証言27

子どもは始末せよと脅されたが拒否
                                                        島里(旧姓島袋 ・35歳 ・男性 ・警防団)

    一九四五(昭和二〇)年、美里の警防団員だった私は、羽地村には疎開せず部落に踏みとどまりました。当時、私は三五歳でした。

  私は美里にある松本(屋号)の壕に寝起きして警備にあたっており、その壕には警防団員の何名かがいっしょでしたが、いざ米軍上陸が確かになると、ほとんどが島尻の戦闘に参加するため行き、残る人は少なくなってきました。

  四月二日、胡屋の部隊にいた島袋隆龍さんが壕に来て「胡屋の飯田隊は全滅したので、みんな早く家に帰って、子どもは始末しろ。もしもここらでうろうろするなら、たたっ斬ってやるから」と日本兵たちに脅かされたと、非常に興奮して話していました。

 彼の話を聞くや私たちは驚きのあまり松本の壕をすぐに抜け出て家に戻り、西石川(イリーイシチャー ・屋号以下同)の家族といっしょに泉作原(イジュンサクバル・美里の小字)に向かいました。泉作原にはたくさんの古い墓と自然壕があって、私たち家族もその自然壕に避難しました。どうしても長男の善晴だけは助けたいとの一心で本当に必死でした。

 しかしそこにも長くはおれず、四月二日の朝に壕を出て、夕方ごろに金武をとおり、その日は宜野座まで行きました。そこで一泊したのですが、そのころには昼間は歩けなくなって、もっぱら夜間に移動しなければなりません。ようやく名護に着くと街は焼きつくされ、民家はひとつもなく惨たんたる状況でした。

 それから羽地村の我部祖河をとおり、古我知の避難小屋に行きましたが、そこにも長くは住めなくなり、嵐山の奥深くに行くと、知念正喜さんの家族や美殿(ヌードゥン)、仲大屋(ナーカウフヤー)などの家族と出会いいっしょに隠れることにしました。

 しかし、何世帯かの家族はそこから久志村(現、名護市)の瀬嵩の収容所に移動しましたが、私たちは子ども連れで、どうして移動しょうかと迷っていたのですが、結局、行きませんでした。あとから聞いた話によると、瀬嵩は食糧が極度に不足して大変だったようです。行かなくてよかったと思いました。

 はじめてアメ リカーを見たのは避難する途中の羽地でした。理解しがたい事ですが、古我知では、捕虜となり屋嘉(捕虜収容所)へ向かう友軍を、「頑張れよ!」と住民が手をふって激励していたんです。米兵ではなく、友軍にですよ。戦時中、あれほど沖縄人は友軍にいじめられ、苦しんだはずなのに本当に奇妙な感じでしたね。ヤンバルの人たちは、自分たちの食糧もほとんどないのに敗残兵のために食糧を供出していました。

 六月ごろになると、私たちは嵐山にいました。嵐山には日本軍の敗残兵が多く、おそらく私たちから食糧をもらうためだったのでしょう。「日本軍は反撃して石川あたりまで来ている。あとしばらくすると日本軍は大勝利する。そのときは米兵を私たちが捕虜にして連れて来るから、みんなで彼ら(米兵)に拳骨を加えたらいい」と、まことしやかに話をしていました。それを聞いた私たちは、もう万々歳ですよ。今思えばまったく馬鹿げていますが、当時の私たちも尋常ではありませんからね。

 また、こういう話もありました。例えば遠く聞こえる中頭あたりの爆撃音も「あれは友軍が米軍を攻撃しているんだ」とか、「伊江島や名護湾の爆発音もすべて友軍の反撃だ」とか、また多野岳では我々の頭上にボンボン爆弾が落ちてきたのですが、「塹壕を低く掘れば大丈夫だ」などと、いろんなことを言っていました。それから、軍服を着ていれば、食糧を住民から求めやすいので、中には兵隊になりすまして住民から食糧をだまし取った難民もいたんじゃないですかね。

 羽地村の田井等の収容所に入った後、我部祖河では私が農業をやっていた関係からか、いつの間にか副班長をさせられ、一所懸命、サツマイモや稲などを植えていました。ところが、いざ収穫のころになると、まわりから「田舎の人(中部から来た人のこと)にはイモを掘ることができない、どうせ中部に戻るのだから収穫する権利はない」などと言われ、結局、収穫にあずかることができませんでした。しかたがないので儀保(ジーブ)、吉里(ユシザトゥ)それに私の男三人で、六月ごろに石川収容所へ移動していきました。

 石川では、吉里、儀保の家族といっしょで、他に大前(ウフメー)、与座(ユーザ)、本部(ムトゥブ)、仲村、玉井などの家族もいたと思います。具志川赤道にいる奥間カンパーという私たち(前松尾・屋号)の婿にあたる人がいて、彼には米をもらうなど随分と世話になりました。おそらく、石川で配給係みたいなことをやっていたのではないですか。私は、石川には二、三カ月いたと記憶しています。

 それから美浦の収容所(現、泡瀬一区)に移動し、儀保の家族や字美里の人といっしょに一九四六(昭和二一)五月一五日、美里に復帰することができました。
                                    『沖縄市史資料集六美里からの戦さ世証言』から

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