証言23

子連れで戦禍をさまよう
                                         仲宗根 (主婦 ・三;〇歳)
 両親を失う

 十・十空襲の時には、私は金田組が請け負っていた部落の道路工事作業に出ていた。最初、友軍の演習かと思った。那覇が爆撃されるのを見て、本物の空襲だと知った。

 その時まで、現在のオキコ工場前の道路を造っていたが、十 ・十空襲以後、工事が中止になり、その道路を県道三八号線に繋ぐことはできなかった。十 ・十空襲後、私たちは前田の陣地構築を手伝うことになった。毎日、勤労奉仕ということで、女たちが前田の陣地へ土運びに行った。四、五日行くと、別の人と交代した。男の人たちは徴用人夫として屋良飛行場(中飛行場・嘉手納飛行場)や伊江島飛行場に行った。

  昭和二〇年四月下旬ごろになって、米軍が中城方面まで攻め込んで来てから首里へ逃げた。それまで幸地部落の人たちは前山(メーヤマ ・古島近くにある山)の各自の墓をあけ、そこに隠れていた。
 ある日、友軍の兵隊が来て、「お前たちは戦闘のじゃまになるから、その壕から出て南部へ行け。出て行かないなら、手榴弾投げ込むぞ」と言って、私たちを脅した。前山に隠れていた字民のほとんどが、兵隊らに追い立てられるようにして首里へ行った。

 私たちの家族は一〇人であったが、夫はすでに防衛隊(暁部隊)に召集され、私と両親(夫の両親)と妹(夫の妹)二人に、子供四人の九人が部落近くの壕に隠れていた。

 姑と妹は家に残していた味噌瓶を隠しに行った際、機銃にやられた。味噌瓶をおおうための土を近くの畑から取り、それを家まで何回か運んでいるうちに敵機に追い回され、機銃で撃たれたのである。姑は胸部を撃たれ、二〇日ほどして亡くなった。また、ヨシ子(二一歳)はどこを撃たれたかわからないが、松本小(マチムトゥグワー ・屋号)の畑で亡くなった。

 姑(カマー ・五三歳)は、私たちが首里に行くまで元気だった。姑が「どうせ私は助からないから、孫(子供たち)たちを連れて逃げてくれ」と私に頼んだ。また、「娘(ツル ・一二歳)も、お前たちと一緒に連れて行ってくれ」と頼んでいたが、舅が、「連れて行くな」と言って断った。本人(ツル)も行かないというので、私は両親と義妹の三人を壕に残したまま、子供たち四人を引き連れて首里へ逃げた。

 後で聞いたことだが、三人が隠れていた壕に米兵が来て、投降をすすめた。たぶん、出ていかなかったのだろう。米兵が壕の近くまで来て、そこにころがっていた鍋を踏みつけて、銃をかまえ、父親(舅)を撃ち殺したという。ツルは驚いて、壕の奥の方にじっと隠れていた。しばらくして、別の墓へ逃げたが、その墓には入れてもらえず、また元の自分達の墓へ帰って来て、二日間ほど、亡くなった父親の遺体と一緒にその墓の中に隠れていたという。

 三日目に米兵がガス弾を撃ち込んだ。ツルは、そこで米兵らに救助され、具志川の病院に連れて行かれたという。まつげや髪の毛もすべてなくなっていたという。

  墓に閉じ込められる

 幸地の壕から逃げて、首里崎山の墓地に一〇日ほど隠れていた。
 ある日、墓の後方に爆弾が落ち、入口を塞がれてしまった。墓の中は真暗闇になった。三時間半ぐらいはマッチを擦れば火がついた。用意していたバケツの中の水にも土が落ちて泥水になった。子供たちも驚いて青ざめてしまった。私は、どうせ死ぬなら一緒の方がいいと思い、子供たちを自分の所に引き寄せた。

