証言21

字書記の沖縄戦体験
                                                                   新垣(男性 ・30歳 ・字の書記〉

    「軍国主義の美談」にされた

  昭和 17年 9月 10日発行の朝日新開沖縄版に与那覇出身の新垣福太郎さんの記事が載っている。

       郷軍の花一島尻郡南風原村字与那覇新垣太郎さんは病床に呻吟する    二人の愛児を養女に託 して同村郷軍分会主催の第二国民兵宿泊訓練に    馳せ参じ、訓練中再度危篤の報に接したが御国に捧ぐべき身だ、たとい    訓練中といえども勝手なことは出来ぬと最後まで頑張り通し固い責任感    に全員を感激させた。

  この記事を読んだ時、真っ先に感じたことが二つある。ひとつは南風原にも凄い人物─昭和17年当時にとってはまさに「軍国主義の鏡」のような人物がいたということ。もう一つは危篤の娘二人はどうなったのだろうかということであった。与那覇の戦災調査で、調査員に新垣太郎なる人物を探すように指示していた矢先、思わぬ所で出会った。

    字の公民館で与那覇字史の聞き取り調査があるということで、オブザーバーで参加し、この記事の情報を提供したら、聞き取り調査対象者の中から、「ハイ、私です」という声が返ってきた。あまりにもタイミングがよすぎて、一瞬我が耳を疑いしばらく呆然としていた。近寄って確認したところ、まさしく本人であった。

 新聞記事に載ったことは知っていた、読んだという。新聞には太郎となっているがと訪ねたら、新聞の間違いと断言したので、おかしいと思い、「新聞記者が直接取材したのですか」と質問したら、「自分が知らない間に新聞に載っていた」と答えた。

    名前を間違うという初歩的なミスをおかしている記事なら、事実誤認が至るところにあるはずと考え、さらに事実確認をした。

 この記事を素直に読んだら、福太郎さんは家に一度も帰らず宿泊訓練に参加したということになる。しかし、事実は、毎晩家に戻って看病していたのである。また、「愛児を養女に託した」という文も間違いで、新垣家には実の母親が自分の娘をしっかりと看病していて、養女はまったく必要でなかった。

    娘二人は両親の必死の看病と祖父の民間療法で治ったのだ。現在の報道だったら、この点に重点をおいて記述するのが常識的だと思うが、この記事の内容は、昭和 17年という時代の反映である。当時の読者には、まさに「軍国主義の美談」として受けとられたにちがいない。また、報道する新聞社側でも、記者の手によって、美談として勝手に「作文」され、お国のために尽くす人間像を積極的に作りあげ、報道したということも言える。

    新垣福太郎さんが体験した沖縄戦を追体験することで、一人の庶民にとって沖縄戦の真実はどうだったかを考えてもらいたい。
       ◇ ◇ ◇
    「軍国美談」の真実

 糸満の兼城国民学校で徴兵検査を受けた。丙種合格だったため兵役は免除されたが、昭和17年に第二国民兵の義務として、5日間の教育召集を受けた。南風原国民学校が訓練場所であった。訓練内容は閲兵、匍匐前進、突撃訓練、三八銃を持って掲銃・捧銃の訓練、手榴弾の投げ方などであった。

  ところが明日訓練に行くという日。長女が熱発してしまった。医者の診察では肺炎になっているという。困ってしまい、「訓練はどうしましょうか?」と医者に相談したら、「訓練は絶対に免れない。子供は引き受けるから行きなさい」と言われ、後髪を引かれる思いで行くことにした。

 訓練の初日の晩。連隊長から呼ばれた。そこに姉さんの婿さんが面会に来ていた。次女が危篤だという。長女に続いて次女も不機嫌になっていたようだ。ぴっくりして連隊長に相談したら、「明日の6時までに戻るなら帰っていい」と言われ、与那覇の自宅に戻った。戻ったら、父が「熱が高く、ダラーとしていて乳も受け付けない、どうしたらいいか相談するために呼んだのだ」と言った。父はヤプ医者だったので熱を下げるための民間療法をやっていいかとの相談だった。芋(バショウ)の皮で30分ほど、子供の体をこすったら、ワーワー泣いたのでひと安心した。

