証言25

ターバルガマから捕虜
                                                                    カマド (母親 ・五十一歳)
                                                                    弘松 (息子 ・二十二歳)
                                                                    ノ ブ (妻 ・二十歳)
    息子一人残して

 山城カマドは、去る太平洋戦争で長男(光栄)を軍人にとられたが、出征地のフィリピソで戦死してしまった。さらに、次男を沖縄戦で失い、フィリピソに移民していた三男(正信)家族六人も全滅してしまった。それらはいずれも遺骨の一かけらもない。

 四男の弘松は昭和十七年十二月十日に都城に行き、第五八師団広部隊として入隊し、朝鮮 ・南京を経て河南作戦で昭和十八年十二月に水冷式機関銃で頭蓋骨を貫通され、野戦病院から陸軍病院(熊本・小倉)等を回され、都城で兵役除隊になった。そのため、弘松は沖縄の十 ・十空襲は鹿児島の旅館で知り、十月二十六日に沖縄に帰ってきた。
    鹿児島からは一六隻で船団を組み出港した。駆逐艦四隻、その他は輸送船であったが、大島近海で二隻は轟沈した。那覇に着いてみると、空襲後で汽車もなく宜野湾村(現在市)まで歩いて帰ることにした。夜になり古波蔵駅近くで、屋慶名出身の名波吉信という人と一緒にランプの灯を訪ねて、「芋一つください」といったら、「戦争で我々も食うのはない」と断わられた。

  弘松が無事宜野湾村に帰ってからは、山城家の親戚は戦争中、同一行動をとった。昭和二十年三月までカマドさん一家は自家防空壕に避難していた。ところが、次男(正光)が読谷山村(現読谷村)伊良皆で勤務していたので、妻子をはじめ親兄弟に面会にきては、「戦争は激しくなるから子どもらをよく保護してくれ」と頼んで帰ったので、山城家の人々は野嵩部落内のターバルガマに避難することにした。

    日本の勝つことを信じ

 ターバルガマは、全長約千メートルもあり、入口近くには水もあり、壕内には広いところがあって高さも七、八メートルあり、二階、三階と住むことができた。そこには山城家の人々をはじめ、野嵩の部落民約千人が避難した。

 カマドさん一家を含めた数十人は、米軍上陸前に島尻方面に避難するつもりでターバルガマを出た。そのときは、着のみ着のままで、僅かばかりの食糧を風呂敷に包み、オニギリを準備してとび出した。ところが、浦添村(現浦添市)字西原部落まできて、方々壕を捜しまわったのであるが、やっと見つけた壕は住民がいっばいで、入口の岩陰に雨宿りをする始末であったので、危険を感じ引き返すことにした。

 それから、我如古の東側にある壕に入ったのであるがそこは畳が敷かれ、落ち着けるかと思ったが、壕の主に追い出されてしまった。夜中にターバルガマに引き返すときは、艦砲が激しく油断することは許されなかった。帰る道程がとても長いように思えてならなかった。

 やっとターバルガマにたどり着き、落ち着くことになったのであるが、水は入口近くにしかなく、水汲みに行くと、ノミが足元から這い上がってきた。

 壕内に閉じこもっていると、爆音しか聞えず、激戦を感ずるようなことはなかった。ただ一度だけ、壕入口に艦砲が落ちたことがあり、そのときランプが爆風によって消えたことぐらいだった。食糧は壕に持ち込んだものと、そして夜になると野嵩部落に這い出て求めることができた。

 昭和二十年、五月末頃から野嵩部落は収容所となり、島尻方面から避難民が収容されることになった。野嵩は宜野湾村で「村」としての形が完全に近いほど残り、家々もたくさん残っていた。部落近くのトナミガーに避難していた区民は私たちより先に捕虜になり、ターバルガマを訪ねてきて、「村には避難民が入り、家屋敷の道具は全部盗られるから早く出るように」と叫んでいた。そのためターバルガマに避難していた人たちの一部が先に出ることになった。

 ところが、日本が勝つことを信じ、ターバルガマの奥深く避難していた山城弘松 ・ノブ夫婦らは約一遇間残ることにした。その間、食糧は玉城繁春が運んで来てくれた。

母親をバーキに入れて

 ある日のこと、枕元に帯剣を置いて寝ているところヘ新城出身の通称蒲上主(カマジュウスー・ハワイ帰り)が米兵を案内して入ってきた。米兵に銃剣をつきつけられ、両手を上げ、いろいろ調べられた。弘松は傷痍軍人で防衛隊への召集も免れていたので恩給証書を持っていた。これを見られると危険だと思い、壕から連れ去られるとき、石の間に隠すことにした。ところが翌日になってそれを取りに行くとすでになくなっていた。

 さて、捕虜になり、弘松夫婦は自分たちの部落、野嵩にきたものの持家はすでに島尻方面の人たちが入り、山城カマド一家のいる松元家に住むことになった。ところが松元家の母家 ・はなれ ・牛舎などにも多くの人が入っていた。

 そこで過したのも束の間、避難民は安慶田(現沖縄市)の収容所に移されることになった。出発のとき、どうせ二、三日だろうと思い、きれいな衣類は甕に入れ土深く埋め、ポロを着て出ていった。野嵩から中城村回りで渡口まで行列が続いた。渡口からは米軍トラックに乗せられた。当時、ノブは二十一歳であったので米軍にさらわれるおそれがあるということで老人の着物を着せた。

 安慶田についてから、山城カマドさんは、七十余歳になる母親が具志川の通称トゥールーガマにいることを知り迎えに行った。母親は栄養失調で痩せ衰え、キビのしぼり殻をゴザ代りにして寝ていた。そのため、体中に湿疹がふきでていた。カマドさんは母親をバーキに入れ担いできた。

 安慶田で、弘松は、病後だということで、きつい労務を免れ、労務係をした。人々を集め芋掘り作業などを割り当てる仕事であった。

 収容所でいちばん恐ろしかったのは、夜な夜な起るクロンボー騒動であった。女性を護るため押し入れに隠したり、床下に隠したりした。いつの間にか共同防衛がしかれ、一方で鐘をたたけば相呼応して鐘を打ち鳴らし、「クロンボードーイ」と叫んでいるのが毎夜のことであった。
                                                                  『宜野湾市史三 資料編二』から

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