 その後、マッチを擦ってもつかなくなった。墓の中の酸素がなくなってきたのである。私の母親(実母)が包丁を持っていたのでこれを使って出口を掘った。入口の方は大部おし潰されていたので、横の方に掘り進んだ。四人で交代しながら掘った。長い間掘り進んだ末、ようやく針先ほどの穴があいた。
 「これなら助かるよ」と言って、もっと掘っていくと、頭ほどの石が落ちてきた。

 「今だったら、頭も出るから、誰か近くを通る人がいたら合図して、そこの石を外からよけてもらうことにしよう」ということになった。私の弟(ウサミー)がその穴から首を出したら、近くを人が歩いていたので、「エーサイ(呼びかけ)。私たちは次男ナカジン(屋号)の者だけど、命に別状はないから、ここの石をどけて下さい。墓に閉じ込められてしまったのです」と通行人に頼んだ。その人は石をどけてから、「もっと石を取り除きますか」と言った。

 「今、飛行機が飛び回っているのでいいですよ。もう一回爆撃されたら、私たちは御陀仏ですからいいですよ」と言って断った。

 東外間(アガリフカマ ・屋号)のアカミ−スーの家族も、私たちの隣の墓に隠れていた。爆弾を落とされた直後、入口を塞がれてしまったので、「アカミ−スーヨー。アカミ−スーヨー」と言って助けを求めた。しかし、すでに墓口が閉ざされていたので、相手に聞こえなかった。

 その墓には、私の母親(実母)、妹と弟とその子供たち、私、私の子供たちが入っていた。そこに隠れている間、墓の下の方にヒジャガー(湧井戸)があったので、そこから毎夜水を汲んでいた。その墓から抜け出すと、その夜私たちは島尻へ逃げた。

  島尻へ避難

 首里崎山の墓から逃げ出して、津嘉山へ行き、そこから豊見城村の饒波(ノハ) ・高安に逃げた。昼間は空家に隠れ、ほとんど夜間に行動した。崎山で墓に入っておし潰されたので、それ以後壕には入らず民家や石垣の周囲に隠れるようになった。

 賀数にある友軍壕の近くにもしばらく隠れていた。そこから糸満のティーラ(照屋)に行き、次に伊敷の壕に行った。伊敷の壕の中は水が流れ、大きなガマ(自然洞窟)になっていた。上流の方では兵隊らが水浴びをするのに、下流の方では民間人らが水を汲み、それで飯を炊いて食べたりした。

 伊敷の壕はとくに艦砲が激しく撃ち込まれた。朝、起てみると、昨日まで元気だった人が鍋をかぶり、体中血だらけになって死んでいるのもいた。私は恐しくなって、仲元(ナカムートゥ ・屋号)のおじさんに、「もうこうなったら、私の子供(精光 ・五歳)だけでも、一緒に連れて行って、助けて下さい」と頼んだ。あまりにも激しく艦砲弾を撃ち込まれ、非常に怖かった。

 私が農家の庭先に座っている時、爆風で飛んできた石に頭を強く打たれた。近くにいた次男新門(ミージョウ ・屋号)の妻は艦砲弾の破片で首と手をやられた。

 艦砲射撃が激しかったので、伊敷の前方の部落へ逃げた。夜になると、喜屋武に逃げた。もうそこまで行くと、どこへも逃げることができなくなった。沖縄本島の最南端まできてしまったのである。

 首里の人だったか、那覇の人だったか知らないが、那覇方言で話していた人が、「もう、糸満には敵の戦車が進入しているという。戦車でひき殺されるんだったらそれでもいいから、私たちは糸満の方へ行く」と言ったので、私たちも一緒に連れて行くよう頼んだ。その人たちの後について、喜屋武部落から海岸に出て、海岸づたいに糸満に向けて歩いて行った。昼間は雨にうたれながらアダン林の中に隠れていた。

 捕虜となる

 六月二二日、雨で濡れていたので、近くの民家で着物を乾かしてから行こうということになった。私の母親や妹、弟それに子供たちが一緒であった。海岸から名城部落へあがって行った。