    翌日の朝、学校に帰ったら、連隊長から「看病のため毎晩戻っていい」と言われた。もちろん訓練は続けた。訓練最終日に、全員の前で「例え子供が病気でも訓練は免れない。それを実践した福太郎はりっぱだ。我国の兵隊は身を投げうってもお国のために尽くす、ということを身をもって示した」という訓話があった。

 消火訓練・防空訓練を指導

 昭和19年になると戦争が身近に迫ってきた。当時、私は字の警防団の副団長だったため、月一回の割合で消火訓練・防空訓練を指導した。消火訓練には、ドラ鐘を鳴らして字民を事務所(公民館)前に集め、後向き二列縦隊に並べ、バケツリレーを展開した。バケツは屋号入りで各家庭に購入させてあった。砂も各家庭の入口に積んで置くことを義務付けていた。訓練には女性は防空頭布にモンペ、男性の服装は特に規制はなかった。焼夷弾が落ちたらショベルで砂をかけなさいとか、すぐに取って捨てなさいということも教えられた。

 すでに防空壕は各家庭の屋敷内に掘られていたが、より堅固な壕を造ろうと字で班ごとの壕を共同で掘った。一班と三班の壕はクシヌモー(村背後の原)に、二班と四班の壕はメーモー(村前方の原)に、五班の壕は上の殿の裏側に掘った。いずれもコの字型の壕で入口には爆風よけに盛り土を施していた。各家庭には非常袋を用意させ、ドラ鐘で警報発令、警防団見がメガホンで各家庭を回って避難を呼びかける訓練も同時に行っていた。班の壕は「十 ・十空製」前には完成していた。

 10月10日、字与那覇壊滅

 昭和19年の10月10日。私は、早朝、徴用で知念に行くため集合場所の与那原に向かって家を出た。部落の後の高台に差しかかった所、運玉森の方角から低空で飛行機が迫って来た。しばらくすると首里からサイレンの音が聞こえた。4機編隊だったので、すぐ敵機(日本軍は3機編隊と教えられていた)と判断した。急いで戻り事務所の鐘を鳴らし、字民を各班の壕に避難させた。那覇の方角からは地響きをともなってボーン、ボーンという爆弾投下の音が間断なく聞こえた。若い人一人は必ず自宅待機を訓練時に指示していた。

    午後 3時頃。部落の西方から1機ずつ低空で焼夷弾を落下させながら機銃掃射が始まった。見る見る間に家、家が燃えていく。私は自宅の柱の後に隠れていたが、隣二軒目から燃え、隣の屋敷の間にあるガジュマルがメラメラと燃えあがっている。バケツで消し止めようとしたがどうすることもできなかった。消火訓練はまったく意味をなさなかった。与那覇は熱い炎に包まれていた。

 九軒ぐらいは焼かれずに残ったが、この空襲で与那覇はほぼ壊滅した。軍の米などは4、5日間燃えくすぶっていた。幸いに死んだ字民は一人もなく、二人がヤケドしただけであった。このことは避難訓練と字で造った壕による所が大きい。

    字に兵隊が駐屯

 「十 ・十空襲」後、共同作業で仮小屋が造られた。この頃から戦時体制が本格化していく。事務所の前には戦車部隊の修理工場、ノロ殿内には輜重隊がいて軍馬が飼われ、製糖工場は兵隊の宿舎、ウサン嶽には軍の壕が掘られ、またイモ・野菜などの供出もあり、字に軍靴の音が近づいてきた。

    10月末には字の書記が召集されたので、私が書記に任命された。役場で当時の収入役であった与座章三郎さんから、「召集されないように私が何とかするから」と言われ、引き受けた。区長の新垣菊助さんは、昭和 20年 2月の山原疎開で宜野座に行って不在だった。

