証言29

日本軍は私たちを守ってくれなかった
                                                                         新垣(女性 ・二十八歳)

 昭和二十年、その当時、私の夫新垣善弘は徴兵され、佐世保の海軍部隊へ配属されていました。そのため私は、長男清徳、次男勝司、三男友祺を育てながら家を守っておりました。

 同年三月二十四日頃、沖縄海上に現われた米軍艦隊から艦砲射撃が開始された時、私たち家族は、取る物も取りあえず、わずかばかりのいもとみそを持って実家を離れ、南部めざして避難することにしました。

 初めは屋敷内につくってあった小さな壕に入っていましたが、砲弾の直撃にあうとひとたまりもないお粗末な壕でしたので、その日の夜、字の防空壕へ避難しました。
    防空壕には字民が大勢入っておりました。その中に私の実母新垣ウサや私の実兄新垣武一の妻カメ、その長女の和子、および実弟新垣武雄の妻ハルの四名がおりました。実兄の武一は召集されて中国へ、実第の武雄と亀一は徴兵されて本土へ、実弟の幸徳は防衛隊として沖縄本島内で軍務に従事していました。

  私は幼い子供三人を抱えておりましたので実母ウサや兄嫁のカメと弟嫁のハルに、一緒に南部へ避難してくれるよう頼みますとこころよく承知してくれました。そこで、字の壕に避難した時から三日後の三日二十七日頃の夜、字の壕を出て、南部をめざして出発しました。中城村の隣村の西原村を抜け、東風平村の山中へ入り、壕を見つけて避難しました。その壕には他の避難民も日本兵もだれ一人としてまだ避難していませんでした。

  しかし、私たちが避難してから約十九日後の四月十五日頃の朝、中部から逃げてきたと思われる日本兵(部隊名、氏名不詳)が四、五名が人って来ました。日本兵は壕の中に入ると、いかにもじゃま者どもがいるといわんばかりの顔つきで壕の奥へ入って行き、私たちに食糧を要求しました。私たちは持っていたわずかないもとみそを全部日本兵へ差し出しました。日本兵は険しい目をしながら、いもとみそを、ありがとうとも言わないで無造作に受け取りました。日本兵が入って来てからは、壕の中はいっぺんに氷のような冷たいふん囲気が漂いました。

    その異様なふん囲気に子供たちがたえきれず、ひもじさとのどのかわきも手伝ってワァワァ大声で泣き出してしまいました。この泣き声に日本兵は驚いたのでしょう、日本兵は日本刀をふりかざして、私たちに子供を泣かすなと強い口調で命令しました。しかし、子供たちは泣き止む様子はありません。抱きしめても泣き続けるばかりでした。

 私は困ってしまい、日本兵をチラッと見ますと、日本兵の形相はいよいよ険悪で、今にも私たちを殺さんばかりの顔をしていました。その日の夕方近くになった頃、たまりかねたのか日本兵は「われわれだけで米軍と戦うからお前たちは今すぐこの壕を出て行け」と、私たちに命令しました。私は砲弾が雨あられの如く降る中、壕を出ることは自殺するにひとしいから、子供を泣き止ませるので、壕を追い出すことだけはしないでくれるよう頼みましたが、一向に聞き入れてもらえず、私たちは強引に壕を追い出されてしまいました。

  兄嫁のカメが、長女和子の手を引いて先頭に立ち、実母、第嫁に私の長男清徳の手を引かせ、後ろに私が三男友祺を背負い、次男勝司の手を引いて避難していた壕を出ました。ところが、壕を出て一〇メートル歩くか歩かないうちに砲弾の落下する音が聞こえたかと思うと、アッというまに避難していた壕の入口付近に砲弾が炸裂しました。私たちは皆、吹き飛ばされ、私は気を失ってしまいました。しばらくたって気がつき、皆の名前を呼ぶと、実母、兄嫁、弟嫁から大丈夫との返事がありました。

    自分にもけがのないことを確かめホッとしたのも束の間、私のそばで次男勝司が頭を血で真赤に染めて倒れているではありませんか。私は急いで自分の着物を引きさいて、勝司の名前を呼びながら、頭の血をぬぐいさると、約一センチほどの砲弾の被片が頭深く突きささっていました。