 田場のタンメー(おじいさん)という人が怪我してそこにいた。そのおじいさんが、「ここから毎日若い女が米兵らに連れ去られているよ。お前たちも早くここから逃げなさい」と言ってくれた。私の妹は二〇歳で、色も白く美人だった。

 私たちが避難していた民家に、米兵らが庭の方から入ってきた。私たちはカミジュー(妹の名前)を後に隠し、手を挙げて出て行った。私が、「ウリヒヤー(それ)。カミジュー、手を挙げないと、アメ リカー(米兵)が捕まえに来ているよ」と言った。すると、米兵らは私たちには目もくれず妹の挙げた手を捉まえ、近くの木の下に連れて行った。

    風呂敷にお金を包んで体に縛りつけていたが、それもはずされてしまった。妹は大声で、「アングヮーヨー。アングヮーヨー(お姉さんよ−。お姉さんよー)」と泣き叫んだ。私は妊娠していて、大部おなかも大きくなっていたので、弟の精吉に、「お前、行ってごらん」と言って、妹の様子を見に行かせた。

 三人の米兵が妹の帯をほどいて、いたずらしようとしていた。帯はほどけていたが、妹は後から撃たれてもいいと思い、逃げ帰って来た。私は妹に、「お前は死にたいのか。こんなきれいな着物に着替えて(雨にぬれていたので、私たちは着替えていた)。早く、私のクヂリ格子(縞模様)の着物に着替えなさい。地味な着物に着替えず、こんないい着物を付けているから米兵らに目をつけられるんだよ」と言ってやった。私のクヂリ格子の着物に着替えさせ、防空頭巾をかぶせた。

 その米兵らは逃げた妹を捜しに来た。しかし妹は着替えして、防空頭巾をかぶり向こう側むきに座っていたので、米兵には見つからずにすんだ。米兵らが去った後、私たちは荷物もそこにうち捨て、糸満へ行った。

 名城の民家には私たちと一緒にジャパニー(日本兵)がいた。家の軒には手榴弾を並べて置いていた。友軍の兵隊が私に、「おばさん、あの戦車は敵の戦車だから、米兵が来たら手を挙げて出て行きなさい」と教えてくれた。

 米兵らが来て、友軍の兵隊に銃を向けた。米兵は友軍の兵士が手榴弾を持っていると思い、ズボンをぬがせた。友軍の兵士は下は軍服のズボンをはき、上は沖縄着物をつけていた。米兵はその軍服のズボンをぬがせ、着物だけで糸満へ連れて行った。

  収容所へ

 糸満に着いてみると、既に多くの人たちが集められていた。褌一本の人たちもいた。そこは、今考えてみると糸満ロータリー附近だったと思う。

 糸満から水陸両用トラックに乗せられた。船内にしゃがんでいたので、水が入って尻はみんな濡れてしまった。同郷の新高門(ミータカジョウ ・屋号)のスー(おとうさん)が、「アメ リカに連れて行かれ、体に釘を打たれるそうだ。首を斬られに行くんだよ」と言ったので、私の子供たちは驚き、大声で泣いた。私たちが乗っていた水陸両用トラックごと大きな艦船に乗せられ、北谷へ連れて行かれた。名城で捕虜にされた時には、私と子供たち四人と母親、弟(精吉)、妹(カミジュー)の八人であった。

 北谷に上陸すると、安谷屋に連れて行かれ、そこに四〇日間ほどいた。安谷屋の収容所から金武中川(開墾地)へ連れて行かれた。

 そこの収容所は女 ・子供が多く収容されていた。男たちは捕虜として別の所に収容されていた。私たちがいた収容所には、毎晩、友軍の敗残兵が、七人づつグループを組み、トウブシ(灯)をつけ、山からおりてきて、食料を奪って行った。午前二時ごろから四時ごろにかけて現れた。マーアンダ(種油)や米、その他食べられる物はなんでも盗んで行った。

 家といっても、戸板もなく破風作りの簡単な小屋に住んでいた。入口には枝木を立てていた。米兵も友軍の敗残兵に殺されたりした。そのために、米兵は夜になると海岸近くのゲンバルに集まっていた。

