証言24

野国川付近での避難・捕虜体験
                                                     吉浜(旧姓山入端 ・女性 ・十五歳)

 野国川河口付近から軽便鉄道線路付近間の野国川沿いには、墳墓が多かった。昭和二十年三月の米軍上陸前には、その川べりにあったスヌフェー(屋号)家の墓地の近くにあるクワディーサー墓(野国川に架かるケービン橋西側にある野国門中墓)の内に避難した。スヌフェー家は先に北谷村の避難指定地の羽地村に避難していた。

    その墓には、私の家族八人とクジャーグヮー(古謝小 ・屋号)のお爺さんとお婆さんに山入端のおばさんの家族がいっしょだった。また、三月二十九日か三十日頃には、羽地から食糧を取りにといってまっちゃん(クジャーグヮーの孫昌徳)がやってきた。彼は戻ることができなくなって、そのままいっしょに墓内にいた。

  私の家には渡名喜村出身の当時沖縄県立農林学校三年生だった比嘉重義と同年齢で同村出身、同学校一年生の比嘉清太郎が下宿していた。二人は「お年寄りは私達がおんぶするからいっしょに山原に行かないか」とさそったが私達は迷惑をかけるからと断った。

  清太郎は南洋で米軍の空襲を経験していた。米軍の読谷飛行場空襲(十 ・十空襲)のとき、私は「それ、演習が始まった。見学に行こう」といってはしゃいだが、彼はいち早く敵の空襲であることを察知して、「米軍による正真正銘の空襲だよ。早く避難しなさい」と言っていた。二人が山原に向かって出発してから後の事は知らない。

  さて、四月一日の昼前だったと思うが、私達の隠れている墓の川下に避難していたヤラグヮーのターリー(屋良小のお父さん・字嘉前の屋号)が小便をするために外にでた。そして、米兵につけられているのも知らずに私達のひそんでいる墓の前にやってきて「外は数えられないほどのウランダー(オランダ人の意味だが広く西洋人をさし、ここではアメ リカ兵のこと)でいっぱいしているよ。君らも出てきて見てごらんよ」と言った。

  クジャーグヮーのお爺さんは 「私達はいつ死んでもいいが女 ・子供もいるんだぞ、わざわざ米兵に知らせるように、ここに来たのか」と怒って言った。すぐにヤラグヮーのターリーは捕まり、私達は墓内でじっと息をひそめていた。外からは、「カマン」という声が聞こえた。それが関西弁の「かまへん」に聞こえたのがおかしかった。私達は観念して手を上げて外にでた。

  そして私達は、千原方面に連れて行かれた。鉄道はすでに無くなっていて、戦車が縦横無尽に動いていた。ウンメー(お婆さん)は八十五歳だったので米兵がおんぶした。あまりのできごとにウンメーは気を失っていた。私たちは千原の照屋家の焼け跡に連れてゆかれた。ウンメーもそこで降ろした。

  ウンメーは、常日頃死ぬときは、イトゥヂン(絹の着物)を着けたいといっていた。それで、墓に置いてきたその縞の着物を取りに戻っていったら米兵はずっと後ろからついてきた。私は米兵がついてきても気にせずに、墓内から衣類だけ取ってきた。私にとって大事なのは衣類だけだったので、書類や通帳などが入っているスウムンバク(書類箱)は気にせず墓内に置いてきた。そのうちウンメーが気をとりもどした。

  あちらこちらで民家が燃えていた。野国川河口も土砂で埋められ、人が歩いて渡れるようになっていた。しばらくして千原から、野国川を渡って、兼久海岸のビジュルの辺りに移された。そこの海岸縁は戦前亀島姓を名乗る家が寄り集まっていたので「亀島グヮー屋取」という地名になっていた。近くには井戸があって広場になっていたので、方々から民間人が連れてこられ、収容されていた。

 そこには、山入端の家族、野里集落のクマチのおば−さんに似た人も収容されていた。チグチグヮーのリンキチー(知念林吉)の家族、古謝瑞加の家族、多和田春子、ウサミグヮー(よし子)もいた。

  ハークークジャー(古謝家の屋号のひとつ)の夫婦も羽地に疎開すると同時に生活品を取りに戻ってきて米兵につかまり、私達と一緒に収容されていた。カーヌハタグヮー(川入端小 ・屋号)のフミ姉さん、イリジョーグヮー(入門小 ・屋号)のお爺さんもそこで一緒になった。イリジョーグヮーのお爺さんは位牌を肌身はなさずもっていたがフミ姉さんに「どこで殺されるかわからないのにそんな位牌は捨てなさい」といわれて捨ててしまった。

  千原から兼久に移動する途中で、一台の米軍戦車がンナトゥグヮー(川名)を渡ってその広場に向かってきたので、ひき殺すつもりだろうと思った。古謝瑞加の祖母マンナカのおばあさん(当時七十五歳位)が「私が先に轢かれるから」といって前に出たので戦車は人がいるのに気付いて避けていった。マンナカのおばあは「私達をここに集めて、アメ リカにつれていくつもりかな−」と不安そうに言った。最初のころは食べ物を出されても毒が入っていると疑って誰も食べようとしなかった。

  米軍がお米を持ってきたりするので、食べ物には不自由しなかった。米兵が作った豚の丸焼きのごちそうも食べた。味噌も焼け残った家からかき集めてきた。ウヮーラフクジグヮー(東福地小・屋号)の家とカマーウンチュー(カマーおじさん)の家は無傷で、まだ残っていた。

  この兼久海岸には四日間おり、その間には日本軍の特攻機の攻撃を二回見た。米軍は必死に煙幕をはったり、あらん限りの艦砲射撃で迎え撃ったので、特攻機のほとんどが打ち落とされて海に沈んだ。しかし一機が米軍艦船の一部に命中して黒煙がふきあがったので、私達は皆喜んで歓声をあげた。米兵達は観戦するのはいいが、静かに見よとどなっていた。

  五日目には全員が北中城村のヒジャシマブク(比謝島袋 ・現在の北中城字島袋)に移された。全員水陸両用トラックに乗せられ、嘉手納飛行場内を突っ切ってそこに連れていかれた。そこは大きな広場になっていて捕虜施設があった。比嘉太郎(当時二十代)と言う名の二世の米軍人がいて、沖縄の方言で「あなた達を連れていって後に中城に住んでいた自分のお爺さんとお婆さんをさがしたい」と言っていた。また自分は関南中学の卒業生でもあると言っていた。

    ヒジャシマブクには発動機(共同製糖工場)があったので、そこから一挺の砂糖樽を転がしてきて、砂糖を食べ過ぎて下痢をしたこともあった。私はそこで看護婦見習いの仕事を割り当てられた。

    六月の中旬頃には宜野座村福山へ移されることになった。私達が島袋からやってくるという情報はすでに伝わっていて、ウールグヮー(小渡小 ・屋号)のチチョーデー(親兄弟)、クジャーグヮー(古謝小 ・屋号)のアンマー(お母さん)、ミ−ヤー(新家)のタンメー(おじいさん)達がクチャメーバル(古知屋原 ・現在の宜野座村松田区)に出迎えに来ていた。出迎えのない人達は、山の中に立てられている避難小屋に入ることになっていた。カミ−クジャー(上古謝 ・屋号)のアンマーや信英はそこに入った。嘉手納が米軍から開放され居住できるようになるまで、そこで生活した。以上が私の戦時体験です。
                                                『嘉手納町史  資料編5 戦時資料上』から
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