    勝司の胸に耳をあてると心臓の鼓動が全く聞こえません。たぶん即死だったのでしょう。私は、一瞬悪夢のようなその場の状況が信じられず、ただ呆然となりましたが、しだいに悲しくなり、「勝司、勝司」と大声で次男の名前を呼びながら抱きよせました。しかし、いまさら生き返るわけがなく、兄嫁にうながされて、仕方なく、砲弾の落下したあとの穴の中に勝司の遺体を埋め、手を合わせたあと、壕の中の日本兵がどうなったのかを確かめる余裕もなく、次の避難場所をめざして進みました。東風平村から喜屋武岬へ南下するまでに、何か所かの壕に入ることができましたが、どの壕でも日本兵に追い出されるばかりでした。

    五月の末、壕を追い出されたあと、また砲弾に見舞われ、長男清徳の右腕に破片がつきささり、着物の切れっ端で包帯したものの、二三日のうちにうじが湧き出て、いくらそのうじを退治してもつぎつぎと湧き出てくるという具合で、常にその傷は悪臭を放っていました。私は弟嫁に三男友祺を背負わせ、自分は長男清徳を背負って実母、兄嫁、姪の和子らと常に行動をともにしていました。

 六月中旬、追われて追われてとうとう喜屋武岬まで追いこめられました。海岸に降りて崖の下の自然壕を見つけ避難したものの、日本兵がすぐにやって来て、またまた私たちを追出してしまいました。たしか、六月十五日頃の昼だったと思いますが、私たちは無性に腹が立つとともに悲しくなって海岸沿をトボトボと歩いていると、砲弾がまた私たちの列の後方で破裂、私のうしろを歩いていた実母ウサ、兄嫁のカメ、姪の和子が砲弾の破片をもろに受けて即死してしまいました。私と弟嫁、そして長男、三男も吹き飛ばされ、石にたたきつけられましたが、必死の思いで立ち上がりました。地獄のような浅ましい光景に、私と弟嫁はもう何が何だかわからず、恐怖にかられて、三人の死体をほうり去って一目散に逃げ出しました。このあたりには、もう、身を隠すところもなく、ヘトヘトにつかれて、崖下のちょっとした岩かげに身をひそめていました。

    その間、今に米軍に見つかって殺されはしまいかとの恐怖で毎日おののいていると、およそ五日後の六月二十日頃、とうとう米軍に見つかってしまいました。米軍は「カモン、カモン」と私たちをうながしていたので観念して米軍についていきました。

  私たち全員、米軍のトラックに乗せられて、宜野座の収容所に連れていかれました。私たちはここで殺されると思っていましたが、宜野座の収容所では、そこに収容されている県民の多くが、戦争が終わったと同様な生活をしているのにはびっくりさせられました。私たちは宜野座の野戦病院で治療を受け、長男清徳の右腕は腐れているので切断されてしまいました。

 私は、これまで、南部一帯を逃げまどっていた私たちの行動は、一体なんだっただろうとみずから疑う気持ちになり、次男の勝司や実母ウサ、兄嫁のカメ、姪の和子の無意味な死に、私たちを全く守ってくれなかった日本軍に対し、腹がにえくり返ってくるのを覚えました。しかし、今となっては、あとのまつりで、悲しんでも、おこってもしょうがなく、生き残った私たちだけでも運が良かった、死んだ人たちのおかげで私たちが生き残っているかも知れないと考えなおし、犠牲になった人たちへ、ずっと感謝の念をこめて供養していかなければとの気持ちになりました。

 宜野座の収容所で終戦を迎えたあと、中城村津覇のテント部落で二、三年過ごし、和字慶の実家に帰って、津覇で再会した夫らと共にかやぶきの小さい家をつくって戦後の生活をおくりました。

 生活が少し落ちついてきたら、さっそく次男勝司や実母ウサ、兄嫁のカメ、姪和子の遺骨を拾いに東風平村と喜屋武村へ行きましたが、もう、どの骨が誰のものやらわからないため、やられたと思われる付近の石を拾い集め、家へ持ち帰り、門中墓のまわりに、その石をばらまいて、せんこうを焚き供養しました。

                                                             『中城村史第四巻 戦争体験編』から

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