 中川の収容所には多くの避難民が収容されていた。山を切り開いた所に仮小屋を作り、木の葉などを敷いて寝るという状態であった。配給の毛布もなく、カシガー(南京袋)を被って寝ていた。冬でも、このようにして過ごした。

 食料は一〇日に一回だけ米軍から牛罐(牛肉の罐詰)の配給があった。私たちは六人家族だったので、牛罐二個あまりの配給があった。米は少ししか配給されなかった。茶碗一杯分の米と山から取ってきた山菜(ツワブキ・山羊の飼料)を一斗罐の空罐に入れ、雑炊にして食べていた。その雑炊の上澄の方は大人が食べ、下の米がある方は子供たちに分け与えていた。最初、米の配給は一〇日おきに一人一升であった。その後、二升になった。中川収容所の周辺にはカンダバー(芋の葉)もなく、フーチバー(よもぎ)もなく、非常に食糧難であった。

  印象に残っていること

 四月下旬ごろ、幸地の墓から首里崎山へ逃げ、空墓に隠れていた。そこで墓口を塞がれ、ひどい目にあった。そのあとからは壕には入らず、昼は民家や石垣近くに隠れ、夜になると次の部落(艦砲射撃が少ない所)へと逃げ回っていた。

 長女(キヨ子・一二歳)が阿波根附近で足をケガした。今でも、その傷跡を押すと痛むという。そこ(阿波根)でカマーヒー(兄)の子供たちも亡くなった。

 中川の収容所には一一カ月間ほどいた。中川で三男の精吉(二〇年八月一〇日生)を産んだ。そこから我謝に帰ってきて、その後幸地に移った。

 今度の沖縄戦で一〇人の家族のうち四人が亡くなった。父(武和)、母(カマー)、妹(ヨシ子)の三人は幸地の壕で亡くなり、夫(正義、三二歳)は防衛隊にとられ戦死した。

 夫は防衛隊に召集され、与那原にあった暁部隊に入隊した。夫はギーザバンタ(摩文仁附近)で戦死したというが、はっきりしたことはわからない。戦時中、具志川村(現具志川市)安里の二階建の家にいて、友軍の食料運搬に従事していたという。新屋翁長(ミーヤーオナガ・屋号)のおばさんが夫に、「お前は、妻が身重になっているのに捜し出して一緒にならないで、ここで仕事をしているのか」と言って、私たちと一緒になるように勧めたそうだが、夫は、「この戦争に負けると、親戚や家族までも殺される」と答えていたという。私の夫同様、幸地部落から妻子のいる男たちが防衛隊に召集されて行った。前伊芸(メーイージ・屋号)、下仲門(シムナカジョウ・屋号)、仲高門(ナカタカジョウ・屋号)の人たちがそうである。

 伊敷部落でのことである。私たちがそこの民家に入ろうとすると、同じ部落(幸地)出身の人が鞭を振り上げて、「ここに入ったら、殺すぞ」と言うので家の中に入れなかった。私はその人に「お前は従兄弟の子じゃないか。私はお前のおばだよ。私が死んだらお前が面倒をみる立場にあるんだよ。それなのにこんなひどいことをするのか」と言った。その人も防衛隊にとられていたが、戦争が激しくなったので家族と一緒に行動していた。その、家は全域した。私はその人に、「死ぬ人はどこにいても死ぬから、私たちは木の下に行くよ」と答えると、私の母親(実母)が、「なんで、ここはあの人の家でもないのに、入ろう」と言って無理矢理にその家に入った。そこにいた幸地出身の人たちに、そのアヒー(兄さん)小(クワー)の仕打ちのことを話すと、「かんにんしてくれ。アヒー小は気が狂ってしまったんだよ」と言った。

 防衛隊にいる時にも、よく仲間の兵隊らと喧嘩をしていたという。支那にも兵隊として行った経験もあったので、自分達も中国人みたいに米兵から虐待されるものと恐れていたのだろう。

                                      『西原町史・資料編二西原の戦時記録』から
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