    宜野座疎開を引率

 3月 23日、南部の港川方面から艦砲が聞こえた日の夜。役場から、「与那覇は危ないから、宜野座へ立ち退きなさい」と命令され、各家庭や壕を回って希望者を募った。

 〈前西門〉〈前城間〉は「主人が防衛隊で召集され、しかも山原は知らない土地で食べ物が心配だから行かない」と拒否された。結局〈前東〉〈西門〉〈照屋小〉〈仲ヌ前〉の4家族で、米・黒糖・衣類など持てるだけの荷物を担いで出発した。途中、子供たちがビッコをひいたため、〈前東〉のおじいさんは片方のモッコに子供を乗せ、もう片方のモッコには荷物を担ぐという有様だった。栄野比からは替わって担いだ。

 石川の手前で夜が明けた。すると敵機が石川に焼夷弾攻撃をしていた。石川はたちまち炎に包まれた。すでに与那覇で経験していたため、今通ったら危ないと思い、炎が消えるのを待っていた。金武で〈西門〉の家族は別れた。宜野座に着いたのは夜の10時頃であった。民家が割り当てられていた。私は翌日与那覇に戻った。途中、普天間 ・宜野湾の松並木は友軍が全部切り倒し道に敷いてあった。橋も壊されていた。

   南部へ避難する

 ようやく字与那覇こ戻ることができた。しばらく壕生活を続けていると、役場から、「知念・玉城は安全だから避難しなさい」という立ち退き命令があったが、この時点からは組織的には避難できる状況にはなかった。各家族自由に親戚を誘いあって南部へ避難した。

 〈新屋ヌ前〉〈仲上城間〉〈照屋小〉〈仲ヌ前〉( いずれも屋号、以下同)の家族総勢九名で字与那覇を出発。大里村字平良に着いた。字平良は戦争が感じられないほど別天地だった。〈前嘉手苅〉のおじいさんが自分で来ていた。字平良では姉さんの家にお世話になった。5月の初めになると字平良にも艦砲が落ちるようになり、山にコの字型に壕を掘って避難した。

 しばらくすると、ここも危険になったため、〈照屋小〉のおばさんとその娘ヨシ子さんと壕をさがしに字神里に行った。字神里は焼け野原。もぬけの空になった軍の壕から米一俵をザルに分け持ち帰った。そこで偶然にヨシ子さんの甥に出会った。甥は、字大城には与那覇の人もいっぱいいるので行った方がいいと言っていた。

    米兵に発砲されケガする

 5月 27日の海軍記念日の日には字船越にいた。シー(岩)の下にある墓に隠れていた。そこに姉の婿さんが来て、「平良に戻り、妻子を連れに行こう」と誘われ、字平良に向かった。現在の仲程ダム(大里村)を越えたあたりの山の上に兵隊が歩いているのが見えた。よく見ると敵兵だったので、後方に逃げようとしたら一斉射撃された。左足と左手が貫通。転がって土手のススキにつかまって隠れた。

    腕や足から血がタラタラ流れていたので、持っていた日本タオルを引き裂いて腕を止血し、ゲートルを外して足を止血した。腰も盲管されていたため、帯を外して止血、満身創痍の状態で日が暮れるのを待っていた。ところが大雨が降り、隠れていた溝に雨水が溜まり、首だけ出してジイーとすることを余儀なくされてしまった。喉がカラカラに渇いたが水を飲んだら死ぬと思い、近くにあったフーチバーを取って噛み、飢えをしのいだ。

 夕暮れには友軍の兵隊が逃げて行くのが見えた。草をつかまえて匍匐前進しながら、やっとのことで字船越までたどり着いた。道という道は艦砲のためデコボコになっていて難儀した。字船越で、「生きているゾォー」と叫んだら、婿さんが「大丈夫だったのか、てっきり死んだと思っていたよ」と返答していた。

