証言28

戦前戦後の古知屋
                                                                              仲間 (男性 ・33歳)
    警防団のこと

    昭和十七年頃から古知屋では警防団を組織して、敵の見張りのために青年のほとんどが交替でやっていました。

     戦の準備だったと思いますが、海岸に出て竹やり訓練をやりました。海岸に土手を作ったりしました。竹やり訓練はいまから考えるとままごとみたいでしたが、当時は真剣にやっていました。また火災が出た時の消火訓練もありました。訓練の指揮をしたのは安村軍曹でした。安村軍曹は私より五つ程年上でした。現役から帰って来て、古知屋で字民の訓練の指揮を取っていましたが、防衛隊に召集されて島尻で戦死しました。

 警防団は、いまの青年自警団と同じように夜も監視しました。青年倶楽部に詰所があり、そこから決まった見張り場所に行きました。毎日、見張るだけで報告するようなことは特に、起こらなかったです。給料もなかったです。空襲警報の時は毛布で明りをつつんで、外にもらさないようにしました。明りを全部消したりもしました。

    しかし、実際の空襲の時は何もできなかったです。戦争になってからは、若い人はいないし、年よりや女、子供しか残ってなかったので、いざという時には何も出来なかったです。十 ・十空襲の時は、私は徴用で金武で材木の運搬作業をしていました。友軍の兵隊が切り出したのを、私たち馬車班が運搬したのです。その頃、伊江島が数百機ぐらいの飛行機で空爆されているのを見ました。金武の山からよく見えました。

    私は十・十空襲の前に、伊江島に徴用されて行きました。希望して三名で行き、二〇日ぐらい石運搬の仕事をしました。その時、はじめて給料をもらいましたが、あとからはなくなっていました。伊江島に行く時は字から六〇円の補助をもらって行くことになっていましたが、それももらえなかったです。

    防衛隊のこと

 昭和二十年になって、警防団員たちにも召集令状が来ましたので、皆、防衛隊に行きました。私が召集された時は、金武の役場前に集合し、軍からの指示通りに四、五名ずつ各部隊に割り当てられました。私たちより先の人は島尻に行っていますが、私たちは最後の方で、本部村の八重岳の宇土部隊に配属されました。行ってすぐ陣地づくりや壕堀りをしました。昭和二十年の三月で、私が三三歳のときで、子供も五名いました。古知屋からは謝花万常さんなど四、五名一緒でした。

 三月に召集されましたが、四月には米軍が上陸していますので、私たちはその部隊には長くいなかったです。
 米軍が上陸してからは、私たちの隊は解散になり、自分たちで家に帰りなさいという命令でした。しかし、帰る途中の道は米軍がいっばいでした。本部村から古知屋に帰って来るまで八日間かかりました。昼は全然道を通れず夜間に来ました。山づたいに歩いて釆ましたが、大変でした。

    避難民

 私が帰って来てから、家族をみんな山に避難させました。私たちが山にいる間に避難民は古知屋部落にいっぱいいました。米軍の上陸作戦が始まってから、中頭や那覇方面から避難して来ていたのです。避難民の出身地は小禄とか北谷が多かったです。彼らは徒歩で古知屋まで来た人たちで、若者はいなくてほとんど年よりと子供たちだけでした。

    家主の許可も受けないでみんな自由に他人の家に入っていました。「私の家だからみなさんは出て下さい。」とも言えなかったですよ。戦争中のことですから。私の屋敷に七〇名ほどいました。家の中は戸もなくあけっぴろげでした。寝るのも庭先に寝ました。屋敷は避難民が一杯で歩けない程でした。炊事は各自でやっていました。

    古知屋全体がそうで、家の近くの御嶽の周囲も全部避難民で一杯でした。このような状態は約一か月ぐらい続いたと思います。

 ところが、私たちは、このまま部落にいては危ないということで再び、古知屋のワー山に避難しました。しかし、米軍が飛行機でびらをまいてからは長くは山にいなかったです。びらには「山にいては危ないから早く出なさい。」と書いてありました。それで、山から下りる準備をしていたら、アメ リカ兵二名が鉄砲をもって来るところでした。丁度よかったです。家に向っていたので彼らは何もしないで、タバコ一本くれて、「パイパイ」と言って帰してくれました。二頭の馬車に家族と親戚も一緒にして一〇名でした。馬車には着がえと、米、芋とかの食料を積んでいました。

    終戦直後の生活

 私は山から下りて、取り調べを受けて米軍の捕虜になりました。宜野座大久保の金網(収容所のこと)に一週間入れられました。作業はアメリカーたちの便所掘りでした。しかし、一週間してから作業場から逃げて来ました。真昼に、点呼を受けた後、たった一名で逃げて来たのです。他の人にも一緒に逃げようと呼びかけたのですが、聞かなかったので自分だけ逃げて家に帰ったのです。その後、呼ばれて罰されるということもなかったです。

  その後、しばらくしてから収容所の建築主任に命ぜられました。避難民のための避難屋づくりのためです。約二〇〇〇名働いていました。人口は古知屋に二万名程いましたが、働けるのは二〇〇〇名しかいなったです。ハーフーヤーと言って一〇〇メートルぐらいの長屋を作りました。材木は、山から木を伐採して来ました。屋根は木の葉をかぶせました。

    場所は土地が広いということでほとんど開墾地でした。その時の食事は作業後にもらう、おにぎりでした。それもお昼だけで朝夕はなかったです。お汁は缶詰の空缶を持って行きそれに入れてもらいました。しかし、おにぎりは作業した人の分だけしかなく家族の分はなかったです。ですから家族は近くの畑で芋をあさったり、木の葉やチーパッバー(山ぶき)の茎も食べました。桑の葉は一番おいしかったです。

    しかし、このような状況は長くは続かなかったです。しばらくすると配給がありました。米軍からの米や缶詰がいっばい配給されました。

 古知屋の避難民が自分の郷里に引き揚げていったのは、昭和二十年の十月頃からだったと思います。最初は小禄の避難民からでしたが、全員が引き揚げるまでに一か年以上かかったと思います。このように引き揚げは一度にではなく、徐々にでした。避難民の中には、もらった配給物質をたくわえて、それを売ってもうかった人もいました。

 栄養失調で死ぬ孤児たち

  古知屋には、中頭や島尻から毎日のように栄養失調の乳児や子供、年よりが運ばれて来ました。現在の許田商店の道路を越えた向かい側に診療所がありました。医者も看護婦もいました。彼らは運ばれて来た時から栄養失調で、目ばかりぎらぎらして、死にかけている人たちばかりでした。それで、運ばれて来てから二、三日したらほとんどが死んでいったのです。年よりもいましたが、一、二歳の乳児や四、五歳の子供も多かったです。

    戦争孤児たちで、戦争で親とはぐれたり、親をなくしたりして身寄りのない子供たちがほとんどでした。病気とか、けがをしたとかではなく、ほとんど栄養失調の子供たちで、ヤーサ死(餓死)で非常にかわいそうでした。

    墓地は開墾(所)に二か所ありました。戦後、ほとんど遺骨を掘り出してあります。

    松田の地名

 松田という字名は戦前はなく戦後から使われています。昭和二十一年四月一日、古知屋から松田に変わりました。いまの若い人は古知屋という字名を知らないと思います。みんな松田という名になじんでいます。しかし、年よりはまだ「古知屋」)という名に愛着を感じていると思います。いまの松田森も、昔は「赤マチャー」と呼んでいました。いつの間にか松田森になっています。
                                                                               『宜野座村史』

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