証言22

壕を追われて
                                                                  知念(男性 ・?歳)               
 私達は玉城牛太郎氏や弟の知念秀雄の三家族で、真境名前原に防空壕を掘ってありました。壕に三家族が避難しておりましたが、当時部落の公民館や民家には、何百名かの球部隊の兵隊が守備にあたっており、部落の人々は軍の命令によって、水くみや炊事に、夜になると弾薬運びと、恐ろしい事ばかりの毎日でした。

 昭和二十年の四月初め頃から、具志頑村港川方面や、知念半島沖合いから連日艦砲射撃が激しく、壕から出る事も出来ない状態でした。五月十五日頃から、アメ リカ軍の攻撃が益々激しくなる中を、球部隊の兵隊が壕に来て、「この壕は軍の戦闘用に使用するから、ここから出て行け」と追い出されてしまいました。

   私達三家族は、仕方なく別の場所へ移動することになり、途中、アメ リカ軍の攻撃をうけて私の祖母(知念ウシ、当時九十三歳)は死亡しました。残りは無事でしたが、私達三家族が三日程裏の山の中に避難しておりましたところ、友軍(日本軍)の兵隊が来て「早くこの場所から出て行け」と言われた。仕方なく五月二十日頃、三家族一緒に部落を出て、隣村の玉城村船越部落の民家に三日問避難しておりました。

 避難民の中から二・三名の者が艦砲の破片で死亡しましたので、私達三家族はより安全な場所を求めて、同村の愛地部落に避難しました。しかし、そこでも同じように艦砲射撃が激しく、翌日は具志頭村新城部落に避難しました。具志頭村は自然壕が多かったので、その一つにやっと安心して避難することができました。ところがそれも束の間、アメ リカ軍が近くまで進攻して来ているとのことで、また移動しなければならず、夜中に高嶺村(現糸満市)の大里部落を通って更に南へ下りました。

 真栄里部落に着くと、そこは海上からの艦砲射撃が激しく、さらに国吉部落に歩いて行くと、途中の農道に友軍(日本軍)の兵隊が三十名位倒れていました。私達は一刻も早くその場から離れようと思って、真栄平部落に移動し、民家の馬小屋に一日避難しておりました。そこには友軍(日本軍) の兵隊が三十名位いて、夜になると十名位でアメ リカ軍のまくさ切り込みに行きますが、アメ リカ軍の一斉射撃にあって帰って来る者は一人もありません。恐しくなり、摩文仁村(現糸満市)の摩文仁部落に移動することにしました。

 この部落は激戦地であったようで、民家の中には多数の避難民がいて、その中でも女や子供が多く、二歳位の子供が、死んでいる母親の乳房に無心にしがみついている光景に思わず胸がつまってしまいました。

 その場を離れ部落内を歩きまわってみると、今度は木の枝に髪を巻きつけて宙づりになった女の人の死体が見えました。近くの池の中には二人の男の人が浮いています。まさに地獄を見る思いでありました。

 私達も、どうせ死ぬなら自分の村に近いところで死んだ方がよいと思い、下って行く途中私の父(知念福十郎)が艦砲の直撃で即死しました。悲嘆にくれる暇もあらばこそ、部落前の畑の中に埋葬し、私達は具志頭村へ向け下って行きました。途中、今度は玉城牛太郎さんとその妻のウシさん、玉城信政さんの三名が艦砲の破片にあたって即死しました。私達兄弟三人は、埋葬を済ませると更に自分の村を目指して進んで行きました。

 具志頭部落の白水川という所を通る途中、アメ リカ軍に発見され捕虜となり、玉城村の垣花の捕虜難民収容所に送られ収容されました。私の母は破片で肩を負傷していたので、収容所の野戦診療所で手当を受けましたが、その甲斐もなくそこで亡くなり、私達兄弟は部落はずれの畑に母を埋葬しました。

 当分この部落に落ち着くと思いましたが、七月の初め頃米軍から移動命令があって、佐敷村の馬天港に行き、そこから米軍のフェリーに乗せられて、一日がかりで着いた所は久志村(現在の名護市久志)の大浦湾で、そこの嘉陽部落で収容されることになりました。
しかしそこも長くなく、九月頃今度は大里村の大見武部落(現在は与那原町)に収容、それからやっと二ケ月後に大里村の大城部落に移されました。そこから毎日自分の部落(真境名)に通って、区民と共に道路や屋敷内のかたづけ、草刈り、仮小屋づくりと復旧に汗を流し、自分の部落に帰れる準備をしました。

 大城部落の収容所から解放されたのが昭和二十一年の六月頃でした。私達兄弟はようやく平常な生活をとりもどすことができ、昭和二十一年の旧暦七夕の日に、戦争で亡くなった父母の遺骨を収集し、墓に納骨することができたのでした。

 宮崎県に疎開していた五人の家族も、昭和二十三年の六月中旬頃帰り、お互いの無事な姿に再会を喜び合いました。

 この戦争で亡くなった真境名の人達は、軍人、防衛隊、民間人を合わせて七十名にものぼります。あのいまわしい第二次大戦をふりかえるとき、村民の方々に是非その実相を知って頂きたいと思います。あの戦争で、沖縄県民や日本の兵隊の何十万という人々が沖縄の土に帰した事を、村民の皆様はどのようにお考えでしょうか。あの恐しい戦争を体験された方々は、是非、戦争を知らない世代の人達に体験談を語ってもらいたいと念ずるものであります。又、沖縄県や日本の平和を守るため、沖縄県から自衛隊が撤退することを私は願っています。

 焦土と化した大里村も、他の市町村同様にゼロからの出発をするわけですが、その担い手となったのは、明治・大正生まれの人々であり、道路や学校の復旧に多大の働きをしました。その労苦に対して、戦争を体験していない世代の人々は、感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。

 戦後三十八年が経過した今日、平和で明るい沖縄県が永遠に続くことを願いつつ、戦争体験記を綴るものであります。
                                                   一九八三年(昭和五十八年)
                                              『私の戦争体験記』(大里村役場)から

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