    その晩は馬小屋で休んでいたが、熱発してしまい苦しがっていたら、お世話になっている家の女主人が破傷風になったらたいへんと言ってニンニク酒を飲ませてくれた。また、避難していた首里出身の古謝さんという人の娘さんが看護婦の経験者ということで注射をしてくれた。

    馬小屋で寝たきりの生活だったが、3日後に艦砲が落ち、土がバサアとかぶさった。近くから、「アイエな−(大変だ)!」という悲鳴が聞こえた。

    捕虜となる

 ここも危ないということで避難することにした。三女姉さんの夫と二女の娘さん(姪にあたる)の二人でオーダーに棒を差し込んで、そこに私を乗せて運んでくれた。前川屋取では、艦砲、機銃掃射などの集中攻撃を受けた。小さな壕に避難。二晩過ごした。この壕には兵隊が一人いた。壕の近くで「ベルベル」という声が聞こえた。敵が来たということで、友軍の兵隊は手榴弾を構えていた。結局壕を通り過ぎて行った。

    ここも危ないということで前方に逃げることにした。少し体が回復していたので、婿さんの肩につかまって歩いた。川づたいに歩いたが、いくら行っても橋がなく、字船越の近くに戻ってしまっていた。

    字船越はすでに敵に占領されていたらしく、しばらくすると「ベルベル」という声が聞こえた。逃げようとしたら、バラバラと撃ってきた。肩をかしていた婿は即死。〈新屋ヌ前〉のおじいさんと姪のカメ子と妹のユキと反対側に逃げようとしたら、じいさんと子供二人は米兵に捕まってしまった。米兵はなにやらジェスチャーをしていた。私はユーナの木の陰に隠れていた。二晩たったと思う。「ヘイヘイ」という声が夢のように聞こえた。目を覚まして見ると天狗のような大男3人が目の前に立っていた。ケガしていたことがわかったのか、米兵二人に引きずり出された。

 収容所生活

 県道まで歩かされた。トラックに乗せられた。トラックには避難民がたくさん乗っていた。確か6月に入っていたと思う日であった。トラックは字船越に着いた。字船越は避難民収容所がつくられていた。そこでは若い娘さんが世話してくれた。ジューシイを食べたが、あとで下痢に悩まされた。

 翌日、重傷者は道に出るようにとの指示があった。軍のトラックで百名に連れて行かれた。百名に着くと、すぐに取り調べを受けた。二世が「君は防衛隊だろう」と尋問された。否定しても「17歳から45歳の男子は防衛隊に決まっている」と執拗な尋問であった。あやうく防衛隊にされそうになったのを救ってくれたのが的場セイコーさんであった。的場さんは顔見知りであった。的場さんの奥さんと私の妻は親戚だった。しかも百名で総班長をしていたので、身分証明をしてくれた。おかげで病院で治療してもらうことができた。

 カチャパル屋取で生活。ケガも治って班長として軍作業に出る日々であった。妻子が山原から来るという情報を聞き、仲村渠に小さな家を造って待っていたが、南風原は大見武に移動が命令され、大見武収容所に行った。

    字与那覇の再建

 現在の与那原中央病院のあたりで仮小屋生活が始まった。しばらくすると二世の林隊長から呼ばれ十二班の班長を言い付けられた。配給の仕事が主だった。林隊長から、「部落の図面を書いて提出する字から順序に部落に戻す」と言われ、与那覇の先輩と集まって図面を書いた。曲がった道は真っすぐにしないと合格させないということも言われていた。

 与那覇に戻ったのは、昭和21年の7月だったと思う。すでに米軍がブルドーザーで敷き均していた。部落の東側から順序よく移っていった。私は大見武に住んでいたテント小屋を壊して、自分の屋敷に運び、建て替えて住んだ。
                                                                                         (聞き取り 吉浜 忍)

               「南風原町沖縄戦戦災調査5与那覇から語る沖縄戦」から

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