが、話しかける暇もなく急いで子供連の所に帰るため、歩き始めたら、私の後に艦砲射撃があり、私は急いで前に進み、子供達に水を飲まして、しばらくしても徳前久保田のお父さんは帰ってこないので、私が帰る時に落ちた爆風にやれたのではないかと、母に話しました。

    それから何日かして、朝の七時頃父と相談し、もし突破とできたらと思い、三名の子供達と四名で、ウーフンズまでの二〇〇メートルの所まで行ったら、「ウーフンズ」は兵隊や防衛隊と避難民でたくさんの人が集っていて、まるで魚をアミで一ケ所に集めたようだった。

 兵隊はもう金はいらないと皆んなの上に投げる人、タバコを投げる兵隊などがいたが、彼等は自決決意の寸前行動ではなかったかと思う。私達は逃げるのをやめて、父のところに帰る途中、徳新屋東り徳門の家族が海岸の岩場を利用して避難しているのにあい、そこで一時、苦しさを話し合い別れました。百メートル位行ったら、案の定徳前久保田の父があおむけで倒れて死んでいました。

 私達も貴方みたいに、一発であの世へと手を合わせてお願いしました。それから父の所に行ったら、今先アメ リカーが来て、フ ロシキ包をもって行ったとのことで、西の方百メートルの所で米兵が裸になって歩くのを見た時には、もう最後だと思い、自決する決意で子供達に一言でもと思い、話しをしたら、子供が泣いて、「死なない方がいいよ、お父」と言われ、思いとどまり、しかたなく子供の手を引き、生きがえることが出来ました。
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 沖縄の地上戦では一五万余という、犠牲者を出す悲惨な沖縄戦を体験した沖縄の人々にとって、戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはないと思う。特に感じたこと、一般住民から聞いたことを列挙すると次のようなことでした。

(1)一般住民が避難してける壕入口を、安全のため、畳を立ててあると、そこに日本軍が来て、日本刀で、畳を突き刺し、この壕は、軍隊が使用するから、住民は、他に出ていけと「壕追い出し」があった。

(2)米軍が、住民救助のために、飛行機からまいた「ビラ」を見ると、あれは、みんな、うそだ、見るな、読むなと、どなる、叱りつける、なぐるなど暴行を加える。

(3)爆弾が落ちると、鉄帽と鉄帽に入った頭は、ぶっ飛び、頭と体は別々に、ふっ飛ぶ情景がよく見られた。

(4)「ふくらし泉」に、水汲みに行くと、水源地の「カーカン」に、死体が集り合い、人体のあぶら(脂肪)が水面を覆い、それでも、水は欲しいので、あぶらと死体を、一方に寄せて、水を汲む、飲む、おいしい。壕内に避難している家族のもとへ、汲んで行くと、しばらく経つと、その水は、腐れて飲めない状態でした。

(5)爆弾が投下され、大きな溝ができると、その溝は、死体を埋める墓場になっていた。

(6)畑や、溝に溜まった水面上は、人体の油が浮いたり、死体が重なり合って、死んでいた。
                                                    『米須字誌』

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