証言26

キセルを銃と間ちがえ射殺
                                                                        
                                                                           宮城( 主婦 ・36歳)

 わたしたちの戦時中の家族構成は、わたしが再婚した夫嘉味(42歳、義理の長男善一(22)、義理の次女チルー(16)、義理の次男盛郎(8)、実娘八重子(1)、それにオバア<夫嘉味の母親ウト(82)>となっていた。

 戦に追われながらオトゥ(主人)はオバアを背負ってウィヌ ヒージャー壕や疎開地から疎開地へ歩いたものだった。

 わたしたちの家屋敷は米軍の艦砲にやられる前までクエーヌメー(桑江前)<字桑江には桑江前と桑江中と桑江後の部落があった>にあった。そこは現在の桑江中学校前から北谷海浜の道になったところにあった。米軍が上陸してからもしばらくあったんだけどね。

 わたしたらがウィヌヒージャー壕にいくようになったのは上陸直前だった。二週間位いたかな。クェーヌメーの家が全滅(はっきりした日はわからない)するまでは、子どもたちを壕において、オトゥと二人でよく家から壕に往き来した。夜になったら艦砲射撃がないということがわかったので、家にムヌニー(飯炊き)にいったわけよ。しかしアメ リカ軍が上陸してからはそこへは行けなくなったがね。そこへの往き来にはよく照明弾にあたったりして肝をつぶしたものでね。そのときはとっさにウージヌミー(サトウキビ畑)に隠れたりした。

   ウィヌ ヒージャー壕で捕虜に

 ウチのいる壕には、ウチの家族だけだったが、近くには小さな壕がいつくかあって、タンカー(むかい)のヤマ(丘)の壕や隣りの壕にはそれぞれの家族が入っているようだった。

 その壕に入って何日目だったんだろうかね、「あれは何だろうね、ゴオーツと音がしたけど」ととなりにいる主人に聞いたのだが、すぐにそこに出てみる勇気はなかった。しばらくジーツとしていたら音がやんだので外に出てみると、わたしたちの壕のすぐ上には穴ができていた。艦砲だったんだね、松の木は根こそぎ吹っとばされていた。目がクラクラッとしたのをいまでもおぼえているほど無惨だったね。

 たしかその壕にきてから二週間位たっていただろうね、捕虜になったのは。そこからトラックに乗せられて砂辺の浜に連れていかれた。そこにはおもったよりたくさんの人たちがいたのでいくらか安心したが、でも内心はいつもビクビクしていた。『ここでひとまとめにして殺すつもりではないだろうか』とおもってね。

    そこでオトゥと相談して「ヤーニンジュヤ、ムルカタマリヨー」(家族同士はひとところにかたまっておくんだよ)と、それぞれひそかに連絡をとりあったもんだった。しかし現金なもんだね、砂辺の浜で配給のオニギリを食べたりしているうちに不安が徐々に薄れていったんだからねえ。

 そこには三晩いたんじゃないかとおもう。そこから今度はヒジャ(比嘉)島袋の収容所に移された。そうさね、そこには、一月ばかりいただろうかねえ。

 島袋収容所では、ウチのオトウは腕力がありそうだということで班長に選ばれた。一戸の建物に一つの班にして三十二名ぐらいずついっしょにされた。

 ある日、班長の妻子はイモ掘りにいくから来いとの命令があったので、わたしはオトゥの後を追っていった。するとわたしたちイモ掘り担当の後を鉄砲を持ったアメ リカ兵が追ってきた。そしてイモを掘っている間中見張っている。そういうくりかえしが何日かつづいた。

 そうこうして何日かすぎて、ウチのオトゥは班長でもありグテー(腕力)があるということをみこまれて二世と友だちになった。ダ−アンセ−(なんにしたって)二世はグテーはあんまりないさ−ね。その二世がうちのオトゥを誘っていって、倉庫の中から米俵やカツオ節(住民から没収してある)箱なんかを投げてよこす。それをウチのオトウが担いで自分の家に持ってくる。そこで二世と半分づつ分配しあうわけよ。

    そういうことがあって当時他の家族よりウチは食べ物に関しては不自由しなかったとおもうね。後で話を聞くと山原に避難していた人たちはたいへんだったらしいからね。カツオ節なんかは次に疎開した宜野座の福山まであったくらいで、むこうで親せきにあったとき、分けてあげたくらいだったよ。

    家族の目の前で射殺

 砂辺グワーのタンメー(話者の義理の長男嫁の父親)のことでこういうことがあった。いまもあるかどうか、昔は男の人が煙草を吸うときに使う、フジョーという煙草入れとスップンというチシリ(キセル)入れがあった。

    ウィヌ ヒージャ壕で捕膚になりそこから砂辺の浜に連行されるとき、タンメーはそのフジョーとチシリを腰にぶらさげて歩いていた。よっぼど煙草が吸いたかったんだろうね。途中でタンメーはチシリグワーにキザミタバコを入れて口にくわえてマッチを点けようとした。すると、ダ−アンセ−(なんにしても)アメ リカーはチシリのことなんかわからんさ−ね。それを日本式のピストルと勘違いしたんじゃないの。いきなりみんなにそこをどけどけいってケ散らかしてから、ポカァーンと立っているタンメー目がけて銃を発射した。するとタンメーはバタッと倒れた。そこに近寄ろうとする人に、「誰もそれに触わるな!」といって、死体をそこに残したままみんなは砂辺に連行された。

 何日かたって、だれかがその死体のあったところにもどってみたらしいんだが、死体はウワァ(豚)がキジャーシヒジャーシ(喰いちぎって)してあったって。クェーヌメーに近いところだったから、ウワァがみんな逃げてきて喰いものがないから、それを喰いちぎったんだろぅね。それにしてもこれでは霊もうかばれんよ。どれもこれも戦争のせいなんだからね。憎むだけではたりないよ。そうじゃないかね。

    ”この人は兵隊だ”と誤認射殺

 これは人に聞いた話だが、こういうことがあった。
 ウチの嫁の兄さんは兵隊に召集されると三ヵ月で義務期間を終え村に帰ってきた。ところが帰ってきたのが米軍上陸直前で今帰仁へ避難しなければならなくなった。その途中でのことである。アメ リカ兵に見つかり捕虜になった。そこで持ち歩いていた柳行李の中を調べられた。そこにはたまたま召集のときに支給された軍服を入れてあった。

    それが命取りになったのである。兵隊でもないのにどうしてその軍服を捨てなかったんだろうね。自分が大切にしている軍服だから、その気持はわからんわけでもないけど、まさか米軍に捕虜になるとはその時までおもってなかったんだろうかね。妻子の目の前で『この人は兵隊だ』ということで射殺されてしまったというんだよ。戦の最中とはいえ、不運の人はどこまで運が悪いんだろうね。ハアナー(もう)どんなことがあっても、絶対戦があってはならんとおもうよ。

   わたしの先夫のオバア(母親)も孫たち(話者の実子たち)の目の前で殺されているからね。オバアは孫たち三人、カミー瑞慶覧(屋号)の家にいたらしいんだけど、その時オバアは何をしに外に出ていったんだろぅねえ。機銃で撃たれて即死したらしい…(といって後は涙声で聞きとれない)
                                                                  〈証言採録着 勝連 敏男)
             (「北谷町民の戦時体験記録集第一集」北谷町)から

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